応仁の乱 / 菊池寛
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伝奇的な若武者が、既に遠い南朝の夢を懐いて、吉野の附近に徘徊して居たと云うことだけで、如何にも深い感興を覚える
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裏面には勝元が躍って居るのである。山名宗全、但馬に在って是を聞き、
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兼良は奈良の大乗院に避難して居る。元来奈良の東大寺、興福寺等の大寺では、自ら僧兵を置いて自衛手段を講じて居
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て、将軍義政が赤松教祐に、その家を嗣がしめ播磨国を賜った。勿論此の裏面には勝元が躍って居るのである。山名
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義満の金閣寺に真似て、銀閣を東山に建てたが、費用が足りなくて銀が箔
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に見下して得意になって居た。一方東軍では、和泉の工匠を雇入れて砲に類するものを作らせ、盛んに石木を発射せしめ
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禁廷左近の橘の下に茶を売る者あり、夜は三条の橋より内侍所の燈火を望み得たとは、有名な話である。
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、東軍は幕府を中心にして、正実坊、実相院、相国寺、及び北小路町の細川勝元邸を連ねて居る。西軍は五辻通、大宮東、
、東軍は多くの陣地を蚕食されて、残すは只相国寺と、勝元邸だけとなった。兵火に焼かれた京都は、多く焼野原
て好都合である。昂然たる西軍は此の機に乗じて相国寺を奪い、東軍の羽翼を絶たんとした。
先ず彼等は一悪僧を語らって、火を相国寺に放たしめた。さしもの大伽藍も焼けて、煙姻高く昇るのを望見
丁度将軍義政の花の御所は、相国寺の隣りに在った。此の日余烟濛々として襲い、夫人上※達
戦後小雨あって、相国寺の焼跡の煙は収った。
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細川方の総兵力は十六万人を算し、斯波、畠山、京極、赤松の諸氏が加った。即ち東軍である。一方西軍たる山名方は一色
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奈良の大乗院に避難して居る。元来奈良の東大寺、興福寺等の大寺では、自ら僧兵を置いて自衛手段を講じて居たので
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併しだらだらでも十一年続いたから、その影響は大きい。京都に起った此の争乱がやがて、地方に波及拡大し、日本国中が一
に見た上の概算であって、初期の戦乱は専ら京都を中心とした市街戦である。
中心に、勘解由小路にまで延びて居る。即ち、東軍は只京都の北部一角に陣するに反し、西軍は南東の二方面を扼して居る訳
寺と、勝元邸だけとなった。兵火に焼かれた京都は、多く焼野原と化して、西軍の進撃には視界が開けて居
なく、ただお義理に戦争しているのだから、同じ京都で十一年間も、顔を突き合わしていても勝負が、定まらないのだ
京都の荒廃
に依って、京都は全く焼土と化して居る。実際に京都に戦争があったのは初期の三四年であったが、此の僅かの
殊に甚しかったように思う。併し応仁の大乱に依って、京都は全く焼土と化して居る。実際に京都に戦争があったのは初期
京都の荒廃は珍しいことでなく、平安朝の末期など殊に甚しかったように思う
領地に帰って農民に伍して生計を立てたりして、京都に留る者は殆んど無かった。
想像出来るのである。加るに彼等の関心は、単に京都だけの戦闘だけではなかった。其の留守にして居る領国の騒乱鎮圧
て捲土重来上洛の期を謀って居るのである。亦京都に於ける東西両軍は解散したが、帰国して後の両軍の将士
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兼良は奈良の大乗院に避難して居る。元来奈良の東大寺、興福寺等の大寺では、自ら僧兵を置いて自衛手段を
兼良は奈良の大乗院に避難して居る。元来奈良の東大寺、興福寺等の大寺
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北小路町の細川勝元邸を連ねて居る。西軍は五辻通、大宮東、山名宗全邸を中心に、勘解由小路にまで延びて居る。即ち、東軍