パラティーノ / 野上豊一郎
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と同種族だと認められている。その植民地域が謂わゆるエトルリアで、ローマはその最南端になっていた。最後にローマに現れたのは
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のと同じように咲いてるのを珍らしく見た。アカントゥスはポンペイでも見たが、特にパラティーノでそれを強く印象されたのは、コリントス
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すでに新石器時代の人種が生活していた。恐らくリビュアやマウレタニアの牧草地帯からイベリア半島を通って移住したもので、テベレ沿岸の樹林を
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である。古代ローマの最大の広場とはいっても、パラティーノ、カピトリーノ、ヴィミナーレ、エスクィリーノの四つの山の谷間に横たわる長さ六百米に
史的に考えると、ロムルスの種族はまずパラティーノの山の聚落を統一し、つづいて近隣の山々を併合したのである
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定住した。エトルスクスもしくはラゼナと呼ばれる民族で、もとはリュディアから出て、ペラスギと呼ばれるものと同種族だと認められている。その
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まだローマになじまないうちは、あまりに多く見るべき物があるので、どこへ行っ
な知識に作り上げることも怠ってはならない。それほど、ローマは見物の対象としては内容豊富で複雑だから、ローマについて思い出
は見物の対象としては内容豊富で複雑だから、ローマについて思い出を書いて見ようとしても、当時のノートをめくって見る
はないだろう。それがパラティーノの山の北の端で、ローマ民族の伝説的発祥の地として昔から神聖視され、また帝国時代
パラティーノは謂わゆるローマの七つの山――前記の四つの山の外に、クィリナーレ、ツェリオ
伝説ではロムルスは弟のレムスを殺してローマの創始者となったといわれてるが、今日の学説では、ロムルスという
しかし、その時初めてローマに人間が現れたのでないことはいうまでもない。テベレの流域には
だと認められている。その植民地域が謂わゆるエトルリアで、ローマはその最南端になっていた。最後にローマに現れたのは紀元前八世紀
エトルリアで、ローマはその最南端になっていた。最後にローマに現れたのは紀元前八世紀の中頃で、それまでは小さい部落が到る所の
しかし、タルクィニィ家はあと一代でつぶれ、ローマは新しい共和制で支配されることとなった。紀元前五〇九年で、その頃から
て帝政時代に入り、最初の皇帝アウグストゥス・ケーサルの治世はローマの黄金時代として謳歌された。ヴェルギリウス、ホラティウス、オヴィディウス等の詩人の
皇帝(ティベリウス、カリグラ、ネロ、等)も出たが、ローマの富強は大したもので、「すべての道はローマへ通じる」といわれた
が、ローマの富強は大したもので、「すべての道はローマへ通じる」といわれたように、ローマは世界の中心となり、ハドリアヌス(
すべての道はローマへ通じる」といわれたように、ローマは世界の中心となり、ハドリアヌス(十四代目の皇帝)の頃には Roma aeterna
そういった時代のローマの繁栄の中心地はパラティーノであったことを念頭に置いて、さて山の上
ティベリウスである。彼女はアウグストゥス在世の時は飛ぶ鳥も落すローマ皇帝の皇妃として隠然たる勢力を持っていたことは、アウグストゥスに追放
したりしたことは、すでに述べた如くであるが、ローマを焼いて喜んだネロには、こんな窮屈な山の広さは気に入ら
アカントゥスが大きな濃緑を拡げていた。二度目の時はローマでは到る所で見られる赤い芥子の花が風に吹かれてひらひらしてい
コリントスの彫刻家カリマコスの逸話を思い出したからだった。カリマコスはローマに来ていた。或る日、パラティーノの町(ローマ・クァドラタ)を歩いてる
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定住していた種族で、それが南下してクィリナーレ、ヴィミナーレ等の山に居住していた。その時、今のフォーロ・ロマーノの谷