芽生 / 島崎藤村

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地名一覧

高崎

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高崎で乗換えてから、客が多かった。私なぞは立っていなければならない

浅間

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浅間の麓へも春が近づいた。いよいよ私は住慣れた土地を離れて、

で出掛けた。雪はまだ深く地にあった。馬車が浅間の麓を廻るにつれて、乗客は互に膝を突合せて震えた。

には浅々と麦の緑を見出すことが出来た。浅間、黒斑、その他の連山にはまだ白い雪があったが、急にそこ

駿河台

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中では別に何ともないと言って、家内は駿河台の眼医者のところまで診て貰いに行った。滋養物を取らなければ不可―

その日から家内は一人ズツ子供を連れて駿河台まで通った。暑い日ざかりを帰って来て、それから昼飯の仕度に掛かっ

相生町

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て行くことにした。私は毎日通い慣れた道を相生町の方へとって、道普請の為に高く土を盛上げた停車場前まで行く

本郷

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を加えて行こうかと考えて、到頭それも試みずに本郷へ着いた。車の上でお菊の蒼ざめた顔を眺めて行った時

不忍の池の方を望むような位置にある。私は本郷の通りでお房の好きそうなリボンを買って、それを土産に持って

ものも車で後になり前になりして出掛けた。本郷から大久保まで乗る長い道の間、私達は皆な疲労が出て、車の

牛込

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を探したが、それすらも見当らなかった。その晩は牛込に住む友達の家に会があった。私は途中でミルクを買いしなこの

坂の途中で鷲印のミルク罐を買いながら思った。牛込の家には、種々な知人が集っていた。そこで戦地から帰って

懐古園

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「房ちゃん、いらッしゃい――懐古園へ花採りに行きましょう」

小諸

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七年の間、私は田舎教師として小諸に留まって、山の生活を眺め暮した。私が通っていた学校

て出発するものがある、よく私はそういう人達を小諸の停車場に見送って、悲壮な別離を目撃した。東京にある知人も

とにかく、小諸を去ることに決めた。山を下りて、そして自分の仕事を完成し

岩村田通いの馬車の喇叭が鳴った。私は小諸相生町の角からその馬車に乗った。引越の仕度をするよりも、何

始め、細君や子供まで集って、広い古風な奥座敷で、小諸に居る人の噂などをした。この温い家庭の空気の中で、

間は黄に耀いた。私は眺め、かつ震えた。小諸の寓居へ帰ってからも、私はそう委しいことを家のものに話し

前後して信州へ入った人だが、一年ばかりで小諸を引揚げて来た。君は仏蘭西へ再度の渡航を終えて、新たに

想像も出来ないようなこの嬉しい心地は、やがて、私を小諸の家へ急がせた。

従って、いくらかずつ温暖い方へ向っていた。小諸へ近づけば近づくほど、岩石の多い谷間には浅々と麦の緑を見

この話を持って、小諸をさして帰って行く頃は、上州辺は最早梅に遅い位であっ

梢、石垣の多い桑畑などは汽車の窓から消えた。小諸は最早見えなかった。

は最早近所の娘の中に交っていた。そして、小諸訛の手毬歌なぞを歌って聞かせた。短い着物に細帯では

に連れられて入浴に出掛ける時に言った。この娘は小諸の湯屋へ行くつもりでいた。

でも住むような便りなさを感じた。同時に、小諸でよく子供の面倒を見てくれた近所のシッカリした「叔母さん」

した。棺も、葬儀社の手にかけなかった。小諸から書籍を詰めて来た茶箱を削って貰って、小さな棺に造らせ

行っても、行っても、お菊の思うような小諸の古い城跡へは出なかった。桑畠のかわりには、植木苗の畠

が咲く頃と成った。やがて、亡くなった子供の新盆、小諸の方ではまた祗園の祭の来る時節である。冷しい草屋根の下

近づいた、と私は思った。軒並に青簾を掛け連ねた小諸本町の通りが私の眼前にあるような気がして来た。その

東京

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小諸の停車場に見送って、悲壮な別離を目撃した。東京にある知人も多く従軍した。一年の間、この大きな戦争の空気

の好いことなどを話して聞かせた。女子供には、東京へ出られるということが何よりも嬉しいという風で、上京の日

汽車の着く度に、停車場まで迎えに出たという。東京の話は家のものの心を励ました。私は郊外に見つけて来

い、衣服を着て見ましょう――温順しくしないと、東京へ連れて行きませんよ」と家内が言って、写真を映した時

東京の郊外へ着く早々、私達は林の中にでも住むような便りな

大久保

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ていた。そこへ私が訪ねて行って、それから大久保辺を尋ね歩いた。

から私の家ではそろそろ引越の仕度に取掛った。よく大久保の噂が出た。雨でも降れば壁が乾くまいとか、天気

二週間ばかり経ったところで、大久保の植木屋から手紙を受取った。見ると、月の末まで待たなければなら

。お房やお菊は元気で、私達に連れられて大久保の方へ歩いたが、お繁の方は酷く旅に萎れた様子で

門前で停った。私達は先に送った荷物と一緒に大久保へ着いたことに成った。この混雑の中で、お繁は肩掛に

大久保へ来て三日目に、私は先ず新しい住居へ移って、四日

墓地は大久保の長光寺と言って鉄道の線路に近いところにあった。日が暮れ

家を飛出して、そこいらへ気息を吐きに行った。大久保全村が私には大きな花園のような思をさせた。激しい気候を

郊外には、旧い大久保のまだ沢山残っている頃であった。仕事に疲れると、よく私は

お菊は、大久保の通りへ出るまでは、安心しなかった。

植木屋の人達を驚かした。この家族を始め、旧くから大久保に住む農夫の間には、富士講の信者というものが多かった。

世に出る頃、種夫は新宿の医者に掛かった。この大久保で生れた児はとかく弱かった。ある日、家内が種夫を負って、

中毒であろうと言われた。私達の後を追って、大久保に住む一人の友達も、家のものも急いで来た。一刻々々

大久保の家では留守居してくれた人達が様子を案じ顔に待って

家へ帰りましょう」とばかりで、新宿の電車の終点から大久保まで疲れたような顔をして歩いて帰って来た。

煎じ薬を四日分ばかりと、菜食の歌を貰って、大久保へ帰った。

へこの娘を見せに連れて行った。その時は、大久保に住む一人の友達とも一緒だった。強健そうな年寄の医者は、熱

私も家のものも子供の傍に附いていた。大久保の方は人に頼んだり、親戚のものに来て泊って貰ったりし

医学士に子供のことを頼んで置いて、それからちょっと大久保へ帰った。

車で後になり前になりして出掛けた。本郷から大久保まで乗る長い道の間、私達は皆な疲労が出て、車の上

と違って、姉の方は友達が多かった。私達が大久保へ入った頃は、到る処に咲いている百日紅のかげなぞで、お

新宿

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、私は家を探しがてら一寸上京した。渋谷、新宿――あの辺を探しあぐんで、ある日は途中で雨に降られた

四時頃に、私達五人は新宿の停車場へ着いた。例の仕事が出来上るまでは、質素にして暮さ

れて、あらゆる落胆と戦う気に成った。家内には新宿の停車場前から鶏肉だの雑物だのを買って来て食わせた。

私の仕事が世に出る頃、種夫は新宿の医者に掛かった。この大久保で生れた児はとかく弱かった。ある日

、その日は一緒に連れて行った。種夫の為に新宿の通りで吸入器を買って、それを家内が提げて帰ったが、丁度

寄っても「早く吾家へ帰りましょう」とばかりで、新宿の電車の終点から大久保まで疲れたような顔をして歩いて帰って

。お繁やお菊で私達も懲りたから、早速、新宿の医者に見せた。牛込の医者にも見せた。早く薬を服ませ

車で急がせて、そこで私は電車に移った。新宿の通りは稲荷祭のあるころで、提灯のあかりが電車の窓に映っ

こう家のものに言った。翌朝早く私は新宿の停車場を発った。

渋谷

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かけて、私は家を探しがてら一寸上京した。渋谷、新宿――あの辺を探しあぐんで、ある日は途中で雨に降ら

麹町

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さん」が提げにやって来た。この人はここから麹町の小学校へ通う女教師である。最早中学へ行くほどの子息がある。

日で、ぶらぶらそれを読みながら歩いて行くと、中に麹町の方に居る友達の寄稿したものがあった。メレジコウスキイが『トルストイ論

上野

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残った娘を大切に見なければ成らないと思った。上野に玩具の展覧会があった日には、お房も皆なに連れられて

上野の鐘は不忍の池に響いて聞えた。朝だ。ホッと私達は溜息

上野の鐘は暗い窓に響いた。

千曲川

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。楊、楓、漆、樺、楢、蘆などの生い茂る千曲川一帯の沿岸の風俗、人情、そこで呼吸する山気、眼に映る日光の