山陰土産 / 島崎藤村

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地名一覧

高津山

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にも別れを告げて、やがて私達は益田を離れた。高津山に沿うて、横田といふ驛を過ぎた。大田、濱田、津田、益田、

出雲

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伊邪那美の神の永遠に眠れる墳墓の地とは伯耆と出雲の國境にあるといひ傳へられるところから、さういふ想像が生れて來たの

山陰道の西部をさして松江を辭した私達は、出雲を去る前に今市から杵築に出た。杵築までは、松江で一緒になつ

西端に近いところで、日の御崎へもさう遠くない。出雲の大社のあるところだ。

玄武洞

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玄武洞の驛まで行くと、城崎も近かつた。越えて來た山々も、遠く

のみならず、土地のいゝ案内者をも得た。私達は玄武洞や温泉寺を省いて瀬戸、日和山の方面を探ることにした。城崎へ

大江山

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時近い頃に私達はその驛に掲げてある福知山趾、大江山、鬼の岩窟などとした名所案内の文字を讀んだ。果物の好きな

美保神社

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自分に尋ねて見た。毎年二十萬人からの參詣者を美保神社に集めるといふ事代主の神には一體どういふ徳があつて、それほど

着いて見ると、その邊に見つける船といふ船は、美保神社の參詣者の群で一ぱいに溢れてゐた。參拜記念の旗なぞを押し立て

。一艘の古い小舟の模型がその記念として、美保神社の境内に安置してあつた。「いな」(否)か「さ」(

名高い五本松のある山は、美保神社からいくらも離れてゐない。青く深い海水に臨んで、軒を列ねた水

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大阪からこゝまでやつて來た思ひをすれば、長州の萩の港までは、もうそんなに遠くないやうな氣もする。萩の町と

港までは、もうそんなに遠くないやうな氣もする。萩の町とは、吉田松陰はじめ明治維新の先覺者に縁故の深かつた

江津

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山の見える窓の方に腰掛けるやうになつた。大田、江津、濱田、私達は山陰西部にある町々を行く先で窓の外に迎へたり送

熊野神社

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殘念であつた。松江の太田君が勸めてくれた熊野神社まで行けなかつたことも、あの古代の出雲地方と離しては考へられない

諏訪湖

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氣がする。私はよく信濃の方へ旅して、諏訪湖のほとりを通る度にあの建御名方の神を祭るといふ古い神社の境内を訪れた

松島

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比較に持ち出す。この比較は浦富には當てはまらない。松島はあの通り岸から離れた島々のおもしろさであるのに、私達がこゝに

鳥取藩

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といつた時代に、その外來の勢力を防ぐため舊鳥取藩で築いた臺場の跡であるとか。長さ二百五十間、幅二十間の

但馬

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上夜久野の驛を過ぎて、但馬の國に入つた。攝津から丹波、丹波から丹後といふ風に、私達は三つ

風に、私達は三つの國のうちを通り過ぎて、但馬の和田山についた。そこは播但線の交叉點にもあたる。案内記に

、源埼、その他の弟子達を伴ひ、京都から但馬までの山坂を越えて、二度までもこの寺の壁、襖、屏風などを

に岩美の停車場があつて、そこまで乘つてゆくと但馬の國を離れる。縣も鳥取と改まる。岩美から岩井の村までは平坦な

落合

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てゆく心は、やがて自分等の郷里の方の神坂から落合へ通ふ山路なぞを遠く思ひだす心であつた。

山陰道

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。山陰山陽方面には全く足を踏みいれたことがない。山陰道とはどんなところか。さう思ふ私は、多くの興味をかけて東京を發

行の旅に上つて來たのであるか。はじめて見る山陰道、關東を見た眼で見比べたらばと思ふ關西の地方、その未知の國々

はその自然の休息してゐる夏の季節を選んで、山陰道の海岸に多い「もち」の樹の葉蔭を樂しみに來たわけだ。土

海はよく見えた。私は山陰道の自然を、大體に自分の胸に浮べることも出來るやうになつた。旅

私達に迫つて來る。これはこの附近にかぎらず、やがて山陰道を通じての海岸の特色であらう。松島は松島、浦富は浦富だ。

の私は、僅か二日位の逗留の豫定で、山陰道での松江につぐの都會といはれるやうなところに、どう深く入つて

出雲浦の海岸を見ないでは、山陰道の海岸を見たとはいへないとは、故大町桂月君の言葉である

丹後

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て、但馬の國に入つた。攝津から丹波、丹波から丹後といふ風に、私達は三つの國のうちを通り過ぎて、但馬の和田山

萬福寺

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萬福寺。

このうち、醫光寺と萬福寺とは雪舟の意匠になつた古い庭園で知られ、大喜庵はその終焉の

として知られてゐる。位置からいへば醫光寺と萬福寺とは益田の町にあり、大喜庵は益田に接近した吉田村の方

期に達したといはれてゐる。この雪舟は、しばらく益田の萬福寺に留錫し、醫光寺に移り住み、吉田の大喜庵にその餘生を終つたらしい

醫光寺から萬福寺までは、それほど離れてゐない。歩いても知れたほどだ。青い麻畠

萬福寺に來て見ると、雪舟の築いた庭がこゝにも古い寺院の奧に

とさへもいへなかつた。醫光寺を見た眼で萬福寺の庭を見ると、あの長く垂れさがつた古い櫻の枝のかはりに

かうして萬福寺を辭した。私達は寺の門前に近い新橋の畔に出て、そこ

吉田の大喜庵は、萬福寺から半道ばかりも離れて、高津の濱を望むことの出來るやうな小高い山の

益田の方で萬壽年中の大海嘯のことを聞き、あの萬福寺の前身にあたるといふ天台宗の巨刹安福寺すら、堂宇のすべてが流失した

だと思つて見て來たが、益田の醫光寺と萬福寺を訪ねた時は一層その感じが深かつた。あの雪舟の遺した庭なぞ

山陰地方

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やうにしか思はれないのに、今日はもうこんな勢で山陰地方にまでゆきわたつた。人力車の時代は既に過ぎて、全國的な自動車の

まで、船で入江を渡るといふ樂しみがあつた。山陰地方に名高い出雲浦を一※りして見るといふ樂しみもあつた。浦富以來

織布のやうに長い島根半島の最北端であると知れた。山陰地方を旅するものが、陸から隱岐の島を望まうとするのも、その

千鳥城はこの山陰地方で天守閣を保存する唯一の城址である。そこへも訪ねて行つて見ると

の言葉を聞くにつけても、私は行く先で逢ふ山陰地方の人達が、それ/″\住慣れた土地にあるものをよく見て

かつた。私達はその夜の空氣に包まれながら、山陰地方から離れて行つた。

高津

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吉田の大喜庵は、萬福寺から半道ばかりも離れて、高津の濱を望むことの出來るやうな小高い山の上の位置にある。そこに

高津の町にある高角山は、石見の旅に來て、柿本人麿の昔を

偲ばうとするものに取り唯一の記念の場所である。高津は益田から一里ばかりしか離れてゐない。益田から吉田まで行けば、それ

たところで、私達はその話を神社の宮司からも、高津の町長隅崎君からも、そこまで同行した益田の大谷君からも聞いた

て職務にたづさはる中での新人と見えたが、高津の町の盛衰を一身に負はなければならないやうな宮司としての

指して遠く歸路に向はうとする人であつた。高津へ同行した人達は益田の停車場まで私達を送つて來た。そのうち

伊賀

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見渡すだけでもめづらしい。私も年若な時分には、伊賀、近江の一部から大和路へかけてあの邊を旅し※つたことがあつ

宍道

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には間があつた。私も鷄二と一緒に舟で宍道湖の上に浮んで見た。櫓は私もすきで、東京淺草の新片町

瀬戸神社

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見つけるやうな古い墓地が山の上にあつて、そこから瀬戸神社への道もつゞいて行つてゐる。墓地から程遠からぬところには、古い

てくれた。毎朝その邊まで潮を見に來てかならず瀬戸神社へも參詣してゆくといふ村の漁師達の話も出た。漁師達

に漁師達の口から聞いて見たらばとも思つた。瀬戸神社の横手は休むにいゝ二階建の茶屋もある。あふひ、紫陽花が

比婆山

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て來た。眼にある星上山の向うには、その比婆山も隱れてゐるといふことであつた。こゝは古代の大陸との交通を

大阪

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一 大阪より城崎へ

朝曇りのした空もまだすゞしいうちに、大阪の宿を發つたのは、七月の八日であつた。夏帽子一

一緒に乘つてゆく男女の旅客の風俗を眺めたり、大阪の宿からもらつて來た好ましい扇子などを取り出して見たりするころには

なぞがさき亂れてゐた。さすがにその邊までは大阪のやうな大きな都會を中心に控へた村々の續きらしくも思はれた

大阪から汽車で、一時間半ばかり乘つてゆくうちに、はや私達はかなりの

を通つて丹波の國に入つた。まだ私達は半分大阪の宿にゐる氣がしてあの關西風の格子戸や暗くはあるが清潔な

緑に變るかと疑はれるばかりだ。思ひ比べると、大阪の宿で見て來た庭の草木の色はなかつた。半生を東京の

脚ならば五日路といつたものであると聞く、大阪からするものは更にそれ以上に日數を費したであらう。私達の乘つ

福知山は北丹鐵道乘換の地とあつて、大阪からも鐵道線路の落ち合ふ山の上の港のやうなところである。

何よりもまづ私達の願ひは好い宿について、大阪から城崎まで七時間も、汽車に搖られつゞけて行つた自分等の靴の

あの熱海へでも出かけるやうに、こゝにはまた京都、大阪、神戸あたりからの湯治の客が絶えない。

岡田君には、土地を案内してもらへといつて、大阪を出る時に紹介の名刺をもらつて來た人だ。鳥取までゆかない

靜かだ。私はさびしく樂しい旅の晝寢に、大阪の扇を取り出して見、豐岡川の方で見て來た青い蘆、瀬戸

こゝの料理は年とつたおかみさんの庖丁と聞くが、大阪の宿を除いてはこゝで食はせるものは一番私の口に適つた

大阪を出る時の旅の豫定では、三朝から米子に向ひ境の港

鳥取の方で聞いて來たところによると、東京から大阪まで百五十里、大阪から鳥取まで五十里、鳥取から米子へ二十五里、それより松江

て來たところによると、東京から大阪まで百五十里、大阪から鳥取まで五十里、鳥取から米子へ二十五里、それより松江へ八里、都合

樂しい心持を語り合つた。鷄二はまた鷄二で、大阪の宿の方の噂までもそこへ持ち出して、風呂場の番頭に脊を流し

には初對面の客である。古川君のことは大阪で聞いて、紹介の名刺まで貰つて持つて來てある。私はこちら

大阪からこゝまでやつて來た思ひをすれば、長州の萩の港までは、

浦富海岸

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月の十日は早く岩井の宿を發つて來て、浦富海岸で時を送ることにした。浦富の栗村君は始めて逢つた人だが

丹波

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に教へてくれる人もある。これからトンネル一つ過ぎると丹波の國であるとか、こゝはまだ攝津の中であるとか、そんなこと

過ぐるころに、藍本といふひなびた停車場を通つて丹波の國に入つた。まだ私達は半分大阪の宿にゐる氣がしてあの關西風

の驛を過ぎて、但馬の國に入つた。攝津から丹波、丹波から丹後といふ風に、私達は三つの國のうちを通り過ぎて

を過ぎて、但馬の國に入つた。攝津から丹波、丹波から丹後といふ風に、私達は三つの國のうちを通り過ぎて、但馬

ても、私達が汽車の窓から見あきるほど見て來た丹波、丹後あたりの山道の長ければ長かつただけ、震災後一年ぐらゐしかならない

鴨山

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思ひ、人麿終焉の地として古歌にも殘つてゐる鴨山が今でも變らずにあるかと思つて、それを見て行くと

鴨山のいは根しまける吾をかも知らにと妹が待ちつゝあらむ

松江市

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ことで、大橋の上を通る人もそれほど多くなく、松江市の活動は街路を清潔にすることから始められるやうな時であつた。それ

松江市は宍道湖と中の海とを左右に控へた中央の位置にある。その

備後入道とは、松江市から見て東南の空に起る夏の雲のことをいふとか。宍道湖

久松山

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は町々に滿ちてゐた。岡田君と連立つて久松山の古城址を訪ねて見ると、苔蒸した石垣の間に根を張る樹木

大津

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を旅し※つたことがあつて、殊に琵琶湖のほとりの大津、膳所、瀬田、石山あたりは當時の青年時代のなつかしい記憶のあるところで

京都

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と/\と眠りつゞけて行つた。鐵道の從業員が京都方面へ乘換の人は用意せよと告げにくるころになつて、漸く私

京都から福知山を經て城崎の間を往來した昔は、男の脚で

達があの熱海へでも出かけるやうに、こゝにはまた京都、大阪、神戸あたりからの湯治の客が絶えない。

も知れない。山陰とはいつても、舊い時代からの京都の影響は、それほどこの城崎あたりまで深く及んで來てゐる。

しての特色が乏しいともいふ。縁組さへもこれまで京都方面に多く結ばれたといふ。かうした土地にあつては、一切の

た。頼山道、篠崎小竹、それから江間細香のやうな京都に縁故の深かつた昔の人達の名をかうした温泉地に

の客となつて見て、私達はそこの老主人から京都方面との交通の多かつた時代のことを聞かせられた。頼山道

に來たといふ。おそらく、この大乘寺の位置が京都か奈良の附近にでもあるとしたら、もつと廣くも世に知ら

蘆雪、源埼、その他の弟子達を伴ひ、京都から但馬までの山坂を越えて、二度までもこの寺の壁、襖

神戸

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へでも出かけるやうに、こゝにはまた京都、大阪、神戸あたりからの湯治の客が絶えない。

奈良

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たといふ。おそらく、この大乘寺の位置が京都か奈良の附近にでもあるとしたら、もつと廣くも世に知られて

鳥取

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そこまで乘つてゆくと但馬の國を離れる。縣も鳥取と改まる。岩美から岩井の村までは平坦な道で、自動車に換へ

出る時に紹介の名刺をもらつて來た人だ。鳥取までゆかないうちに、私達は岡田君を見ることが出來たわけだ。

船の用意が出來た。私達は栗村君のほかに、鳥取から見えた岡田君とも一緒になつた。この岡田君には、土地

は山陰線の汽車に搖られて行つた。その晩は鳥取の小錢屋といふ宿に泊る。

思はず私達は時を送つた。鳥取まで同行しようといつてくれる岡田君にうながされて、やがて浦富を辭し

六 鳥取の二日

。こんな餘事までも考へながら、前の日に一臺の自動車で鳥取の停車場前から乘つて來た私達はその車に旅の手荷物を積み、

、めづらしい實を結んだ棕梠の庭樹の間から、鳥取の町の空が見えた。今をさかりと咲き誇る夾竹桃の花の梢

/\な建物も見るべきものも多いやうであるが、鳥取の特色はさういふ表面に現はれたものよりも、むしろ隱れて見えないところ

新らしい旅館は鳥取にいくらもある。温泉宿も多いと聞く。さういふ中で、私達が

て來た町を、山陰方面に求めるなら、誰しもまづ鳥取をその一つに數へよう。土地の人達は急がうとして

を望んで見た時は、さういふ味のこまかいところが鳥取かとも私には思はれた。

私達の泊つた鳥取の宿は古いといへば古い家で、煙草盆は古風な手提げのついた

おそろしい。山腹にある櫓のあたりまで登つてゆくと、鳥取の町がそこから見渡される。千代川はこの地方の平原を灌漑する長い水

送つた。長く留まることの出來る旅でもなかつたから、鳥取の町を見渡すだけにも私達は滿足して、やがて元來た道を

君にも別れを告げて、その日のうちに私達は鳥取を辭した。

で來た。湖山の池も近いと聞くと、私は鳥取の方で聞いて來た湖山の長者の傳説を自分の胸にくり返し

鳥取の停車場を離れてから、また私は鷄二と二人ぎりの汽車の旅と

をも知つてゐて、同君の亡くなる前の年かに、鳥取地方へ講演の旅のついでに疲れを忘れて行つたといふ濱村温泉を

だ。私達の側には鳥取から一緒に乘つて來た鳥取新報の記者もゐて、鰐とは青い鮫のことであり、それが

もつとも樂しいものの一つだ。私達の側には鳥取から一緒に乘つて來た鳥取新報の記者もゐて、鰐とは青い

と、東京から大阪まで百五十里、大阪から鳥取まで五十里、鳥取から米子へ二十五里、それより松江へ八里、都合およそ二百三十三里はあらう

たところによると、東京から大阪まで百五十里、大阪から鳥取まで五十里、鳥取から米子へ二十五里、それより松江へ八里、都合およそ

鳥取の方で聞いて來たところによると、東京から大阪まで百五十里、

といつた時代に、その外來の勢力を防ぐため舊鳥取藩で築いた臺場の跡であるとか。長さ二百五十間、幅二十

松江

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、僅か二日位の逗留の豫定で、山陰道での松江につぐの都會といはれるやうなところに、どう深く入つて見ようも

八 松江まで

はこの豫定をいくらか變更して、一息に汽車で松江まで延びることにした。そこで、三朝を發つた。

境の港に出、あれから宍道湖を船で渡つて松江に着くつもりであつた。私はこの豫定をいくらか變更して、

の四時頃であつた。私達はまた親子二人きりで松江行の汽車の一隅に腰かけ、山陰線らしい車中の人達の風俗を眺め

映る岸の家々の燈火がちら/\望まれる頃に、松江に入つた。

里、都合およそ二百三十三里はあらうとのことであつた。松江の宿に着いた時は思はず私も溜息が出た。この溜息は

大阪から鳥取まで五十里、鳥取から米子へ二十五里、それより松江へ八里、都合およそ二百三十三里はあらうとのことであつた。松江の

松江本町、大橋の畔に近いところが私達の宿の皆美館のあるところ

中の乘客が大騷ぎしたことも忘れられない。松江に來て見て、この地方にも田植時分の雨の少なかつたこと

この松江へ來るまでの途中での旅の印象、そこで望んで來た入江の

この松江の宿で、私達は七月十四日の朝を迎へた。大橋は水

の宿に迎へることが出來た。同道の太田君は松江商業會議所書記長の肩書はありながら、俳人としては柿葉といつて

松江を生れ故郷とする太田君の答は、私の待ち受けた通りでもあつ

着けられなかつた。それほど暑さに苦しんだ。せめて松江ではゆつくりして行かう。それを私は鷄二にも話して、その

を離れて、鷄二の起き出すのを待つた。大橋向うの松江の町は漸く眠りから覺めたばかりのやうで、岸のところ/″

ばかりでも、私の心は動いてゐたのに、松江の太田君からも出雲浦海岸のいゝことを聞いて來た。私達は

に陣取つたが、一行の五六人のものの中には松江からの古川君、境からの渡邊君の外に、美保の野村君も

點の紅い燈火をつるして、漸く夜の九時ごろに松江へ歸り着いた。

の果てまではとこゝろざして家を出た私も、松江まで來て見ると、こゝを今度の旅の終りとして東京の方

だらう。東京の方へ歸るのを止めて、いつそ松江の人にでもなつてしまはうか。」

宿まで來て呉れた太田、古川二君に頼んで、松江の市内にある二つの小學校を訪ねて見ると、折柄教室に

この城だ。五層ほどもある高い建物の位置からは松江の市街がよく見えた。天狗、星上、茶臼の山々から、伯耆の

、私達は宿の二階にゐてすゞんだ。松江中學の端艇競漕があつた日で、賑かな舟唄は湖上に滿ちて

庵は、不昧公が遺愛の茶室で知られてゐる。松江における不昧公の位置は、白河における樂翁公のそれを

松江の郊外にある菅田庵は、不昧公が遺愛の茶室で知られてゐる

松江を去る前の日の午前に、私達は太田、古川二君に導かれて菅田

品、圖畫、作文、手工の竹の箸、それに松江土産の箱枕などは留守宅宛の小包にした。そこいらには、

つてからの私達はまた翌日の旅支度にいそがしかつた。松江には七月の十四日から十七日までゐた。旅の記念にと

松江の宿に歸つてからの私達はまた翌日の旅支度にいそがしかつた。

日ばかりの滯在は短かつたけれども、しかし私達はこの松江の宿に來て、直入の蟹の額などの掛かつた氣持のよい

帶びた星上山から、まだ朝靄に包まれてゐるやうな松江の町々までもよく見て行かうとした。

を去る前に今市から杵築に出た。杵築までは、松江で一緒になつた小山君とも同道した。こゝは島根半島の西端

山陰道の西部をさして松江を辭した私達は、出雲を去る前に今市から杵築に出た。

米子の町を見落して來たことは殘念であつた。松江の太田君が勸めてくれた熊野神社まで行けなかつたことも、

の見えるところまで無事にやつて來たことを思つた。松江の宿の方では、朝に晩に移り動く水の光を見て

西まで旅して來た甲斐があつたと思つた。松江を終りとして東京の方へ引返したら、こんなところに昔の人の

と來易いところであつたら、香住の大乘寺それから松江の菅田庵あたりは、もつと知られていゝ場處だと思つて見

岡山

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の方面から長く延びてゐる半島の突鼻にあつて、岡山、米子間の鐵道が全通し、築港の計畫でも完成せらるゝ曉に

て暑苦しい思ひをする氣にもなれない。私は米子から岡山へ出る道を取つて、すこしぐらゐ無理でもまだ鐵道の連絡して

東京

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八日であつた。夏帽子一つ、洋傘一本、東京を出る前の日に「出來」で間に合はせて來た編あげの

うれしい。もつとも、今度は私一人の旅でもない。東京から次男の鷄二をも伴つて來た。手荷物も少なく、とは願ふもの

どんなところか。さう思ふ私は、多くの興味をかけて東京を發つて來たと同時に、一方には旅の不自由を懸念しない

見て來た庭の草木の色はなかつた。半生を東京の町中に多く暮して來た私などが、あの深い煤煙と塵埃との

と同じやうに、淺く浮びあがることを樂しみにして、東京の家を出て來たものである。その意味からいつても、重なり

なものとが同時にあるやうなところも似てゐる。東京横濱あたりの人達があの熱海へでも出かけるやうに、こゝにはまた

東京を出る時に私の懸念したことは、知らない土地での旅の

頃だ。ちやうどその汽車を待つてゐると、以前に東京の方で一度逢つたことのある奧田君が私の側へきてあいさつ

柿の葉も、ところ/″\月に光つて涼しい。東京の方の留守宅のこともしきりに胸に浮ぶ。鷄二も旅らしく、

「東京へもお前に頼む。」

で見て囘るといふ樂しみがあつた。長いこと東京麻布の町の中に暮しつゞけて來た私は、自分の都會生活

筆と墨で寫生を試みたい場合もあらうかといつて東京から持つて來たものだ。私は書きにくい白扇よりも、その紙片の

にはまづ驚かされる。あれの流行して來たのは東京あたりでもまだ昨日のことのやうにしか思はれないのに、今日は

年だ。おそらくあの友達がこの地に遊んだのは、東京へ震災の來る前の夏のことであつたらう。あれから最早かなりの月日

鳥取の方で聞いて來たところによると、東京から大阪まで百五十里、大阪から鳥取まで五十里、鳥取から米子へ二十五里、

の上に浮んで見た。櫓は私もすきで、東京淺草の新片町に住んだ時分にはよくあの隅田川の方へ舟を出した

の十六日に當つた。私は遠く離れて來てゐる東京の留守宅のことを胸に浮かべて、ことしの盆はどうしたらうなぞ

來て見ると、こゝを今度の旅の終りとして東京の方へ歸らうかと思ふ心すら起つた。時には旅に疲れ

ほとりでは、毎日のやうにその白い雲を望んだ。東京から二百三十三里あまり。私達もかなり遠く來た。山陰道の果てまではとこゝろ

「どうだらう。東京の方へ歸るのを止めて、いつそ松江の人にでもなつて

寢することを樂しみにした。この五月あたりに東京から有島生馬君が見えて私達と同じ部屋に泊つて行つたと聞くこと

で取り込んだ。古川君を送つた後には、その日東京から着いたといふ畫家の小山周次君を迎へた。この小山君は小諸

た甲斐があつたと思つた。松江を終りとして東京の方へ引返したら、こんなところに昔の人の深い心の殘つてゐる

のほか、この地方の旅は樂しい。もしこれが、東京から三百里近くも離れてゐないで、もつと來易いところであつたら

神田

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ずにあらせたい。三朝を發つ前、倉吉から見えた神田君を案内に頼んで、ちやうど養蠶時にあたる附近の農村をも訪ね

來た道を引返して、そこまで見送つてくれた神田君に別れたのは、午後の四時頃であつた。私達はまた

大崎

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この海岸は諸喰から大崎の鼻までを東金剛ともいふ。例のテエブルの周圍には、渡邊

小諸

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といふ畫家の小山周次君を迎へた。この小山君は小諸出身で、私とは舊い馴染だ。同君は大社まで私達と同道しようと

新橋

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て萬福寺を辭した。私達は寺の門前に近い新橋の畔に出て、そこの柳のかげに吉田行の自動車を待つた

湘南

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には鰯網などが干してあつた。渚のさまも、湘南地方あたりに思ひ比べると、餘程變つて見える。こゝには、自然の

隅田川

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すきで、東京淺草の新片町に住んだ時分にはよくあの隅田川の方へ舟を出したこともある。舟も何年振りか。それ