新生 / 島崎藤村
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集まって遊んでいたが、やがて三人とも揃って愛宕山の方へ出掛けて行った。庭にある大きな青桐の方から聞えて来る蝉の
岸本の下宿のあるところから愛宕山へは近かった。そこへ子供を連れて行く折なぞは、泉太や繁が父
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ことを話した。その家族の主人公にはまだあの界隈に武蔵野の面影が残っている頃からの庄屋の徳を偲ばせるに足るものがある
な淋しさをも後へ残して置いて行った。丁度武蔵野へやって来る初冬が最早この高輪の家の庭先へも忍び足でこっそりやって
めずらしい。私の側へ来てささやいているのは確かに武蔵野の『冬』だ。
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船に乗るのを見送ろうとして、番町は東京から、赤城は堺の滞在先から、いずれも宿屋へ訪ねて来た。いよいよ神戸出発の日
兄に対しても、わざわざ堺から逢いに来てくれた赤城に対しても、初めて顔を合せた御影に対しても、それから番町の
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元園町の友人は古い江戸風の残った気持よく清潔な二階座敷で岸本を待受けていた。この
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ながら東京へ帰って行こうとしていた岸本とは、道頓堀の宿で別れた。一日も早く牧野は東京に入ろうとしていた
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その港で一緒に成ったのであった。絹商は倫敦まで行く人で外国の旅に慣れていた。御蔭と岸本は好い案内者を
で補った。老婦人は岸本に向って、自分は曾て倫敦に住んだことが有るという話や、そのために自分は家中で一番よく
もし互の事情が許すなら、もう一度白耳義のブラッセルか、倫敦あたりで落合いたいものだと約束して行った教授、一年ぶりで伯林の
出来なかった伯林の千村教授や、ミュウニッヒの慶応の留学生が倫敦に落ち延びたことも分って来た。欧羅巴へ来てから岸本が知る
岸本は高瀬へ宛てて手紙の端に書いて送った。倫敦にある高瀬からその後の様子を尋ねてよこした時の返事として。
を親しく聞く気がした。千村は郵船会社の船で倫敦から帰東の旅に上る時にその便りをくれたのであった。亜米利加廻り
から、毎日のように彼は用達に出歩いた。これから倫敦へ渡ろうとする手続きを済ますためには、巴里の警察署へも行き、外務省へ
等と同行することにした。それから先の旅程は倫敦に着いて見た上で定めることにした。何と言っても戦時の
ともかくも岸本は無事に倫敦へ入ることが出来た。そして他の連に別れて、牧野と二人ぎりの
巴里から倫敦へ。まだ岸本は一歩動いたに過ぎない。しかしその一歩だけでも国
だけでも国の方へ近づいたことを思わせた。倫敦には岸本は九日ばかり船の出るのを待った。その間に巴里から
につけて彼は巴里の方のことを思い出した。丁度倫敦でもシェクスピアの三百年祭で、あの名高い英吉利の詩人を記念する年に、
後、四月の末に巴里を辞し五月に入って倫敦を発って来た岸本は漸く七月の初めになって神戸の港に辿り着い
本もあるね。英吉利のお伽話だ。その方は父さんが倫敦で見つけて来た。二人とも大切にして納って置くんだぜ」
青い燐の光も半ば夢の世界の光であった。倫敦を出発してから喜望峰に達するまで、彼は全く陸上の消息の絶え果て
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の噂や巴里のシモンヌの噂などの出る画家がある。鴨川の一日は岸本に取って見るもの聞くもの応接にいとまの無いくらいであった
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までは諸方への通知も出さずに置いた。彼が横浜から出る船には乗らないで、わざわざ神戸まで行くことにしたのも、
した牧野から手紙で約束のあった日に、岸本は横浜の税関まで残りの荷物を受取りに行って来た。神戸から横浜の方に
税関まで残りの荷物を受取りに行って来た。神戸から横浜の方に廻った馴染の船はまだそこに碇泊中で、埠頭に横たわる汽船
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て帰国の旅の方針を定めねば成らなかった。遠く喜望峰を経由して、印度洋から東洋の港々を帰って行く長い航海の旅を
夢の世界の光であった。倫敦を出発してから喜望峰に達するまで、彼は全く陸上の消息の絶え果てた十八日の長い間を
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も行き、牛込へも行った。京橋へも行った。本郷へも行った。どうかして節子の身体がそれほど人の目につか
思った。芝に。京橋に。日本橋に。牛込に。本郷に。小石川に。あだかも家々の戸を叩いて歩く巡礼のように。そして高輪
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方へ届いたこともある。三年も経つ間には萩も大きくなった。節子は縁側に出て、独りで悄然と青い萩に対い合っ
なった。節子は縁側に出て、独りで悄然と青い萩に対い合って、誰とも口を利きたくないという様子をしていた
いにしへをひとりしかたる糸萩も笑ましげにこそ萌えいでにけれ
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の境遇をも変えた。姪の愛子は夫に随って樺太の方に動いていた。根岸の嫂は台湾の方へ出掛けて行って
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番町の方の友人が岸本の家へ訪ねて来てくれた時に、その話
岸本の船に乗るのを見送ろうとして、番町は東京から、赤城は堺の滞在先から、いずれも宿屋へ訪ねて来た。
汽船は午後に港に入った。外国の旅に慣れた番町は町へ出て、岸本のために旅費の一部を仏蘭西の紙幣や銀貨に
を教えてくれたりしたのもこの友人であった。番町はそこそこに支度する岸本の方を眺めて、旅慣れない彼を励ますような語気
これでも手廻しの好い方でしょうか――」と岸本は番町にそう言われたことを嬉しく思った。
も、初めて顔を合せた御影に対しても、それから番町のような友人に対しても、岸本はそれぞれ別の意味で羞恥の籠った
来た。その下宿に泊っている留学生で、かねて岸本は番町の友人から名前を聞いて来た人だ。長く外国生活をして来た
行って、現に東京の方に住んでいた。岸本は番町の友人の紹介で東京を発つ前にその人に逢って来た。その時
して聞かせる中に、岸本に取っては親しい東京の番町の友人の名が出て来た。番町の友人の紹介で、マドマゼエルがその
は親しい東京の番町の友人の名が出て来た。番町の友人の紹介で、マドマゼエルがその美術家を知ったらしいことも分って来た
よく知っていた。牧野は岡と懇意で、東京の番町の友人とも知合の間柄であった。「老大」を送り、美術学校の助教授
。そんなにマドマゼエルの結婚談が心配になるなら、東京の番町の友人はマドマゼエルの力に成る人と思うから、万事あの友人に相談するよう
に通っているし、自分もあなたの御意見によって番町の御友人とやらに御相談するよう姪の許へ只今別に書面を送る
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て答えて可いかを知らなかった。ある時は彼は北海道の曠野に立つという寂しいトラピストの修道院に自分の部屋を譬えて見たこと
の愛子夫婦なぞがこの事を知ったとしたら。遠く北海道の方に住む園子の生家の人達の耳にまでも伝わる時があると
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神戸の港町から諏訪山の方へ通う坂の途中に見つけた心持の好い旅館の二階座敷で、
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に引籠みきりでいた彼は、神田へも行き、牛込へも行った。京橋へも行った。本郷へも行った。どうかし
訪ねたいと思った。芝に。京橋に。日本橋に。牛込に。本郷に。小石川に。あだかも家々の戸を叩いて歩く巡礼のように
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て話頭を変えようとする輝子を前に置いて、岸本は満洲の方に居る輝子の夫の噂や台湾から上京するという民助兄の
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は巴里までの途中で同行の絹商と一緒に一日をリヨンに送って行った。ガール・ド・リヨンとは初て彼が巴里に着い
喧しくない五月下旬の朝のうちのことで、マルセエユやリヨンで見て行ったと同じプラタアヌの並木が両側にやわらかい若葉を着けた街路の
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姉の輝子は夫に随いて遠い外国に、東京には根岸に伯母の家があってもそこは留守居する女達ばかりで、民助
が一番末の女の児の君子の話なぞを残して根岸の方へ帰って行った。岸本から云えば姪の愛子の夫にあたる人
来た愛子を高輪の家に迎えた。夫に随いて根岸を去ろうとしていた愛子は、しばらく東京もお名残りだという風で
「節ちゃんも大違いに成りましたねえ――こないだは根岸の方へ訪ねて来てくれまして、二人でしばらく話しましたっけが。
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を見送った。代々木の友人は別れを惜んで、ともかくも鎌倉まで一緒に汽車で行こうと言出した。鎌倉には岸本を待つという一人
、ともかくも鎌倉まで一緒に汽車で行こうと言出した。鎌倉には岸本を待つという一人の友人もあったからで。
鎌倉で岸本を待っていたのは、信濃の山の上に彼が七年
に話し暮したばかりでなく、別離の意を尽すために鎌倉から更に箱根の塔の沢までも先立って案内して行った。旅の途中の小さな
「僕は鎌倉へ修学旅行に行った。あの時に海を見て来た」と泉太は
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だ旅の支度を纏めることも出来た。その間に、大阪へ用事があって序に訪ねて来たという元園町の友人を、もう
宛に、無事に神戸に着いたことを書き、これから大阪や京都に知人を訪ねながら帰って行くことを書いたが、東京へ着く日
て神戸を発とうとする頃の岸本の足は重かった。大阪まで彼は牧野と連立って帰って行った。牧野も彼もまだ旅姿のまま
大阪では岸本は牧野と一緒にある未知の家族を訪う筈であった。そこ
牧野にこの事を話して、結局その訪問を思い止った。大阪の宿では彼は一日客と話し暮した。牧野と一緒に夏の
大阪から直ぐに東京へ向おうとしていた牧野と、京都の方に巴里馴染
を胸一ぱいに自分の身に迎え入れようとして行った。大阪から京都まで乗って行く途中にも、彼は窓から眼を離せなかった。
京都の宿には、大阪で落合った巴里馴染の画家が岸本より先に着いていた。宿の裏
が、お前は帰って来ないし……なんでも、大阪までお前の帰って来たことは分ってるが、それから先の行方が知れ
「そうですね。大阪で買ったお菓子がありますから、あれも一緒に分けてくれますかナ」
ていた。神戸からの帰京の途次訪ねる筈であった大阪の方の人の話はその後何等の手掛りもなかったが、しかし彼の
三月に入って、根岸の姪からは大阪の方へ移り住もうとしているという通知があった。まだ岸本は書きかけ
何か描いて貰いたい。しばらくお前の画も見ない。大阪へ行く前に、桃の花でも描いて置いてってくれないか。その
ないらしかった。いずれ彼女は下図でも造った上で、大阪へ発つ前にもう一度叔父の許へ訪ねて来ようと言出した。
て、復た遽かに露領をさして出掛けて行った。大阪の愛子の許にいた岸本が末の女の児――君子は岸本の
ないではなかった。もしも台湾の民助兄夫婦や大阪の愛子夫婦なぞがこの事を知ったとしたら。遠く北海道の方に住む
方に行っている輝子の夫、台湾の民助兄、大阪の愛子などであった。
台湾の民助兄は大阪の愛子夫婦の家に一二泊、用事の都合で静岡へも立寄って、その
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芝に。京橋に。日本橋に。牛込に。本郷に。小石川に。あだかも家々の戸を叩いて歩く巡礼のように。そして高輪を指して
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人にまで、何故彼は両国の附近から場末も場末も荏原郡に近い芝区の果のようなそんな遠く離れた町へわざわざ家を移した
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行った。その時は一人の旅の道連があった。コロンボの港(印度、錫蘭)からポオト・セエドまで同船した日本の絹商
の真夏を見るような印度洋の上へも行った。コロンボ、新嘉坡、その他東洋の港々の方へも行った。彼は往き
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は郷里の山間に、父は用事の都合あって長いこと名古屋に、姉の輝子は夫に随いて遠い外国に、東京には根岸に伯母
の叶うような年頃とは違っていた。とても彼は名古屋の方に行っている兄の義雄に、また郷里の方にある嫂に、
明日見えるかと岸本が心配しつつ待っていた兄は名古屋の方から着いた。
来て、是非とも岸本の為なければ成らないことは、名古屋に滞在する義雄兄へ宛てた書きにくい手紙を書くことであった。彼は
「名古屋から岸本さんという方が御見えでございます」
顔色は急に蒼ざめた。義雄兄は岸本の出発前に名古屋から彼を見に来たのであった。
して、要る物だけを荷造りして送った。俺も名古屋から出掛けて行ってね。すっかり郷里の方の家を片付けて来た。『
歩いて行った。神戸を去る前に、彼は是非とも名古屋の義雄兄に宛てた手紙を残して行くつもりで、幾度かあの宿屋の二
日あまりも考え苦しんだ末、適当な処置をするために名古屋から一寸上京したと書いてよこした。お前に言って置くが、出来た
婆やにも暇を出したと書いてよこした。お父さんが名古屋から上京して初めてあの話があったと書いてよこした。その時はお母さん
初めて兄と差向いに成った。岸本が国を出る時、名古屋から一寸別離を告げに来たと言って、神戸の旅館まで訪ねてくれ
だって不思議に思ったんでしょう。あの時分はお父さんは未だ名古屋でしたからね」
「あの時のことを話せば、俺は未だ名古屋に居て、お前の不始末を知った。それから東京へ出て来て見
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上海の港に入った程の快よい速力で、上海から更に香港へ向け波の上を駛りつつある時であった。遠く砕ける白波は岸本
香港を指して進んで行く船の煙突からは、さかんな石炭の煙が海風に
かすると波の上の方へ低く靡いた。岸本は香港から国の方へ向う便船の日数を考えた。嫂が節子と一緒になっ
経つことをも考えた。否でも応でも彼は香港への航海中に書きにくい手紙を書く必要に迫られた。その機会を失え
いることも忘れて書いた。この手紙は上海を去って香港への航海中にある仏蘭西船で認めると書いた。神戸を去る時に書こう
あわただしい旅の心持の中でも、香港から故国の方へ残して置いて来た手紙のことは一日も岸本の心
は東京の留守宅の方から書いてよこした。お前が香港から出した手紙を読んで茫然自失するの他はなかったと書いてよこした
ば成らなかった。東京から神戸までも、上海までも、香港までも――どうかすると遠く巴里までも追って来た名状しがたい恐怖
、義雄兄に宛てた一通の手紙を残して置いて香港を離れて来た心持から言っても、岸本は再び兄夫婦を見るつもりで
で行くつもりの手紙が神戸で書けず上海でも書けず香港まで行く途中に漸く書いて置いて行ったような心の経験の記憶が、
で来たスマトラの島影、往きに眺め還りにも眺めた香港の燈台、黄緑の色に濁った支那の海――こう数えて来ると実
無い。お前が神戸を立つ時にも書けなかった手紙を香港の船の中で俺の許へ書いてよこしたという心持は、俺に
流れる水蒸気の群までが澄んで見渡された。彼は香港や上海へ寄港して来た自分の帰国の航海を思い出し、黒潮を思い出し、
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の裏の河原、涼み台、岸に咲く紅い柘榴の花、四条の石橋の下の方から奔り流れて来る鴨川の水――そこまで行くと
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たばかりでなく、別離の意を尽すために鎌倉から更に箱根の塔の沢までも先立って案内して行った。旅の途中の小さな旅の楽し
時にも、岸本は何事も訴えることが出来なかった。箱根の山の裾へ来て聞く深い雨とも、谷間を流れ下る早川の水勢とも、
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「谷中の家の二階の三畳から御便りいたします」と節子が引越の当時
谷中から節子が岸本の家へ通って来る日はおおよそ毎週の土曜と定めてあっ
翌朝は早や六月を迎えた。谷中からは節子が祖母さんを迎えかたがた手伝いに来た。岸本は以前の浅草の
谷中からは祖母さんが一郎と次郎を連れて別離を告げに来た。
渋谷の輝子は岸本の方から送った手紙を谷中まで届けに行った帰りだと言って、愛宕下の下宿へ立寄った。
も立寄って、その上で上京した。この兄は先ず谷中の家の方に着いて、それから岸本のところへ尋ねて来ることになっ
発つそうです」と輝子は言った。「明日は私も谷中へ行くつもりですが――後へ節ちゃんの心が残るといけないから、
「お前も明日谷中へ行くなら、そう言っておくれ。節ちゃんも無論承知のことだろうとは
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に適わしく出来ていた。彼が移り住んだ下宿の界隈は増上寺を中心にした古い寺町で、そういうものを容易く手に入れられるような
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た。オート・ヴィエンヌ州に近づくにつれて故国の方の甲州や信州地方で見るような高峻な山岳を望むことは出来ないまでも、一
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乗るのを見送ろうとして、番町は東京から、赤城は堺の滞在先から、いずれも宿屋へ訪ねて来た。いよいよ神戸出発の日が来
にして盃をくれる民助兄に対しても、わざわざ堺から逢いに来てくれた赤城に対しても、初めて顔を合せた御影に
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と岸本は独りでつぶやいた。両国の鉄橋の下の方へ渦巻き流れて行く隅田川の水は引き入れられるように彼の
両国の附近に漂着したという若い女の死体は既に運び去られた後で、検視の跡は
る母親に抱かれて、乳房を吸っている繁もそこに居る。両国の方ではそろそろ晩の花火のあがる音がする――
人の田辺の家の方からよく歩き廻りに来た河岸を通って両国の橋の畔にかかった。名高い往昔の船宿の名残りを看板だけに留めている家
安にした。断らなくても好いような人にまで、何故彼は両国の附近から場末も場末も荏原郡に近い芝区の果のようなそんな遠く離れた町
知人の家々へもそれとなく別れを告げに寄った。時には両国の方まで行って、もう一度隅田川の水の流れて行くのが見える河岸に添いな
「両国の煙花の晩でしたっけねえ――」
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義雄が家族を引連れて移り住もうとする家は上野の動物園からさ程遠くない谷中の町の方に見つかった。月の半ば頃には
上野の動物園の裏手から折れ曲って行ったところに、ごちゃごちゃ家の建込んだ細い横町が
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よこした。物哀しいあの空の色、寒い風に吹かれながら上野の公園側を歩いて来た時は心細かったと書いてよこした。ここへ着い
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た。彼が横浜から出る船には乗らないで、わざわざ神戸まで行くことにしたのも、独りでこっそりと母国に別れを告げて
「あなたは今月のうちに神戸へお立ちに成るというじゃ有りませんか。姉さんもまだ出ていらっしゃら
の友達でもあった。この特別な親しみのある人は神戸行の途中で岸本を引留めて、小半日代々木とも一緒に話し暮したばかり
上京よりも先に神戸へ急ごうとした。仮令彼は神戸へ行ってからの用事にかこつけて、郷里の方の嫂宛に詫手紙
ても合せる顔が無くて、嫂の上京よりも先に神戸へ急ごうとした。仮令彼は神戸へ行ってからの用事にかこつけて
マルセエユ行の船を神戸で待受ける日取から言うと、岸本はそれほど急いで東京を離れて来る
神戸へ着いてから四五日経つと、岸本は節子からの手紙を受取った。
神戸の港町から諏訪山の方へ通う坂の途中に見つけた心持の好い旅館の
最早彼の側には居なかった。唯一人の自分を神戸の宿屋に見つけた。彼は漸くのことでその港まで落ちのびることの出来
神戸へ来て、是非とも岸本の為なければ成らないことは、名古屋に滞在
宿屋の二階座敷から廊下のところへ出て見ると、神戸の港の一部が坂になった町の高い位置から望まれた。これ
ところへ告げに来た。丁度彼はインフルエンザの気味で、神戸を去る前に多少なりとも書いて置いて行きたいと思う自伝の一節
に、手紙で御別れも酷いと思ってね。それに神戸には用事の都合もあったし、一寸やって来た」
ことなぞを言出す機会は無いのであった。義雄は神戸まで来て弟の顔を見て行けば、それで気が済んだと
に訪ねて来たという元園町の友人を、もう一度神戸で見ることも出来た。彼は東京の留守宅から来た自分の子供
て置いて来た節子と彼との隔りは既に東京と神戸との隔りで、それだけでも彼女から離れ遠ざかることが出来たような
神戸の宿屋で岸本は二週間も船を待った。その二週間が彼に
知らない異国の想像で満たされるように成った。彼は神戸へ来た翌日、海岸の方へ歩き廻りに行って、図らず南米行の
堺の滞在先から、いずれも宿屋へ訪ねて来た。いよいよ神戸出発の日が来て見ると、二十年振りで御影の方から岸本を
見える港の空を望んだ。別れを告げて行こうとする神戸の町々には、もう彼岸桜の春が来ていた。
の苦難を負うべき時が来た。ひょっとするとこれを神戸の見納めとしなければ成らないような遠い旅に上るべき時が来た
岸本は皆と一緒に波止場の方へ歩いて行った。神戸を去る前に、彼は是非とも名古屋の義雄兄に宛てた手紙を残し
・マリチイム会社に属するその汽船は四月十三日の晩に神戸を出て十五日の夜のうちには早や上海の港に入った程
通の手紙のために苦しんだかを胸に浮べた。神戸の宿屋で義雄兄から彼が受取った手紙の中には、兄その人
であると書いた。自分が新橋を出発する時も、神戸を去る時も、思いがけない見送りなどを受けたのであるが、それに
香港への航海中にある仏蘭西船で認めると書いた。神戸を去る時に書こうとしても書けず、余儀なく上海から送るつもりで
葉書なり手紙なりを受取るものは稀であった。岸本が神戸を去る時船まで見送って来た番町の友人がその葉書を西伯利亜経由
、彼は心から感謝しなければ成らなかった。東京から神戸までも、上海までも、香港までも――どうかすると遠く巴里まで
調子の手紙を節子から受取った。彼は東京を去って神戸まで動いた時に、既に彼女の心に起って来た思いがけない変化を
た。わざわざ仏蘭西船を択んで海を渡って来て、神戸を離れるから直に外国人の中に入って見ようとした程の彼は
来て、その度に岸本は懊悩を増して行った。神戸以来幾通となく寄してくれた彼女の手紙は疑問として岸本
て最後に別れを告げた時の彼は、実はあの神戸も見納めのつもりであった。彼の旅も、これから先の方針を
小竹を前に置いて思わず言出したのは、あの神戸で邂逅った婦人等の旧い学友にあたる勝子のことであった。青木
岸本はこの仏蘭西の旅に上って来た時、神戸の旅館で思いがけなく訪ねて来てくれた二人の婦人に邂逅ったこと
ように、千村の航海を想像した。彼の心は神戸から自分を乗せて駛って来た仏蘭西船へ行き、あの甲板の上から
ようなことは全く考えられもしなかった。ひょっとすると神戸の港も見納めだ。そう思って出て来た国の方へもう一度
身に感じさせた。この船の最終に行き着くところは、神戸だ。そう考えると、心を強く刺戟するいろいろさまざまなものが国の方
、節子のことを義雄兄に頼んで行くつもりの手紙が神戸で書けず上海でも書けず香港まで行く途中に漸く書いて置いて行っ
を発って来た岸本は漸く七月の初めになって神戸の港に辿り着いた。
「神戸へ着く晩は眠るまい。皆起きていよう」
漸くのことで、牧野と二人ぎりになった神戸の旅館の二階座敷に、岸本は恋しい畳の上の休息に有りつい
も想って見た。彼は留守宅宛に、無事に神戸に着いたことを書き、これから大阪や京都に知人を訪ねながら帰って
て行った。牧野も彼もまだ旅姿のままで、一度神戸で脱いだ旅の着物を復た身に着けて、汽車中殆ど休みなしに
これほどの歓喜は感じながらも、東京の方角を指して神戸を発とうとする頃の岸本の足は重かった。大阪まで彼は牧野と
、名古屋から一寸別離を告げに来たと言って、神戸の旅館まで訪ねてくれた人に比べると、この兄も何となく老け
長い旅から持越した疲労をどうすることも出来なかった。神戸へ上陸するからその日まで殆ど彼は休みなしと言っても可いくらいに自分
横浜の税関まで残りの荷物を受取りに行って来た。神戸から横浜の方に廻った馴染の船はまだそこに碇泊中で、埠頭
な、そうした以前の岸本では無かった。彼は神戸に着く晩は眠るまいと思うほどの心でもって遠くから故国の燈火
て帰って来た考えは彼を支配していた。神戸からの帰京の途次訪ねる筈であった大阪の方の人の話はその後
を書いた時の自分の心持を思い出し、また節子からも神戸へ宛、巴里へ宛、かずかずの変な手紙を貰う度にそれを引裂い
節子に宛てて書いた手紙や葉書の集めたものだ。神戸から出したのもある。往きの航海の途中に出したのもある。
落ちない手紙を彼女から貰ったことが浮んで来た。神戸で受取り巴里で受取った姪の手紙は、今だに彼には疑問とし
なものであった。岸本は長い旅に出ようとして神戸まで行った時、彼女から受取った最初の手紙の中に、既にもう彼
として残っていた彼女からの以前の手紙に、神戸で受取り巴里で受取りしたかずかずの腑に落ちなかった手紙に、彼女自身
いましたが、未だそれでも残っておりました。神戸をさして行っておしまいになってからは、それが皆思いやりというよう
へ子供を置いて行ってしまったろう。『捨さんは未だ神戸に居るそうだ』ッて、嘉代なぞは出て来て見て呆れてしまっ
は何だったろう、嘉代が田舎から出て来る前に、神戸の方へ子供を置いて行ってしまったろう。『捨さんは未だ神戸に
だって、お前の心情を汲まんでは無い。お前が神戸を立つ時にも書けなかった手紙を香港の船の中で俺の許
行こうとする時からであったと書いた。自分はあの神戸の旅館で節子からの便りを受取って見て、自分の旅の決意が
海の外へ逃れようとした旅の動機から、暗夜に神戸の港を離れて行く外国船の中の客となったまでの事実を
その兄も、岸本が仏蘭西の旅に上ろうとした当時神戸の旅館で偶然落合って別離の酒を酌みかわした頃の兄も、殆んど
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無くて、以前に仙台や小諸へ行ったと同じ心持で巴里の方へ出掛けて行くというに留めて置いた。
てくれた。仏蘭西の知人に紹介の手紙をくれたり、巴里へ行ってからの下宿なぞを教えてくれたりしたのもこの友人で
。その晩の夜行汽車で、彼は絹商と一緒に巴里へ向けて発った。
て行った。ガール・ド・リヨンとは初て彼が巴里に着いた時の高い時計台のある停車場であった。そこで彼は倫敦
船から上って四日目の朝であった。彼は巴里までの途中で同行の絹商と一緒に一日をリヨンに送って行った
遠く目ざして行った巴里に岸本が入ったのは、船から上って四日目の朝であっ
巴里の天文台に近い並木街の一角にある下宿が岸本を待っていた。
たばかりで岸本にも直にそれと分った。岸本は巴里へ来て最初に逢ったこの留学生から下宿の主婦の言おうとすることを
に住む語学の教師を彼に紹介した。その人は巴里に集る外国人を相手に仏蘭西語を教えて、それを糊口としている
、上海までも、香港までも――どうかすると遠く巴里までも追って来た名状しがたい恐怖はその時になっていくらか彼
窓に近く茂っていた。その並木の青葉も岸本が巴里に着いたばかりの頃から見ると早や緑も濃く、花とも実とも
日ばかりも彼の下宿に逗留した時は、一緒に巴里の劇場の廊下も歩いて見、パンテオンの内にある聖ジュネヴィエーヴの壁画の
出来ない程ではあったが、しかし全く自分独りで、巴里へ来て初めて知合になった仏蘭西人の家を訪ねようとした。
眼にあった。岸本が訪ねて行こうとする仏蘭西人は巴里の国立図書館の書記で、彼はその人のお母さんから英語で書いた招き
や、彼女が幼い時分から学問好きであったことや、巴里に居る頃から日本留学生に就いて古典の一通りを学んだことなぞをも話し
であるということなぞや、自分等の家族は以前は巴里の市中に住んだがこのビヨンクウルに住居を卜して引移って来た
。部屋を明るくした古めかしい洋燈に対って見ると、「巴里へは何時御着きに成ったのです、何故もっと早く訪ねて来てくれ
売の笛で岸本は自分の部屋に眼を覚ました。巴里のような大きな都会の空気の中にもそうした牧歌的なメロディの流れ
外国人の中に入って見ようとした程の彼は、巴里に来た最初の間なるべく同胞の在留者から離れていようとした。外国
から見ると岸本はずっと簡単な生活に慣れて来た。巴里に着いたばかりの頃は外国風の旅館や下宿の殺風景に呆れて、誰
機会からで。ペルランの蔵画を見ようとして一緒に巴里の郊外へ辻馬車を駆った時。マデラインの寺院の附近に新画を陳列
岡は岸本よりも半年ばかり先に巴里へ来た人であった。岸本が旅でこの画家を知るように成っ
にも留学生は酷く頭をなやましていた。留学生がしばらく巴里に居る間にはよくその話が出て、岡もそれを聞かせられ
た。ギャラントという言葉をそのまま宛嵌め得るような、巴里に滞在中も黄色い皮の手套を集めていたことがまだ岸本には
「岸本君は巴里へ来ていながら、ほんとにまだ異人の肌も知らないんですか―
な三味線を聞くのを楽しみにしたと同じ心持で、巴里の劇場の閉ねる頃から芝居帰りの人達が集まる楼上に西班牙風の
て行った。「巴里には何でも有る」とある巴里人が彼に話して笑ったこの大きな都会の享楽の世界へ、連の
を胸に浮べながら下宿の方へ帰って行った。「巴里には何でも有る」とある巴里人が彼に話して笑ったこの
やがて岸本はこの珈琲店を出た。彼は巴里へ来てから送っている自分の旅人としての生活を胸に浮べ
巴里の最も楽しい時が来た。同じ街路樹でも、真先にこの古めかしい都へ
来たような心で、二年でも三年でも巴里の客舎に暮せないのか、それは彼には言うことが出来なかった
のような自分の身をも胸に描いて見た。巴里のアパルトマンの屋根の下に籠っていることも、靴を穿いて石造りの
を見せた。鶯の鳴声でも聞くことの出来そうな巴里の場末の方へ寄った町の中に岡の画室を見つけることは、
「巴里へ来てから、僕の有ってる旧いものはすっかり壊れてしまいました。
であるとまで憤慨した手紙を送ったという岡、巴里へ来てからも時々彼女の兄を殺そうとするような夢を見て
の方の消息を聞くことは苦痛です。寧ろ僕は長く巴里に留りたいと思います。例の一件の時も、親達がどの
とする美術学校の助教授もあり、西伯利亜廻りで新たに巴里に着いた二人の画家もあった。
「岸本君が巴里に来られたことを僕はモスコウの方で知りました」
見せた一人の客もあった。この客は一二カ月を巴里に送ろうとして来た人であった。
「岸本君は巴里へ来て遊びもしないという評判じゃ有りませんか。そんなにし
一緒になった。仏蘭西の婦人と結婚して六七年も巴里に住むという彫刻家にも逢った。亜米利加の方から渡って来て画室
をして岸本も停車場まで出掛けて行った。その日は巴里に在留する美術家仲間は大抵集まった。送られる助教授は帰って行く人で
「この滝さんは巴里に遊学していらしったことも有るそうです。手紙の中にそう書い
「とにかく、日本の若い美術家も多勢巴里に来ていることですし、私がその滝さんのことを訊いて進
ているだけでも三人の若手の美術家を送った「巴里の村」では、この牧野、西伯利亜廻りで来た小竹、その他
言って遣ったことの礼から書出して、忰は今巴里に居るが、しかし御手紙は自分にも読めと言って当地へ送って
の帰国を促したが、彼女が病める母を見舞うために巴里へ着いた時は既に万事が終った後であったと書いてよこした
あると書いてよこした。なんでも滝という方は巴里遊学中には姪を御存じもなかったようである、姪からの手紙に
生活から縁遠いものであることを知って来た。諸国から巴里に集って来る多くの旅人を相手に生計を営んでいるような人達
の方で見たり聞いたりしたさまざまな旅行者の話を巴里へ持って来た。驚くべく激しい懐郷病に罹った同胞の話なぞも
高瀬は独逸の方で散々いろいろな思いをした揚句に巴里へ来た人で、それだけあの教授よりは旅慣れていた。高瀬は
方面で身を立てた少壮な学者であった。岸本が巴里で逢った頃の千村に比べると、高瀬は独逸の方で散々いろいろな
「酷いものですな」と岸本が言った。「巴里にあるわれわれの位置は、丁度東京の神田あたりにある支那の留学生の位置
の方へ。そして、詩と科学と同時にあるような巴里を客舎の窓から眺めて長い研究生涯の旅の途中にしばらく息を吐い
室内のさまでも描いて見ることを慰みにして、巴里へ来た序にそうした余技を試みているらしい。壁越しに聞えて
から今のソルボンヌの学問の開けて来たこと、それから巴里のペエル・ラセエズの墓地にあの二人の情人の墓を見つけた時の驚き
の事蹟が青年時代の自分の心を強く引きつけたこと、巴里に来て見るとあのアベラアルが往昔ソルボンヌの先生であったこと、あの名高い
古い歴史の多い巴里に居て見るとこの大きな蔵のような都からは何が出て来る
な眺望の好い地勢で、礼拝堂のある丘の上からは巴里もよく見えました。散々僕等は探し廻った揚句に、古い御堂の前
は故郷の方の事情の変って行くところからも来、巴里に来て出来るつもりの仕事がとかく果せないところからも来ていた。
好かれそうな沈着な性質を見せていた。二人は巴里へ来てまだ月日も浅し、旅らしい洋服までが黒い煤にも汚れず
頃の心持が、岸本の胸の中を往来した。巴里の客舎にあって、もう一度その稿を継ぐことが出来ると考えるさえ彼
友達とよく話し合ったあの作家が四十何年か前には巴里で物を書いていたことを想像し、それによって自分を慰め励まそう
の誘惑」を起稿したのは普仏戦争の最中で、巴里の籠城中に筆を執ったとやら。丁度あの作家は五十歳でその
鉄道も電線も不通に成ってしまったことを知った。巴里を立退こうとしてその停車場に群がり集る独逸人もしくは墺地利人はいずれも
平和な巴里の舞台は実に急激な勢いをもって変って行った。今日動員令
いましたぜ。親の許から手紙が来ると大急ぎで巴里を発って行きましたぜ。確かにあの男は独探ですよ」
思い直しては自己を制えた。戒厳令は既に布かれ、巴里の城門は堅く閉され、旅行も全く不可能になった。事実に於いて
巴里在留の外国人で立退きたいと思うものは早く去れ、独逸もしくは墺地利以外の
北の停車場で高瀬と手を分った。敵の飛行船が巴里に襲って来た最初の晩は眠られなかったという画家の小竹も
到頭岸本は一年余の巴里を離れたいと思立つように成った。動員令が下ってから三週間あまり
の書記はヴェルサイユの兵営の方にあり、ラペエの詩人は巴里の自動車隊に加わり、ブロッスの教授は戦地の方へ行った二人の子息
皆置捨てる思いをした。蝉の声一つ聞かない巴里の町中でも最早何となく秋の空気が通って来ていた。
はどんな目に逢うだろう、それを思うと普仏戦争の当時巴里の籠城をした人達は暗い穴蔵のような地下室に隠れて鼠まで
を思い、消息の絶え果てた故国のことを思い、せめて巴里を去る前に短い便りなりとも国の方の新聞宛に書送ろうとして
の三人の画家をも伴った。戦争は偶然にも巴里のような大きな都会の響からしばらく逃れ去る機会を彼に与えた。あの石造
で出掛けた。この田舎行には彼は牧野の外に巴里在留の三人の画家をも伴った。戦争は偶然にも巴里のよう
な山岳を望むことは出来ないまでも、一年余を巴里に送った身には久しぶりで地方らしい空気を吸うことが出来た。途中
。前の年の五月に岸本がマルセエユからリオンへ、リオンから巴里へと向った時は殆んど夜中の汽車旅であったから、今度の車窓
になり前になりしてぞろぞろ随いて来た。岸本が巴里から一緒にやって来た美術家の中には極旅慣れた人も居た
一日先にこの田舎町へ着いていた巴里の下宿の主婦は停車場まで姪をよこしてくれた。主婦は姉にあたる
は野菜畠のあるような田舎風の家で、岸本は巴里の方から来た主婦や主婦の姪と一緒に成った。
の方が岸本さんです。こちらは牧野さんと仰って矢張巴里に来ていらっしゃる美術家です」
か。ここは思いの外、平凡な土地ではないか」こう巴里から一緒に来た美術家の一人が彼に向って訊いたくらいである。
帰ることを止めらるべし、必ず」としてあった。巴里に在留する三人の美術家は英国へ逃れようとして不可能となったともし
。急いで書いたらしい岡の手紙の中には、「巴里に帰ることを止めらるべし、必ず」としてあった。巴里に在留
家の二階に沈着いて三日目に、彼は巴里にある岡から手紙を受取って、非常に形勢の迫ったことを知った
蹂躙せらるるのか。小シモンヌが涙ぐんだのを見て巴里を離れるのは慚愧を感ずる。僕には此処は旅の土だ。彼
もそのまま置捨てることにした。ああ巴里も、わが巴里も、遂に独逸の奴原に蹂躙せらるるのか。小シモンヌが涙ぐんだの
無論吾儕のもそのまま置捨てることにした。ああ巴里も、わが巴里も、遂に独逸の奴原に蹂躙せらるるのか。小シモンヌ
渡れなければリオンに一同出発する。今日の中にはとにかく巴里を出る。かかる訳で君等の荷物も、無論吾儕のもそのまま置
に、一つはサン・マルタンの商店をこわした。最早巴里包囲は免れぬらしい。敵の騎兵は八十キロメエトルの処まで来ている。
焼却などをやっていた。昨日午後独逸軍の飛行機が巴里市に六つの爆弾を落した。一つはガアル・ド・リオンに
「到頭巴里立退きの幕と成った。既に仏蘭西政府は他へ移ったらしい。大使館で
ことをも知った。在留した同胞の殆んどすべては既に巴里を去ったことをも知った。
羊の群が籠城の食糧の用意に集められたという巴里を美術家仲間で最終に去ったのは岡と今一人の彫刻家であった
巴里から最終の報告が来た。それを読んで岸本は巴里の天文台及びモン・パルナッスの附近にあった二十一人の同胞を一組と
は牧野と岸本だけが残った。三日ばかり経つと、巴里から最終の報告が来た。それを読んで岸本は巴里の天文台及びモン
巴里から同行した美術家仲間はこの手紙を見てリオンへ向けて発って行っ
リモオジュまでの汽車旅に三十時間を費したと話した。巴里ばかりでなく北の国境の方からの多数な避難者の群は荷物列車
宿へは、主婦の姉の娘夫婦にあたる人達が巴里から避難して来た。この人達は岸本等が七時間で来た
を果さなかった岸本はこのリモオジュの町はずれへ来てから、巴里の方で見聞した開戦当時の光景や、在留する同胞の消息や、
時間も高瀬と一緒に警察署の側に立ちつづけたような巴里の混乱から逃れて来たというばかりでなく、仏蘭西の旅に来て
の水声はまだ彼の耳の底にあった。彼は巴里の狭苦しい下宿に身を置いたよりも、その田舎家の二階の部屋の
の手許に届いた。それにはあの老婦人の遺骸が巴里のペエル・ラセエズの墓地に葬られるということが認めてあり、子息さん
て働いているあの書記の留守宅から出た通知状は巴里の下宿の方を廻って岸本の手許に届いた。それにはあの老
変りが無かった。宿の主婦は姪を連れて復た巴里の方へ帰ろうとしていた。牧野も同時にこの町を引揚げようと
最早大抵帰って行った。戦時の不自由は田舎に居るも巴里に行くも牧野や岸本に取って殆ど変りが無かった。宿の主婦は
まで居た。マルヌの戦いも敵軍の総退却で終り、巴里包囲の危険も去り、この町へ避難して来た人達も最早大抵
序にボルドオの方を廻って見て来ます。君等は巴里の方で待っていてくれたまえ」
はこの田舎で刺激された心をもって、もう一度巴里の空気の中へ行こうとしていた。旅の序に、日頃想像
ながら岸本は町を出歩いた。そこにある大使館を訪ねて巴里の方の様子を聞くために。あるいはサン・タンドレの寺院を見、あるいはボルドオの
再び巴里を見るのは何時のことかと思って出て来たあの都の方
何を眺めても眼が覚めるようであった。次第に巴里の近郊から城塞の方へ近づいて行った。車窓に映る建築物の趣なぞ
た。一眠りして眼を覚すと、その度に彼は巴里が近くなって来たことを感じた。心持の好い朝で、何を
耳についた。彼は思ったよりも寂寞とした巴里に帰って来たことを感じた。
のかみさんの顔には、籠城同様の思いをしてずっと巴里に居た人達の心がありありと読まれた。
あった。岸本は部屋の窓へ行って見た。暗い巴里の冬が最早その並木街へやって来ていた。往来の人も
帰っていることを岸本は牧野の話で知った。ずっと巴里に残っていた一二の画家もあったことを知った。
リモオジュからリオンの方へ分れて行った美術家の連中が既に巴里へ帰っていることを岸本は牧野の話で知った。ずっと巴里に残っ
君、町を見に行こうじゃ有りませんか。こんなに巴里が寂しくなってるとは思いませんでしたね」
人通りの多いあの並木街を歩いていた。牧野はずっと巴里に残っていたという画家の話を歩き歩き岸本にして聞かせ
シャトレエの広小路まで歩いた。そこまで行くと、いくらか巴里らしい人の往来が見られた。二人はセエヌの河岸についてサン・
「冷たい石の建築物に、黒い冬の木――いかにも巴里の冬らしい感じですね」
自分等の靴音の耳につくのを聞きながら、今は巴里にある極く僅の日本人の中の二人であることをも感じた。
「早く英吉利を切揚げたまえ。この沈痛な巴里を味いたまえ」
赤々とした火がさかんに燃えていた。倹約な巴里の家庭では何処でも冬季に使用する亀の子形の小さな炭団が石炭と
かけて、一昼夜の大部分はあだかも夜であるかのような巴里の冬が復た旅の窓へやって来た。到頭岸本は戦時の
という太陽は北極の果を想像しないまでも、暗い巴里の冬の空に現に彼が望み見るものであることを想って見た。
へ廻した。この主婦はノルマンディから来た女の客の巴里で買ったという帽子を褒め、家庭教師の新調した着物の好みを
らしい管絃楽の合奏を聴くためにソルボンヌの大講堂に上り、巴里の最も好い宗教楽があると言われるソルボンヌの古い礼拝堂へも行って腰掛け
サン・テチエンヌ寺を見、あのサン・テチエンヌ寺を見た眼を移して巴里のフランソア・ザビエー寺などを見、更に眼を転じて「十字架の道」
消息を持って来た。戦争前、美術学校の助教授が巴里を発つという際にも、その他の時にも、まだ岡は一縷
岡も、小竹も相前後して既に英吉利の方から巴里へ戻って来ている頃であった。牧野は岡の意中の人が
かけては、岸本に取っても通い慣れた道だ。巴里を囲繞く城塞の方に近いだけ、いくらか場末の感じもするが、
いた。この光景を見たばかりでも岸本には「巴里村」の気分が浮んで来た。彼は岡と差向いに腰掛けた。
頃まで彼はその画室で話した。その年の正月に巴里にある心易い連中だけが集まって、葡萄酒を置き、モデルに歌わせ、
後でもまだ続いている欧羅巴の戦争、独り見る巴里の三月の日あたり、それらの耳目に触れるものから起って来る感覚
もあった。この戦争が終る頃には満足な身体で巴里へ帰って来るものは少かろうとの話もあった。彼が町で行き遇う
せた位であった。それよりも彼はこうした巴里の状況が電報で伝えられて、遠く国の方に居る親戚や知人を
燈の光を望む町の人達がある。こうした巴里に身を置いても、彼はそれほど恐ろしくも思わないまでに戦時の
記者の言草ではないが、あの「空中の海賊」が巴里の市中と市外とに爆弾を落して行った最初の夜は、
の紺絹のついた裏なぞはすっかり擦切れてしまった。巴里に滞在中、東京の元園町の友人の家からわざわざ送り届けてくれた褞袍
度目のあの祭と、翌年の正月とをも、岸本は巴里の下宿の方で送った。あの仏国汽船でマルセエユの港に辿り着き、初めて
がもう一度田舎の方へ帰って行く頃には見違えるほど巴里の風俗を学んで、働き好きな娘らしい手なぞにもさすがに若い女
、巌畳な体格の女で、リモオジュから主婦の手伝いに巴里へ出て来たばかりの頃はいかにも田舎臭い娘であったが、
義雄兄からは、まだそんな話のきまらない前に、一度巴里へ知らせてよこしたことも有った。岸本はその便りを読んだ時
まだ岸本は巴里を引揚げる日取も定めることは出来なかった。遠い旅のことで、国
いた。例のパスツウルに近い画室には岸本と一緒に巴里を引揚げようと約束した牧野が居て、この画家は帰りの旅の打合せ
巴里で岸本が懇意になった美術家仲間の中でも、小竹は既に国へ
。これから倫敦へ渡ろうとする手続きを済ますためには、巴里の警察署へも行き、外務省へも行き、英吉利の領事館へも行った。
最早岸本は巴里にじっとしている在留者でなくして帰国の途に上りかけている旅行者
終る頃に為し遂げたいと考えて置いたことが有った。巴里を引揚げる頃が来たら自分の髭を剃落してしまおう、そして帰国の途
人毎に岸本を見て噴飯さないものは無かった。巴里の狭い在留者仲間で、外国生活の無聊に苦しんでいるような人達は
は足掛四年前の四月であったから、丁度巴里を発つ前になってその時の若葉の記憶が復た彼の心に
て見る最終の時であろうと思われた。岸本が初めて巴里に入ったのは足掛四年前の四月であったから、丁度
巴里を発つ前に、彼の再婚説に賛成してくれた一人の美術家も
なぞを見立てた。狭い鞄の中へ入れて行く僅の巴里土産でもいかに泉太や繁を悦ばすであろうと思った。それを
主婦は岸本の旅館まで礼を言いに来た。巴里滞在中、岸本がこの主婦に世話した同胞の客も少くなかったから
「もしまた戦争の済んだ時分に、巴里で下宿したいという日本のお方がありましたら、御世話をなすって
巴里出発の日には、岸本は朝早く旅館を出て、行きつけの珈琲店
岸本が一緒に巴里を引揚げようと約束したのは牧野ばかりでなく、他に二人の同胞の
巴里を発つ間際になるまで思い迷っている岸本の顔を見て、牧野は元気
てくれるかのように。それが最後に彼の望んだ巴里であった。
。仏国、下セエヌ州にあるというその港までは、巴里から汽車で一日要った。そこで仏蘭西の土地を離れて、彼は牧野
てくれた人達のこと、何かにつけて彼は巴里の方のことを思い出した。丁度倫敦でもシェクスピアの三百年祭で、
知人の細君が停車場に彼を探した頃は、彼の巴里を発った後であったとか。いろいろと世話になって来たその
は九日ばかり船の出るのを待った。その間に巴里からの消息を受取って、モン・モランシイの町の方に住む知人の細君
巴里から倫敦へ。まだ岸本は一歩動いたに過ぎない。しかしその一歩だけ
へ帰って行こうとする人達だ。岸本と前後して巴里を発って来た人達だ。いずれも籠城同様の思いをした開戦
同胞の道連れも極く少かったが、その中には岸本が巴里で懇意になった夫婦の客もあった。一家族して国の方
に就く旅人としての自分を見つけた。海は最早巴里の客舎で思出して見たり、想像に描いて見たりして、それを
五十五日の長い船旅の後、四月の末に巴里を辞し五月に入って倫敦を発って来た岸本は漸く七月の
「巴里で三年昼寝をして来た。自分のことなぞはそれで沢山だ
の婦人に望みを掛けていた。この望みだけは、巴里の美術家から聞いて来たところによると、どうやら叶いそうであった
た人も住んでいたからで。その人の兄と巴里の美術家とは至極懇意な間柄でもあるからで。丁度人が眠くなる
訪う筈であった。そこには岸本の再婚に就いて、巴里の美術家から勧められて来た人も住んでいたからで。その人
かげを歩き廻る時の彼の心は、どうかするとまだ巴里の大並木街の方へも行き、帰りの旅に見て来た阿弗
東京へ向おうとしていた牧野と、京都の方に巴里馴染の千村や高瀬を訪ねながら東京へ帰って行こうとしていた岸本
京都の宿には、大阪で落合った巴里馴染の画家が岸本より先に着いていた。宿の裏の河原、
、宿にはまたリオンの方に滞在する岡の噂や巴里のシモンヌの噂などの出る画家がある。鴨川の一日は岸本に取って
の心は休むということを知らなかった。京都には巴里の下宿で食卓を共にした千村教授がある。帰国後はもう助教授と
「巴里の連中ですか。僕はまだ誰にも逢いませんよ。めったに皆
。あのどんよりとした半曇りのような空から泄れる巴里の日あたりとは違って、輝きからして自分の国の方の七
岸本は巴里から求めて来た動物の絵本を次郎に分けた。次郎は兄等の
それらの印の附いた鞄の中からは、岸本が巴里の下宿の方でさんざん着た和服の類が出て来た。彼は
嫂の前にも節子の前にも置いた。いずれも巴里のサン・ゼルマンの並木街なぞを歩き廻って見立てて買って来たもので
になった人達へと用意して来た志ばかりの巴里土産も出て来た。彼はそれを嫂の前にも節子の前
末の女の児)に遣ってくれッてそう言って、巴里の下宿の主婦がくれてよこしました」
て、岸本は嫂の方を見て、「なんでも巴里の方に居る時分に好い皮膚病の薬が見つかりましてね、それを節
たものを記念として兄にも贈った。それは巴里のサン・ミッシェルの並木街あたりを往来する人達の小脇に挾まれるよう
岸本の帰国を聞いて戦時の巴里の消息を尋ねに来る新聞雑誌の記者、その他旧馴染の客なぞで
てて、好い帳面だナア。この帳面と色鉛筆は父さんが巴里で買って来たんだよ。お伽話の本もあるね。英吉利のお伽話
は姿からしてひどく変り果てた人であった。あの巴里の下宿の方で取出すのも恐ろしいほどに思った節子の写真に撮れた
。その花の押されたのは節子の便りと共に巴里の下宿の方へ届いたこともある。三年も経つ間には萩
映った節子は思ったより小柄な人であった。恐らく巴里の下宿の主婦の姪なぞに思い比べて来た眼で、節子と同年に
。彼はあの眼に見えない牢獄を出る思いをして巴里の下宿を離れて来た自分と、もう一度節子に近づいて見た自分
じゃないか。そんなに有れば沢山じゃないか。お前が巴里へよこした手紙には、心細いほど赤く短く切れちゃったなんて書いてあった
の自分の心持を思い出し、また節子からも神戸へ宛、巴里へ宛、かずかずの変な手紙を貰う度にそれを引裂いて捨てるか暖炉
もある。往きの航海の途中に出したのもある。巴里へ着いてから出したのもある。リモオジュの田舎から出したのもある
帰って行った。あの下宿の食堂から円い行燈のような巴里の天文台の塔の方に日暮時の窓の燈火の点くのを望み望み
行ったことを感じた。前には彼の心は遠く巴里の下宿に別れを告げて来た頃の方へ帰って行った。あの
はあの仏蘭西印象派その他の作品の模写を携えてリオンから巴里へ帰った時の小竹の草臥れたらしい顔付を思出して、そう言って書い
の耳の底の方で聞えた。最近に、彼は巴里馴染の小竹からも手紙を貰った。西伯利亜経由で彼より先に東京
を彼女から貰ったことが浮んで来た。神戸で受取り巴里で受取った姪の手紙は、今だに彼には疑問として残って
は、ロセッチの画集も入っていた。それは彼が巴里の下宿に居た頃、ルュキサンブウルの公園の近くにある文房具屋で見つけて
打消してよこしたことを思出すことが出来る。彼はまた、巴里の下宿の方で彼女の手紙を読む度に、どうしてあれほどの
残っていた彼女からの以前の手紙に、神戸で受取り巴里で受取りしたかずかずの腑に落ちなかった手紙に、彼女自身裏書して
巴里に在留した岡のことが、あの画家がよく産科病院前の下宿へ来
太陽は、必ずしも北極の果を想像しないまでも、巴里の町を歩いていてよく見らるるものであった。枯々とした
雨でも来て障子の暗い日なぞには、よくあの巴里の冬を思出す。そこは一年のうちの最も日の短いという冬至
先ず自分は幼い心に立ち帰らねば成らない、とはかねて巴里の客舎にある頃の彼の述懐であったが、どうしても彼
その日の午後に、かねて岸本が巴里の客舎の方で旅の心を慰め慰めした古い仏蘭西の物語が節子
たところは書棚ぐらいの大きさがあった。それは彼が巴里から持って帰った荷造りの箱板を材料にした旅の記念で、
と一緒に下宿へ移るということであった。彼は巴里の方で経験して来た三年の下宿生活が何等かこの試み
田舎で大変御世話になった女のお医者さまのことを巴里へ書いてあげましたろう。あの人に逢いましたよ。お父さんの行く眼
が懸絶れていた。それにも関らず、岸本は巴里の下宿生活の記憶をここへ来て喚起そうとした。あの異郷の
愛宕下の下宿には何一つ岸本が巴里の下宿生活を偲ばせるような似よりのものは無かった。プラタアヌの並木
そういう日には特に下宿住居の心持や、乾燥した巴里の方の町の空でこの雨の恋しかったことなどが岸本の胸に
でも脱ぎ捨てるようにして、あの着古した旅の服を巴里の客舎に脱ぎ捨てて来た。当時の彼の心では、どうやら自分
てしまえ」と言ってよこしてくれた大兄からの便りを巴里の客舎で読んだ時は、余計にこの心を深くしたと書いた
に思ったと書いた。自分は仏国の港に着き、巴里に着いた。旅にある自分の心は、節子をして一切の旧い
て置いてそれを彼女に読ました事を思い出した。あの巴里のペエル・ラセエズの墓地に静かな愛の涅槃のように眠っていた
庭草に降りそそぐ夜明がたの雨を聞いていたが、あの巴里の下宿の方に居る時分どうかするとよく眠られないで夜中に眼
そこから天文台の建築物は見えないまでも近い。何となく巴里の天文台の近くに三年も暮して見た旅窓を思い出させる。そこ
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とも自身の位置を説明しようが無くて、以前に仙台や小諸へ行ったと同じ心持で巴里の方へ出掛けて行くというに
頃で、仙台の客舎へ行ってそれを書いた。あの仙台の一年は彼が忘れることの出来ない楽しい時代である。ずっと後に
の形見であった。漸く彼も二十五歳の頃で、仙台の客舎へ行ってそれを書いた。あの仙台の一年は彼が忘れる
て、しかも僅かに二年ほどしか続かなかった。彼は仙台の方へ行っている間に母の死を聞いた。
、自分の性質が父に似て行くことを驚き恐れた。仙台の旅から帰ったのは彼が二十六歳の頃であった。彼は
仙台の旅はこうした彼の心を救った。一生の清しい朝は
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岸本は部屋の窓へ行った。京都の大学の教授がしばらく泊っていた旅館の窓が岸本の部屋から見え
ます。千村君の居たホテルに泊っています。矢張京都の大学の先生でサ。その柳博士に、隣に居る高瀬君に、
、無事に神戸に着いたことを書き、これから大阪や京都に知人を訪ねながら帰って行くことを書いたが、東京へ着く日取
大阪から直ぐに東京へ向おうとしていた牧野と、京都の方に巴里馴染の千村や高瀬を訪ねながら東京へ帰って行こうとし
一ぱいに自分の身に迎え入れようとして行った。大阪から京都まで乗って行く途中にも、彼は窓から眼を離せなかった。
京都を指して出掛けて行く時の岸本の側には、最早懐しい旅の心
京都の宿には、大阪で落合った巴里馴染の画家が岸本より先に着い
聞くもの応接にいとまの無いくらいであった。こうして京都に着いた翌日には、酷く彼も疲労の出たのを覚えた。
ような岸本の心は休むということを知らなかった。京都には巴里の下宿で食卓を共にした千村教授がある。帰国後は
夜汽車で京都を発った岸本は翌日の午後になって品川の停車場を望んだ。彼
に触れ続けた。東京へ帰って来て見ると、あの京都の宿でせめて半日なりとも寝転んで来て好かったとさえ思うくらいであっ
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東京下谷の池の端の下宿で、岸本が友達と一緒にこの詩を愛誦したの
母親も、彼女の弟達も居なかった。何となく下谷の住居の方へ嫂を見送ったことを一くぎりとして、あの嫂
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「今だに盛岡のことなぞをよく思い出すところを見ると、矢張あの人には女らしい好い
道すがら岸本はそれを言って見た。盛岡とは勝子の生れた郷里だ。伝馬町とか、西京とか、昔は
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は大阪の愛子夫婦の家に一二泊、用事の都合で静岡へも立寄って、その上で上京した。この兄は先ず谷中の家
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思うものがあった。それは会葬者の一人として麹町の見附内にある教会堂に行われた弔いの儀式に列った時の
て来た。岸本がまだ若かった頃に、曾て東京の麹町の方の学校で勝子という生徒を教えたことがある。彼が書き
の記憶に上る勝子とは同姓で、たしか同郷で、同じ麹町の学校に生徒として来ていた人であった。そんな関係から
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こと人も訪ねずに引籠みきりでいた彼は、神田へも行き、牛込へも行った。京橋へも行った。本郷へも
言った。「巴里にあるわれわれの位置は、丁度東京の神田あたりにある支那の留学生の位置ですね。よく私はそんなことを思います
「神田辺を歩いてる時分にはそうも思いませんでしたがなあ。欧羅
、節ちゃんが書籍を欲しいなんて言いましてね、二人で神田まで探しに行きましたよ。そう言えば、節ちゃんの頂いた書籍で
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の方が寧ろ静かだと書いてよこしたり、時には東京の自宅の方から若い日に有りがちな、寂しい、頼りの無さそうな
名古屋に、姉の輝子は夫に随いて遠い外国に、東京には根岸に伯母の家があってもそこは留守居する女達ばかり
細君が居る。女学生時代の輝子が居る。郷里の方から東京へ出て来たばかりの節子も姉に連れられて来ている。白い
らしい風采を思出すことが出来る。彼が九つの歳に東京へ出て来た時、初めて身を寄せたのはこの人の家で
「……明治もまだ若い二十年代であった。東京の市内には電車というものも無い頃であった。学校から田辺
指して深夜の都会の空気の中を帰って行った。東京の目貫とも言うべき町々も眠ってしまって、遅くまで通う電車の響
しようというところだ。近いうちに国の方のものを東京へ呼ぶつもりでいたところだ。貴様が家を見つけて置いてくれさえ
「俺は九つの歳に東京へ修業に出て来た。それからはもうずっと親の側にもい
僅かの時間をすこしとろとろしたかと思ううちに、早や東京を出発する日が来ていた。その朝、彼が身につけた
到頭岸本は幼い子供等を残して置いて東京を離れた。元園町、加賀町、森川町、その他の友人は品川まで彼
その日、岸本はさかんな見送りを受けて東京を発って来た朝から、冷い汗の流れる思をしつづけた。余儀
友人等の顔も汽車の窓から消えた。その日の東京の新聞に出ていた新橋を出発する時の自分に関する賑かな記事
神戸で待受ける日取から言うと、岸本はそれほど急いで東京を離れて来る必要も無いのであった。唯、彼は節子の母親
東京の方にあるクック会社の支店からは、岸本が約束して置いて来
「俺の家でも皆東京へ出ると言うんで、村のものが送別会なぞをしてくれたよ
友人を、もう一度神戸で見ることも出来た。彼は東京の留守宅から来た自分の子供の手紙をも読んだ。
た。しかし彼は二週間の余裕を有った御蔭で、東京の方では書けなかった手紙も書き、急いだ旅の支度を纏めること
ない恐ろしさは絶えず彼を追って来た。今日は東京の方から何か言って来はしまいか、明日は何か言って
。隠して置いて来た節子と彼との隔りは既に東京と神戸との隔りで、それだけでも彼女から離れ遠ざかることが出来た
伴われて来た。岸本がまだ若かった頃に、曾て東京の麹町の方の学校で勝子という生徒を教えたことがある。彼
岸本の船に乗るのを見送ろうとして、番町は東京から、赤城は堺の滞在先から、いずれも宿屋へ訪ねて来た。いよいよ
ます。外国へ行って部屋着にでもする積りで、東京からわざわざ持って来たんです。いかに言っても鞄が狭いものですから
らの人達から遠ざかり行くことをも思わせた。あの東京浅草の七年住慣れた住居の二階から、あの身動きすることさえも
た番町の友人がその葉書を西伯利亜経由にして、東京の方から出して置いてくれたからで。
が届いた。思わず岸本の胸は震えた。兄は東京の留守宅の方から書いてよこした。お前が香港から出した手紙を
対しては、彼は心から感謝しなければ成らなかった。東京から神戸までも、上海までも、香港までも――どうかすると遠く
て、交叉した町が眼の下に見えた。あの東京浅草の住慣れた二階の外に板囲の家だの白い障子の窓
達は親子とも産婆であると書いてよこした。ここは東京から汽車で極僅の時間に来られる場処であると書いてよこした。
も先に故国を出て北欧諸国を歴遊して来た東京のある友人が九日ばかりも彼の下宿に逗留した時は、一緒
に吹かれて来たばかりでなく、漸くのことであの東京浅草の小楼から起して来た身をこうした外国の生活の試み
も泳いでいれば可いような無意識な気楽さをもって東京の町を歩いていた時に比べると、稀に外国の方から来
。窓に近く机の置いてあるところで、老婦人は東京の方にある姪からの手紙を岸本に取出して見せ、
方に住んでいた。岸本は番町の友人の紹介で東京を発つ前にその人に逢って来た。その時のマドマゼエルは可成もう
な仏蘭西の婦人ながらに遠く日本を慕って行って、現に東京の方に住んでいた。岸本は番町の友人の紹介で東京を発つ
主人の帰りを待つ間、三人の話は東京の方にあるマドマゼエルの噂で持切った。細君はマドマゼエルが絵画にも
老婦人は岸本に向って、東京にある姪から仏蘭西大学の教授の許へも彼を紹介してよこした
だけでも明して欲しい、それを明すことが出来なければ東京のどの辺か――せめて方角だけでも明して欲しいとのことであっ
東京高輪の留守宅の方に節子を隠して置て嫂の上京も待たず
復活祭も近づいて来ていた。東京の留守宅へ戻って行ってからの節子は折ある毎に泉太や
一同で撮った写真も出て来た。それは最近に東京から送って来たのであった。高輪の家の庭の一部がそっくり
はこうした調子の手紙を節子から受取った。彼は東京を去って神戸まで動いた時に、既に彼女の心に起って来た
「皆東京の方なんですか」
「いえ、二人だけ東京にいます。三番目のやつは郷里の姉の方に行ってますし
通りすがりの同胞の客を案内して行くこともあった。東京隅田川の水辺に近い座敷で静な三味線を聞くのを楽しみにした
はその何よりも肝要なものが得られなかった。何故東京浅草の方にあった書斎を移して持って来たような心で、
仕事もとかく手に着かなかった。その中でも彼は東京の留守宅への仕送りをして遠く子供を養うことを忘れることは出来
「東京の友達もどうしているだろう――」
東京下谷の池の端の下宿で、岸本が友達と一緒にこの詩を愛誦した
東京の方のある友人に宛てて書いたこの言葉を、岸本は下宿に戻っ
を御招きすることもしなかったと書いてよこした。東京の姪からも手紙で、あなたにお目に掛るかとよく尋ねよこすと
ていた。その中で岸本は老婦人の口から、東京の方にあるマドマゼエルの結婚の話を聞いた。
をひろい読みして聞かせる中に、岸本に取っては親しい東京の番町の友人の名が出て来た。番町の友人の紹介で、
ことをよく知っていた。牧野は岡と懇意で、東京の番町の友人とも知合の間柄であった。「老大」を送り、美術
やった。そんなにマドマゼエルの結婚談が心配になるなら、東京の番町の友人はマドマゼエルの力に成る人と思うから、万事あの友人に
岸本が言った。「巴里にあるわれわれの位置は、丁度東京の神田あたりにある支那の留学生の位置ですね。よく私はそんなことを
と東京浅草の家の方で節子の言った言葉、岸本が旅仕度でいそがしがっ
ことも有った。岸本が稿を継ごうとしたのは東京浅草の以前の書斎で書きかけた自伝の一部ともいうべきものであっ
書いた。子供のことは何分頼むと書いた。彼は東京にある二三の友人へもいそがしく手紙を認めたが、西伯利亜経由とし
の側に立つと考えるのも嬉しいと書いてよこした。東京にある滝新夫人(老婦人の姪)からも夫と一緒に仏蘭西へ来遊
腰掛けて見ると、無暗と神経は亢奮するばかりで僅に東京の留守宅へ宛てた手紙を書くに止めてしまった。宵の明星の
に居て知る事が出来た。欧洲の戦乱はどんなに東京の方の留守宅の人達を驚かしたであろう。節子からもそれを
と牧野とはそれほど気質を異にしていた。東京の方にある中野の友人の噂をしたり、倫敦へ戦乱を避けて
移して、あの澱み果てた生活から身を起して来た東京浅草の以前の書斎の方へ直ぐに自分を持って行って考えることも
なく遠く成って来た国の方の消息の中で、東京の留守宅の様子を岸本のところへ精しく知せてよこすのは節子で
の太陽に自己が心胸を譬え歌った歌、岸本が東京浅草の住居の方でよく愛誦した歌を遺して置いて行ったの
名前を呼んで見たいと思うことすら有った。彼は東京の加賀町の友人から絵葉書のはしに書いてよこしてくれた「寂寞懐君
を受ける間もまた短かった。彼がしみじみ母と一緒に東京で暮して見たのは艱難な青年時代が来た頃であって、
漸く九歳の時であった。十三歳の時には東京の方に居て父の死を聞いた。彼は父の側に居
岸本が父母の膝下を離れ、郷里の家を辞して、東京に遊学する身となったのは漸く九歳の時であった。十三
少年の時の記憶はまた東京銀座の裏通りの方へ岸本を連れて行って見せた。土蔵造りの家
を置いて考えたいと思った。一日も早く父が東京を引揚げ、あの年中榾火の燃えている炉辺の方へ帰って行って、
帰省したことがある。民助兄もその頃は既に東京で、彼は兄の代理として老祖母さんを弔いかたがた郷里に
嫂が父の日常のことをよく知っていて、曾て東京の根岸の家でその話を岸本にして聞かせたことも有った
別れ住む頃であった。郷里から一寸出て来て、東京浅草の方にあった岸本の家の二階でその話を弟にし
松の樹があった、と語り合った。家を挙げて東京に移り住むように成った頃から、以前の屋敷跡は矢張隣家の所有であっ
作の第一部は大正七年四月に着手し、東京大阪両朝日紙上に発表した。時に四十七歳。第二部を脱稿
た裏なぞはすっかり擦切れてしまった。巴里に滞在中、東京の元園町の友人の家からわざわざ送り届けてくれた褞袍は随分役に立っ
ては、岸本は全くそれを知らないでも無かった。東京の義雄兄からは、まだそんな話のきまらない前に、一度巴里へ知ら
の建築物の間を伝わって来る鐘の音を聞きながら、東京の留守宅宛の手紙を書いた。
は三年振での人に遇った。往きの旅に東京の番町の友人等と連立って船まで別れを惜みに来てくれたその
京都に知人を訪ねながら帰って行くことを書いたが、東京へ着く日取もわざと知らせなかった。
の帰国が京阪地方の人に知れたことを思った。東京の方に自分を待受けている人達――義雄兄を初め、嫂、
これほどの歓喜は感じながらも、東京の方角を指して神戸を発とうとする頃の岸本の足は重かった。
はまた一日でも遅く東京に入ろうとしていた。東京の方に近づけば近づくほど、岸本の足は進まなかった。
入ろうとしていたし、岸本はまた一日でも遅く東京に入ろうとしていた。東京の方に近づけば近づくほど、岸本の
は、道頓堀の宿で別れた。一日も早く牧野は東京に入ろうとしていたし、岸本はまた一日でも遅く東京に入ろう
と、京都の方に巴里馴染の千村や高瀬を訪ねながら東京へ帰って行こうとしていた岸本とは、道頓堀の宿で別れた
大阪から直ぐに東京へ向おうとしていた牧野と、京都の方に巴里馴染の千村や
「岸本さん、一緒に東京へ入ろうじゃありませんか」
、何故一切の人の出迎えなぞを受けずに独りで寂しく東京へ入ろうとしているのか、その彼の心持は七十日の余も
再会を約して置いて手を分った。何故久し振で東京を見る彼の足がそれほど進まないのか、何故一切の人の出迎え
、酷く彼も疲労の出たのを覚えた。彼は東京の方へ帰って行った後の多忙しさを予想して、せめて半日
決して西京を発とうとしたのはその夕方であった。東京の方へ向おうとする彼の足はまるで鎖にでも繋がれている
かねて東京に着く日取もわざと知らせなかった留守宅の人達が、そんな時
田辺の弘――岸本が恩人の息子さんも、岸本の東京に着いたことを知って訪ねて来た。三年経って復た一緒
朝になると、義雄はもっと東京の中心に近い町の方の宿屋へ通うことを日課のようにして
ていてくれた国の方のものに触れ続けた。東京へ帰って来て見ると、あの京都の宿でせめて半日なりとも寝転んで
も、縁先に茂って来た満天星の葉へも、やがて東京の夏らしい雨がふりそそいだ。
その人の生立ちに就て。その人の気質に就て。長く東京に住んで見たものでなければ一寸思い当らないようなその人の江戸風
からも手紙を貰った。西伯利亜経由で彼より先に東京に帰っていたあの画家の消息の中にも、帰朝者として
と弟の一郎とは郷里の方で生れ、次郎はこの東京の郊外で生れ、彼女一人だけが義雄の兄夫婦の朝鮮に家を持っ
険しい眼付をして言ったこともあるし、「私達が東京へ出るように成ったのは、一体誰から言出したことなんです
、引越の手伝いを人に頼んで置いて、兄自身は東京に居なかった。その日は嫂も、節子も、二人とも疲れて
して、その寒い日に出掛けた。岸本は義雄兄の東京に居ないことを考えて、女子供ばかりで谷中の方に向おうとする人
――ことしは久しぶりで東京の郊外に冬籠りする。冬の日は光が屋内まで輝き満ちるようなこと
た。彼が磯部まで同伴した義雄兄よりすこし後れて東京へ引返そうとする頃には、帰国以来とかく手につかなかった自分の仕事
ずにはいられない……曾て私は山から東京へ家を移す前に、志賀の山村の友を訪ねようとして雪道を
に随いて根岸を去ろうとしていた愛子は、しばらく東京もお名残りだという風で台湾の方にある両親(岸本の長兄夫婦
ことをいろいろと胸に浮べて見た。郷里の方から東京へ出て来たばかりの十五六歳の頃、まだ短い着物なぞを
て詮索したことや、名前を明すことが出来なければ東京のどの辺か、せめて方角だけでも教えよと言われたが、それだけ
輝子夫婦は二人ある子供を連れて十月に入ってから東京に着いた。
で営んだという嫂の葬式を済ませ、やがて義雄は東京に帰って来ている頃であった。この兄は新規に起った節子
置いたが。まあ、台湾の兄貴でもこういう時に東京に家を持ってると、あの兄貴の家へ節ちゃんを預けてしまう。
未だ名古屋に居て、お前の不始末を知った。それから東京へ出て来て見た。嘉代が俺の袖を引いて、『どう
岸本には見えて来た。台湾の民助兄でも東京に家を持っていると節子を預けたいと言った義雄兄の口吻と
な眺望がそこに展けている。新しい建築物で満たされた東京の中心地の市街から品川の海の方まで見えるその山の上で、岸本
「東京でこんなカルサンなぞを穿いてる人はめったに無いね。奇を好むように
言ったものでもない。ここの家の内儀さんなぞは東京の人で、こういうものを見たことも無かろう。いや、笑うにも
その考えが俺にあったから、お父さんに勧めて貴様を東京へよこすことにした。その親の子だ。余程考えてよく行って
て、兄弟枕を並べて寝た。少年時代の岸本が東京へ遊学するために一緒に徒歩で郷里の山々を越したのも、この
よこしたこの手紙が岸本の許に届いた。最早彼女が東京を出発するという十一月の朔日も来た。岸本はこの手紙を繰返し
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ていた。岸本はそれらしい石の側に立って、浅草橋の下の方から寒そうに流れて来る掘割の水を眺めながら、十
電車で浅草橋まで乗って見ると、神田川の河岸がもう一度岸本の眼にあった
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と下町育ちの子供等は聞耳を立てた。品川の空の方から響けて伝わって来るその汽車の音は一層四辺をひっそり
離れた。元園町、加賀町、森川町、その他の友人は品川まで彼を見送った。代々木の友人は別れを惜んで、ともかくも鎌倉まで
さんの新橋を発つ朝、自分は高輪の家の庭先から品川の方に起る汽車の音を聞いて、あの音が遠く聞えなくなるまで
家を畳んで出て来たそれらの家族を節子は品川の停車場まで迎えに行ったことを書いてよこした。母も年をとっ
を訴えてよこした。岸本はあの片田舎の家の方から品川の停車場まで帰って来て、そこで迎えの嫂と一緒に成ったと
と書いてよこした。この高輪の家の庭先に佇立んで品川の方に起る汽車の音を聞いた時のことまでしきりに思出されると
しかし品川まで行けば留守宅は近かった。旅の荷物も品川で受取ることにしてあった。彼は東京駅まで乗らずに、その停車場
出迎えていてくれる人もあろうかと気遣ったが、しかし品川まで行けば留守宅は近かった。旅の荷物も品川で受取ることにし
夜汽車で京都を発った岸本は翌日の午後になって品川の停車場を望んだ。彼は自分の旅の間に完成されたと
上に積まれた。間もなく彼を乗せた車は品川から高輪へ通う新開の道路について、右へ動き左へ動きしながら
断りするつもりで、わざとお知らせもしませんでした。今々品川からここへやって来たところです」
「捨吉は品川へ着いたんだとサ」兄は家の人達へ聞えるように言っ
ても済むところをわざと「岸本捨吉が」と言って、品川からしょんぼり着いたような弟のことを晴の帰朝者として取扱おうと
「品川へ行けば海が見える」と繁が答えた。
家をさして品川行の電車で帰って行く度に、岸本はよく新橋を通過ぎて、
路の途中まで彼女を迎えに行ったことがあった。品川線の電車の停留場のあるところから彼の家へ通うだけでも可成の
な心持は直ぐに破れた。丁度その小山の上あたりは品川の電車路から高輪へ通う人達の通路に当っていた。節子は
のように岸本の眼についた。四年前節子が品川の方に起る汽車の響の聞えなくなるまで同じところに立ちつくしたという
高輪を去る時が来て見ると、あの品川の停車場から乗って来た車を降りて独りでしょんぼりこの家の門口に
時に、出迎えの人を一切断って、独りでポツンと品川へ着いたなんてことも、俺はちゃんと見てる。そりゃ、まあ、不始末と
ている。新しい建築物で満たされた東京の中心地の市街から品川の海の方まで見えるその山の上で、岸本の心はよく谷中の
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まで人通りの多い下町の方から移って来て見ると、浅草代地あたりでまだ宵の口かと思われた頃がその高台の上では深夜
の人達から遠ざかり行くことをも思わせた。あの東京浅草の七年住慣れた住居の二階から、あの身動きすることさえも厭わしく
、交叉した町が眼の下に見えた。あの東京浅草の住慣れた二階の外に板囲の家だの白い障子の窓だ
吹かれて来たばかりでなく、漸くのことであの東京浅草の小楼から起して来た身をこうした外国の生活の試みの
母に話して叱られたと書いてよこした。彼女は浅草の家の方で使っていた婆やのことも書いてよこした。婆や
その何よりも肝要なものが得られなかった。何故東京浅草の方にあった書斎を移して持って来たような心で、二
と東京浅草の家の方で節子の言った言葉、岸本が旅仕度でいそがしがって
恐ろしい嵐の身に迫って来た頃の心持が、あの浅草の二階でこれが自分の筆の執り納めであるかも知れないと
も有った。岸本が稿を継ごうとしたのは東京浅草の以前の書斎で書きかけた自伝の一部ともいうべきものであった
て、あの澱み果てた生活から身を起して来た東京浅草の以前の書斎の方へ直ぐに自分を持って行って考えることも出来
独りでよくそれを言って見た。節子はまた以前の浅草の住居の方から移し植えた萩の花のさかりであるということなどに
。その手紙にはとかく彼女が煩い勝である事や、浅草時代の自分は何処かへ行ってしまったかと思われるほど弱くなった
太陽に自己が心胸を譬え歌った歌、岸本が東京浅草の住居の方でよく愛誦した歌を遺して置いて行ったのも
住む頃であった。郷里から一寸出て来て、東京浅草の方にあった岸本の家の二階でその話を弟にした
「でも、浅草の方に居た時分から見ると、よっぽどお前も違って来たね」
た不自然なものではないかと想って見た。あの浅草の以前の住居の方で節子をよく泣かせたほどの激しい気象を持っ
岸本が浅草時代の終にあたる自分の生活をデカダンの生活として考えるように成っ
これは彼があの浅草の二階である人に書いて送った短い感想であったが、そう
「浅草で掛けていたじゃ有りませんか」
のようにしんかんとしていた。岸本は以前の浅草の家の方で、よく家のものを送り出し、表の門を閉めて
が祖母さんを迎えかたがた手伝いに来た。岸本は以前の浅草の家から移し植えた萩を根分けして、一株は久米に贈り、一
「叔父さんには私は浅草でお目に掛ったぎりです。私も今度は七年目で日本の
「浅草の方にあった時計も掛っていますね」
岸本の部屋の壁の上には古い柱時計があった。浅草から高輪へ移され、高輪から愛宕下へ移された八角形の時計は未だ振子
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翌日岸本は旅の荷物と一緒に旧の新橋停車場に近いある宿屋に移った。そこで日頃親しい人達を待った。
ない遠い島にでも流されて行くような心持で、新橋の停車場の方へ向って行った。
から消えた。その日の東京の新聞に出ていた新橋を出発する時の自分に関する賑かな記事を自分の胸に浮べながら、
で沢山ではないかと書いてよこした。叔父さんの新橋を発つ朝、自分は高輪の家の庭先から品川の方に起る汽車の
でそれも出来なかった手紙であると書いた。自分が新橋を出発する時も、神戸を去る時も、思いがけない見送りなどを受けた
することすら出来なかった。彼の眼にあるは旧の新橋停車場で別れて来たままの何時までも同じように幼い子供等の姿
に来てくれた。岸本はこの義理ある甥と旧の新橋停車場で別れたぎりの顔を合せた。
て品川行の電車で帰って行く度に、岸本はよく新橋を通過ぎて、あの旧停車場から旅に上った三年前のことを
。岸本がこれを手にしたのは、あの旧の新橋停車場から遠い旅に上った三月の二十五日という日も近づいて来
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ことを考えても、思わず岸本の頭は下った。代々木、加賀町、元園町、その他の友人や日頃仕事の上で懇意にする
と代々木の友人の前に立って話しかける人があった。
と代々木は笑って、快活な興奮した眼付で周囲に集って来る人達を
、森川町、その他の友人は品川まで彼を見送った。代々木の友人は別れを惜んで、ともかくも鎌倉まで一緒に汽車で行こうと言
のある人は神戸行の途中で岸本を引留めて、小半日代々木とも一緒に話し暮したばかりでなく、別離の意を尽すために鎌倉
代々木、志賀の親しい友達を前に置いて、ある温泉宿の二階座敷で
そういう代々木の眼は輝いていた。志賀はまた思いやりの深い調子で、岸本の
と復た代々木が言って、「しばらくお別れだ」という風に岸本のために酒
酒に趣味を有ち、旅に趣味を有つ代々木は、岸本の所望で、古い小唄を低声に試みた。復た何時逢わ
の午後であった。国府津まで来て、そこで岸本は代々木と志賀とに別れを告げた。やがてこの友人等の顔も汽車の窓
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自身の位置を説明しようが無くて、以前に仙台や小諸へ行ったと同じ心持で巴里の方へ出掛けて行くというに留めて
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少年の時の記憶はまた東京銀座の裏通りの方へ岸本を連れて行って見せた。土蔵造りの家が
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経済上の安心を与え得なかったものは失敗した。そして日本橋伝馬町の鰹節問屋に生れた岡見は成功した。この事実は彼の
や知人を訪ねたいと思った。芝に。京橋に。日本橋に。牛込に。本郷に。小石川に。あだかも家々の戸を叩いて歩く
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行って、それからまた岸本は子供等や節子と一緒に大久保の方角を指して歩いた。
「泉ちゃん、大久保だよ」
「ああ、これが僕の生れた大久保だ」
外へ出た頃は、八月の日の光がもう大久保の通りへ強く射して来ていた。
店も、新開の町も、以前岸本が住んだ頃の大久保には無いものであった。
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新宿まで電車で行って、それからまた岸本は子供等や節子と一緒に大久保
た。彼は節子をいたわりいたわり往きと同じ新開の町を新宿の近くまでも送って行った。時には彼の方から、不自由な
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義雄が家族を引連れて移り住もうとする家は上野の動物園からさ程遠くない谷中の町の方に見つかった。月の半ば頃
よこした。物哀しいあの空の色、寒い風に吹かれながら上野の公園側を歩いて来た時は心細かったと書いてよこした。ここ
、岸本に取ってそれが二度目の時であった。上野から先はまだ池の端を廻る電車の出来ていない頃で、岸本は冬枯
上野の動物園の裏手から折れ曲って行ったところに、ごちゃごちゃ家の建込んだ細い
。彼女はまた昔の人の遺した歌になぞらえて、上野の杜にからすの啼かない日はあっても君を恋しく思わない日は
来た。丁度家のものは祖母さんはじめ子供から女中まで上野の方へ花見に出掛けた時で、岸本独り寂しく留守をしていた
たいと思いますけれど、いろいろ都合もございますので、もし上野辺へいらっしゃるような時がございましたら、どうぞお受取り下さい。小間物店の
仰いますからね、私もまあ一ちゃんでも連れて、上野あたりまで見送ってあげるつもりです」
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を使って可いかも分らなかった。彼はずっと以前に巣鴨の監獄を出て来たある身内のものを想い起すことが出来る。その身内
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の話は一晩で尽くすべくもなかった。中根夫婦は渋谷の方に見つけた新しい住居へ、義雄と節子とは谷中へ、いずれも
周囲にあるものも種々に動き変って来ていた。渋谷に新居を構えた中根は妻子だけをその家に残して置いて、復
たものではあるが、輝子に持参して貰うためわざと渋谷の方へ送る、と岸本は書き出した。何卒輝子に読ませて聞いて
渋谷の輝子は岸本の方から送った手紙を谷中まで届けに行った帰りだ
知らない子供等は無邪気な声を掛けた。輝子は「渋谷の姉さん」としてよりも未だ「浦潮の姉さん」として子供
何処へも出ちゃ不可」と父から厳しく言い渡されて、渋谷の姉の家へ独りで行くことすらも禁じられているのを岸本は
と言って輝子が渋谷から岸本の下宿を見舞いに来た。一旦眼前の平和が破れてからは
「こないだお父さんが一ちゃんを連れて渋谷へ見えましたっけ」と輝子は言った。「その時も節ちゃんの
輝子が渋谷をさして帰った後、岸本は独りで新しい書斎を歩いて見た。
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学友の死を思いつづけながら、神田川に添うて足立の家の方から帰って来た車の上も、岸本
神田川の川口から二三町と離れていない家の二階を降りて、岸本
家の側を過ぎて砂揚場のあるところへ出た。神田川の方からゆるく流れて来る黒ずんだ水が岸本の眼に映った。その
僕」という言葉なぞを覚えて使っている子供が、神田川に近い以前の家の方で朝晩の区別もはっきり分らないように「これ
がある。そこには日頃植物の好きな節子が以前の神田川に近い家の方から移し植えた萩がある。その花の押されたの
電車で浅草橋まで乗って見ると、神田川の河岸がもう一度岸本の眼にあった。岸本は橋の上に立っ
た旅窓を思い出させる。そこには二階がある。神田川の川口に近い町中で七年も臥たり起きたりした以前の小楼
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もその河岸だ。どうかすると湖水のように静かな隅田川の水の上へ出て、都会の真中とも思われないほど清い夏
つぶやいた。両国の鉄橋の下の方へ渦巻き流れて行く隅田川の水は引き入れられるように彼の眼に映った。
六年ばかり岸本も隅田川に近く暮して見て、水辺に住むものの誰しもが耳にするよう
の聞えるところへ出ると、新大橋の方角へ流れて行く隅田川の水が見える。その辺は岸本に取って少年時代からの記憶のある
た。この友人が多忙しい身に僅の閑を見つけて隅田川の近くへ休みに来る時には、よく岸本のところへ使を寄し
来る黒ずんだ水が岸本の眼に映った。その水が隅田川に落合うあたりの岸近くには都鳥も群れ集って浮いていた。ふと岸本
寄った。時には両国の方まで行って、もう一度隅田川の水の流れて行くのが見える河岸に添いながら、ある雑誌記者と一緒
の同胞の客を案内して行くこともあった。東京隅田川の水辺に近い座敷で静な三味線を聞くのを楽しみにしたと同じ
を流れていた。岸本に取っては縁故の深いあの隅田川を一番よく思い出させるものは、リオンで見て来たソオンの谿流でも
二月か二月半ばかりの後にはあの旧い馴染の隅田川を見ることが出来るかと考えた時は、まるで嘘のような気が
眼で、彼は三年の月日の間忘れられなかった隅田川の水が川上の方から渦巻き流れて来るのを見た。
、ソーン、ヴィエンヌ、ガロンヌなぞの河畔から遠く旅情を送った隅田川がもう一度彼の眼前に展けた。あのオステルリッツの石橋の畔からセエヌ河
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ていた。川蒸汽の音の聞えるところへ出ると、新大橋の方角へ流れて行く隅田川の水が見える。その辺は岸本に取って
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た彼は、神田へも行き、牛込へも行った。京橋へも行った。本郷へも行った。どうかして節子の身体が
られるだけ親戚や知人を訪ねたいと思った。芝に。京橋に。日本橋に。牛込に。本郷に。小石川に。あだかも家々の戸を
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岸本はその町について柳橋を渡りやがて両国橋の近くに出た。旅にある日、ソーン、ヴィエンヌ、ガロンヌなぞの河畔