夜明け前 01 第一部上 / 島崎藤村

夜明け前のword cloud

地名一覧

長州藩

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た。関ヶ原の敗戦以来、隠忍に隠忍を続けて来た長州藩がこの形勢を黙ってみているはずもない。しかしそれらの雄藩でも

を抱く公卿たちと結びつき、歴史的にも幕府と相いれない長州藩の支持を得るようになって、一層組織のあるものとなった。尊王攘夷は

佐久

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。半蔵らはこの客好きな名主の家に引き留められて、佐久の味噌汁や堅い地大根の沢庵なぞを味わいながら、赤松、落葉松の山林の多い

手賀野村

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そこに立つ伏見屋の子息の前にもお辞儀をした。手賀野村からの雨中の旅で、笠も草鞋もぬれて来た松雲の道中姿は

名古屋に六日、それから美濃路回りで三日目に手賀野村の松源寺に一泊――それを松雲は持ち前の禅僧らしい調子で話し聞か

諏訪

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の活躍を想像しながら、その年の六月中旬には諏訪にはいった。あだかも痳疹流行のころである。一行は諏訪に三日逗留し

諏訪にはいった。あだかも痳疹流行のころである。一行は諏訪に三日逗留し、同勢四百人ほどをあとに残して置いて、三留野

鶴見

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ての町々の警備は一層厳重をきわめるようになった。鶴見の橋詰めには杉の角柱に大貫を通した関門が新たに建てられた。

等覚寺

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松源寺、妻籠の光徳寺、湯舟沢の天徳寺、三留野の等覚寺、そのほか山口村や田立村の寺々まで、都合六か寺の住職が大般若

落合

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へ茶縞の綿入れ羽織なぞを贈るために、わざわざ自分で落合まで出かけて行く人である。

二階は、かつて翁塚の供養のあったおりに、落合の宗匠崇佐坊まで集まって、金兵衛が先代の記念のために俳席を開いた

大雪の来たあとであった。野尻宿の継所から落合まで通し人足七百五十人の備えを用意させるほどの公儀衆が、さくさく音の

は驚きますね。今もわたしは馬籠へ来る途中で、落合でもそのうわさを聞いて来ましたよ。」

もって、中津川の香蔵が馬籠本陣を訪ねるために、落合から十曲峠の山道を登って来た。

に充分だとは言えなかったくらいだ。馬籠峠から先は落合に詰めている尾州の人足が出て、お荷物の持ち運びその他に働くと

する建物の方に移って来た。馬籠の火災後しばらく落合の家の方に帰っていた半蔵が弟子の勝重なぞも、またやって

四十文、人足四十二文、これは馬籠から隣宿美濃の落合までの駄賃として、半蔵が毎日のように問屋場の前で聞く声で

東海道

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東海道浦賀の宿、久里が浜の沖合いに、黒船のおびただしく現われたといううわさが

東海道浦賀の方に黒船の着いたといううわさを耳にした時、最初吉左衛門

青蓮院

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で帰ってしまったという。近衛忠熙は潜み、中川宮(青蓮院)も隠れた。

蝦夷

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である。この瑞見は二年ほど前に家を挙げ蝦夷の方に移って、函館開港地の監督なぞをしている。今度函館から

瑞見は遠く蝦夷の方で採薬、薬園、病院、疏水、養蚕等の施設を早く目論んでいる

「蝦夷の方ではゴメです。海の鴎の一種です。あの鳴き声を聞くと、

瑞見は蝦夷から同行して来た供の男を連れて、寛斎にも牡丹屋の亭主

「あの喜多村先生なぞが蝦夷の方で聞いたら、どんな気がするだろう。」

決断がなかったら、日本国はどうなったろう。軽く見積もって蝦夷はもとより、対州も壱岐も英米仏露の諸外国に割き取られ、内地諸所の

鵜沼宿

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もう触れ当てに出かけたものもあるというよ。美濃の鵜沼宿から信州本山まで、どうしても人足は通しにするよりほかに方法がない

御嶽

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降って行くばかりだ。半蔵らはある橋を渡って、御嶽の方へ通う山道の分かれるところへ出た。そこが福島の城下町であった

「御嶽行きとは、それでも御苦労さまだ。山はまだ雪で、登れますまい

小牧

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吉左衛門などがうわさをしているところへ、豊川、名古屋、小牧、御嶽、大井を経て金兵衛親子が無事に帰って来た。そのおりの

諏訪大社

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の祈祷、それに水の拝借と言って、村からは諏訪大社へ二人の代参までも送った。神前へのお初穂料として金百疋

仙洞御所

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仙洞御所の出火のうわさ、その火は西陣までの町通りを焼き尽くして天明年度の大火

三条

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苗床にまで及んで行った。京都にある鷹司、近衛、三条の三公は落飾を迫られ、その他の公卿たちの関東反対の嫌疑の

甲州

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つき金一両の相場もあらわれようとの話が出る。江州、甲州、あるいは信州飯田あたりの生糸商人も追い追い入り込んで来る模様があるから、なかなか油断

大木戸

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は、千住からすぐに高輪へと取り、札の辻の大木戸、番所を経て、東海道へと続く袖が浦の岸へ出た。うわさ

愛宕山

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た。峠のものは熊野大権現に、荒町のものは愛宕山に、いずれも百八の松明をとぼして、思い思いの祈願をこめる。宿内では二

江戸

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の一部がここだ。この道は東は板橋を経て江戸に続き、西は大津を経て京都にまで続いて行っている。東海道方面

この街道を通った時のことにとどめをさす。藩主は江戸で亡くなって、その領地にあたる木曾谷を輿で運ばれて行った。福島

夜の空気の中を彦根の使者が西へ急いだ。江戸からの便りは中仙道を経て、この山の中へ届くまでに、早飛脚で

「江戸は大変だということですよ。」

時、最初吉左衛門や金兵衛はそれほどにも思わなかった。江戸は大変だということであっても、そんな騒ぎは今にやむだろうぐらいに

は今にやむだろうぐらいに二人とも考えていた。江戸から八十三里の余も隔たった木曾の山の中に住んで、鎖国以来の

の宿役人らとも一緒になった。尾張の家中は江戸の方へ大筒の鉄砲を運ぶ途中で、馬籠の宿の片側に来て足

人々の目の前を動いて行った。こんなに諸藩から江戸の邸へ向けて大砲を運ぶことも、その日までなかったことだ。

しかし、不思議な沈黙が残った。その沈黙は、何が江戸の方に起こっているか知れないような、そんな心持ちを深い山の中に

起こさせた。六月以来頻繁な諸大名の通行で、江戸へ向けてこの木曾街道を経由するものに、黒船騒ぎに関係のないものは

七月の二十六日には、江戸からの御隠使が十二代将軍徳川家慶の薨去を伝えた。道中奉行から

さま――美しい人だったぞなし。あれほどの容色は江戸にもないと言って、通る旅の衆が評判したくらいの人だった

料所、在方村々まで、めいめい冥加のため上納金を差し出せとの江戸からの達しだということが書いてある。それにはまた、浦賀表へ

前触れのあった長崎行きの公儀衆も、やがて中津川泊まりで江戸の方角から街道を進んで来るようになった。空は晴れても、大雪

。来たる三月には尾張藩主が木曾路を経て江戸へ出府のことに決定したという。この役人衆の一行は、冬の

「この春、尾州の殿様が江戸へ御出府だげな。お前さまはまだ何も御存じなしか。」

八百人の同勢を引き連れた肥後の家老長岡監物の一行が江戸の方から上って来て、いずれも鉄砲持参で、一人ずつ腰弁当でこの街道

は飯田、遠くは名古屋であって、市川海老蔵のような江戸の役者が飯田の舞台を踏んだこともめずらしくない。それを聞くたびに、

終わったところであったけれども、橘町の方には同じ江戸の役者三桝大五郎、関三十郎、大谷広右衛門などの一座がちょうど舞台に上るころ

次第にこの街道にもあらわれて来た。村では遠く江戸から焼け出されて来た人たちに物を与えるものもあり、またそれを見物

になるころには、吉左衛門は家のものを集めて、江戸から届いた震災の絵図をひろげて見た。一鶯斎国周画、あるいは芳綱

。「半蔵も思い立って出かけて行って来るがいいぞ。江戸も見て来るがいい――ついでに、日光あたりへも参詣して来るが

偶然にも、半蔵が江戸から横須賀の海の方まで出て行って見る思いがけない機会はこんなふうにし

て見る機会をとらえた。その時になって見ると、江戸は大地震後一年目の復興最中である。そこには国学者としての

「蜂谷君、近いうちに、自分は江戸から相州三浦方面へかけて出発する。妻の兄、妻籠本陣の寿平次と

の公郷村に遠い先祖の遺族を訪ねるためであるが、江戸をも見たい。自分は長いことこもり暮らした山の中を出て、初めて

馬籠のような狭い片田舎では半蔵の江戸行きのうわさが村のすみまでもすぐに知れ渡った。半蔵が幼少な時分から

そんなわけにいかすか。おれも山の中にいて、江戸の夢でも見ずかい。この辺鄙な田舎には、お前さま、せめて

江戸をさして出発する前に、半蔵は平田入門のことを一応は父にことわっ

、中津川の宮川寛斎の紹介によるもので、いずれ彼が江戸へ出た上は平田家を訪ねて、鉄胤からその許しを得ることに

は旅も容易でなかった。木曾谷の西のはずれから江戸へ八十三里、この往復だけにも百六十六里の道は踏まねばならない。

なかったが、それでも諸街道問屋の一人として江戸の道中奉行所へ呼び出されることがあって、そんな用向きで二、三度は江戸

呼び出されることがあって、そんな用向きで二、三度は江戸の土を踏んだこともある。この父は、いろいろ旅の心得になりそう

、若い者二人ぎりではどうあろうかと言った。遠く江戸から横須賀辺までも出かけるには、伴の男を一人連れて行けと勧めた

半蔵といくつも違わないくらいの若さであるが、今度江戸への供に選ばれたことをこの上もないよろこびにして、留守中

ます。そのつもりで馬籠から連れて来ました。あれも江戸を見たがっていますよ。君の荷物はあれにかつがせてください。」

た。隠居は背の高い半蔵に寿平次を見比べて、江戸へ行って恥をかいて来てくれるなというふうにそれを言ったから

乳まで探って真偽を確かめたほどの時代だ。これは江戸を中心とする参覲交代の制度を語り、一面にはまた婦人の位置のいかなるもの

「寿平次さん、江戸から横須賀まで何里とか言いましたね。」

「江戸までの里数を入れると、九十九里ですか。」

「まだこれから先に木曾二宿もあるら。江戸は遠いなし。」

に吉左衛門を泊めたこともあると言い、そんな縁故からも江戸行きの若者をよろこんでもてなそうとしてくれた。ちょうど鳥屋のさかりのころで

追分の宿まで行くと、江戸の消息はすでにそこでいくらかわかった。同行三人のものは、塩尻、

追分に送った一夜の無意味でなかったことは、思いがけない江戸の消息までもそこで知ることができたからで。その晩、文太夫が

しかはいって来なかったものだ。あの彦根の早飛脚が一度江戸のうわさを伝えてからの混雑、狼狽そのものとも言うべき諸大名がおびただしい

、木曾街道もその終点で尽きている。そこまでたどり着くと江戸も近かった。

十二日目の朝早く三人は板橋を離れた。江戸の中心地まで二里と聞いただけでも、三人が踏みしめて行く草鞋の

たよりになるのも板橋までで、巣鴨の立場から先は江戸の絵図にでもよるほかはない。安政の大地震後一年目で、震災

「これが江戸か。」

半蔵が江戸へ出たころは、木曾の青年でこの都会に学んでいるという人の

この江戸へ出て来て見ると、日に日に外国の勢力の延びて来て

評定のうわさに、震災後めぐって来た一周年を迎えた江戸の市民は毎日のように何かの出来事を待ち受けるかのようでもある。

その話し好きな隠居は、木曾の山の中を出て江戸に運命を開拓するまでの自分の苦心なぞを語った末に、

「あなたがたに江戸の話を聞かせろとおっしゃられても、わたしも困る。」

しろ、あなた、初めて異国の船が内海に乗り入れた時の江戸の騒ぎはありませんや。諸大名は火事具足で登城するか、持ち場持ち場

平次も、この隠居の出て行ったあとで、ともかくも江戸の空気の濃い町中に互いの旅の身を置き得たことを感じた。

することにした。旅に限りがあって、そう長い江戸の逗留は予定の日取りが許さなかった。まだこれから先に日光行き、横須賀

「江戸の芝居見物も一日がかりですね。」

江戸は、初めて来て見る半蔵らにとって、どれほどの広さに伸びて

初めて町の深さにはいって見た。それもわずかに江戸の東北にあたる一つの小さな区域というにとどまる。

できる一石橋の上に立って見た時。国への江戸土産に、元結、油、楊枝の類を求めるなら、親父橋まで行けと十一屋

―そこからまとまって来る色彩の黒と白との調和も江戸らしかった。

をまぬかれなかった。それを押しひろげたような広大な天地が江戸だ。

らが予定の日取りもいつのまにか尽きた。いよいよ江戸を去る前の日が来た。半蔵としては、この都会で求めて行きたい

「佐吉、江戸にもお別れだ。今夜は一緒に飯でもやれ。」

変わらない。十一屋では膳部も質素なものであるが、江戸にもお別れだという客の好みとあって、その晩にかぎり刺身も

と佐吉も膝をかき合わせて、「木曾福島の山村様が江戸へ出るたびに、山猿、山猿と人にからかわれるのが、くやしくてしかたが

「しかし、寿平次さん、こう江戸のように開け過ぎてしまったら、動きが取れますまい。わたしたちは山猿でいい

にも三人は、互いの旅の思いを比べ合った。江戸の水茶屋には感心した、と言うのは寿平次であった。思いがけない

と言われて来たことを考えた。世は濁り、江戸は行き詰まり、一切のものが実に雑然紛然として互いに叫びをあげて

十一屋のあるところから両国橋まではほんの一歩だ。江戸のなごりに、隅田川を見て行こう、と半蔵が言い出して、やがて三人

の往復九十里、横須賀への往復に三十四里、それに江戸と木曾との間の往復の里程を加えると、半蔵らの踏む道はおよそ

も、すべてそれを胸にまとめて見ることができた。江戸から踏んで来た松並樹の続いた砂の多い街道は、三年前丑年

も佐吉だ。おかげと半蔵は平田入門のこころざしを果たし、江戸の様子をも探り、日光の地方をも見、いくらかでもこれまでの

来た。もし浦賀で国書を受け取ることができないなら、江戸へ行こう。それでも要領を得ないなら、艦隊は自由行動を執ろう。この

た。全艦隊は小柴沖から羽田沖まで進み、はるかに江戸の市街を望み見るところまでも乗り入れて、それから退帆のおりに、万一国書

一行四人は中津川から馬籠峠を越え、木曾街道を江戸へと取り、ひとまず江戸両国の十一屋に落ち着き、あの旅籠屋を足だまりとして、

、今また寛斎の宿をして、弟子と師匠とを江戸に迎えるということは、これも何かの御縁であろうなどと話した

浦賀奉行への贈り物があったが、これらの品々は江戸へ伺い済みの上で、浦賀の波止場で焼きすてたくらいだ。後日の祟りを

命ぜられた。老女と言われる身で、囚人として江戸に護送されたものもある。民間にある志士、浪人、百姓、町人など

ていて、気に入らないものでも買って見せる。江戸の食い詰め者で、二進も三進も首の回らぬ連中なぞは、一つ新開地

一通の手紙は木曾から江戸を回って来たものだ。馬籠の方にいる伏見屋金兵衛からのめずらしい消息だ

、函館開港地の監督なぞをしている。今度函館から江戸までちょっと出て来たついでに、新開の横浜をも見て行きたいという

翌日は寛斎と牡丹屋の亭主とが先に立って、江戸から来た三人をまず神奈川台へ案内し、黒い館門の木戸を通っ

推した。そこで彼は一身を犠牲にする覚悟で、江戸と下田の間を往復して、数か月もかかった後にようやく草稿のできた

瑞見に言わせると、今度江戸へ出て来て見ても、水戸の御隠居はじめ大老と意見の合わない

十一屋の隠居は瑞見よりも一歩先に江戸の方へ帰って行った。瑞見の方は腹具合を悪くして、

。武州川越の商人は駕籠で夜道を急ごうとして、江戸へ出る途中で駕籠かきに襲われた話もある。五十両からの金を携帯

「オヤ、もうお立ちでございますか。江戸はいずれ両国のお泊まりでございましょう。あの十一屋の隠居にも、どうかよろしく

た。彼も隣宿妻籠本陣の寿平次と一緒に、江戸から横須賀へかけての旅を終わって帰って来てから、もう足掛け三年

意味ある通行を数えて見ると、彦根よりする井伊掃部頭、江戸より老中間部下総守、林大学頭、監察岩瀬肥後守、等、等―

たりまたは現存する幕府の人物で、あるいは大老就職のため江戸の任地へ赴こうとし、あるいは神奈川条約上奏のため京都へ急ごうとして、

松尾多勢子のような人も出て来た。おまけに、江戸には篤胤大人の祖述者をもって任ずる平田鉄胤のようなよい相続者

「あの時分と見ると、江戸も変わったらしい。」

ばかりは永蟄居を免ぜられたことも知らずじまいに、江戸駒込の別邸で波瀾の多い生涯を終わった。享年六十一歳。あだかも生前の政敵

という。おそらくこれは盛典としても未曾有、京都から江戸への御通行としても未曾有のことであろうと言わるる。今度の御

、六十九人もの破戒僧が珠数つなぎにされて、江戸の吉原や、深川や、品川新宿のようなところへ出入りするというかど

御婚約のある宮様のことを思い、かつはとかく騒がしい江戸の空へ年若な女子を遣わすのは気づかわれると仰せられて、お許しが

出雲守がお輿の先を警護し、お迎えとして江戸から上京した若年寄加納遠江守、それに老女らもお供をした。これ

さまのお輿入れの時。一度は尾州の先の殿様が江戸でお亡くなりになって、その御遺骸がこの街道を通った時。今一度

「まあ、お聞きなさい。今の殿様が江戸へ御出府の時は、木曾寄せの人足が七百三十人、伊那の助郷が千七百七

待っていた。十一月十五日には宮様はすでに江戸に到着されたはずである。あの薩摩生まれの剛気で男まさりな天璋院にも

できたころに、人の口から口へと伝わって来る江戸の方のうわさが坂下門の変事を伝えた。

を幕府から受け、いよいよ正式にその周旋を試みようとして江戸を出発して来たのであった。この大名は、日ごろの競争者で

はその日より十日ほど前に、彦根藩の幼主が江戸出府を送ったばかりの時であった。十六歳の殿様、家老、用人、

して置かれないというふうにも。半蔵は京都や江戸にある平田同門の人たちからいろいろな報告を受けて、そのたびに山の

て干渉するのを常とした。今度勅使の下向を江戸に迎えて見ると、かねて和宮様御降嫁のおりに堅く約束した蛮夷防禦

江戸の方からそこへかつがれて来たのは、三疋の綿羊だ。こんな

その年の渋柿の出来のうわさは出ても、京都と江戸の激しい争いなぞはどこにあるかというほど穏やかな日もさして来て

この親子の胸には、江戸の道中奉行所の方から来た達しのことが往来していた。かねてうわさ

三年目ごとに一度、御三家や溜詰は一月ずつ江戸におれとありますがね、奥方や若様は帰国してもいいと言う

「金兵衛さん、君はこの改革をどう思います。今まで江戸の方に人質のようになっていた諸大名の奥方や若様が、

その時になって見ると、江戸から報じて来る文久年度の改革には、ある悲壮な意志の歴然と動きはじめた

(開成所、後の帝国大学の前身)と改称される。江戸の講武所における弓術や犬追物なぞのけいこは廃されて、歩兵、騎兵、

。人馬の公用を保証するために、京都の大舎人寮、江戸の道中奉行所をはじめ、その他全国諸藩から送ってよこしてある大小種々の印鑑

へは何か最近に来た便りがありますか――江戸からでも。」

その帰国を急ぐ途中での八月二十一日あたりの出来事は江戸の方から知れて来ていた。あの英人の殺傷事件を想像しながら

通行筋はやはりこの木曾街道で、旧暦十月八日に江戸発駕という日取りの通知まで来ているころだった。道橋の見分に、

数日の後、半蔵は江戸の道中奉行所から来た通知を受け取って見て、一橋慶喜の上京がにわかに

反対な方角に向かうようになった。時局の中心はもはや江戸を去って、京都に移りつつあるやに見えて来た。それを半蔵は

たちが雪の道を踏んで馬籠に着いた。いずれも江戸の方で浪士の募集に応じ、尽忠報国をまっこうに振りかざし、京都の市中

暮田正香は半蔵と同国の人であるが、かつて江戸に出て水戸藩士藤田東湖の塾に学んだことがあり、東湖没後に

こともできませんね。まあ薩州公が勅使を奉じて江戸の方へ行ってる間にですよ、もう京都の形勢は一変していまし

眼中にないものもいますから。こないだもある人が、江戸のようなところから来て見ると、京都はまるで野蛮人の巣だと言っ

た。旧暦三月のよい季節を迎えて見ると、あの江戸の方で上巳の御祝儀を申し上げるとか、御能拝見を許されるとか、

奥方ならびに女中方、それらの婦人や子供の一行が江戸の方から上って来て、いずれも本陣や問屋の前に駕籠を休めて

詰めていた。町人四分、武家六分と言われる江戸もあとに見捨てて来た屋敷方の人々は、住み慣れた町々の方の

二月十三日に将軍は江戸を出発した。時節柄、万事質素に、という触れ込みであったが、それ

の国情に対する理解も同情も深かったと言わるるが、江戸三田古川橋のほとりで殺害された。これらの外人を保護するため幕府方

のものが横浜から川崎方面に馬を駆って、おりから江戸より帰西の途にある薩摩の島津久光が一行に行きあった。勅使大原左衛門督

の所在地だ。ちょうど街道も参覲交代制度変革のあとをうけ、江戸よりする諸大名が家族の通行も一段落を告げた。半蔵はそれを機会に

い。君も心配ですね。そう言えば、半蔵さん、江戸の方の様子は君もお聞きでしたろう。」

「それさ。イギリスの軍艦が来て江戸は大騒ぎだそうですね。来月の八日とかが返答の期限だと言う

関内

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橋を渡り、土手通りを過ぎて、仮の吉田橋から関内にはいった。

金龍山

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の地獄のようにそこに描き出されている。下谷広小路から金龍山の塔までを遠見にして、町の空には六か所からも火の手が

公郷村

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相州三浦、横須賀在、公郷村

は得がたい機会でもある。のみならず、横須賀海岸の公郷村とは、黒船上陸の地点から遠くないところとも聞く。半蔵の胸はおどっ

妻籠本陣の寿平次と同行する。この旅は横須賀在の公郷村に遠い先祖の遺族を訪ねるためであるが、江戸をも見たい。自分は

もはや、半蔵らはこれから尋ねて行こうとする横須賀在、公郷村の話で持ち切った。五百年からの歴史のある古い山上の家族が

公郷村とは、船の着いた漁師町から物の半道と隔たっていなかった。半蔵

は横須賀まで行って、山上のうわさを耳にした。公郷村に古い屋敷と言えば、土地の漁師にまでよく知られていた。三

軸。ただし、光琳筆。山上家の当主、七郎左衛門は公郷村の住居の方にいて、こんな記念の二品までも用意しながら、二人

相州三浦の公郷村まで動いたことは、半蔵にとって黒船上陸の地点に近いところまで動いて

その時になると、半蔵は浦賀に近いこの公郷村の旧家に身を置いて、あの追分の名主文太夫から見せてもらって来

下旬のはじめには、半蔵らは二日ほど逗留した公郷村をも辞し、山上の家族にも別れを告げ、七郎左衛門から記念として

注意するのを待っていた。相州三浦、横須賀在、公郷村の方に住む山上七郎左衛門から旅の記念にと贈られた光琳の軸が

雲州

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。尾張藩主の通行ほど大がかりではないまでも、土州、雲州、讃州などの諸大名は西から。長崎奉行永井岩之丞の一行は東

西陣

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仙洞御所の出火のうわさ、その火は西陣までの町通りを焼き尽くして天明年度の大火よりも大変だといううわさが、

東照宮

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が揚げるその歓呼は――過去三世紀間の威力を誇る東照宮の覇業も、内部から崩れかけて行く時がやって来たかと思わせる

本所

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その声が起こった。三人は互いに雀躍して、本所方面の初冬らしい空に登る太陽を迎えた。紅くはあるが、そうまぶしく輝か

大江戸

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の物揚げ場の近くへ出た。早い朝のことで、大江戸はまだ眠りからさめきらないかのようである。ちょうど、渦巻き流れて来る隅田川の

京都守護

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ところがこの事を企てた仲間のうちから、会津方(京都守護の任にある)の一人の探偵があらわれて、同志の中には縛に

恵那山

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処もある。山の中とは言いながら、広い空は恵那山のふもとの方にひらけて、美濃の平野を望むことのできるような位置にも

あるという。その御坂越から幾つかの谷を隔てた恵那山のすその方には、霧が原の高原もひらけていて、そこには

もはや恵那山へは雪が来た。ある日、おまんは裏の土蔵の方へ行こうとした

「お民、来てごらん。きょうは恵那山がよく見えますよ。妻籠の方はどうかねえ、木曾川の音が聞こえるかねえ

ねえ。ここでは河の音は聞こえない。そのかわり、恵那山の方で鳴る風の音が手に取るように聞こえますよ。」

課はあと回しとして、まず鐘楼の方へ行った。恵那山を最高の峰としてこの辺一帯の村々を支配して立つような幾つか

ともなくいろいろなうわさを持っては帰って来た。恵那山、川上山、鎌沢山のかなたには大崩れができて、それが根の上

壁があると、寿平次にさして言って見せた。恵那山のふもとに隠れている村の眺望は、妻籠から来て見る寿平次をも飽き

美濃境にある恵那山を最高の峰として御坂越の方に続く幾つかの山嶽は、この新築し

山々の雪を望むことはできる。ある日も、半蔵は恵那山の上の空に、美しい冬の朝の雲を見つけて、夜ごとの没落からまた朝紅

に奔走しているころであったからで。この旅人は恵那山を東に望むことのできるような中津川の町をよろこび、人の注意を避くるに

知れたものだと思って、おれはお前さまのために恵那山までよく雪を取りに行って来たこともある。」

神奈川

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らの旅は深い藍色の海の見えるところまで行った。神奈川から金沢へと進んで、横須賀行きの船の出る港まで行った。客や

「皆さまは神奈川泊まりのつもりでお出かけになりませんと、浜にはまだ旅籠屋もございますまい

ませんと、浜にはまだ旅籠屋もございますまいよ。神奈川の牡丹屋、あそこは古くからやっております。牡丹屋なら一番安心でござい

横浜もさみしかった。地勢としての横浜は神奈川より岸深で、海岸にはすでに波止場も築き出されていたが、いかに

、船員はいずれも船へ帰って寝るか、さもなければ神奈川まで来て泊まった。下田を去って神奈川に移った英国、米国、仏国、

、さもなければ神奈川まで来て泊まった。下田を去って神奈川に移った英国、米国、仏国、オランダ等の諸領事はさみしい横浜よりもにぎやか

寛斎らは、やはり十一屋の隠居から教えられたとおりに、神奈川の牡丹屋に足をとどめることにした。

にとって、かなりの冒険とも思われた。中津川から神奈川まで、百里に近い道を馬の背で生糸の材料を運ぶということすら

おそれたのだ。実際、寛斎が中津川の商人について神奈川へ出て来たのは、そういう黒船の恐怖からまだ離れ切ることができ

の居留地とは名ばかりのように隔離した一区域が神奈川台の上にある。そこに住む英国人で、ケウスキイという男は、横浜の

男は、横浜の海岸通りに新しい商館でも建てられるまで神奈川に仮住居するという貿易商であった。初めて寛斎の目に映るその西洋人

わかり、糸の値段もわかった。この上は一日も早く神奈川を引き揚げ、来る年の春までにはできるだけ多くの糸の仕入れもして来よう

「宮川先生、あなただけは神奈川に残っていてもらいますぜ。」

置いて行くあとの事を堅く寛斎に託した。中津川と神奈川の連絡を取ることは、一切寛斎の手にまかせられた。

た亭主はよく寛斎を見に来る。東海道筋にあるこの神奈川の宿は、古いといえば古い家で、煙草盆は古風な手さげのついた

とうとう、寛斎は神奈川の旅籠屋で年を越した。彼の日課は開港場の商況を調べて、

の音信にも接したが、かんじんの安兵衛らはまだいつ神奈川へ出向いて来るともわからない。

になった。吉田橋架け替えの工事も始まっていて、神奈川から横浜の方へ通う渡し舟も見える。ある日も寛斎は用達のついでに、

て、天気のよい日の夕方に牡丹屋へ着いた。神奈川には奉行組頭もある、そういう役人の家よりもわざわざ牡丹屋のような

、案内者側の寛斎の方でもなるべく日のあるうちに神奈川へ帰りたかった。いつでも日の傾きかけるのを見ると、寛斎は美濃の

て、渡し場のあるところへ出た。そこから出る舟は神奈川の宮下というところへ着く。わざわざ野毛山の下の方を遠回りして帰っ

「なんでも、神奈川の古いお寺を借りて、去年の秋から来ているアメリカ人があります。

「神奈川へはアメリカの医者も一人来ていますよ。」

た。例の裏二階から表側の廊下へ出ると、神奈川の町の一部が見える。晩年の彼を待ち受けているような信州伊那の豊か

のは困るなんて、しきりにそんなことを申しまして。この神奈川には、あなた、肉屋の前を避けて通るような、そんな年寄りもございます

して、寛斎の介抱などを受けていたために、神奈川を立つのが二、三日おくれた。

があるから、なかなか油断はならないとの話もある。神奈川在留の外国商人――中にもイギリス人のケウスキイなどは横浜の将来を見込んで

通した関門が新たに建てられた。夜になると、神奈川にある二か所の関門も堅く閉ざされ、三つ所紋の割羽織に裁

、江戸両国の十一屋泊まりで、旧暦四月にはいってから神奈川の牡丹屋に着いた。

通りに木造の二階屋を建てる。自分の同業者でこの神奈川に来ているものには、英国人バルベルがあり、米国人ホウルがある。しかし、

が寛斎の手に委ねられた。安兵衛、嘉吉の二人は神奈川に居残って、六月のころまで商売を続ける手はずであったからで。当時

た。この役を引き受けていただきたいばかりに、わざわざ先生を神奈川へお誘いして来たようなものですよ。」

宮川寛斎が万屋の主人と手代とを神奈川に残して置いて帰国の途に上ったことは、早く美濃の方へ知れ

頼んだ人、平田入門の紹介までしてくれた人が神奈川から百里の道を踏んで、昼でも暗いような木曾の森林の間を

御嶽山

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祷るために御嶽神社への参籠を思い立った。王滝村とは御嶽山のすそにあたるところだ。木曾の総社の所在地だ。ちょうど街道も参覲交代制度変革

御嶽山のふもとにあたる傾斜の地勢に倚り、王滝川に臨み、里宮の神職と行者

対馬

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になって来た。この中で、露国の船将が対馬尾崎浦に上陸し駐屯しているとの報知すら伝わった。港は鎖せ、

香港

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は前年八月二十一日、ところは川崎駅に近い生麦村、香港在留の英国商人リチャアドソン、同じ香港より来た商人の妻ボロオデル、横浜在留の英国

は川崎駅に近い生麦村、香港在留の英国商人リチャアドソン、同じ香港より来た商人の妻ボロオデル、横浜在留の英国商人マアシャル、およびクラアク、この四

塩尻

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すでにそこでいくらかわかった。同行三人のものは、塩尻、下諏訪から和田峠を越え、千曲川を渡って、木曾街道と善光寺道と

蘭川

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。中津川から飯田へ行く荷物はあの道を通るんです。蘭川について東南へ東南へと取っておいでなさればいい。」

昌平橋

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だけでもその宿屋は心やすく思われたからで。ちょうど、昌平橋から両国までは船で行かれることを教えてくれる人もあって、三人

馬籠峠

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畠の麦が残らず倒れたなぞは、風あたりの強い馬籠峠の上にしてもめずらしいことだ。

本陣の新宅、皆焼け落ちた。風あたりの強い位置にある馬籠峠とは言いながら、三年のうちに二度の大火は、村としても

旧暦九月も末になって、馬籠峠へは小鳥の来るころになった。もはや和宮様お迎えの同勢が関東から京都の方

御同勢の継立てに充分だとは言えなかったくらいだ。馬籠峠から先は落合に詰めている尾州の人足が出て、お荷物の持ち運びその他

因州の女中方なぞの通行が続きに続いた。これが馬籠峠というところかの顔つきの婦人もある。ようやく山の上の空気を自由に吸う

下田

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で直進して来た。当時幕府が船改めの番所は下田の港から浦賀の方に移してある。そんな番所の所在地まで知って、あの

、尾張藩主が江戸出府後の結果も明らかでなく、すでに下田の港は開かれたとのうわさも伝わり、交易を非とする諸藩の抗議

とオランダ人とを区別し得られよう。長崎に、浦賀に、下田に、続々到着する新しい外国人が、これまでのオランダ人の執った態度をかなぐり捨てようと

七郎左衛門は街道から海の見えるところまで送って来て、下田の方の空を半蔵らにさして見せた。もはや異国の人は粗末な

ところにいる人たちばかりではなかった。相模灘をへだてた下田の港の方には、最初のアメリカ領事ハリス、その書記ヒュウスケンが相携えて

帰って寝るか、さもなければ神奈川まで来て泊まった。下田を去って神奈川に移った英国、米国、仏国、オランダ等の諸領事はさみしい

船を一艘幕府に献上したいと言って、軍艦で下田から品川まで来ました。まあ品川の人たちとしてはせっかくの使節を

。そこで彼は一身を犠牲にする覚悟で、江戸と下田の間を往復して、数か月もかかった後にようやく草稿のできたのが

大平峠

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の中に住む好劇家連は女中衆まで引き連れて、大平峠を越しても見に行った。あの蘭、広瀬あたりから伊那の谷の方

二条城

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はすでに京都に到着し、三千あまりの兵に護られながら二条城にはいった。この京都訪問は、三代将軍家光の時代まで怠らなかったという

は一代を圧したもので、時の主上ですらわざわざ二条城へ行幸せられたという。いよいよ将軍家参内のおりには、多くの公卿衆

を払って、いずれも恐れ入った態度を取って、ひそやかに二条城を出たのは三月七日の朝のことだ。台徳公の面影

薩摩

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を乗り切ろうという日本人の大胆さは、寛斎を驚かした。薩摩の沖で以前に難船して徳川政府の保護を受けていたアメリカの船員

を先の将軍の御台所として徳川家に送った薩摩の島津氏などもつとに公武合体の意見を抱いていて、幕府有司の中

宮様はすでに江戸に到着されたはずである。あの薩摩生まれの剛気で男まさりな天璋院にもすでに御対面せられたはずである。これ

たのであった。この大名は、日ごろの競争者で薩摩に名高い中将斎彬の弟にあたる島津久光がすでにその勢力を京都の方に

て来た。公武間の周旋をもって任ずる千余人の薩摩の精兵が藩主に引率されて来た時は、京都の町々はあだかも戒厳令

似ていた。水戸の御隠居、肥前の鍋島閑叟、薩摩の島津久光の諸公と共に、生前の岩瀬肥後から啓発せらるるところの多かっ

「寿平次さん、わたしはそれよりも、あの薩摩の同勢の急いで帰ったというのが気になりますよ。あれほどの

和宮さまの御降嫁あたりからの京都をどう思いますか。薩摩が来る、長州が来る、土佐が来る、今度は会津が来る。諸大名が

に馬を駆って、おりから江戸より帰西の途にある薩摩の島津久光が一行に行きあった。勅使大原左衛門督に随行して来た島津

なかった。言語の不通よりか、習慣の相違よりか、薩摩のお手先衆から声がかかったのをよく解しなかったらしい。歩行の自由

氏の西上を差し止められたいとの抗議を持ち出したが、薩摩の一行はそれを顧みないで西に帰ってしまった。

を執るであろうと言い、のみならず日本政府の力で薩摩の領分に下手人を捕えることもできないなら、英国は直接に薩州侯と交渉

直接に薩州侯と交渉するであろう、それには艦隊を薩摩の港に差し向け、下手人を捕え、英国海軍士官の面前において斬首す

三、薩摩の国を征伐いたすべきや。

江戸城

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ているとのうわさすら伝わっている。全国の諸大名が江戸城に集まって、交易を許すか許すまいかの大評定も始まろうとしている

草稿はできた。諸大名は江戸城に召集された。その時、井伊大老が出で、和親貿易の避けがたいこと

諸大名、およそ平生彼の説に賛成したものは皆江戸城に集まって大老と激しい議論があったが、大老は一切きき入れなかった。安政

あとには、多くの人心を動かすものが残った。遠く江戸城の方には、御母として仕うべき天璋院も待っていた。十一

決死の壮士六人、あの江戸城の外のお濠ばたの柳の樹のかげに隠れていたのは正月

善光寺

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太神楽もはいり込む。伊勢へ、津島へ、金毘羅へ、あるいは善光寺への参詣もそのころから始まって、それらの団体をつくって通る旅人の

「申年の善光寺の地震が大きかったなんて言ったってとても比べものにはなりますまいよ、ほら、寅年

諸講中が通行も多い。伊勢へ、金毘羅へ、または善光寺へとこころざす参詣者の団体だ。奥筋へと入り込んで来る中津川の商人も

草山

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扇屋得右衛門から、山口村の組頭まで立ち合いに来て、草山の境界を見分するために一同弁当持参で山登りをしたほどであった。

伊勢

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の衣裳なぞを借りにやって来る。太神楽もはいり込む。伊勢へ、津島へ、金毘羅へ、あるいは善光寺への参詣もそのころから始まって、

、震災の実際はうわさよりも大きかった。大地震の区域は伊勢の山田辺から志州の鳥羽にまで及んだ。東海道の諸宿でも、

物のあわれの説も、すべてそこから出発している。伊勢の国、飯高郡の民として、天明寛政の年代にこんな人が生きてい

よい季節を迎えて、上り下りの諸講中が通行も多い。伊勢へ、金毘羅へ、または善光寺へとこころざす参詣者の団体だ。奥筋へ

三沢

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村の人たちや登山者の通行に備えてある。半蔵は三沢というところでその渡しを渡って、日の暮れるころに禰宜の宮下の家

越前

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たものが別に六人もある。水戸の安島帯刀、越前の橋本左内、京都の頼鴨崖、長州の吉田松陰なぞは、いずれも恨みを

続いて来ている。野毛には奉行の屋敷があり、越前の陣屋もある。そこから野毛橋を渡り、土手通りを過ぎて、仮の

ありませんか。今じゃ薩州でも、土州でも、越前でも、二、三艘ぐらいの汽船を持っていますよ。それがみんな

した。水戸の御隠居を始めとして、尾州、越前、土州の諸大名、およそ平生彼の説に賛成したものは皆江戸城

越前の女中方、尾張の若殿に簾中、紀州の奥方ならびに女中方、それら

有備館

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この旅人は、近くまで江戸桜田邸にある長州の学塾有備館の用掛りをしていた男ざかりの侍である。かねて長州と水戸との

上町

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、十六、七人ばかりの人たちが彼を出迎えた。上町まで帰って行くと、問屋九太夫をはじめ、桝田屋、蓬莱屋、梅屋、いずれ

剣ヶ峰

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三角形から成り立つような山々は、それぞれの角度をもって、剣ヶ峰を絶頂とする一大巌頭にまで盛り上がっている。隠れたところにあるその孤立。

水戸藩

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ものであろうなどと、人のうわさにろくなことはない。水戸藩へはまた秘密な勅旨が下った、その使者が幕府の厳重な探偵を避ける

心を煽り立てるばかりであった。その年の五月には水戸藩浪士らによって、江戸高輪東禅寺にあるイギリス公使館の襲撃さえ行なわれた

横浜

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たちが生糸売り込みに目をつけ、開港後まだ間もない横浜へとこころざして、美濃を出発して来たのはやがて安政六年の十

この一行に加わって来た。もっとも、寛斎はただの横浜見物ではなく、やはり出稼ぎの一人として――万屋安兵衛の書役という

の十一屋に落ち着き、あの旅籠屋を足だまりとして、それから横浜へ出ようとした。木曾出身で世話好きな十一屋の隠居は、郷里に縁故の

を聞いて、やがて一行四人のものは東海道筋を横浜へ向かった。

横浜もさみしかった。地勢としての横浜は神奈川より岸深で、海岸には

横浜もさみしかった。地勢としての横浜は神奈川より岸深で、海岸にはすでに波止場も築き出されていたが

移った英国、米国、仏国、オランダ等の諸領事はさみしい横浜よりもにぎやかな東海道筋をよろこび、いったん仮寓と定めた本覚寺その他の寺院から

にある。そこに住む英国人で、ケウスキイという男は、横浜の海岸通りに新しい商館でも建てられるまで神奈川に仮住居するという貿易商で

道を登れば神奈川台の一角に出られる。目にある横浜もさびしかった。あるところは半農半漁の村民を移住させた町であり、

強い印象は容易にこの国の人の心を去らない。横浜、長崎、函館の三港を開いたことは井伊大老の専断であって、

の口から聞くと、ありふれた世辞とは響かなかった。横浜の海岸近くに大きな玉楠の樹がしげっている、世にやかましい神奈川条約は

に吹き立てられて、早く美濃へ逃げ帰りたいと思うところへ、横浜の方へは浪士来襲のうわさすら伝わって来た。

年も万延元年と改まるころには、日に日に横浜への移住者がふえた。寛斎が海をながめに神奈川台へ登って行って

た。吉田橋架け替えの工事も始まっていて、神奈川から横浜の方へ通う渡し舟も見える。ある日も寛斎は用達のついでに、神奈川台

は隠居が日ごろ出入りする幕府奥詰の医師を案内して、横浜見物に出向いて来るとある。その節は、よろしく頼むとある。

今度函館から江戸までちょっと出て来たついでに、新開の横浜をも見て行きたいというので、そのことを十一屋の隠居が通知し

「横浜もさびしいところですね。」

の施設を早く目論んでいる時で、函館の新開地にこの横浜を思い比べ、牡丹屋の亭主を顧みてはいろいろと土地の様子をきいた。

からの敷地から成る大規模な遊女屋の一郭もひらけつつある。横浜にはまだ市街の連絡もなかったから、一丁目ごとに名主を置き、名主

艀が波に揺られながら岸の方へ近づいて来た。横浜とはどんなところかと内々想像して来たような目つきのもの、全く生い立ち

瑞見はなかなかトボケた人で、この横浜を見に来たよりも、実は牛肉の試食に来たと白状する。

横浜も海岸へ寄った方はすでに区画の整理ができ、新道はその間を貫い

の夕飯にと言って瑞見から注文のあった肉を横浜の町で買い求めて来て、それをさげながら一緒に神奈川行きの舟に移っ

「横浜も鴉の多いところですね。」

北海らしい気持ちが起こって来ますよ。そう言えば、この横浜にはもう外国の宣教師も来てるというじゃありませんか。」

ているアメリカ人があります。ブラウンといいましたっけか。横浜へ着いた最初の宣教師です。狭い土地ですからすぐ知れますね。」

船員と商人との二人のオランダ人が殺された。それほど横浜の夜は暗い。外国人の入り込む開港場へ海から何か這うようにやって

「喜多村先生や宮川先生の前ですが、横浜の遊女屋にはわたしもたまげました。」と言い出すのは十一屋だ。

、全国に浪打つような幕府非難の声からすれば、横浜や函館の港を開いたことは幕府の大失策である。東西人種の相違

のようにおもしろがって言い立てるものもある。攘夷を意味する横浜襲撃が諸浪士によって企てられているとのうわさも絶えなかった。

神奈川在留の外国商人――中にもイギリス人のケウスキイなどは横浜の将来を見込んで、率先して木造建築の商館なりと打ち建てたいとの意気込み

神奈川付近から横浜へかけての町々の警備は一層厳重をきわめるようになった。鶴見の橋詰め

「そう言えば、先生はすこし横浜の匂いがする。」

「去年の十月ごろから見ると、横浜も見ちがえるようになりましたよ。」

「自分は近く横浜の海岸通りに木造の二階屋を建てる。自分の同業者でこの神奈川に来

野毛町、戸部町なぞの埋め立てもでき、開港当時百一戸ばかりの横浜にどれほどの移住者が増したと言って見ることもできない。この横浜は

の移住者が増したと言って見ることもできない。この横浜は来たる六月二日を期して、開港一周年を迎えようとしている

た師匠のために半蔵らの願いとするところで、最初横浜行きのうわさを耳にした時に、弟子たちの間には寄り寄りその話

、懇意な金兵衛方に亡くなった鶴松の悔やみを言い入れ、今度横浜を引き上げるについては二千四百両からの金を預かって来たこと、万屋安兵衛

「いったい、先生が横浜なぞへ出かけられる前に、相談してくださるとよかった。こんなにわたしたちを避け

が来た。おばあさんは木曾の山の中にめずらしい横浜土産を置いて行った人があると言って、それをお民のいるところへ

をくれた人にもよくわからない。あんまり美しいものだから横浜の異人屋敷から買って来たと言って、飯田の商人が土産に置いて

なって来ている。どうして飯田の商人がくれた横浜土産の一つでも、うっかり家の外へは持ち出せなかった。

しかし、その年の二月から、遠く横浜の港の方には、十一隻から成るイギリス艦隊の碇泊していたこと

の英国商人リチャアドソン、同じ香港より来た商人の妻ボロオデル、横浜在留の英国商人マアシャル、およびクラアク、この四人のものが横浜から川崎方面に

在留の英国商人マアシャル、およびクラアク、この四人のものが横浜から川崎方面に馬を駆って、おりから江戸より帰西の途にある薩摩の

の率いる十一隻からの艦隊が本国政府の指令のもとに横浜に到着したのは、その結果だ。

君らに相談しなかったのは、わたしが悪かった。横浜の話はもう何もしてくださるな。」

船の騒ぎを知らず、まして十一隻からのイギリス艦隊が横浜に入港するまでの社会の動揺を知りようもない。しかし平田大人のような

衣笠城

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あった三浦忠通という人の名が出て来た。衣笠城を築き、この三浦半島を領していた三浦平太夫という人の名も出

て来た。治承四年の八月に、八十九歳で衣笠城に自害した三浦大介義明という人の名も出て来た。宝治元年

尾張藩

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。福島勘定所の奉行を迎えるとか、木曾山一帯を支配する尾張藩の材木方を迎えるとかいう日になると、ただの送り迎えや継立てだけで

保護の精神より出たことは明らかで、木曾山を管理する尾張藩がそれほどこの地方から生まれて来る良い材木を重く視ていたのである

。福島の役所からは公役、普請役が上って来る。尾張藩の寺社奉行、または材木方の通行も続く。馬籠の荒町にある村社

思いがけない尾張藩の徒士目付と作事方とがその日の午前に馬籠の宿に着いた。

宿継ぎ差立てについて、尾張藩から送られて来た駄賃金が馬籠の宿だけでも金四十一両に上っ

馬籠の本陣親子が尾張藩主に特別の好意を寄せていたのは、ただあの殿様が木曾谷や尾張

のに不思議はない。当時の木曾山一帯を支配するものは尾張藩で、巣山、留山、明山の区域を設け、そのうち明山のみは自由林で

檜木、椹、明檜、高野槇、※の五種類が尾張藩の厳重な保護のもとにあったのだ。半蔵らは、名古屋から出張し

かわりに、それを「御切替え」と称えて、代金で尾張藩から分配されて来た。これらは皆、歴史的に縁故の深い尾張藩

れて来た。これらは皆、歴史的に縁故の深い尾張藩が木曾山保護の精神にもとづく。どうして、山や林なしに生きられる地方

ように往来したところだ。当時木曾路を通過した尾張藩の家中、続いて彦根の家中などがおびただしい同勢で山の上を急いだの

ちょうど半蔵の父、吉左衛門は尾張藩から御勝手仕法立ての件を頼まれて、名古屋出張中の留守の時であっ

青山

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、年寄役の金兵衛とはこの村に生まれた。吉左衛門は青山の家をつぎ、金兵衛は、小竹の家をついだ。この人たちが宿

吉左衛門が青山の家は馬籠の裏山にある本陣林のように古い。木曾谷の西の

見せるのも、その家族の歴史をさす。そういう吉左衛門が青山の家を継いだころは、十六代も連なり続いて来た木曾谷での

と聞いて、激しくも戦わないで引き退いた。その後、青山の家では帰農して、代々本陣、庄屋、問屋の三役を兼ねるよう

と半蔵は考え考えした。古い青山のような家に生まれた半蔵は、この師に導かれて、国学に心

と、半蔵の祝言を一つのくぎりとして、古い青山の家にもいろいろな動きがあった。年老いた吉左衛門の養母は祝言のごたごた

。最初にあの寺を建立して万福寺と名づけたのも青山の家の先祖だ。しかし彼は今度帰国する新住職のことを想像し、

何百年となく続いて来た青山の家には、もっと遠い先祖があり、もっと古い歴史があった。しかも、

「あとから届けますよ。あれで見ると、青山の家は山上から分かれる。山上は三浦家から出ていますね。つまり

自覚し始めた。さしあたり半蔵としては、父吉左衛門から青山の家を譲られる日のことを考えて見て、その心じたくをする必要

市が立ったという昔の時代から続いて来ている青山の家だ。この家にふさわしいものの一つは、今のおばあさん(

だい。寿平次さんとおれとは、同じように古い青山の家に生まれて来た人間さ。立場は違うかもしれないが、やっぱり

とうとう、半蔵は父の前に呼ばれて、青山の家に伝わった古い書類なぞを引き渡されるような日を迎えた。父の

あの地所のことでは金兵衛さんが大変な立腹で、いったい青山の欲心からこんなことが起こる、末長く御懇意に願いたいと思っているの

来ることは彼も予期していた。長い歴史のある青山の家を引き継ぎ、それを営むということが、もとより彼の心をよろこばせ

青山、小竹両家で待たれる福島の役所からの剪紙(召喚状)が届いたの

名古屋城

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らは二人の主人をいただいていることになるので、名古屋城の藩主を尾州の殿と呼び、その配下にある山村氏を福島の旦那様

御茶壺同様にとの特別扱いのお触れがあって、名古屋城からの具足長持が十棹もそのあとから続いた。それらの警護の武士

風越山

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彼らの田園を離れ、伊那から木曾への通路にあたる風越山の山道を越して、お触れ当てあるごとにこの労役に参加して来た。

追分

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しかし、そればかりではない。半蔵らが追分に送った一夜の無意味でなかったことは、思いがけない江戸の消息までもそこ

伊吹山

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ます。どうかするとお天気のよい日には、遠い伊吹山まで見えることがありますよ――」

中津川

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溶けはじめるころになると、にわかに人の往来も多い。中津川の商人は奥筋(三留野、上松、福島から奈良井辺までをさす)へ

よ。馬籠ばかりじゃない、妻籠でも、山口でも、中津川でも見たものがある。」

朝馬籠から送り出した長持は隣宿の妻籠で行き止まり、翌朝中津川から来た長持は馬籠の本陣の前で立ち往生する。荷物はそれぞれ問屋預け

である。ちょうど暑さの見舞いに村へ来ていた中津川の医者と連れだって、通行の邪魔にならないところに立った。この医者が

分の金を借りるにも、隣宿の妻籠か美濃の中津川まで出なければならなかった。師走も押し詰まったころになると、中津川の備前

なければならなかった。師走も押し詰まったころになると、中津川の備前屋の親仁が十日あまりも馬籠へ来て泊まっていて、町中

は、一俵買いの時代も来、後には馬で中津川から呼ぶ時代も来た。新宅桝田屋の主人はもうただの百姓でもなかった

隣人――吉左衛門と金兵衛とをよく比べて言う人に、中津川の宮川寛斎がある。この学問のある田舎医者に言わせると、馬籠は国境

鳴り物類一切停止の触れも出た。この街道筋では中津川の祭礼のあるころに当たったが、狂言もけいこぎりで、舞台の興行なし

それらの遊戯に代えた。幸い一人の学友を美濃の中津川の方に見いだしたのはそのころからである。蜂谷香蔵と言って、

の青年の早い友情が結ばれはじめてからは、馬籠と中津川との三里あまりの間を遠しとしなかった。ちょうど中津川には宮川寛斎

との三里あまりの間を遠しとしなかった。ちょうど中津川には宮川寛斎がある。寛斎は香蔵が姉の夫にあたる。医者で

ていて、また国学にもくわしかった。馬籠の半蔵、中津川の香蔵――二蔵は互いに競い合って寛斎の指導を受けた。

「お客にですか。宮川寛斎先生に中津川の香蔵さん、それに景蔵さんも呼んであげたい。」

「それは半蔵さん、言うまでもなし。中津川の御連中はあすということにして、もう使いが出してありますよ

「あの山の向こうが中津川だよ。美濃はよい国だねえ。」

れずにはいられなかった。早い話が、彼は中津川の宮川寛斎に就いた弟子である。寛斎はまた平田派の国学者である。

のうち、こちらから行った馬籠の人足たちのほかに、中津川からは宗泉寺の老和尚も松雲に付き添って来た。

も、湯舟沢でも負けてはいないというふうで。中津川での祭礼狂言は馬籠よりも一月ほど早く催されて、そのおりは本陣

せるとあって、お玉の心づかいは一通りでなかった。中津川からは親戚の女まで来て衣裳ごしらえを手伝った。

「おい、峠の牛方衆――中津川の荷物がさっぱり来ないが、どうしたい。」

つかめなかった。今まで入荷出荷とも付送りを取り扱って来た中津川の問屋角十に対抗して、牛方仲間が団結し、荷物の付け出しを拒んだ

ことは彼にもわかった。角十の主人、角屋十兵衛が中津川からやって来て、伏見屋の金兵衛にその仲裁を頼んだこともわかった。

立って調停を試みたが、紛争は解けそうもない。中津川からは角十側の人が来る。峠からは牛行司の利三郎、それに十二兼

、半蔵は峠の組頭から聞いた言葉を思い出した。いずれ中津川からも人が出張しているから、とくと評議の上、随分一札も入れさせ

ちょうど、中津川の医者で、半蔵が旧い師匠にあたる宮川寛斎が桝田屋の病人を見に馬籠

たという。その翌日には、六人の瀬戸物商人が中津川へ出張して来て、新規の問屋を立てることに談判を運んでしまった

中津川の和泉屋は、半蔵から言えば親しい学友蜂谷香蔵の家である。その和泉屋

こういう意味の手紙を半蔵は中津川にある親しい学友の蜂谷香蔵あてに書いた。

顔にあらわして言った。同じ道を踏もうとしている中津川の浅見景蔵も、蜂谷香蔵も、さぞ彼のためによろこんでくれるだろうと

ようになりました。そりゃ、わたしばかりじゃありません、中津川の景蔵さんや香蔵さんだっても、そうです。」

中津川の商人、万屋安兵衛、手代嘉吉、同じ町の大和屋李助、これらの人

はやがて安政六年の十月を迎えたころである。中津川の医者で、半蔵の旧い師匠にあたる宮川寛斎も、この一行に加わって

一行四人は中津川から馬籠峠を越え、木曾街道を江戸へと取り、ひとまず江戸両国の十一屋に落ち着き

のものにとって、かなりの冒険とも思われた。中津川から神奈川まで、百里に近い道を馬の背で生糸の材料を運ぶという

だ。後日の祟りをおそれたのだ。実際、寛斎が中津川の商人について神奈川へ出て来たのは、そういう黒船の恐怖から

がまだ容易に信用しようともしない外国人の中へ、中津川の商人らは飛び込んで来た。神奈川条約はすでに立派に調印されて、

ことはなかったが、中にも眼科を得意にし、中津川の町よりも近在回りを主にして、病家から頼まれれば峠越しに馬籠

のように言われて来たこの寛斎が医者の玄関も中津川では張り切れなくなったと言って、信州飯田の在に隠退しようと考えるよう

そろった彼の部屋の光景である。馬籠の青山半蔵、中津川の蜂谷香蔵、同じ町の浅見景蔵――あの三人を寛斎が戯れに

そこから寛斎のように中津川の商人について、横浜出稼ぎということも起こって来た。本居大人の

。彼の日課は開港場の商況を調べて、それを中津川の方へ報告することで、その都度万屋からの音信にも接したが、

来る。旧暦三月の季節も近づいて来た。寛斎は中津川の商人らをしきりに待ち遠しく思った。例の売り込み商を訪ねるたびに、貿易

も、寛斎の胸に浮かんで来た。彼の心は中津川の香蔵、景蔵、それから馬籠の半蔵なぞの旧い三人の弟子の方

生糸売り上げの利得のうち、小判で二千四百両の金を遠く中津川まで送り届けることが寛斎の手に委ねられた。安兵衛、嘉吉の二人は神奈川に

途に上ったことは、早く美濃の方へ知れた。中津川も狭い土地だから、それがすぐ弟子仲間の香蔵や景蔵の耳に入り

せっかく待ち受けている半蔵の家へは立ち寄らずに、そこそこに中津川の方へ通り過ぎて行った。

こんな話をもって、中津川の香蔵が馬籠本陣を訪ねるために、落合から十曲峠の山道を登っ

は、まだ家督相続もせずにいる半蔵と違い、すでに中津川の方の新しい問屋の主人である。十何年も前に弟子として

今になって、想い当たる。宮川先生も君、あれで中津川あたりじゃ国学者の牛耳を執ると言われて来た人ですがね、年を

香蔵もその晩は中津川の方へは帰れなかった。翌朝になって見ると、風は静まったが

半蔵が継母のおまんも囲炉裏ばたへ来て言った。「いずれ中津川からお迎えの人も見えましょうに、それまで見合わせていらっしゃるがいい。まあ、そう

そろそろ香蔵は中津川の家の方のことを心配し出した。強風強雨が来たあとの

七月を迎えるころには、寛斎は中津川の家を養子に譲り、住み慣れた美濃の盆地も見捨て、かねて老後の隠棲

伊那の谷の方を望み、一方には親しい友だちのいる中津川から、落合、附智、久々里、大井、岩村、苗木なぞの美濃の方

「ねえ、あなたが中津川の香蔵さんと話すのをそばで聞いていますと、吾家の兄さん

方の役人は美濃路から急いで来る。上松の庄屋は中津川へ行く。早駕籠で、夜中に馬籠へ着くものすらある。尾州の領分からは

どうも人足や馬が足りそうもない。おれはこれから中津川へ打ち合わせに行って、それから京都まで出かけて行って来るよ。」

翌日は中津川お泊まりの日取りである。その日は雨になって、夜中からひどく降り出し

、尾州方の役人も、ひとしく目撃したところである。中津川、三留野の両宿にたくさんな死傷者もできた。街道には、途中で

一人の旅人が京都の方面から美濃の中津川まで急いで来た。

中津川の本陣では、半蔵が年上の友人景蔵も留守のころであった。景蔵

で。この旅人は恵那山を東に望むことのできるような中津川の町をよろこび、人の注意を避くるにいい位置にある景蔵の留守宅を

知らない。まして、そんな旅人が世子の内命を帯びて、中津川に自分を待つとは知らない。さきに幕府への建白の結果として

御主人は御病気か。それはおだいじに。ここから中津川まで何里ほどありましょう。」

「諸君、中津川まではもう三里だそうですよ。ここで昼食をやってください。」

の廊下を通った。長州藩主がその日の泊まりと聞く中津川の町の方は早く暮れて、遠い夕日の反射が西の空から恵那山の

中津川の会議が開かれて、長藩の主従が従来の方針を一変し、吉田

「実は、今、中津川から歩いて来たところです。君のお友だちの浅見(景蔵)君はお

久と言えば理解のある義気に富んだ商人として中津川や伊那地方の国学者で知らないもののない人の名が、この正香の口

が、ところどころに村もありますし、馬も通います。中津川から飯田へ行く荷物はあの道を通るんです。蘭川について東南へ東南

その時になると、彼は中津川の問屋の仕事を家のものに任せて置いて京都の方へ出かけて行く

た客は、他の人でもない、三年前に中津川を引き揚げて伊那の方へ移って行った旧い師匠だ。宮川寛斎だ。

見つけた最後の「隠れ家」まであとに見捨てて、もう一度中津川をさして帰って行こうとする人である。かつては横浜貿易を共にし

とする人である。かつては横浜貿易を共にした中津川の商人万屋安兵衛の依頼をうけ、二千四百両からの小判を預かり、馬荷一駄

養子の厄介にはなりたくないと思うんです。これから中津川に落ちつくか、どうか、自分でも未定です。そうです、今ひと奮発です

「中津川の香蔵さんの姉さんが、お亡くなりになった奥さんなんですか。よほど

さんがたった一人ある。この人がまた怜悧な人で、中津川でも才女と言われた評判な娘さんさ。そこへ養子に来たの

とこころざす参詣者の団体だ。奥筋へと入り込んで来る中津川の商人も見える。荷物をつけて行く馬の新しい腹掛け、赤革の馬具から、

ない男の名だ。かつて牛方事件の張本人として、中津川の旧問屋角屋十兵衛を相手に血戦を開いたことのある男だ。それほど

加茂

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中に報じてある。帝には御祈願のため、すでに加茂へ行幸せられ、そのおりは家茂および一橋慶喜以下の諸有司、それに在京

安土

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この寿平次は安土の方へ一手の矢を抜きに行って、また妹のいるところまで引き返して

鎌倉

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は従五位下だ。元弘二年新田義貞を輔けて、鎌倉を攻め、北条高時の一族を滅ぼす、先世の讐を復すというべしと

関東

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の三公は落飾を迫られ、その他の公卿たちの関東反対の嫌疑のかかったものは皆謹慎を命ぜられた。老女と言われる身

小鳥の来るころになった。もはや和宮様お迎えの同勢が関東から京都の方へ向けて、毎日のようにこの街道を通る。そうなると

。どうして、この多数の応援があってさえ、続々関東からやって来る御同勢の継立てに充分だとは言えなかったくらいだ。馬籠峠

、上方とは全く風俗を異にし習慣を異にする関東の武家へ御降嫁されたあとには、多くの人心を動かすものが残っ

なって、公卿を訪い朝廷の御機嫌を伺い、すでに勅使を関東に遣わされているから、薩藩と共に叡慮の貫徹に尽力せよとの御沙汰

さまの御降嫁だっても、この機運の動いてることを関東に教えたのさ。ところが関東じゃ目がさめない。勅使下向となって

機運の動いてることを関東に教えたのさ。ところが関東じゃ目がさめない。勅使下向となって、慶喜公は将軍の後見に、

みんな勝手な気焔を揚げていますから。中にはもう関東なんか眼中にないものもいますから。こないだもある人が、江戸のような

公武合体の意をいたし、一切の政務は従前どおり関東に委任するよしの御沙汰を拝するためであった。宮様御降嫁以来、帝

寛永時代における徳川将軍の上洛と言えば、さかんな関東の勢いは一代を圧したもので、時の主上ですらわざわざ二条城へ

「関東の事情切迫につき、英艦防禦のため大樹(家茂のこと)帰府の儀、

君臣一和にこれなく候ては相叶わざるのところ、大樹関東へ帰府せられ、東西相離れ候ては、君臣の情意相通ぜず、自然隔離

、皇国の志気挽回の機会にこれあるべく思し召され候。関東防禦の儀は、しかるべき人体相選み申し付けられ候よう、御沙汰に候事。

、仙台侯の帰東も、なんとなく切迫して来た関東や京都の事情と関係のないものはない。時ならぬ鐘の音が馬籠

名古屋

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山村氏から言えば、木曾谷中の行政上の支配権だけをこの名古屋の大領主から託されているわけだ。吉左衛門らは二人の主人をいただいて

「でも、世の中は妙なものじゃないか。名古屋の殿様のために、お勝手向きのお世話でもしてあげれば、苗字帯刀御免

なぞがぽつぽつ松雲の口から出た。京都に十七日、名古屋に六日、それから美濃路回りで三日目に手賀野村の松源寺に

うわさのある名古屋の藩主(尾張慶勝)の江戸出府は三月のはじめに迫っていた。

であるというばかりではない。吉左衛門には、時に名古屋まで出張するおりなぞには藩主のお目通りを許されるほどの親しみがあった

演劇の最も発達した中心地は、近くは飯田、遠くは名古屋であって、市川海老蔵のような江戸の役者が飯田の舞台を踏んだこと

言って吉左衛門などがうわさをしているところへ、豊川、名古屋、小牧、御嶽、大井を経て金兵衛親子が無事に帰って来た。その

の土産話が芝居好きな土地の人たちをうらやましがらせた。名古屋の若宮の芝居では八代目市川団十郎が一興行を終わったところであった

そのうちに、名古屋の方へ頼んで置いた狂言衣裳の荷物が馬で二駄も村に届い

取るまいとして、振付は飯田の梅蔵に、唄は名古屋の治兵衛に、三味線は中村屋鍵蔵に、それぞれ依頼する手はずをさだめた。祭り

。浄瑠璃方がすでに村へ入り込んだとか、化粧方が名古屋へ飛んで行ったとか、そういううわさが伝わるだけでも、村の娘

を警戒した。祈祷のためと言って村の代参を名古屋の熱田神社へも送った。そのうちに諸方からの通知がぽつぽつ集まって来

一、通し送り荷駄賃、名古屋より福島まで半分割の運上引き去り、その余は御刎ねなく下されたきこと。

この辺鄙な田舎には、お前さま、せめて一生のうちに名古屋でも見て死にたいなんて、そんなことを言う女もあるに。」

厳重な保護のもとにあったのだ。半蔵らは、名古屋から出張している諸役人の心が絶えずこの森林地帯に働いていることを

、夕方まで休みなしに吹き通すような強風も出て来た。名古屋から福島行きの客でやむを得ず半蔵の家に一宿させてくれと

は尾張藩から御勝手仕法立ての件を頼まれて、名古屋出張中の留守の時であった。半蔵は家の囲炉裏ばたに香蔵を残して

も互いに連絡を取ること、場合によっては京都、名古屋にある同志のものを応援することを半蔵に約して置いて、三日目

京都から名古屋へ回って来たという父が途中の見聞を語るだけでも、半蔵に

両国

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左近将監様。伊豆大島一円。松平下総守様、安房上総の両国。その他、川越城主松平大和守様をはじめ、万石以上にて諸所にお堅めのた

行くと、筋違で見たような見附の門はそこにもあった。両国の宿屋は船の着いた河岸からごちゃごちゃとした広小路を通り抜けたところ

宿屋は心やすく思われたからで。ちょうど、昌平橋から両国までは船で行かれることを教えてくれる人もあって、三人とも柳の樹の続い

、諸国旅人の泊まる定宿もいろいろある中で、半蔵らは両国の宿屋を選ぶことにした。同郷の人が経営しているというだけでもその宿屋

半蔵らがめざして行った十一屋という宿屋は両国の方にある。小網町、馬喰町、日本橋数寄屋町、諸国旅人の泊まる定宿もい

両国へ着いた翌日、半蔵は寿平次と二人で十一屋の二階にいて、遠く町の空に響

方面で、その辺は割合に人口も稀薄なところであった。両国まで来て初めて町の深さにはいって見た。それもわずかに江戸の東北にあた

あの追分の名主文太夫から見せてもらって来た手紙も、両国十一屋の隠居から聞いた話も、すべてそれを胸にまとめて見ることができた

馬籠峠を越え、木曾街道を江戸へと取り、ひとまず江戸両国の十一屋に落ち着き、あの旅籠屋を足だまりとして、それから横浜へ出よう

いる思いを習字にまぎらわそうとしていた。そこへ江戸両国の十一屋から届いたと言って、宿の年とったかみさんが二通の手紙を持って

二月にはいって、寛斎は江戸両国十一屋の隠居から思いがけない便りを受け取った。それには隠居が日ごろ出

旬である。二人はやはり以前と同じ道筋を取って、江戸両国の十一屋泊まりで、旧暦四月にはいってから神奈川の牡丹屋に着いた。

「オヤ、もうお立ちでございますか。江戸はいずれ両国のお泊まりでございましょう。あの十一屋の隠居にも、どうかよろしくおっ

犬山城

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、馬籠の砦にこもって、犬山勢を防いだ。当時犬山城の石川備前は木曾へ討手を差し向けたが、木曾の郷士らが皆徳川方

福島

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もないからである。この谿谷の最も深いところには木曾福島の関所も隠れていた。

しかし家督を譲って隠居しようなぞとは考えていない。福島の役所からでもその沙汰があって、いよいよ引退の時期が来るまでは

も多い。中津川の商人は奥筋(三留野、上松、福島から奈良井辺までをさす)への諸勘定を兼ねて、ぽつぽつ隣の国

田地のことなぞに干渉されないで済む通行である。福島勘定所の奉行を迎えるとか、木曾山一帯を支配する尾張藩の材木方を

させるから国境へ見送るまでの世話をした。もっとも、福島からは四人の足軽が付き添って来たが、二十二人ともに残らず

藩主を尾州の殿と呼び、その配下にある山村氏を福島の旦那様と呼んで、「殿様」と「旦那様」で区別して

その領地にあたる木曾谷を輿で運ばれて行った。福島の代官、山村氏から言えば、木曾谷中の行政上の支配権だけをこの名古屋

してかつて聞かなかったことだ。前庭の上段には、福島から来た役人の年寄、用人、書役などが居並んで、そのわきには

おかっぴき」の役目をつとめていた。弥平の案内で、福島の役所からの役人を迎えた日のことは、一生忘れられない出来事の

組頭としてこれが見ていられるものでもない。福島の役人たちが湯舟沢村の方へ引き揚げて行った後で、「お叱り

のものの残らず手錠を免ぜられる日がようやく来た。福島からは三人の役人が出張してそれを伝えた。

に触れ出される。村方一切の諸帳簿の取り調べが始まる。福島の役所からは公役、普請役が上って来る。尾張藩の寺社奉行、

上り下りの諸大名の通行もある。月の末には毎年福島の方に立つ毛付け(馬市)も近づき、各村の駒改めということも

ひいて街道を降りて来る村の小前のものがある。福島の馬市からの戻りと見えて、青毛の親馬のほかに、当歳らしい一

上納を終わったことを届けて置いてあった。今度、福島からその挨拶があったのだ。

を引き請け、暮れに五十両の無尽を取り立ててその金は福島の方へ回し、二番口も敷金にして、首尾よく無尽も終

から引き取って来た。その用向きは、前の年の秋に、福島の勘定所から依頼のあった仕法立ての件で、馬籠の宿として

七月にはいって、吉左衛門は木曾福島の用事を済まして出張先から引き取って来た。その用向きは、前の年の秋

ようなところだ。店座敷も広い。その時、吉左衛門は福島から受け取って来たものを風呂敷包みの中から取り出して、

場に公開して、土地の繁華を計っているのも福島の役人であった。袖の下はもってのほかだという。しかし御肴代もしくは御祝儀

が木曾にはいったのは、木曾義昌の時代で、おそらく福島の山村氏よりも古い。その後この地方の郷士として馬籠その他数

ちょうど、そこへ会所の使いが福島の役所からの差紙を置いて行った。馬籠の庄屋あてだ。おまんは

「あなた、福島からお差紙ですよ。」

柔らかに見せている。彼はひとりで手をもんで、福島から差紙のあった国防献金のことを考えた。徳川幕府あって以来いまだ

」と金兵衛は言った。「桝田屋の儀助さんが夜行で福島へ出張したところが、往還の道筋にはすこしも雪がない。茶屋

を村民一同に言い渡したのも、その年の馬市が木曾福島の方で始まろうとするころにあたる。

検閲は厳重で、風俗壊乱、その他の取り締まりにと木曾福島の役所の方から来た見届け奉行なぞも、狂言の成功を祝って引き取っ

各村倹約の申し渡しとして、木曾福島からの三人の役人が巡回して来たころは、山里も震災の

一、通し送り荷駄賃、名古屋より福島まで半分割の運上引き去り、その余は御刎ねなく下されたきこと。

ある。その村民が彼の家の門内に呼びつけられて、福島から出張して来た役人の吟味を受けたことがある。彼は庭

絶えず往来がある。半蔵が父の代理として木曾福島の役所へ出張するおりなぞは必ず寿平次の家を訪れる。その日は

のお日待を祝ったほどの年ごろである。先代が木曾福島へ出張中に病死してからは、早く妻籠の本陣の若主人となった

三留野、野尻を下四宿といい、須原、上松、福島を中三宿といい、宮の越、藪原、奈良井、贄川を上四宿

福島までの間は寿平次のよく知っている道で、福島の役所からの差紙でもあるおりには半蔵も父吉左衛門の代理とし

深い森林の光景がひらけた。妻籠から福島までの間は寿平次のよく知っている道で、福島の役所からの

顔を知られている牛行司利三郎だ。その牛行司は福島から積んで来た荷物の監督をして、美濃の今渡への通し荷

御嶽の方へ通う山道の分かれるところへ出た。そこが福島の城下町であった。

木曾福島の関所も次第に近づいた。三人ははらはら舞い落ちる木の葉を踏んで、さらに

福島の関所は木曾街道中の関門と言われて、大手橋の向こうに正門

関所を預かる主な給人であり、砲術の指南役であり、福島でも指折りの武士の一人であった。ちょうど非番の日で、菖助は

福島では、半蔵らは関所に近く住む植松菖助の家を訪ねた。父

た。そこの庄屋の主人は、半蔵が父とはよく福島の方で顔を合わせると言い、この同じ部屋に吉左衛門を泊めたことも

言った。その静かさは、河の音の耳につく福島あたりにはないものだった。そこの庄屋の主人は、半蔵が父と

歳のころから、すでにその見習いを命ぜられていて、福島の役所への出張といい、諸大名の送り迎えといい、二人が少年時代

いるという人のうわさも聞かなかった。ただ一人、木曾福島の武居拙蔵、その人は漢学者としての古賀※庵に就き、

に招んだと思わっせれ。そこが、お前さま、福島の山村様だ。これが木曾名物の焼き栗だと言って、生の栗

があるで。」と佐吉も膝をかき合わせて、「木曾福島の山村様が江戸へ出るたびに、山猿、山猿と人にからかわれるの

まで休みなしに吹き通すような強風も出て来た。名古屋から福島行きの客でやむを得ず半蔵の家に一宿させてくれと言っ

のほかの大荒れで、奥筋の道や橋は損じ、福島の毛付け(馬市)も日延べになったとの通知があるくらいだ。

吉左衛門と、隣家の金兵衛とが、二人ともそろって木曾福島の役所あてに退役願いを申し出たのも、その年、万延元年の夏

「半蔵さま、福島からお差紙(呼び出し状)よなし。ここはどうしても、お前さま

と、直ちに入牢を仰せ付けられて、八沢送りとなった。福島からは別に差紙が来て、年寄役付き添いの上、馬籠の庄屋に

ある。二人の百姓総代は峠村からも馬籠の下町からも福島に呼び出された。両人のものが役所に出頭して見ると、直ちに入牢

が、湯舟沢村のものから不服が出て、その結果は福島の役所にまで持ち出されるほど紛れたのである。二人の百姓総代は峠村

ほど彼の心に深い悲しみを覚えさせるものもなかった。福島役所への訴訟沙汰にまでなった山論――訴えた方は隣村湯舟沢の

「お民、おれはお父さんの名代に、福島まで行って来る。」

父、吉左衛門はそれを半蔵に言って、福島行きのしたくのできるのを待った。

の儀助、同役与次衛門、それに峠の組頭平助がすでに福島へ向けて立って行った。なお、年寄役金兵衛の名代として、

の方の百姓は、組頭とも、都合八人のものが福島の役所に呼び出された。馬籠では、年寄役の儀助、同役与次衛門

と父が言葉を添えるころには、峠の組頭平助が福島から引き返して、半蔵を迎えに来た。半蔵は平助の付き添いに力を

て、庄屋としての父の名代を勤めるために、福島の役所をさして出かけて行くことにした。

十三日の後には、福島へ呼び出されたものも用済みになり、湯舟沢峠両村の百姓の間には

八沢の牢舍を出たもの、証人として福島の城下に滞在したもの、いずれも思い思いに帰村を急ぎつつあった。

福島から須原泊まりで、山論和解の報告をもたらしながら、半蔵が自分の家の

ばかりがその辺へは鎌を入れることにして、一同福島から引き取って来たことを告げた。

そばでは蟋蟀が鳴いた。半蔵はその年の盆も福島の方で送って来て、さらに村民のために奔走しなければならない

宿役人一同、組頭までが福島の役所から来た触れ書を前に置いて、談し合わねばならないよう

裏庭の矢場に隠れていた。彼の胸には木曾福島の役所から来た回状のことが繰り返されていた。それは和宮様

太夫さんがわからないから。あの人は大変な立腹で、福島へ出張して申し開きをするなんて、そう言って、金兵衛さんのところへ出かけ

たのだ。もっとも、廃仏を意味する神葬祭の一条は福島の役所からの諮問案で、各村の意見を求める程度にまでしか進んで

御通行後の二日目は、和宮様の御一行も福島、藪原を過ぎ、鳥居峠を越え、奈良井宿お小休み、贄川宿御昼食

ことであると言って、お継ぎ所に来ていた福島方の役人衆までが口唇をかんだことを語った。伊那助郷の交渉

正月早々から半蔵は父の名代として福島の役所へ呼ばれ、木曾十一宿にある他の庄屋問屋と同じように

まだ産後の床についていたが、そこへ半蔵が福島から引き取って来た。和宮様の御通行前に、伊那助郷総代へ約束

と剃り立てた髯の跡の濃い腮をなでて、また福島の役所の方から代替り本役の沙汰もないうちから、新主人半蔵のため

青山、小竹両家で待たれる福島の役所からの剪紙(召喚状)が届いたのは、それから間も

小左衛門、それに下男の佐吉なぞと共に、一同連れだって福島からの帰路につく人たちであった。彼が奥筋から妻籠まで引き返し

も心を決した。彼は隣家の伊之助を誘って、福島をさして出かけた。木曾路に多い栗の林にぱらぱら時雨の音の

はこの社殿を今見る形に改めた造営者であり木曾福島の名君としても知られた山村蘇門の寄進にかかる記念の額なぞ

妨げさせた。彼の心は和宮様御降嫁のころに福島の役所から問い合わせのあった神葬祭の一条の方へ行ったり、国学者仲間

になったと同じ道に落ち合います。この次ぎはぜひ、福島の方からお回りください。」

ますが、正味四里半しかありません。青山さんは福島へはよく御出張でしょう。あの行人橋から御嶽山道について常磐の渡し

「福島からここまでは五里と申しておりますが、正味四里半しかあり

京都

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は板橋を経て江戸に続き、西は大津を経て京都にまで続いて行っている。東海道方面を回らないほどの旅人は、否

上にある新茶屋には出迎えのものが集まった。今度いよいよ京都本山の許しを得、僧智現の名も松雲と改めて、馬籠万福寺の跡

た。六年の長い月日を行脚の旅に送り、さらに京都本山まで出かけて行って来た人とは見えなかった。一行六、七

京都の旅の話なぞがぽつぽつ松雲の口から出た。京都に十七日、名古屋に六日、それから美濃路回りで三日目に

僧侶だ。とりあえず峠の茶屋に足を休めるとあって、京都の旅の話なぞがぽつぽつ松雲の口から出た。京都に十七日、

にある日の松雲はかなりわびしい思いをして来た。京都の宿で患いついた時は、書きにくい手紙を伏見屋の金兵衛にあてて

尽くして天明年度の大火よりも大変だといううわさが、京都方面から伝わって来たのもそのころだ。

の中でも下男の一人を相手に家に残って、京都から来た飛脚に駄賃を払ったり、判取り帳をつけたりしていた。

六人もある。水戸の安島帯刀、越前の橋本左内、京都の頼鴨崖、長州の吉田松陰なぞは、いずれも恨みをのんで倒れて

に渦巻き始めた新興勢力の苗床にまで及んで行った。京都にある鷹司、近衛、三条の三公は落飾を迫られ、その他の

が謹慎や蟄居を命ぜられたばかりでなく、強い圧迫は京都を中心に渦巻き始めた新興勢力の苗床にまで及んで行った。京都に

古代復帰の夢想を抱いた一人である。この夢想は、京都を中心に頭を持ち上げて来た勤王家の新しい運動に結びつくべき運命の

であって、朝廷の許しを待ったものではない。京都の方面も騒がしくて、賢い帝の心を悩ましていることも一通りでない

た。岩瀬肥後はその主唱者なのだ。水戸はもとより、京都方面まで異議のあろうはずもない。ところがこれには反対の説が出

ため江戸の任地へ赴こうとし、あるいは神奈川条約上奏のため京都へ急ごうとして、その客間に足をとどめて行ったことが、ありあり

らとも互いに連絡を取ること、場合によっては京都、名古屋にある同志のものを応援することを半蔵に約して置いて、

谷の方のだれ彼は白河家を足だまりにして、京都の公卿たちの間に遊説を思い立つものがある。すでに出発したものも

いるが、幕府方には尊王攘夷説の根源を断つために京都の主上を幽し奉ろうとする大きな野心がある。こんな信じがたいほどの流言が

同門松尾多勢子とも縁つづきの間柄である。この人もしばらく京都の方に出て、平田門人としての立場から多少なりとも国事に

京都にある帝の妹君、和宮内親王が時の将軍(徳川家茂)へ

とするという。おそらくこれは盛典としても未曾有、京都から江戸への御通行としても未曾有のことであろうと言わるる。

は山法師などという手合いが日吉七社の神輿をかつぎ出して京都の市中を騒がし、あるいは大寺と大寺とが戦争して人を殺したり

来るころになった。もはや和宮様お迎えの同勢が関東から京都の方へ向けて、毎日のようにこの街道を通る。そうなると、

ない。おれはこれから中津川へ打ち合わせに行って、それから京都まで出かけて行って来るよ。」

も人足は通しにするよりほかに方法がない。おれは京都まで御奉行様のあとを追って行って、それをお願いして来る

宮様は親子内親王という。京都にある帝とは異腹の御兄妹である。先帝第八の皇女であら

御結婚には宮様も御不承知であった。ところが京都方にも、公武合体の意見を抱いた岩倉具視、久我建通、千種

の実を挙ぐるに最も適当な方法であるとし、京都所司代の手を経、関白を通して、それを叡聞に達したところ、

べき各本陣を見分した。ちょうど馬籠では、吉左衛門も京都の方へ出かけた留守の時で、半蔵が父に代わってこの一行を

の方で働いている友人の香蔵を思い、この際京都から帰って来ている景蔵を思い、その話をよく伊之助にした。

京都から名古屋へ回って来たという父が途中の見聞を語るだけでも

そこへ先駆だ。二十日に京都を出発して来た先駆の人々は、八日目にはもう落合宿

典侍、命婦能登などが供奉の人々の中にあった。京都の町奉行関出雲守がお輿の先を警護し、お迎えとして江戸

の心労と尽力とを見る目があったら、いかに強欲な京都方の役人でもこんな暗い手は出せなかったはずであると語った。

だ。伊之助は声を潜めながら、木曾の下四宿から京都方の役人への祝儀として、先方の求めにより二百二十両の金

よると、こうした役人の腐敗沙汰にかけては、京都方も江戸方もすこしも異なるところのないことを示していた。二人

な人物のあらわれて来たのでもわかる。応仁乱後の京都は乱前よりも一層さびれ、公家の生活は苦しくなり、すこし大げさかも

歴訪して勤王の志を起こしたという蒲生君平や、京都のさびしい御所を拝して哭いたという高山彦九郎のような人物のあらわれて

そのとおりだ。薩長二藩の有志らはいずれも争って京都に入り、あるいは藩主の密書を致したり、あるいは御剣を奉献したりし

みているはずもない。しかしそれらの雄藩でも、京都にある帝を中心に仰ぎ奉ることなしに、人の心を収めることは

一人の旅人が京都の方面から美濃の中津川まで急いで来た。

屋敷にある長藩世子(定広)の内命を受けて、京都の形勢の激変したことを藩主に報じ、かねての藩論なる公武合体、

毛利慶親)をそこに待ち受けていた。その目的は、京都の屋敷にある長藩世子(定広)の内命を受けて、京都の形勢

ころであった。景蔵は平田門人の一人として、京都に出て国事に奔走しているころであったからで。この旅人は

名高い中将斎彬の弟にあたる島津久光がすでにその勢力を京都の方に扶植し始めたことを知り、さらに勅使左衛門督大原重徳を奉じ

旅にある藩主はそれほど京都の形勢が激変したとは知らない。まして、そんな旅人が世子の内命

薩摩の精兵が藩主に引率されて来た時は、京都の町々はあだかも戒厳令の下にあったことをも知らせて来た。

させるようなことは父の耳に入れまいとした。京都の方にある景蔵からは、容易ならぬ彼地の形勢を半蔵のところ

任せにして置かれないというふうにも。半蔵は京都や江戸にある平田同門の人たちからいろいろな報告を受けて、そのたび

全く転倒した位置に立たせられた。干渉は実に京都から来た。しかも数百名の薩摩隼人を引率する島津久光を背景にして

たちであらねばならない。従来幕府は事あるごとに京都に向かって干渉するのを常とした。今度勅使の下向を江戸に

ものもある。こういう中にあって、薩長二藩の京都手入れから最も強い刺激を受けたものは、言うまでもなく幕府側にある

共に輦下警衛の任に当たることにかけては、京都の屋敷にある世子定広がすでにその朝命を拝していた。薩長二藩

だ。その年の渋柿の出来のうわさは出ても、京都と江戸の激しい争いなぞはどこにあるかというほど穏やかな日もさし

ばかりでなく、大赦は行なわれる、山陵は修復される、京都の方へ返していいような旧い慣例はどしどし廃された。幕府から任命

ある。門閥と兵力とにすぐれた会津藩主松平容保は、京都守護職の重大な任務を帯びて、新たにその任地へと向かいつつある

紐を解かせた。人馬の公用を保証するために、京都の大舎人寮、江戸の道中奉行所をはじめ、その他全国諸藩から送ってよこし

命ぜられ、すでに落飾の境涯にあるというほど一変した京都の方の様子も深く心にかかりながら、半蔵は妻籠本陣に一晩泊まっ

のに、それをうっちゃらかして置いて行くくらいですからね。京都の方はどうでしょう。それほど雲行きが変わって来たんじゃありません

どうもいろいろなことをまとめて考えて見ると、何か京都の方には起こっている――」

言って来ますか。今じゃ平田先生の御門人で、京都に集まってる人もずいぶんあるんでしょう。」

将軍上洛の前触れと共に、京都の方へ先行してその準備をしようとする一橋慶喜の通行筋はやはり

ようになった。時局の中心はもはや江戸を去って、京都に移りつつあるやに見えて来た。それを半蔵は自分が奔走する

方で浪士の募集に応じ、尽忠報国をまっこうに振りかざし、京都の市中を騒がす攘夷党の志士浪人に対抗して、幕府のために

日も近いと聞く新しい年の二月には、彼は京都行きの新撰組の一隊をこの街道に迎えた。一番隊から七番隊

不思議に思って半蔵は出て見た。京都方面で奔走していると聞いた平田同門の一人が、着流しに雪駄ば

「いや、したくは途中でして来ました。なにしろ、京都を出る時は、二昼夜歩き通しに歩いて、まるで足が棒のよう

ところがこの事を企てた仲間のうちから、会津方(京都守護の任にある)の一人の探偵があらわれて、同志の中には

た。どれほどの人の動き始めたとも知れないような京都の方のことを考え、そこにある友人の景蔵のことなぞを考えて

いる師鉄胤や同門の人たちの消息ばかりでなく、京都の方の町の空気まで一緒に持って来たようなのも、この

そればかりではない。京都麩屋町の染め物屋で伊勢久と言えば理解のある義気に富んだ商人

時事を建白することができる。見たまえ――今の京都には、なんでもある。公武合体から破約攘夷まである。そんなものが

ある人が、江戸のようなところから来て見ると、京都はまるで野蛮人の巣だと言って、驚いていましたよ。その

岩倉様なぞが恐れて隠れるはずじゃありませんか。まあ京都へ行って見たまえ、みんな勝手な気焔を揚げていますから。中

を奉じて江戸の方へ行ってる間にですよ、もう京都の形勢は一変していましたよ。この正月の二十一日には、

ながら言った。「君は和宮さまの御降嫁あたりからの京都をどう思いますか。薩摩が来る、長州が来る、土佐が来る、今度

は減少という触れ込みでも、千六百人の一大旅行団が京都へ向けてこの宿場を通過した。しかも応接に困難な東北弁で。

もはや、暖かい雨がやって来る。二月の末に京都を発って来たという正香は尾張や仙台のような大藩の主人公ら

それほど薄暗い空気に包まれていたことは、実際に京都の土を踏んで見た関東方の想像以上であったと言わるる。

三千あまりの兵に護られながら二条城にはいった。この京都訪問は、三代将軍家光の時代まで怠らなかったという入朝の儀式を復活

ほどの厳重な警戒ぶりで、三月四日にはすでに京都に到着し、三千あまりの兵に護られながら二条城にはいった。この

起こしたのは、すでに弘化安政のころからである。あの京都寺田屋の事変などはこの運動のあらわれであった。これは次第に王室

の上洛は、最初長州侯の建議にもとづくという。しかし京都にはこれを機会に、うんと関東方の膏を絞ろうという人たちが

、将軍家としてはわずか十日ばかりの滞在の予定で京都を辞し去ることはできない状態にあった。

期限を迫られていたほどの時である。今度の京都訪問を機会に、家茂の名によってこの容易ならぬ問題に確答を

許さなかった。将軍の上洛に先だってその準備のために京都に滞在していた一橋慶喜ですら、三条実美、阿野公誠を正使と

であろうとの言質が与えてある。この一時の気休めが京都方を満足させるはずもない。周囲の事情はもはやあいまいな態度を許さ

だけの信用をも実力をも持たなかった。それでも京都方を安心させるため、宮様御降嫁の当時から外夷の防禦を

このことが将軍家茂滞在中の京都の方に聞こえた。イギリス側の抗議は強硬をきわめたもので、英国

向かっては返答の延期を求めた。打てば響くような京都の空気の中で、人々はいずれも伝奏からの触れ書を読み、所司代が

こと)帰府の儀、もっともの訳がらに候えども、京都ならびに近海の守備警衛は大樹において自ら指揮これあるべく候。かつ

むしろこの機会を見のがすまいとしたのである。当時、京都にあった松平春嶽は、公武合体の成功もおぼつかないと断念してか、

すら望んでいる人たちのあることが報じてある。この京都便りを手にするたびに、香蔵にしても、半蔵にして

の友人で、平田篤胤没後の門人仲間なる景蔵は、当時京都の方にあって国事のために奔走していたが、その景蔵から

馬籠の本陣に、二人は同じ木曾街道筋にいて、京都の様子を案じ暮らした。二人の友人で、平田篤胤没後の門人仲間なる

はじめには、とうとう香蔵も景蔵のあとを追って、京都の方へ出かけて行った。三人の友だちの中で、半蔵一人だけ

行くことのできる香蔵の境涯をうらやましく思った。友だちが京都を見うるの日は、師と頼む平田鉄胤と行動を共にし

は中津川の問屋の仕事を家のものに任せて置いて京都の方へ出かけて行くことのできる香蔵の境涯をうらやましく思った。友だち

自分を持って行こうとした。同時に、香蔵の京都行きから深く刺激された心を抱いて、激しい動揺の渦中へ飛び込んで

伊那の衆はえらい意気込みさ。そう言えば、暮田正香が京都から逃げて来る時に、君の家にもお世話になったそうですね

の身でさ。でも、あの先生のことだから、京都の同志と呼応して伊那で一旗あげるなんて、なかなか黙ってはいられない

、同志を救い出せと言うんで、伊那からもわざわざ運動に京都まで出かけたものもありましたっけ。暮田正香も今じゃ日陰の身で

「そうどころじゃない。あいにく香蔵も京都の方で、君にでもお骨折りを願うよりほかに相談相手がない

京都の方のことも心にかかりながら、半蔵は勝重を連れて、王滝を

、これでわたしが庄屋の家に生まれなかったら、今ごろは京都の方へでも飛んで行って、鎖港攘夷だなんて押し歩いているかも

に聞いた。景蔵、香蔵の親しい友人を二人までも京都の方に見送った彼は、じっとしてはいられなかった。熱する頭

。現に彼が馬籠を離れて来る前に、仙台侯が京都の方面から下って来た通行の場合がそれだ。あの時の仙台の

侯の帰東も、なんとなく切迫して来た関東や京都の事情と関係のないものはない。時ならぬ鐘の音が馬籠の

もはや若葉の世界であろうかと思いやった。将軍上洛中の京都へと飛び込んで行った友人香蔵からの便りは、どんな報告をもたらして

大津

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この道は東は板橋を経て江戸に続き、西は大津を経て京都にまで続いて行っている。東海道方面を回らないほどの

なって、どんなところに飛び出すかもしれなかった。西は大津から東は板橋まで、宮様の前後を警衛するもの十二藩、道中筋

水戸

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、もしくはお小休みの用意も忘れてはならなかった。水戸の御茶壺、公儀の御鷹方をも、こんなふうにして迎える。

行った。彼が自分の領主を思う心は、当時の水戸の青年がその領主を思う心に似ていた。

せたのであった。彼はあの源敬公の仕事を水戸の義公に結びつけて想像し、『大日本史』の大業を成就したの

時の心は変わらずにある。そういう藤田東湖は、水戸内部の動揺がようやくしげくなろうとするころに、開港か攘夷かの舞台の

帯』を書き『回天詩史』を書いた藤田東湖はこの水戸をささえる主要な人物の一人として、少年時代の半蔵の目にも

蓬軒なぞも、この大地震の中に巻き込まれた。おそらく水戸ほど当時の青年少年の心を動かしたところはなかったろう。彰考館の修史

半蔵が日ごろその人たちのことを想望していた水戸の藤田東湖、戸田蓬軒なぞも、この大地震の中に巻き込まれた。

と半蔵は考えて、あの藤田東湖の死が水戸にとっても大きな損失であろうことを想って見た。

することができないと語ったという。ついては、水戸の隠居(烈公)は年来海外のことに苦心して、定めしよい了簡も

、獄中で病死したものが別に六人もある。水戸の安島帯刀、越前の橋本左内、京都の頼鴨崖、長州の吉田松陰なぞ

て政治の舞台にあらわれて来た。いわゆる反対派の張本人なる水戸の御隠居(烈公)を初め、それに荷担した大名有司らが謹慎

暗闘と反目とがそこにあったかしれない。彦根と水戸。紀州と一橋。幕府内の有司と有司。その結果は神奈川条約調印の

医者を頼み、おりから木曾路を通行する若州の典医、水戸姫君の典医にまですがって診察を受けさせたことも書いてよこした

それを制することができなかったのだ。そこで彼は水戸の御隠居や、尾州の徳川慶勝や、松平春嶽、鍋島閑叟、山内容堂

はない。尊王攘夷という言葉は御隠居自身の筆に成る水戸弘道館の碑文から来ているくらいで、最初のうちこそ御隠居も外国

もともと水戸の御隠居はそう頑な人ではない。尊王攘夷という言葉は御隠居

た。その声は大奥の深い簾の内からも出、水戸の野心と陰謀を疑う大名有司の仲間からも出た。この形勢をみ

することになった。岩瀬肥後はその主唱者なのだ。水戸はもとより、京都方面まで異議のあろうはずもない。ところがこれには反対

ほかにない。ことに一代の声望並ぶもののないような水戸の御隠居が現にその父親であるのだから、諸官一同申し合わせて、慶喜

岩瀬肥後の政治生涯はその時を終わりとした。水戸の御隠居を始めとして、尾州、越前、土州の諸大名、およそ

言わせると、今度江戸へ出て来て見ても、水戸の御隠居はじめ大老と意見の合わないものはすべて斥けられている。諸司

ものであろうなどと、人のうわさにろくなことはない。水戸藩へはまた秘密な勅旨が下った、その使者が幕府の厳重な探偵

告げたというから、浪人ではあるが、それらの水戸の侍たちが井伊大老の登城を待ち受けて、その首級を挙げた。この

彦根藩士の憤激、続いて起こって来そうな彦根と水戸両藩の葛藤は寛斎にも想像された。前途は実に測りがたかった

、実に露骨になって来ましたね。こないだも、水戸の浪人だなんていう人が吾家へやって来て、さんざん文句を並べ

れる日を迎えたが、そういう中にあって、あの水戸の御隠居ばかりは永蟄居を免ぜられたことも知らずじまいに、江戸

その年の八月には、半蔵は名高い水戸の御隠居(烈公)の薨去をも知った。吉左衛門親子には間接な

となると、寿平次は腕を組んでしまう。これは水戸の廃仏毀釈に一歩を進めたもので、言わば一種の宗教改革である

の襲撃さえ行なわれたとの報知もある。その時、水戸側で三人は闘死し、一人は縛に就き、三人は品川で

心を煽り立てるばかりであった。その年の五月には水戸藩浪士らによって、江戸高輪東禅寺にあるイギリス公使館の襲撃さえ行なわ

ものは、この街道に三度ありましたよ。一度は水戸の姫君さまのお輿入れの時。一度は尾州の先の殿様が江戸

時代は混沌として来た。彦根と水戸とが互いに傷ついてからは、薩州のような雄藩の擡頭となった

半蔵から見ると、これは理由のないことでもない。水戸の『大日本史』に、尾張の『類聚日本紀』に、あるいは頼氏の

これらの刺客の多くが水戸人であることもわかって来た。いずれも三十歳前後の男ざかりで、

。坂下門外の事変にも多少の関係があって、水戸の有志から安藤老中要撃の相談を持ちかけられたこともあったが、後

の位置を選び、長州の軍艦丙辰丸の艦長と共に水戸の有志と会見した閲歴を持つ人である。坂下門外の事変に

掛りをしていた男ざかりの侍である。かねて長州と水戸との提携を実現したいと思い立ち、幕府の嫌疑を避くるため品川沖合いの

と理解とを持つことにかけても似ていた。水戸の御隠居、肥前の鍋島閑叟、薩摩の島津久光の諸公と共に、

士藤田東湖の塾に学んだことがあり、東湖没後に水戸の学問から離れて平田派の古学に目を見開いたという閲歴を持っ

は半蔵と同国の人であるが、かつて江戸に出て水戸藩士藤田東湖の塾に学んだことがあり、東湖没後に水戸の学問

大人没後の門人と一口には言っても、この先輩に水戸風な学者の影響の多分に残っていることは争えないとも考えさせ

見た関東方の想像以上であったと言わるる。ちょうど水戸藩主も前後して入洛したが、将軍家の入洛はそれと比べものになら

よって幕府の破壊に突進しようとするものである。あの水戸藩士、藤田東湖、戸田蓬軒らの率先して唱え初めた尊王攘夷は

神州の道を敬い同時に儒者の教えをも崇めるのが水戸の傾向であって、国学者から見れば多分に漢意のまじったものである

つの大きな潮流のあることが彼に見えて来た。水戸の志士藤田東湖らから流れて来たものと、本居平田諸大人に源

長崎

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と言って吉左衛門は金兵衛と顔を見合わせた。長崎へ着いたというその唐人船が、アメリカの船ではなくて、ほか

「長崎の方がまた大変な騒動だそうですよ。」

なめしの鎗を立てて江戸方面から進んで来る新任の長崎奉行、幕府内でも有数の人材に数えらるる水野筑後の一行を迎えた

と金兵衛は言ったが、にわかに長崎奉行の通行があるというだけで、先荷物を運んで来る人たちの

諸公役が通過の時の慣例のように、吉左衛門は長崎奉行の駕籠の近く挨拶に行った。旅を急ぐ奉行は乗り物からも降り

。隣宿落合まで荷をつけて行った馬方なぞも、長崎奉行の一行を見送ったあとで、ぽつぽつ馬を引いて戻って来るころだ

「長崎あたりのことは、てんで様子がわからない――なにしろ、きょうはおれもくたぶれ

「きょうの長崎奉行にはおれも感心したねえ。水野筑後の守――あの人は

ある。それにはまた、浦賀表へアメリカ船四艘、長崎表へオロシャ船四艘交易のため渡来したことが断わってあって、

公儀衆が、さくさく音のする雪の道を踏んで、長崎へと通り過ぎた。この通行が三日も続いたあとには、妻籠の

かねて前触れのあった長崎行きの公儀衆も、やがて中津川泊まりで江戸の方角から街道を進んで来る

大垣あたりに生まれた青年で、異国の学問に志し、遠く長崎の方へ出発したという人の話なぞも、決してめずらしいことでは

も、土州、雲州、讃州などの諸大名は西から。長崎奉行永井岩之丞の一行は東から。五月の半ばには、八百

以来江戸表や浦賀辺を騒がしたアメリカの船をも、長崎から大坂の方面にたびたび押し寄せたというオロシャの船をも、さては仙洞

ある。その年の八月には三隻の英艦までが長崎にはいったことの報知も伝わっている。品川沖には御台場が築か

すべき場所でない、アメリカ大統領の書翰を呈したいとあるなら長崎の方へ行けと諭した。けれども、アメリカが日本の開国を促そうと

が、主としてオランダ人であった。彼らオランダ人は長崎蘭医の大家として尊敬されたシイボルトのような人ばかりではなかっ

アメリカ人、ロシヤ人、イギリス人とオランダ人とを区別し得られよう。長崎に、浦賀に、下田に、続々到着する新しい外国人が、これまでのオランダ人

は容易にこの国の人の心を去らない。横浜、長崎、函館の三港を開いたことは井伊大老の専断であって、朝廷

来る。美濃地方が風雨のために延引となっていた長崎御目付の通行がそのあとに続く。

用意するほどの長崎御目付の通行を見せつけられた。遠く長崎の港の方には、新たにドイツの船がはいって来て、先着

木曾人足百人、伊那の助郷二百人を用意するほどの長崎御目付の通行を見せつけられた。遠く長崎の港の方には、新た

たまえ、この街道筋にもえらい事がありますぜ。長崎の御目付がお下りで通行の日でさ。永井様とかいう人

衛兵で死傷するものが十四人もあり、一人の書記と長崎領事とは傷ついたともいう。これほど攘夷の声も険しくなって来

下谷

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がこの世ながらの地獄のようにそこに描き出されている。下谷広小路から金龍山の塔までを遠見にして、町の空には六か所

福井

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一、松平越前守様、(越前福井藩主)品川御殿山お堅め。

熊本

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一、細川越中守様、(肥後熊本藩主)大森村お堅め。

徳島

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一、松平阿波守様、(阿州徳島藩主)御浜御殿。

金沢

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旅は深い藍色の海の見えるところまで行った。神奈川から金沢へと進んで、横須賀行きの船の出る港まで行った。客や荷物

三人はこんなことを語り合いながら、金沢の港から出る船に移った。

秋田

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おろか、著述することまで禁じられ、大人その人も郷里の秋田へ隠退を余儀なくされたが、しかし大人は六十八歳の生涯を終わる

広助、梅村真一郎、それに正香その人をも従えながら、秋田藩物頭役として入京していた平田鉄胤が寓居のあるところ

地方の出版としては、あれは大事業ですね。秋田(篤胤の生地)でさえ企てないようなことを伊那の衆が発起し

仙台

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ならなかったほどだ。木曾街道筋の通行は初めてと聞く仙台藩主の場合にも、時節柄同勢やお供は減少という触れ込みでも、千六百

の末に京都を発って来たという正香は尾張や仙台のような大藩の主人公らまで勅命に応じて上京したことは知るまい

から下って来た通行の場合がそれだ。あの時の仙台の同勢は中津川泊まりで、中通しの人足二百八十人、馬百八十疋という

て来た。現に彼が馬籠を離れて来る前に、仙台侯が京都の方面から下って来た通行の場合がそれだ。あの時

こんなことを思い浮かべると、街道における輸送の困難も、仙台侯の帰東も、なんとなく切迫して来た関東や京都の事情と

深川

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群衆は、京橋四方蔵から竹河岸あたりに続いている。深川方面を描いたものは武家、町家いちめんの火で、煙につつまれた

一、酒井雅楽頭様、(播州姫路藩主)深川一円。

破戒僧が珠数つなぎにされて、江戸の吉原や、深川や、品川新宿のようなところへ出入りするというかどで、あの日本橋

品川

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一、松平越前守様、(越前福井藩主)品川御殿山お堅め。

英艦までが長崎にはいったことの報知も伝わっている。品川沖には御台場が築かれて、多くの人の心に海防の念

徳川幕府がオランダ政府から購い入れたというその小さな軍艦は品川沖から出帆して来た。艦長木村摂津守、指揮官勝麟太郎をはじめ、

で造ったもんですから、大風雨の来た年に、品川沖でばらばらに解けてこわれてしまいました。」

せっかくの使節をもてなすという意味でしたろう。その翌日に、品川の遊女を多勢で軍艦まで押しかけさしたというものです。さすがに向こうで

と言って、軍艦で下田から品川まで来ました。まあ品川の人たちとしてはせっかくの使節をもてなすという意味でしたろう。その

一艘幕府に献上したいと言って、軍艦で下田から品川まで来ました。まあ品川の人たちとしてはせっかくの使節をもてなす

三人は闘死し、一人は縛に就き、三人は品川で自刃したという。東禅寺の衛兵で死傷するものが十四人も

珠数つなぎにされて、江戸の吉原や、深川や、品川新宿のようなところへ出入りするというかどで、あの日本橋で面を

を彼らへ教え、江戸第一の要地ともいうべき品川御殿山を残らず彼らに貸し渡し、あまつさえ外夷の応接には骨肉も

の提携を実現したいと思い立ち、幕府の嫌疑を避くるため品川沖合いの位置を選び、長州の軍艦丙辰丸の艦長と共に水戸の有志

重傷を負わせられ、同じ年の十二月の夜には品川御殿山の方に幕府で建造中であった外国公使館の一区域も長州

神田

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人は右を見、左を見して、本郷森川宿から神田明神の横手に添い、筋違見附へと取って、復興最中の町にはいっ

巣鴨

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軽かった。道中記のたよりになるのも板橋までで、巣鴨の立場から先は江戸の絵図にでもよるほかはない。安政の大地震

浅草橋

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の続いた土手の下を船で行った。うわさに聞く浅草橋まで行くと、筋違で見たような見附の門はそこにもあった

日本橋

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十一屋という宿屋は両国の方にある。小網町、馬喰町、日本橋数寄屋町、諸国旅人の泊まる定宿もいろいろある中で、半蔵らは両国の宿屋

新宿のようなところへ出入りするというかどで、あの日本橋で面を晒された上に、一か寺の住職は島流しになるし

御茶の水

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にも知られ、安井息軒とも交わりがあって、しばらく御茶の水の昌平黌に学んだが、親は老い家は貧しくて、数年前

千住

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、こんな日の出は知らないのだ。間もなく三人は千住の方面をさして、静かにその橋のたもとからも離れて行った。

千住から日光への往復九十里、横須賀への往復に三十四里、それに江戸

旧暦十一月の十日過ぎを迎えた。その時は、千住からすぐに高輪へと取り、札の辻の大木戸、番所を経て、

日光への寄り道を済まして、もう一度三人が千住まで引き返して来たころは、旅の空で旧暦十一月の十日過ぎ

大久保

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類のことはほとんど数えきれない。松平河内、川路左衛門、大久保右近、水野筑後、その他の長老でも同輩でも、いやしくも国事に

向島

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て立つ思いをしているほどだ。岩瀬肥後も今は向島に蟄居して、客にも会わず、号を鴎所と改めてわずかに好き

桜田門

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輝きを見せるころには、江戸方面からの人のうわさが桜田門外の変事を伝えた。

駒込

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は永蟄居を免ぜられたことも知らずじまいに、江戸駒込の別邸で波瀾の多い生涯を終わった。享年六十一歳。あだかも生前の政敵

新宿

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つなぎにされて、江戸の吉原や、深川や、品川新宿のようなところへ出入りするというかどで、あの日本橋で面を晒さ

蒲生

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した山陵を歴訪して勤王の志を起こしたという蒲生君平や、京都のさびしい御所を拝して哭いたという高山彦九郎のような

落合川

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三日がかりで村じゅうのものが引き合った伊勢木を落合川の方へ流したあとになっても、まだ御利生は見えなかった。峠

浦賀

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東海道浦賀の宿、久里が浜の沖合いに、黒船のおびただしく現われたといううわさが

東海道浦賀の方に黒船の着いたといううわさを耳にした時、最初吉左衛門

来た。当時幕府が船改めの番所は下田の港から浦賀の方に移してある。そんな番所の所在地まで知って、あの唐人船が

なこの混雑が静まったのは、半月ほど前にあたる。浦賀へ押し寄せて来た唐人船も行くえ知れずになって、まずまず恐悦だ。

では判然しなかった。多くの人は、先に相州浦賀の沖合いへあらわれたと同じ唐人船だとした。

達しだということが書いてある。それにはまた、浦賀表へアメリカ船四艘、長崎表へオロシャ船四艘交易のため渡来し

の中の人たちの間には、春以来江戸表や浦賀辺を騒がしたアメリカの船をも、長崎から大坂の方面にたびたび押し寄せた

は異国船見届けのため、陣場見回り仰せ付けられ、六日夜浦賀表へ御出立にこれあり候。

ても隠居の話はくわしかった。ちょうどアメリカのペリイが初めて浦賀に渡来した翌日あたりは、将軍は病の床にあった。強い暑

だのも、この海岸一帯の持ち場持ち場を堅めるため、あるいは浦賀の現場へ駆けつけるためであったのだ。

その時になると、半蔵は浦賀に近いこの公郷村の旧家に身を置いて、あの追分の名主文太夫

半蔵の前にいる七郎左衛門は、事あるごとに浦賀の番所へ詰めるという人である。この内海へ乗り入れる一切の船舶は一応

始めた。二千人の水兵を載せたアメリカの艦隊が初めて浦賀に入港した当時のことがそれからそれと引き出された。

の見える裏山の茶室に席を移してから、七郎左衛門は浦賀の番所通いの話などを半蔵らの前で始めた。二千人の水兵

それを掩護して観音崎から走水の付近にまで達した。浦賀奉行とペリイとの久里が浜での会見がそれから開始された。

に大きかった。のみならずペリイは測量艇隊を放って浦賀付近の港内を測量し、さらに内海に向かわしめ、軍艦がそれを掩護し

。先方は断然たる決心をもって迫って来た。もし浦賀で国書を受け取ることができないなら、江戸へ行こう。それでも要領を

本マストの旗艦ミスシッピイ号をも目撃した人である。浦賀の奉行がそれと知った時は、すぐに要所要所を堅め、ここは

人、イギリス人とオランダ人とを区別し得られよう。長崎に、浦賀に、下田に、続々到着する新しい外国人が、これまでのオランダ人の執った

が、これらの品々は江戸へ伺い済みの上で、浦賀の波止場で焼きすてたくらいだ。後日の祟りをおそれたのだ。実際、

中には、壜詰、罐詰、その他の箱詰があり、浦賀奉行への贈り物があったが、これらの品々は江戸へ伺い済みの

没した故人のことで、もとより嘉永六年の夏に相州浦賀に着いたアメリカ船の騒ぎを知らず、まして十一隻からのイギリス艦隊が

京橋

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火の手が揚がっている。右に左にと逃げ惑う群衆は、京橋四方蔵から竹河岸あたりに続いている。深川方面を描いたものは武家

千曲川

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三人のものは、塩尻、下諏訪から和田峠を越え、千曲川を渡って、木曾街道と善光寺道との交叉点にあたるその高原地の

隅田川

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の天気を気づかい顔に戸の方へ立って行った。隅田川に近い水辺の夜の空がその戸に見えた。

さめきらないかのようである。ちょうど、渦巻き流れて来る隅田川の水に乗って、川上の方角から橋の下へ降って来る川船が

ところから両国橋まではほんの一歩だ。江戸のなごりに、隅田川を見て行こう、と半蔵が言い出して、やがて三人で河岸の物

両国橋

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十一屋のあるところから両国橋まではほんの一歩だ。江戸のなごりに、隅田川を見て行こう、と半蔵