力餅 / 島崎藤村
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かどに石があります。その石が、これより南、甲州街道と旅人に教えています。
のは、かえで、かば、なら、うるしの類です。甲州街道はそのかげにあるのです。しんぼうのいい越後の商人は昔からそこを往復し
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立つ時がもう一度来たのです。ちょうどわたしは、東京湯島のほうにいて、郷里から上京した母とともに小さな家を借りて
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の間に先生がいろいろやってみたことは、それから江戸に出てもっと大きな舞台へ乗り出して行った時の役に立ちました。病院
江戸に召しかえされてからの先生は昇平校という名高い学校の頭取を命ぜられ、
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佐久あたりでは、ほかの地方ともちがって、夕方のあいさつに「こんばんは」と
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ともなったし、針商ともなったしそれから横浜へ行きました。そのすこし前ですけれど、電池製造の助手ともなりました
そのころ、横浜から上総行きの船が出ました。荷物を積んで横浜と富津の間を
横浜から上総行きの船が出ました。荷物を積んで横浜と富津の間を往復する便船でしたが、船頭に頼めばわずか十銭の
わたしは横浜のある橋のたもとからこの船に乗りましたが、ちょうどお天気都合はよし
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は、そのくつ屋さんの時代からですが、それからも岩代の国黒森というところの鉱山の監督になり、次に株式所の仲買番頭
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東北の人はなかなかお国じまんですから、何よりもまず松島を見せたいと布施さんが言いまして、学校のお休みの日にわたしを
のついた着物を着ているのが目につきます。松島はそういうところです。ここには「ばばが鉦打つ念仏島」という名
瑞巌寺は東北地方に名高い、松島にある古い大きな寺で、そこに安置してある伊達政宗の木像も世に
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ところです。お天気のいい日には遠くかすかに近江の伊吹山まで見えるといいます。わたしはあの恵那山のふもとの村に母を置いて考える
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つとめた医者の出でありましたが、事情があって北海道のほうへやられ、函館奉行組頭という役目につきました。先生が頭
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、千曲川は犀川といっしょになってからがいい、つまり川中島から下のほうがいいと言いますし、一方のかわずはまた、臼田あたりから
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七 鹿野山を越えて
房州のほうへ出られる道のあることを知りました。鹿野山という山一つ越せば、日蓮の誕生寺で知られた小湊へ出られる
鹿野山は上総と房州の両国にまたがっている山です。わたしの越した峠はその
近江のさみしい国境を歩いて越したこともありますが、鹿野山の峠道はもっとさみしいところでした。
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なく、どこまでも徳川時代の「しんがり」として、本所の北二葉町というところに退き、髪の白くなるまで徳川の世の中を見送りまし
ような人を知ったことをしあわせに思います。わたしが本所の北二葉町をおたずねしたころは、先生はもう七十を越して
いらは消毒のお薬でぷんぷんにおっています。母は本所の病院のほうへ送られて、そこでなくなったあとでした。
本所の病院のほうへ行って母の遺骨を引き取るから、砂村というところにあっ
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た吉備武彦に会いたもうたのは、今の湯舟沢から、中津川、あるいは大井あたりまでの間かとも申します。というのは、越後、
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た。通る人もまれでした。わたしはそれより以前に伊賀と近江のさみしい国境を歩いて越したこともありますが、鹿野山の峠道は
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からそんなに遠くない瀬戸の日和山の上にもあります。瀬戸神社がそれです。そのあたりのことをすこしお話ししてみれば、山のふもとから
ます。古い墓地が山の上にありまして、そこから瀬戸神社への道もつづいています。墓地の近くには、古い言い伝えの残った
漁師たちは毎朝このへんまで潮を見に来て、かならず瀬戸神社へもお参りし、海の幸をお祈りして行きます。海の幸と
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九 恵那山のふもと
恵那山は村から近く望まれる山です。今でこそ、木曾も昔の木曾ではなく
遠くかすかに近江の伊吹山まで見えるといいます。わたしはあの恵那山のふもとの村に母を置いて考えることを何よりの心のよろこびとし、いつ
恵那山の裏山つづきに御坂峠というところがあります。木曾の御坂とはその峠
幼い時分からわたしの好きな恵那山は、もう一度自分を迎えてくれるように見えました。あの山のふもとに
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にも、葬式のため郷里へ帰りまして、その帰り道に和田峠というところを歩いて越し、下諏訪のほうへ出たこともありました。
行きます。それからずっと後になって、今度は自動車で和田峠を越したこともありましたが、あの峠の上まで行くと、西餅屋
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て諸国へ行商に出ました。西は美濃、尾張、伊勢から、北は越後の方面へかけ、ふろしき包みにした薬の箱をしょい
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製造業、紙すきなどから、朝鮮貿易と出かけ、帰って来て大阪で紀州炭を売り、東京へ引っ越して来てまずガラス屋に雇われ、その
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塩釜から船で出ました。清く澄んだ海水を通して、海の藻の浮かび流れる
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ありました。八つが岳山脈の南のすそに住む山梨の農夫ばかりは、冬季のまぐさに乏しいので、遠くそこまで馬を引いて
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まして、中央線の鉄道もまだできていませんし、名古屋回りで上京するにしても、木曾の西のはずれから東海道へ出るまでは
の乗り物もなかったからでした。母は峠のお頭に名古屋まで見送られ、それから汽車で上京しました。当時はまだ東京駅もなく、
葬るため、東京をたつことにしました。その時は名古屋まで汽車で、名古屋から先は人力車で郷里へ向かいましたが、途中の峠
たつことにしました。その時は名古屋まで汽車で、名古屋から先は人力車で郷里へ向かいましたが、途中の峠の上あたりには
代になってみますと、この人は若い時から早く名古屋に出て、新しい教育を受けたくらいですから、漢方で造った先祖伝来の
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瑞巌寺は東北地方に名高い、松島にある古い大きな寺で、そこに安置してある伊達政宗の
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遠く山と山との間にひらけた空のかなたには浅間のけむりのなびくのを望むようなところです。あの山坂を越すのはなかなかほね
第七章 浅間のふもと
一 浅間のふもと
を選びました。そんなわけで、翌年の四月には浅間のふもとをさして、いなか教師として出かけました。
あり、ちょうどわたしが出かけて行ったころはおそい春がようやく浅間のふもとに近づいてきた時分でした。たとえ学舎は小さくとも、わたしはほか
浅間のふもとでは、石ころの多い土地にふさわしい野菜がとれます。その一つに
に初霜を見、十一月の七日ごろには初雪が浅間へ来ました。
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当時の函館あたりはまだ「蝦夷地」と言いまして、開けたばかりのさみしいところでしたが、先生は六年
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海抜三千尺、浅間一帯の山腹にある小諸の位置はほとんど筑波の嶺と同じ高さと言いますからね。十二月の中旬からはもう天
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国山の高くそびえたかたちを望むこともでき、また、甲州にまたがった八つが岳の山つづきには、赤々とした大くずれの
ころは影が山から山へさしてきています。甲州にまたがる山脈の色もいくたびか変って見えます。急に日があたって
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鹿野山は上総と房州の両国にまたがっている山です。わたしの越した峠はその山つづきで、峠の上に一
は、国と国とが寝ながらお話のできるくらいですから、両国の山々も背くらべをしては楽しむほど仲がいいところです。
たけくらべの里とは近江と美濃の国境にありまして、両国の山々がたけくらべするように見えるところから、その名があります。この
張り回す。雲は雲でおもしろがって駆け回る。これには両国の山々もへいこうして、いたずらな雲が通りすぎるまで、すっかりかくれひ
ところで、住んでいる人たちまでが仲よしです。一方に両国屋という休み茶屋があり、一方には境屋という宿屋もあります。美濃からは
この里は、山と山との仲がいいばかりではありません。両国の境は壁一重と言ってもいいくらいのところで、住んでいる人たちまでが仲
ました。気まぐれな雲のいたずらにかくれひそんでいた両国の山々は、またかたちをあらわして、いつものようにむかいあいました。そ
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ばあさんは名をおしんといい、若いさかりのころに木曾福島の代官山村さまのお屋敷勤めに出て、その時についたあだ名が
姉夫婦とその娘とは木曾福島から、おじたちはとなり村の吾妻村からというふうに、親戚や古い知り人
姉夫婦は木曾福島をさして帰って行く人たちです。そこでわたしもいっしょに神坂村を
いました。この帰郷には、姉夫婦とともに木曾福島まで行き、それから東北の空をさして仙台の学校のほうへ引きかえして
姉ですか。姉は木曾福島のほうにある高瀬の家にかたづいていました。女のきょうだいといえ
には木曾福島まで姉といっしょでした。神坂村から木曾福島の町まで十二里です。木曾路の深いところです。その時は、ほかに
父の墓をもともどもとむらいまして、その帰りには木曾福島まで姉といっしょでした。神坂村から木曾福島の町まで十二里です。木曾
まだ中学生であったのです。吉村一家の人たちは木曾福島の出ですから、この中学生にとっても初めて両親の郷里を見る時でし
ある夏、保福寺峠や鳥居峠を越して木曾福島に姉の家をたずねました。その時はわたし一人でもなく、吉村
木曾福島は御岳への登山口につづいた町です。昔は名高いお関所の
を流れる川です。姉の家の門前からがけ下のほうに福島の町がよく見えまして、川の瀬の音までが手に取るよう
お話ししてみれば、もともと高瀬の家の先祖は代々木曾福島のお関所番をつとめた武士であり、高瀬の兄(姉の夫)
産地で、馬を飼わない百姓はなかったくらいですから、福島に市の立った時は近在のものが木曾駒を持ち寄ります。それを
木曾福島は馬市の立つ町としても昔から知られています。その馬市
畑の間などを歩き回り、年とった百姓を相手に木曾福島の風俗、祭の夜のにぎやかさ、耕作の上のことなどを語りながら
、縁側に出て、思い思いの夜ばなしを持ち寄りました。木曾福島もせまいところで、わたしが吉村のむすこさんを連れながら東京から来たと
方壺山人は名字を渡辺といい、徳川の時代に木曾福島の名君とうたわれた山村良由公が詩文の師匠と頼んだ人で、
思いでしたからね。父は神坂村のほうからこの木曾福島の町へもよく来たらしい。この町には父が歌の友だちと
木曾福島の姉の家から東京のほうへ帰って行く時のことでした。わたし
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は大津のほうへ通って働いている大工、そのむすこは大津のげた屋へ奉公している若者で、おかみさんと娘とがるすいかたがた古い
茶丈の亭主は大津のほうへ通って働いている大工、そのむすこは大津のげた屋へ奉公
望むこともできました。時には茶丈のむすこが大津から帰って来ていますと、月のある晩などいっしょに湖水へ小舟
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でもなく、一教師として出かけて行って、めずらしい仙台の地を踏んだので、にわかに東京のほうの空も遠くなった
さきみだれているのを車の窓からながめて、行って、仙台よりも先の一の関というところにある知り人をたずねたこともあり
仙台に東北学院という学校があります。その学校へわたしは年若な一教師
出られて、歩き回る場所に事を欠きません。まあ、仙台へ着いたその晩から、思わずわたしはホッとしましたよ。それまで
仙台というところは城下町として発達したところです。ここには名高い城跡
仙台へ来た当座、しばらくわたしは同じ東北学院へ教えに通う図画の教師で
すぐにしたくして、学校へも届を出し、大急ぎで仙台をたちました。東京の留守宅は本郷森川町というところにありました
を養うだけの十分な力もありませんでした。せめて仙台へは母だけでも引き取り、小さな家でも借りて、二人で暮らそうと
きているか知れないとは思いましたが、わたしも仙台のほうに学校のつとめをひかえていて、古いなじみのある家々をたずねる
ともに木曾福島まで行き、それから東北の空をさして仙台の学校のほうへ引きかえして行きました。
七 仙台の宿
その奥の二階の部屋でした。ほんとに、わたしの仙台時代はその二階で始まったと言ってもいい。窓の外には
仙台へ引き返してから、わたしは布施さんの家の人たちとも別れて、
荒浜というところは外海にむいた砂地の多い漁村です。仙台から一里ほどあります。そんな遠いほうで鳴る海の音が名掛町
でもありませんでした。しかし、布施さんといっしょに仙台から宮城野を通り、荒浜まで歩いて、見わたすかぎり砂浜の続いたところに出
仙台へ来て弱ったことは、ことばのなまりの多いことでした。何か
たちの言うことは、それらの役人や医者はおろか、仙台から付いて行った人にすらよく聞き取れなかったそうです。
仙台のような都会ですらこのとおりですから、まして荒浜のあたりに住む人たち
言いますに、その耳のいい人はもはや三十年近くも仙台地方に住む外国の宣教師でした。ローマ旧教をひろめに日本へ渡って来
その人を仙台から連れて来て、はじめて用が足りたということでした。そんな漁師
世に知られています。ちょうどわたしの甥が東京から仙台の宿へたずねてきたものですから、二人で松島見物を兼ねて、
長いもの、仙台地方に伝わってきた「さんさしぐれ」の古い歌の節。
ますに、君の家がらはこの地方の郷士として代々仙台侯に仕えてきた歴史があるからでした。あの「さんさしぐれ」
のおりの凱旋の曲だと聞きます。おそらく、昔の仙台武士は軍の旅から帰って来て、たがいに祝いの酒をくみかわし
帰りを待っていてくれるでしょう。わたしがいなければ、仙台の人は年を取れませんからね。
仙台には、わたしは一年しかいませんでした。その一年はわたし
わたしが仙台で送った一年は、ちょうどこの学校生徒がにわとりの鳴き声を聞きつけた時
ほんとに、仙台の一年はよかった。わたしのようなものにも、そんな朝が来
空気を胸いっぱいに吸ったり、梨畑やぶどう畑の見られる仙台郊外を土樋というほうまで歩き回ったり、あるいは阿武隈川の流れるところまで行って
自分のことをここで少しお話ししてみれば、わたしも仙台から東京へ帰るようになってから、またまた自分の仕事をつづけましたが
いなか教師として出かけてきたものですが、小諸は仙台のような土地がらともちがい、教育の機関というものがそうそろってい
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ことがあり、西は四日市、神戸、須磨明石から土佐の高知まで行って見て、まんざら海を知らないでもありませんでした。
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富津にも時を送ったことがあり、西は四日市、神戸、須磨明石から土佐の高知まで行って見て、まんざら海を知らないで
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出身で、わたしとは古いなじみの間がらでした。当時、京都のほうにも教師の口はありましたが、わたしはいなかに退いて
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越さねばなりません。そのわたしが兄たちに連れられて東京へ修業に出たのは十歳の少年のころでしたが、中仙道に
たところは信州木曾のような深い山の中ですから、東京へ出るにはどうしても峠を越さねばなりません。そのわたし
少年の日に両親のひざもとを離れて、東京に出てから九年ばかりの間、わたしは一度も郷里に帰りません
、わたしの十五歳の時でしたが、その時ですら東京にとどまりました。今になって思えば、他人のなかに出て修業
それからわたしは東京に出て、なすの季節というと数衛のつくってくれたみそしるを
を離れるようになり、その中でも一番上の兄は東京へ来て吉村さんが家の近くに宿屋住まいをするようになったもの
らしい。そんなあだ名を取るくらいの人ですから、後には東京に出て暮らすようになりましてからも、養子を助けてよく働いた
方をも実地に研究して帰りました。後には東京浅草の蔵前にあった高等工業学校の先生にまで進んだ人です。
に立つ時がもう一度来たのです。ちょうどわたしは、東京湯島のほうにいて、郷里から上京した母とともに小さな家を
近江の片いなかに埋もれぎりになってしまわないで、また東京に出る日を迎えようなぞとは、老人自身ですら夢にも思わなかった
貿易と出かけ、帰って来て大阪で紀州炭を売り、東京へ引っ越して来てまずガラス屋に雇われ、その次がくつ屋となっ
が手に入れたのは普通の本屋でもなくて、東京日本橋人形町の袋物屋でした。藤掛なにがしという日蓮宗の信者で、頭
な相応な暮らしの家で、こんな家庭からでも娘を東京へ修業に送るのか、とそうわたしは思いました。
、思いがけないもてなしぶりでした。だんだん聞いてみましたら、東京での主人すじからこんなにたずねてきてもらえることはめったにない、これ
。いったい、その時分には、房州へんの農家の娘は東京へ出て奉公したものでなければ、およめにもらい手がないと言わ
燃え上がる炉の火が一同の顔に映るようなところで、東京の吉村さんたちのうわさがいろいろ出ましたっけ。
わたしたちとはまったく教育の受け方の違った少年や青年、東京の下町あたりに年季づとめする町家の若者、それから地方出の奉公人などが
行って、めずらしい仙台の地を踏んだので、にわかに東京のほうの空も遠くなったように思われました。
その母を都に残し、お友だちにも別れまして、東京上野の停車場からひとり東北の空に向かいました。もっとも、その時はまったく
として行くことになりました。母もそのころは東京でしたが、その母を都に残し、お友だちにも別れまして、
都会といわれるくらいのところで、朝晩の空気からして東京あたりとはだいぶ違います。ここには静かな光線がさしていまして
の明星が川向こうの空によく見えました。母からも東京のお友だちからも離れて行って、旅の空にそんな一つの星
こんな電報が東京からとどきました。
学校へも届を出し、大急ぎで仙台をたちました。東京の留守宅は本郷森川町というところにありましたから、急いで行って
その年の秋、東京にはごく激しいコレラがはやりまして、たくさんな人がそのためにたおれた
し、ずっと後になって母とは二年ほどいっしょに東京で暮らしてみる月日もありましたが、そのころのわたしにはまた母
遺骨を抱いて、郷里にあるわが家の墓地へ葬るため、東京をたつことにしました。その時は名古屋まで汽車で、名古屋から先
木像も世に知られています。ちょうどわたしの甥が東京から仙台の宿へたずねてきたものですから、二人で松島見物を兼ね
いる時世ではないと考え、家も飛び出してしまって、東京に出ていろいろやってみたということでした。どうでしょう、この兄
福島もせまいところで、わたしが吉村のむすこさんを連れながら東京から来たと言えば、そんないささかな人の動きまでが、一晩じゅう
もありまして、町での親類回りをすました上、東京のほうへ先に帰って行きましたが、わたしは自分の仕事を持っ
ことを思い出しました。木村先生はわたしの少年時代に、東京神田の共立学舎で語学を教わった古い教師でありますし、その後わたしが
木曾福島の姉の家から東京のほうへ帰って行く時のことでした。わたしはその途中で信州小諸
。わたしはよく考えた上でとお答えして、いったん東京へ帰りました。ただ先生のような人が小諸あたりに退いて、学校
ことをここで少しお話ししてみれば、わたしも仙台から東京へ帰るようになってから、またまた自分の仕事をつづけましたが、まだまだ
小諸からは関君という人がわざわざ東京まで出て来てくれまして、木村先生はじめ町の人たちのすすめを
での年中行事の一つになっています。わたしが東京から出かけて行った初めのころには、よくそう思いました。この土地
冬は五か月もの長さにわたるのです。春は東京あたりより一月もおくれまして、梅の花がようやく四月に開き、
休みとかにわずかの暇を見つけ、書物をさがしによく東京へ出かけて、持ち帰ったもので貧しい自分の書だなをかざりました。
し、語るに友もすくないようなところですから、何かしら東京のほうにいるお友だちにおくれるような気ばかりしていました。第
ある日、東京本郷の西片町へんを歩いていますと、ふとある家からへい越しにもれ
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さんにごちそうするばかりでは、牛もつかれます。そこで小諸在の小原というところにかわれている牛は、ご主人の牛乳屋さん
というところにある先生の家をたずねました。わたしが小諸の土を踏んでみたのも、それが最初の時でした。
ので、久しぶりで先生のお顔を見たいと思い、小諸の耳取というところにある先生の家をたずねました。わたしが小諸の
帰って行く時のことでした。わたしはその途中で信州小諸に木村先生の住むことを思い出しました。木村先生はわたしの少年時代に
、いったん東京へ帰りました。ただ先生のような人が小諸あたりに退いて、学校を建て、地方の青年を相手に田園生活という
ね。その時わたしが木村先生をおたずねしなかったら、小諸義塾のあることも知らなかったでしょうし、先生の教育事業を助けるように
て、もっと自分を新しくしたい。そう思っているところへ小諸義塾の話がありまして、いなか教師として出かけてきてはどう
たいと心を決めましたから、報酬もすくなく骨もおれる小諸のほうの学校を選びました。そんなわけで、翌年の四月には
小諸からは関君という人がわざわざ東京まで出て来てくれまして、
置いたように思いました。その窓の近くには、小諸の士族屋敷の一部の草屋根も見え、ところどころには柳のこずえの薄く青み
には新規なことばかり。第一、自分のつとめに通う小諸義塾までが、まだようやく形の整いかけたばかりのような新規な学校でし
屋敷で草屋根の家がわたしの借りうけた住まいです。わたしの小諸時代は七年もその草屋根の下で続いたのです。
小諸本町の裏手に馬場裏というところがあります。そこにある古い士族屋敷
でも、わたしは小諸に来て山を望んだ朝から、あの白い雪の残った遠い山々、
、みんな簡易で軽便な散髪に移りましたから、これは小諸へんに見られる最後のチョンまげでありましたろう。もっとも、手ぬぐいでうしろはち巻き
小諸の荒町には、髪を昔風のチョンまげに結んだ鍛冶屋さんが
、その大根を洗ってたくあんにつけるしたくをするのが、小諸へんでの年中行事の一つになっています。わたしが東京から出かけ
、その地大根の味をかみあてたころから、わたしの小諸時代がほんとうに始まったと言ってもいいのですよ。
小諸の四季は四月、五月を春とし、六月、七月、
てきます。なにしろ海抜三千尺、浅間一帯の山腹にある小諸の位置はほとんど筑波の嶺と同じ高さと言いますからね。十二月
いう近在のほうからくるわらびを見て笑いだしました。小諸にはこんもりとした竹の林と言えるほどのものはほとんど見当たりません
小諸の竹の子は、鴇窪という近在のほうからくるわらびを見て笑いだし
お百姓から桃を食べにこいと言われて、わたしも小諸から出かけて行ったことがあります。桃畑の小屋の中で味わった青い
てきたかわずと、川上を見てきたかわずとが小諸で落ち合いました。そしてたがいに見てきた地方のことで言い争いました
で、いなか教師として出かけてきたものですが、小諸は仙台のような土地がらともちがい、教育の機関というものがそうそろっ
野にも川原にもありました。とうとう、七年も小諸にしんぼうして、となりのおばさんからも、生徒の父兄からも、学校
あれは、学習舎といいまして、木村先生の奥さんが小諸へんの女子のため自宅に私塾を開いた時、本町の大塚さん、鴇
画家の小山敬三さんのねえさんにあたる人で、わたしも小諸時代に二年ほど教えたことがあり、その娘のころを知っている
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から汽車で上京しました。当時はまだ東京駅もなく、新橋の旧停車場が東海道線の入口でした。そこでわたしは兄とともにあの
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実地に研究して帰りました。後には東京浅草の蔵前にあった高等工業学校の先生にまで進んだ人です。
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をも実地に研究して帰りました。後には東京浅草の蔵前にあった高等工業学校の先生にまで進んだ人です。
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に入れたのは普通の本屋でもなくて、東京日本橋人形町の袋物屋でした。藤掛なにがしという日蓮宗の信者で、頭のはげた
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手に入れたのは普通の本屋でもなくて、東京日本橋人形町の袋物屋でした。藤掛なにがしという日蓮宗の信者で、頭の
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母を都に残し、お友だちにも別れまして、東京上野の停車場からひとり東北の空に向かいました。もっとも、その時はまったく初めて
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を思い出しました。木村先生はわたしの少年時代に、東京神田の共立学舎で語学を教わった古い教師でありますし、その後わたしが芝
門口に出ている表札をのぞきましたら、少年のころに神田の共立学舎で物を教わった長沢先生の名が出ておりました。
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へんの女子のため自宅に私塾を開いた時、本町の大塚さん、鴇窪の井出さん、その他の娘たちとともに、荒町から
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に思って世話をしてくだすったのです。わたしはまだ京橋区数寄屋河岸の泰明小学校へ通うほどの少年でしたが、冬にでも
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月の中旬からはもう天寒く、日の光も薄く、千曲川の流れも氷に閉ざされて、浅間のけぶりも隠れて見えなくなります
千曲川の川下を見てきたかわずと、川上を見てきたかわずとが
、たがいにそのことを争ったのです。どうあっても千曲川は川下がいいと一方が言えば、いや、川上がいいと一方が言い張り
一方のかわずに言わせると、千曲川は犀川といっしょになってからがいい、つまり川中島から下のほうがいい
と思われてもこまる。それには、どうしても千曲川の上流について、南佐久の地方へはいってみないとわからないという
荷がそんな山地まで深入りしたのも、もっぱらその街道を千曲川について、さかのぼったものだそうです。
て、南佐久の谷が目の前にひらけています。千曲川はその谷を流れる大河で、岸に住む人たちの風俗やことばのなまり
ところがあって、公園前の橋のたもとあたりから望んだ千曲川のながめは実にいい。あれから八つが岳山脈のふもとへかけて
ます。その谷の突き当たったところが海の口村で、千曲川の岸もそのへんまで行くと、いかにも川上らしい。高い山々の間を
の山々が残りなくあらわれて、遠くその間を流れるのが千曲川の源なのです。かすかに見えるのが、それが山里の中の山里
晴れて行く高原の霧のながめも、千曲川の川下しか知らないかわずに見せたかったと言いました。すこしすその見え
さすがに野辺山が原へ行って遠く千曲川の源まで望んできたかわずの言うことはくわしい。一方のかわずはしきり