七重文化の都市 / 野上豊一郎

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地名一覧

ロンドン

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或る都市に幾ら外国人が多く居住していても、例えばロンドンならイギリス人の町であり、パリならフランス人の町であり、ローマならイタリア人の町

オベリスク

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その他、古代王朝の最大の遺物なるピラミッド、スフィンクス、オベリスク等のすばらしさに至っては、今更いうまでもなく、到底中世のイズラム文化

コプト

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つつあった。カイロを初め、エジプトの各地に、今日もコプトのキリスト教が相当に信者を持っているのはその頃からの子孫だといわ

したり、哈利発の墓やマメリュクスの墓を見たり、コプトの教会へ行ったり、サラディンの城に上ったり、ローマ時代の城壁を横ぎったり

ペルシア

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即ち第二十七王朝から最後の第三十王朝の間へかけてペルシアの侵略があり、更に紀元前四世紀の前半にはアレクサンドロス大王に征服され、

アレクサンドリア

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したバビロン城砦の付近に陣営を張ったまま長駆してアレクサンドリアを攻略し、帰って来てその陣営の位置に新都市を経営した。それ

カイロ

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カイロの町は、東洋でもなければ西洋でもない謂わば東洋と西洋の奇妙

横断して、西洋の境域に入ろうとする者には、カイロは地理的にも文化史的にもまず見て置くべき都市である。

の自動車に積み込み、徹宵アラビアの沙漠を横断して、翌日カイロの町と博物館とギゼのピラミッドを見物させ、船がポート・サイドに入る

もらい、此の町に店を持ってる南部氏の世話で丁度カイロから来ていた通訳サイド・マブロウグを傭うことにして、午後早目にポート

傭うことにして、午後早目にポート・サイドを立ってカイロに向った。鉄路約一五〇マイル。

と思うと、その下に黄塵の如く拡がっているのがカイロの町であった。傾いた太陽の反射でそんな錯覚を起したのだろうが

の円屋根と尖塔のおびただしい聚落がある。サイドに聞くと、カイロにはモスクが大小四百ばかりあるそうだ。カイロが回教都市だということは

聞くと、カイロにはモスクが大小四百ばかりあるそうだ。カイロが回教都市だということは知っていたけれども、そんな盛んな回教的

を俯瞰して勇躍した心持を想像した。実際、カイロほど、しばしば外国人に侵略された都市はあまりないだろう。もしエジプトはエジプト人

、今のエジプトは侵略されたままのエジプトであり、カイロは侵略者の都市だから、エジプトは本来のエジプトでなく、カイロはまたエジプトの

は侵略者の都市だから、エジプトは本来のエジプトでなく、カイロはまたエジプトの首都ではないということになりそうだ。そんなことを考え

他にもヨーロッパ風のカジノやオペラはいろいろあるけれども、カイロではカイロらしい土俗を見たいと思った。カジノ・ベバは浅草か本所あたり

ヨーロッパ風のカジノやオペラはいろいろあるけれども、カイロではカイロらしい土俗を見たいと思った。カジノ・ベバは浅草か本所あたりのさかり場と

行くと、しかし、アラビア語でないと幅がきかない。カイロのバザーは、イスタンブルのバザー、ダマスクスのバザーと並んで世界の三つのバザー

カイロの町の旧い区域は街路が狭く、曲りくねっていて、家は二階の

カイロで見るべきものは何といってもエジプト古代博物館である。けれども、それ

ている遺跡ではない。古来の遺跡としては、カイロにはローマ時代以前の物は殆んど見られない。ローマ時代の物といって

の遺跡の上に建てられた中世の建物である。今日カイロの誇りとしてる建造物といえばすべて中世以後のモスクと墓と、及びサラディン

及びサラディンの築いた城砦である。文化史的にいえば、カイロの誇りとするものはすべて回教的なものでありアラビア的なものであって

けれども、カイロの発展の歴史を考えて見ると、必ずしもその範囲を今のカイロ市その

限定しなくてもよい理由がある。というのは、カイロは昔から何度も位置を替えて移動した都市であり、その移動の径路

、その移動の径路を跡づけて行くと、初めは今のカイロの南方約十二マイルのメムフィスの土地から発展したことが発見されるから。

土地から発展したことが発見されるから。そうしてカイロはメムフィスから発展した都市だとなると、少くとも当初は最もエジプト的に

は昔のアジアのバビロンよりも有名だったが、今もカイロの郊外にデイル・エル・バビロンの名が残っている。

た。それがエジプトに於ける最初のアラビア都市で、後のカイロは其処から発展したフスタトである。新しい宮殿やモスクが次々に建てられた

の勢力がエジプトを動かすようになった結果で、それがカイロの現状である。

そんな風にして、カイロは五千五百年間に複雑な変遷を経験したのであるが、それを大まかに

残し、次に(五)ギリシア系回教徒に依って今日のカイロの基礎が置かれ、名称もカヒラと改められ、次に近世に入って(

文化が七重に堆積して出来上った複雑怪奇な都市でカイロはあるということになる。

行く前と、帰ってからと、毎日時間を都合してカイロの町と郊外を見て歩いた。諸種の博物館(エジプト古代博物館・アラビア民族

その場合、いつも突きあたって解決に苦しんだ問題は、一体、カイロは(或いはエジプトは)誰の町であるか?(また誰の国である

であることに問題はないが、そういった意味で、カイロは何人の町だといったらよいのか? エジプト人の町だといえる

とかの上流地方の都市に居住する者が大部分で、カイロにもいるようだが、要するに小市民で、活力の範囲は制限されて

居り、その方面では正直で潔癖で使用者に喜ばれる。カイロのホテルや料理店には到る所に彼等が白の寛衣に赤帯を締めて

しかし、だからといって、カイロをイギリス人の町ともフランス人の町ともいうことはできない。カイロは何と

イギリス人の町ともフランス人の町ともいうことはできない。カイロは何といっても上に述べた十または九つの人種(フェラヒンだけ

だからカイロの第二文化以下は約千九百年間に六つの文化が交替したわけで

カイロの誇りとする約四百のモスクのうち約二十は時代の古さ(九世紀

その結果として、カイロは今見るが如きイズラムの町と化し、円屋根と尖塔を持った輪奐の

非常に技術のすぐれた彫像である。此の巨像は今にカイロに運ばれてラメセス広場に立てられる計画があるというが、その時は恐らく

広場に立てられる計画があるというが、その時は恐らくカイロにあるすべての物を圧倒するほどに異彩を放つであろう。

ローマ

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は古代エジプトの王統はすでに絶え、ギリシア統治時代も過ぎ去り、ローマの支配の下に、初期キリスト教は迫害に抗しながら根強い力で弘まりつつあった

とされていた。けれども同時に火星は軍神(ローマのマルス)でもあり、勝利者を意味するということに故事つけて、カヒラ

ならイギリス人の町であり、パリならフランス人の町であり、ローマならイタリア人の町であり、ベルリンならドイツ人の町であることに問題はないが

の興亡にも触れているが、その意識の中にはローマがギリシア文化の炬火を受け継いだことが思い浮かべられていたのだろう。しかし、

石の円柱を盗んで来たことは事実である。丁度ローマでキリスト教の寺院を建てた時、古典時代の殿堂を大っぴらに利用したと

タニス

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ためにテバイから三角州に都を移した。それは今のタニス付近といわれるが、メムフィスにも大きな殿堂が建てられた。その殿堂の前

スエズ地峡

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、例の観光団には加入しない、ポート・サイドまでスエズ地峡を船で通った。

パリ

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していても、例えばロンドンならイギリス人の町であり、パリならフランス人の町であり、ローマならイタリア人の町であり、ベルリンならドイツ人の町

イスマイリア

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汽車はイスマイリアまでは地峡の西岸を、船で通ったと反対に南へ走り、それから

ヌビア

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あるが、(一〇)スーダン人もそうである。スーダンはヌビアよりも更に上流の山地で、其処から昔奴隷としてエジプトに売られた

本所

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らしい土俗を見たいと思った。カジノ・ベバは浅草か本所あたりのさかり場といったような感じのする区域にあって、あまり広くもない

ベルリン

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ならフランス人の町であり、ローマならイタリア人の町であり、ベルリンならドイツ人の町であることに問題はないが、そういった意味で、カイロ

奈良

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華麗の殿堂の遺物を見たならば、それこそ日光から奈良へ行ったような感じがするに相違ない。古代王朝の遺物は、大きさ

浅草

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はカイロらしい土俗を見たいと思った。カジノ・ベバは浅草か本所あたりのさかり場といったような感じのする区域にあって、あまり