大戦脱出記 / 野上豊一郎

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地名一覧

スコットランド

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パリで落ち合つて、一緒にもう一度イギリスへ行き、スコットランドを旅行しようと約束してあつた。その旅行にはベルリンにゐる谷口君も

オルレアン

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度ボルドーを通つた經驗があるので、いつもの如く、オルレアンからトゥールに出てポアティエを通るものとばかり思つてゐた。ところがさうで

ベルゲン

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ないわけには行かなかつた。(靖國丸はノールウェイのベルゲンに待機してゐたが、そのままイギリスの北を※つて歸途についた

イルン

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イルンの町はアンダイエの村(フランスの西南端の村)と川をさし挾んで、

ハムステッド

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戰爭氣分を滿喫するに十分だつた。ロンドンではもとのハムステッドの宿に歸つた。家政婦のミシズ・ハントはよく歸つて來たといつて、

ベルン

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はあつたけれども、その晩の私たちにとつては、ベルンで泊まつたホテル・ベルヴュウの豪華な寢室よりもありがたいものに思へた。實

ロンドン

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たりした所があるとは聞かないといふ。パリからロンドンへ歸ることについて聞いて見ると、英國へ入るには査證がいる

しかし、戰爭が始まるとロンドンとパリには一番に爆彈の雨が降るだらうと一般に信じられてゐ

へは三十箇師團の兵力が送られてゐる。パリ、ロンドンとワルサウ間の通信は斷えてしまつた。等、等……

ことにしようかと話し合つた。私たちの荷物はパリとロンドンに分けて預けてあつた。戰爭になつて交通が混亂状態に陷れば

たと聞いてゐた。私は昨年の冬、ローマからロンドンへ行く途中、パリをおとづれて官舍に杉村氏を見舞つた時の

私たちとしては、このままパリで待機するか、ロンドンまで引き揚げるか、それが問題だつた。形勢がまだ停滯するものとすれば

。形勢がまだ停滯するものとすれば、その間にロンドンまで歸れない筈はない。ロンドンには用事も待つて居り、荷物も待つて

とすれば、その間にロンドンまで歸れない筈はない。ロンドンには用事も待つて居り、荷物も待つて居る。もしロンドンで戰爭になつ

には用事も待つて居り、荷物も待つて居る。もしロンドンで戰爭になつたらアメリカの船でアメリカへ渡るといふ方法もあるだらう。

た。その理由は、もし明日にも戰爭が始まつたら、ロンドンは二三時間うちに空襲を受けるだらう。パリには最初に空襲があると

があるとは考へられない。ドイツとしては、まづロンドンをやつつけて置いてからパリをば威嚇するつもりらしい。だから、今となつ

の人たちと同伴で、これからパリへ行き、自分だけロンドンへ※つて公使事務の引繼をして、もう一度リスボアに歸つて、日本

、日本へ立つのだといつてゐた。それで今ロンドンからの歸りにパリに立ち寄り、これから家族の人たちをボルドーの附近へ送りとどけ

今朝になると急激に形勢が惡化したので、ロンドンへ歸ることは思ひ止まつてもらひたい、といふ。今一人のM君

ソーセージと呼んでるさうだ。形が似てるからだ。(ロンドンの空もおびただしい阻塞氣球の城壁が築かれたといふ。)

ロンドンでは四日の未明に最初のサイレンが市民の夢を驚かしたといふこと

してるのか?マルセーユの領事館はどうしたのか?ロンドンのN・Y・K支店は何をしてるのか?と、そんな聲が

私たちは風呂敷に包んでそれを持ち歩くことにした。とうとうロンドンまでそれを持ち込んだ。といふのは、丁度よい機會だから私たちはリヴァプール

からあまり遠くない湖水地方へ泊りがけで見物に出かけ、其處からロンドンへは歸つたのであつた。私たちはロンドン居住者といふことになつてゐ

ロンドンへの途中、マンチェスターもバーミンガムも空には夥しい阻塞氣球の城壁ができてゐ

夥しい阻塞氣球の城壁ができてゐて物物しかつたが、ロンドンに入ると更に夥しい氣球で、それだけでも戰爭氣分を滿喫するに十分だつ

、それだけでも戰爭氣分を滿喫するに十分だつた。ロンドンではもとのハムステッドの宿に歸つた。家政婦のミシズ・ハントはよく歸つて

ロンドンの四日間は忙しかつた。大使館に用事もあれば、世話になつた人

君に逢つたり、その他、戰爭のために變貌してるロンドンの町町を見て歩いたりして、感慨の深いものがあつたが、

丸はニュー・ヨークに向つて出帆するので、その朝ロンドンにさよならをした。ロンドン在住者の家族で日本に歸る人の若干も同行する

リヴァプール

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た。それでも、いろんな根據から推定して、多分リヴァプールに寄港するのだらうと考へられた。けれども、それから先ははつきり

ば全部フランスに滯在してゐた人たちなので、リヴァプールなどには寄らないで此のままスエズの方へなり、パナマの方へなり行つ

やつと二十一日になつて、明日正午リヴァプールに向け出帆の豫定といふ掲示が貼り出された。その時までまだ航路は

知り、中には、まだイギリスを知らなかつた者はリヴァプールでもどこでもイギリスの一角に觸れることを樂しみにしてる人も

セント・ヂョーヂ海峽に入り、二十八日の明け方、やつとリヴァプールに着いた。

リヴァプールに着くと、對岸のバークンヘッドの岡の上の住宅地の景觀が、私

リヴァプールの町も見物したが、博物館は閉鎖されてあり、ほかに大して見る

マスクの袋を肩から斜に懸けてゐた。私たちもリヴァプールに上陸すると、警官に一箇づつガス・マスクの箱を與へられた。

だ。といふのは、丁度よい機會だから私たちはリヴァプールからあまり遠くない湖水地方へ泊りがけで見物に出かけ、其處からロンドンへは歸つた

リヴァプールからニュー・ヨークまで三一三一浬、クィーン・メァリ級の船だつたら五日目に

ブルターニュ

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間停船してゐたさうだ。それから海に出てブルターニュの海岸を通つてゐると、どこかの(多分フランスの)驅逐艦に

グラナダ

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は樂しみにしてゐたマドリィもトレドーも、セヴィーヤもグラナダもまだ見てないのだつた。)それに息子に逢ふためなら、パリ

バスク

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であるが、それでもイルンの川を通り越すと、同じバスクの地域でありながら、國境一つでかうも變るものかと思はれる

バイヨンヌ

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・ヂャン・ド・リュズもビアリッツも左の方に眺め、バイヨンヌの町を通り過ぎると、町はづれの木立に取り圍まれた草原の上

ペセタ

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日佛銀行ではエスパーニャから持ち歸つたペセタをフランに換へてもらはうとしたが、もう取引は中止さ

バーミンガム

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ロンドンへの途中、マンチェスターもバーミンガムも空には夥しい阻塞氣球の城壁ができてゐて物物しかつたが、ロンドン

ローマ

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、バレンシア、エブロー、ヴィットリアなどの旅から歸つて見ると、ローマの素一から手紙がとどいてゐて、中歐の情勢が險惡だからスコットランド行

今後の形勢は決定するだらうとあつた。その頃、ローマではさう見てゐたのだらう。……

てゐたと聞いてゐた。私は昨年の冬、ローマからロンドンへ行く途中、パリをおとづれて官舍に杉村氏を見舞つた

かかはらないわけには行かなかつた。私たちの息子がローマの居住者となつてるからである。普通ならば、今夜か明朝あたりパリで逢へ

かつた。もう通信が杜絶してゐるらしい。それに、ローマでは、パリはすでに危險視されてるのかも知れない。

東京市

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、見はぐれるのはをかしいやうだけれども。大震災の時、東京市内の到る所で起つた似たやうな事件が思ひ起された。暗さも混

ベルリン

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スコットランドを旅行しようと約束してあつた。その旅行にはベルリンにゐる谷口君も加はる筈だつた。しかし、それが實行できるだらうか

始まらないだらうといふ氣もした。英國大使ヘンダーソン氏がベルリンでしきりに活動してるのが、さういつた一種の安心を世間に與へて

サン・セバスティアン

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その日(二十八日)の午後一時、私たちはサン・セバスティアンを出て、四時半にブルゴスを通り、一望涯もない赤土の曠野を横

ガダラマ山脈の東の肩を越し、夜マドリィに着いた。サン・セバスティアンからブルゴスまで二四〇キロ、ブルゴスからマドリィまで二四〇キロ、合計四八〇キロ。その間、

・デ・リサラガの壯大な景觀を賞翫して、夕方サン・セバスティアンに歸つた。

セーヌ

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に出た時はパリは美しい平和の都であつた。セーヌの河岸にはもうプラターヌの葉が黄いろくなりかけて、ノートル・ダームの下にはいつも

カイロ

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私にテバイで見たツタンカーメンの小さい墓穴を思ひ出させた。カイロの博物館に陳列されてある彼の遺物の夥しい什物は全部テバイの王の

ナポリ

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かわからない。イタリアが戰爭に參加しなければ、ヂェノアかナポリからアメリカへ渡るといふ方法もあるだらうが、イタリアが中立を守るかどう

には、これからマルセーユに出てイタリアに入り、ヂェノアかナポリから船に乘らうといつてる人もあつた。その人は、フランスに着いた

此の船は大角大將・寺内大將などを乘せてナポリまで來ると、戰爭が始まり、それからマルセーユまで來ると、マルセーユで日本に歸る

パリ

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一 パリとの通話

う。私たちはローマ大學で教へてゐる長男と月末にはパリで落ち合つて、一緒にもう一度イギリスへ行き、スコットランドを旅行しようと約束

行はできるかどうかわからなくなつたが、とにかく月末にパリまでは行くつもりだとあつた。それはドイツとソヴィエトの不可侵條約發表前に

いづれにしても、私たちとしては、月末にはパリまで引き揚げるつもりで出かけて來たのだが、それ以前に引き揚げる必要はなからうか

それをはつきり見極めて置きたかつた。それにはパリの大使館へ電話をかけて聞いて見るのが一番よいと思つたが、不自由

氏に勸められたことがあつたが、その日はパリの聲を早く聞きたいので歸り道にでも寄つて見ようと思ひ、その

やうな貝と小えびの茄でたのを注文して、パリへ電話をかけてくれないかと頼んだ。長距離は警察の許可がいること

ぢきにパリの大使館に通じた。日曜日で、もしやと思つた通り、私の知つ

それからパリの市中の樣子を聞いて見ると、パリは今のところ冷靜で平常と

それからパリの市中の樣子を聞いて見ると、パリは今のところ冷靜で平常と變つたことはないといふ。ホテルのことを

閉ぢたりした所があるとは聞かないといふ。パリからロンドンへ歸ることについて聞いて見ると、英國へ入るには査證

英國へ入るには査證がいることになつたが、パリではそれを取るのが厄介だから、エスパーニャで取つて來た方がよい

しかし、戰爭が始まるとロンドンとパリには一番に爆彈の雨が降るだらうと一般に信じられてゐた。

バーのラディオにパリからのニューズがはひつて來た。アルマーニュ(ドイツ)の動員のことが放送

國境へは三十箇師團の兵力が送られてゐる。パリ、ロンドンとワルサウ間の通信は斷えてしまつた。等、等……

電話口で聞いたパリの聲には私はそれほど戰爭の實感を感じなかつたが、此の二人

中にもひろがつた。私たちは豫定より少し早めにパリまで引き揚げることにしようかと話し合つた。私たちの荷物はパリとロンドンに分け

まで引き揚げることにしようかと話し合つた。私たちの荷物はパリとロンドンに分けて預けてあつた。戰爭になつて交通が混亂状態に陷

ないのだつた。)それに息子に逢ふためなら、パリまで歸る必要はない。息子を此處へ呼んで一緒に見物につれて行つ

私たちは翌日パリへ立つことに決心した。その晩はよく眠れなかつた。

森の中で、今ごろは混雜してるかも知れないパリの空がいかにも遠く感じられた。

停車場でパリへ電報を打たうとしたが、郵便局に行かなければ打てないといふの

た。私は昨年の冬、ローマからロンドンへ行く途中、パリをおとづれて官舍に杉村氏を見舞つた時のことを思ひ出した。

白い煙が高く立ち昇つてゐた。郵便局に行くと、パリ宛の電報は(フランス人でも)警察の證明を持つて來たいと打て

と共に遙かの後の方へ後じさりして、行手のパリの空のみがしきりに氣になりだした。

半月前に出た時はパリは美しい平和の都であつた。セーヌの河岸にはもうプラターヌの葉が黄いろく

のことのやうに思へる。それにしても、今日あたりパリはどんな風だらう?……

ダックスの停車場で買つたパリの新聞を彌生子はひろげて見てゐたが、それをのぞいて見ると、

汽車は正午ごろボルドーを通り、夕方七時過パリに入つた。

私たちとしては、このままパリで待機するか、ロンドンまで引き揚げるか、それが問題だつた。形勢がまだ停

始まつたら、ロンドンは二三時間うちに空襲を受けるだらう。パリには最初に空襲があるとは考へられない。ドイツとしては、まづ

ドイツとしては、まづロンドンをやつつけて置いてからパリをば威嚇するつもりらしい。だから、今となつてはあまり冒險をしないで

た。理窟ではなく、氣持であつた。M君はパリに長くゐてさういつた方面の接觸も多いのだから、その忠言に

となつてるからである。普通ならば、今夜か明朝あたりパリで逢へる筈だつたのだが、彼からは手紙も電報もとどいてな

通信が杜絶してゐるらしい。それに、ローマでは、パリはすでに危險視されてるのかも知れない。

はそんな報道はまだ傳はつてなかつた。久しぶりで見るパリの朝の空は、エスパーニャほどではないが、それでもまことに明るく美しく

それにしても、このパリの町の靜けさはどうしたものだらう? 誰を見ても、

た。その時は家族の人たちと同伴で、これからパリへ行き、自分だけロンドンへ※つて公使事務の引繼をして、もう一度

だといつてゐた。それで今ロンドンからの歸りにパリに立ち寄り、これから家族の人たちをボルドーの附近へ送りとどけて、自分だけ一人

つて、コンコールドの廣場からシャンゼリゼーの大通を通りながら、これがパリの見納めかと思ふと、少年のやうな氣持で何もかも名殘惜しく

するやうな心がまへが私にあつた。その下にパリは靜かに横たはつてゐた。どこを見ても靜かであつ

てる軍隊の輸送で列車は不通になる箇所が多く、早くパリを離れないと、六日までボルドーへ行けるかどうかわからないといふやうな

入れることも容易でないとの話だつた。しかし、パリに居る多くの人はこれから田舍へ逃げ出したり、外國へ行つたりすると

いつものパリジアン・パリジエンヌの明るい朗らかな表惰ではない。パリはもう笑顏を失つたのだ。さう思ふと、いたましい氣持なしでは見

もほの白く光つて見えるので、空から見たらすぐパリの在りかは知れるだらうと思はれた。

パリの町はシンと靜まりかへつてゐた。いつも眞夜中にも聞こえるモン・

開戰第一日のパリの夜は靜かに明けはなれた。空襲の不安を人人に感じさせた

昨夜の暗さがうそのやうに思はれた。それほどパリの昧爽の空は明るく、晴れがましく、なごやかだつた。私たちの部屋とむかひ

聞こえる往來の物賣の聲もきこえなかつた。實はパリの最後の朝食を、いつものカフェのテラスに腰かけて、あのうまい珈琲とクロワサン

た。その間に一聯の軍用列車が非常な速度でパリの方へ駈け過ぎた。十分もたつたかと思ふ頃、また次の軍用

いつた。それは私を困惑させた。私は今朝パリの宿を出て以來、一物も咽喉を通して居らず、それに、がら

線を通るにしても、全フランスの軍用列車は皆パリに向つて集まりつつあるのだから、延着しないといふことは考へられない

たやうなつもりで通り過ぎた。ところが、戰爭は私たちをパリから追ひ立て、またボルドーへ運んでしまつた。よくよくボルドーに因縁が結ばれ

ては、またボルドーへ移つて來るだらうといふ説もある。パリの南東約六五〇キロに位置する此の町は、ドイツの飛行機に容易に見舞はれる

、殊にガンベッタ廣場からグラン・テアトルへかけての大通などはパリの殷賑を持つて來たかと思へるほどの人通りが見られた。尤も、その

ができた。殊に何よりもフランスの心臟ともいふべきパリの市民の鼓動は、私たちの後から毎日次次にボルドーへ避難して來る

四日にパリを出た人の話。――

パリの空は無數の阻塞氣球で防護されてゐる。パリジャンはそれをソーセージと

になつた。眞夜中に見ると、美しい星空の下にパリは廢墟のやうに横たはつてるのが凄いやうだといふ。

最終の避難列車は六日にパリを出る。それに乘りおくれるとボルドーへの交通は杜絶するかも知れない。

五日にパリを出た人の話。――

六日にパリを出た人の話。――

此の日も朝の三時過にアレルトがパリの空に鳴り響いた。また豫行演習だつたのだらうといふと、高射砲の音

今一人の人は、パリの大學都市の附近に爆彈が落ちたといふ話を持つて來た。君

九日にパリを出た人の話。――

パリに殘留する外人は改めて殘留の理由を警察に屆け出なければならぬこと

て甚だ穩やかでない言葉を使ひ、此の非常時にパリで學問をしようと思ふなどは心得ちがひだ。殘留するのなら義勇軍に志願しろ

それから、パリでは諸般の取締が日に日にやかましくなり、アレルトの鳴つてる間、

たといふ知らせがあつた。翌日逢ふと、作品は全部パリに殘して、汽車に乘れないので大枚四千フランを奮發してハイヤで

柳澤健氏の家族の人たちにも逢つた。一日にパリで別れて以來、鹿島丸の來るのを待つ間、ロワイヤンに一まづ落ちついた

パリでしばしば逢つてゐた若い留學生諸君もボルドーに集まつた。その中で

K君は苦心して集めた大事な書物全部と論文をパリに殘して來たのが氣がかりで、まだ鹿島丸の入港しない内

着いた翌日また引き返し、六日目に戻つて來た。パリは幾らか平靜に返つたといつてゐた。

て祝つてくれる人もなかつた。その日、私たちがパリの大使館に保管を頼んであつた殘りの荷物が、幸ひにもパリの

保管を頼んであつた殘りの荷物が、幸ひにもパリのM君の好意で送り屆けられた。

喜んだ。エスパーニャで世話になつた矢野公使が、車でパリからの歸途、昨夜遲くボルドーに入つたのだけれども、ホテルがどこも

矢野公使の案内で)見物し、再び船に戻つて、パリの大使館から出張して來た事務官T氏、觀光局のY氏、マルセーユ

運ばれて行くのである。その中には私たちが以前パリで知つてゐて、もう日本へ歸りついてるのかと思つてゐた

わからないので、不安と不滿が充滿した。パリを出る時は乘せてもらふことが一つの感謝であつた者まで

ニース

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を建ててから急速に發展し、今では地中海沿岸のニースと竝んでフランスの代表的な美しい海水浴場である。地勢に起伏が多いのが特長

ボルドー

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て、ブルゴスに出て、もう一度ブルゴスを見直し、エスパーニャのボルドーといはれるログローニョからエステヤを通り、アルトー・デ・リサラガの壯大な景觀を

といふ感懷が強かつた。公使は途中まで――ボルドーか、せめてダックスまで――見送つてやるといつて、車の用意がし

つかり、それを左へ折れて北へまつすぐに走れば、ボルドーに達する近道だつた。ボルドーまでそこから約二〇〇キロ、右も左も赤松

北へまつすぐに走れば、ボルドーに達する近道だつた。ボルドーまでそこから約二〇〇キロ、右も左も赤松の森林がつづいて、氣持の

よいドライヴ・ウェイだつた。私たちはエスパーニャへ行つた時、ボルドーで汽車を捨てて、途中で日は暮れたけれども、夕月のおぼろな中

になつた。車はスピードが出せなくなつたので、ボルドーまで行つて急行に乘り後れてはつまらないから、近くのダックスで別れようといふ

汽車は正午ごろボルドーを通り、夕方七時過パリに入つた。

からの歸りにパリに立ち寄り、これから家族の人たちをボルドーの附近へ送りとどけて、自分だけ一人でポルトガルへ歸らうとしてゐるところだ

聞いたので待つてゐた、といふことだつた。ボルドーへは近いうちに郵船鹿島丸が入つて來ることになるさうで、フランス在留

丸は明日か明後日あたりマルセーユに着く豫定で、それをボルドーへ※航させるまでに、ヂブラルターさへ順調に通過ができれば、五日間と

交通機關の混亂に陷らないうちに、一日も早くボルドーへ行つて、そこで船の入るのを待つてもらひたい。その船を

を頼むことを思ひ出したので、(柳澤氏は車でボルドーからエスパーニャを横斷してリスボアへ歸ると聞いたので、)ちよつと中座し

私たちは明日にもボルドーへ落ちようといふことにきめた。つい昨日エスパーニャから歸つて來たばかりの道

の汽車で正金銀行の行員の家族の一行二十七人がボルドーへ立つので、座席劵を取つたが、一人分餘分があるから、

なる箇所が多く、早くパリを離れないと、六日までボルドーへ行けるかどうかわからないといふやうなことをいふ者もあつた。それ

夕方、彌生子はボルドーへ持つて行く荷物の中にぜひ入れて行きたいものが、M君に(

になつて話し込んでゐた。彌生子は明日は確實にボルドーへ行けることになつてゐるが、私の方はどうなるか全然わからなかつ

私たちは明日ボルドーに立つから(私自身はまだ汽車に乘れるかどうかわからなかつたが)、

から、あと一二日かかるだらうといふことだつた。それでボルドーでの再曾を約して別れた。

して來てゐた。それを赤帽に持たせて、ボルドーまでの切符を買はせようと試みた。

ても、明日か明後日のうちには何とかしてボルドーまで行けるだらう、と考へてゐた。それが、偶然にも私の方

は私たちの列車の進行の經路を知らなかつた。ボルドーを通過してエスパーニャの國境まで行くことは知つてゐたけれども、

の國境まで行くことは知つてゐたけれども、ボルドーまでどの線路を通るのだか確かめてなかつた。確かめる暇さへなかつたこと

も知つてゐられる通りである。私はすでに二度ボルドーを通つた經驗があるので、いつもの如く、オルレアンからトゥールに出てポアティエ

――ボルドーには何時に着くでせう?

――ボルドーは十時になるかも知れませんよ。

やつとボルドーに辿りついたのだ。ボルドーにあんな火が燃えてることを私は前に二

てしまつた。川はガロンヌで、その橋を渡ればボルドーの町だといふことを私は知つてゐたが、列車は地獄の

ボルドーのサン・ヂャン停車場のプラットフォームは、階段を下りて、地下道を通つて

食物は私同樣一つも取ることができなかつた。ボルドーに着いたのは一時間ほど前だつたが、プラットフォームから改札口に出るまで

たつて見たが、どこも皆滿員だつた。ボルドーの中心はガンベッタ廣場の附近だと聞いてゐたので、その邊を搜

たが、どこも皆滿員だつた。(その頃ボルドーには約一萬人の外國避難者が流れ込んでゐた。)その次には

、白い角のやうに窓の正面に竝んでゐた。ボルドーのカテドラル(サンタンドレ)だ。二十三日前に私たちがエスパーニャへ行く途中、見物

九 ボルドー膠着

私の同郷の先輩O氏が若い頃水産技師としてボルドーに留學し、歸つてからその地方に關するいろいろの土産話を聞いた記憶が

關するいろいろの土産話を聞いた記憶があるので、それ以來ボルドーは一種の親しみを以つて考へられはしたが、今度の限られた旅行

たが、今度の限られた旅行の日程に於いて、ボルドーに多くの時間と勞力を費すくらゐなら、まだ見殘した土地で見たい

不思議なもので、別に見たいとも思つてなかつたボルドーを飽きるほど見ることになつた。

エスパーニャへ行く途中、ボルドーで汽車を棄てて、町のおもな建物を一瞥して歩いた時、ボルドーは

棄てて、町のおもな建物を一瞥して歩いた時、ボルドーはこれでおほよそながら卒業したことにして置かうと考へた。エスパーニャから

た。ところが、戰爭は私たちをパリから追ひ立て、またボルドーへ運んでしまつた。よくよくボルドーに因縁が結ばれてゐたものと見える

パリから追ひ立て、またボルドーへ運んでしまつた。よくよくボルドーに因縁が結ばれてゐたものと見える。先にいいかげんに速習し

ゐたものと見える。先にいいかげんに速習したボルドーの知識が今度は正確な知識になつた。何となれば、私たちは鹿島

それは實に退屈な長い逗留だつたが、その間、ボルドーを研究するより外にすることとてはなかつたのであるから。それで、

てはなかつたのであるから。それで、もし他日私のボルドーの知識が何かの役に立つことがあるとしたら、私は今度の

しかし、ボルドーのことよりも私たちはやつぱり戰爭の動向が知りたかつた。けれども、

はやつぱり戰爭の動向が知りたかつた。けれども、ボルドーでは戰線があまりにも遠く離れてゐるので、さう思ふともどかしくなる

あつた。此の前の大戰の時も、フランス政府はボルドーへ移つた。今度も局面の變轉によつては、またボルドーへ移つて來る

へ移つた。今度も局面の變轉によつては、またボルドーへ移つて來るだらうといふ説もある。パリの南東約六五〇キロに位置する

だから、ボルドーでは戰爭は殆んど實感することができなかつた。戰爭について知り得る

るが、要領がよすぎてつまらないことおびただしかつた。ボルドーで手に入る唯一のおもしろい新聞といへば『デイリ・メイル』くらゐなもので

パリの市民の鼓動は、私たちの後から毎日次次にボルドーへ避難して來る人たちによつて傳へられた。それは決して戰爭その物

避難列車は六日にパリを出る。それに乘りおくれるとボルドーへの交通は杜絶するかも知れない。と、これは日本人間の噂だ

れてゐたが、すでに開かれてるといふことだ。ボルドーに避難してる人の中には、これからマルセーユに出てイタリアに入り、

を課するといふ達示も出たといふ。ガス・マスクはボルドーの市街でもたいがいの人は持つて歩いてゐる。しかし、船を待つてる

のに、どうしてかうも後れるのだらう、と、ボルドーで待ちあぐんでゐた百數十人の日本人は誰しも不審を懷かない者はなかつ

差押へられたのである。それを荷揚するために、ボルドーの港から八キロ(町からは十三キロ)の下流なるバッサン・アヴァルの岸壁

ボルドーに着いた翌日、私たちはプラース・デ・グラン・ドムの附近のホテルに落ちつく

組んでるものと思ひ込んで立退を命ぜられたので、ボルドーへ來たのだといふ。(柳澤氏はボルドーから汽車でポルトガルへ行つた

パリでしばしば逢つてゐた若い留學生諸君もボルドーに集まつた。その中でK君は苦心して集めた大事な書物全部

た矢野公使が、車でパリからの歸途、昨夜遲くボルドーに入つたのだけれども、ホテルがどこもいつぱいで車の中で夜を

に預り、今度は船長を誘つて船を出て、またボルドーの町へ引つ返し、サン・ミシェルの寺と、塔と、塔の下

一所になり、夕食後歡談に夜を更かし、十一時頃ボルドーの町へ歸つて來る途中、星月夜の街上に夥しい歩兵部隊の出征する所に

その他はすべてボルドーから乘つた人たちであるが、私たちの外二三名を除けば全部フランスに

附近の葡萄畠を見に行つたり、タクシをつかまへてボルドーの町へ用たしに出かけたりした。みんなくさつてしまつて、つまらなさう

船に乘り込んでから十日目、ボルドーに着いてから二十四日目に、とにかく鹿島丸は「ホテル」から「船」

空には阻塞氣球がふわふわ浮かんでゐて、しばらくボルドーでのんきに暮らして忘れがちになつてゐた戰爭氣分がまたよみがへつ

ブルゴス

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二十四日に、ブルゴス、バレンシア、エブロー、ヴィットリアなどの旅から歸つて見ると、ローマの素一から手紙

午後一時、私たちはサン・セバスティアンを出て、四時半にブルゴスを通り、一望涯もない赤土の曠野を横斷して、日歿にガダラマ山脈の

の肩を越し、夜マドリィに着いた。サン・セバスティアンからブルゴスまで二四〇キロ、ブルゴスからマドリィまで二四〇キロ、合計四八〇キロ。その間、内亂の

夜マドリィに着いた。サン・セバスティアンからブルゴスまで二四〇キロ、ブルゴスからマドリィまで二四〇キロ、合計四八〇キロ。その間、内亂の戰跡を見たり

その翌日(三十日)はヴァヤドリィを見物して、ブルゴスに出て、もう一度ブルゴスを見直し、エスパーニャのボルドーといはれるログローニョからエステヤを通り、

)はヴァヤドリィを見物して、ブルゴスに出て、もう一度ブルゴスを見直し、エスパーニャのボルドーといはれるログローニョからエステヤを通り、アルトー・デ・リサラガ

つた。マドリィでも、トレドーでも、ヴァヤドリィでも、ブルゴスでも、新聞は出るごとに買つて目を通すことを怠らなかつた。

東京

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柳澤氏とは東京での再會を約束して別れ、私はM君としばらく話したが

、見はぐれるのはをかしいやうだけれども。大震災の時、東京市内の到る所で起つた似たやうな事件が思ひ起された。暗さ