田端の汽車そのほか / 宮本百合子
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の彼方にいかにも近代都市らしい大陸橋が見え、右手には道灌山の茂みの前に大成中学校の建物が見える。それにつづいて上野の森
そうして切どおしをのぼり切ると、道灌山つづきの高台の突端に出た。子供の時分の田端の駅は、思えば
ない渡辺町という名をつけ、分譲地にしたあたり一帯は道灌山つづきで、大きい斜面に雑木林があり、トロッコがころがったりしている原っぱは広大
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もうわたしは目白の家をひきあげて友人がそこに住み、本郷の弟の家に暮しはじめていた。
をさした。地図の上で指されるそれらの地区は本郷区のぐるりのどこかに隣接してはいてもうちのある林町界隈まで
うちのある林町界隈までは距っていた。心配は直接本郷あたりが襲撃されることではなくて、思いがけず大規模の被害が生じたとき
、思いがけず大規模の被害が生じたときその真中に安全な本郷、またはこの辺が、逃げ場のない袋の中に入ったことになるか
東京市内で保険率の少い区の名を云った。本郷や上落合はその中にこめられていた。保険には入らなかったが、
のやすいところ、つまり火事が伝統的に少いところとして、本郷のことも上落合のあたりも、心には深くとめられた。
関東大震災のときも、本郷は大丈夫であった。西方町という火事なしが名物の一区画さえある。本郷
た。西方町という火事なしが名物の一区画さえある。本郷も随分変化して、いくらかあぶなっかしくはあるかもしれないが、先ずそれも
ところが、一九四五年一月末日神田と本郷の一部が真先に空襲をうけた。それから五月下旬まで、毎月一回、
うけた。それから五月下旬まで、毎月一回、きまって本郷の各部が爆撃をうけつづけた。丹念に、のこった部分につづく地域から被害
漱石は、本郷の千駄木町に住んでいたので初期の作品にはどれもよく団子坂から
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なったが、思い直して動産保険をすすめた。そのとき、東京市内で保険率の少い区の名を云った。本郷や上落合はその中に
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。原っぱをめぐって、僅かの家並があり、その後はすぐ武蔵野の榛の木が影を映す細い川になっていた。その川をわたる本郷台まで
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店の軽焼や、小さい円形ビスケット二十個。或はおにぎりで、上野の動物園にゆくとき、いつもその前のおひるはお握りだった。母はずっとあと
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田端の汽車そのほか
の上にたって今日東の方を眺めると、坦々たる田端への大通りの彼方にいかにも近代都市らしい大陸橋が見え、右手には道灌
貼りつけられた古い地蔵さんの立っている辻堂があった。田端の駅へゆくときは、その地蔵のところから左へとって、杉林など
道灌山つづきの高台の突端に出た。子供の時分の田端の駅は、思えば面白い地形に在ったものだ。
も低いところに在らねばならない。そういうわけで、田端の駅は、その高台からまるで燈台の螺旋階段のように急な三折ほど
私たち子供達が田端の汽車見物をしたのは、その坂を下りず、草道を右に
見にゆく」ときにはきっとお弁当がいり、それは、田端で汽車を見ながら食べられなければならなかった。
気がちがった謙吉さんのいる家は、それからのち、田端の汽車を見にゆくたびに思い出された。こわさと珍しさ、妙
、女中が提灯を下げて送って出るその門は、同じ田端でもずっと渡辺町よりにあった。
の団子坂名物であった菊人形のこともあるし、田端と本郷台との間の田圃のあたりも描かれている。
ので初期の作品にはどれもよく団子坂から上野、田端あたりの情景が出て来る。「吾輩は猫である」の中にがらくた
、当時の文展がえりを散歩に誘われ、この辺の田端田圃のどこかの草原に休んで、美禰子が夕映を眺めながら謎のよう
四十年代の明治に子供であった私達は、同じその田端田圃の畦道を、三四郎がとこうとして悩んだ悩みもなく、「
動坂の手前の焼跡に立つと、田端の陸橋が一望のうちに見えるようになったとおり、空襲のあとは、
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よく夕飯後に東京地図をもち出した。その頃もうわたしは目白の家をひきあげて友人がそこに住み、本郷の弟の家に暮しはじめ
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考えられるようになってから、うちではよく夕飯後に東京地図をもち出した。その頃もうわたしは目白の家をひきあげて友人がそこ
東京に対する空襲ということが段々まじめに考えられるようになってから、うち
もひっそりとするような工合であった。東京の市民は東京を死守せよ、一歩も出さない、という風なこわい気風もあった
とり、しかもそれもひっそりとするような工合であった。東京の市民は東京を死守せよ、一歩も出さない、という風なこわい
東京地図などが持ち出されるのは、大抵従弟で、戦争を実地に経験して
どうだろうねえ、どう思う? そんなことから、どれ、東京地図あるかい、という調子で地図が出され、その地図を開いて
なったが、思い直して動産保険をすすめた。そのとき、東京市内で保険率の少い区の名を云った。本郷や上落合はその
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ところが、一九四五年一月末日神田と本郷の一部が真先に空襲をうけた。それから五月下旬まで、
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の前に大成中学校の建物が見える。それにつづいて上野の森がある。
店の軽焼や、小さい円形ビスケット二十個。或はおにぎりで、上野の動物園にゆくとき、いつもその前のおひるはお握りだった。母は
いたので初期の作品にはどれもよく団子坂から上野、田端あたりの情景が出て来る。「吾輩は猫である」の中
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として悩んだ悩みもなく、「きいてき一声、新橋を、はやわが汽車ははなれたり」と声はりあげて歌いながら歩いた。余り
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て吉原の大火をその崖から眺めた。丁度日曜日で、目黒の不動へ、筍飯をたべにつれられて行ったそのかえり道に弟と