鳥羽伏見の戦 / 菊池寛

鳥羽伏見の戦のword cloud

地名一覧

江戸

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その時、江戸では、薩摩系の浪士が、乱暴を働いて、西丸に放火したらしい

怒らせるように、仕向けた点もあったわけである。江戸に於ける浪士の暴動など、西郷隆盛の密命に依って、益満休之助などが

その後、江戸に来ていた近藤勇に、依田学海が「伏見の戦争はどうだった

七日開陽艦に移乗し、八日の夜抜錨して江戸に向った。

桑名

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訓練もよく銃器も精鋭であった。それに、会津、桑名、松山、高松、浜田等の藩兵が加わっていた。

午後四時を過ぎる頃、桑名、高松、松山の藩兵が、鳥羽街道を圧して上って来た。今度は

薩州より俄に大砲を打ち出したが、最初の一発に桑名の兵、十数人打ち重って倒された。これが鳥羽伏見の戦の

二条城

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慶喜悟る所あり、十月十三日在京の諸大名群臣を二条城に集めて諮問したる上、翌十四日朝廷へ奏問に及んだので

その時、二条城には幕府麾下の遊撃隊を初め、例の新選組、見廻り組、津大垣の

止まず、また流言ありて、今にも薩長の兵が二条城を来襲して来ると云うので、城壁に銃眼を穿ち始めると云うさわぎで

慶喜が二条城を去った後、永井玄蕃頭が、之を預り大場一心斎麾下の水戸兵

東寺

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、むかしの羅生門に通ずる道で、京都へ入る所に、東寺がある。東寺の十町ばかり手前の石橋の所まで来た時、東寺に

に通ずる道で、京都へ入る所に、東寺がある。東寺の十町ばかり手前の石橋の所まで来た時、東寺に駐屯してい

東寺の十町ばかり手前の石橋の所まで来た時、東寺に駐屯していた薩兵が鳥羽街道を下って来るのとぶっつかった。

薩摩

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勢力が、完全に暴露された。この時既に長州は薩摩と連合して討幕の計画を廻らしていた。

甲子太郎の残党なる鈴木三樹三郎、篠原泰之進、加納就雄などが、薩摩の伏見屋敷に庇護されていた。

大阪

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しながら、閣老参政及び会桑二藩士を率いて、大阪へ下ったのである。

此の下阪に対し朝廷側では大阪の要地を占め、軍艦を以て海路を断ち薩長を苦しめるためだろうと疑うもの

を憂いた尾、越、土の三侯は、慶喜が大阪にいては、いよいよ朝幕の間が疎隔するばかりであるから、再度おだやかに

このあたりから、幕軍全く潰走して、大阪へ逃げるものあり、紀州に落ちるものあり、桑名藩士等は大和から本国

慶喜は、六日夜大阪に退き、同夜近臣数人と天保山沖で軍艦開陽艦に乗ろうとしたが、

三沢

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土と合戦の事と推察し、長谷川氏に至り候処三沢も参り居、種々評議、私は平子と相携へて、大仏に走り、耳塚

京都

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、表面の口実で、内実は討薩の表を奉って、京都から薩長の勢力を駆逐するつもりであったのであろう。

交戦状態でないのだから、威圧的に関門を突破して京都へ入るつもりであったのかも知れない。

鳥羽街道は、むかしの羅生門に通ずる道で、京都へ入る所に、東寺がある。東寺の十町ばかり手前の石橋の所

京都の一市民の戦争当夜の感じが、よく出ていると思う。

高松

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も精鋭であった。それに、会津、桑名、松山、高松、浜田等の藩兵が加わっていた。

午後四時を過ぎる頃、桑名、高松、松山の藩兵が、鳥羽街道を圧して上って来た。今度は、

松山

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よく銃器も精鋭であった。それに、会津、桑名、松山、高松、浜田等の藩兵が加わっていた。

午後四時を過ぎる頃、桑名、高松、松山の藩兵が、鳥羽街道を圧して上って来た。今度は、薩兵

水戸

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後、永井玄蕃頭が、之を預り大場一心斎麾下の水戸兵二百人と、新選組百五十人が守備に任じていたが、大場

大久保

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松平春嶽が大に慶喜のために説いたが、岩倉、大久保のために、容れられず、両派の論争激越を極め、一時休憩となっ

京橋

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土方歳三は、伏見京橋口に陣を布いていたが、鳥羽の砲声を聴くと、浜通り