夜明け前 04 第二部下 / 島崎藤村
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を増し、東山道太田駅からおよそ九マイルを隔てた上流にある錦織村に至って、はじめて海浜往復の舟絡を開くと言ってある。御嶽山より流れ出る
立った河底を洪水の勢力によって押し下し、これを錦織村において集合する、そこで筏に組んで、それから尾州湾に送り出すと
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水無神社はどのくらいの古さか。神門と拝殿とは諏訪の大社ぐらいあるか。御神馬の彫刻はだれの作か。そこには舞殿があり
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光はいたるところの平野にみちあふれていた。馬車は東京万世橋の広小路まで行って、馬丁が柳並み木のかげのところに馬を停めた
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、大野、吉城、益田の三郡共有地、および美濃国は恵那郡、付知、川上、加子母の三か村が山地の方のことをも引き合いに出し
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へはその日の通知を受けた人たちが、美濃の落合からも中津川からも集まりつつあった。板敷きになった酒店の方から酒の
揺るぎかけて来たことは、いつのまにか美濃の落合の方まで知れて行った。その古さから言えば永禄、天正年代からの
落合に住む稲葉屋の勝重はすでに明治十七年の三月あたりからその事のある
醤油醸造に従事する美濃衆の一人であり、先代儀十郎まで落合の宿役人を勤めた関係からも何かにつけて村方の相談に引き出される
そういう景蔵は中津川をさして帰って行く人、勝重は落合からやって来た人であるが、この二人は美濃の方で顔を合わせる
落合の勝重が帰って行ったあとの木小屋には、一層の寂しさが残っ
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に当たり、東京にも横浜にも店を持ち、海外へ東海道辺の茶、椎茸、それから生糸等を輸出する賢易商であった。
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たところであった。ボイルの計画した線は東京より高崎に至り、高崎より松本に至り、さらに松本より加納に至るので、松本加納
た。ボイルの計画した線は東京より高崎に至り、高崎より松本に至り、さらに松本より加納に至るので、松本加納間を百二十五マイル
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賀茂両社の方のことを娘に語り聞かせた。その神社が伊勢神宮に次ぐ高い格式のものと聞くことなぞを語り聞かせた。平安朝と言った
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それもいわれのないことではない。この人は先祖代々御嶽の山麓に住み、王滝川のほとりに散在するあちこちの山村から御嶽裏山へかけ
山麓に住み、王滝川のほとりに散在するあちこちの山村から御嶽裏山へかけての地方の世話を一手に引き受けて、木曾山の大部分を失いかけた
た。王政第六の春もその四月ころには、御嶽のふもとから王滝川について木曾福島の町まで出ると、おそらく地方の発行
も心にかかって、鳥居峠まで行った時、彼はあの御嶽遙拝所の立つ峠の上の高い位置から木曾谷の方を振り返って見た
わけには行かない。伊勢へ、津島へ、金毘羅へ、御嶽へ、あるいは善光寺への参詣者の群れは一新講とか真誠講とかの
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位置にある。水無川は神社の前を流れる川である。神通川の上流である。神社を中心に発達したところを宮村と言って、
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あろうと、まずそれが半蔵の胸に来る。あの山城の皇居を海に近い武蔵の東京に遷し、新しい都を建てられた当初の御志
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江戸を去る時と同じように、引きまとめた旅の荷物は琉球の菰包にして、平兵衛と共に馬荷に付き添いながら左衛門町の門を
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今さら、極東への道をあけるために進んで来た黒船の力が神戸大坂の開港開市
もともとこの国の鉄道敷設を勧誘したのは極東をめがけて来たヨーロッパ人仲間で、彼らがそこに目をつけたの
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、彦根よりする井伊掃部頭、名古屋よりする成瀬隼人之正、江戸よりする長崎奉行水野筑後守、老中間部下総守、林大学頭、監察岩瀬
振り返ると、彼が父吉左衛門の許しを得て、最初の江戸の旅に平田鉄胤の門をたたき、誓詞、酒魚料、それに扇子
過ぐる年、彼が木曾十一宿総代の一人として江戸の道中奉行所から呼び出されたのは、あれは元治元年六月のことであっ
た。以前半蔵が木曾下四宿総代の庄屋として江戸の道中奉行から呼び出されたおり、五か月も共に暮らして見たのも
か月も共に暮らして見たのもこの夫婦だ。その江戸を去る時、紺木綿の切れの編みまぜてある二足の草鞋をわざわざ餞別
「どうです、青山さん。江戸のころから見ると、町の様子も変わりましたろう。去年の春から、敵打ち
だけでも世の中は変わって来ましたね。でも、江戸に長く住み慣れたものから見ると、徳川さまは実にかあいそうです。徳川さま
将来測り知りがたいものがあろうと言うものもある。元治年度の江戸を見た目で、東京を見ると、今は町々の角に自身番もなく、番太郎
恭順はその話を聞くと腹をかかえて笑い出した。江戸の人、斎藤彦麿は本居大平翁の教え子である、藤垣内社中の一人で
通行の多い新市街の中に見つけるばかりでなく、半分まだ江戸の町を見るような唐物店、荒物店、下駄店、針店、その他
が本陣問屋と庄屋を兼ねた時代には、とにもかくにも京都と江戸の間をつなぐ木曾街道中央の位置に住んで、山の中ながらに東西交通
本所の相生町の方におりました時分に、あの人は江戸の道中奉行のお呼び出しで国から出てまいりまして、しばらく宅に置いて
江戸の名ごりのような石榴口の残った湯屋はこの町からほど遠くないところにある。
ものを変えつつあった。燃えるような冒険心を抱いて江戸の征服を夢み、遠く西海の果てから進出して来た一騎当千の豪傑連で
大きな瓦解の悲惨に直面したことは似ていた。江戸をなつかしむ心も似ていた。幕末の遺臣として知られた山口泉
告げた。頼んで置いた馬も来た。以前彼が江戸を去る時と同じように、引きまとめた旅の荷物は琉球の菰包にし
がそこに目をつけたのも早く開国以前に当たる。江戸横浜間の鉄道建築を請願し来たるもの、鉄道敷設の免許権を得ようと
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なったような境涯をも踏んで来ている。今度、賀茂神社の少宮司に任ぜられて、これから西の方へ下る旅の途中にある
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て飛騨国、大野、吉城、益田の三郡共有地、および美濃国は恵那郡、付知、川上、加子母の三か村が山地の方のことをも
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あるインド渡来の貝陀羅樹葉、それを二つ折りにして水天宮の守り札と合わせたものがその袋の中から出て来た。古人も多く
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悪い事をするような人じゃ決してございません。宅で本所の相生町の方におりました時分に、あの人は江戸の道中奉行のお
見なぞはその広い見聞の知識を携え帰って来て、本所北二葉町の旧廬から身を起こし、民間に有力なある新聞の創立者とし
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はもはや顔色がない。年じゅう素股の魚屋から、裸商売の佃から来るあさり売りまで、異国の人に対しては、おのれらの風俗を赤面する
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青山家代々の位牌は皆そこに集まっている。恵那山のふもとに馬籠の村を開拓したり、万福寺を建立したりしたという青山の
交通路として知られた木曾の御坂は今では恵那山につづく深い山間の方に埋もれているが、それに因んでこの神坂村の名が
聞き、眺めをほしいままにするために双眼鏡なぞを取り出して、恵那山の裾野の方にひらけた高原を望もうとした時は、顔をのぞきに来るもの
は蚋や藪蚊を防ぐための火繩を要し、それも恵那山のすその谷間の方へ一里も二里もの山道を踏まねばならないほど
旅にあるような気もしていたが、ふと、恵那山の方で鳴る風の音を聞きつけてわれに帰った。十月下旬のことで、
を聞きつけてわれに帰った。十月下旬のことで、恵那山へはすでに雪が来、里にも霜が来ていた。母屋の西側の廊下
形容も決してほめ過ぎではなかった。あの位山を見た目で恵那山を見ると、ここにはまた別の山嶽の趣がある。遠く美濃の平野の方
「御覧、恵那山はよい山だねえ。」
恵那山のふもとのことで、もはやお着きを知らせるようなめずらしいラッパの音が遠くから谷
もいた。夕方にでもなると街道から遠く望まれる恵那山の裾野の方によく火が燃えて、それが狐火だと村のものは言った
観山楼とも名づけてある。晴れにもよく雨にもよい恵那山に連なり続く山々、古代の旅人が越えて行ったという御坂の峠などは東南
かと思うと、それの谷々を通り過ぎたあとには一層恵那山も近くあざやかに見えるような日が来た。農家では草刈りや田圃の稗取り
恵那山へは雪の来ることも早い。十月下旬のはじめには山にはすでに初雪を
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別れであったともいう。全国徴兵の新制度を是認し大阪鎮台兵の一部を熊本に移してまでも訓練と規律とに重きを置こうとする
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きめる。彼も心から汗が出た。この上は、御嶽山麓の奥にある王滝村を訪ねさえすれば、それで一切の打ち合わせを終わるまで
ただの小さな流れであるが、木曾福島の近くに至って御嶽山から流れ出るいちじるしい水流とその他の支流とを合併して、急に水量を増し
て、はじめて海浜往復の舟絡を開くと言ってある。御嶽山より流れ出る川(王滝川)においては、冬の季節に当たって数多の
も山深い宮峠のふもとの位置に、東北には木曾の御嶽山の頂も遠く望まれるようなところに、うわさにのみ聞く水無川の河原を見つけ
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路に巡りいでまし、諏訪のうみを見渡したまひ、松本の深志の里に、大御輿めぐらしたまひ、真木立つ木曾のみ山路、岩が根のこごしき道
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わびしい旅の日を左衛門町に送っていた。彼は神田明神の境内へ出かけて行って、そこの社殿の片すみにすわり、静粛な時を
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それから行く先などを尋ねた。生まれはイギリスの人で、香港から横浜の方に渡来したが、十月には名古屋の方に開かれる
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都を見うる日のことを想像して、やがて彼は塩尻、下諏訪から追分、軽井沢へと取り、遠く郷里の方まで続いて行っている
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、昔から歌枕としても知られたところである。大野郡、久具野の郷が位山のあるところで、この郷は南は美濃の国境
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をするような人じゃ決してございません。宅で本所の相生町の方におりました時分に、あの人は江戸の道中奉行のお呼び出しで
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のものがそれを明治維新と呼ぶようになった。ひとり馬籠峠の上にかぎらず、この街道筋に働いた人たちのことに想いいたると、彼
四月上旬の美濃路ともちがい、馬籠峠の上へはまだ春の来ることもおそいような日の午後に、勝重は霜
たといううわさの残った寂しいところをも通り過ぎなければ、馬籠峠の上に出られない。けれども木曾山らしいのもまたその峠道で、行く先に
ある日の午後、馬籠峠の上へはまれにしか来ないような猛烈な雹が来た。にわかにかき曇った
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あらわれたもの――その黒船の形を変えたものは、下田へも着き、横浜へも着き、三百年の鎖国の事情も顧みないで進み
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視察の旅から帰って来た尾州藩出身の田中不二麿が中部地方最初の女学校を近く名古屋に打ち建てるとのうわさもある。一方には文明開化
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の形を変えたものが佐賀にも、土佐にも、薩摩にも活き返りつつあるのかと疑った。
ごとき人はそれを言って、西郷ありてこそ自分らも薩摩と合力し、いささか維新の盛時にも遭遇したものであるのに、と
土州因州あたりは旧士族ばかりでなく一般の人々の気受けも薩摩の捷報をよろこぶ色がある、あだかも長州征伐の時のようだなど言い触らすものさえ
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というのも、決して他ではない。あの東征軍が江戸城に達する前日を期して、陛下が全国人民に五つのお言葉を誓われ
悪い事はあるまいと言い、惜しげもなく将軍職を辞し江戸城を投げ出した慶喜に対しても恥ずかしいと言って、昨日の国家の元勲が今日
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ない。伊勢へ、津島へ、金毘羅へ、御嶽へ、あるいは善光寺への参詣者の群れは一新講とか真誠講とかの講中を組んで
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歴代の歌集に多い恋歌、または好色のことを書いた伊勢、源氏などの物語に対する翁が読みの深さを想像し、その古代探求
も、勢い生活の方法を替えないわけには行かない。伊勢へ、津島へ、金毘羅へ、御嶽へ、あるいは善光寺への参詣者の群れは
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行人橋から御嶽山道について常磐の渡しへと取り、三沢というところで登山者のために備えてある筏を待ち、その渡しをも渡っ
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から利息を取り立てる行為なぞはまッ先に鎗玉にあげられた。仁和寺、大覚寺をはじめ、諸門跡、比丘尼御所、院家、院室等の名称は
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ものが連署して、過ぐる明治四年の十二月に名古屋県の福島出張所に差し出した最初の嘆願書の中の一節の意味である。山林事件
年を最後としてこれらの補助を廃止する旨の名古屋県からの通知があり、おまけに簡易省略の西洋流儀に移った交通事情の深い
。彼らがこれを持ち出したのは、木曾地方もまさに名古屋県の手を離れようとしたころで、当時は民政権判事としての土屋
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、政治を高めるというところにあったろうし、同門には越前の中根雪江のような人もあって、ずいぶん先生を助けもしたろうがね
もらって来た紙の中には、めずらしいものもある。越前産の大高檀紙と呼ぶものである。先代伊之助あたりののこして置いて行った
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の現象に結びつけて見て、かつて水戸から起こったものが筑波の旗上げとなり、尊攘の意志の表示ともなって、活きた歴史を流れ
この国では初めて二隻の新艦を製し、清輝、筑波と名づけ、明治十二年の春にその処女航海を試みて大変な評判を取っ
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郡県の政治は多くの人民の期待にそむき、高松、敦賀、大分、名東、北条、その他福岡、鳥取、島根諸県には新政をよろこば
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を取り立てる行為なぞはまッ先に鎗玉にあげられた。仁和寺、大覚寺をはじめ、諸門跡、比丘尼御所、院家、院室等の名称は廃され、
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つは大義名分の声の高まったことであり、その声は水戸藩にも尾州藩にも京都儒者の間にも起こって来た修史の事業に
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行く先などを尋ねた。生まれはイギリスの人で、香港から横浜の方に渡来したが、十月には名古屋の方に開かれるはずの
その黒船の形を変えたものは、下田へも着き、横浜へも着き、三百年の鎖国の事情も顧みないで進み来るような侮りがたい
た。その人は多吉の主人筋に当たり、東京にも横浜にも店を持ち、海外へ東海道辺の茶、椎茸、それから生糸等を
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廃止、庄屋役廃止と、あの三役の廃止がしきりに青山の家へ襲って来る時を迎えて見ると、女一生の大事ともいう
吉辰良日のことにつき前もって相談のあったおりに、青山の家としては来たる九月のうちを選んだのもそのためで
、何げなくお民は梯子段を登って行って見た。青山の家に伝わる古刀、古い書画の軸、そのほか吉左衛門が生前に蒐集して
公役という公役、その他、世に時めく人たちで、青山の家の上段の間に寝泊まりしたり休息したりして行かないものはなかっ
おまんは自分の忘れがたい旦那と生涯を共にしたこの青山の家をそう粗末には考えられないとしていた。たとい、城を
旧宿場三役の廃止以来、青山の家ももはや以前のような本陣ではなかったが、それでも新たに
方に隠れるまで見送った。旧本陣の習慣として、青山の家のものがこんなに門の前に集まることもめったになかったので
青山の家の表玄関に近いところでは筬の音もしない。弟宗太のため
、木曾の旧い本陣とは一緒にはならないが、しかし青山の家でもやはりその「見るな」で、娘お粂に白無垢をまとわせ
峠の上を通り過ぎた。払暁はことに強く当てた。青山の家の裏にある稲荷のそばの栗もだいぶ落ちた。お粂は一
その翌日も青山の家のものは事のない一日を送った。夕飯後のことであっ
青山の家に起こった悲劇は狭い馬籠の町内へ知れ渡らずにはいなかった。
ないとのこと。この山里に住むものの中には、青山の家の昔を知っていて、先代吉左衛門の祖父に当たる七郎兵衛のことを
に娘お粂の身に集まったのも不思議はない。青山の家のものにすら、お粂が企てた自害の謎は解けなかった。
をめんどうにした。そこには、どこまでも生家と青山の家との旧好を続けたいという継母おまんが強い意志も働き、それほど
小竹両家の改典のことを断わった。なお、これまで青山の家では忌日供物の料として年々斎米二斗ずつを寺に納め
村を開拓したり、万福寺を建立したりしたという青山の先祖は、その生涯にふさわしい万福寺殿昌屋常久禅定門の戒名で、位牌堂の
父を夢に見た覚えは、ただの一度しかない。青山の家に伝わる馬籠本陣、問屋、庄屋の三役がしきりに廃止になった
、旧本陣時代からの番頭格清助にも手伝わせたら、青山の家がやれないことはあるまい、半蔵の水無神社宮司として赴任する
が、お民も付いているし、それに自分はもはや古い青山の家に用のないような人間であるから、継母の言葉に従ったと
皆済目録、馬籠宿駅印鑑、田畑家屋敷反別帳、その他、青山の家に伝わる古い書類から、遠い先祖の記念として残った二本の
なさるがいい。あの半蔵さんが四十代で隠居して、青山の家を子に譲って、それから水無神社の宮司をこころざして行ったと
人がおれのところへ暇乞いに来て、自分はもう古い青山の家に用のないような人間だから、お袋(おまん)の言葉に従ったッて、
。彼が飛騨からの若者と共に、変わらずにある青山の家の屋根の下に草鞋の紐を解いたのは午後の三時ごろ
らしい足を引きずりながらも家のものに案内されて、青山の昔を語る広い玄関先から、古い鎗のかかった長押、次の間、仲の間
を告げて行った。家に帰って来た半蔵はもはや青山の主人ではない。でも、彼は母屋の周囲を見て回ることを
吾家の周囲も変わったなあ。新宅(下隣にある青山の分家、半蔵が異母妹お喜佐の旧居)も貸すことにしたね。
、まだしも屋造りに見どころがあるとも申し上げたが、やはり青山の家の方が古い歴史もあり、西にひらけた眺望のある位置とし
やがて青山の家のものは母屋の全部を御用掛りに明け渡すべき時が来た。往時
来るものは街道の両側に群れ集まるころであった。しかし、青山の家のものとしては、とどこおりなく御昼食も済んだと聞くまでは
歳の声を聞いた。その年の四月には、青山の家では森夫と和助を東京の方へ送り出したので、にわかに家
を並べて置きながら、子供心にわかってもわからなくても青山の家の昔を懇々と語り聞かせた。ひょっとするとこれが孫たちの見納めに
からも、風呂なぞもらいながら隣家から通って来て、よく青山の家に顔を見せる。お富が言うことには、
分別盛りの年ごろの人である。いよいよあの古い歴史のある青山の家も傾いて来て、没落の運命は避けがたいかもしれないという
は中牛馬会社に変わって、ことに本陣をも兼ねた青山のような家があの往時の武家と公役とのためにあったような大きな
。この際、半蔵の弟子としては、傾いて行く青山の家運をどうすることもできないが、せめて師匠だけは、そのあわれな境涯
静の屋と名づけてある二階建ての小楼で、青山の本家からもすこし離れた馬籠の裏側の位置にある。落合方面から馬籠の
得ないもののいかに多いかにつくづく想いいたった。傾きかけた青山の家の運命を見まもるにつけても、いつのまにか彼の心は
長男の宗太がいよいよ青山の家を整理しなければいけないと言い出したのも、その翌年(明治
たが、それから十年の後になって見ると、青山の家にできた大借は元利およそ三千六百円ばかりの惣高に上った。
実に急激に青山のような旧家の傾きかけて行ったのもその時からである。いろいろなこと
させるということもまたその時に起こって来た。青山所有の田畑屋敷地なぞを手放す相談も引き続きはじまった。井の平畠は桝田屋へ、
なことが一緒になって半蔵の胸にさし迫った。もともと青山の家督を跡目相続の宗太に早く譲らせたのも継母おまんの英断に出
でしかなかった宗太に跡目相続させたほどの、古い青山の家には用のないような人間であったその彼自身のつたなさ、
ている。伏見屋未亡人のお富から、下隣の新宅(青山所有の分家)を借りて住むお雪婆さんまでがその写真を見に来
。しかし古い家族の血統を重く考える彼としては、青山の血を伝えにこれから生まれて来るもののあるその新しいよろこびを和助にまで
の一人に招かれた。今さらここにことわるまでもなく、青山の家と万福寺との関係は開山のそもそもからで、それほど縁故の深い寺
を残したのみで、あの先祖道斎が建立した菩提寺も青山の家からは遠くなった。こんな事情があるにもかかわらず住持の松雲は
た顔つきで半蔵を見に来た。旧本陣時代には青山の家に出入りした十三人の百姓の中の一人だ。
とりあえず、笹屋庄助と小笹屋勝之助の二人は青山の本家まで半蔵を連れ戻った。ちょうど旧本陣の母屋を借りて住む医師小島拙
て住む医師小島拙斎は名古屋へ出張中の時であり、青山の当主宗太も木曾福島の勤め先の方で馬籠には留守居の家族ばかり残る
こんな取り込みの中で、秋の祭礼は進行した。青山の家に縁故の深い清助などは半蔵のことを心配して、祭りの前夜
どうして半蔵のような人が青山の家に縁故の深い万福寺を焼き捨てようと思い立ったろう。多くの村民にはどこに
なかった。なぜかなら、遠い昔に禅宗に帰依した青山の先祖道斎が村民のために建立したのも万福寺であり、今日の住持
ようなものの、警察の分署へ聞こえたら必ずやかましかろう、もし青山の親戚一同にこの事を内済にする意向があるなら、なぜ早くお師匠さま
が進み出て、これは宗太を出すにかぎる、宗太なら現に青山の当主であるからその人にさせるがいい、お師匠さまも自分の相続
の日も暮れかかった。栄吉らの勧めとあって、青山の家族の人々も仲の間に立ち会えという。このことを聞いたお民
気にはなれなかったと言って、裏二階に住む青山の家の人たちに見舞いを言い入れ、病人の容体を尋ねるだけにとどめて来
になった。多感な光景がそこにひらけた。生前古い青山の家にはもはや用のないような人間だとよく言い言いしたその半蔵
の間の隣り座敷に安置してあった。彼はまず青山の家族にあって、長い看護に疲れ顔なお民にも、七十八歳の高齢
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は他地方にも聞き及ぶ旨を申し立て、その例として飛騨国、大野、吉城、益田の三郡共有地、および美濃国は恵那郡、付知、
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もう長いこと義理ある半蔵をみまもって来た。半蔵があの中津川の景蔵や同じ町の香蔵などの学友と共に、若い時分から勤王家
。彼はまた、師のあとを追って東京に出た中津川の友人香蔵のことを正香の前に言い出し、師が参与と神祇官判事
京都と東京の間をよく往復するという先輩師岡正胤を中津川の方に迎え、その人を中心に東濃地方同門の四、五人の旧知
と半蔵は言って、師岡正胤らと共に中津川の方で書いたものを正香の前にひろげて見せた。平田篤胤没後の
「奥さん、この前もわたしは中津川の連中と一緒に一度お訪ねしましたが、しかしお宅の皆さんにしみじみ
「オヤ、もうお立ちでございますか。中津川へお寄りでしたら、浅見の奥さん(景蔵の妻)へもよろしくおっしゃってください
の学友、蜂谷香蔵、今こそあの同門の道づれも郷里中津川の旧廬に帰臥しているが、これも神祇局時代には権少史
東京の間をよく往復するという先輩師岡正胤を美濃の中津川の方に迎えた時のことを思い出し、その小集の席上で同門の人
学友のうち、その日記を書いた香蔵のように郷里中津川に病むものもある。同じ中津川に隠れたぎり、御一新後はずっと民間に沈黙を
た香蔵のように郷里中津川に病むものもある。同じ中津川に隠れたぎり、御一新後はずっと民間に沈黙をまもる景蔵のようなものもある
。東京から中仙道を通り、木曾路を経て、美濃の中津川まで八十六里余。さらに中津川から二十三里も奥へはいらなければ、その水無神社
木曾路を経て、美濃の中津川まで八十六里余。さらに中津川から二十三里も奥へはいらなければ、その水無神社に達することができない。
順路としてもいったんは国に帰り、それから美濃の中津川を経て飛騨へ向かいたいと願っていたが、種々な事情のために
もした。というのは、飛騨高山地方から美濃の中津川まで用達しに出て来た人があったとかで、伊之助は中津川で
に出て来た人があったとかで、伊之助は中津川でその人から聞き得たことをくわしい書付にして、それを平兵衛に託し
全く絶えるほどの日はなく、雪もさほど深くはない。中津川より下呂まで十二里である。その間の道が困難で、峠にかかれば
三日過ぎには半蔵は中津川まで動いた。この飛騨行きに彼は妻を同伴したいと思わないでは
中津川では、半蔵は東京の平田鉄胤老先生や同門の医者金丸恭順などの
するような道を伝えたいため、馬籠をあとにして中津川まで来た。飛騨の人々が首を長くして自分の往くのを待ちわびて
「あの中津川のお友だちと、半蔵さんとでは、どっちが歌はうまいんでしょう。」
「お雪婆さんですか。あの人は中津川から越して来ましたよ。」
日の通知を受けた人たちが、美濃の落合からも中津川からも集まりつつあった。板敷きになった酒店の方から酒の香気の通っ
とっくに故人であった。そればかりではない、彼は中津川の友人香蔵の死をも見送った。追い追いと旧知の亡くなって行くさびしさ
と言っているところへ、ちょうど馬籠の方からやって来る中津川の浅見老人(半蔵の旧友、景蔵のこと)にあった。この人も半蔵
を尋ねるだけにとどめて来たという。そういう景蔵は中津川をさして帰って行く人、勝重は落合からやって来た人であるが
というものに目をあけた半蔵が旧い学友のうち、中津川の香蔵もすでに故人となって、今は半蔵より十年ほども早く生まれ
も早く生まれた景蔵だけが残った。この平田門人は代々中津川の本陣で、もっぱら人馬郵伝の事を管掌し、東山道中十七駅の元締に
ておいでなさる。行きあって尋ねて見ますと、これから中津川へ京都の方の様子をききに行くつもりで家を出て来たところだ
たところだとおっしゃる。そんならちょうどいい、お師匠さまも中津川まで行かずに済むし、わたしどもも馬籠まで行かずに済む、峠の上
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ことを想像して、やがて彼は塩尻、下諏訪から追分、軽井沢へと取り、遠く郷里の方まで続いて行っている同じ街道を踏んで碓氷
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お粂が結婚のしたくのことについて、南殿村の稲葉の方からはすでにいろいろと打ち合わせがある。嫁女道中も三日がかりとして
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て、東の京をたたし、なまよみの甲斐の国、山梨の県を過ぎて、信濃路に巡りいでまし、諏訪のうみを見渡したまひ、
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としての土屋総蔵もまだ在職したが、ちょうど名古屋へ出かけた留守の時であった。そこでこの願書は磯部弥五六が取り次ぎ
大領主の手に移り、山村氏が幕府直轄を離れて名古屋の代官を承るようになって、尾州藩では山中の区域を定める方針を
香港から横浜の方に渡来したが、十月には名古屋の方に開かれるはずの愛知県英語学校の準備をするため、教師として
、明治四年のころはまだ十四歳のうら若さに当時名古屋県の福島出張所から名主見習いを申し付けられたほどで、この子にこそ父の
ある通行を数えて見ても、彦根よりする井伊掃部頭、名古屋よりする成瀬隼人之正、江戸よりする長崎奉行水野筑後守、老中間部下総
尾州藩出身の田中不二麿が中部地方最初の女学校を近く名古屋に打ち建てるとのうわさもある。一方には文明開化の波が押し寄せ、一方に
ても彼にとって一番親しみが深いからであった。名古屋の藩黌明倫堂に学んだ人たちの中から、不二麿のような教育の
肖像というものを見たことがある。それは翁が名古屋の吉川義信という画工にえがかせ、その上に和歌など自書して門人に
なくなった。わざわざ長崎まで遠く学びに行くものは、かえって名古屋あたりの方にもっとよい英語教師のあることを知るという世の中になって来
、維新間ぎわのごたごたの中でさ、他の家中衆から名古屋臭いとにらまれて、あの福島の祭りの晩に斬られた武士さ。世の中
を修めに行ったずっと年少なころの話もするし、名古屋で創立当時の師範学校に学んだころの話もする。弓夫は早く志を立て
の方を回らないで美濃路から東海道筋へと取り、名古屋まで出て行った時にあの城下町の床屋で髪を切った。多年古代紫の
薬がある。本家の母屋を借りて住む拙斎もちょうど名古屋へ出張中のころであったが、あの拙斎が馬籠を留守にする前に
。ちょうど旧本陣の母屋を借りて住む医師小島拙斎は名古屋へ出張中の時であり、青山の当主宗太も木曾福島の勤め先の方で馬籠
た。旧本陣の母屋を借りうけている医師小島拙斎も名古屋の出張先から帰って来ていて、最後まで半蔵の病床に付き添い、脚気衝心
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床屋の定連である。柳床と言って、わざわざ芝の増上寺あたりから頭を剃らせに来る和尚もあるというほど、剃刀を持たせて
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日暮れに近かったので、浪花講の看板を出した旅人宿を両国に見つけ、ひとまず彼はそこに草鞋の紐を解いた。
この彼が落ち着く先は例の両国の十一屋でもなかった。両国広小路は変わらずにあっても、十一屋はなかった。そこでは彼の懇意にした
を語り顔に彼の目に映った。この彼が落ち着く先は例の両国の十一屋でもなかった。両国広小路は変わらずにあっても、十一屋はなかっ
ずに訪ねて来てくれたと夫婦は言って、早速荷物と共に両国の宿屋を引き揚げて来るよう勧めてくれたことは、何よりも彼をよろこばせ
の途上にはあったが、しかしあの碓氷峠を越して来て、両国の旅人宿に草鞋を脱いだ晩から、さらに神田川に近い町中の空気の濃いとこ
に亭主多吉に誘われれば、名高い講釈師のかかるという両国の席亭の方へ一緒に足を向けることもある。そこへ新乗物町に住む医師の金
亭主に教えられて半蔵がおりおりあさりに行く古本屋が両国薬研堀の花屋敷という界隈の方にある。そこにも変わり者の隠居がいて、江
物揚げ場との多いごちゃごちゃした界隈ではあるが、旧両国広小路辺へもそう遠くなく、割合に閑静で、しかも町の響きも聞こえて来る
そう引っ込んでばかりいなくてもいいでしょう。せめて両国辺まで出てごらんなさい。台湾の征蕃兵がぽつぽつ帰って来るようになりま
屋敷を辞してから、半蔵が和助を案内して行ったのは旧両国広小路を通りぬけて左衛門橋を渡ったところだ。旧いなじみの多吉夫婦が住
も子に教えて置きたいと考える。そこで、ある日また、両国方面へと和助を誘い出した。本所横網には隅田川を前にして別荘風な西洋造
検事を入るる事。第二、法律を改正し、法廷用語は日英両国の国語となす事。第三、外国人に選挙権を与うる事。これほどの譲歩をして
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、藪原の三か村から出た総代と共に、半蔵は福島出張所から引き取って来た。もし土屋総蔵のような理解のある人に
して、過ぐる明治四年の十二月に名古屋県の福島出張所に差し出した最初の嘆願書の中の一節の意味である。山林事件と
しか取り設けてなかったほどの草創の時で、てんで木曾福島あたりにはまだ支庁も置かれなかった。遠い村々から松本までは二十里、
もあわせすべて官有地と心得よとの旨を口達した。この福島支庁の主任が言うようにすれば、五木という五木の生長するところは
書き出したのでもわかる。やがて、筑摩県の支庁も木曾福島の方に設けられ、権中属の本山盛徳が主任の官吏として
がある。馬籠村じゅうのものが吟味のかどで、かつて福島から来た役人に調べられたことがある。それは彼の本陣の家
て、幕府に代わって東山道中要害の地たる木曾谷と福島の関所とを護らせた。それより後、この谷はさらに尾州の大
うちには半蔵も馬籠を立てそうもなかった。伊之助は福島支庁の主任のやり口がどうも腑に落ちないと言って、いろいろな質問
のかかったところを出た。その日の泊まりと定めた福島にはいって懇意な旅籠屋に草鞋をぬいでからも、桟の方で初めて
福島から王滝まで、翌日もまた半蔵は道をつづけ、行人橋から御嶽山道に
か村の戸長を語らい合わせ、半蔵と共に名古屋県時代の福島出張所へも訴え出た仲間である。今度二度目の嘆願がこれまでにしたく
な森林におおわれた天然の嶮岨な難場であり、木曾福島に関所を置いた昔は鉄砲を改め女を改めるまでに一切の通行者
ここへ来るまで、半蔵は野尻の旅籠屋でよく眠らず、福島でもよく眠らずで、遠山五平方から引き返して禰宜の家に一晩
講中の宿とを兼ねたこの禰宜の古い家は、木曾福島から四里半も奥へはいった山麓の位置にある。木曾山のことを
。この社殿を今見る形に改めた造営者であり木曾福島の名君としても知られた山村蘇門の寄進にかかる記念の額で
月ころには、御嶽のふもとから王滝川について木曾福島の町まで出ると、おそらく地方の発行としては先駆と言ってよい
五月十二日も近づいたころ、福島支庁からの召喚状が馬籠にある戸長役場の方に届いた。戸長青山
そこそこに、また西のはずれから木曾路をたどった。この福島行きには、彼は心も進まなかった。
とりあえず、彼は福島へ呼び出されて行くことを隣家の伊之助に告げ、王滝の方へも使い
まま、まだ福島興禅寺に置いてある。街道について福島の町にはいると、大手橋から向かって右に当たる。指定の刻限まで
名古屋県時代の出張所にあててあった本営のまま、まだ福島興禅寺に置いてある。街道について福島の町にはいると、大手
行きあい、わずかの挨拶の言葉をかわした。その人は、福島にある彼の歌の友だちで、香川景樹の流れをくむものの一人で
したくもそこそこに帰路につこうとしたころの彼は、福島での知人の家などを訪ねる心も持たなかった人である。街道へ
から嘆願書提出のことに同意してくれているが、しかし福島支庁の権判事がかわりでもしないうちはだめだというらしいあの寿
もとより、福島支庁から言い渡された半蔵の戸長免職はきびしい督責を意味する。彼が
父が戸長の職を褫がれ青ざめた顔をして木曾福島から家に帰って来た時なぞも、彼女の小さな胸を傷めたこと
年のころはまだ十四歳のうら若さに当時名古屋県の福島出張所から名主見習いを申し付けられたほどで、この子にこそ父の俤の
から、今さら半蔵がなすべきことをなして、そのために福島支庁からきびしい督責をこうむったと聞かされても、そんなことには驚か
でも新たに布かれた徴兵令の初めての検査を受けに福島まで行くという村の若者なぞは改まった顔つきで、一人の村方惣代に
た月日を送って来たことを正香に語った。木曾福島の廃関に。本陣、脇本陣、問屋、庄屋、組頭の廃止に。一切
たものか、木曾谷山地従来の慣例いかんなぞは、てんで福島支庁官吏が問うところでない。言うところは、官有林規則のお請けを
たるべしの布告が出るほどの時節が到来した。木曾福島取締所の意をうけて三大区の区長らからそれを人民に通達する
の疵口も日に増し目立たないほどに癒え、最近に木曾福島の植松家から懇望のある新しい縁談に耳を傾けるほどになったとある
運び、山家らしい炬燵に夫のからだをあたためさせながら、木曾福島の植松家からあった娘お粂の縁談を語り出すのはお民だ
のところへも、新規な結婚話が、しかも思いがけない木曾福島の植松家の方から進められて来て、不思議な縁の、偶然の
に移り、徳音寺村に出、さらに岸に沿うて木曾福島、上松、須原、野尻、および三留野駅を通り、また田立村を過ぎ
木曾川は藪原辺ではただの小さな流れであるが、木曾福島の近くに至って御嶽山から流れ出るいちじるしい水流とその他の支流とを合併し
へ顔を見せたぎりだ。一度は娘お粂が木曾福島の植松家へ嫁いで行った時。一度は跡目相続の宗太のために
、池原文学御用掛りなぞの人々があると言わるる。福島の行在所において木曾の産馬を御覧になったことなぞ聞き伝えて、その
日鳥居峠お野立て、藪原および宮の越お小休み、木曾福島御一泊。二十七日桟お野立て、寝覚お小休み、三留野御一
家がある、お粂はその夫植松弓夫と共に木曾福島を出て東京京橋区鎗屋町というところに家を持っているからその方
さ、他の家中衆から名古屋臭いとにらまれて、あの福島の祭りの晩に斬られた武士さ。世の中も暗かったね。さすがに
でおれは思い出した。あの人の連れ合い(植松菖助、木曾福島旧関所番)は、お前、維新間ぎわのごたごたの中でさ、他の
の大番頭たちは彼がいきなりの帰参を肯じない。毎年福島に立つ毛付け(馬市)のために用意する製薬の心づかいは言うまでもなく
をさして引き揚げて来ることもまた早かった。かつては木曾福島山村氏の家中の武士として関所を預かる主な給人であり砲術の
から弟に暇を告げさせ、銀座四丁目の裏通りに住む木曾福島出身の旧士族野口寛の家族のもとに少年の身を寄せさせることに
、本家の宗太も西筑摩の郡書記を拝命して木曾福島の方へ行くようになったが交際交際で十円の月給ではなかなか
の葉をかぶって吟じ歩いたという渡辺方壺(木曾福島の故代官山村良由が師事した人)のたぐいか。半蔵のは、
に集まった。とにもかくにも宗太に来てもらおうと言って、木曾福島へ向け夜通しの飛脚に立つものがある。一同は相談の上、半蔵その
は名古屋へ出張中の時であり、青山の当主宗太も木曾福島の勤め先の方で馬籠には留守居の家族ばかり残る時であったが
馬籠訪問には、彼女はめったに離れたことのない木曾福島の家を離れ、子供も連れずであった。ただ商用で美濃路まで
十日過ぎであった。彼女が夫の弓夫もすでに木曾福島への帰参のかなったころで、長い留守居を預かって来た大番頭
そう馬籠での長逗留は許されないとあって、木曾福島の勤め先へ引き返した時のじきじきの話にも聞いて、ほぼ父のようす
「伯父さん、宗太も福島の方へ戻ってまいりましてね、馬籠のお父さんのことはいろいろ彼から
がお粂にいろいろなことを思い出させた。旦那が木曾福島への帰参のかなったころ、彼女は旦那と共に植松の旧い家の
はその方のことも心にかかり、それに馬籠と木曾福島との間は途中一晩は泊まらねばならなかったから、この往復だけ
、一同待ち受ける妻籠からの寿平次、実蔵、それに木曾福島からのお粂夫婦はまだ見えなかった。なんと言っても旧本陣の
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にどんな着物を選ぼうかの相談に移って行った。幸い京都麩屋町の伊勢久は年来懇意にする染め物屋であり、あそこの養子も
たちの動静を語るもので、今は松尾大宮司として京都と東京の間をよく往復するという先輩師岡正胤を中津川の方に迎え
例の等持院にある足利将軍らの木像の首を抜き取って京都三条河原に晒し物にした血気さかんなころの正香の相手は、この
身にしみたと見えて、伊那の方でも思い出し、京都や東京の方に行ってる時も思い出しました。おそらく、わたしは一生あの
に当たる。義髄はそのために庄屋の職を辞し、京都寺社奉行所と飯田千村役所との間を往復し、初志を貫徹するため
を智現という。行脚六年の修業の旅を終わり、京都本山の許しを得て名も松雲と改め、新住職として馬籠の
一方ならぬ世話になり、六年行脚の旅の途中で京都に煩った時にも着物や路銀を送ってもらったことがあり、本堂
に言い争わなかった。しかしもともと彼の武人気質は戊辰当時の京都において慶喜の処分問題につき勤王諸藩の代表者の間に激しい意見の
その考えに半蔵はやや心を安んじて、翌日はとりあえず、京都以来の平田鉄胤老先生をその隠棲に訪ねた。彼が亡き延胤
、未曾有の珍事であるとされたあの外国公使らが京都参内当時のことを引き合いに出すまでもなく、世界に向かってこの国を
たことを思い出した。彼はまた、松尾大宮司として京都と東京の間をよく往復するという先輩師岡正胤を美濃の中津川の方
ことであり、その声は水戸藩にも尾州藩にも京都儒者の間にも起こって来た修史の事業に根ざしたことであった
。彼が本陣問屋と庄屋を兼ねた時代には、とにもかくにも京都と江戸の間をつなぐ木曾街道中央の位置に住んで、山の中ながら
年来の慣習を破ってかつて異国人のために前例のない京都建春門を開かせたもうたことを思い、官武一途はもとより庶民に
慶応四年の五月から六月へかけて、伊勢路より京都への長道中を半蔵と共にしたその同じ思い出につながれている
副役に自分の代理を頼んで置いて、西の神戸京都間を主管する同国人の建築師長を訪ねるために、内地を旅する機会
、神戸京都間、それに前年ようやく起工の緒についた京都大津間を数えるに過ぎなかった。ホルサムはこの閑散な時を利用し、
て早く完成せられた東京横浜間を除いては、神戸京都間、それに前年ようやく起工の緒についた京都大津間を数えるに過ぎ
ごときはなかなか最初の意気込みどおりに進行しなかった。東京と京都の間をつなぐ幹線の計画すら、東海道を採るべきか、または東山道を
て二回にもわたり東山道を踏査し、早くも東京と京都の間をつなぐ鉄道幹線の基礎計画を立て、その測量に関する結果を政府
には尾張熱田の社司粟田知周について歌道を修め、京都に上って冷泉殿の歌会に列したこともあり、その後しばらく伴蒿蹊
工事も関ヶ原辺までしか延びて来ていない。東京と京都の間をつなぐ鉄道幹線も政府の方針は東山道に置いてあったから、
なく心は改まって、足も軽かった。当時は西の京都神戸方面よりする鉄道工事も関ヶ原辺までしか延びて来ていない。東京
れなかったので、三日事をみたぎり、ぶらりと京都の方へ出かけて行って、また仕えなかった。同じく二年に太政官は
は同郷の香蔵と相携えて国事に奔走し、あるいは京都まで出て幾多の政変の渦の中にも立ち、あるいは長州人士を引い
「そうでしたよ。ちょうど、わたしは京都の方でしたよ。あの手紙は伊勢久の店のものに頼んで、
いでなさる。行きあって尋ねて見ますと、これから中津川へ京都の方の様子をききに行くつもりで家を出て来たところだと
行く旅の渡り者なぞもある。もはや木曾路経由で東京と京都の間を往復する普通の旅客も至ってすくなかったが、中央の交通路とし
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は取って、切りさげた髪はもはや半ば白かったが、あの水戸浪士の同勢がおのおの手にして来た鋭い抜き身の鎗や抜刀をも
間部下総守、林大学頭、監察岩瀬肥後守から、水戸の武田耕雲斎、旧幕府の大目付で外国奉行を兼ねた山口駿河守なぞ
を眼前に生起する幾多の現象に結びつけて見て、かつて水戸から起こったものが筑波の旗上げとなり、尊攘の意志の表示ともなっ
て、成敗利害の外にあったことを思い出した。あの水戸人の持つたくましい攻撃力は敵としてその前にあらわれたすべてのものに
ことが、またしきりに彼の胸に浮かぶ。彼はあの水戸の苦しい党派争いがほとんど宗教戦争に似ていて、成敗利害の外に
いったん時代から沈んで行った水戸のことが、またしきりに彼の胸に浮かぶ。彼はあの水戸の苦しい
つは大義名分の声の高まったことであり、その声は水戸藩にも尾州藩にも京都儒者の間にも起こって来た修史の
たことのない壮年時代の自筆の所感だ。それは、水戸浪士がこの木曾街道を通り過ぎて行ったあとあたり、彼が東美濃や伊那の
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する井伊掃部頭、名古屋よりする成瀬隼人之正、江戸よりする長崎奉行水野筑後守、老中間部下総守、林大学頭、監察岩瀬肥後守
にわたったのである。奉書船以外の渡航禁止の高札が長崎に建てられ、五百石以上の大船を造ることをも許されなかったのは
も年々絶えないくらいであった。寛延年代には幕府は長崎入港の唐船を十五艘に制限し、さらに寛政三年よりは一か年十
国に来て隠れるものもすくなくはなく、その後のシナより長崎に渡来する僧侶で本国の方に名を知られたほどのものも年々
三艘である。過去の徳川時代において、唐船が長崎に来たのは、貞享元禄のころを最も多い時とする。正保元年
はじめて唐船があの長崎の港に来たのは永禄年代のことであり、南蛮船の来た
今は洋学することも割合に困難でなくなった。わざわざ長崎まで遠く学びに行くものは、かえって名古屋あたりの方にもっとよい英語教師の
宗太君」と言って、地方のことが話頭に上れば長崎まで英語を修めに行ったずっと年少なころの話もするし、名古屋で
百里、もしその老年の出発の日が来て、西は長崎の果てまでも道をたどりうるようであったら、遠く故郷の空を振り返っ
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の早いのを嫉む同輩のために讒せられて、山口藩和歌山藩等にお預けの身となったような境涯をも踏んで来て
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、高松、敦賀、大分、名東、北条、その他福岡、鳥取、島根諸県には新政をよろこばない土民が蜂起して、斬罪、絞首、
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にそむき、高松、敦賀、大分、名東、北条、その他福岡、鳥取、島根諸県には新政をよろこばない土民が蜂起して、斬罪、
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た。郡県の政治は多くの人民の期待にそむき、高松、敦賀、大分、名東、北条、その他福岡、鳥取、島根諸県には
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のように考えた者が多かったとのことである。高知藩の谷干城のような正直な人はそのことを言って、飛鳥尽き
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への道をあけるために進んで来た黒船の力が神戸大坂の開港開市を促した慶応三、四年度のことを引き合いに出すまで
する副役に自分の代理を頼んで置いて、西の神戸京都間を主管する同国人の建築師長を訪ねるために、内地を旅する
して早く完成せられた東京横浜間を除いては、神戸京都間、それに前年ようやく起工の緒についた京都大津間を数えるに
心は改まって、足も軽かった。当時は西の京都神戸方面よりする鉄道工事も関ヶ原辺までしか延びて来ていない。東京と
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流れたように、今またそれの形を変えたものが佐賀にも、土佐にも、薩摩にも活き返りつつあるのかと疑った
年から十年あたりへかけてはこの国も多事で、佐賀の変に、征台の役に、西南戦争に、政府の支出もおびただしく、
内争の影響するところは、岩倉右大臣の要撃となり、佐賀、熊本の暴動となり、かつては維新の大業をめがけて進んだ桐野利秋
の方で涜職の行為があって終身懲役に処せられ、佐賀の事変後にわずかに特赦の恩典に浴したとのうわさがあるくらいだ
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洋学者で、同時に本居平田の学説を深く体得した秋田の佐藤信淵のごとき人すらある。六十歳の声を聞いて家督を弟
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神戸京都間、それに前年ようやく起工の緒についた京都大津間を数えるに過ぎなかった。ホルサムはこの閑散な時を利用し、しばらく
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長野県西筑摩郡神坂村
て厳重な山林規則に触れ、毎戸かわるがわる一人ずつの犠牲者を長野裁判所の方へ送り出すことにしているような不幸な村もある。こんな
ものが半蔵の前にあらわれて来た。これは新任の長野県令あてに、木曾谷山地官民有の区別の再調査を請願する趣意で
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影響するところは、岩倉右大臣の要撃となり、佐賀、熊本の暴動となり、かつては維新の大業をめがけて進んだ桐野利秋らの
いう。全国徴兵の新制度を是認し大阪鎮台兵の一部を熊本に移してまでも訓練と規律とに重きを置こうとする干城と、その
明治六年五月ごろまで熊本鎮台の司令長官であった。熊本鎮台は九州各藩の兵より成り、当時やや一定の法規の下にはあっ
、利秋は陸軍少将として明治六年五月ごろまで熊本鎮台の司令長官であった。熊本鎮台は九州各藩の兵より成り、当時やや
は宵の空に西郷星が出たとか、きょうは熊本との連絡も絶えて官軍の籠城もおぼつかないとか聞くたびに、ただただ彼
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もので、これは明らかに仏教の変遷の歴史を語り、奈良朝以後に唐土から伝えられた密教そのものがインド教に影響された
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十年一日のように、多吉は深川米問屋の帳付けとか、あるいは茶を海外に輸出する貿易商の書役とかに
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をも枕もとに取り出し、あの同門の友人が書いてよこした東京の便りを繰り返し読んで見たりなぞして、きげんの悪い妻のそばに
の中でもことに半蔵には親しみの深い暮田正香の東京方面から木曾路を下って来るという通知が彼のもとへ届いた。
たと語った。彼はまた、師のあとを追って東京に出た中津川の友人香蔵のことを正香の前に言い出し、師
動静を語るもので、今は松尾大宮司として京都と東京の間をよく往復するという先輩師岡正胤を中津川の方に迎え、その
しみたと見えて、伊那の方でも思い出し、京都や東京の方に行ってる時も思い出しました。おそらく、わたしは一生あの酒の
明治七年は半蔵が松本から東京へかけての旅を思い立った年である。いよいよ継母おまんも例の生家
教師を村に得ただけでも、彼は安心して東京の方に向かうことができるわけだ。もともと彼は年若な時分から独学の
。しばらく休暇を与えられたいとの言葉をそこに残し、東京の新しい都を見うる日のことを想像して、やがて彼は塩尻、
たる高知県士族武市熊吉以下八人のものの手によって東京赤坂の途上に右大臣岩倉具視を要撃し、その身を傷つくるまでに
には馬、時には徒歩の旅人姿で、半蔵が東京への道をたどった木曾街道の五月は、この騒ぎのうわさがやや
町々へは祭りの季節が来ているころに、彼も東京にはいったのだ。
東京はまず無事。その考えに半蔵はやや心を安んじて、翌日はとりあえず、
もとより今度の半蔵が上京はただの東京見物ではない。彼が田中不二麿を訪ねた用事というもほかでは
東京まで半蔵が動いて見ると、昔気質の多吉の家ではまだ行燈だが
の生活にまであらわれて来るようになった。ことに、東京のようなところがそうだ。半蔵はそれを都会の人たちの風俗の
多吉夫婦は久しぶりで上京した半蔵をつかまえて、いろいろと東京の話をして聞かせるが、寄席の芸人が口に上る都々逸の類
あろうと言うものもある。元治年度の江戸を見た目で、東京を見ると、今は町々の角に自身番もなく、番太郎小屋もない。
に、町々の深さにはいって見る機会を持った。東京は、どれほどの広さに伸びている大きな都会とも、ちょっと見当のつけ
砂書き、阿呆陀羅、活惚、軽業なぞのいろいろな興行で東京見物の客を引きつけているところは、浅草六区のにぎわいに近い。目ざましい
でも、東京は発展の最中だ。旧本陣問屋時代に宿場と街道の世話をした
東京の町々はやがてその年の十月末を迎えた。常磐橋内にある
出た。そこは郷里の木曾川のようでもあれば、東京の隅田川のようでもある。水に棹さして流れを下って来る人が
を思い出した。彼はまた、松尾大宮司として京都と東京の間をよく往復するという先輩師岡正胤を美濃の中津川の方に迎え
は明治二年の五月であったが、惜しいことに東京の客舎で煩いついたと語った末に言った。
神社、俗に一の宮はこの半蔵を待ち受けているところだ。東京から中仙道を通り、木曾路を経て、美濃の中津川まで八十六里余。
半蔵の飛騨行きは確定したわけではない。彼は東京にある知人の誰彼が意見をもそれとなく聞いて見るために町を
言った。「お隅、青山さんが今度いらっしゃるところは、東京からだと、お前、百何里というから驚くね。お国からまだ
にもいた。その人は多吉の主人筋に当たり、東京にも横浜にも店を持ち、海外へ東海道辺の茶、椎茸、それ
神社宮司の拝命もおもてむきの沙汰となった。もはや彼の東京にとどまるのも数日を余すのみとなった。
すると、その巡査は区内の屯所のものであるが、東京裁判所からの通知を伝えに来たことを告げ、青山半蔵がここの家
食ったかの類だ。医者の診断がつくと彼は東京裁判所へ送られることとなって、同夜も入檻、十九日には裁判所
を待っている。そこは彼が一夏の間、慣れない東京の暑さに苦しんで、よく涼しい風を入れに行ったところだ。部屋
を思いかえした。彼の行為が罪に問われようとして東京裁判所の役人の前に立たせられた時、彼のわずかに申し立てたの
十一月二十九日に、半蔵は東京裁判所の大白洲へ呼び出された。その時、彼は掛りの役人から口書
東京の町々はすでに初雪を見る。もっとも、浅々と白く降り積もった上へ、夜
とうとう、半蔵は東京で年を越した。一年に一度の餅つき、やれ福茶だ、小梅だ
東京裁判所
通知もあった。今は彼も心ぜわしい。再び東京を見うるの日は、どんなにこの都も変わっているだろう。そんなこと
は伊之助のさしずで、峠村の平兵衛に金子を持たせ、東京まで半蔵を迎えによこすとの通知もあった。今は彼も心ぜ
指令を待たねばならなかった。一方にはまた、かく東京滞在の日も長引き、費用もかさむばかりで、金子調達のことを郷里の
ということに彼は心を励まされて一日も早く東京を立ち、木曾街道経由の順路としてもいったんは国に帰り、それ
正月の末まで半蔵は東京に滞在して、飛騨行きのしたくをととのえた。斎の道は遠く寂しく
いろいろな村の話を彼のところへ持って来た。東京から伝わる半蔵のうわさ――ことに例の神田橋外での出来事から入檻
られなかったような時だ。半蔵は多くの思いをこの東京に残して、やがて板橋経由で木曾街道の空に向かった。
前に旅の土産も取り出され、長い留守中の話や東京の方のうわさがそこへ始まると、早くも予定の日取りを聞きつけた村
あらわれた板屋根の下で主人の帰りを待ち受けていた。東京を立ってからの半蔵はすでに八十余里の道を踏んで来て、凍え
の顔を見て、いろいろ世話になった礼を述べ、東京浅草左衛門町までの旅先で届けてもらった金子のことも言い、継母にはまた
中津川では、半蔵は東京の平田鉄胤老先生や同門の医者金丸恭順などの話を持って、
、ただただ天の命を果たしうればそれでいいと思う。東京の旅以来、格別お世話になったことは、心から感謝する。ただお
四年あまり過ぎた。東京から東山道経由で木曾を西へ下って来て、馬籠の旅籠屋三浦屋の
の鉄道と言えば、支線として早く完成せられた東京横浜間を除いては、神戸京都間、それに前年ようやく起工の緒に
建築のごときはなかなか最初の意気込みどおりに進行しなかった。東京と京都の間をつなぐ幹線の計画すら、東海道を採るべきか、または
を率いて二回にもわたり東山道を踏査し、早くも東京と京都の間をつなぐ鉄道幹線の基礎計画を立て、その測量に関する結果
を残したところであった。ボイルの計画した線は東京より高崎に至り、高崎より松本に至り、さらに松本より加納に至るので
からとは言いながら、国を出てからの長い流浪、東京での教部省奉職の日から数えると、足掛け六年ぶりで彼も妻子
の胸に来る。あの山城の皇居を海に近い武蔵の東京に遷し、新しい都を建てられた当初の御志に変わりなく、従来深い
過ぐる年、東京神田橋外での献扇事件は思いがけないところで半蔵の身に響いて来
の四月には、青山の家では森夫と和助を東京の方へ送り出したので、にわかに家の内もさみしくなった。
の瞼をおしぬぐっていたが、いよいよ兄弟の子供が東京への初旅に踏み出すという朝は涙も見せなかった。
帯を織った。継母のおまんはおまんで、孫たちが東京へ立つ前日の朝は裏二階から母屋の囲炉裏ばたへ通って来て、
異存がなく、彼女から離れて行く森夫や和助のために東京の方へ持たせてやる羽織を織り、帯を織った。継母のおまん
お粂はその夫植松弓夫と共に木曾福島を出て東京京橋区鎗屋町というところに家を持っているからその方に二人の幼い
や本陣林のうちを割いて二人の教育費にあてる、幸い東京の方には今子供たちの姉の家がある、お粂はその夫植松
二人の子供は東京に遊学させる、木曾谷でも最も古い家族の一つに数えらるるところ
も大奮発で、二人の弟の遊学には自ら進んで東京まで連れて行くと言い出したばかりでなく、隣家伏見屋二代目のすぐ下
は旅もまだ容易でなかった。木曾の山の中から東京へ出るには、どうしても峠四つは越さねばならない。
出かけるという子供だし、弟の和助も兄たちについて東京の方へ勉強に行かれることを何よりのよろこびにして、お河童頭を
は、十三歳にもなってそんな頭をして行ったら東京へ出て笑われると言われ、宗太に手鋏でジョキジョキ髪を短くし
ももはや若夫婦を相手の後家であるが、この人は東京行きの二郎を宗太に託してやった関係からも、風呂なぞもらいながら隣家
ずっと木曾街道を通しの馬車であったが、それでも東京へはいるまでに七日かかった。植松夫婦は、名古屋生まれの鼻の隆
の光はいたるところの平野にみちあふれていた。馬車は東京万世橋の広小路まで行って、馬丁が柳並み木のかげのところに馬を
馬車に乗って見た。同乗の客の中にはやはり東京行きの四十格好の婦人もあったが、弟たちを引率した彼に
を引きあげたとか。追分まで行くと、そこにはもう東京行きの乗合馬車があった。彼も初めてその馬車に乗って見た。
宗太は弟たちの旅の話を持って無事に東京から帰って来た。一行四人のものが、みさやま峠にかかっ
「そう言えば、今度わたしは東京へ行って見て、姉さん(お粂)の肥ったには驚きました
引きよせたことなぞを思い出して、お民と二人の寝物語にまで東京の方のうわさで持ち切った。
静の屋に半蔵が二度目の春を迎えるころは、東京の平田鉄胤老先生ももはやとっくに故人であった。そればかりでは
た世帯を畳み、半蔵から預かった二人の弟たちをも東京に残して置いて、一家をあげて郷里の方へ引き揚げて来たころ
いた明治十六年の夏に当たる。ちょうどお粂夫婦は東京の京橋区鎗屋町の方にあった世帯を畳み、半蔵から預かった二人の
取り寄せ、その取次販売の路をひろげることを思い立ち、一時は東京池の端の守田宝丹にも対抗するほどの意気込みで、みごとな薬の看板まで
空気を呼吸することも早かった。年若な訓導として東京の小学校に教えたこともあり、大蔵省の収税吏として官員生活を
味わう生家の気安さでないものはなかったようである。東京の方にお粂夫婦が残して置いて来たという二人の弟たち
をそこへ語り出す。あの山家育ちの小学生も生まれて初めて東京魚河岸の鮮魚を味わい、これがオサシミだとお粂に言われた時は
せずに自分でも庖丁を執って見たりして、東京の方で一年ばかりも弟和助の世話をした時のことなぞを
へ心を誘われて行くようである。一家をあげて東京から郷里へ引き揚げて来てからも、茶屋酒の味の忘れられないその旦那
男の見栄のように競い合う人たちだからであった。東京の方に暮らした間、旦那はよく名高い作者の手に成った政治小説
思って、もしこの家政維持の方法が一歩をあやまるならせっかく東京まで修業に出した子供にも苦学させねばなるまいと思うと、
さんまでがその写真を見に来て、森夫はもうすっかり東京日本橋本町辺のお店ものになりすましていることの、和助の方にはまだ幼顔
三男の森夫と四男の和助が東京で撮った写真は、時をおいて、二枚ばかり半蔵の手にはいっ
であった。半蔵の耳に入る子供の話はしきりに東京の方の空恋しく思わせるようなことばかり。下隣のお雪婆さん
方によく頼んで置いて来たと言うが、正己が東京に日向家を訪ねて見た時の様子では長く弟を託して置く
馬車などで旅して行って、もう一度彼は以前の東京の新市街とは思われないほど繁華になった町中に彼自身を見いだし
する鉄道工事も関ヶ原辺までしか延びて来ていない。東京と京都の間をつなぐ鉄道幹線も政府の方針は東山道に置いてあった
置くことは彼の心が許さないからであった。この東京行きには、彼は中仙道の方を回らないで美濃路から東海道筋へ
自分の子に見て置けというつもりで、当時和助が東京の小学校に在学するよしを老公に告げた。老公が和助の年齢を尋ねる
は都会に遊学する和助の身のたよりなさを思って、東京在住の彼が知人の家々をも子に教えて置きたいと考える。そこ
一つであった。明治八年以来見る機会のなかった東京を再び見たいと思うこともまたその一つであった。野口の家
再び見る東京の雑然紛然とした過渡期の空気に包まれていたことも、半蔵
機会はあるまいと思いながら、やがて悄然とした半蔵が東京を去ったのもこの旅である。とにもかくにも彼は二人の子にあい、
「もうもう東京へ子供を見に行くことは懲りた。」
そんな、あなたのような、お槇の懐妊したことまで東京へ知らせてやるやつがあるもんですかね。」
なもので、まだ学問の何たるを解しない。彼が東京の旅で驚いて来た過渡期の空気、維新以来ほとほと絶頂に達したか
やがて成長ざかりの子が東京の方で小学の課程を終わるころのことであった。半蔵は和助から
書体までが自分のに似通うのを見るたびに、半蔵は東京の方にある和助のことをよく思い出すのであった。
な勢いで彼の方へ押し寄せて来た。彼はあの東京神田橋見附跡の外での多勢の混雑を今だに忘れることができない
は夫が遠く離れている子にもしきりにあいたがって、東京の和助のうわさの出ない日もないことなぞを娘に語り聞かせる。お民は
休んで行く旅の渡り者なぞもある。もはや木曾路経由で東京と京都の間を往復する普通の旅客も至ってすくなかったが、中央の交通路
「東京の平田家へは。」
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の小を討とうとするのは何事ぞとする岩倉大使および大久保利通らの帰朝者仲間、かつては共に手を携えて徳川幕府打倒の
役立ったとしても、その長い月日の間、岩倉、大久保、木戸らのごとき柱石たる人々が廃藩置県直後のこの国を留守にし
隆盛らは皆戦死し、その余波は当時政府の大立者たる大久保利通の身にまで及んで行った。
、上下をあげてそれを感じないものもない。岩倉、大久保、木戸らの柱石たる人々が廃藩置県直後の国を留守にし三年
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からの従者留学生を挙げて国を離れたことに思い比べ、品川の沖には花火まで揚げて見送るもののあった出発当時の花やかさに
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板橋から、半蔵が巣鴨、本郷通りへと取って、やがて神田明神の横手にさしかかった時、まず彼の聞きつけたのもその子供らの
わびしい旅の日を左衛門町に送っていた。彼は神田明神の境内へ出かけて行って、そこの社殿の片すみにすわり、静粛な
勢いで彼の方へ押し寄せて来た。彼はあの東京神田橋見附跡の外での多勢の混雑を今だに忘れることができない。
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木曾街道の終点とも言うべき板橋から、半蔵が巣鴨、本郷通りへと取って、やがて神田明神の横手にさしかかった時、まず
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たあとで、年のちがったかみさんは旅人宿を畳み、浅草の方に甲子飯の小料理屋を出しているとのことである。足の
いろいろな興行で東京見物の客を引きつけているところは、浅草六区のにぎわいに近い。目ざましい繁昌を約束するようなその界隈は新しいもの
父実蔵について上京したおりの土産である。浅草公園での早取り写真で、それには実蔵の一人子息と和助とだけ
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多吉夫婦と共に以前の本所相生町の方にいて、日比谷にある長州屋敷の打ち壊しに出あったことを覚えているが、今度上京し
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いう話も残っている。言って見れば、そのころの銀座は香具師の巣である。二丁目の熊の相撲、竹川町の犬の踊り
と街道の世話をした経験のある半蔵は、評判な銀座の方まで歩いて行って見て、そこに広げられた道路をおよそ何
なっている。この日向家から弟に暇を告げさせ、銀座四丁目の裏通りに住む木曾福島出身の旧士族野口寛の家族のもとに少年
に彼自身を見いだした。天金の横町と聞いて行って銀座四丁目の裏通りもすぐにわかった。周囲には時計の修繕をする店、
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の催促に日ごろ自分の家へ出入りする道具屋源兵衛を訪ねるため向島まで出向いた時、ふと途中の今戸の渡しでその源兵衛と同じ舟に
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輪の兄量一郎は横浜貿易商の店へ、弟利助は日本橋辺の穀問屋へ、共に年期奉公の身であるが、いずれこの二人
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に雇われ、前の建築師長エングランドのあとを承けて当時新橋横浜間の鉄道を主管する人である。明治の七年から十年あたり
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から離れなかった。過ぐる嘉永六年の夏に、東海道浦賀の宿、久里が浜の沖合いにあらわれたもの――その黒船の形を
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て、両国の旅人宿に草鞋を脱いだ晩から、さらに神田川に近い町中の空気の濃いところに身を置き得て、町人多吉夫婦の
秋が旅にある半蔵の身にひしひしと感じられた。神田川はその二階の位置から隠れて見えないまでも、ごちゃごちゃとした建物
の店へ勤めに通う亭主より一歩早く宿を出た。神田川について、朝じめりのした道路の土を踏んで行くと、
などを扱う店の側について細い路地をぬければ、神田川のすぐそばへも出られる。こんな倉庫と物揚げ場との多いごちゃごちゃした
その朝の河岸に近く舫ってある船、黒ずんで流れない神田川の水、さては石垣の上の倉庫の裏手に乾してある小さな鳥かごまで
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。そこは郷里の木曾川のようでもあれば、東京の隅田川のようでもある。水に棹さして流れを下って来る人がある。
また、両国方面へと和助を誘い出した。本所横網には隅田川を前にして別荘風な西洋造りの建物がある。そこには吉左衛門
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粂はその夫植松弓夫と共に木曾福島を出て東京京橋区鎗屋町というところに家を持っているからその方に二人の幼いもの
の隆いお婆さんや都育ちの男の子と共に、京橋鎗屋町の住居の方で宗太らを待ち受けていてくれたという。
明治十六年の夏に当たる。ちょうどお粂夫婦は東京の京橋区鎗屋町の方にあった世帯を畳み、半蔵から預かった二人の弟たち
の話によると、半蔵の預けた子供は二人ともあの京橋鎗屋町の家から数寄屋橋わきの小学校へ通わせて見たが、兄の