夜明け前 03 第二部上 / 島崎藤村
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たまたま、三百余人の長州藩の兵士を載せた船が大坂方面からその夜の中に兵庫の港に着い
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さてこそ、その声は追分からそう遠くない小諸藩の方に起こった。その影響は意外なところへ及んで、多少なりとも彼
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だと言われるのに、この街道を通って帰国した会津藩の負傷兵が自ら合戦の模様を語るところによれば、兵端を開いたの
測りかねるとのうわさであった。翌二十日にはさらに会津藩の鈴木為輔、川村三助の両人が重役の書面を携えて国情を申し出るために
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各国公使の一行は無事に西本願寺に着いた。公使らは各一名ずつの書記官を伴って来たから、一
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たり聞いたりして来たこと、大坂行幸の新帝には天保山の沖合いの方で初めて海軍の演習を御覧になったとのうわさの残って
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は江戸の方でかなりあばれていますからね。あいつが諏訪にも、小諸にも、木曾福島にも響いて来てると思うんです。
「香蔵さんは、諏訪から伊那の方へ回りました。二、三日帰りがおくれましょう。」
「今度は景蔵さんも大骨折りさ。われわれは諏訪まで総督を御案内しましたが、あそこで軍議が二派に別れて、
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信濃国、妻籠駅、郵便御用取扱所
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尾州の重臣田宮如雲なぞの動きを語る清助の話は、会津戦争に包まれて来た地方の空気を語っていないものはなかった。彼
おりもおりとて三、四千人からの諸藩の混成隊が会津戦争からそこへ引き揚げて来たとの報知もある。馬籠の宿場では、毎日
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救済に心を砕き、これまで蝦夷地ととなえられて来た北海道への開拓方諸有志の大移住が開始されたのも、これまた過
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するものの目をよろこばすころで、一大三角州をなした淀川の川口にはもはや春がめぐって来ていた。でも、うっかりロセスなぞは肩
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、綾小路二卿の家来という資格で、美濃の中津川、落合の両宿から信濃境の十曲峠にかかり、あれから木曾路にはいって、馬籠峠
美濃の大垣から、大井、中津川、落合と、順に東山道総督一行のあとを追って来たこの縫助は、幕府
はずれや駒場村の入り口に屯集し、中津川大橋の辺から落合の宿へかけては大変な事になって、そのために宿々村々の惣
さらに落合の宿まで帰って来ると、そこには半蔵が弟子の勝重の家がある
弟子の勝重の家がある。過ぐる年月の間、この落合から湯舟沢、山口なぞの村里へかけて、彼が学問の手引きをしたもの
になった絵屏風なぞが立て回してある。半蔵らもこの落合の宿まで帰って来ると、峠一つ越せば木曾の西のはずれへ出
落合の勝重の家でも話の出た農兵の召集が、六十日ほど前に
どうも、えらいことをやってくれましたよ。わたしも落合の稲葉屋へ寄って、あそこで大体の様子を聞いて来ました。伊之助
事にとどまらない。同じような事は中津川にも起こり、落合にも起こり、妻籠にも起こっている。現に、この改革に不服を唱え出し
は、めずらしく親しい人たちの顔がそろった。そこには落合から行った半蔵の弟子勝重のような若い顔さえ見いだされた。そしてその東美濃
して少年時代を馬籠本陣に送ったことのある勝重は落合から。奥の間の机の上では日中の蝋燭が静かにとぼった。
は清助が机の上をのぞきに来る。山口、湯舟沢、落合、それから中津川辺からの会葬者はだれとだれとであろうかというふう
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について、寺町の通りを三条まで歩いた。さらに三条大橋のたもとまで送って行った。その河原は正香にとって、通るたびに冷や汗
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が月の十五日と定められたというころに当たる。東海道回りの大総督の宮もすでに駿府に到着しているはずだと言わるる。
でぷんぷんする。彼はそれらの人たちを相手に、東海道の方に動いて行く鳳輦を想像し、菊の御紋のついた深紅色
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遠方の事もすみやかに相わかり、右器械を用い候えばワシントンまで一時の間に応答出来いたし候。カルホルニヤより日本へ十八日にて参り候儀
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どうあろうと――慶喜が大政を返上して置いて、大坂城へ引き取ったのは詐謀であると言われるようなことが、そもそも京都方の
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募りに応じて集まったという勤王の人たちですから、薩摩藩に付属して進退するようにッて、総督府からもその注意があり、東山道軍
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のほかむずかしくこれあるべく、その手段としてサガレン、ならびに蝦夷、函館を領し候よう英国にては心がけおり申し候。さ候えば露国を
便りと相成り申すべく候。英国は地続き満州よりも、蝦夷の方を格別に望みおり申し候。」
「わたしですか。蝦夷の方にいた時分でした。函館奉行の組頭に、喜多村瑞見という
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の上旬に上方には騒動が起こったとか、新帝が比叡山へ行幸の途中鳳輦を奪い奉ったものがあらわれたとかの類だ。種々
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た順路の日取りによると、二月二十三日は美濃の鵜沼宿お休み、太田宿お泊まりとある。その日、先鋒はすでに中津川に到着するはず
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に白く光るとがった鎗先を見ては隠れていた。三峰山というは後方にそびえる山である。昼は人目につくのを恐れて天井
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奥州から越後の新発田、村松、長岡、小千谷を経、さらに飯山、善光寺、松本を経て、五か月近い従軍からそこへ帰って来た人
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の官吏に伴われながら、新政府の大官貴顕と聞こえた三条、岩倉、鍋島、毛利、東久世の諸邸を回礼したと伝えらるることすら
群集の中を分けて、西に東にと走り回った。三条、二条の通りを縦に貫く堺町あたりの両側は、公使らの参内を待ち受ける
て、剣付き鉄砲を肩にした兵隊の一組が三条の方角から堺町通りを動いて来た。公使一行を護衛して来た人
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極東への道をあけるために進んで来たこの黒船の力は、すでに長崎、
しかし先着のオランダ人が極東に探り求めたものは、あとから来る人たちのためにすくなからぬ手引きとなっ
米国領事ハリスの口上書をここにすこし引き合いに出したい。極東に市場を開かせに来たアメリカの代表者をして彼ら自らを語らせ
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もある。全軍が大垣を立つ日から、軍を分けて甲州より進むか進まないかの方針にすら、薩長は土佐に反対するというありさま
は土佐に反対するというありさまだ。そのくせ薩軍では甲州の形勢を探らせに人をやると、土佐側でも別に人をやっ
の遅着は東山道軍のために誤解され、ことに甲州、上野両道で戦い勝って来た鼻息の荒さから、総攻撃の中止に傾い
東海道軍で、この友軍の態度を好戦的であるとなし、甲州での戦さのことなぞを悪しざまに言うものも出て来た。ここに両道
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日本に滞在し、オランダ使節フウテンハイムの一行に随って長崎から江戸へ往復したこともある人で、小倉、兵庫、大坂、京都、それから
もある人で、小倉、兵庫、大坂、京都、それから江戸なぞのそれまでヨーロッパにもよく知られていなかった内地の事情をあとから
また種々な話を書き残した。使節フウテンハイムの一行が最初に江戸へ到着した時のことだ。彼らは時の五代将軍綱吉が住む
西暦千六百九十二年(元禄五年)に、今一度オランダ使節は江戸へ参府することになった。そこでケンペルもまたその一行に加わって内地
江戸を去る前、フウテンハイムの一行は暇乞いとして将軍の居城を訪ねた。その
船も、日本皇帝への贈り物であったというが、江戸の役人は幕府へ献上したものだとして、京都まではそれも取り次ごう
ら自らを語らせたい。これは過ぐる安政四年、江戸の将軍謁見を許された後のハリスが堀田備中守の役宅で述べた口上
間に戦争が起こったのであるとし、あるものは江戸の旧政府に対する京都新政府の戦争であるとし、あるものはまた、
はどうひっくりかえるやも測りがたい時であると申し上げた。たとえば江戸に各諸藩の留守居を置くと同様なもので、外国と御交際になる
「江戸が攻撃されることになったら、横浜はどうなろう。」とロセスの声で
事業に対しても感謝されていい人だ。彼が江戸の方へにげ帰ったあとで、彼に謁見した外国人もあるが、いずれも
ものの、東国の物情はとかく穏やかでないと聞いて、江戸にある平田篤胤の稿本類がいつ兵火の災に罹るやも知れないと心配
、」と縫助はその話を引き取った。「わたしが江戸へ出ました時は、平田家でも評議の最中でした。江戸も騒がしゅう
ました時は、平田家でも評議の最中でした。江戸も騒がしゅうございましたよ。早速、お見舞いを申し上げて、それから保管方を申し出
でなければこの色は出ません。江戸紫と申して、江戸の水は紫に合いますし、京の水はまた紅によく合います。
及んで来ると思うものもなかった。その慶喜が軍艦で江戸の方へ去ったと聞いた時にすら、各藩の家中衆はまだまだ心を
なって来た。まあ、あの相良惣三一味のものが江戸の方でしたことを考えて見るがいい。天道にも目はあるぞ。
もともとこの江戸と京都との中央にあたる位置に、要害無双の関門とも言うべき木曾福島
わたしもそれは思う。なにしろ、あの相良惣三の仲間は江戸の方でかなりあばれていますからね。あいつが諏訪にも、小諸にも
んです。そこへ東山道軍の執事からあの通知でしょう、こりゃ江戸の敵を、飛んだところで打つようなことが起こって来た。」
て心を幕府に寄せる重臣らが幼主元千代を擁し、江戸に走り、幕軍に投じて事をあげようとするなどの風評がしきりに行なわれ
比べると、これはいちじるしい対照を見せる。これは京都でなく江戸をさして、あの過去三世紀にわたる文明と風俗と流行との中心とも
果てから進出して来た一騎当千の豪傑ぞろいかと見える。江戸ももはや中世的な封建制度の残骸以外になんらの希望をつなぐべきものを見いださ
縫助は、先師篤胤の稿本全部を江戸から伊那の谷の安全地帯に移し、京都にある平田家へその報告までも済まし
て、やっと一安心という帰りの旅の途中にある。いよいよ江戸の総攻撃も開始されるであろうと聞いては、兵火の災に罹らないうち
時は、あだかも江戸の総攻撃が月の十五日と定められたというころに当たる。東海道回りの
鳥羽の戦争が起こる前にさ、相良惣三の仲間が江戸の方であばれて来たことは、半蔵さんもそうくわしくは知りますまい。
、ふと彼の胸に浮かんだ。あの大目付が、京都から江戸への帰りに微行でやって来て、ひとりで彼の家の上段の間
中立の位置にある外国公使らまで認めないもののないこの江戸の主人の恭順に対して、それを攻めるという手はなかった。慶喜は
。慶喜は捨てうるかぎりのものを捨てることによって、江戸の市民を救った。
どんな形をとって、どこに飛び出すかもしれなかった。江戸の空は薄暗く、重い空気は八十三里の余もへだたった馬籠あたりの街道筋
の道がそれだ。周囲の事情は今までどおりのような江戸の屋敷住居を許さなくなったのだ。
「半蔵、江戸も大変だそうだねえ。」とおまんは言った。「さっきも、わたしが
も、彼は尾州藩の磅※隊その他と共に江戸まで行ったという従軍医が覚え書きの写しを手に入れた。名古屋の医者
以前にこの旧藩主が生麦償金事件の報告を携えて、江戸から木曾路を通行されたおりのことは、まだ半蔵の記憶に新しい。
「半蔵、江戸のお城はこの十一日に明け渡しになったのかい。」とまた吉左衛門
。」と半蔵は答える。「なんでも、東征軍が江戸へはいったのは先月の下旬ですから、ちょうどさくらのまっ盛りのころだったと
は床の上に静坐しながら話しつづけた。「この先、江戸もどうなろう。」
動かなかったほどの諸大名の家族ですら、住み慣れた江戸の方の屋敷をあとに見捨てて、今はあわただしく帰国の旅に上って来る
を踏んで来る屋敷方は、むしろその正反対で、なるべくは江戸に踏みとどまり、宗家の成り行きをも知りたく、今日の急に臨んでその先途も
市街の六分通りを武家で占領していたような江戸は、もはや終わりを告げつつあった。この際、徳川の親藩なぞで至急に
告げつつあった。この際、徳川の親藩なぞで至急に江戸を引き払わないものは、違勅の罪に問われるであろう。兵威をも示さ
よると、上屋敷、中屋敷、下屋敷から、小屋敷その他まで、江戸の市中に散在する紀州屋敷だけでも大小およそ六百戸の余もある。
「戦争もどうありましょう。江戸から白河口の方へ向かった東山道軍なぞは、どうしてなかなかの苦戦だ
もはや江戸もない。これまで江戸と呼び来たったところも東京と改められている。
もはや江戸もない。これまで江戸と呼び来たったところも東京と改められている。今度の行幸はその東京
江戸の方にあった道中奉行所の代わりに京都駅逓司の設置、定助郷その他
て各自の身代を築き上げた時であった。中には江戸に時めくお役人に取り入り、そのお声がかりから尾州侯の御用達を勤めるほどのものも
磊落な人ではないという話が出る。初めて一緒に江戸への旅をして横須賀在の公郷村に遠い先祖の遺族を訪ねた青年
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東にと走り回った。三条、二条の通りを縦に貫く堺町あたりの両側は、公使らの参内を待ち受ける人で、さながら立錐の地を余さ
て内外の事に働いている人であるが、丸太町と堺町との交叉する町角あたりに立って、多勢の男や女と一緒に使節一行
英国公使参内の当日には、繩手通り、三条通りから、堺町の往来筋へかけて、巳の刻より諸人通行留めの事とある。左右
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ならない。ペリイの取った航路は合衆国の東海岸からマデイラ、喜望峰を迂回して、モオリシアス、セイロン、シンガポオルを経、それからシナの海を進んで来た
このペリイが前発の二艘の石炭船を喜望峰とモオリシアスとに送らせるほどの用意をしたあとで、四隻の軍艦を
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出る。初めて一緒に江戸への旅をして横須賀在の公郷村に遠い先祖の遺族を訪ねた青年の日から、今はすでに四十二歳の厄年
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たものによると、兵庫は摂津の国にあって、明石から五里である、この港は南方に広い砂の堤防がある、須磨の
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「神祖(東照宮)に対しても何の面目がある。」――その声はどんな形を
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谷々の雪はあらかた溶けて行った。わずかに美濃境の恵那山の方に、その高い山間の谿谷に残った雪が矢の根の形に白く望まれる
方を子供にさして見せた。暮色につつまれて行く恵那山の大きな傾斜がその廊下の位置から望まれる。中津川の町は小山のかげになっ
馬籠本宿の東のはずれ近くまで禰宜を送って行った。恵那山を最高の峰とする幾つかの山嶽は屏風を立て回したように、その高い街道
はようやく長い冬ごもりの状態から抜け切ろうとするころである。恵那山の谿谷の方に起こるさかんな雪崩は半蔵が家あたりの位置から望まれないまでも
山々を客にさして見せた。その廊下の位置からは恵那山につづく幾つかの連峰全部を一目に見ることはできなかったが、そこには
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はまた、容易ならぬ記事も出て来た。小田原から神奈川の宿まで動いた時の東海道軍の前には、横浜居留民を保護するため
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である、この港は南方に広い砂の堤防がある、須磨の山から東方に当たって海上に突き出している、これは自然のものでは
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て見せた。あるものは京都府の駅逓印鑑、あるものは柏崎県の駅逓印鑑、あるものは民政裁判所の判鑑というふうに。
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「申し上げます。明後二十三日には堺の妙国寺で、土佐の暴動人に切腹を言い付けるそうでございます。つきましては、フランス
妙国寺に土州兵らの処刑があったという日の夕方には、執事がまた
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というころに当たる。東海道回りの大総督の宮もすでに駿府に到着しているはずだと言わるる。あの闘志に満ちた土佐兵が江戸
隊長富永孫太夫をはじめ総軍勢およそ七百八十余人の尾州兵と駿府で一緒になったことなぞを知った。さらに、彼はむさぼるように繰り返し読ん
名が出て来た。玄同が慶喜を救おうとして駿府へと急いだ記事が出て来た。「玄同さま」と言えば、半蔵
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初めて半蔵の目をあけてくれたあの旧師も、今は宇治の今北山に眠る故人だ。伊勢での寛斎老人は林崎文庫の学頭とし
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奥州から越後の新発田、村松、長岡、小千谷を経、さらに飯山、善光寺、松本を経て、五か月近い従軍から
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彼は書記官としての自分の勤めも忘れて、大坂道頓堀と淀の間を往復する川舟、その屋根をおおう画趣の深い苫、雨に
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暖かい雨はすでに幾たびか馬籠峠の上へもやって来た。どうかすると夜中に大雨が来て、谷々
四日にわたって東山道軍は馬籠峠の上を通り過ぎて行った。過ぐる文久元年の和宮様御降嫁以来、道幅は
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の庄屋の一人として、何度福島の地を踏み、大手門をくぐり、大手橋を渡り、その役所へ出頭したかしれない。しかし、
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たちがいずれ一騎当千の豪傑ぞろいであるとしても、おそらく中部地方の事情に暗い。これは捨て置くべき場合でないと考えたあの友人のあわただしい帰国
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切れないように、あの大和五条にも、生野にも、筑波山にも、あるいは長防二州にも、これまで各地に烽起しつつあった
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あそこで軍議が二派に別れて、薩長はどこまでも中山道を押して行こうとする、土佐は甲州方面の鎮撫を主張する――いや、
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案じられて、二人とも帰りを急いでいた。大津、草津を経て、京から下って来て見ると、思いがけない郷里の方のうわさ
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、衆議は容易に決しなかった。剣あるのみ、とは薩摩の西郷吉之助のような人の口から言い出されたことだという。もはや
けだし天子を尊ぶの誠意から出たのではなくて全く薩摩と長州との決議から出た事であろうと推測する輩の中からも起こり
部分なぞを父の枕もとで読み聞かせた。大城を請け取る役目も薩摩や長州でなくて、将軍家に縁故の深い尾州であったということも、
和宮さまは京都から御輿入れになったし、天璋院さまは薩摩からいらしったかただから。」
がやりますよ。梅屋の子供が長州、桝田屋の子供が薩摩、それから出店(桝田屋分家)の子供が土佐とかで、みんな戦ごっこです
朝廷に勢力を占めたところで、所詮永続きはおぼつかない。きっと薩摩と長州が戦功を争って、不和を生ずる時が来る。そうなると、元弘
なら、わたしにはちゃんとわかってます。あの人なら、そう薩摩や長州の自由になるもんじゃないと言いましょう。今度の復古は下からの
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ましょう。日本の国内に起こったことを聞いたら、驚いてパリから帰って来ましょう。」
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しかし彼ケンペルはそこに舞踏を演じつつある間にも、江戸城大奥の内部を細かに視察することを忘れなかった。彼は簾の隙間を
あったが、彼らは行装を整えて町を出、江戸城の関門を通り過ぎて第三の城郭に入り、そこで将軍謁見の時の来る
であるとのみ思っていたとか。彼らはその江戸城の大奥に導かれて、皇帝の居住する宮殿の中に身を置き得た
事をあげる計画があったとか。それはですね、江戸城に火を放つ、その隙に乗じて和宮さまを救い出す、それが真意であっ
辞し、広大な領地までそこへ投げ出してかかった徳川慶喜が江戸城に未練のあろうはずもない。いかに徳川家を疑い憎む反対者でも、当時
た。もとより、その直接交渉の任に当たり、あるいは主なき江戸城内にとどまって諸官の進退と諸般の処置とを総裁し順々として条理
とは官軍の中に起こる声であったばかりでなく、江戸城内の味方のものからも起こった。慶喜の心事を知らない兵士らの多く
は、早くも屋敷を引き揚げはじめたとの報もある。江戸城明け渡しの大詰めも近づきつつあったのだ。開城準備の交渉も進められている
て、おまんの前に置いて見せたは、東征軍が江戸城に達する前日を期して、全国の人民に告げた新帝の言葉で、今日の
に、半蔵は江戸表からの飛脚便りを受け取って、いよいよ江戸城の明け渡しが事実となったことを知った。
九門の大砲を備えて、事が起こらば直ちに邸内から江戸城を砲撃する手はずを定めていた。意外にも、東海道軍の遅着は
「つまり、江戸城は尾州藩のお預かりということになったのだね。」
さまとは、和宮さまのことです。お二人とも最後まで江戸城にお残りになったとありますよ。」
た当時、広大な領土までをそこへ投げ出すことを勧め、江戸城の明け渡しに際しても進んで官軍の先頭に立った尾州家に、このこと
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いうわけで。この通禧は過ぐる慶応三年の冬、筑前の方にいて、一つ開港場の様子を見て置いたらよかろうと人
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越後の新発田、村松、長岡、小千谷を経、さらに飯山、善光寺、松本を経て、五か月近い従軍からそこへ帰って来た人がある
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尾州兵は智恩院。薩州兵は相国寺。加州兵は南禅寺。
の通路でないまでも、智恩院を出る英国公使と、南禅寺を出るオランダ代理公使との通路に当たる。正香も縫助もまだ西洋人と
から参内する仏国公使ロセスを見ることはかなわなかったが、南禅寺を出たオランダ代理公使ブロックと、その書記官の両人が黒羅紗の日覆いのかかっ
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て、半蔵は峠村の組頭平兵衛を供に連れ、名古屋より伊勢、京都への旅に出た。かねて旧師宮川寛斎が伊勢宇治の館太夫方
あの旧師も、今は宇治の今北山に眠る故人だ。伊勢での寛斎老人は林崎文庫の学頭として和漢の学を講義し、かたわら医業を
の旅で、落合にも縁故の深い宮川寛斎の墓を伊勢の今北山に訪ねたことを勝重に語り、全国三千余人の門人を率いる平田
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「近いうちに君、名古屋藩も名古屋県となるんだそうじゃありませんか。そうなれば、福島総管所も福島
「そりゃ、名古屋県がこの木曾に出張所を置いて直接民政をやったころは、なんでも親切
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残った。そして徳川慶喜はすでに幾度か尾州の御隠居や越前の松平春嶽を通して謝罪と和解の意をいたしたということや、慶喜
「昨日は、岩倉様が見舞いに行く、越前の殿様(春嶽)が見舞いに行く、智恩院も大変だったそうです。」
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は深い高地があって、その遠い連山の間に山城から丹波にまたがるいくつかの高峰があるという日本人の説明を聞くだけにも満足する
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て来る宿内の馬方もある。順番に当たった人足たちが上町からも下町からも集まって来ている。
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において右より心づき申し候。シナ日本においても東インドの振り合いをもって、とくと御勘考これあり候ようしかるべくと存じ奉り候。
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て自由に濶歩しうる身となった。のみならず、水戸藩では朝命を奉じて佐幕派たる諸生党を討伐するというほどの一変し
同盟の軍を撃破するため東北方面に向かった時は、水戸藩でも会津に兵を出した。その中に、同藩銃隊長として奮戦
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ために進んで来たこの黒船の力は、すでに長崎、横浜、函館の三港を開かせたばかりでなく、さらに兵庫の港と、全国
が兵庫の港の方に集まって来たころである。横浜からも、長崎からも、函館からも、または上海方面からも。数隻
となった。ある外国船は急を告げるために兵庫から横浜へ向かい、ある外国船は函館へも長崎へも向かった。
の書記官メルメット・カションはこの容易ならぬ形勢を案じて、横浜からの飛脚船で兵庫の様子を探りに来た。兵庫には居留地の方
のところへ、江戸方面に在留する外人のほとんど全部がすでに横浜へ引き揚げたという報告を持って来た。英仏米等の外国軍艦からは
ことがかなわないならすみやかに浪華の地を退きたい、そして横浜にある居留民の保護に当たりたい一同の希望であると。これを聞くと、
自分ら三人は明十五日までに大坂を出発して横浜へ回航したい、と述べた。
、どうしたらよかろうと相談すると、仏国の軍艦はまさに横浜へ引き返そうとするところであるという。どうしてもこれは軍艦を引き留めね
の七名をそれまでには見つけて返すから、軍艦の横浜へ引き返すことだけは見合わせてほしいと依頼した。さて、通禧らは当惑し
を正午のところに引き直して行って、ようやく約束を果たし、横浜の方へ引き返すことだけはどうやら先方に思いとどまってもらった。
当たる。東征先鋒兼鎮撫総督らの進出する模様は、先年横浜に発行されたタイムス、またはヘラルドの英字新聞を通しても外人の間
「江戸が攻撃されることになったら、横浜はどうなろう。」とロセスの声で。
。そしてパアクスに向かって、すみやかに兵庫へ帰ろう、軍艦で横浜の方へおもむこうと説き勧めたという。でも、パアクスは頭を左右に振っ
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。それは木曾谷中を支配する地方御役所よりの通知で、尾張藩からの厳命に余儀なくこんな通知を送るとの苦い心持ちが言外に含まれて
の聞こえの高い山村蘇門(良由)が十数年も尾張藩の政事にあずかったころの長閑な城下町ではもとよりない。
も応でもその態度を明らかにせねばならない。尾張藩は、と見ると、これは一切の従来の行きがかりを捨て、勤王の士を
て昔を忘れないほどの高慢さである。ここには尾張藩の態度に対する非難の声が高まるばかりでなく、徳川氏の直属として
ない。いわゆる御三家の随一とも言われたほど勢力のある尾張藩が、率先してその領地を治め、近傍の諸藩を勧誘し、東征の進路
に処した。幼主元千代がそれらの首級をたずさえ、尾張藩の態度を朝野に明らかにするために上洛したのは、その年の正月
を潜めた原生林そのままの沈まり方である。わずかに尾張藩の山奉行が村民らの背伐りを監視するため、奥筋から順に村々
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生々しい土のにおいが半蔵らの鼻をついた。そこは青山の先祖をはじめ、十七代も連なり続いた古い家族の眠っているところだ、
深かった人たちが半蔵の家の方に招かれた。青山の家例として、その晩の蕎麦振舞には、近所の旦那衆が招か
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と協議し、岩倉公の意見をもきいた上で、名古屋城に帰って、その日に年寄渡辺新左衛門、城代格榊原勘解由、大番頭石川内蔵
だった。半蔵父子がこれまでのならわしによれば、あの名古屋城の藩主は「尾州の殿様」、これはその代官にあたるところから、「福島
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、後には百十九か村のものが木曾への通路にあたる風越山の山道を越しては助郷の勤めに通って来たが、彼ら百姓のこの労役
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早く紹介した。その書き残したものによると、兵庫は摂津の国にあって、明石から五里である、この港は南方に広い砂
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の一部隊は和田峠を越え、千曲川を渡って、追分の宿にまで達した。
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ように直接に伏見鳥羽の戦いに参加して、会津や桑名を助けようとしたようなところがなくもない。しかし、京都の形勢に対し
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送り届けることも容易でない。いずれ縫助の帰路は大津から中津川の方角であろうから、めんどうでもそれを届けてもらいたいというのであっ
「では、恐れ入りますが、これを中津川の浅見景蔵さんへ届けていただきたい。道中のお荷物になって、お邪魔でしょう
「中津川の浅見君にはよろしく言ってくれたまえ。それから、君が馬籠峠を通っ
知れ渡った。もっとも、京都にいて早くそのことを知った中津川の浅見景蔵が帰国を急いだころは、同じ東山道方面の庄屋本陣問屋仲間で
青山半蔵は馬籠本陣の方にいて、中津川にある二人の友人と同じように、西から進んで来る東山道軍を待ち受けた
辺の消息を語っている。半蔵は割合に年齢の近い中津川の香蔵を通して、あの年上の友人の国をさして急いで来た
の滋野井、綾小路二卿の家来という資格で、美濃の中津川、落合の両宿から信濃境の十曲峠にかかり、あれから木曾路にはいって
にしきりに箸を動かしている客もある。その人が中津川の景蔵だった。
「おとといはお前、中津川の景蔵さんまでお呼び出しで、ちょっと吾家へも寄って行ってくれたよ
たって福島の山村様の方へ願って出なけりゃならない。中津川の友だちとおれとは違うからね。あの幕府びいきの御家中がおれのよう
上段の間で昼食の時を送っていること、行く先は中津川で総督お迎えのために見えたこと、彼の家の門内には献上の馬
だれもがそのお馬をほめた。だれもがまた、中津川の方に山村氏の御隠居を待ち受けるものの何であるかを見定めることも
お休み、太田宿お泊まりとある。その日、先鋒はすでに中津川に到着するはずで、木曾福島から行った山村氏の御隠居が先鋒の重立っ
て行く恵那山の大きな傾斜がその廊下の位置から望まれる。中津川の町は小山のかげになって見えないまでも、遠く薄暗い空に反射する
「御覧、中津川の方の空が明るく見えるよ。篝でもたいているんだろうね。」
で、その日に作った長歌の清書などをした。中津川の友人景蔵の家がその晩の先鋒隊の本陣であることを考え、先年
「今から清助さんに頼んで置くが、わたしも中津川まで岩倉様のお迎えに行くつもりだ。その時は留守を願いますぜ。」
半蔵が中津川まで迎えに行って謁見を許された東山道総督岩倉少将は、ようやく十六、七
「あの御隠居さまもお気の毒さ。わざわざ中津川までお出ましでも、岩倉様の方でおあいにならなかったそうじゃないか
「半蔵さん、わたしは中津川の本陣へも寄って来たところです。ほら、君もおなじみの京都の
あの人も今度は総督のお供だそうですね。わたしは中津川まで帰って来てそのことを知りましたよ。」
美濃の大垣から、大井、中津川、落合と、順に東山道総督一行のあとを追って来たこの縫助は
しばらく休息の時を送ろうとしている。その中に、中津川の景蔵もいる。そこへ半蔵は挨拶に出て、自宅にこれらの人
と言いながら、おまんは美濃衆の前へ挨拶に行き、中津川の有志者の一人として知られた小野三郎兵衛の前へも行った。
「景蔵さん、まあ中津川まで帰って行って見たまえ。よいものが君を待っていますから。
「お民、香蔵さんは中津川へお帰りになるばかりじゃないよ。これからまた京都の方へお出かけになる
、夢にも忘れなかったあの古い都の地を踏み、中津川から出ている友人らの仮寓にたどり着いて、そこに草鞋の紐をといた
の十三峠を越せば大井の宿へ出られる。大井から中津川までは二里半しかない。
ございます。先月の二十三日あたりは大荒れでございまして、中津川じゃ大橋も流れました。一時は往還橋止めの騒ぎで、坂下辺も船留め
なってようやくしずまったということを知った。あいにくと、中津川の景蔵も、香蔵も、二人とも京都の方へ出ている留守中の
「まあ、中津川まで帰って行って見るんだ。」
中津川まで半蔵らは帰って来た。百姓の騒いだ様子は大井で聞いたより
れて行ったことがわかった。それらの百姓仲間は中津川の宿はずれや駒場村の入り口に屯集し、中津川大橋の辺から落合の宿
の役人も出張して来たが、村民らはみなみな中津川に逗留していて、容易に退散する気色もなかったとか。
半蔵が平兵衛を連れて歩いた町は、中津川の商家が軒を並べているところだ。壁は厚く、二階は低く、
中津川では、半蔵は友人景蔵の留守宅へも顔を出し、香蔵の留守
を出し、香蔵の留守宅へも立ち寄った。一方は中津川の本陣、一方は中津川の問屋、しっかりした留守居役があるにして
留守宅へも立ち寄った。一方は中津川の本陣、一方は中津川の問屋、しっかりした留守居役があるにしても、いずれも主人ら
へ出られる。美濃派の俳諧は古くからこの落合からも中津川からも彼の郷里の方へ流れ込んでいるし、馬籠出身の画家蘭渓の筆
忘れなかった。その覚え書きを見ると、付近の宿々村々から中津川に集合した宿役人、および村役人らが三郎兵衛の提議に同意して一同署名した
にした半蔵には、こんなことも心にかかった。中津川の小野三郎兵衛が尾州藩への嘆願書のうちには、百姓仲間が難渋する理由
あそこで大体の様子を聞いて来ました。伊之助さんも中津川までかけつけてくれたそうですね。」
で落合までかけて行きました。その翌日の晩は、中津川に集まった年寄役仲間で寄り合いをつけて、騒動のしずまったところを見届けて
のお富にたずねた。隠居金兵衛も九月の下旬から中津川の方へ遊びに行き、月がかわって馬籠に帰って来ると持病の痰
「あの人もお払い物を頼まれて、中津川の方へ行って来るから、帰るまでこれを預かってくれ、旦那がお留守
これは馬籠一宿の事にとどまらない。同じような事は中津川にも起こり、落合にも起こり、妻籠にも起こっている。現に、この改革
延胤も旅を急いでいた。これから、中津川泊まりで行こうという延胤のあとについて、一緒に中津川まで行くことを
泊まりで行こうという延胤のあとについて、一緒に中津川まで行くことを半蔵に勧めるのも縫助だ。そういう縫助も馬籠まで
一同中津川行きのしたくができた。そこで、出かけた。師鉄胤のうわさがいろいろ
一同の行く先は言うまでもなく中津川の本陣である。ちょうど半蔵の友人景蔵も、香蔵も、共に京都の
三か月ほど後に、中津川の香蔵が美濃を出発し、東京へとこころざして十曲峠を登って
あり、その隠れた骨折りは見のがすべきではないけれども、中津川の景蔵、香蔵、馬籠の半蔵なぞの同門の友だち仲間が諸先輩から承け継い
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そこへおもしろおかしい謡の囃子が聞こえる。三宮の方角に起こる群集の声は次第に近づいて来る。前年の冬、徳川十五
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らしい流言の渦中に巻き込まれた。追分の宿はもとより、軽井沢、沓掛から岩村田へかけて、軍用金を献じた地方の有志は皆、付近の
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衛ることになった。尾州兵は智恩院。薩州兵は相国寺。加州兵は南禅寺。
首を延ばして南の方角を望むものがある。そこは相国寺を出る仏国公使の通路でないまでも、智恩院を出る英国公使と、南禅
したことを語った。三国公使のうち、彼は相国寺から参内する仏国公使ロセスを見ることはかなわなかったが、南禅寺を出た
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ことを聞いたのも、百八十余人の彰義隊の戦士、輪王寺の宮が会津方面への脱走なぞを聞いたのも、やはり名古屋まで行った
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いたしたということや、慶喜その人は江戸東叡山の寛永寺にはいって謹慎の意を表しているといううわさなぞで持ち切った。
月の末まで待った。昨日は将軍家が江戸東叡山の寛永寺を出て二百人ばかりの従臣と共に水戸の方へ落ちて行かれた
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の戦さが起こった。この人は漁夫に変装して日々桂川に釣りを垂れ、幕府方や会津桑名の動静を探っては天龍寺にある長州
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徳川慶喜討伐の師がすでに京都を出発した上は、関東の形勢も安心なりがたい。もし早く帝に拝謁することがかなわないならすみやかに
時になって見ると、かつては軟弱な外交として関東を攻撃した新政府方も、幕府当局者と同じ悩みを経験せねばなら
オランダ公務代理総領事としてのブロックが関東の形勢の案じられると言うにも、相応の理由はあった。この人に
一度は恐縮し、一度は赤面した。先年の勅使が関東下向は勅諚もあるにはあったが、もっぱら鎖攘(鎖港攘夷の略)
今度の東山道先鋒は関東をめがけて進発するばかりでなく、同時に沿道諸国鎮撫の重大な使命を兼ね
よ。いろいろまた君のところへも書いてよこしますよ。関東の形勢がどんなに切迫したと言って見たところで、肝心の慶喜公
延胤は関東への行幸のことについてもいろいろと京都方の深い消息を伝えた。
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藩が一人というふうにね。鹿児島、津和野、高知、名古屋、金沢、秋田、それに仙台――数えて来ると、同門の藩士も
た慶長年代以来の古い歴史にもとづく。後に木曾地方は名古屋の管轄に移って、山村氏はさらに尾州の代官を承るようになったが
ことによって、時代の暗礁を乗り切ろうとしている。名古屋の方にある有力な御小納戸、年寄、用人らの佐幕派として
たげな。領地内に起こった出来事だで。それに、名古屋の御重職も一人、総督のお供をしているで。なにしろ、七藩から
たという従軍医が覚え書きの写しを手に入れた。名古屋の医者の手になった見聞録ともいうべきものだ。
の付属する一行が大総督の宮の御守衛として名古屋をたったのは二月の二十六日であったことから、先発の藩隊
「名古屋の神谷八郎右衛門さまと言えば、おれもお目にかかったことがある。
へかけて、半蔵は峠村の組頭平兵衛を供に連れ、名古屋より伊勢、京都への旅に出た。かねて旧師宮川寛斎が伊勢宇治の館
もしきりに雨が来た。この旅の間、半蔵は名古屋から伊勢路へかけてほとんど毎日のように降られ続け、わずかに旧師寛斎の墓前
でなく、越後口への進発ともなった。半蔵は名古屋まで行ってそれらの事情を胸にまとめることができた。武装解除を肯じ
宮が会津方面への脱走なぞを聞いたのも、やはり名古屋まで行った時であった。さらに京都まで行って見ると、そこではもはや
里ほどの道を歩いた。大湫は伊勢参宮または名古屋への別れ道に当たる鄙びた宿場で、その小駅から東は美濃らしい盆地へと
、中津川地方にはその人ありと知られた小野三郎兵衛が名古屋表へ昼夜兼行で早駕籠を急がせたということをも知った。
指南役として聞こえた宮谷家から来ているので、名古屋に款みを通じるとの疑いが菖助の上にかかっていたということ
ある。しかしそれが絶対の秘密とされただけに、名古屋の殿様と福島の旦那様との早晩まぬかれがたい衝突を予想させるかのよう
隠居(徳川慶勝)が朝命をうけて甲信警備の部署を名古屋に定め、自ら千五百の兵を指揮して太田に出陣し、家老千賀与八郎は
「して見ると、藩知事公かい。もう名古屋のお殿様でもないのかい。」
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奥州から越後の新発田、村松、長岡、小千谷を経、さらに飯山、善光寺、松本を
なる市川三左衛門らの徒を捕縛すべく従者数名を伴い奥州に赴いたという。官軍が大挙して奥羽同盟の軍を撃破するため東北
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旧諸藩はいずれも士族の救済に心を砕き、これまで蝦夷地ととなえられて来た北海道への開拓方諸有志の大移住が開始され
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翌日とを知人の訪問に費やし、出て来たついでに四条の雛市を見、寄れたら今一度正香のところへも寄って、京都を辞し
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横浜、函館の三港を開かせたばかりでなく、さらに兵庫の港と、全国商業の中心地とも言うべき大坂の都市をも開かせること
べき大坂の都市をも開かせることになった。実に兵庫の開港はアメリカ使節ペリイがこの国に渡来した当時からの懸案であり、
長崎から江戸へ往復したこともある人で、小倉、兵庫、大坂、京都、それから江戸なぞのそれまでヨーロッパにもよく知られてい
事情をあとから来るもののために書き残した。このオランダ人が兵庫の港というものを早く紹介した。その書き残したものによると、兵庫
ものを早く紹介した。その書き残したものによると、兵庫は摂津の国にあって、明石から五里である、この港は南方に
できたとの伝説も残っていると言ってある。この兵庫は下の関から大坂に至る間の最後の良港であって、使節フウテンハイムの
一行は三月はじめに長崎の出島を出発し、船で兵庫に着いて、大坂奉行をも京都所司代をも訪ねた。この再度の内地の
公使パアクスのような人も出て来た。彼らは兵庫の開港を迫って見、大坂の開市を迫って見て、その時初めて通商
商船十数艘、軍艦数隻、それらの外国船舶が兵庫の港の方に集まって来たころである。横浜からも、長崎からも
知るところとなった。ある外国船は急を告げるために兵庫から横浜へ向かい、ある外国船は函館へも長崎へも向かった。
この容易ならぬ形勢を案じて、横浜からの飛脚船で兵庫の様子を探りに来た。兵庫には居留地の方に新館のできるまで家
横浜からの飛脚船で兵庫の様子を探りに来た。兵庫には居留地の方に新館のできるまで家を借りて仮住居する同国の領事
新開の兵庫神戸でもこの例にはもれなかった時だ。そこへ仏国領事を見に
か。」と庄屋は言った。「お奉行さまはもう兵庫にはいません。」
する外人に出歩くなと言われても、自分らには兵庫から十里以内に歩行の自由がある。兵庫、神戸の住民は、世態の
らには兵庫から十里以内に歩行の自由がある。兵庫、神戸の住民は、世態の前途に改善の希望を置いて、この新しい港
情報を本国にもたらすもの、そんな人たちの通行が日夜に兵庫神戸辺の街道筋に続いていた。
慶応四年正月十一日のことだ。兵庫に在留する英国人の一人は神戸三宮の付近で、おりから上京の途中にある
の家中日置帯刀の従兵が上京の途すがらにあって、兵庫昼食で神戸三宮にさしかかったところ、おりから三名の英人がその行列を
事件以来、強硬な態度で聞こえたイギリスであり、それに兵庫にはこんな際の談判に当たるべき肝心な奉行もいない。兵庫奉行柴田剛中
の兵士を載せた船が大坂方面からその夜の中に兵庫の港に着いた。おそらく京坂地方もすでに鎮定したので、関税その他
。そこを宿衛の本拠として、その夜のうちに兵庫その他の警衛に従事した。そして非常を戒めた。
最初の和洋折衷の建築である。大坂の居館を去って兵庫の方に退いていた各国公使らは、それぞれ通訳に巧みな書記官をしたがえ
の運送船をも解放した。のみならず、彼は兵庫にある仮の居館に公使兼総領事として滞在して、地方一般の無
べからずとの意味を読んだ。その翌二十二日には兵庫に裁判所を兼ねた鎮台もできて、通禧がその総督に任ぜられたことも
ものである。この布告が合衆国公使ファルケンボルグの名で、日本兵庫神戸にある居留館において、として発表された。
名づくる汽船は、これも売り物で、暗夜にまぎれてこっそり兵庫に来たことはすぐその道のものに知れた。
旧暦の二月にはいって、兵庫にある外国公使らは大坂の会合に赴くため、それぞれしたくをはじめることになっ
その日、兵庫の永福寺の方では本犯者の処刑があると聞いて、パアクスは二人
の領事らに、それぞれ依頼すべきことは依頼した。兵庫、西宮から大坂間の街道筋は、山陰、山陽、西海、東海諸道からの要路
どうやら二月半ばの海も凪だ。いよいよ朝早く兵庫の地を離れて行くとなると、なんとなく油断のならない気がし
この人とても外交のことに明るいわけではない。いったい、兵庫から大坂へかけての最初の外国談判は、朝廷の新政治を外国公使に
たもう事、外国の交際も一切朝廷で引き受ける事は過日兵庫において布告したとおり相違のない旨を告げ、今回外国事務局を建てて
で智恩院へ駆けつけた。そしてパアクスに向かって、すみやかに兵庫へ帰ろう、軍艦で横浜の方へおもむこうと説き勧めたという。でも、パアクス
派の運命も見えてますね。それよりも、わたしは兵庫や大坂の開港開市ということの方が気にかかる。外国公使の参内も
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れたとの報知である。その乗組員はボートを出して堺の港内を遊び回っていたところ、にわかに土州兵のために岸から狙撃さ
は、通禧は五代、中井らの人たちと共に堺の旭茶屋に出張していた。済んだあとで何事もわからない。土佐
「申し上げます。明後二十三日には堺の妙国寺で、土佐の暴動人に切腹を言い付けるそうでございます。つき
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在したなら、戦争は必ず起こらなかったであろう。英仏両国の政府よりシナとの戦争に荷担するよう依頼を受けた時に、アメリカ大統領
うなることやら実に測りがたい。今の姿ではシナも英仏両国の望みをいれるのほかはあるまい、さもなくばシナ全国は皆英仏の所領とな
ため、ただいままでその沙汰なかりし儀にて、もし英仏両国に近くあらばもちろん、たとい一国にても御国と格別かけ離れおり申さず候
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船であった。それでも一度それらの南蛮船が長崎の沖合いに姿を現わした場合には、急を報ずる合図の烽火が岬
円山応挙が長崎の港を描いたころの南蛮船、もしくはオランダ船なるものは、風の
をあけるために進んで来たこの黒船の力は、すでに長崎、横浜、函館の三港を開かせたばかりでなく、さらに兵庫の港
を見た、兵庫市には城はない、その大きさは長崎ぐらいはあろう、海浜の人家は茅屋のみであるが、奥の方に当たっ
か年ほど日本に滞在し、オランダ使節フウテンハイムの一行に随って長崎から江戸へ往復したこともある人で、小倉、兵庫、大坂、京都
旅する再度の機会をとらえた。一行は三月はじめに長崎の出島を出発し、船で兵庫に着いて、大坂奉行をも京都所司代
が済んだ後、一行はしばらく休息の時を与えられ、長崎奉行の厚意により今一度よく室を参観することをも許された。
の方に集まって来たころである。横浜からも、長崎からも、函館からも、または上海方面からも。数隻の外国軍艦
ために兵庫から横浜へ向かい、ある外国船は函館へも長崎へも向かった。
兵を出して構浜居留地の保護に当たっている、おそらく長崎方面でも同様であろうとの報告をも持って来た。
へ行った。さらに五代才助の周旋で、三週間ばかりも長崎にいて、変名でオランダやイギリスの商人にもあい、米人フルベッキなどに
が行った。大山格之助の周旋で、薩州人になって長崎へ行った。さらに五代才助の周旋で、三週間ばかりも長崎にいて
からも思い立ったことがある。同時に、三条公にも長崎行きを勧めるものがあったが、同公は一方の大将であり、それ
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往復したこともある人で、小倉、兵庫、大坂、京都、それから江戸なぞのそれまでヨーロッパにもよく知られていなかった内地
が、一行のものは、それを拒んだ。彼らが京都所司代を訪ねた時はまた、一つの晴雨計を取り出して来る日本人があっ
を出発し、船で兵庫に着いて、大坂奉行をも京都所司代をも訪ねた。この再度の内地の旅は日本の自然や社会を
へささげるための国書が幕府の手に納められ、それが京都までは取り次がれなかった深い事情を知るよしもなかったのである。
として、京都まではそれも取り次ごうとしなかった。京都はあっても、ないも同様だ。主権簒奪の武将が兵馬を統べ、
江戸の役人は幕府へ献上したものだとして、京都まではそれも取り次ごうとしなかった。京都はあっても、ないも同様
態度が徳川方を激昂させて東西雄藩の正面衝突が京都よりほど遠からぬ淀川付近の地点に起こったとのうわさも伝わった。四
のであるとし、あるものは江戸の旧政府に対する京都新政府の戦争であるとし、あるものはまた、南軍と北軍とに
迎えてまだ間もない神戸三宮に突発した。しかも、京都新政府においては徳川慶喜征討令を発し、征討府を建て、熾仁
日、十四日は公使らが神戸運上所に集まって、京都新政府の使臣をそこに迎えるという日であった。
「自分は京都新政府に好意を表するため、かくも穏やかな取り計らいをした。これは
た。各国がいよいよ新政府を承認するなら、前例のない京都参府を各国使臣に許されるであろうとの内々の達しまであった。
月の九日になると、各国公使あての詫書が京都から届いた。それは陸奥陽之助が使者として持参したというもの
間に薄い。多年、排外の中心地として知られた京都にできた新政府である。この一大改革の機運を迎えて、開国の
出すのは仏国公使ロセスであった。たとい、前例のない京都参府が自分らに許されるとしても、大坂から先の旅はどう
時の英国公使の言葉に、徳川慶喜討伐の師がすでに京都を出発した上は、関東の形勢も安心なりがたい。もし早く帝に
滞坂になって、その上で進退せられたら。諸君も京都へ行って一度は天顔を拝するがいい。」
こうなすったら、いかがでしょう。明日中には謁見の日取りを京都からも申してまいりましょう。それまで御滞坂になって、その上で進退
各国公使の御対面なぞはもってのほかであるということで、京都へ入れることはいけないという奥向きの模様が急使をもって通禧のところ
、ひどく上京を躊躇するものとがあった。このことが京都の方に聞こえると、外国人の参内は奥向きではなはだむつかしい、各国公使の御
はなかなかそんな時でないことを奥向きへ申し上げた。肝心の京都からして信睦の実を示さないなら、諸外国の態度はどうひっくりかえるやも
これには通禧も驚かされた。早速京都への使者を立てて、今はなかなかそんな時でないことを奥向きへ申し上げ
ことが、それだ。この大きな土産は、通禧の使者が京都からもたらして帰って来たものだ。諸藩の留守居と思し召して各国公使
た。来たる十八日を期して各国公使に上京参内せよと京都から通知のあったことが、それだ。この大きな土産は、通禧の使者
罷り出ようとの相談に花を咲かせた。中には、京都を見うる日のこんなに早く来ようとは思わなかったと言い出すものが
外人禁制の都、京都へ。このことが英公使パアクスをよろこばせた上に、彼にはこの
でも会津、松山、高松、大多喜等の諸大名は皆京都に敵対するものとして、その屋敷をも領地をも召し上げらるべきよし
する男や女はその川岸にも群がり集まって来ている。京都の方へは中井弘蔵が数日前に先発し、小松帯刀、伊藤俊介
仏国船将ピレックス、およびトワアルの両人もフランス兵をしたがえて京都まで同行するはずであった。そこへオランダ代理公使ブロックと同国書記官クラインケエスも
旅の掟もやかましい。一行が京都へ着いた際の心得まで個条書になって細かく規定されている。
早く伏見へと願っているものがある。何が伏見や京都の方に自分ら外国人を待っているだろうと言って、そろそろ上陸後の
三国公使参内のうわさは早くも京都市民の間に伝わった。往昔、朝廷では玄蕃の官を置き、鴻臚
しかし、京都側として責任のある位置に立つものは、ただそれだけでは済まさ
どんな手配りをしてもその勤めを果たさねばならない。京都にある三大寺院は公使らの旅館にあてるために準備された。
小松帯刀、木戸準一郎、後藤象次郎、伊藤俊介、それに京都旅館の準備と接待とを命ぜられた中井弘蔵なぞは、どんな手配りをし
当時、京都は兵乱のあとを承けて、殺気もまだ全く消えうせない。ことに、神戸
埋めた。三国公使とも前後して伏見街道から無事に京都の旅館に到着した翌々日だ。その前日は雨で、一行はいずれも
を見ようとして遠近から集まって来た老若男女の群れは京都の町々を埋めた。三国公使とも前後して伏見街道から無事に京都
めずらしい異国の人たちは、これがうわさに聞いて来た京都かという顔つきで、正香らの見ているところを通り過ぎて行った。
京都は、東征軍の進発に、諸藩の人々の動きに、諸制度の改変
さん、よく君は出て来た。まあ、この復興の京都を見てくれたまえ。」
のは前年の暮れのことであった。当時そのことは京都にある師鉄胤のもとへ書面で通知してあったが、なお、
、師の平田鉄胤も今では全家をあげて京都に引き移っていて、参与として新政府の創業にあずかる重い位置に
ようになった松尾多勢子――数えて来ると、正月以来京都に集まっている同門の人たちは、伊那方面だけでも久兵衛の指に
が心配になりましたから、護りの御符は白河家(京都神祇伯)からもらい受けました。それを荷物に付けるやら、自分で宰領をする
た。彼は正香の言うように、それほどこの復興の京都に浸って見る時を持たないまでも、ともかくも師鉄胤の家を
を見、寄れたら今一度正香のところへも寄って、京都を辞し去ろうという人であった。彼は正香の言うように、それ
の一行が美濃を通過すると知って、にわかに景蔵は京都の仮寓を畳み、郷里をさして帰って行った。その節、注文の
縫助まで一緒になって笑い出した。「わたしも今度京都へ出て来て見て、皆が万国公法を振り回すには驚きました
。大坂を立つ時は小松帯刀と伊藤俊介とが付き添い、京都にはいった時は中井弘蔵と後藤象次郎とが伏見稲荷の辺に出迎え
「今は京都も騒がしゅうございますよ。諸藩の人が入り込んでおります。こんな新政府は
「暮田さん、今度わたしは京都に出て来て見て、そう思います。なんと言っても今の
加茂川の水に変わりはないまでも、京都はもはや昨日の京都ではない。人心を鼓舞するために新しく作られた「宮さま、宮
から奔り流れて来る加茂川の水に変わりはないまでも、京都はもはや昨日の京都ではない。人心を鼓舞するために新しく作られた
のことは早く東濃南信の地方にも知れ渡った。もっとも、京都にいて早くそのことを知った中津川の浅見景蔵が帰国を急いだころ
新政府の元締めとも言うべき位置にあって、自身に京都を離れかねる事情にあるところから、岩倉少将(具定)、同八千丸(
て地方から上京するものの多い中で、あの景蔵がわざわざ京都の方にあった仮寓を畳み、師の平田鉄胤にも別れを告げ
観望の態度を執った。慶喜が将軍職の位置を捨てて京都二条城を退いたと聞いた時にも、各藩ともにそれほど全国的な
を助けようとしたようなところがなくもない。しかし、京都の形勢に対しては、各藩ともに多く観望の態度を執った。慶喜が
新国家建設の大業を成し就ぐべきやとは、当時京都においても勤王諸藩の代表者の間に激しい意見の衝突を見た問題
ぐる冬十月の十二日に大小目付以下の諸有司を京都二条城の奥にあつめ、大政奉還の最後の決意を群臣に告げた時
半減の旗を押し立て、旧暦の二月のはじめにはすでに京都方面から木曾街道を下って来た。
殿や綾小路殿が人数を召し連れ、東国御下向のために京都を脱走せられたとのもっぱらな風評であるが、右は勅命をもっ
木曾福島の関所があるのは、あだかも大津伏見をへだてて京都を監視するような近江の湖水のほとりの位置に、三十五万石を領する井伊
もともとこの江戸と京都との中央にあたる位置に、要害無双の関門とも言うべき木曾福島の
)に従って上洛していたし、御隠居とても日夜京都に奔走して国を顧みるいとまもない。その隙を見て心を幕府
もよかった。先年七月の十七日、長州の大兵が京都を包囲した時、あの時の流れ丸はしばしば飛んで宮中の内垣に
たのは詐謀であると言われるようなことが、そもそも京都方の誤解であろうと、なかろうと――あまつさえ帰国を仰せ付けられた会津を
たのに比べると、これはいちじるしい対照を見せる。これは京都でなく江戸をさして、あの過去三世紀にわたる文明と風俗と流行と
篤胤の稿本全部を江戸から伊那の谷の安全地帯に移し、京都にある平田家へその報告までも済まして来て、やっと一安心という帰り
も寄って来たところです。ほら、君もおなじみの京都の伊勢久――あの亭主から、景蔵さんのところへ染め物を届けてくれ
話は直な人と来ている。半蔵は心にかかる京都の様子を知りたくて、暮田正香もどんな日を送っているかと自分
ものがあった。縫助は、「一つこの復興の京都を見て行ってくれ」と正香に言われたことを半蔵に語り、
実地を踏んで来た縫助の話には正香の住む京都衣の棚のあたりや、染物屋伊勢久の暖簾のかかった町のあたり
至当の刑に処せられるほどの世の中に変わって来た。京都を中心にして、国是を攘夷に置いた当時を追想すると、実
の住む錦小路に立ち寄り、正香らにも別れを告げて、京都を出立して来るころは、町々は再度の英国公使参内のうわさで持ち
「しかし、半蔵さん、今度わたしは京都の方へ行って見て、猫も杓子も万国公法を振り回すにはたまげ
した思いも届いたものだから、この上は今一度京都へ向かいたいとの意味のことをもらした。
も多く王事に尽くすものを求めている。自分は今一度京都に出て、新政府の創業にあずかっている師鉄胤を助けたい。
あの人はわたしの家へも寄ってくれて、いろいろな京都の土産話を置いて行きました。」
は中津川へお帰りになるばかりじゃないよ。これからまた京都の方へお出かけになる人だよ。」
「ええ、たぶん景蔵さんと一緒に。わたしもまた京都の方へ行って、しばらく老先生(鉄胤のこと)のそばで暮らし
。南条村の縫助が自分のところに置いて行った京都の話なぞをそこへ持ち出した。
はくわしい。今度はいろいろな便宜もありましょう。今度君が京都で暮らして見る一か月は、以前の三か月にも半年にも当たりましょう
「香蔵さん、君は京都のことはくわしい。今度はいろいろな便宜もありましょう。今度君が京都で
「さあ、もう一度京都へ行って見たら、どんなふうに変わっていましょうかさ。」
「なんでも縫助さんの話じゃ、京都は今、復興の最中だというじゃありませんか。」
「まあ、半蔵さん、わたしは京都の方へ出かけて行って、あの復興の都の中に身を置いて
、そこそこに帰りじたくをした。この友人の心は半分京都の方へ行っているようでもあった。別れぎわに、
ことが、ふと彼の胸に浮かんだ。あの大目付が、京都から江戸への帰りに微行でやって来て、ひとりで彼の家の
を知らない兵士らの多くは、その恭順をもってもっぱら京都に降るの意であるとなし、怒気髪を衝き、双眼には血涙を
に読みきかせたいと思って持って来たもので、京都方面の飛脚便りの中でも、わりかた信用の置ける聞書だった。当時ほど
潜んだ攘夷熱はまだ消えうせない。各国公使のうちには京都の遭難から危うく逃げ帰ったばかりのものもある。外人らは江戸攻撃の余波
お二人とも苦しい立場さね。そりゃ、お前、和宮さまは京都から御輿入れになったし、天璋院さまは薩摩からいらしったかただから
着かない。まず多数の侍女の中にまじっていて、京都方の様子をとくと見定めたと言いますね。それから、たち上がって、いきなり
をお迎えになって、言わばお姑さまとして、初めて京都方と御対面の時だったと覚えています。そこは天璋院さまです
香蔵さんからはそんな手紙でした。あの人も今じゃ京都の方ですからね。」
「さあ、それがです。京都の方ではもう遷都論が起こってるという話ですよ。香蔵さん
半蔵は峠村の組頭平兵衛を供に連れ、名古屋より伊勢、京都への旅に出た。かねて旧師宮川寛斎が伊勢宇治の館太夫方の
そこでもまた雨だ。定めない日和が続いた。かねて京都を見うる日もあらばと、夢にも忘れなかったあの古い都の
先輩暮田正香から、友人の香蔵や景蔵まで集まっている京都の方へ訪ねて行って見ると、そこでもまた雨だ。定めない
京都を立って帰路につくころから、ようやく彼は六月らしい日のめを見た
何百里の道を往復し、多年慶喜の背後にあって京都の守護をもって自ら任じた会津武士が、その正反対を西の諸藩に
たのも、やはり名古屋まで行った時であった。さらに京都まで行って見ると、そこではもはや奥羽征討のうわさで持ち切ってい
京都から大湫まで、半蔵らはすでに四十五里ほどの道を歩いた。大
行きあう旅人の群れもいろいろだ。それは半蔵らが伊勢路や京都の方で悩んだような雨ではなくて、もはや街道へ来る夏らしい
。あいにくと、中津川の景蔵も、香蔵も、二人とも京都の方へ出ている留守中の出来事だ。そのために、中津川地方に
は深く、格子はがっしりと造られていて、彼が京都の方で見て来た上方風な家屋の意匠が採り入れてある。木曾
。ことに香蔵が国に残して置く妻なぞは、京都の様子も聞きたがって、半蔵をつかまえて放さない。
に語り、全国三千余人の門人を率いる平田鉄胤をも京都の方で見て来たことを語った。それらの先輩のうわさは
「あなたがたは今、京都からお帰り。それは、それは。」と儀十郎が言った。「
「それがです。尾州藩のことですから、いずれ京都政府へ届け出るでしょう。政務の不行き届きからこんな騒擾に及んだのは恐れ入り奉るぐらい
の後ろから手を振って追いかけて来るのは勝重だ。京都の方で半蔵が見たり聞いたりして来たこと、大坂行幸の新帝
往復に日数は食うし、それにあの雨だ。伊勢路から京都まで、毎日毎日降って、降って、降りからかいて……」
「お父さん、京都の方を見て来た目で自分の家を見ると、こんな山家だっ
よかったんです。途中で、よっぽどそうは思ったけれど、京都の様子も気にかかるものですから、つい旅が長くなりました。」
「たぶん、半蔵さんのことだから、京都の方へお回りになるだろうッて、お富のやつともおうわさしてい
「まあ、京都の方の話もいろいろ伺いたいけれど。夜も短かし。」
一致してかからなかったら、世の中はどうなろう。もっと皆が京都の政府を信じてくれたら、こんな一揆も起こるまいとおれは思うんだ
よほどの決心なしに動かれる場合でもない。一方には京都市民の動揺があり、一方には静岡以東の御通行さえも懸念せられる
改められている。今度の行幸はその東京をさしての京都方の大きな動きである。これはよほどの決心なしに動かれる場合でも
十人の勤王家と共に幕吏のために捕えられて、京都六角の獄に投ぜられた。後に、この人は許されたが、
元治年代の長州志士らと運命を共にしたもの、京都六角通りの牢屋に囚われの身となっていたものなぞは数え切れないほどある。
江戸の方にあった道中奉行所の代わりに京都駅逓司の設置、定助郷その他種々な助郷名目の廃止なぞは皆この
て行ったというのも、これまた不思議でもない。京都駅逓司の新方針によると、たとい諸藩の印鑑で保証する送り荷たり
民意の開発に重きを置いた尾州藩中の具眼者がまず京都駅逓司の方針に賛成したことは不思議でもない。このことが尾州
東京と京都との間をつなぐ木曾街道の中央にあって、多年宿場に衣食し
役時代から持ち伝えた古い箱の紐を解いて見ると、京都道中通し駕籠、または通し人足の請負として、六組飛脚屋仲間
を案内して、その奥まった座敷で、延胤が今京都をさして帰る途中にあることから、かねて門人片桐春一を中心に山吹社中
日に旧江戸城にお着きになった新帝にもいったん京都の方へ還御あらせられたと聞く。それは旧冬十二月八日の
延胤は関東への行幸のことについてもいろいろと京都方の深い消息を伝えた。かくも諸国の人民が新帝を愛し奉り、
事が、この行幸のあとに待っていた。皇居を京都から東京に還し、そこに新しい都を打ち建てよとの声が、それだ。
ある。ちょうど半蔵の友人景蔵も、香蔵も、共に京都の方から帰って来ているころで、景蔵の家には、めずらしく親しい
方で、そこに皇居を定めたまい、平田家の人々も京都にあった住居を畳んで、すでに新しい都へ移った。
師の周囲に集まりつつある。彼が親しい先輩暮田正香は京都皇学所の監察に進んだ。
方へ手紙を出して、結納の小袖も、織り次第、京都の方へ染めにやると言ってやったくらいですよ。ごらんなさいな、
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に、開港の期日が来てしまったのだ。しかし、神戸村の東の寂しく荒れはてた海浜に新しい運上所が建てられ、それが和洋
の敗退に終わったともいう。このことは早くも兵庫神戸に在留する外人の知るところとなった。ある外国船は急を告げるため
あるから、当分神戸辺の街道筋を出歩かないように。神戸村の庄屋はそのことを仏国領事に伝えに来た。
ないものが多くて自然行き違いを生ずる懸念もあるから、当分神戸辺の街道筋を出歩かないように。神戸村の庄屋はそのことを仏国
がある。この地方にできた取締役なるものの一人だ。神戸村の庄屋生島四郎大夫と名のる人だ。上京する諸藩の兵士も数多くあっ
新開の兵庫神戸でもこの例にはもれなかった時だ。そこへ仏国領事を見に
は兵庫から十里以内に歩行の自由がある。兵庫、神戸の住民は、世態の前途に改善の希望を置いて、この新しい港を
神戸村の庄屋は言った。
を本国にもたらすもの、そんな人たちの通行が日夜に兵庫神戸辺の街道筋に続いていた。
新時代の幕はこんなふうに切って落とされた。兵庫神戸の新しい港を中心にして、開国の光景がそこにひらけて来た
な事件が、王政復古の日を迎えてまだ間もない神戸三宮に突発した。しかも、京都新政府においては徳川慶喜征討令
が西洋形の運送船およそ十七艘はことごとく抑留され、神戸の埠頭は英国のために一時占領せられたかたちとなった。
て戦闘準備を整えたのは、その時であった。神戸から大坂に続いて行っている街道両口の柵門には、監視の英国
ずっと湾内にある。この出来事を聞いた英国司令官は兵庫神戸付近が全くの無統治、無警察の状態におちいっているものと見なし、
正月十一日のことだ。兵庫に在留する英国人の一人は神戸三宮の付近で、おりから上京の途中にある備前藩の家中のものに
英国陸戦隊の上陸とともに、兵庫神戸の住民の間には非常な混乱を引き起こした。英国兵が実戦準備の
あるから、なるべく街道筋を出歩かないようにとは、かねて神戸村の臨時取締役たる庄屋生島四郎太夫から外国領事を通じて居留の外国人へ
帯刀の従兵が上京の途すがらにあって、兵庫昼食で神戸三宮にさしかかったところ、おりから三名の英人がその行列を横ぎろうと
過ぐる半月あまり安い思いも知らなかった兵庫神戸の住民が全く枕を高くして眠ることのできるようになったのは
十四日になってもまだやまない。その群集の声は神戸の海浜にある新しい運上所(税関)にまで響き伝わっていた。
ファルケンボルグの人たちだ。その日、十四日は公使らが神戸運上所に集まって、京都新政府の使臣をそこに迎えるという日で
ある。ガラス板でもって張った窓のある家もまだ神戸界隈に見られないころに、開港の記念としてできた最初の和洋
、公使らは思い思いにそれらの窓に近く行った。神戸は岸深で、将来の繁華を予想させる位置にはあったが、
あえてそう難題を持ち出そうとしなかった。即日にも穏やかに神戸の占領を解こうと言って、早速陸戦隊を引き揚げることを承諾した。
このパアクスだ。後は東久世通禧に約したように、兵庫神戸の警衛を全く長州兵の手に任せて、早速街道両口の木柵を取り払わ
討幕の官軍はいよいよ三道より出発するとのうわさが兵庫神戸まで伝わって来た。大総督有栖川宮は錦旗節刀を拝受して大坂に出
である。この布告が合衆国公使ファルケンボルグの名で、日本兵庫神戸にある居留館において、として発表された。
らはもはや大坂にいなかった。亡きフランス軍人のために神戸外人墓地での葬儀が営まれるのを機会に、関東方面の形勢も案じ
、かつその混雑を防ごうとする日本委員の心づかいによる。神戸三宮事件に、堺旭茶屋事件に、御一新早々苦い経験をなめさせられた
あとを承けて、殺気もまだ全く消えうせない。ことに、神戸堺の暴動、およびその処刑の始末等はひどく攘夷の党派に影響を及ぼし
に控えて、早く秩序の回復を希望するものばかりだ。神戸三宮事件に、堺旭茶屋事件に、潜んだ攘夷熱はまだ消えうせない。
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まだ新聞紙の発行を見ない。それでも会津、松山、高松、大多喜等の諸大名は皆京都に敵対するものとして、その屋敷
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にはまだ新聞紙の発行を見ない。それでも会津、松山、高松、大多喜等の諸大名は皆京都に敵対するものとして、
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それを送り届けることも容易でない。いずれ縫助の帰路は大津から中津川の方角であろうから、めんどうでもそれを届けてもらいたいという
いただけばたくさんです。あすの朝はわたしも早く立ちます。大津経由で、木曾街道の方に向かいます。ここでお別れとしましょう。
あったと言わねばならぬ。なぜかなら、西は大津から東は追分までの街道筋に当たる諸藩の領地を見渡しただけでも
関門とも言うべき木曾福島の関所があるのは、あだかも大津伏見をへだてて京都を監視するような近江の湖水のほとりの位置に、
ことも案じられて、二人とも帰りを急いでいた。大津、草津を経て、京から下って来て見ると、思いがけない郷里の
話にもあらわれている。その侍は水戸家に仕えた大津地方の門閥家で、藤田小四郎らの筑波組と一致の行動は執らなかっ
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。鹿児島、津和野、高知、名古屋、金沢、秋田、それに仙台――数えて来ると、同門の藩士もふえて来たね。山吹
ではなかった。伏見鳥羽の戦さに敗れた彼らは仙台藩等と共に上書して、逆賊の名を負い家屋敷を毀たれるの
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いうふうにね。鹿児島、津和野、高知、名古屋、金沢、秋田、それに仙台――数えて来ると、同門の藩士もふえて来
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一人というふうにね。鹿児島、津和野、高知、名古屋、金沢、秋田、それに仙台――数えて来ると、同門の藩士もふえ
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最も少ない藩が一人というふうにね。鹿児島、津和野、高知、名古屋、金沢、秋田、それに仙台――数えて来ると、同門の
そんなことを言う手合いに舌を巻かせて見せると憤激する高知藩の小監察なぞもある。全軍が大垣を立つ日から、軍を分け
また戦乱の世の中となるかもしれない。まあ、われわれは高知の方へ帰ったら、一層兵力を養って置いて、他日真の勤王を
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が十四人、最も少ない藩が一人というふうにね。鹿児島、津和野、高知、名古屋、金沢、秋田、それに仙台――数えて来る
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の友人と行動を共にしたかった。でも、木曾福島の代官山村氏の支配の下にある馬籠の庄屋に、それほどの自由
言外に含まれていないでもない。名古屋方と木曾福島の山村氏が配下との反目はそんなお触れ状のはじにも隠れた鋒先
、すでに正月のころからである。半蔵は幾たびか木曾福島の方から回って来るお触れ状を読んだ。それは木曾谷中を支配する
ほどの一大改革であるとさえ考えた。やがて一行は木曾福島の関所を通り過ぎて下諏訪に到着し、そのうちの一部隊は和田峠を
の戸田氏、岩村の松平氏、苗木の遠山氏、木曾福島の山村氏、それに高島の諏訪氏――数えて来ると、それら
意外な影響が及んで行った。馬籠本陣の半蔵が木曾福島へ呼び出されたのも、その際である。
そこは木曾福島の地方御役所だ。名高い関所のある街道筋から言えば、深い谷を流れる
または木曾谷三十三か村の庄屋の一人として、何度福島の地を踏み、大手門をくぐり、大手橋を渡り、その役所へ出頭
た。その中に控えているのが、当時佐幕論で福島の家中を動かしている用人の一人だ。おもなる取り調べ役だ。
木曾福島も、もはや天保文久年度の木曾福島ではない。創立のはじめに渡辺方壺を賓師に、後には武居
木曾福島も、もはや天保文久年度の木曾福島ではない。創立のはじめに渡辺方
さらに尾州の代官を承るようになったが、ここに住む福島の家中衆が徳川直属時代の誇りと長い間に養い来たった山嶽的
中央にあたる位置に、要害無双の関門とも言うべき木曾福島の関所があるのは、あだかも大津伏見をへだてて京都を監視するような
「福島もどうなろう。」
路傍に建てられてある高札場なぞを右に見て、福島の西の町はずれにあたる八沢というところまで歩いて行った時だ。
ものがある。ちょうど半蔵は供の平兵衛と連れだって、木曾福島を辞し、帰村の道につこうとしたばかりの時だ。街道に添う
筒を肩にかけている。屋敷町でない方に住む福島の町家の人で、大脇自笑について学んだこともある野口秀作と
世におくれる。でも青山さん、見ていてください。福島にも有志の者がなくはありませんよ。」
ここはあなた、うっかり咳ばらいもできないようなところですよ。福島はそういうところですよ。ほんとに――この谷も、こんなことじゃしかた
来るものはその崖になった坂の道から、初めて木曾福島の町をかなたに望むことのできるような位置にある。半蔵は帰って
寝覚で昼、とはよく言われる。半蔵らのように福島から立って来たものでも、あるいは西の方面からやって来るもので
完全に抜けきらないように見えていた。半蔵らは福島の立ち方がおそかったから、そこへ着いて足を休めようと思うころには
と一緒になることができた。景蔵は、これから木曾福島をさして出掛けるところだという。聞いて見ると、地方御役所からの差紙
その時、二人は顔を見合わせて、互いに木曾福島の役人衆が意図を読んだ。
は、だれだって偽官軍だなんて言うものはなかった。福島の関所だって黙って通したじゃありませんか。奉行から用人まで迎え
ますからね。あいつが諏訪にも、小諸にも、木曾福島にも響いて来てると思うんです。そこへ東山道軍の執事からあの
。」と景蔵の方でも言った。「おかげで、福島の方の様子もわかりました。」
「どれ、福島の方へ行ってしかられて来るか。」
木曾谷は福島から須原までを中三宿とする。その日は野尻泊まりで、半蔵らは
の時だ。それでも三留野の宿まで行くと、福島あたりで堅かった梅の蕾がすでにほころびかけていた。
これは大火のために会所の門を失った。半蔵が福島の方から引き返して、地方御役所でしかられて来たありのままを寿平次に
半蔵は福島出張中のことを父に告げるため、馬籠本陣の裏二階にある梯子段を
「半蔵、福島の方はどうだったい。」
有志は進んで献金もしたわけです。そうはわたしも福島のお役所じゃ言えませんでした。まあ、お父さんやお母さんの前ですから話し
見に来ている馬籠村の組頭庄助もいる。庄助も福島からの彼の帰りのおそいのを案じていた一人なのだ。その
もいい。おれがお供をするとしたら、どうしたって福島の山村様の方へ願って出なけりゃならない。中津川の友だちとおれと
尾州の殿様」、これはその代官にあたるところから、「福島の旦那様」と呼び来たった主人公である。
ために、奥筋の方から早駕籠を急がせて来る木曾福島の役人衆もあった。それらの人たちが往き還りに馬籠の宿を
と名乗る両名の厩仲間のものがお口取りに選ばれ、福島からお供を仰せつけられて来たとのこと。試みに吉左衛門はその駒の
「それを言うな。福島の御家中がどうあろうと、あの御隠居さまには御隠居さまのお
。その日、先鋒はすでに中津川に到着するはずで、木曾福島から行った山村氏の御隠居が先鋒の重立った隊長らと会見せらるる
を負わせられるのは何の事かと言って、木曾福島の武士なぞはそれをくやしがっている。しかし、多くの庄屋、本陣、
「そう言えば、清助さんは福島の御隠居さまのことをお聞きか。」とおまんが言う。
「まあ、御隠居さまはああいうかたでも、木曾福島の御家来衆に不審のかどがあると言うんだろうね。献上した
「何にしても、福島での御通行は見ものです。」
を明け渡して、五百七十人からの人数が今度のお供でしょう。福島の御家中でも、そうはがんばれまい。」
「でも、景蔵さん、福島での御通行があんなにすらすら行くとは思いませんでしたよ。」
「これも大勢でしょう。福島の本陣へは山村家の人が来ましてね、恭順を誓うという
聞いたら、さぞあの阿爺も安心しましょう。旧い、旧い木曾福島の旦那さまですからね。」
を迎えるころには、にわかに人の往来も多く、木曾福島からの役人衆もきまりで街道を上って来るが、その年の春に
領主が管轄の区域には属しながら、年貢米だけを木曾福島の代官山村氏に納めているような、そういう特別な土地の関係は
しれません。あるいは徒党の頭取になったものだけを木曾福島へ呼び出して、あの代官所で調べるぐらいのことはありましょうか。ナニ、
歩役の農兵と一人の付き添いの宰領とを村から木曾福島の方へ送った。
持たなかった。過ぐる閏四月の五日には木曾福島からの役人が出張して来て、この村社へ村中一統を呼び出しての
言って、木曾谷中一同が申し合わせ、農兵呼び戻しのことを木曾福島のお役所へ訴えたのは、同じ月の二十日のことであったが
た。「先月の二十六日には農兵呼び戻しの件で、福島のお役所からはお役人が御出張になる。二十九日にはお前、井伊掃部頭
歩調を合わせるなら、論はありません。谷中の農兵は福島の武士に連れられて行きましたが、どうも行く先が案じられると言う
「待ってくださいよ。そりゃ木曾福島の御家中衆が尾州藩と歩調を合わせるなら、論はありません。
二十六日――あれは麦の片づく時分でしたが、とうとう福島のお役所からお役人に出張してもらいまして、その時も大評定。どう
は九郎兵衛(問屋)さんなぞによく頼んで置いて、早速福島のお役所へ飛脚を走らせる、それから半分夢中で落合までかけて行きまし
木曾谷の奥へは福島の夏祭りもやって来るようになった。馬籠荒町の禰宜、松下千里は
五平次の教えを受けた手利きの人たちであるが、福島の祭りの晩にまぎれて重職植松菖助を水無神社分社からの帰り路を要撃
奥筋からの風の便りが木曾福島の変事を伝えたのも、その祭りのころであった。尾州代官山村
が絶対の秘密とされただけに、名古屋の殿様と福島の旦那様との早晩まぬかれがたい衝突を予想させるかのような底気味の
一揆のですか。そう言えば、与川じゃ七人だけ、福島のお役所へ呼び出されることになったそうです。ところが七人が七人
吉左衛門らの退役と隠居がきき届けられた日に、同じく木曾福島の代官所からの剪紙(召喚状)を受け、一方は本陣問屋庄屋三
旦那様愛蔵の掛け物の一つであった。あの平兵衛が福島の用人からの依頼を受けて、それを断わりきれずに、あちこちと周旋
行った一幅の軸をそこへ取り出した。それは木曾福島の代官山村氏が御勝手仕法立の件で、お払い物として伊之助
頼みに来たものだ。その実力においては次第に福島の家中衆からもおそれられたが、しかし養父とても一町人である。
の売買にもたずさわって来た人である。その年の福島の夏祭りの夜に非命の最期をとげた植松菖助なぞは御関所番の
木曾谷を支配し、要害無双の関門と言われた木曾福島の関所を預かって来たあの旦那様にも、もはや大勢のいかんともしがたい
映るその掛け物を伊之助と一緒に拝見に行った。彼は福島の旦那様の前へでも出たように、まず平身低頭の態度を
の酒の上ぐらいで、まさかそんな乱暴は働きますまい。福島辺は今、よほどごたごたしていて、官軍の迎え方が下四か
宿役人を勤めたのである。そのおりの当選者が木曾福島にある代官地へのお目見えには、両旦那様をはじめ、家老、用人
西から馬籠昼食の予定で街道を進んで来た。木曾福島行きの御連中である。ちょうど余日もすくない年の暮れにあたり、宿内にあり合わせた
たのは、暮れの二十六日であった。その時の福島方の立ち合いは、白洲新五左衛門と原佐平太とで、騎馬組一列、
。暮れに、七、八十人の尾州藩の一隊が木曾福島をさしてこの馬籠峠の上を急いだは、実は同藩の槍士隊
木曾福島の関所もすでに崩れて行った。暮れに、七、八十人の尾州藩
も当分立ち合いの名儀にとどまって、実際の指揮はすでに福島興禅寺を仮の本営とする尾州御側用人吉田猿松の手に移った
福島代官所の廃止もそのあとに続いた。山村氏が木曾谷中の支配も
唱えるはずである。ついては二名の宿方総代を至急福島へ出頭させるようにとも認めてある。もはや、革新につぐ革新、
谷の人民はこんなふうにして新しい主人公を迎えた。福島の代官所もやがて総管所と改められるころには、御一新の方針にもとづく
起こっている。現に、この改革に不服を唱え出した木曾福島をはじめ、奈良井、宮の越、上松、三留野、都合五か宿の
福島総管所の方へ呼び出された二人の総代は旧暦二月の雪どけの道
して来たのも青山家代々のものだからね。福島の総管所から来る書付にもそのことは書いてある。これまで本陣問屋
た後、彼は大急ぎで自分でもしたくして、木曾福島の旅籠屋までそのあとを追いかけた。
木曾福島の関所も廃されてからは、上り下りの旅行者を監視する番人の影も
それでも交通輸送に事を欠くまいというのが、福島総管所の方針であるらしいことなぞを父に告げた。
、半蔵は尾州家の早い版籍奉還を聞きつけた。彼は福島総管所から来たその通知を父のところへ持って行って読み聞かせた。
すでに起こって来た木曾福島の関所の廃止、代官所廃止、種々な助郷名目の廃止、刎銭の廃止
、早速本陣へかけつけて来た。中でも、伊之助は福島総管所からのお触状により、新政府が産業奨励の趣意から設けられ
通知を彼のもとに置いて行く。金札不渡りのため、福島総管所が百方周旋の結果、木曾谷へ輸入されるはずの大井米が
そうじゃありませんか。そうなれば、福島総管所も福島出張所と改まるという話ですね。今度来る土屋総蔵という人は、
となるんだそうじゃありませんか。そうなれば、福島総管所も福島出張所と改まるという話ですね。今度来る土屋総蔵と
地方の人民に知らしめ、廃関以来不平も多かるべき木曾福島をも動揺せしめなかったのは、尾州の勘定奉行から木曾谷の民政
た。すでに十三歳にもなる。来たる年には木曾福島の方へ送って、大脇自笑の塾にでも入門させ、自分の
たところである。お民が人のうわさによく聞いた木曾福島の関所の建物、彼女の夫がよく足を運んだ山村氏の代官屋敷
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あると言うんで、三五沢で天誅さ。軍規のやかましい水戸浪士ですら、それですよ。」
「水戸浪士の時のことを考えて見たまえ。幹部の目を盗んで民家
「清助さん、水戸浪士のことをきいてごらん。」と横鎗を入れるのは宗太だ。
「清助さん、水戸浪士のことなら、おれだって知ってるよ。」
空に響き渡ることを想像して見るがいい。先年の水戸浪士がおのおの抜き身の鎗を手にしながら、水を打ったように声
山の寛永寺を出て二百人ばかりの従臣と共に水戸の方へ落ちて行かれたとか、今日は四千人からの江戸屋敷
て幾日にしかならないというものもある。長州や水戸の方の先例は知らないこと、小草山の口開けや養蚕時のいそがしさ
同盟の軍を撃破するため東北方面に向かった時は、水戸藩でも会津に兵を出した。その中に、同藩銃隊長とし
て自由に濶歩しうる身となった。のみならず、水戸藩では朝命を奉じて佐幕派たる諸生党を討伐するというほどの
に帰った。当時は市川三左衛門をはじめ諸生党の領袖が水戸の国政を左右する際で、それらの反対党は幕府の後援により
百両で買い上げられるという高札まで建てられた人だ。水戸における天狗党と諸生党との激しい党派争いを想像するものは、
水戸の天狗連の話にもあらわれている。その侍は水戸家に仕えた大津地方の門閥家で、藤田小四郎らの筑波組と一致
の天井裏からはい出してようやくこんな日のめを見ることのできた水戸の天狗連の話にもあらわれている。その侍は水戸家に仕えた
すべてがこの調子だとも言えない。水戸ほど苦しい抗争を続けた藩もなく、また維新直後にそれほど恐怖時代を
のないことでもない。徳川御三家の随一として、水戸に対し、紀州に対し、その他の多くの諸侯に対し、大義名分を正そう
あの人が変わっていないという話も出る。なるほど、水戸の学問が興ったころから、その運動もまたはなやかであったころから、
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ない。一方には京都市民の動揺があり、一方には静岡以東の御通行さえも懸念せられる。途中に鳳輦を押しとどめるものもあるや
たとの報知の届くころである。途中を気づかわれた静岡あたりの御通行には、徳川家が進んで駿河警備の事に当たった
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の紐を解いた。あるものは駅逓司、あるものは甲府県、あるものは度会府として、駅逓用を保証する大小種々の
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「では、五代才助と上野敬助の両人に、当日立ち会うようにと、そう言ってやってください。」
でも最も強硬な主戦派の頭目として聞こえた小栗上野の職を褫いで謹慎を命じたほどの堅い決意が慶喜になかったと
着は東山道軍のために誤解され、ことに甲州、上野両道で戦い勝って来た鼻息の荒さから、総攻撃の中止に傾いた
。武装解除を肯じない江戸屋敷方の脱走者の群れが上野東叡山にたてこもって官軍と戦ったことを聞いたのも、百八十余人の
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さてこそ、その声は追分からそう遠くない小諸藩の方に起こった。その影響は意外なところへ及んで、多少なり
「聞くところによると、小諸の牧野遠江守の御人数が追分の方であの仲間を召し捕りの節に
でかなりあばれていますからね。あいつが諏訪にも、小諸にも、木曾福島にも響いて来てると思うんです。そこへ東山道
十一軒も焼いたとか聞きました。そのあとです、小諸藩から焼失人へ米を六十俵送ったところが、その米が追分の
ことでしたら。」と半蔵は言う。「なんでも、小諸藩から捕手が回った時に、相良惣三の部下のものは戦さで
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ような人であったなら、たとい勝安房や山岡鉄太郎や大久保一翁などの奔走尽力があったとしても、この解決は望めなかった
総裁し順々として条理を錯乱せしめなかったは、大久保一翁、勝安房、山岡鉄太郎の諸氏である。しかし、幕府内でも最も
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時は東山道軍はすでに板橋から四谷新宿へと進み、さらに市ヶ谷の尾州屋敷に移り、あるいは土手を切り崩し、あるいは堤を築き、八、九
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へはいれなかった。その時は東山道軍はすでに板橋から四谷新宿へと進み、さらに市ヶ谷の尾州屋敷に移り、あるいは土手を切り崩し、あるいは堤
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こんな外国交渉に手間取れて、東海道軍は容易に品川へはいれなかった。その時は東山道軍はすでに板橋から四谷新宿へと進み
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に神谷八郎右衛門とありますよ。ホ、この人は外桜田門の警衛だ。」
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たところも東京と改められている。今度の行幸はその東京をさしての京都方の大きな動きである。これはよほどの決心なしに
もはや江戸もない。これまで江戸と呼び来たったところも東京と改められている。今度の行幸はその東京をさしての京都方の
駿河警備の事に当たったとの報知も来る。多くの東京市民は御酒頂戴ということに活気づき、山車まで引き出して新しい都の前途
まだ多くのものにめずらしい東京の方からは新帝も無事に東京城の行宮西丸に着御したもうたとの報知の届くころである
その名を呼んで見るのもまだ多くのものにめずらしい東京の方からは新帝も無事に東京城の行宮西丸に着御したもう
東京と京都との間をつなぐ木曾街道の中央にあって、多年宿場に衣
馬籠ではこの宿場改革の最中であった。延胤は東京からの帰り路を下諏訪へと取り、熱心な平田篤胤没後の門人の多い伊那
定め新制度新組織の建設に向かおうとするための公議所が近く東京の方に開かれるはずで、その会議も師のような人の体験と
に、師鉄胤もお供を申し上げながら、一家をあげて東京の方へ移り住む計画であるという。延胤が旅を急いでいるの
、この行幸のあとに待っていた。皇居を京都から東京に還し、そこに新しい都を打ち建てよとの声が、それだ。もし朝廷
多く東へ東へと向かっていた。今は主上も東京の方で、そこに皇居を定めたまい、平田家の人々も京都にあっ
か月ほど後に、中津川の香蔵が美濃を出発し、東京へとこころざして十曲峠を登って来たころは、旅するものの
、師岡正胤、三輪田元綱、権田直助なぞはいずれも今は東京の方で師の周囲に集まりつつある。彼が親しい先輩暮田正香は京都
思った。彼はまた、遠からず香蔵と同じように東京へ向かおうとする中津川の景蔵のことを考え、どんな要職をもって迎えられ
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も、彼の抱負の小さくなかったことがわかる。彼が浦賀の久里が浜に到着したころは、ちょうどヨーロッパ勢力の東方に進出する
上段の間へも行って見た。あの黒船が東海道の浦賀に押し寄せてからこのかたの街道の混雑から言っても、あるいは任地に赴こうと
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ことも驚くばかり、大坂運上所の前あたりから、居留地、新大橋の辺へかけては人の黒山を築いているとの注進もある。
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に到着し、そのうちの一部隊は和田峠を越え、千曲川を渡って、追分の宿にまで達した。