四条畷の戦 / 菊池寛
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延元四年の秋、後醍醐天皇は吉野の南山行宮に崩御せられた。北畠親房は常陸関城にあって此の悲報
計画が出来たので、本営を此の地に据えて、吉野の軍と相策応したのである。実に正成の本拠であった河内
実に正成の本拠であった河内東条と、行宮のある吉野は、官軍の二大作戦根拠地であった。時の京畿官軍の中心は言う
に入り、隅田城を急襲して居る。これは東条と吉野との連絡を確実にする為であって、大楠公の赤坂再挙の戦略と
、敵を待った。此の間、彼が作戦奏上の為め、吉野に参廷したあたりは、正に『太平記』中の圧巻であって、
。為に後村上天皇は難を賀名生に避けられ、吉野の行宮は師直の放火によって炎上し、南朝の頽勢は既に如何ともし難い
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依ったのである。従って正成の歿後も、河内、摂津、和泉地方の楠党は山地にかくれ頑強に足利氏に抵抗して居た
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で得意の奇襲に出でたと解す可きだろう。時恰も鎮西に於ける官軍の活動も活溌であった。正行にすれば、此の際東西
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その第二隊は生駒山の南嶺に屯し、大和にある官軍に備えて居る。師泰の遊軍二万は
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場所は古来伝称の吉野山である。君臣の義相発して情景相具った歴史の名場面では
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からである。尤も、中島商相を弾劾した菊池中将(九州の菊池神社を中心として、菊池同族会なるものあり、中将はその会長
たが、突然敵方に強弓の一壮漢が現れた。九州の住人、須々木四郎と名乗って雨の如く射かけたから堪らない。
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正平二年七月、畿内の官軍は本営を河内東条に移し、菊水の旗の本に近畿の味方を
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として続いたとある。供奉の武将達も、或は河内に、或は伯耆に、北条氏討滅の為にあらゆる苦悩を味った訳である
其の由緒に就ては詳しいことは何も分らない。当時、河内の東条川に拠った一小豪族に遇ぎないのだ。
の御恩を戴いたこともないだろう。然るに渺たる河内の一郷士正成が敢然立って義旗を翻すに至った動機には、実に
前に、日野俊基が山伏姿で湯治と称し、大和、河内に赴いたことは、『増鏡』や『太平記』に立派に記してある
戦闘力に依ったのである。従って正成の歿後も、河内、摂津、和泉地方の楠党は山地にかくれ頑強に足利氏に抵抗して
然るに楠軍は一旦兵を河内に還して居る。そして九月九日に八尾城を攻撃し、十七日に
九月九日に八尾城を攻撃し、十七日には河内の藤井寺附近に於て、大いに顕氏の軍を破り、正行は初陣の武名を
今や楠党は主力を東条に集結し、別軍は河内の暗峠を固めて、敵を待った。此の間、彼が作戦奏上の為め
ある師泰に対抗して居た。亦四条隆資は、河内等の野伏の混成隊を以て、生駒山方面の敵を牽制して居る。
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は十数ヶ国の兵を集めて優勢である。味方は、河内和泉などの寡兵である。南朝恢復の重任を以て任じて居たものの、
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正成夙に戦死し、続いて北畠顕家は和泉に、新田義貞は北陸に陣歿し、今や南朝は落漠として悲
八月十日、正行は和泉の和田氏等の軍を以て紀伊に入り、隅田城を急襲して居る
て居た。吉野朝廷からは北畠親房が老躯を提げ、和泉に出馬し、堺にある師泰に対抗して居た。亦四条隆資は
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元来楠党は山地戦に巧みである。正成が千早城や金剛山に奇勝を博し得たのは、一に彼等の敏捷な山地の
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一旦兵を河内に還して居る。そして九月九日に八尾城を攻撃し、十七日には河内の藤井寺附近に於て、大いに顕氏の軍
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朝廷からは北畠親房が老躯を提げ、和泉に出馬し、堺にある師泰に対抗して居た。亦四条隆資は、河内等の野伏
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楠党は山地戦に巧みである。正成が千早城や金剛山に奇勝を博し得たのは、一に彼等の敏捷な山地の戦闘力に依っ
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月五日、後醍醐天皇は王政復古の偉業成って、めでたく京都に還幸された。楠正成、名和長年以下の凱旋諸将を従えられ、
自分を意識したか知らないが、六波羅滅亡後、一時京都が混乱に陥った時、早速奉行所を置いて時局を収拾した芸当など
。洞院公賢は其の日記に此の仔細を記して居るが、京都の諸寺一時に祈祷の声満つると云う有様であった。
京都に報告して居る。小康を得て居た当時の京都の人心は為に恟々として畏怖動揺したとみえる。洞院公賢は
泉州に於ける優勢な楠勢にはとても敵せぬと、京都に報告して居る。小康を得て居た当時の京都の人心は為
『細々要記』に「京都より細川陸奥守以下数十人河内発向藤井寺に陣す。其夜正行等不意
正行戦死の報が京都に達すると、北朝では歓呼万歳を唱えて喜んだと云う。可なり嬉しかっ
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十一月二十六日、正行は和田助氏を先陣として住吉天王寺附近の敵を邀撃した。此の戦勝は圧倒的であり、したたかにやら