桃の雫 / 島崎藤村

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地名一覧

ナポリ

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て大に便宜を得、感謝に堪へず候。來月七日ナポリに向ひ、途中古希臘式殿堂の造りを見、歸路にはボロニヤ、ミラン

大徳寺

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午後、和辻君は紫野の大徳寺へ案内しようと言つて呉れた。一臺の自動車は君等を載せ、お孃

よく分らない。西陣の工藝地を通り過ぎて行つたところに大徳寺の古めかしい境内があつた。一休禪師の木像の安置してある眞珠庵を訪ね

數にしか過ぎないと聞く。現にわたしたちが見て來た大徳寺の眞珠庵も改築されたものの一つであつた。これは京都が

赤城

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のは、次第に近く山容をあらはして來る榛名、妙義、赤城なぞの山々の眺めである。いつ汽車で通つても、あの利根川の流域

江戸

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纏まつて浮んで來はしないかと思つて居る。江戸に於ける十年さすらひの生活は芭蕉のやうな人にも都會人らしい

が、一茶はあの中年の長い放浪生活にもかゝはらず、江戸じまぬことおびたゞしい。無器用で、正直で、狹量で、多分の野性に富ん

芭蕉がどうして江戸へ出るやうになつたかは明かでないが、これは伊賀上野の藤堂家

でないが、これは伊賀上野の藤堂家を辭し、江戸に生活を送つた頃の作である。俳諧作者として漸く一家を成さう

世話になり、いろ/\な仕事にも關係して、江戸の市中に流寓してゐたらしいのもこの時代である。伊賀に歸省

筑紫

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後で、漸く薩摩の國の港に到着し、それより筑紫の太宰府から難波を經て、東大寺に入つた時は、宰相、右大臣、

鴨川

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の歸りに激しく疲れたからだを休めて行つたのも、鴨川の河原から來る照りかへしの暑い日であつたことなぞも浮んで來る。

倫敦

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冷く吹いて妙に旅の愁を催させます。明後日あたり倫敦に歸ります。』

河内

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平野の方がよいかと思ひます。あの邊の淀川は河内(現在北河内郡)を流れて居りますから。大變失禮ですが、一寸

堺町

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雨の日や世間の秋を堺町

大阪平野

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た。その中で、三十五頁の十三行目に、「大阪平野の景色」云々といふところは河内平野ではないかと思ひます。或ひは河内平野

青山

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の畫學修業に遠く旅立ち、長兄の連合にあたる嫂が青山の親戚の家の方で亡くなつた。昭和四年の六月のはじめ、

湯河原

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にいそがしいからだでも一つどうかいふ日を見つけて湯河原あたりへ骨休めに同行したいものだと言ひ出したりして、ことしの蜜柑の

高野山

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記事を見つけるであらう。芭蕉が大和めぐりの旅を終り、高野山から和歌浦の方を※つて、奈良まで引き返して來たのは、ちやうど鹿の子

であつたことは爭はれまい――假令、その遺骨を高野山に納めたなどの説はよく分らないまでも。

唐招提寺

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にいつたことがあつた。その時のことである。唐招提寺金堂の千手觀音の前であの澤山の觀音の手の美的效果に就て

岡崎

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御返翰は、熱田は人々取り込み候へば、封のまゝにて岡崎まで持ち參り候て、窓の破れより風吹き入り、戸の透間より月

取つても變りがなく、時にはこれは昔の岡崎と思へと言つて記念の置時計を持つて來て呉れたり、時には互

北海道

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出さうとした。私はその資金を得るに苦しんで、北海道の方にある親戚を訪ふために日露戰爭當時の空氣の中を小諸

榛名湖

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。ケエブル・カアで登つて行つて見れば、山上には榛名湖のやうなところがあつて、鯉、鮒、さてはわかさぎなぞの養へるほど

草津

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、わたしたちは彦根泊りで京都を立つた。大津、石山、草津、安土――わたしに取つては四十年前の旅の記憶の忘れられず

薩摩

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。鑑眞が幾多の途中の困難と戰つた後で、漸く薩摩の國の港に到着し、それより筑紫の太宰府から難波を經て、東大寺

西陣

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も想像して見たが、そのことはよく分らない。西陣の工藝地を通り過ぎて行つたところに大徳寺の古めかしい境内があつた。一休

平安京

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は歸朝して眞言宗を傳へた。これは新しい都の平安京に遷つた十二三年後のことであり、同時に印度及び支那方面に於け

山陰地方

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はわれらの友達仲間であつたと見え、いつぞや山陰地方へ旅し先生の遺跡を訪ねた折に、その故家に先生遺愛の古い

曾て山陰地方への旅をして、城崎に近い瀬戸の日和山からも、香住の岡見公園

中津川

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買のものは一俵にし、後には隣國の中津川から馬で呼ぶやうになり、そのうちに少しづゝ商賣などもして、

パリ

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かつてフランスの旅にあつたころ、パリの郊外にペエル・ラセエズの墓地を訪ねたことがある。そこはフランスに名

ことがある。そこはフランスに名のある歴史的な人物やパリで客死したといふイギリスの詩人オスカア・ワイルドの墓などのあるところで、

伊賀

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、元服しての名を忠右衞門と言つた芭蕉が伊賀の山の中で送つた少年時代の記憶は、それがいろ/\な形

あつたらう。當時の人の句を編んだものには、伊賀の作者三十六人を數へるといふ。芭蕉は二十三歳の頃に、この好い

中に流寓してゐたらしいのもこの時代である。伊賀に歸省し、京都に赴き、歌道の奧儀について季吟から教へらるゝところ

しかし芭蕉には、すでに伊賀を出る頃から『雲とへだつ友かや雁の生わかれ』のやうに

高崎

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苗代のあざやかなのも眼についたが、上野驛から高崎まで二時間半ばかりの平野の汽車旅はかなり單調な感じがする。その

和田峠

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ながら、同夜下諏訪の龜屋方に一泊、翌朝は自動車で和田峠を越えた。あの峠の上まで行くと、西餅屋といふが一軒殘

善光寺

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各宿日〆帳簿御改め役等の諸公役から、伊勢や善光寺への參詣者、江戸藝者、義太夫語り、長唄の師匠、太神樂なぞの諸

道成寺

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であらう。『鳴神』、『鏡獅子』、それから『道成寺』なぞもさうだ。『勸進帳』を直ちに傳説とは言へないまでも

伊勢

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取締役、各宿日〆帳簿御改め役等の諸公役から、伊勢や善光寺への參詣者、江戸藝者、義太夫語り、長唄の師匠、太神樂なぞ

安土

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は彦根泊りで京都を立つた。大津、石山、草津、安土――わたしに取つては四十年前の旅の記憶の忘れられずにある

江南

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は、その大きな破壞の過ぎた跡で、そこには江南に發達した宗教と藝術があり、遣唐使時代の昔に思ひ比べたら、全く

鎌倉

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旅の鞄の中に入れて行つた。それは同君が鎌倉での日記と一緒に合卷としてあるもので、かねて非賣品とし

大阪

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通行の記事としては、諸大名、御鷹方、大阪御番衆、例幣使、尾州御材木方、寺社奉行をはじめ、公儀御普請役

御嶽山

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か言ひならはして來たことにも思ひ合せて、あの御嶽山より流れ出る王瀧川その他に出て働く人達の役を、あるひはその役を

志賀

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を降りる前に、親しい友人の助力を期待して小諸から志賀の山村まで深い雪の道を踏んで行つたこともある。私の「緑蔭

東大寺

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に到着し、それより筑紫の太宰府から難波を經て、東大寺に入つた時は、宰相、右大臣、大納言已下の官人百餘人の訪問を

ミュンヘン

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も早く歐羅巴の方に渡つてゐて、南獨逸のミュンヘンからわたしのゐた巴里の下宿へ夏を送りに來た。そんなわけで、

であつたらしい。君はわたしの下宿に見える前に、ミュンヘンの方で佛蘭西美術を探ぐるに必要な支度を十分にして來た

ですけれども、お慰めしたいなぞと考へたりします。ミュンヘンにありし時のことなぞまで獨りで思ひ出してゐます。非常に親しく交つた

川越

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惡いのかと氣づいたから、丁度茶の道に精しい川越の老母が家に見えてゐるので、この老母に湯加減を見て貰

た。さういふわたしは自分一人ぎりの旅でもない。川越から上京した老母に留守を頼み、妻同伴でこの保養に出掛けて來た

川越の老母、昨日上京。わたしたちの京都行が川越へも知らせてあつたの

川越の老母、昨日上京。わたしたちの京都行が川越へも知らせてあつたので、留守居かた/″\出て來て

あると聞くのもおもしろい。不思議な縁故から、わたしは、川越の隱居を通して眞庭流の劍客、故樋口十郎左衞門といふ人の

に傳はると、その人一代かぎりで絶えるとも聞く。川越の隱居が實母に當る人はわたしも逢つたことのないおばあさん

つながれるやうになつた浦島堅吉老人、幼い加藤二郎さん、川越の老母、この人達もまた亡き數に入つてしまつた。殊に、川越

人達もまた亡き數に入つてしまつた。殊に、川越の老母は東京生れの人であつたところから、自分の長い仕事が一ト

黄河

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た當時の社會の空氣を想ひ、海のかなたは黄河の流域にあるものと楊子江の流域にあるものとの完全な統一と調和

甲州

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方へ遠※りし、途中汽車の窓から音に聞えた甲州の荒川を眺め、連日降雨の後とて川添の稻田の中には濁流のため

奈良

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遠い萬葉時代の古は想像も及ばないが、奈良朝美術のさかんな頃であつた當時の社會の空氣を想ひ、

奈良朝の美術や宗教と萬葉集の文學との關係は、どうもまだわたし

ばならぬ。圓滿で美しい希臘美術にも比較さるゝ奈良朝時代のそれとの關係を考へて見ることは、やがて萬葉集の文學

わたしはもつと奈良朝の美術や宗教と萬葉集の文學との關係を考へて見たいと

に見える。尤も、これは一朝一夕の變化ではなく、奈良朝も末になつてあの大伴家持がこの世を去つた延暦年代の頃に

奈良朝から降つて平安朝に移ると、すべてのものが變つて行つた

東征傳を愛藏してゐるが、過海大師とは奈良招提寺の鑑眞和尚の事で、この唐僧が佛法の戒律を傳へに來朝

めぐりの旅を終り、高野山から和歌浦の方を※つて、奈良まで引き返して來たのは、ちやうど鹿の子を産する若葉の頃で、その

旅を終り、高野山から和歌の浦の方を※つて、奈良まで引き返して來たのは、ちやうど鹿の子を産する若葉の頃であつた

これは芭蕉が奈良の招提寺を訪ねた時の吟である。翁が大和めぐりの旅を

一春文學部の學生達に加はつて澤木君と一緒に、奈良京都の美術旅行にいつたことがあつた。その時のことである。

と同じだ。これがまたわたしの好物の一つだ。奈良の方の寺では茶粥に里芋をまぜるといふ話をある人から聞い

昔の遣唐使が支那から持ち來したものの深い影響を奈良に與へたことを思へば、多くの有爲な僧侶が宋時代あたりの

徳利屋主人より遠藤工學士宛の手紙によれば、奈良井邊でいふ水役とは檜職人の役で、勞役はせず、金

長野

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信州の山の上に七年の月日を送つた頃、長野でのクリスマスの晩に招かれて、燈火の泄れる教會堂へと

巴里

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なる。ブウル※アル・ポオル・ロワイアル、八十六番地。そこは巴里のサン・ジャックの古いごちや/\とした町と、ポオル・ロワイアル

た。そんなわけで、あの佛蘭西の旅を思ひ出し、巴里の町を思ひ出し、そこにあつた下宿を思ひ出すことが、わたしに取つ

に渡つてゐて、南獨逸のミュンヘンからわたしのゐた巴里の下宿へ夏を送りに來た。そんなわけで、あの佛蘭西の

探ぐるに必要な支度を十分にして來た。だから巴里へ來たばかりの時に既に相應な佛蘭西美術の知識を持ち

等を經、二十日過ぎリオンに立ち歸り、月末には巴里に入る豫定に候。シモネエによろしく。羅馬にて。』

なつて君は英吉利の方にあの混亂を避け、わたしは巴里に踏みとゞまつてゐたが、倫敦からもよく君の便りを貰

惡戰苦鬪した彼が先輩ルウソオと枕を並べて巴里のパンテオンに葬らるゝ人となつたことさへ不思議であるのに、今また

これは詩人川路柳虹君の紹介により、佛國巴里の佛日協會にて發行する『フランス・ジャポン』誌に寄書したもの

見地よりする古代印度の研究者として名高く、吾國から巴里に遊んだ學者達をはじめ多くの日本の留學生を愛した佛蘭

教授の訃を耳にするにつけても、曾てわたしは巴里の植物園の近くに住む家族の人達から茶の會や食事なぞに招か

今は東京の天文臺に在勤する福見尚文君は長いこと巴里に遊學時代を送つた篤學の人で、レヰイ教授の家族とも親

れたシャ※ンヌは普佛戰爭當時の記念として巴里籠城の圖を作り、遠景の空に浮び上る輕氣球を描き、その前景に

京都

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文學部の學生達に加はつて澤木君と一緒に、奈良京都の美術旅行にいつたことがあつた。その時のことである。唐

京都日記

川越の老母、昨日上京。わたしたちの京都行が川越へも知らせてあつたので、留守居かた/″\

、けふは細見京繪圖大全としてある文久版の古い京都の地圖なぞを取り出して見た。

京都蛸藥師通り富小路西入る、千切屋に投宿。

も改築されたものの一つであつた。これは京都が幾度か兵亂の巷となつて、その度に、町も建物も

京都に見るべきものと言へば、何人も先づこの都會に多い寺院に指

、多くの有爲な僧侶が宋時代あたりの支那からこの京都に持ち來したものの多いといふことも、不思議はないかも知れ

今度京都に來て見て意外にめづらしく思つたことはいろ/\あるが

時代の昔に、江州の方から旅して來て、京都魚の棚、油の小路といふところに泊つて見た日のことが

のやうだ。午後の四時頃、わたしたちは彦根泊りで京都を立つた。大津、石山、草津、安土――わたしに取つては四十

關東の氣分で京都にある一切のものを呑み込み易い。やさしい京都言葉ですら、その實弱々しいものではない。よく聽いて見れば、

感じられるであらうと思ふ。兎に角、わたしたちは關東の氣分で京都にある一切のものを呑み込み易い。やさしい京都言葉ですら、その實弱々しいもの

。もう一度清少納言なぞの書きのこしたものをあけて見たら、京都の夏がいろ/\とあの草紙の中に見つけられて、例へば

ことだ。この夏季の熱と光とを防ぐために、京都人は二階を低くし、窓を狹くし、格子を深くし、壁

と北と西とに山を負ふ盆地の地勢をなした京都の市街の一部を君等が住居の二階から、又、樂しい樹蔭の

の城址を見ると、往時三十五萬石の雄藩として京都に對してゐた井伊氏の歴史上の位置を想ひやることが出來る。

ゐたらしいのもこの時代である。伊賀に歸省し、京都に赴き、歌道の奧儀について季吟から教へらるゝところの多かつたとい

きいて見ると、若狹の商人が北陸の海邊から山越しに京都まで運んで來る魚荷の中には、かならず笹の葉が入れてあつて

讀んだ若狹の魚商人の話なぞもその一つだ。京都も今とは違つて、昔は魚に不自由したところであつた

とやゝ趣を異にして、その勢力は當時の京都を凌がうとする江戸人の笑をあらはした漫畫に近いやうな氣も

大津

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の四時頃、わたしたちは彦根泊りで京都を立つた。大津、石山、草津、安土――わたしに取つては四十年前の旅の

福島

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古帳、信州埴科郡新地村山崎氏の名主古帳、木曾福島宿公用記録、妻籠本陣の御年貢皆濟目録及び本陣日記、馬籠宿役人

三年に尾州公が徳川直屬の代官に代つて木曾福島の關所を預ることになり、したがつて街道筋の繼立てもに

長崎

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がケンペルを記念するために園内に建てた碑は今は長崎の公園の方に移されてあるといふ。わたしはその碑文の譯を

蘭醫の大家として名高いシイボルトがずつと後になつて長崎に渡來し、この先着の同國人が殘した植物園を見た時

のも、ケンペルの開拓した植物園であつたらう。往時の長崎奉行とも言ひたい風俗の士が從者と共に異人の間にまじつ

てあるが、元祿年代に渡來したあの蘭醫こそ、長崎出島の和蘭屋敷内に歐羅巴風の植物園を開いた最初の人であると

福井

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が傳馬役以外の雜役を意味することは、その後、福井縣下味見の高島正氏といふ人から貰つた便りで一層判明する

松江

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、どんな寢心地のものか自分も一つ試みるつもりで、松江を去る時にその出雲土産を買ひ求めて來た。歸京後にそれ

深川

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の殘るものなしと、暮秋二十八日より三十二日目に武江深川に至り候。盤子につかはされ候御返翰は、熱田は人々取り込み

東京

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に思はれる。わたしは少年時代に母の膝もとを離れて東京に遊學したものであるが、郷里にある母から手紙を貰つ

『澤木君が東京帝國大學の文學部の講師をして居られた頃でなかつたかと思ふ

見たい人なら、『鶯日』の作者はどこまでも東京の水で洗つて洗ひぬいたやうな人である。そこに都

わたしは避暑の旅に出たこともなく、夏は殆んど東京の町中に暮してゐるが、そのかはり春蠶、秋蠶の後の

を小諸の山の上に送つたことのあるわたしが、東京への往き還りに、あの上州の山々を汽車の窓から望んだことも忘れ

、歸りの土産には伊香保名物の粽、饅頭、それから東京の留守宅の方にわたしたちを待ち受けてゐて呉れる年寄のために木細工

\出て來て呉れた。家内の實母は根が東京の人であるところから、わたしの仕事のあひまを見ては、一

のある抑揚の響きをもつてゐる。これほどのアクセントも東京言葉にはないもののやうだ。午後の四時頃、わたしたちは彦根泊り

一夜の客として泊めて見たところ、その人は東京への汽車の往き還りにいつかこの彦根に泊つて見たいと心掛けながら、

まで行かうと思ひ立つことがあつて、家族のものを引き連れ東京を出ようとしたが、折柄利根川増水の噂で信越線もには

て、それ火事だと聞きつける時は、明治初年の頃まで東京の町々の角にあつた木戸を飛び越えるくらゐの早業を平氣でして、まこと

に亙る上海市街戰の空氣の中で、大阪毎日及び東京日日新聞社を代表し陣中慰問使としてかの地に赴いた人で

家庭に行はれてゐたことであるとか。今は東京の天文臺に在勤する福見尚文君は長いこと巴里に遊學時代を送

頃を見計らつては、一年に四度づゝは必ず東京の町中の空氣を吸ひに、上京することを樂しみにし、

亡き數に入つてしまつた。殊に、川越の老母は東京生れの人であつたところから、自分の長い仕事が一ト切りになる

月島

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してゐる方がいゝ。たまには家のものを連れ、月島の魚河岸の方まで出掛けて行つて、そこで探した鮮魚なぞを提げながら

小諸

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つて、また別の趣がある。曾て七年の月日を小諸の山の上に送つたことのあるわたしが、東京への往き還りに、

なぞをつくつてゐた頃のことであつた。當時小諸義塾の塾主であつた木村熊二翁がこの詩をわたしに示し、特にその

て山を降りる前に、親しい友人の助力を期待して小諸から志賀の山村まで深い雪の道を踏んで行つたこともある。私

旅したこともある。私の最初の長篇は前半は小諸で書いたが、それまでの教員生活から離れてあの作を完成し得る

親戚を訪ふために日露戰爭當時の空氣の中を小諸から遠く旅したこともある。私の最初の長篇は前半は小諸で

上野

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生長した苗代のあざやかなのも眼についたが、上野驛から高崎まで二時間半ばかりの平野の汽車旅はかなり單調な感じ

とは、どんな人であつたらう。主家藤堂氏とても、伊賀上野の代官として五千石を領したといふくらゐだから、當時にあつて

號したといふほどの人である。この人の伊賀上野の家中に與へた感化は大きいものであつたらう。當時の人の句

出るやうになつたかは明かでないが、これは伊賀上野の藤堂家を辭し、江戸に生活を送つた頃の作である。

神田

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/\と暑い日であつた。高い足駄ばきであの神田河岸の乾いた道を踏んで行つた時のことは忘れられない。』

本を積んだ荷車の後について、數寄屋橋から神田の裏神保町まで歩いたことがあつた。丁度雨降り揚句の蒸し/\と

神保町

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だ荷車の後について、數寄屋橋から神田の裏神保町まで歩いたことがあつた。丁度雨降り揚句の蒸し/\と暑い日で

千曲川

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までの五人の短歌一首づゝ、半面にはわたしの千曲川旅情の歌を組み合せたものであるが、發行所から寄贈されたの

わたしはまだ信濃の山の上の方にゐて、千曲川のスケッチなぞをつくつてゐた頃のことであつた。當時小諸義塾

隅田川

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住んだころ、わたしもよく夏の朝の散歩に出て隅田川の岸などを歩き※つたものだが、あのころは午前の十一時ごろ

湘南

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てはちよいちよい小さな旅に出掛ける。わたしの足はよく湘南地方へ向く。湯河原あたりへはよく二三日の保養に出掛けて、あの温泉

京橋

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を營んでゐた岡崎家を相續した人で、京橋數寄屋河岸の泰明小學校へ通つて來られた頃はわたしも共