渡良瀬川 / 大鹿卓

渡良瀬川のword cloud

地名一覧

古河

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た。「陸奥のさしがねで、妨害の運動費として古河からも出る。田中さんに暮の議会で鉱毒問題を手ひどく追求されたから

軍費を調達されたはずだといっとったそうだ。古河の細工はそんな工合だ」

「まるで古河の手代のやる仕事だ。どうせ古河から金をもらっているのだろうが、いくら金が欲しいからといって、いやしく

て谷中村の下宮に立ちより、野木村まで足を延して、古河で帰京する人々と袂を分って紺屋五郎衛門方に一泊した。

ばかりが、演壇のま下に陣取った。まもなく、古河から派遣されてきた鉱夫らしい風貌の者や、やはり古河側の壮士風

から派遣されてきた鉱夫らしい風貌の者や、やはり古河側の壮士風の男が三々伍々と肩を張って入場し、いつのま

を下り江戸川を下ってきた被害民たちである。古河までは二千人余の人数だったが、館林、佐野、古河の警察署から出張

までは二千人余の人数だったが、館林、佐野、古河の警察署から出張した警備の群に阻止されて、なかば以上は引返して

たが「去る二十七年には、県会議員久保田某なるものが古河から示談金を受取り、しかもそれをもって私腹を肥したのである……」

セメントその他も国内の製産能力に余力がなく、市価は古河の買付けのために急騰をきたしたほどであった。この間にあって、

「なるほど古河の番頭でなくても、古河市兵衛の小使でなければ、そんなことをするわけ

能登

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なる。人民はそこにいられなくなる。あとは立派な能登の国ほどのところへ沙漠ができる。遼東還付は地位が足りないから取られ

早稲田

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迎いの馬車が待っていた。榎本はすぐに乗って早稲田の大隈邸へむかった。

なくなったらどうする。たちまち自分の頭に感ずるであろう。早稲田の大隈さんの邸のあの綺麗な庭が、一本の草もなく花も

津田、松村、楢井、一木、中島、荒井、高橋などが早稲田の大隈邸を訪れた。彼等は大きな応接間に通されて、思い思いに椅子

海老瀬村

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荒涼とつづく下都賀郡の被害地を望見し、さらに川を渡って海老瀬村の激甚地に入った。さらに埼玉県下の利島、川辺両村の被害を見て

殊に激甚地である海老瀬村の松本英一は、縷々と村民の窮乏のさまを語って、

人目をさける微行であった。三国橋の舟橋を越えて海老瀬村のはずれまで来ると、そこに多数の被害民が出迎えていたが、総代

微行であることを察して案内者もごく少数にとどめた。海老瀬村の激甚地から川添いに西谷田村に入り、神明西の破堤の跡へ出

には谷中村横段の堤防が決潰して、その濁流は海老瀬村一帯を侵した。なおこの暴風雨によって被害民たちがしきりに杞憂し

寧日なく被害地を巡回している一方、老妻かつ子もまた、海老瀬村その他激甚地の村々を歩いて、母乳欠乏の状態を調べては、その救済

の中でおのずから輾転反側せざるを得なかった。正造は海老瀬村間田の窮民の惨さを瞼にうかべつつ、枕もとの硯箱を引き寄せて、

のみに候。呉々も真誠の有志数名を誘うて、海老瀬村大字間田の惨状御熟覧被下度候。この日本人中にも如此不幸の者

、座談はおのずから被害地のことに終始したが、正造は海老瀬村山口間田の両部落の惨状を説明して、「私が御案内しますで

十一月九日、正造は島田三郎、高野盃規を海老瀬村へ案内した。すでに前月末以来、折返し有志を伴って往来すること四回

丁ゆけば渡良瀬川の渡船場があります。そのむこうはもう海老瀬村の激甚地、その途中が谷中村下宮で、ここもひどい。ところがこの村

御病気に候わば、藤岡古河より医師を呼ぶとも、なるべく海老瀬村、下宮、山口等に、又底谷等に出入いたされて、余りに広く

岩槻

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こうして一行はとにかく岩槻まで無理押しに押しすすんで来た。すると、そこにも百余名の

と、警部長や保安課長や、或は桶川、大宮、岩槻の各分署長が入れ代り立ち代りやってきて、明日は帰郷するようにと千

岩槻で帰郷する一隊と袂を分って出京した人々は、従来の在京委員と

ような水中にとびこんで辛くも橋を架してわたり、また岩槻では巡査数十人の突貫にあって散乱負傷したり、ようやく松橋宿に達し

横浜

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正月の六日に、正造は横浜にいる原田勘七郎たけ子の夫妻を訪ねて、二日間滞在した。その

いわれた。正造はその診断そのものよりも、にわかに横浜へ出かけていった自分の予感に感悟するところがあった。

ドキリとして、目を濺ぎつづけた。この正月、横浜の家で、突然遺言云々といいだされて驚いたことなどが思いだされた

茨城

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が来り合している。その流域は栃木、群馬、埼玉、茨城の四県下にわたり、面積は二百三十余方里、幹川の流路は二十七里

三月七日には群馬、栃木、茨城、埼玉四県の被害民総代が相謀って、芝口三丁目の旅館信濃屋に

併呑の罪悪を設計しつつあり。邑楽、山田、安蘇、茨城、埼玉の一部ずつはその災厄の中にあり。下都賀の谷中村はその一

リ、毒流四方ニ氾濫シ、毒屑ノ浸潤スルノ処茨城、栃木、群馬、埼玉四県及其下流ノ地数万町歩ニ達シ、

宮城

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両眼から大粒の雫がしたたり落ちていた。正造はまさしく、宮城の方角へむいて虔しく平伏しているのである。その様子には作意

げな顔をする俥夫にはかまわず、砂利を踏んで宮城の広場のなかへと足を運んだ。しかし深くは踏みこまず、遙かに秋雲

鹵簿はこの騒ぎにはなんのお障りもなく、恙なく宮城へ還御あらせられた。

本郷

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で、津田や松村が青年たちを奔走させた結果、本郷の中央公会堂を借りて三月六日に実現の運びになった。

木曽

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浸水の被害になやまされたが、殊に岐阜、愛知県下は木曽、長良、揖斐の三川の堤防が決潰して、わずかに飢餓を免れるもの二万五千

桐生

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なだれてきた一群の丘陵の裾をおさえつつ、大間々、桐生、足利とようやく広濶の地にでて、迂曲し蛇行して栗橋の手前

は矢場、谷田の二川にすぎないが、北方からは桐生、小俣、松田、やや下って袋、才、旗、秋山の諸支川、さらに

一方、長祐之は桐生、大間々を経て、渡良瀬川に添って溯ること十数里、三日に

行徳

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し、西は足利邑楽両郡から、東は銚子、南は行徳の河口附近まで数十里の間を跋渉して、十九日に帰京した。

川越

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た。芳林寺へゆく途中で、急に道をかえて川越へ向った一群もあって、結局三百五十名ばかりが後に残った。島崎郡長

神明

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やがて神明西の破堤にちかい荒地にさしかかったが、雲は暗々と垂れこめ、雨は笊

仮橋から大島村を経て、西谷田村へたどりついた。神明西の昨秋の大破堤の跡にたたずむうちに、冬の日は幕を下す

。海老瀬村の激甚地から川添いに西谷田村に入り、神明西の破堤の跡へ出た。切れ先の附近はただ一面に灰色の沙漠

与八が西谷田村大字西岡新田へ案内した。そこは神明西の堤防決潰のために、田畑がことごとく荒廃に帰した箇所で、一帯に

高崎

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の声は誰もきくなり――この歌です。一昨年高崎から来たといって立ち寄られたときおききしたのでした。あれは丁度

神田美土代町

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一日隔いて二月二十八日、神田美土代町の基督教青年会館で、帝都における最初の鉱毒事件演説会が開かれた

小石川

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訓令を発した。下谷、浅草両署からは千住方面へ、小石川、本郷両署からは板橋方面へ、それぞれ数十名ずつを急派した。特に板橋

筑波

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足利町及び吾妻、毛野、富田、小俣、坂西、梁田、筑波、山辺の村々を徐々に蝕んで、それぞれ総代と称する者たちが契約書に捺印

関東地方

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純朴な心を持っている青年諸君の役目だ。もともとこの関東地方の人間は徳川の温和的な圧制に慣らされて堕落し、それが二百余

犬伏町

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安蘇郡では植野、界の両村及犬伏町、下都賀郡では藤岡町、及び生竹、部屋、野水、三鴨、谷中の諸村。契約

上流では毛野村、下流では植野村、界村、犬伏町等の有志が続々と起って請願のことに奔走しだした。

宗次郎、同平吉、福地直八、野口春蔵、矢島幸作、さらに犬伏町から山崎※次郎、小林孫平、小関栄吉、以上五十余名であった。

筑波山

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の東側の障子をあけ放った。来るたびにいつも遠望をたのしむ筑波山は見えず、ただそこには鴨居と敷居に区切られて漠々たる雲の動き

神田錦町

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協同親和会は四月二日三日の両日にわたって神田錦町の松本亭に臨時大会を開き、当局大臣を鞭撻することを申し合せた。九

九州

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を請求すと、何ぞ夫れ迂遠なるや。今は九州四国の遠き地に生れたる婦人すら、案内なくして東京より海老瀬に往来する

安蘇郡

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載りだした。正月早々、佐野町春日岡の総宗寺本堂に安蘇郡の有志が集合して衆議一決した結果である。当日、近郷の各町村

とき、彼等はまず折衝の手はじめに、正造と因縁ふかい安蘇郡の被害地の有志四百数十名を郡役所楼上に集めたのも皮肉だった。

安蘇郡では植野、界の両村及犬伏町、下都賀郡では藤岡町、及び生竹、部屋

その夜、佐野の万世楼で安蘇郡の有志が一堂に会して谷を歓待した。

選挙で使い果されてしまった。その後の選挙費はすべて安蘇郡の有志の寄附でまかなわれていた。のみならず正造が鉱毒問題のため

下野国

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ども法律が行われないからである。しかるに、ことさら下野国、群馬県のなかに新奇なる古河市兵衛の輩が跋扈して新に居留地をこしらえ

下関

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主人の孝八郎は、例の清国の媾和使李鴻章を下関で狙撃した小山六之助(本名豊太郎)の父であった。その事件のあっ

谷中

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、下都賀郡では藤岡町、及び生竹、部屋、野水、三鴨、谷中の諸村。契約の結ばれた被害総町歩は二、九五六町五反七畝

大阪

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直轄となった。同十八九年の頃は江戸、大阪、長崎に会所を設けて、産銅の五分の一を和蘭へ輸出するまで

北海道

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での御奮闘の様子はおよそ新聞で拝見しました。北海道の鉄道と炭鉱の払下げ問題も今度は痛烈にやられたようですね」

「あなたの議会の演説に、北海道は盗賊の棲家だという言葉があったが、まだ病人なら医者にかければ

の罐詰をあけると腐敗していたり、煙草を買えば北海道で出る木の葉を刻んだものだったり、酒は一本一円五十銭もする

何事である。自家撞著をやらないようにするがよい。北海道を開墾するとか、或は移民地を探検する――馬鹿を吐けッ! 

四国

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として、鈴木重遠、田口卯吉、高橋秀臣とともに四国に遊説した。この旅行中の正造の収穫は、同行中に鉱毒問題に

請求すと、何ぞ夫れ迂遠なるや。今は九州四国の遠き地に生れたる婦人すら、案内なくして東京より海老瀬に往来するもの

奥州

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「どうですか、この毒塚は。さながら奥州の松島です」と正造は指さし「松島の島なら真冬でも青々してい

鎌倉

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私が不思議千万に思うのは、南の方へはヤレ鎌倉、ヤレ大磯、ヤレ小田原と大臣諸君もよく足がむくようだが、いっこうに

芝浦

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思いついたのが、去年も療養のために入浴にきた芝浦の塩の湯のことである。

、谷元八の二人が出獄して上京したので、芝浦の塩の湯へ伴って談笑した。

が残ることになった。野口は過労から病を得て芝浦の塩湯に休養していた。

王子

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四五カ所に分れて追々と南下し、それぞれ千住、板橋、王子を指して道を急いでいた。各地の警察署から次々と急報が入って

稲葉

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一帯の稲田はやや穣りを見せていたが、その稲葉の中に到るところに毒塚が点在していた。次に庭田恒吉の

荒川

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た。荒井嘉平は二人の宿をするために、正造と荒川を案内していった。与八も漸く一日の重荷を下したという気持

関東

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年、過去積年の圧迫に対する仇討というわけで、わが関東や東北を辱めるに努めてきた。特に徳川に近いものを憎み、関東を

辱めるに努めてきた。特に徳川に近いものを憎み、関東を賤しんで、わが関東をみること恰も庭園の家畜のごとくである。ために

。特に徳川に近いものを憎み、関東を賤しんで、わが関東をみること恰も庭園の家畜のごとくである。ために二百余年の封建的な

へつらい奴隷となって自ら恥じない習慣までできてしまった。関東をこの堕落から救いだし、関東の気力を取りもどすのは、やはりわれわれ関東人の力

ない習慣までできてしまった。関東をこの堕落から救いだし、関東の気力を取りもどすのは、やはりわれわれ関東人の力以外にはない……」

頻々だった。中国筋から、近幾、中部、北陸、関東、東北と、ほとんど本土の到るところが河川の増水と家屋浸水の被害になやまさ

警告を前置きにして、精細な説明に入った。元来関東は水平な地形で毒が流れてくれば板の間に水を流したように拡がる

なんと形容したらよいでございましょうか。諸君ごらんなさい、関東の地面は平坦で地が広い、日本では実に目を遮ぎるものがない

「関東の中央に四万町以上の新規の沙漠地をこしらえて、これを藩閥末路の

やり始めたからにはどこまでもやって見るがよい。関東の人民をば勝手にみなごろしにするがよろしい。こちらにもまた手段がある。

、握り拳で膝をたたいて大きな声をだした。「ああ関東は不幸なり!」廊下を通りかかった女中が、驚いてふりかえった。

「声立てよ、鳴呼関東は不幸なり」

「いや、そうでない。関東の男たちほど他国の者に馬鹿にされて平気でいる者はいない

者はいないのだ。京都生れの古河市兵衛などに、関東の真中へ大沙漠を造られながら今まで平気でいる。祖先伝来の土地を根こそぎ

も知らない。まるで脳味噌がないようなものだ。残念ながら関東は家庭教育がごく悪い。親がその子に狡猾に立ち廻ることや、破廉恥

はまだいくらか廉恥を知り人倫を知っている。それが関東の風俗だ、そこへゆくとあんたたちの伜さんは、正義のために監獄

て、被害民の苦痛を訴える真価とはならなかった。関東の沃野を不毛に至らしめまいとして、これを未然に防ぐことができ

氷川神社

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そこで村長はじめ村会議員たちの斡旋で、さらに村社氷川神社の境内を借り、一同をそこへ収容することにした。その数二千四百人

江戸城

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、幕府から普請料が下付されて、同五年に江戸城修築用瓦として銅板百二十万六千四百枚余を製出するまでに立ち直った。享保三

川崎

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ていた。俥を返し東行して毛野村に入り、川崎、奥戸と渡良瀬川沿いの激甚地を巡った。正造は要所要所で俥をとめ

銚子

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二日に出発し、西は足利邑楽両郡から、東は銚子、南は行徳の河口附近まで数十里の間を跋渉して、十九日に

足利郡

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当局から案外な冷淡と不誠実をもって報いられた。例えば足利郡の毛野村、富田村、吾妻村の有志が十月二十日付で免租願

八俣村

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早朝から細雨漠々とけむるなかを、一行三人茨城県下の八俣村へむかった。旧臘同村ほか二カ村の村長から突然書信をもって請願運動に

界村

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一帯の水害の激甚さは、聴くも無残であった。界村高山の対岸にあたる群馬県邑楽郡西谷田村大字西岡字神明西の堤防が、百八十

して、上流では毛野村、下流では植野村、界村、犬伏町等の有志が続々と起って請願のことに奔走しだした。

谷元八、栗原宰次郎、その下流で大島村の対岸の界村から糸井藤次郎、同弁吉、茂呂宗次郎、同平吉、福地直八、野口春蔵、

春蔵の馬上姿が見えた。今日の先導をつとめるために界村から迎えにきたのであった。一行は草鞋に足をかためて、植野

多い村落に心を痛ませつつ、再び渡良瀬川を越えて界村の激甚地、馬門に出た。野口は四十前後、さアここは自分の繩張り

がそれを補足して、「海老瀬も、それから私の界村も、病人にたとえればいつ死ぬかわからぬ重態です」といって声を呑み

ののち病気になって死んだものが、下野の安蘇郡界村字高山だけで二人。この死亡者はいずれも老人でありました。高山だけで

一二尺で枯死していた。大字西浦を経て、界村大字越名で案内人が野口春蔵にかわった。

築地本願寺

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さて、一同が築地本願寺へ来てみると、寺の意向には格段の隔りがあった。警官附

吾妻

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一方査定会一派の動きも翌年三月までに足利町及び吾妻、毛野、富田、小俣、坂西、梁田、筑波、山辺の村々を徐々に蝕んで、

山王神社

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さて、彼ら十数名の一隊は赤坂の山王神社の傍へきて、椎の若葉の下で足をとめた。その椎の

赤坂

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さて、彼ら十数名の一隊は赤坂の山王神社の傍へきて、椎の若葉の下で足をとめた。

下野

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は翠微を展望しつつ傍をかえり見ていうには「下野の山川は風光明媚だが、風景は経済に用のないものである。山

ために、帰宅ののち病気になって死んだものが、下野の安蘇郡界村字高山だけで二人。この死亡者はいずれも老人でありまし

思川

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、才、旗、秋山の諸支川、さらに古河の近くで思川が来り合している。その流域は栃木、群馬、埼玉、茨城の四県下

古河から俥でアクト新田渡船場へでて思川を渡った。気付かずにゆけば普通の葭原、しかしもうその前後から鉱毒被害地

早稲田鶴巻町

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もかわらぬ黒紋付の羽織の袂をふりつつ、飄然と早稲田鶴巻町の戸泉という郷党の書生たちの下宿へ現れた。今しも号外を前に

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は名刺を通じるのを見ると、増田義一、円城寺清、堺枯川等の顔ぶれがあった。

江戸

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幕府の直轄となった。同十八九年の頃は江戸、大阪、長崎に会所を設けて、産銅の五分の一を和蘭へ輸出

筑波村

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、久保田勇吉、内蔵豊蔵の十一名が拘引された。筑波村の某々の家に侵入して家人を殴打したという嫌疑であったが

関西

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社会道義にとむ青年の奮起にあると訴えた。昨夏の関西遊説の途上で、「高橋君は青年の志士である、鉱毒被害の救済に

問題の真相を訴えるために、正造が病中を押してあわただしく関西へ往復したのも、この前後であった。

本所

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昨年の九月の洪水のとき、本所におびただしい死魚が漂流してきたことがあった。正造はそれを渡良瀬

、事務所にも数人が出京して働くようになった。本所に安宿を見つけて、被告五十一人、委員を加えて六十余人が、合宿する

十条

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ておくべきでない。今日現に実施している鉱業条例の第十条に、公益に害があると認めたときには、農商務大臣はその営業を停止するを

両国

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を借りて賊を討つことを申言せしめた。天津条約は日清両国のいずれが朝鮮に兵を動かす場合にも、予め互に知照すべきことを約定して

ず済遠の発砲によってはじめて戦火を交えた。いよいよ両国の戦端がひらかれるに至ったのである。

おのずから鎮定した。だが、その撤兵問題について日清両国間にあらたな紛議がかもされ、風雲いよいよ急を告げつつ七月も末になり、

上野公園

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疲れきった姿が集ってきた。また草鞋ばき赤毛布で上野公園や愛宕山あたりを徘徊するものもあるので、下谷、芝の両署では

宇都宮

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、陸地測量部二十万分ノ一の地図「日光」及び「宇都宮」をひろげてみよ。中禅寺湖をかこむ外輪山の南面、松ノ木沢に

」とあった。これは前年の十月中、早川が宇都宮病院に分析を依頼したものの結果で、調剤局長大沢駒之助の署名

榊原経武、参謀長が佐野常民あたりだということだ。現に宇都宮警察では前回の選挙には誰に投票したかと戸別にきき糺さ

予定されていたもののように、すぐ栃木町の宇都宮地方裁判所栃木支部の検事局へ送られた。そこでまた夕方まで検事の取調べが

にまたまた大挙請願の気配でもあると察したのか、宇都宮及び東京方面への順路を厳重に警戒しだした。三日の夜など

十一月十七日は、宇都宮監獄に在った永島、小林の二人が、六カ月の刑務を終えて出獄

正造は二日に帰郷して、三日には宇都宮にひらかれた下野支部発会に出席し、翌日からまた被害地の各町村を

京都

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ものが二百五六十家あったというから、あたかも京都及びその近郊に公卿がうじゃうじゃしていたのと同然で、ただそれと

京都の小野組が瓦解したのは明治七年である。当時小野組は

馬鹿にされて平気でいる者はいないのだ。京都生れの古河市兵衛などに、関東の真中へ大沙漠を造られながら今まで平気

「さようなことはありません。現に京都西陣などは水藍を灌漑して使用しておりますが、まだ嘗て害

長崎

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なった。同十八九年の頃は江戸、大阪、長崎に会所を設けて、産銅の五分の一を和蘭へ輸出するまでに

高松

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、市兵衛はこの草倉を買受けた。九年には旧高松藩松平家から羽前の幸生銅山を買収し、十年にはさらに相馬家

山形

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が、事実は隠然たる首謀であった。市兵衛は翌年はるばる山形の獄中にあった陸奥を慰問し前約を果すことを迫ることによって

神戸

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たので、壇上の正造も気がせくのか、あわただしく神戸造船所、釜石鉄山、小坂鉱山などの払下げの件に触れて政府の無方針

広島

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が広島に召集され、十八日貴衆両院の議員ことごとくが広島に集って開院式が行われた。

なった。十月十五日をもって第七臨時議会が広島に召集され、十八日貴衆両院の議員ことごとくが広島に集って開院式が

布告の詔勅が下った。九月十五日には大本営が広島に移された。あたかも十六日に陸においては平壌を陥れ、十七

て、田中正造は四たび当選した。すなわち正造もまた広島の議会へ赴いて、十月二十二日の開院式を終えるとただちに帰京した

皺がより、目差しが異様なひかりを帯びていた。広島で見聞した忌しい印象がさまざまと蘇ったのである。大本営の下

「わしは今度広島でまことに胸のすく有難い話をきいてきた。宗方小太郎という人

「こんどの広島の議会ではなにか……」

「いやいや」と頭をふって、正造は一通り広島の模様を語りきかせ「そんな工合で、国力を養う点からいっても、一

「俥屋さんがあんたを乗せて来たというから、広島の話でも聞こうと思って渋茶を入れて待っておったのに、

岐阜

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河川の増水と家屋浸水の被害になやまされたが、殊に岐阜、愛知県下は木曽、長良、揖斐の三川の堤防が決潰して、わずか

かくて朝野の耳目は岐阜、愛知の惨害に奪われる感があったが、正造は東京にあって

然れども無形に属するものはいかにも気のつきかたが遅い。岐阜、愛知の震災の如き、三陸の海嘯の如き、吾妻山爆発の如きは、

熊本

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、なかば期待の外においていた。谷は例の熊本籠城以来の武人としての名声に加えて、その出処進退の廉潔に

でしたたか打ちすえた。――谷は余り多くを語らず、熊本籠城のときの勇者だという家職が壮士を捕えにゆこうとするのを

の名は当時の壮士仲間にひびいていた。配下に熊本出身の命しらずの猛者が多いことも事実だった。一木は身の丈六

下谷

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は府下の各署にむかって警戒の訓令を発した。下谷、浅草両署からは千住方面へ、小石川、本郷両署からは板橋方面へ、

布で上野公園や愛宕山あたりを徘徊するものもあるので、下谷、芝の両署では非番巡査を召集して警戒にあたらしめた。

前橋

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たし、ある者は入監者の差入れなどの用件で前橋へでむいていた。どこの部落も男気がなくひっそりしていた。

は被告でこそなかったが、この日も差入れの用件で前橋へつめているのであった。

の発せられた者が六十八名に及んで、すでに大半は前橋監獄に収容されていた。それらの人々への慰撫のことも

対する差入れや通信の事務は、木塚、三田等の有志が前橋の油屋旅館につめきって尽力することとなり、弁護士依頼のことは主

さて、前橋地方裁判所では、予審判事水谷由章の手によって、追々と取調べもすすん

捕縛されて、館林警察で一夜を過したのち、ただちに前橋監獄へ護送されたが、繃帯でおおわれた頭をはじめ全身に打撲傷

例の兇徒嘯集被告事件は、十月十日、前橋地方裁判所刑事部法廷で、第一審公判の第一回が開かれた。

のもとに尽力していた。当局が浦和を避けて前橋へ裁判をもっていったのは、東京に近いと新聞がうるさいからで

が信濃屋へ訪ねてきた。当時弁護士たちは公判ごとに前橋へ出張するので、ほとんど他の事件を顧みる暇もなく、慮外の難渋

、一方では芝口の事務所を維持しながら、一方では前橋への往来、被告人たちへの差入れ、家庭の慰問、弁護士有志間の交渉

この月の二十四日には、前橋裁判所で正造自身の被告事件の公判があった。

ていた。永島はこの三月保釈ででるとすぐ、前橋教会で堀牧師から洗礼を受けた。思いがけなく、裁判長の磯野判事も同席

福島

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して太沽砲台を陥れた。つづいてわが国からは福島少将の臨時派遣隊が出征した。いわゆる北清事変の発端である。

千葉

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なった。帰京後、戸口茂里の忠告で、千住大橋の千葉という灸点家に診察をうけた。すると右肩が左肩より六分長い

静岡

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五月十一日、正造は小舟町の旅舎静岡屋で足利の原田定助宛に書信をしたためた。

深川

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その夜、船が深川の高橋に着いたのが九時、辻待の俥を雇って八官町へ

館林

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は西谷田村大字除川字大巻の堤防が決潰して、館林以東の八九カ村が泥海と化した。

来た。ここから渡良瀬川を越えれば、一里余りで館林である。

かろうじて年寄子供を避難させた始末だった。こうして館林以東の邑楽郡の大半が泥の湖と化すのに一時間とはかからなかっ

台の俥が来て、田中と荒川はそれに乗って館林街道を西の方向へ立ち去った。永島は道傍に立って、砂埃をあげ

からという父の助言に従ったのである。屋敷は館林街道に面した千余坪という広大さで、表に長屋門を建てまわし、

西谷田村でも同様に館林収税署から願書を却下された。しかし事実上荒地となっている地所から

である。古河までは二千人余の人数だったが、館林、佐野、古河の警察署から出張した警備の群に阻止されて、

糾問すべく押しかけた。この報は早くも佐野、足利、館林の各警察署につたわって、数十名の警官が沿岸へ急派された。

雲龍寺を出発することになった。勿論近郷の佐野や館林の警察から警戒の人数が繰り出された。警官隊は手に手に赤い

しかも病勢が衰えるのを待ちかねて、二十三日には館林へ行き、翌日は吹雪のなかを俥の上で震えながら雲龍寺へもどっ

足どりで蒼白な顔を見せ「こんな電報が来ました。館林から打っています」と、突きつけた。

勢ぞろいに暇どって、雲龍寺を出たのが午後一時、館林通過が二時半頃であった。途々大出喜平の作になる「鉱毒の

こみあげる顔付で訴えだした。「私たちは三十名ばかりで、館林から一行に加わったのです。同じように途中から追々と加わる者があっ

があった。それらを総合して、雲龍寺出発から館林に至るあいだの事情も、ほぼ輪廓がついてきた。だが、その

すると一時半頃、館林警察署長今鉄平が巡査五十名ばかり連れて入ってきた。今は、

ここのところが、内務省へ入った電報では、館林署長解散を命じたるに、ランプを消し火鉢を投げる等暴行をなし解散

鉱毒悲歌をうたいつつ館林へむかった。こうして一行は館林警察署の門前を通りかかったが、ここでまた一悶著が起きた。

渡良瀬川仮橋を渡って、一組々々鉱毒悲歌をうたいつつ館林へむかった。こうして一行は館林警察署の門前を通りかかったが、ここ

木下尚江はこの朝、高崎線吹上駅から俥を駆って館林へむかった。日光足尾の連山から吹き下してくる寒風が、土砂を捲いて

た。やがて、その朝彼等が悪罵を浴びせてすぎた館林警察署へ、数珠つなぎにされて、夕靄のなかを送りこまれた。ただ永島

つづいて十八日には、館林の青梅天神の境内で屋外演説会を開いた。このときの責任者もまた

永島与八もまた、川俣の現場で捕縛されて、館林警察で一夜を過したのち、ただちに前橋監獄へ護送されたが、繃帯

の農物作を検べたうえ、雲龍寺、邑楽郡役所、館林警察署、川俣等の現場にも臨検した。一行中の弁護士は塩谷恒太郎

被告の罪状を一々論述して、さらに邑設郡役所、館林警察署に於ける経緯に及んだ。並いる被告は、法廷の雰囲気もきょう

た。翌十二日には、下早川田の雲龍寺、館林の郡役所及び警察署、佐貫村大字川俣等の事件関係地の臨検だった

東京

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独力で被害調査に着手していた。左部は当時まだ東京専門学校(早稲田大学の前身)の学生であったが、すでに昨秋以来、正造の

に鉱山事業を創させたのは、別家格にすすみ東京の支店を支配していた古河市兵衛であった。市兵衛は主家の没落

の施政方針の演説がある日だ。それで早く起きて東京へ帰らねばならん」

の実をあげつつあるという風聞に刺戟されて、東京には地方党員が続々と集結していた。彼等は議員の宿舎

、愛知の惨害に奪われる感があったが、正造は東京にあって新聞の片隅に「渡良瀬川出水一丈一尺尚増水中」

。被害地の声をたかめると同時に、それと相応じて東京をはじめ全国各地の有識者に呼びかけ、世の同情を掻きたてて、輿論の力

「わしは東京へ帰ったら、今度は精神家、宗教家の人々にお願いして、その

や同情者の獲得運動に出歩いた。九日のごときは東京は又も大雪であったが、被害民の難渋を思っては、寒い

されて、例年ならば松すぎまでつづく正月気分も、東京の巷から姿を消した。

かくて東京の運動もようやく具体的になり、事務所の必要に迫られてきたので

開いて農民の覚醒に努めて来た。これを一つ東京で開いて満都の同情に訴えようという発案であった。会場は丹羽清次郎

抜きさしならぬ泥沼へ一歩々々落ちこんでゆくばかりです。東京の乞食ならば人の袂にすがって憐みを乞うことも出来ますが、

述べた。野口春蔵の調査で千葉県東葛飾郡、埼玉県北葛飾郡、東京府南葛飾郡にまで鉱毒の及んでいることが判明したのである

そうに顔をゆがめる者もいた。それでも今日は東京へ辿りつけるといい合って、凍てた弁当飯を齧っていると、そこへ数十

と千篇一律の説諭である。県会議員の荒川や大塚が東京から駆けつけての説得である。然しそのことになると被害民たちはいい

警戒ぶりである。近傍の各分署から狩り出されたもの、東京から来援したものを加えて三百余の頭数だった。被害民たちは

先に帰郷していた同志たちが彼等をむかえ、東京の首尾をきくとともに、県会議員をしている毛野村の村長早川某

をこととした。またなかには家財を取りかたづけて東京へ出奔し、鉱業人古河の庇護を受けるものさえあった。

大挙請願の気配でもあると察したのか、宇都宮及び東京方面への順路を厳重に警戒しだした。三日の夜などは暴風

た結果でもあったのか、五月十一日にわかに東京から影山憲兵大尉が部下三十名と共に出張して、群馬県桐生町から茨城県境町

正造は東京に在ってそれを知ったが、沿岸の運動者がために畏縮すること

て、鉱業人古河に対する一大鉄槌となって現れた。東京鉱山監督局長南挺三の名で発せられた鉱毒予防命令がそれである

から、被害民一同へその書式を通知するとともに、東京から税務官吏が出張して取調べがあるはずだから被害民は何時どこで

津田氏の写真によりて其の実を見たるのみ。況んや東京の肉食紳士たちの偶※来り巡視するも、従来案内者の不注意は今更に

また江戸川の水勢と激突する。これが埼玉県を侵し、東京府下に達するのである。これらの隣県地の被害は、まだ人目を

日の払暁から、関東一帯が暴風雨に襲われた。東京市内でも紀ノ国坂をはじめ各所の並木が将棋倒しにうち倒され、

「このごろ東京に贋総代が出没しているということを聞きました。被害民の

。そんな奴等はどこまでも探索して、今後被害地も東京も、徘徊できんように懲らしめなければならん」

「被害民は二十九年に二度、本年もまた東京へ請願にくりだしてきた。かく度々あることは、大抵感じの鈍い政府

雲龍寺の事務所では、正月早々総代を東京へ送ることに決し、長谷川定次郎、岩崎佐十、木村勇吉、持斎茂吉、

ものがあるとすれば、それは禽獣にひとしい。軽薄な東京人種すらこれに感動するものが多くなった。この被害の境遇にある人

消え残っていた。その夜は佐野に一泊して、東京への第一信を書き送った。

回ずつ開廷されて、弁護人の多数はわざわざその度に東京から出張して、被告のために尽力した。こうして公判が五

、被告たちは全部日ならずして熊谷警察署を経て東京鍛冶橋監獄署へ護送された。

、双方から控訴の申立てをした。よって本件は直ちに東京控訴院の審理に移されることとなり、被告たちは全部日ならずし

浦和を避けて前橋へ裁判をもっていったのは、東京に近いと新聞がうるさいからである。正造もそんなふうに穿った観察を

をしていた。それで彼等もぜひとも事件を東京の裁判所へ移して、控訴で覆えす方針のもとに尽力していた。

も地に落ちていた。当時逓信大臣星亨は、東京市参事会に自ら籍をおいて、徒党を擁して市政を専断して

「去月来、東京諸新聞雑誌社等その他奔走せしにその結果は誠に上々。

やがて東京の控訴公判も近づく。予め彼等の反省と覚悟を促しておく必要が

はまだ病床で、僅か十日たらずの留守中に、東京では容易ならぬ離間策が講じられたことを知らされた。古河が

「内村氏と漸く十日間地方に出役往来する暇に、東京表有志間中非常に中傷せし事実は歴々発見するを得、右に

九月二十日、東京控訴院でようやく公判が開廷された。その結果、被告側の申請が

せるに付未だ急の策もなし。また来る二十二日より東京控訴院は開け、銭はなし手はなしで啻に老朽旧友の厄介に

中の乱筆也。御叱も被下間敷候。頓首。東京島田三郎宅にて――正造」

彼女たちはまた山口の部落でも、東京のどこの貧民窟でも見られないようなどん底の生活を目撃した。

では、どんなにかお困りでしょう。私どもと一緒に東京へ来なさらぬか、養老院というような処もあるし、こうして

一行の婦人たちが「子供のうち一人か二人、東京へ出す気はありませんか、教育してさきざき親の助けになるよう

杖に屈んだ腰をのばして、問われるままに身の上を東京弁を交えつつ語るのだった。「はい、七十八になります。五年

潮田がまた一緒に東京へ出ないかと誘ってみたが、

公判で、被告人一同は、本所の合宿から無拘束のまま東京控訴院刑事第四部公開法廷に出廷した。やがて裁判長から本件の審理

九州四国の遠き地に生れたる婦人すら、案内なくして東京より海老瀬に往来するもの毎日々々なり。我が下野男子も少しく期する処あれ

「伏テ惟ルニ、東京ノ北四十里ニシテ足尾銅山アリ、其採鉱製銅ノ際ニ生ズル所ノ

に世話致し可申候ように、話するの用あり。東京婦人方の慈善心の厚き、誠に誠に天の父天の母

と山口とには、なるべく毎日にもめぐりて、そろそろと東京婦人方の事やら、村内の難有人々の事やら、話しきかせ

この婦人会の運動から、一つの新しい運動が産れた。東京帝大をはじめ都下三十余校の学生が年末の休暇を利用して、大挙

日本橋

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た田中正造は、開院式のあった翌日の二十七日に、日本橋八重洲河岸の旅館みつよしで突然父の訃報に接した。そこで倉皇と

をあけ放した一室から正造の大きな声がもれてきた。日本橋八重洲河岸の正造の定宿、去る五月六日に開会された第三

品川

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に話題を移して、にぎやかな話し声になった。内務大臣品川弥二郎は前の山県内閣のときにも、解散を断行して御用党を

をさけるために去る三月当面の責任者である内務大臣の品川をやめさせて、枢密院副議長の副島種臣を入れることに代えた。閣内で

大久保

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十数年前に、西郷南洲が兵に斃れること、また大久保甲東が暴殺にあうことを予言したところが、それが間もなく

稲毛

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次郎、右岸の久野村から室田忠七、稲村忠蔵、同与市、稲毛教次郎、磯直吉、持斎茂吉、同一作、さらに上流の毛野村から岩崎

を久野村へかえて磯某の家、野島某の家、稲毛某の家、と順ぐりに勢込んでたずね歩いた。どこの家も申し合せた

大塚

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十一月二十七日、群馬県会では荒川高三郎、大塚源十郎、新井清兵衛、北山常吉、折原逸太郎の名で「速に之が救済

に努めた栃木県会議員関口忠太郎、群馬県会議員荒川高三郎、同大塚源十郎の奔走もなみなみでなかった。

をつれて大蔵省へ陳情に行った群馬県議荒川高三郎、大塚源十郎も帰って来た。そのほか予て出京していた村長連も数

決った。総代五十一名、これに群馬県会議員荒川高三郎、大塚源十郎、飯塚春太郎、栃木県会議員関口忠太郎、藤沢友次郎の五名が加わることに

なかった。三月十九日、関口忠太郎、山口善兵術、大塚源十郎、山田友次郎等が、正造の意をふくんで貴族院に谷干城を

ようにと千篇一律の説諭である。県会議員の荒川や大塚が東京から駆けつけての説得である。然しそのことになると被害民たち

銀座

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日比谷練兵場の白皚々たる眺めに被害地の荒野を偲びつつ銀座へでて、まず毎日新聞社それから読売、国民の各社を歴訪した。

日比谷

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議長選挙が終ると、その雪の中を俥の上から日比谷練兵場の白皚々たる眺めに被害地の荒野を偲びつつ銀座へでて、

見せて、寒さがひとしお身に沁む時刻であった。日比谷練兵場(今の公園)にどこからともなく一かたまりずつ黒い人影が集っ

。残りの者が相戒めて、今朝の未明を期して日比谷原頭に集合することを約し、警戒の目をのがれて散りぢりに入京した

で三々伍々と農商務省の構内に集ってきた。日比谷練兵場を追われた被害民たちはどこといって落ち着く先もなかった

境町

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鉱毒の及んでいることを知ったからである。その夜境町の利根川にのぞんだ関根屋に、八俣村長関根亀蔵らがいることを

内幸町

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議会に上程されようとするその前日にあたり、進歩党は内幸町の本部楼上に代議士総会をひらいて、予算案に対する態度を決定した。

翌朝、県会議員たちの宿所である内幸町の植木屋は、被害民たちの出入で混雑をきわめた。午後になって

上野

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家職某、津田仙、高橋秀臣の一行が午前五時に上野を発って富田駅に下車すると、駅前には関口忠太郎、村山半、蓼沼

ことを申し合せた。そこへ、不穏の報をきいて急遽上野を終列車で発って来た在京委員の数名が馳せつけた。彼等は

十月二十日、正造は上野館の一室で原田たけ子宛に次のように書き送った。

て急場の救済のことについて語り合った。かくて汽車が上野へ着くまでの間、婦人たちが相談に熱中している傍で、正造

市ヶ谷

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高橋たちは途中で津田と別れ、谷を市ヶ谷の屋敷へ送りこんで、門前からすぐ俥を引き返させた。無事に大役を

「帰りに市ヶ谷の屋敷にも寄ってきましたが、谷将軍も大隈伯とほぼ同

向島

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ばならぬことができてきました。農商務大臣の向島の別荘で菜が一本できなくなったらどうする。たちまち自分の頭に

「うん、もう引っ越しだよ。今度は向島の方へ遊びに来てくれたまえ」

所々々の警戒についたのである。千住、板橋、向島、曳舟、金町、中川橋、市川の渡等々を固めたほか、水上警察

千住

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むかって警戒の訓令を発した。下谷、浅草両署からは千住方面へ、小石川、本郷両署からは板橋方面へ、それぞれ数十名ずつを急派

の午後には四五カ所に分れて追々と南下し、それぞれ千住、板橋、王子を指して道を急いでいた。各地の警察署から次々

千住までくると、そこにはもう巡査二名が暗中に佇んで橋を守っ

の喘ぎを残してすれちがった。五人の憲兵である。千住まで退いて一行を阻もうとするものらしかった。やがて行手の朝靄の中に

重朝、同少尉桐生定政たちが相ついでやってきた。千住警察署長某が警部をつれて馳せつけた。すると、そうした物々しい気配

とり糺さねばならぬことである。負傷した者は千住の屯所まで同道してもらいたい」

その場を立ち去った。上京の形勢を必至と察して、千住へ馳せかえって大橋を固めようとする意向とうかがわれた。

その様子を見て、千住署長は急に佩剣の柄をにぎった。部下を呼び集めて倉皇とその場

してすぐさま要所々々の警戒についたのである。千住、板橋、向島、曳舟、金町、中川橋、市川の渡等々を固めた

やや軽微になった。帰京後、戸口茂里の忠告で、千住大橋の千葉という灸点家に診察をうけた。すると右肩が左肩より

浅草

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下の各署にむかって警戒の訓令を発した。下谷、浅草両署からは千住方面へ、小石川、本郷両署からは板橋方面へ、それぞれ数十

の方面から警戒網をくぐって上京した者たちは、浅草の丁字屋、馬喰町の梅沼、芝口の丸屋及び請願事務所信濃屋等を

者がために畏縮することを慮って心を痛めた。浅草で玩具の銃を見ると、なにを思ったかそれを五挺買いとって

大宮

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ていると、警部長や保安課長や、或は桶川、大宮、岩槻の各分署長が入れ代り立ち代りやってきて、明日は帰郷するよう

神田

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神田三崎町の川上座に開かれた。この日栗原が会場から神田警察署へ拘引された。

に起った。彼等は同志を鳩合して二十一日に神田青年会館に会し鉱毒調査有志会を組織した。当日参集した人々は

曳舟

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の警戒についたのである。千住、板橋、向島、曳舟、金町、中川橋、市川の渡等々を固めたほか、水上警察は小名木

麹町

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別れて帰った。すると果して四五日して、正造が麹町仲六番町の島田の家へ訪ねてきた。無論断然禁酒した

巡査二人が駈けつけて正造を抱き止めた。もみ合ううちに村島麹町署長も駈けてきて、三人でもだえる正造をついに取りおさえた。

は一二間さきに投げだされた。このとき早く、警護の麹町署の巡査二人が駈けつけて正造を抱き止めた。もみ合ううちに村島麹町署長

落着いた態度で住所氏名の尋問に答えた。ついで俥で麹町署へと護送された。

は差入れの弁当、差入れの毛布と騒ぎだした。左部が麹町署へ駆けつけた。言葉にこそださぬが、誰もみな正造の生還は

やがて正造の引致されたのは麹町警察署だという知らせがあった。越中屋では差入れの弁当、差入れの毛布

虎ノ門

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群が驚き騒ぐなかを、正造は警官にひかれて、ひとまず虎ノ門内の派出所へ伴われた。まず一椀の水をもらって呑みほし、それ

京橋

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明けて三十年の一月三日、正造は京橋八官町の宿から山田友次郎を伴って、未明の寒風に晒されながら上野駅へ

太夫、堀越寛介、藤田吉亨郎等に参集を乞うて、京橋の伊勢勘楼で打合せするところがあった。

に迫られてきたので、正造はその宿舎である京橋区八官町二六番地宮下英輔方の離れ座敷を借りて、鉱毒被害県下選出

て相談しようと強要されて、総代は一同を残して京橋警察署へ同行した。やがて、農商務省の庭にも夜靄がこめ

一段と威厳をつくった髯の男が説諭をはじめた。京橋警察署長の藤崎である。しかも彼等にとっては、今朝から聴きあきる

、藤沢友次郎の五名が加わることになった。夕方から京橋の開花亭で鉱毒質問提出者及び賛成者の会合が催されるはずで、正造

が揃ったところで各自の名刺を通じた。この日も京橋署の警官がものものしく警戒に来ていて、一同が玄関を入るとき一々

京橋の事務所では、正造が高橋の帰りを待ちかねて、越智周吉を相手