逗子物語 / 橘外男
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たあの墓は、才色一代を掩ったその日野涼子の奥津城であり、あの侘しい少年はこの薄命な音楽家の忘れ形見であると知っては、
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田越川に沿うて神武寺を左に眺めつつ三崎街道の埃っぽい道をどこまでもどこまでも伝わって
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結婚後間もなく胸の病を発してきた妻が、鎌倉の病院で亡ったばかりの頃で、私はたった一人で桜山の百姓家の
病気で亡られた時も、日野様のお医者はことごとく鎌倉から来られるので、もちろん村の人なぞにはわかりもしなかったが、
が、爺やのお伴でここからほど近い田浦の停車場から汽車で鎌倉の学校までお通いになっておられたが、やはり大変お身体がお弱かっ
、いつもひっそりと静かに住んでいられたが、東京や鎌倉から自動車でお友達やお医者がしょっちゅう見えてであった。
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ていると言った方がいいのかも知れぬが、東京からの避暑客などは道の遠いのとあまりにも物淋しいのとで、
もちろん妻は東京に葬ってあったし、別段こんな淋しい山寺に何の関係もあったわけ
遅くまで! どちらへお出ででございました? 東京へでもお出でになったのかしらと思っておりましたよ」
が……そんな綺麗な坊っちゃんでお墓詣りをなさる人ちゅうと東京の方には違えねえんだが……病身らしい方でお藤さんという
「東京のお方はお厭がりになりますから、土地ではそういう方は
掛けた時にも、偶然それを思い出して、家にいらっしゃる東京のお客様が、あそこのお墓で日野様の坊っちゃんらしい方にお逢い
のような荒れ果てた山寺の中に、日野さんのような東京の方のお墓があるというのが妙に記憶に残っていた
土地の者でなければ到底わかりっこないような道ばかり、東京から幾らも離れていない逗子近所にも、こんな深い山があるかと
の立ち入ったことはわからなかったが、狭い村の中に東京から移って来た人と言えば日野家の人々くらいのものであった
という噂であった。そしてそれまでは若い奥様も時々東京へいらっしゃって、有名な音楽家だということであったが、旦那様が
爺やとその爺やの娘だとかいう女中さんを連れて東京から移り住んで来られたのであった。が、あまり村人との交際が
方らしく、いつもひっそりと静かに住んでいられたが、東京や鎌倉から自動車でお友達やお医者がしょっちゅう見えてであった。
からはその坊っちゃんも学校をお止めになって、毎日東京から家庭教師の方が、見えていられたらしいということであった
の一人住いを切り上げて、明日中に明るい灯の輝いている東京へ引き揚げてしまおうと決心していた。そしてそれより先に明日のこと
の座敷もあり、先達中からたびたび逗子の生活を切り上げて東京へ戻って来るようにとのすすめが来ているのであったから、