夜明け前 02 第一部下 / 島崎藤村
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関東の方針も無視したような長州藩の大胆な行動は、攘夷を意味するばかりでなく、同時に討幕を意味する
、王室回復の志を抱く公卿たちとその勢力を支持する長州藩とがこんなに京都から退却を余儀なくされ、尊王攘夷を旗じるしとする真木
を抱く公卿たち、および尊攘派の志士たちと気脈を通ずる長州藩が京都より退却を余儀なくされたことを思えば、今日この事のある
これに加えて、先年五月以来の長州藩が攘夷の実行は豊前田の浦におけるアメリカ商船の砲撃を手始めとし
「そんなら見たまえ、長州藩あたりじゃ伊藤俊助だの井上聞多だのという人たちをイギリスへ送ってい
といううわさです。攘夷派の筆頭として知られた長州藩の人たちがそれですもの。」
東山長楽寺に隠れていた品川弥二郎をひそかに訪問し、長州藩が討幕の先駆たる大義をきくことを得たという。これらの志士と
た苦い試練の期間であった。下の関における長州藩が外国船の砲撃なぞもこの間に行なわれた。その代償として、
はなかった。四国連合の艦隊を向こうに回しては、長州藩ですら敵し得なかったのみか、砲台は破壊され、市街は焼かれ、
側がフランスに結ぶことの深ければ深いほど、薩摩藩および長州藩ではイギリスに結んで、ヨーロッパにおける二大強国はいつのまにか
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て、今後もあの尊攘論で十八隻から成る英米仏蘭四国の連合艦隊を向こうに回すようなこの国の難局を押し通せるものかどうか。
懇請して許されなかった条約も、朝廷としては四国の力を合わせた黒船に直面し、幕府としては将軍の職を賭ける
自分らの船は明日の夕刻を待って兵庫を発し、四国から九州海岸を経て、横浜へ帰るであろうと告げ、なおこのことを将軍
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付きの長持、駕籠までそのけわしい峠を引き上げて、やがて一同佐久の高原地に出た。
ていた。その浪士らが信州にはいったと聞き、佐久へ来たと聞くようになると、急を知らせる使いの者がしきりに
人参の栽培は木曾地方をはじめ、伊那、松本辺から、佐久の岩村田、小県の上田、水内の飯山あたりまでさかんに奨励され、それを
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のため長窪まで出陣したが、上田藩も松代藩も小諸藩も出兵しないのを知っては単独で水戸浪士に当たりがたいと言って、
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敦賀に着港し、続いて桑名藩の七百余人、会津藩の千余人、津藩の六百余人、大垣藩の千余人、水戸藩の
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だ。おりからの悪病流行で、あの大名ですら途中の諏訪に三日も逗留を余儀なくせられたくらいのころだ。江戸表から、
うちに二十八人の番士と十九人の砲隊士の一隊が諏訪から到着した。別に二十九人の銃隊士の出張をも見た。大砲
二挺、西洋流十一寸半も来た。その時、諏訪から出張した藩士が樋橋上の砥沢口というところで防戦のことに
を知っては単独で水戸浪士に当たりがたいと言って、諏訪から繰り出す人数と一手になり防戦したい旨、重役をもって、諏訪方へ交渉
伏兵のあることが知れた。左手の山の上にも諏訪への合図の旗を振るものがあらわれた。
「何、諏訪だ?」
して昼食をとる時刻だ。正武隊付きを命ぜられた諏訪の百姓降蔵は片桐から背負って来た具足櫃をそこへおろして休んで
京都と聞いて、諏訪の百姓は言った。
浪士に連れられて人足として西の方へ行った諏訪の百姓も、ぽつぽつ木曾街道を帰って来るようになった。
諏訪の百姓は馬籠本陣をたよって来て、一通の書付を旅の懐から
た際で、自分のところへその書付を持って来た諏訪の百姓の追放と共に、信じがたいほどの多数の浪士処刑のことが彼
それを半蔵が言い出すと、浪士ら最期のことが、諏訪の百姓の口からもれて来た。二月の朔日、二日は敦賀の
下男の佐吉までが水戸浪士のことを聞こうとして、諏訪の百姓の周囲に集まって来た。この本陣に働くものはいずれも前の年十一
清助は諏訪の百姓の方を見て言った。
「さようでございます。諏訪の合戦はなかなか難儀だったそうで、今一手もあったらなにぶん当惑するところだっ
過ぐる日に諏訪の百姓降蔵が置いて行った話も、半蔵にはいろいろと思い合わされた
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に十一宿を引きくるめて中央の位置と見ていい。ただ関東平野の方角へ出るには、鳥居、塩尻、和田、碓氷の四つの峠を
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であったが、追い追いと同勢を増し、長州、肥後、有馬の加勢もあったということである。公儀の陣屋はつぶされ、大和河内
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あった。豊三郎はそれをもって、おりから軍議最中の飯田城へ駆けつけたところ、郡奉行はひそかに彼を別室に招き間道通過に尽力す
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と声をかけながら、寿平次は落合から馬籠への街道を一緒に踏んだ。前には得右衛門と九郎兵衛、後ろ
木曾の西のはずれまではそう遠くない。その間には落合の宿一つしかない。美濃よりするものは落合から十曲峠にかかって
には落合の宿一つしかない。美濃よりするものは落合から十曲峠にかかって、あれから信濃の国境に出られる。各駅の人馬
水戸浪士らは馬籠と落合の両宿に分かれて一泊、中津川昼食で、十一月の二十七日には西
が残った。景蔵と香蔵とがわざわざ名ざしで中津川から落合の稲葉屋まで呼び出され、浪士の一人なる横田東四郎から渋紙包みにした
景蔵、香蔵の二人は落合の宿まで行って、ある町角で一人の若者にあった。稲葉屋の子息
本陣の方にあった勝重も、その年の春からは落合の自宅に帰って、年寄役の見習いを始めるほどの年ごろに達している。
尋ねて見た。この勝重に勧められて、しばらく二人は落合に時を送って行くことにした。その日は二人とも馬籠泊まりのつもり
翌朝、重立った幹部の人たちと見える浪士らが馬籠から落合に集まって、中津川の商人万屋安兵衛と大和屋李助の両人をこの稲葉屋へ
間もなく景蔵らはこの稲葉屋を辞して、落合の宿をも離れた。中山薬師から十曲峠にかかって、新茶屋に出る
師走の五日には中津川や落合へも初雪が来た。その晩に大雪だったという馬籠峠の上では
を上って来る中津川の香蔵にあった。香蔵は落合の勝重をも連れてやって来た。
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和田峠の上には諏訪藩の斥候隊が集まった。藩士菅沼恩右衛門、同じく栗田市兵衛の二人は御取次
が持参した書面を受け取った。その書面は特に幕府から諏訪藩にあてたもので、水戸浪士西下のうわさを伝え、和田峠その他へ早速
このお達しが諏訪藩に届いた翌日には、江戸から表立ったお書付が諸藩へ一斉に伝達せ
も言った。しかし君侯は現に幕府の老中である、その諏訪藩として浪士らをそう放縦にさせて置けないと言うものがあり、
て、軽々しい行動は慎もうという説が出た。そこへ諏訪藩では江戸屋敷からの急使を迎えた。その急使は家中でも重きを成す
へ止宿のはずだという風聞が伝えられるころには、諏訪藩の物頭矢島伝左衛門が九人の従者を引き連れ和田峠御境目の詰方とし
ある。早速、物頭は歓迎の意を表し、及ばずながら諏訪藩では先陣を承るであろうとの意味を松本方の重役に致した。両
混乱を引き起こした。樋橋の山の神の砦で浪士らをくい止める諏訪藩の思し召しではあるけれども、なにしろ相手はこれまで所々で数十度の実戦に
大和町までも焼き払い、浪士らの足だまりをなくして防ぐべき諏訪藩での御相談だなぞと、だれが言い出したともないような風評が
。西への進路を切り開くためにのみ、やむを得ず諏訪藩を敵として悪戦したまでだ。その夜の評定に上ったは、
をめがけて来たでもないものがどうしてそんなに諏訪藩に恐れられ、戦いを好むでもないものがどうしてそんなに高遠藩や
も久しいと言って、嘆息したとも伝えらるる。この諏訪藩の用人は田沼侯を評して言った。浪士らの勢いのさかんな時は
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。ちょうど長州藩からは密使を送って来て、若狭、丹後を経て石見の国に出、長州に来ることを勧めてよこした時だ
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進発」とあるは、行く行く将軍の出馬することもあるべき大坂城への進発をさす。尾張大納言を総督にする長州征討軍の進発をさす。
日には将軍はすでに京都に着き、二十五日には大坂城にはいった。伝うるところによると、前年尾州の御隠居が総督とし
将軍はすでに伏見に移った。大坂城を去る日、扈従の面々が始めて将軍帰東の命をうけた時は皆
山口駿河は大坂にいた。その時は将軍も大坂城を発したあとで、そこにとどまるものはただ老中の松平伯耆と城代牧野越中
またまた思いとどまるやら、将軍家の威信もさんざんに見えて来た。大坂城まで乗り出した幕府方は進むにも進まれず、退くにも退かれず幾度
引き揚げの建言を喜び迎えたとの報知すら伝わって来た。大坂城にあった将軍の遺骸は老中稲葉美濃守らに守護され、順動丸で
をさも本当の事のように言い触らすものもある。いや、大坂城にある幕府方は引っ込みがつかなくなった。不幸な家茂公はその犠牲に
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念なく押し切って充分の談判を願いたいと。同時に、薩摩藩の大久保市蔵からも幕府への建言があって、これは人心の向背にも
こんなに幕府側がフランスに結ぶことの深ければ深いほど、薩摩藩および長州藩ではイギリスに結んで、ヨーロッパにおける二大強国はいつの
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には大坂にも打ちこわしが始まって、それらの徒党は難波から西横堀上町へ回り、天満東から西へ回り、米屋と酒屋と質屋を
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高崎での一戦の後、上州下仁田まで動いたころの水戸浪士はほとんど敵らしい
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逗留、御親征の軍議もあらせられた上で、さらに伊勢神宮へ行幸のことに承った。この大和行幸の洛中へ触れ出されたのを
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諏訪城への注進の御使番は間もなく引き返して来て、いよいよ人数の出張が
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、壬生、四条、錦小路、沢の七卿はすでに難を方広寺に避け、明日は七百余人の長州兵と共に山口方面へ向けて退却
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藩にあてたもので、水戸浪士西下のうわさを伝え、和田峠その他へ早速人数を出張させるようにとしてあった。右の峠
その時、用人の塩原彦七が進み出て、浪士らは必ず和田峠を越して来るに相違ない。峠のうちの樋橋というところは、谷川を
は、諏訪藩の物頭矢島伝左衛門が九人の従者を引き連れ和田峠御境目の詰方として出張した。手明きの若党、鎗持ちの中間
種々な風評は人の口から口へと伝わった。万一和田峠に破れたら、諏訪勢は樋橋村を焼き払うだろう、下諏訪へ退いて宿内をも
隊を頼みにした。来る、来るという田沼勢が和田峠に近づく模様もない。もはや諏訪勢は松本勢と力を合わせ、敵とし
伊那には高遠藩も控えていた。和田峠での合戦の模様は早くも同藩に伝わっていた。松本藩の家老水野
もってのほかだと言われよう。しかし、砥沢口合戦の日にも和田峠に近づかず、諏訪松本両勢の苦戦をも救おうとせず、必ず二十里ずつ
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では四月十七日を期し東照宮二百五十回忌の大法会を日光山に催し、法親王および諸僧正を京都より迎え、江戸にある老中はもとより、寺社
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加納藩や大垣藩との衝突を避け、本曾街道の赤坂、垂井あたりの要処には彦根藩の出兵があると聞いて、あれから
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大小二荷の旅の荷物を引きまとめ、そのうち一つは琉球の莚包みにして、同行の庄屋たちと共に馬荷に付き添いながら板橋経由
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によってほとんど戒厳令の下にある。謹慎を命ぜられた三条、西三条、東久世、壬生、四条、錦小路、沢の七卿はすでに難を方広
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の方は伊那の門人の出資で、今度できたのは甲州の門人の出資です。いずれ、わたしも阿爺と相談して、この上木の費用
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はますます騰貴するばかりで、武州の高麗、入間、榛沢、秩父の諸郡に起こった窮民の暴動はわずかに剣鎗の力で鎮圧された
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へかけては、彼もまだ病床についていて、江戸から京都へ向けて木曾路を通過した長州侯をこの宿場に迎えることも
「今まではお前、参覲交代の諸大名が江戸へ江戸へと向かっていた。それが江戸でなくて、京都の方へ
「今まではお前、参覲交代の諸大名が江戸へ江戸へと向かっていた。それが江戸でなくて、京都の方へ参朝する
諸大名が江戸へ江戸へと向かっていた。それが江戸でなくて、京都の方へ参朝するようになって来たからね。世の中
、わたしに言わせると、九太夫さんたちはどこまでも江戸を主にしていますし、半蔵さまはまた、京都を主にしています
五人の総代を立て、御変革以来の地方の事情を江戸にある道中奉行所につぶさに上申し、東海道方面の例にならって、これはどう
をはじめ、会津藩主松平容保なぞはいずれも西にあり、江戸の留守役を引き受けるものがなければならなかった。例の約束の期日までに
も御隠居と藩主との意見の隔たりは、あだかも京都と江戸との隔たりであった。御隠居の重く用いる成瀬正肥が京都で年々米
イギリスの要求を拒絶せよと唱えた硬派の一団である。江戸の留守役をあずかり外交当局者の位置に立たせられた藩主側は、この意見
月の三日には藩主はこの事を報告するために江戸を出発し、京都までの道中二十日の予定で、板橋方面から木曾街道に
東山道にある木曾十一宿の位置は、江戸と京都のおよそ中央のところにあたる。くわしく言えば、鳥居峠あたりをその実際の
の下にひらけているの相違だ。言うまでもなく、江戸で聞くより数日も早い京都の便りが馬籠に届き、江戸の便りはまた
で聞くより数日も早い京都の便りが馬籠に届き、江戸の便りはまた京都にあるより数日も先に馬籠にいて知ることが
徒士目付の口からもれた言葉で、半蔵は尾州藩主が江戸から上って来た今度の旅の意味を知った。
「さっき、三浦屋の使いが来て、江戸のじょうるり語りが家内六人連れで泊まっていますから、本陣の旦那に
も絶えず心を配っていなければならない京大坂と江戸の関係を考えて見ていた時だ。その月の十二日とかに
見ていた時だ。その月の十二日とかに江戸をたって来たという仙台の家中は、すこしばかりの茶と焼酎を半蔵
た旅の親しみよりか、雨中のつれづれに将軍留守中の江戸話を置いて行った。当時外交主任として知られた老中格の小笠原
、大坂上陸の目的で横浜を出帆するとの風評がもっぱら江戸で行なわれていたという。これはいずれ生麦償金授与の事情を朝廷に
を感知した。近く彼が待ち受けている大坂御番衆の江戸行きとても、いずれこの時局に無関係な旅ではなかろうと想像された。同時
は、定助郷設置の嘆願のために蓬莱屋新七を江戸に送ったばかりで、参覲交代制度の変革以来に起こって来た街道の混雑を
を拝し、お暇乞いの参内をも済まし、大坂から軍艦で江戸に向かったとうわさせらるるころだ。たださえ宿方では大根蒔きがおそくなる
に出かけたが、伊那の人足は容易に動かなかった。江戸行きの家中が荷物という荷物は付き添いの人たち共にこの宿場に逗留
貧しい武家衆や公卿衆の質の悪いものになると、江戸と京都の間を一往復して、すくなくも千両ぐらいの金を強請し
人足の不参が実際にその困難を証拠立てた。多年の江戸の屋敷住居から解放された諸大名が家族もすでに国に帰り、東照宮の
江戸の方の道中奉行所でも木曾十一宿から四、五人の総代まで送った
からもそのために出て行った蓬莱屋新七などを江戸にとどめて置いて、各宿人馬継立ての模様を調査する公役(道中奉行所の
なった。妻籠の庄屋寿平次、年寄役得右衛門の二人は江戸からの公役に付き添いで馬籠までやって来た。ちょうど伊之助は木曾福島出張中で
江戸の公役が出張を見た各宿調査の模様は、やがて一同の話題に上っ
ともかくも江戸に出ている十一宿総代が嘆願の結果を待つことにして、得右衛門
前に置いた。『古史伝』の第二帙だ。江戸の方で、彫板、印刷、製本等の工程を終わって、新たにでき上がっ
江戸の町々では元治元年の六月を迎えた。木曾街道方面よりの入り口と
この庄屋たちは江戸の道中奉行から呼び出されて、いずれも木曾十一宿の総代として来た
は郷里の方をたって来たが、こんなふうに再び江戸を見うる日のあろうとは、彼としても思いがけないことであった
て泊まった木曾の客を忘れずにいた。半蔵が江戸から横須賀在へかけての以前の旅の連れは妻籠本陣の寿平次であっ
そう半蔵も以前の旅には想って見たが、今度江戸へ出て来た時は、そのかみさんが隠居の子供を抱いていた。
、半蔵が平田入門を思い立って来たころだ。彼が江戸に出て、初めて平田鉄胤を知り、その子息さんの延胤をも知っ
江戸へ出る途中、半蔵は以前の旅を思い出して、二人の連れと一緒に追
はない。半蔵が二人の連れのように、これまでたびたび江戸に出たことのある庄屋たちでも、こんな油断のならない道中は初めてだ
呼び出した奉行の意向を言い聞かせた。それには諸大名が江戸への参覲交代をもう一度復活したい徳川現内閣の方針であることを言い聞かせた
参覲交代制度変革の影響は江戸にも深いものがあった。武家六分、町人四分と言われた江戸
があった。武家六分、町人四分と言われた江戸から、諸国大小名の家族がそれぞれ国もとをさして引き揚げて行ったあとの町々
多くは屋敷を去った。急激に多くの消費者を失った江戸は、どれほどの財界の混乱に襲われているやも知れないかのよう
それにしても、政治の中心はすでに江戸を去って、京都の方に移りつつある。いつまでも大江戸の昔の繁華
諸大名が、はたして幕府の言うなりになって、もう一度江戸への道を踏むか、どうかも疑問であった。
にあの街道に続いた。まるで人質も同様にこもり暮らした江戸から手足の鎖を解かれたようにして、歓呼の声を揚げて行っ
それらの御隠居、奥方、若様、女中衆なぞが江戸をにぎわそうとして、もう一度この都会に帰り来る日のあるか、どうかは
江戸に出て数日の間、半蔵は連れの庄屋と共に道中奉行から呼び出さ
に見たり聞いたりして来る町々の話を持ち寄った。江戸にある木曾福島の代官山村氏の屋敷を東片町に訪ねたが、あの辺の
言うのは平助だ。両国から親父橋まで歩いて、当時江戸での最も繁華な場所とされている芳町のごちゃごちゃとした通りをあの
という御思し召しによることだぞ。もう一度諸大名を江戸へお呼び寄せになるにしても、そういう参覲交代の古式を回復するにし
幕府に召し出されて幅をきかせている剣術師なぞは江戸で大変な人気だ。当時、御家人旗本の間の大流行は、黄白な色の
も生前好んで常用したというそんな武張った風俗がまた江戸に回って来た。
「ほんとに、江戸じゃ子供まで武者修行のまねだ。一般の人気がこうなって来たんでしょう
多くの江戸の旅人宿と同じように、十一屋にも風呂場は設けてない。半蔵らは
「なんと言っても、江戸は江戸ですね。」と言い出すのは平助だ。「きょうは屋敷町の
「なんと言っても、江戸は江戸ですね。」と言い出すのは平助だ。「きょうは屋敷町の方で
来るのがわかります。あれは越後者だそうですが、江戸名物の一つでございます。あの声を聞きますと、手前なぞは木曾から
ます。あの声を聞きますと、手前なぞは木曾から初めて江戸へ出てまいりました時分のことをよく思い出します。」と隠居が言う。
て、一服吸い付けながらその話を引き取った。「十一屋さん、江戸もずいぶん不景気のようですね。」
の剣術のけいこですとさ。だんだん聞いて見ますと、江戸にはちょいちょい火事があるんで、まあ息がつけます、仕事にありつけますなんて
「火事があるんで、息がつけるか。江戸は広い。」と平助はくすくすやる。
「いえ、串談でなしに。火事は江戸の花――だれがあんなことを言い出したものですかさ。そのくせ、
があんなことを言い出したものですかさ。そのくせ、江戸の人くらい火事をこわがってるものもありませんがね。この節は夏
わたしも出て来て見て、そう思いました。この江戸を毎日見ていたら、参覲交代を元通りにしたいと考えるのも無理は
知らないものは諧謔半分にそんなことを申しまして、とかく江戸では慶喜公の評判がよくございません……」
江戸の話は尽きなかった。
江戸の旅籠屋は公事宿か商人宿のたぐいで、京坂地方のように銀三匁も
「そう言えば、半蔵さん、江戸にはえらい話がありますよ。わたしは山村様のお屋敷にいる人たち
たそうです。あの話を聞いたら、なんだかわたしは江戸にいるのが恐ろしくなって来ました。こうして宿方の費用で滞在し
あたりを納涼の場所とし、両国を遊覧の起点とする江戸で、柳橋につないである多くの屋形船は今後どうなるだろうなどと言って見せる
も御一緒で、中津川へお帰りの時も手前どもから江戸をお立ちになりましたよ。」
られて、間もなく函館奉行の組頭でさ。今じゃ江戸へお帰りになって、昌平校の頭取から御目付(監察)に出世なすっ
まで行くと風がある。目にある隅田川も彼には江戸の運命と切り離して考えられないようなものだった。どれほどの米穀を貯え
の頽勢を挽回する上からも、またこの深刻な不景気から江戸を救う上からも幕府の急務と考えられて来たにもせよ、繁文縟礼
からの願いの筋も容易にはかどらなかった。半蔵らは江戸の町々に山王社の祭礼の来るころまで待ち、月を越えて将軍が天璋院
方ではこの事のあるのを予期してか、あるいは江戸を見捨てるの意味よりか、先年諸大名の家族が江戸屋敷から解放されて
なめたあとで、講和の談判はどうやら下の関から江戸へ移されたとか、そんな評判がもっぱら人のうわさに上るころである。
兼ねた大きな商家の主人であったころには、川越と江戸の間を川舟でよく往来したという。生来の寡欲と商法の手違いと
」というものを売り出したこともあり、一家をあげて江戸に移り住むようになってからは、夫を助けてこの都会に運命を開拓しよう
年代の末だ。社会は武装してかかっているような江戸の空気の中で、全く抵抗力のない町家の婦人なぞが何を精神の支柱
、しかもかみさんとは一番仲がよくて、気持ちのいいほど江戸の水に洗われたような三味線の師匠もよく訪ねて来る。
通され、薄茶を出されたり、酒を出されたり、江戸の留守居とも思われないような美しい女まで出されて取り持たれると、
て行きたいものもあるかと思って本屋をあさったり、江戸にある平田同門の知人を訪ねたり、時には平田家を訪ねてそこに
江戸はもはや安政年度の江戸ではなかった。文化文政のそれではもとよりなかった
江戸はもはや安政年度の江戸ではなかった。文化文政のそれではもとよりなかった。十年前の江戸
。文化文政のそれではもとよりなかった。十年前の江戸の旅にはまだそれでも、紙、織り物、象牙、玉、金属の類
一切が実に手薄になっている。相変わらずさかんなのは江戸の芝居でも、怪奇なものはますます怪奇に、繊細なものはますます繊細だ
出府のはじめのころには、半蔵はよくそう思った。江戸の見物はこんな流行を舞台の上に見せつけられて、やり切れないような心持ち
な見物ばかりがそこにあるのだろうかと。四月も江戸に滞在して、いろいろな人にも交際して見るうちに、彼はこの
ことも考えずに生きているような人たちばかりが決して江戸の人ではなかった。相生町のかみさんのように、婦人としての教養
「江戸はどうなるでしょう。」
の耳に入れただけでも、十一宿総代として江戸へ呼び出された勤めは果たした。請書は出した。今度は帰りじたくだ。
との利害の衝突も感じられるようなものだが、遠く江戸へ離れて来て見ると、街道筋での奉公には皆同じように熱い
ことを思い出した。彼は郷里の街道のことを考え、江戸を見た目でもう一度あの宿場を見うる日のことを考え、そこに働く人
徳川幕府の頽勢を挽回し、あわせてこの不景気のどん底から江戸を救おうとするような参覲交代の復活は、半蔵らが出発以前にすでに触れ出さ
あらせられ候につき、前々の通り相心得、当地(江戸)へ呼び寄せ候よういたすべき旨、仰せ出さる。
三人の庄屋には、道中奉行から江戸に呼び出され、諸大名通行の難関たる木曾地方の事情を問いただされ、たとい一時的
江戸は、三人の庄屋にとって、もはやぐずぐずしているべきところではなかっ
の空も心にかかって、三人の庄屋がそこそこに江戸を引き揚げようとしたのは、彼らの滞在が六月から十月まで長引い
の庄屋たちとも一緒になっていたが、そのまま江戸をたって行くに忍びなかった。多吉夫婦に別れを告げるつもりで、ひとりで
けれど、連れがありなさるんじゃしかたがない。この次ぎ、江戸へお出かけになるおりもありましたら、ぜひお訪ねください。お宿はいつでも
引き揚げて行ったのは、この水戸地方の戦報がしきりに江戸に届くころであった。
賭してかかるような気性の人たちが、もしその正反対を江戸にある藩主の側にも、郷里なる水戸城の内にも見いだしたとし
の諸大名に命令を下した。三左衛門は兵を率いて江戸を出発し、水戸城に帰って簾中母公貞芳院ならびに公子らを奉じ、その
ではあるが禁を破って水戸を出発した。そして江戸にある藩主を諫めて奸徒の排斥を謀ろうとした。かく一藩が
このお達しが諏訪藩に届いた翌日には、江戸から表立ったお書付が諸藩へ一斉に伝達せられた。武蔵、上野、下野
待ち受けた。彼が贄川や福島の庄屋と共に急いで江戸を立って来たのは十月下旬で、ようやく浪士らの西上が伝えらるる
へ行ってる。景蔵さんと一緒の時は、半蔵さんは江戸に出てる。まあ、きょうは久しぶりで、あの寛斎老人の家に三人机
伊勢地方へ晩年を送りに行った旧師宮川寛斎のうわさ、江戸の方にあった家を挙げて京都に移り住みたい意向であるという師平田
うわさ、枕の上で語り合うこともなかなか尽きない。半蔵は江戸の旅を、景蔵らは京都の方の話まで持ち出して、寝物語に時
を冒してまで、幕府の命令を遵奉して、もう一度江戸への道を踏むか、どうかは、見ものであった。
で帰国を急いだそれらの諸大名の家族がもう一度江戸への道を踏んで、あの不景気のどん底にある都会をにぎわすことなぞは思い
この街道では四月二十七日に美濃苗木の女中方が江戸をさしての通行と、その前日に中津川泊まりで東下する弘前城主津軽侯の
を日光山に催し、法親王および諸僧正を京都より迎え、江戸にある老中はもとより、寺社奉行、大目付、勘定奉行から納戸頭までも参列
は、これにも彼は心を驚かされた。一方は江戸の諸有司から大奥にまで及び、一方は京都守護職から在京の諸藩士に
たのもこの人だ。薩長二藩の京都手入れはやがて江戸への勅使下向となった時、京都方の希望をもいれ、将軍後見職
趨勢をも見る目を持ったこの人は、何事にも江戸を主にするほど偏頗でない。時は慶応元年を迎え、越前の松平春嶽も
浪士らの寛典に処せらるることを奏請した。そこへ江戸から乗り込んで行ったのが田沼玄蕃頭だ。田沼侯は筑波以来の顛末を
。」と半蔵は言った。「いよいよ耕雲斎たちの首級も江戸から水戸へ回されたそうですね。あの城下町を引き回されたそうですね。
その時、半蔵は江戸の方から来た聞書を取り出して、それを継母や妻にひろげて見せた
時、あれは半蔵が木曾下四宿の総代として江戸に出ていたころで、尾州藩では木曾谷中三十三か村の庄屋あてに
の早駕籠が京都方面から急いで来た。そのあとには江戸行きの長持が暮れ合いから夜の五つ時過ぎまでも続いた。
になったのも、それから間もなくであった。江戸から西の沿道諸駅へはすでに一貫目ずつの秣と、百石ずつの糠
に用いたという金扇の馬印はまた高くかかげられた。江戸在府の譜代の諸大名、陸軍奉行、歩兵奉行、騎兵頭、剣術と鎗術と
威信がまだ全く地に墜ちないことを感じたという。江戸の町人で三万両から一万両までの御用金を命ぜられたものが二十人も
新潟の港をも開き、文久二年十二月になって江戸、大坂、兵庫を開くべき約束であった。文久年度の初めになって見る
と、当時の排外熱は非常な高度に達して、なかなか江戸、大坂、兵庫のような肝要な地を開くべくもなかった。時の老中
べくもなかった。時の老中安藤対馬は新潟、兵庫、江戸、大坂の開港延期を外国公使らに提議し、輸入税の減率を報酬と
公使らの書翰を提出した。莫大な費用をかけて江戸から動いた幕府方は、国内の強藩を相手とする前に、より大きな勢力
連合艦隊出動のことが江戸に聞こえると、江戸城の留守をあずかる大老や老中は捨て置くべき場合でないと
人が大坂へ出て行って、将軍にも面謁し、江戸の方にある大老や老中の意向を伝えたころは、当路の諸有司は
仏国公使ロセスと駿河とはすでに江戸の方で幾たびか相往来している間柄である。横須賀造船所の経営に
も将軍においては承諾している、これらはことごとく江戸にある水野和泉守に任すべきゆえ、すみやかに江戸において談判せられよ、
はことごとく江戸にある水野和泉守に任すべきゆえ、すみやかに江戸において談判せられよ、京都の皇帝へは外国事情をよく告げ置くであろう
へ帰るであろうと告げ、なおこのことを将軍に伝え、江戸の水野老中の尽力をも頼むと付け添えた。別れぎわに、ロセスは堅く堅く駿河
滞在するのははなはだ危ない、早速今晩にも去るがいい、江戸の方へ行って閉門謹慎するがいい、あとの事は自分がこの地に
ある。その人こそ軍艦奉行、兼外務取り扱いとして、江戸から駆けつけて来た彼の友人だ。監察の喜多村瑞見だ。駿河は友人
この旅人は旧暦九月の半ばに昼夜兼行で江戸を発つから、十月半ばに近くの木曾路の西のはずれにたどり着くまで、
「そう願いましょう。きょうは一日休ませてもらいましょう。江戸へと思って急いでは来ましたが、ここまで来て見たら、ひどく
て来ている。そこは彦根の城主井伊掃部頭も近江から江戸への往き還りに必ずからだを休め、監察の岩瀬肥後も神奈川条約上奏のために
知らず、ましてその人が閉門謹慎の日を送るために江戸へ行く途中にあるとは夢にも知らなかった。ただ、衰えた徳川の
てさえ、困窮疲労の声は諸国に満ちて来た。江戸の方を見ると、参覲交代廃止以来の深刻な不景気に加えて、将軍進発当時
たとか。どうして天明七年の飢饉のおりに江戸に起こった打ちこわしどころの話ではない。この打ちこわしは前年五月二十八日の
と、米穀の買い占めと、急激な物価の騰貴とが、江戸の窮民をそんなところまで追いつめたのだ。
前年五月に起こった暴動は江戸にのみとどまらない。同じ月の十四日には大坂にも打ちこわしが始まって、
これほど窮迫した社会の空気の中で、幕府が江戸から大坂へ大軍を進めてからすでに一年あまりになる。いったん決心した将軍
して、毛利大膳父子、および三条実美以下の五卿を江戸に護送することを主張してやまなかった。死を決して幕府に当たろうとする
、それには小倉表に碇泊する幕府の軍艦をもって江戸へ還御のことに決するがいい、当節天下の人心は薄い氷を踏むような
遺骸は老中稲葉美濃守らに守護され、順動丸で江戸へ送られたとも言わるる。それらの報知を胸にまとめて見て
いったいなら、こんな願書は江戸の道中奉行へ差し出すべきであった。それを尾州藩の方で引き取って、
も、時の推し移りがあらわれていた。たといこれを江戸へ持ち出して見たところで、家茂公薨去後の混雑の際では採用さ
ない。戦地の方のことも語らない。ただ、もう一度江戸を見うる日のことばかりを語り合って行った。
もむなしい。金扇の馬印を高くかかげて出発して来た江戸の方には、家茂公を失った後の上下のものが袖に絞る涙
で馬籠の宿場へ繰り込んで来た。どうして京都と江戸の間を一往復して少なくとも一年間は寝食いができるというような
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片桐出立の朝を迎えた。先鋒隊のうちにはすでに駒場泊まりで出かけるものもある。
その日の泊まりと定められた駒場へは、平田派の同志のものが集まった。暮田正香と松尾誠(松尾
とは伴野から。増田平八郎と浪合佐源太とは浪合から。駒場には同門の医者山田文郁もある。武田本陣にあてられた駒場の家で
は同門の医者山田文郁もある。武田本陣にあてられた駒場の家で、土地の事情にくわしいこれらの人たちはこの先とも小藩や代官
飯田居住の同門の人たちがそこに集まっていた。駒場の医者山田文郁、浪合の増田平八郎に浪合佐源太なぞの顔も見える。景蔵に
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、参謀宍戸左馬助以下を萩城に斬り、毛利大膳父子も萩の菩提寺天樹院に入って謹慎を表したのであるから、これ以上の追究
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いた。言って見れば、山上一族が住む相州三浦の公郷村からほど遠からぬ横須賀の漁港に、そこに新しいドック修船所が幕府の手に
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、国司、福原三太夫の首級を差し出し、参謀宍戸左馬助以下を萩城に斬り、毛利大膳父子も萩の菩提寺天樹院に入って謹慎を表したの
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に過ぎない。これは東山道方面ばかりでないと見えて、豊川稲荷から秋葉山へかけての参詣を済まして帰村したものの話に、旅人
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にこそ告げなかったが、日に日に切迫して行く関西の形勢が彼を眠らせなかった。彼はそれを田宮如雲のような勤王
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から解放された諸大名が家族もすでに国に帰り、東照宮の覇業も内部から崩れかけて来たかに見えることは、ただそれだけの
みせ、この際――年号までも慶応元年と改めて、大いに東照宮の二百五十年を記念しようとしたのだ。この街道へは尾州家から千五百
もない。もう一度太陽のかがやきを見たいとは、東照宮の覇業を追想するものの願いであったのだ。再度の長州征伐は徳川
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置いて、自分だけは本所相生町の方へ移った。同じ本所に住む平田同門の医者の世話で、その人の懇意にする家の二階
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を去って、京都の方に移りつつある。いつまでも大江戸の昔の繁華を忘れかねているような諸有司が、いったん投げ出した政策を
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盆地の眺望は谷の下の方にひらけている。もはや恵那山の連峰へも一度雪が来て、また溶けて行った。その大きな傾斜の望まれる
元治二年の三月になった。恵那山の谷の雪が溶けはじめた季節を迎えて、山麓にある馬籠の宿場も活気づい
もはや恵那山へは幾たびとなく雪が来た。半蔵が家の西側の廊下からよく望まれる
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月になっても米価はますます騰貴するばかりで、武州の高麗、入間、榛沢、秩父の諸郡に起こった窮民の暴動はわずかに剣鎗の
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。あれは横浜貿易の始まった年でした。あの時は神奈川の牡丹屋へも手前どもから御案内いたしましたっけ。毎度皆さまには
手前が喜多村瑞見というかたのお供をして、一度神奈川の牡丹屋にお訪ねしたことがございました。青山さんは御存じないか
から、すでに足掛け八年になる。この条約によると、神奈川、長崎、函館の三港を開き、新潟の港をも開き、文久二年
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、留守中のことを案じながら王滝から急いで来た。御嶽山麓の禰宜の家から彼がもらい受けて来た里宮参籠記念のお札、それから
の運輸とに向けられ、塩の買〆も行なわれ、御嶽山麓に産する薬種の専売は同藩が財源の一つと数えられた。人参の
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「亀山は亀山、われわれはわれわれですさ。」と景蔵は言う。
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小倉藩より御届け
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ていい。ただ関東平野の方角へ出るには、鳥居、塩尻、和田、碓氷の四つの峠を越えねばならないのに引きかえ、美濃
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半蔵が移って行った相生町の家は、十一屋からもそう遠くない。回向院から東にあたる位置で、
をさして帰って行く平助を送りながら、半蔵は一緒に相生町の家を出た。不自由な旅の身で、半蔵には郷里の方から
帰って来る二人連れの女の子にもあった。その一人は相生町の家の娘だ。清元の師匠のもとからの帰りででもあると見え
「半蔵さん、相生町にはあんな子供があるんですか。」
た時だ。彼は十一屋からそれを受け取って来て、相生町の二階でひらいて見た。
と言って相生町の家の亭主が深川の米問屋へ出かける前に、よく半蔵を見に来る。
相生町ではこの調子だ。
ような人たちばかりが決して江戸の人ではなかった。相生町のかみさんのように、婦人としての教養もろくろく受ける機会のなかった名
つけたこともなくて、せっせと台所に働いているような相生町の家のかみさんには、こんな話もある。彼女の夫がまだ大きな商家の
間もなく相生町の二階で半蔵が送る終の晩も来た。出発の前日には十一屋
橋の上に草鞋の跡をつけて、彼は急いで相生町の家まで行って見た。青い河内木綿の合羽に脚絆をつけたままで
あわただしい中にも、半蔵は相生町の家の人とこんな言葉をかわした。
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、凍った花崗石の間を落ちて来ているのが蘭川だ。木曾川の支流の一つだ。そこに妻籠手前の橋場があり、伊那
蘭川の谷の昔はくわしく知るよしもない。ただしかし、尾張美濃から馬籠峠を経て、
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地勢を言って見るなら、上りは十曲峠、下りは馬籠峠、大雨でも降れば道は河原のようになって、おまけに土は赤土と
へも初雪が来た。その晩に大雪だったという馬籠峠の上では、宿場そのものがすでに冬ごもりだ。南側の雪は溶けても、
番所の屋根から立ちのぼる煙も沢深いところだ。その辺は馬籠峠の裏山つづきで、やがて大きな木曾谷の入り口とも言うべき男垂山の付近へと
。奈良井宿詰めの尾張人足なぞは、毎日のようにおびただしく馬籠峠を通った。伊那助郷が五百人も出た日の後には、須原通しの
危険区域からも脱出し、大津の宿から五十四里も離れた馬籠峠の上までやって来て、心から深いため息のつける場所をその山家に見つけた
落合泊まりで上京する信州小諸城主牧野遠江守の一行をこの馬籠峠の上に迎えたに過ぎない。これは東山道方面ばかりでないと見えて、豊川
八月にはいって、馬籠峠の上へは強い雨が来た。六日から降り出した雨は夜中から雷雨
でもあとからあとからと繰り込んで来る隊伍がある。この馬籠峠の上まで来て昼食の時を送って行く武家衆はほとんど戦争の話をし
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伊那の谷から木曾の西のはずれへ出るには、大平峠を越えるか、梨子野峠を越えるか、いずれにしても奥山の道を
昼すこし過ぎに半蔵らは大平峠の上にある小さな村に着いた。旅するものはもとより、荷をつけて
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、それがようやくしずまったかと思うと、今度は東の筑波山の方に新しい時代の来るのを待ち切れないような第三の烽火が揚がっ
その日から、半蔵は両国橋の往き還りに筑波山を望むようになった。関東の平野の空がなんとなく戦塵におおわれて
会津と薩摩との支持する公武合体派の本拠を覆し、筑波山の方に拠る一派の水戸の志士たちとも東西相呼応して事を挙げようとし
を左右する時を迎えて見ると、天狗連の一派は筑波山の方に立てこもり、田丸稲右衛門を主将に推し、亡き御隠居の御霊代を
「そりゃ、半蔵。老人ばかりなら、最初から筑波山には立てこもるまいよ。」
から桜田事件も起これば、大和五条の事件も起これば、筑波山の事件も起こる。それから長防二州ともなれば、今度は薩長両藩とも
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。二十三日まで湊をささえていた筑波勢は、館山に拠っていた味方の軍勢と合流し、一筋の血路を西に求めるため
率いる筑波勢の残党は湊の戦地から退いて、ほど近き館山に拠る耕雲斎の一隊に合流し、共に西に走るのほかはなかったの
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なかった。そのうちの三百五十三名が前後五日にわたって敦賀郡松原村の刑場で斬られた。耕雲斎ら四人の首級は首桶に納められ
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はもとよりない。とうとう、将軍は伏見から京都へと引き返し、二条城にはいって、慶喜をして種々代奏せしめた。その時、監察の向山
に各国船退帆の報告をもって、兵庫から京都の二条城にたどり着いたころはもはや黄昏時に近い。例の御用部屋に行って老中に面謁
その言葉を瑞見に残して置いて、そこそこに駿河は二条城を出た。彼は大坂からその城に移って来ている知人らに別れ
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は足りない。当時の京都には越前も手を引き、薩摩も沈黙し、ただ長州の活動に任せてあったようであるが、その実
破裂した結果であった。九隻からのイギリス艦隊は薩摩の港に迫ったという。海と陸とでの激しい戦いはすでに戦われ
な主唱者の一人で、しばらく沈黙を守っていた人に薩摩の島津久光もある。この人も本国の方でのイギリス艦隊との激戦に
捕えた。尊攘派の勢力を京都に回復し、会津と薩摩との支持する公武合体派の本拠を覆し、筑波山の方に拠る一派の水戸
慶応元年を迎え、越前の松平春嶽もすでに手を引き、薩摩の島津久光も不平を抱き、公武一和の到底行なわれがたいことを思うものの
ものがそのために十五藩から選ばれた。三人は薩摩から、三人は肥後から、三人は備前から、四人は土佐から、
ばかりでなく、従来会津と共に幕府を助けて来た薩摩が公武一和から討幕へと大きく方向を転換し、薩長の提携はもはや公然の
いよいよ幕府反対の旗色を鮮かにして岩倉公らに結ぶ薩摩があり、一方には気味の悪い沈黙を守って新将軍の背後に控えて
原市之進とは絶えざる暗闘反目を続けていたのも薩摩の大久保一蔵だ。慶喜を家康の再来だとして、その武備を修める形跡
、英国公使パアクスのようなロセスの激しい競争者もある。薩摩は挙兵上京と決して海路から三田尻に着こうというのであり、長州でもそれ
渦巻き始めた。その年の十一月も末になると、薩摩の島津家、長州の毛利家、芸州藩の総督、それに徳山藩の世子
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その子息さんの延胤をも知ったころだ。当時の江戸城にはようやく交易大評定のうわさがあって、長崎の港の方に初めての
連合艦隊出動のことが江戸に聞こえると、江戸城の留守をあずかる大老や老中は捨て置くべき場合でないとして、昼夜兼行で
これらの報知が江戸城へ伝えられた時の人々の驚きはなかったという。ことに天璋院、和宮
た後の上下のものが袖に絞る涙と、ことに江戸城奥向きでの尽きない悲嘆とが、帰東の公儀衆を待っていた。のみ
いたものに筒袖だん袋を着せ舶来の銃を携えさせて江戸城の内外を巡邏せしめるようになったというだけでも、いかに新将軍親政
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打ちこわしは前年五月二十八日の夜から品川宿、芝田町、四谷をはじめ、下町、本所辺を荒らし回り、横浜貿易商の家や米屋やその他富有
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にある高塀の上へも降った。まだそのほかに、八幡宮のお札の降ったところが二か所もある。いずれも奇異の思いに打たれ
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て京都の方に滞在する御隠居を助けていた。伊勢、熱田の両神宮、ならびに摂津海岸の警衛を厳重にして、万一の防禦
しまいたくなかった。ただあの旧師が近く中津川を去って、伊勢の方に晩年を送ろうとしている人であることをうわさするにとどめて
書き添えてあった。同時に、幕府では三河、尾張、伊勢、近江、若狭、飛騨、伊賀、越後に領地のある諸大名にまで別の
「伊勢の方へ行った宮川先生にも、今度の話を聞かせたいね。」
義髄は、伊勢、大和の方から泉州を経めぐり、そこに潜伏中の宮和田胤影を訪い、
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。これは東山道方面ばかりでないと見えて、豊川稲荷から秋葉山へかけての参詣を済まして帰村したものの話に、旅人の往来は
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は、ただそれだけでは足りない。当時の京都には越前も手を引き、薩摩も沈黙し、ただ長州の活動に任せてあったよう
氏にとっては重要なあの政策を捨てるということが越前の松平春嶽から持ち出された時に、幕府の諸有司の中には反対する
たころにあたる。彼はあの馬籠の宿場の方で、越前の女中方や、尾州の若殿に簾中や、紀州の奥方ならびに女中方なぞ
その後の浪士らが美濃を通り過ぎて越前の国まではいったことはわかっていた。しかしそれから先の消息は判然し
らしい。師走の四日か五日ごろにはすでに美濃と越前の国境にあたる蝿帽子峠の険路を越えて行ったという。
生国と名前が断わってあり、右は水戸浪士について越前まで罷り越したものであるが、取り調べの上、子細はないから今度帰国を許す
もなく降蔵が語り出したところによると、美濃から越前へ越えるいくつかの難場のうち、最も浪士一行の困難をきわめたのは国境
二十五、六日のころには一同は加州侯の周旋で越前の敦賀に移った。そこにある三つの寺へ惣人数を割り入れられ、
「どうして、お前は伊那から越前の敦賀まで、そんな供をするようになったのかい。」
にある諸大名で国から出て来るものはほとんどない。越前、尾州、紀州の若殿や奥方をはじめ、肥前、因州なぞの女中方や姫
就いたのもこの人だ。幕府改革の意見を抱いた越前の松平春嶽が説を採用して、まず全国諸大名が参覲交代制度廃止の英断
を主にするほど偏頗でない。時は慶応元年を迎え、越前の松平春嶽もすでに手を引き、薩摩の島津久光も不平を抱き、公武一和
その間には微妙な関係に立つ尾州があり土佐があり越前があり芸州がある、こんな中でやかましい兵庫開港と長州処分とが問題に上ろう
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五人でした。さよう、さよう、まだそのほかに高遠の宮城からも一人ありました。なにしろ、お前さま、昨年の十一月に伊那を出る
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もしその正反対を江戸にある藩主の側にも、郷里なる水戸城の内にも見いだしたとしたら。
を下した。三左衛門は兵を率いて江戸を出発し、水戸城に帰って簾中母公貞芳院ならびに公子らを奉じ、その根拠を堅めた。これ
あったが、尊攘の志には一致していた。水戸城を根拠とする三左衛門らを共同の敵とすることにも一致した。湊
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「平助さん、筑波が見えますよ。」
「あれが筑波ですかね。」
詰めの諸藩の家中や徳川の家の子郎党なぞはどんな心持ちで筑波の方を望みながらこの橋を渡るだろうかとも、そんな話は出なかった。
筑波の騒動以来、関東の平野の空も戦塵におおわれているような時に
たためばかりでもなかったのである。出発の前日、筑波の方の水戸浪士の動静について、確かな筋へ届いたといううわさ
四月以来、筑波の方に集合していた水戸の尊攘派の志士は、九月下旬に
筑波の空に揚がった高い烽火は西の志士らと連絡のないものではなかっ
は西の志士らと連絡のないものではなかった。筑波の勢いが大いに振ったのは、あだかも長州の大兵が京都包囲のまっ最中であっ
派を毛ぎらいし、誠党領袖の一人なる武田耕雲斎と筑波に兵を挙げた志士らとの通謀を疑っていた際であるから、
耕雲斎に隠居慎みを命じ、諸生党の三左衛門らを助けて筑波の暴徒を討たしめるために関東十一藩の諸大名に命令を下した。三左衛門
降るのが千百人の余に上った。稲右衛門の率いる筑波勢の残党は湊の戦地から退いて、ほど近き館山に拠る耕雲斎の一隊に
筑波の脱走者、浮浪の徒というふうに、世間の風評のみを真に受け
生野銀山に破れ、つづいて京都の包囲戦に破れ、さらに筑波の挙兵につまずき、近くは尾州の御隠居を総督にする長州征討軍の進発
の数十人を殺せば桜田前後には数百人になり、筑波の数百人を殺せば数千人になり、しまいには長防西国の数万人
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、主人への取り次ぎを頼むと言い入れた。その書付は、敦賀の町役人から街道筋の問屋にあてたもので、書き出しに信州諏訪飯島村、
口からもれて来た。二月の朔日、二日は敦賀の本正寺で大将方のお調べがあり、四日になって武田伊賀守
いたしまして、すこしからだを悪くしたものですから、しばらく敦賀のお寺に御厄介になってまいりました。まあ、命拾いをしたようなもの
に、わたくしは追放となりましてから患いまして、しばらく敦賀に居残りました。先月十七日以後のこともすこしは存じておりますが、
六日のころには一同は加州侯の周旋で越前の敦賀に移った。そこにある三つの寺へ惣人数を割り入れられ、加州方
「どうして、お前は伊那から越前の敦賀まで、そんな供をするようになったのかい。」
金沢藩の士卒二千余人が一橋中納言の命を奉じてまず敦賀に着港し、続いて桑名藩の七百余人、会津藩の千余人、
は眼中にもないかのように、その足で引き返して敦賀に向かった。正月の二十六日、田沼侯は幕命を金沢藩に伝えて、
半蔵はそれを穿ち過ぎた説だとして、伯耆から敦賀を通って近く帰って来た諏訪頼岳寺の和尚なぞの置いて行った話
もの、負傷するもの、沿道で死亡するものを出して、敦賀まで到着するころには八百二十三人だけしか生き残らなかった。そのうちの三百五十三名が
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に遊ぶ多吉のような人も住んでいた。生まれは川越で、米問屋と酒問屋を兼ねた大きな商家の主人であったころには、川越
酒問屋を兼ねた大きな商家の主人であったころには、川越と江戸の間を川舟でよく往来したという。生来の寡欲と商法の
ある。彼女の夫がまだ大きな商家の若主人として川越の方に暮らしていたころのことだ。当時、お国替えの藩主を迎え
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参内を途中に要撃し、その擾乱にまぎれて鸞輿を叡山に奉ずる計画のあったことも知らねばならないと言ってある。流れ丸
「あれは長州の大兵が京都を包囲する前で、叡山に御輿を奉ずる計画なぞのあった時だと思います。そこへ象山が松代
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て行ったといううわさを残した。公儀より一頭、水戸藩より一頭のお付き添いだなどと評判はとりどりであったが、あとになっ
はなかったが、二人とも小人目付に引き渡された。ちょうど水戸藩では佐幕派の領袖市川三左衛門が得意の時代で、尊攘派征伐のために
呼び、いわゆる奸党は諸生党とも言った。当時の水戸藩にある才能の士で、誠でないものは奸、奸でないものは誠
人、津藩の六百余人、大垣藩の千余人、水戸藩の七百人が着港した。このほかに、間道、海岸、山々の要所
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も不明であると言い、十一隻からのイギリスの軍艦は横浜の港にがんばっていてなかなか退却する模様もないと言う。種々な流言も
必要な行動を取るであろうというような英国水師提督を横浜の方へ控えている時で、この留守役はかなり重い。尾州藩主は水戸
近く千五、六百人の兵をひき連れ、大坂上陸の目的で横浜を出帆するとの風評がもっぱら江戸で行なわれていたという。これは
受けて、「あの人はぐずぐずしてやしません。横浜の商売も生糸の相場が下がると見ると、すぐに見切りをつけて、今度
その前にあらわれたすべてのものに向けられた。かつては横浜在留の外国人にも。井伊大老もしくは安藤老中のような幕府当局の大官にも
「横浜には外国人相手の大遊郭も許可してあるしね。」と香蔵が
半蔵らの旧師宮川寛斎が横浜引き揚げ後にその老後の「隠れ家」を求めた場所も伴野であり、今また
、蘭艦一隻、都合九隻の艦隊が連合して横浜から兵庫に入港したのは、その年の九月十六日のことであっ
を待って兵庫を発し、四国から九州海岸を経て、横浜へ帰るであろうと告げ、なおこのことを将軍に伝え、江戸の水野老中の
軍艦操練所は海軍所と改められ、英仏学伝習所が横浜に開かれたのも、その結果だ。小普請組支配の廃止、火付け盗賊改め
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をよく知ってるからね。せめて半蔵には学ばせたい、青山の家から学問のある庄屋を一人出すのは悪くない、その考えでやらせ
を用意し、部屋部屋を貸し与えるのが本陣としての青山の家業で、それには相応な心づかいがいる。前もって宿割の役人を迎え、
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莫大な軍資を費やして、徳川家の前途はどうなろう。名古屋城のお留守居役で、それを言わないものはない。もはや幕府方もさんざん
容保と桑名の松平定敬とを誅戮するにあることが早く名古屋城に知れ、尾州の御隠居はこの形勢を案じて会桑二藩の引退を
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手兵を率いて、あるものはすでに入京し、あるものは摂津の海岸や西の宮に到着して上国の報を待つという物々しさに満たされ
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いた。この貫目を盗む不正を取り締まるために、板橋、追分、洗馬の三宿に設けられたのがいわゆる御貫目改め所であって、幕府
思い、袴をつけたままの改まった心持ちで、山吹村追分の御仮屋から条山神社の本殿に遷さるるという四大人の御霊代を
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余も離れ、天気のよい日には遠くかすかに近江の伊吹山の望まれる馬籠峠の上までやって来て、いかにあの関東方がホッと息を
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門の付近は最も激戦であった。この方面は会津、桑名の護るところであったからで。皇居の西南には樟の大樹がある。
前年十二月三日のことだ。金沢、小田原、会津、桑名の藩兵がそれにしたがった。そのうちに武田勢が今庄に到着したの
一橋慶喜はこの事を聞いて尾州公を語らい、会津、桑名の両侯をも同道して、伏見にある奉行の館に急いだ。将軍
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た。「わたくし同様のものは、下諏訪の宿から一人、佐久郡の無宿の雲助が一人、和田の宿から一人、松本から一人、それに伊那
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。その時の兵部の言葉に、これから間道を通って山陰道に入り、長州に達することを得たなら、尊攘の大義を暢ぶることも
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たちとわかった。在京する諸大名、および水戸、肥後、加賀、仙台などの家老がいずれもお召に応じ、陣装束で参内した混雑
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「あのお友だちを見てもわかる。中津川の本陣の子息に、新問屋の和泉屋の子息――二人とも本陣や問屋の
の薄暗い空気に包まれていたことは、あの友だちが中津川から思って行ったようなものではないらしい。半蔵はいろいろなことを知っ
「中津川の万屋から届けて来たんですよ。安兵衛さんが京都の方へ商法の
で来てそれを京都に伝え、商用で京都にあった中津川の万屋安兵衛はまたそれを聞書にして伏見屋の伊之助のところへ送ってよこし
春一、北原信質、岩崎長世、原信好か。ホウ、中津川の宮川寛斎もやはり発起人の一人とありますね。」
さんや香蔵さんもどうしていましょう。よくあんなに中津川の家を留守にして置かれると思うと、わたしは驚きます。」
どもへお泊まりくださいましたよ。えゝ、お連れさまは中津川の万屋さんたちで。あれは横浜貿易の始まった年でした。あの時は
を馬につけまして、宰領の衆も御一緒で、中津川へお帰りの時も手前どもから江戸をお立ちになりましたよ。」
半蔵はその手紙で、中津川の友人香蔵がすでに京都にいないことを知った。その手紙をくれた
も、ひとまず長い京都の仮寓を去って、これを機会に中津川の方へ引き揚げようとしていることを知った。
のものもある、清内路の原信好、馬籠の青山半蔵、中津川の浅見景蔵、それから峰谷香蔵なぞは、いずれも水戸の人たちに同情
清内路を経て、馬籠、中津川へ。浪士らの行路はその時変更せらるることに決した。
から東海道に向かうと見せて、その実は清内路より馬籠、中津川に出ると決した時、二十六日馬籠泊まりの触れ書と共にあの旧友が
「それを聞いてわたしも安心しました。馬籠から中津川の方へ無事に浪士を落としてやることですね、福島の旦那様も内々
中津川にて
ある半蔵あてに、二人の友人がこういう意味の手紙を中津川から送ったのは、水戸浪士の通り過ぎてから十七日ほど後にあたる。
美濃の中津川にあって聞けば、幕府の追討総督田沼玄蕃頭の軍は水戸浪士より数
まで追って来たが、浪士らが清内路から、馬籠、中津川を経て西へ向かったと聞き、飯田からその行路を転じた。総督は
いるのはこれほど動揺したあとの飯田で、馬籠から中津川へかけての木曾街道筋には和宮様御降嫁以来の出来事だと言わるる
香蔵は中津川にある問屋の家を出て、同じ町に住む景蔵が住居の門口から声
中津川から木曾の西のはずれまではそう遠くない。その間には落合の宿一
水戸浪士らは馬籠と落合の両宿に分かれて一泊、中津川昼食で、十一月の二十七日には西へ通り過ぎて行った。飯田の方
のことに尽力してからこのかた、清内路に、馬籠に、中津川に、浪士らがそれからそれと縁故をたどって来たのはいずれもこの
なものが残った。景蔵と香蔵とがわざわざ名ざしで中津川から落合の稲葉屋まで呼び出され、浪士の一人なる横田東四郎から渋紙包みに
の人たちと見える浪士らが馬籠から落合に集まって、中津川の商人万屋安兵衛と大和屋李助の両人をこの稲葉屋へ呼び出し、金子二百両
ないが、一同でよく相談して来ると言って、いったん中津川の方へ引き取って行きました。それから、あなた、生糸取引に関係のあっ
ていた。しかしそれから先の消息は判然しない。中津川や落合へ飛脚が持って来る情報によると、十一月二十七日に中津川を
師走の五日には中津川や落合へも初雪が来た。その晩に大雪だったという馬籠峠の上
ずに、石を載せた板屋根までが山家らしいところで、中津川から行った二人の友だちはそこに待ちわび顔な半蔵とも、その家族の人
「中津川の方はいかがでしたか。」
ように枕を並べて、また寝ながら語りつづけた。近く中津川を去って国学者に縁故の深い伊勢地方へ晩年を送りに行った旧師宮川寛斎
村に着いた。旅するものはもとより、荷をつけて中津川と飯田の間を往復する馬方なぞの必ず立ち寄る休み茶屋がそこにある。まず
飯田藩の家老が切腹の事情は、中津川や馬籠から来た庄屋問屋のうかがい知るところではなかった。しかし、半蔵らは
宣長もまた医者であった。半蔵らの旧師宮川寛斎が中津川の医者であったことも偶然ではない。
置き、食邑をわかち与えられている。言って見れば、中津川の庄屋は村方の年貢米だけを木曾福島の山村氏(尾州代官)に納める
。あの時は二日二晩も歩き通しに歩いて、中津川へたどり着くまでは全く生きた心地もありませんでした。浅見君のお留守
の谷の空にはまた雪のちらつく日に、半蔵は中津川の方へ帰って行く景蔵や香蔵と手を分かった。その日まで供
の女中方が江戸をさしての通行と、その前日に中津川泊まりで東下する弘前城主津軽侯の通行とを迎えたのみだ。
に子供を失った半蔵よりもお民の方を案じて、中津川からもらった瓜も新しい仏のために取って置こうとか、本谷というところ
から言っても、馬籠の庄屋としての半蔵には中津川の景蔵や香蔵のような自由がない。どんな姿を変えた探偵が平田
半蔵はどうする。」と吉左衛門があたりを見回した。「中津川までは佐吉に送らせるか。」
、香蔵さんと一緒に名古屋へ行くことになりましょう。中津川まで行って見た様子です。今度は美濃方面の人たちにもあえるだろうと
里ばかりの道を家の方へ引き返した。帰りには中津川で日が暮れて、あれから馬籠の村の入り口まで三里の夜道を歩い
に馬籠の宿場としてはさしあたり適当な道がない。中津川の商人、ことに万屋安兵衛方なぞへはそれを依頼する使者が毎日のよう
。これはお役所からも神明講永代講の積み金からも、中津川の商人からも、あるいは岩村の御用達からも借り入れたもので、その中には
日ほど前あたりから彼は腹具合を悪くして、わざわざ中津川の景蔵と香蔵とが誘いに寄ってくれた日には、寝床の中
の間柄にある景蔵ですら再度の上京を思い立って、近く中津川の家を出ようとしている。
中津川の友人香蔵から半蔵が借り受けた写本の中にも、このことが説いて
半蔵は妻を揺り起こした。彼は自分でもはね起きて、中津川にある友人香蔵のもとまで京都の様子を探りに行こうと思い立った。
に言い付けて下女を起こさせ、囲炉裏の火をたかせ、中津川の方へ出かける前の朝飯のしたくをさせた。
一里塚の方から馬籠をさして十曲峠を上って来る中津川の香蔵にあった。香蔵は落合の勝重をも連れてやって来
「半蔵さん、君は中津川まで行かずに済むし、わたしたちも馬籠まで行かずに済む。この茶屋で話そう
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幕府では三河、尾張、伊勢、近江、若狭、飛騨、伊賀、越後に領地のある諸大名にまで別のお書付を回し、筑波辺の
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てあの辺の街道を押し歩いているかがわかる。追分、軽井沢あたりは長脇差の本場に近いところから、ことに騒がしい。それにしても、
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「当月十日、異国船一艘、上筋より乗り下し、豊前国田野浦部崎の方に寄り沖合いへ碇泊いたし候。こなたより船差し出し相尋ね候
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ばかりである。松坂の本居家からは銅製の鈴。浜松の賀茂家からは四寸九分無銘白鞘の短刀。荷田家からは黄銅製
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書付が諸藩へ一斉に伝達せられた。武蔵、上野、下野、甲斐、信濃の諸国に領地のある諸大名はもとより、相模、遠江、駿河
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関東の方針も無視したような長州藩の大胆な行動は、攘夷を意味する
見た。野尻、三留野の宿役人までが付き添いで、関東御通行中の人馬備えにということであった。なにしろおびただしい混み合いで、伊那
半蔵は両国橋の往き還りに筑波山を望むようになった。関東の平野の空がなんとなく戦塵におおわれて来たことは、それだけ
筑波の騒動以来、関東の平野の空も戦塵におおわれているような時に、ここには一切
の事件を通して、いろいろなことを学んだ。これほど関東から中国へかけての諸藩の態度をまざまざと見せつけられた出来事もない。幕府
対しても実に面目ない次第だ、すみやかに大任を解き関東へ帰駿あって、すこしも未練がましくない衷情を表されるこそしかるべきだと申し上げ
のことなぞはことごとく慶喜へ一任して、すみやかに将軍は関東へ引き揚げるがいい、そしてしばらく天下の変動をみるがいい、それには小倉表
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が京都へ伝わる日のことを想って見た。藩主が名古屋まで到着する日にすら、強い反対派の議論が一藩の内に沸きあがりそうに
、ちょうど京都にはいっていていいころである。藩主が名古屋に無事到着したまでのことはわかっていたが、それから先になる
の小笠原図書頭のような人がある。漠然とした名古屋からの便りは半蔵をも、この街道で彼と共に働いている年寄役
真相もほぼその屋敷へ行ってわかった。確かな書面が名古屋のお留守居からそこに届いていて、長州方の敗北となったこと
。その時、もし参州街道を経由することとなれば名古屋の大藩とも対抗しなければならないこと、のみならず非常に道路の険悪な
の間に呼び集めた。三役所の役人立ち会いの上で、名古屋からの二通の回状を庄屋たちに示し、なおその趣意を徹底させるため
「お民、ひょっとするとおれは急に思い立って、名古屋まで行って来るかもしれないぜ。もし出かけるようだったら、留守を頼むよ
掃除からくたびれて帰ったという父を見ると、半蔵も名古屋行きのことをすぐにそこへ切り出しかねた。
か、わたしはろくろく仕事も手につきません。一つ名古屋まで行って、西の方の様子を突きとめて来たいと思います。どうでしょう
の親類までまいりました、そう言ってわたしが取りつくろいましょう。名古屋までとは言わずに置きましょうわい。」
半蔵が行こうとしている名古屋の方には、京大坂の事情を探るに好都合な種々の手がかりがあった
休息するか宿泊するかの人たちであるばかりでなく、名古屋の家中衆のなかには平田門人らが志を認めている人もすくなくない
名古屋へ向けて半蔵がたつ日の朝には、お民をはじめ下男の佐吉まで暗い
「たぶん、香蔵さんと一緒に名古屋へ行くことになりましょう。中津川まで行って見た様子です。今度は美濃方面
月の末になると、半蔵は名古屋から土岐、大井を経て、二十二里ばかりの道を家の方へ引き返した
寛ぎの間に脚絆を解いた半蔵は、やっぱり名古屋まで行って来てよかったことを妻に語り始めた。そこへ継母のおまん
のおまんも半蔵の話を聞きに来る。この旅には名古屋まで友人の香蔵と同行したこと、美濃尾張方面の知己にもあうこと
公使ロセスなぞも同じ意味の忠告をしたとやらで、名古屋ではもっぱらその評判が行なわれていたことを父に語り聞かせたのであっ
「まあ、名古屋の御留守居あたりじゃ、この成り行きがどうなるかと思って見ているありさま
ともあれ、この名古屋行きは半蔵にとって、いくらかでも彼の目をあけることに役立った
ずじまいではあっても、すくなくも西の空気の通う名古屋まで行って、尾州藩に頭を持ち上げて来ている田中寅三郎、丹羽淳太郎の
そう言って店座敷の方へ行ってからも、彼は名古屋で探って来たことが心にかかって、そのまま眠りにはつけなかった
ては尾州代官山村甚兵衛氏をわずらわし、木曾谷中の不作を名古屋へ訴え、すくなくも御年貢上納の半減をきき入れてもらいたいと考えた。
もやや穏やかになったころは、将軍薨去前後の事情が名古屋方面からも福島方面からも次第に馬籠の会所へ知れて来た。八月
であることがわかって来た。して見ると半蔵が名古屋出府のはじめのころには、将軍はすでに重い病床にあった人だ。名古屋
ましょう。宿勘定の仕訳帳は伊之助さんに頼みますよ。先ごろ名古屋の方へ行った時に、わたしはこの話を持ち出して見ました。尾州
は馬籠と福島の間を往復して、代官山村氏が名古屋表への出馬を促しにも行って来た。この領民の難渋と宿駅の
さが次第に底の方で街道を支配し始めた。名古屋の方面から半蔵のところへ伝わって来る消息によると、なかなか「えいじゃない
するために、十月の末にはすでに病を力めて名古屋から上京したとある。御隠居は実に会桑二侯の舎兄に当たる
の報を待つという物々しさに満たされて来た。名古屋と京都との往来も頻繁になって、薩長土肥等の諸藩と事を京畿
。彼はその声を京都にいる同門の人からも、名古屋にある有志からも、飯田方面の心あるものからも聞きつけた。
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ある。謹慎を命ぜられた三条、西三条、東久世、壬生、四条、錦小路、沢の七卿はすでに難を方広寺に避け、明日は七百余
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も開き、文久二年十二月になって江戸、大坂、兵庫を開くべき約束であった。文久年度の初めになって見ると、当時の
排外熱は非常な高度に達して、なかなか江戸、大坂、兵庫のような肝要な地を開くべくもなかった。時の老中安藤対馬は新潟
を開くべくもなかった。時の老中安藤対馬は新潟、兵庫、江戸、大坂の開港延期を外国公使らに提議し、輸入税の減率を
そこで下の関償金三分の二を免除する代わりに兵庫の先期開港を幕府に迫れと主張する英国の新公使パアクスのような人
艦一隻、都合九隻の艦隊が連合して横浜から兵庫に入港したのは、その年の九月十六日のことであった。
阿部豊後と共に翔鶴丸という船に乗って、兵庫にある英仏米蘭四国公使に面接した。阿部老中はこれくらいのことが大
が、相談相手とすべき人もなく、いたずらに大坂と兵庫の間を往復して各公使を言いなだめていた。彼はまだ京都からの
笑い出した。早速これから大坂へ引き返そう、時間があらば兵庫まで行って見よう、なお、決答の期日を延ばすことはできないまでもなん
こちらを望んで近づいて来た。英国書記官アレキサンドル・シイボルトが兵庫からの使者として催促にやって来たのだ。シイボルトは約束の期日
来る準備をしているところだと告げた。順動丸が兵庫に近づくと、そこにはまた仏国書記官メルメット・カションが日本執政の来港を
にするので、駿河はあわてて公使を押し止め、にわかに兵庫の港を開きがたいこの国の事情を述べ、この勅書は元来天皇から将軍に
をながめながら、自分らの船は明日の夕刻を待って兵庫を発し、四国から九州海岸を経て、横浜へ帰るであろうと告げ、なお
陸へ上がってからの彼は、監察の左京と二人で兵庫の旅籠屋にいて、不安な時を送りつづけた。翌朝も二人で首を
赤松左京と共に各国船退帆の報告をもって、兵庫から京都の二条城にたどり着いたころはもはや黄昏時に近い。例の御用部屋
招き、その前日あたりの京都での風聞によると彼が兵庫で勝手に勅書を変更し専断の応接をしたとのうわさが立ったと語り聞かせ
を破壊して、数百人のものが捕縛された。兵庫では八日から暴動して、同じように米屋なぞを破壊した。前年
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板橋から、巣鴨の立場、本郷森川宿なぞを通り過ぎて、両国の旅籠屋十一屋に旅の草鞋をぬいだ三人の木曾の庄屋がある。
のあろうとは、彼としても思いがけないことであった。両国の十一屋は彼にはすでになじみの旅籠屋である。他の二人の庄屋――福島の
ことにも経験の多い庄屋たちであるが、三人連れだって両国の旅籠屋まで戻って来た時は、互いに街道の推し移りを語り合って、今後の
や」の札の出ているのが目についたと言うのは平助だ。両国から親父橋まで歩いて、当時江戸での最も繁華な場所とされている芳町のご
待った。一行三人のものは思い思いに出歩いた。そして両国の旅籠屋をさして帰って行くたびに、互いに見たり聞いたりして来る町々の
皆さんは町へお出かけになりましても、日暮れまでには両国へお帰りください。なるべく夜分はお出ましにならない方がよろしゅうござ
両国をさして帰って行く途中、平助は連れを顧みて、
両国の旅籠屋に戻ってから、三人は二階で※※をぬいだり、腰につけた印籠を床
道中奉行の意向がわかってから、間もなく半蔵は両国の十一屋を去ることにした。同行の二人の庄屋をそこに残して置いて、自分
両国をさして帰って行く平助を送りながら、半蔵は一緒に相生町の家を出た。不
遠くは水神、近くは首尾の松あたりを納涼の場所とし、両国を遊覧の起点とする江戸で、柳橋につないである多くの屋形船は今後どうな
ように、その百本杭の側に最も急な水勢を見せながら、両国の橋の下へと渦巻き流れて来ていた。
た松平姓と将軍家御諱の一字をも召し上げられた。長防両国への物貨輸送は諸街道を通じてすでに堅く禁ぜられていた。
やがて京都にある友人景蔵からのめずらしい便りが、両国米沢町十一屋あてで、半蔵のもとに届くようになった。あの年上の友人が安
たびに今すこし待て、今すこし待てと言われるばかり。両国十一屋に滞在する平助も、幸兵衛もしびれを切らしてしまった。こんな場合
両国の十一屋まで三人一緒に戻って来た時、半蔵はそれを言い出したが、心中の
た。多吉夫婦に別れを告げるつもりで、ひとりで朝早く両国の旅籠屋を出た。霜だ。まだ人通りも少ない両国橋の上に草鞋の跡をつけて
両国十一屋の方には、幸兵衛、平助の二人がもう草鞋まではいて、半蔵を待ち受
州路に当たっていたのである。木曾の庄屋たちが急いで両国の旅籠屋を引き揚げて行ったのは、この水戸地方の戦報がしきりに江戸に届
それにしても、江戸両国の橋の上から丑寅の方角に遠く望んだ人たちの動きが、わずか一月近くの間
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なくせられたくらいのころだ。江戸表から、大坂、京都は言うに及ばず、日本国じゅうにあの悪性の痲疹が流行して、
ては、彼もまだ病床についていて、江戸から京都へ向けて木曾路を通過した長州侯をこの宿場に迎えることもでき
当時、将軍家茂は京都の方へ行ったぎりいまだに還御のほども不明であると言い、十一
を絞ったり、あらゆる方法で沿道の人民を苦しめるのも、京都から毎年きまりで下って来るその日光例幣使の一行であった。百姓ら
ば、十万石につき一人ずつとか、諸藩の武士が京都の方へ勤めるようになったと聞くが、真実だろうか。」
江戸へと向かっていた。それが江戸でなくて、京都の方へ参朝するようになって来たからね。世の中も変わった。
吉左衛門の心配は、半蔵が親友の二人までも京都の方へ飛び出して行ったことであった。あの中津川本陣の景蔵や、
はそれがよくわかる。なにしろ、あなた、お友だちが二人とも京都の方でしょう。半蔵もたまらなくなったら、いつ家を飛び出して行くかしれ
「そうしようか。京都の方へでも飛び出して行くことだけは、半蔵にも思いとどまってもらうん
と半蔵さまとは、てんで頭が違います。諸大名は京都の方へ朝参するのが本筋だ、そういうことは旧い宿場のものは
も江戸を主にしていますし、半蔵さまはまた、京都を主にしています。九太夫さんたちと半蔵さまとは、てんで頭
あの半蔵のことだから、お友だちのあとを追って、京都の方へでも行きかねない。もしそんな様子が見えたら、清助さんに
を平田門人の中から出したということが、実際に京都の土を踏んで見た友だちの香蔵に強い衝動を与えたことを
のある商人のことだということを知った。友だちが京都へはいると間もなく深い関係を結んだという神祇職の白川資訓
を知った。友だちが世話になったと書いてよこした京都麩屋町の染め物屋伊勢久とは、先輩暮田正香の口からも出た
もので、何よりもまず封を切って読もうとした京都便りだ。はたして彼が想像したように、洛中の風物の薄暗い空気に
なかった。半蔵はその明るい障子のところへ香蔵からの京都便りを持って行って、そこで繰り返し読んで見た。
お民が半蔵に手紙を渡しに来た。京都便りはあっちからもこっちからも半蔵のところへ届いた。
中津川の万屋から届けて来たんですよ。安兵衛さんが京都の方へ商法の用で行った時に、これを預かって来たそう
からして落ち着いている。その便りには、香蔵を京都に迎えたよろこびが述べてあり、かねてうわさのあった石清水行幸の日の
もはやしばらく京都の方に滞在して国事に奔走し平田派の宣伝に努めている友人
ため洛外に鳳輦を進められたという。将軍は病気、京都守護職の松平容保も忌服とあって、名代の横山常徳が当日の供奉
の門前で早速その張り紙は焼き捨てられたという。石清水は京都の町中からおよそ三里ほどの遠さにある。帝にも当日は御
景蔵は書いている。この石清水行幸は帝としても京都の町を離れる最初の時で、それまで大山大川なぞも親しくは叡覧の
待ち受けるような不安が、関東方にあったばかりでなく、京都方にあったと景蔵は書いている。この石清水行幸は帝として
にあてたありのままな事実の報告らしい。景蔵はまた今の京都の空気が実際にいかなるものであるかを半蔵に伝えたいと言って、
書いてよこすことはくわしかった。景蔵には飯田の在から京都に出ている松尾多勢子(平田鉄胤門人)のような近い親戚の人
の末に、自分もしばらく京都に暮らして見て、かえって京都のことが言えなくなったとも書き添えてある。
ともある。景蔵はその手紙の末に、自分もしばらく京都に暮らして見て、かえって京都のことが言えなくなったとも書き添えて
まいと信ずる、攘夷はもはや理屈ではない、しかし今の京都には天下の義士とか、皇大国の忠士とか、自ら忠臣義士と
付和雷同なぞをいさぎよしとしない景蔵ですらこれだ。この京都便りを読んだ半蔵にはいろいろなことが想像された。同じ革新潮流
京都から出た定飛脚の聞書として、来たる五月の十日を
の到来で、江戸守備の任にある尾州藩の当主が京都をさして木曾路を通過することを知ったからで。
京都を初め列藩に前もって布告した攘夷の期日である。京都の友だちからも書いて来たように、イギリスとの衝突も避けがたいか
確答を約束したと言われる期日であり、十日は京都を初め列藩に前もって布告した攘夷の期日である。京都の友だちからも
も、尾州藩の奔走周旋による。尾州の御隠居は京都にあって中国の大藩を代表していたと見ていい。
ような重臣があって、将軍上洛以前から勅命を奉じて京都の方に滞在する御隠居を助けていた。伊勢、熱田の両神宮
たことを忘れてはならない。その中にあって、京都の守護をもって任じ、帝の御親任も厚かった会津が、次第に
を知るには、ただそれだけでは足りない。当時の京都には越前も手を引き、薩摩も沈黙し、ただ長州の活動に任せ
の隔たりであった。御隠居の重く用いる成瀬正肥が京都で年々米二千俵を賞せられたようなこと、また勤王家として
不幸にも御隠居と藩主との意見の隔たりは、あだかも京都と江戸との隔たりであった。御隠居の重く用いる成瀬正肥が京都
は藩主はこの事を報告するために江戸を出発し、京都までの道中二十日の予定で、板橋方面から木曾街道に上った。一行
も早い京都の便りが馬籠に届き、江戸の便りはまた京都にあるより数日も先に馬籠にいて知ることができる。一行の
だ。言うまでもなく、江戸で聞くより数日も早い京都の便りが馬籠に届き、江戸の便りはまた京都にあるより数日も
東山道にある木曾十一宿の位置は、江戸と京都のおよそ中央のところにあたる。くわしく言えば、鳥居峠あたりをその実際の中央
中へ、御隠居の同意を得ることすら危ぶまれるほどの京都へ、はたして藩主が飛び込んで行かれるか、どうかは、それすら実に
そうに思えた。まして熾んな敵愾心で燃えているような京都の空気の中へ、御隠居の同意を得ることすら危ぶまれるほどの京都
をながめながら、しばらくそこに立ち尽くした。藩主入洛の報知が京都へ伝わる日のことを想って見た。藩主が名古屋まで到着する日に
「しかし、お父さん、これが京都へ知れたらどういうことになりましょう。なぜ、そんな償金を払ったかなんて、
無関係な旅ではなかろうと想像された。同時に、京都引き揚げの関東方の混雑が、なんらかの形で、この街道にまで
されたわけでもない。こういう中で、将軍を京都から救い出すために一大示威運動を起こすらしい攘夷反対の小笠原図書頭のような
、九日にもなる。予定の日取りにすれば、ちょうど京都にはいっていていいころである。藩主が名古屋に無事到着したまで
これは京都に届いたものとして、香蔵からわざわざその写しを半蔵のもとに
六月の十日が来て、京都引き揚げの関東方を迎えるころには、この街道は一層混雑した。将軍
「京都の敵をこの宿場へ来て打たれちゃ、たまりませんね。」と
京都から引き揚げる将軍家用の長持が五十棹も木曾街道を下って来るころは、
衆や公卿衆の質の悪いものになると、江戸と京都の間を一往復して、すくなくも千両ぐらいの金を強請し、
ためらっていて、宿方で荷物を預かった礼を述べ、京都の方の大長噺を半蔵や伊之助のところへ置いて行った。
わずか十日ばかりの予定で入洛した関東方が、いかに京都の空気の中でもまれにもまれて来たかがわかる。大津の
まったのは六月二十九日を迎えるころであった。京都引き揚げの葵の紋のついた輿は四十人ずつの人足に護られて
のは、中川宮(青蓮院)、近衛殿、二条殿、および京都守護職松平容保のほかに、会津と薩州の重立った人たちとわかった
――京都の町々は今、会津薩州二藩の兵によってほとんど戒厳令の下に
こういう意味の手紙が京都にある香蔵から半蔵のところに届いた。
らと共に再起の時機をとらえた。討幕派の勢力は京都から退いて、公武合体派がそれにかわった。大和行幸の議はくつがえさ
抱く公卿たちとその勢力を支持する長州藩とがこんなに京都から退却を余儀なくされ、尊王攘夷を旗じるしとする真木和泉守らの
しかし、この京都の形勢を全く凪と見ることは早計であった。九月にはいって
早追で急いで来てそれを京都に伝え、商用で京都にあった中津川の万屋安兵衛はまたそれを聞書にして伏見屋の伊之助の
の家中が大坂から早追で急いで来てそれを京都に伝え、商用で京都にあった中津川の万屋安兵衛はまたそれを聞書に
た。さきには三条河原示威の事件で、昼夜兼行で京都から難をのがれて来た暮田正香のような例もある。今また何
「そう言えば、半蔵さんのお友だちは二人ともまだ京都ですか。」
「そう言えば、半蔵さん、京都の方へ行ってる景蔵さんや香蔵さんもどうしていましょう。よく
「半蔵さんも、京都の方へ行って見る気が起こるんですかね。」
。あんな夢を見るところから思うと、わたしの心は半分京都の方へ行ってるのかもしれません。」
「さあ、この節わたしはよく京都の友だちの夢を見ます。あんな夢を見るところから思うと、わたしの
あの制度を復活するとなると、当時幕府を代表して京都の方に禁裡守衛総督摂海防禦指揮の重職にある慶喜の面目を踏みつぶすに
を注ぎ入れなければだめだとの多数の声に聞いて、京都の方へ返すべき慣例はどしどし廃される、幕府から任命していた皇居
にしても、政治の中心はすでに江戸を去って、京都の方に移りつつある。いつまでも大江戸の昔の繁華を忘れかねて
が下がると見ると、すぐに見切りをつけて、今度は京都の方へ目をつけています。今じゃ上方へどんどん生糸の荷を
の駕籠は毎日幾立となく町へ急いで来て、京都の方は大変だと知らせ、十九日の昼時に大筒鉄砲から移っ
、その前夜にわかに屋敷を出立したという騒ぎだ。京都合戦の真相もほぼその屋敷へ行ってわかった。確かな書面が名古屋の
木曾福島の山村氏が家中衆を訪ねた。そこでは京都まで騒動聞き届け役なるものを仰せ付けられた人があって、その前夜にわかに
にあたる。半蔵は他の二人の庄屋と共に、もっと京都の方の事実を確かめたいつもりで、東片町の屋敷に木曾福島の山村氏
やがて京都にある友人景蔵からのめずらしい便りが、両国米沢町十一屋あてで、半蔵のもと
を通して、あの友人も無事、師鉄胤も無事、京都にある平田同門の人たちのうち下京方面のものは焼け出されたが幸い
たち、および尊攘派の志士たちと気脈を通ずる長州藩が京都より退却を余儀なくされたことを思えば、今日この事のあるの
する長州方の進軍がすでに開始されたとの報知が京都へ伝わった。夜が明けて十九日となると、景蔵は西の蛤
諸藩の志士二十余名を捕えた。尊攘派の勢力を京都に回復し、会津と薩摩との支持する公武合体派の本拠を覆し、
けれども、会津ほど正面の位置には立たなかった。ひたすら京都の守護をもって任ずる会津武士は敵として進んで来る長州勢を
今度の京都の出来事を注意して見るものには、長州藩に気脈を通じてい
、あるいは堂上の公卿に建策しあるいは長州人士を説き今度の京都出兵も多くその人の計画に出たと言わるる彼、この尊攘の鼓吹
ことを知った。その手紙をくれた景蔵も、ひとまず長い京都の仮寓を去って、これを機会に中津川の方へ引き揚げようとしている
半蔵はその手紙で、中津川の友人香蔵がすでに京都にいないことを知った。その手紙をくれた景蔵も、ひとまず長い京都
実は名のみであるとしたそれらの志士たちも京都の一戦を最後にして、それぞれ活動の舞台から去って行った。
筑波の勢いが大いに振ったのは、あだかも長州の大兵が京都包囲のまっ最中であったと言わるる。水長二藩の提携は従来幾たび
が自己の反対党であるのを見、その中には京都より来た公子余四麿の従者や尊攘派の志士なぞのあるのを
が、軍資の供給をさえ惜しまなかったという長州方の京都における敗北が水戸の尊攘派にとっての深い打撃であったこと
ついては、当時いろいろな取りざたがあった。行く先は京都だろうと言うものがあり、長州まで落ち延びるつもりだろうと言うものも多かった。
は常陸下野地方の百姓であった。中にはまた、京都方面から応援に来た志士もまじり、数名の婦人も加わっていた
ことも知らずじまいにこの世を去った御隠居が生前に京都からの勅使を迎えることもできなかったかわりに、今「奉勅」と大書
。荷物を持ち労れたら、ほかの人足に申し付けるから、ぜひ京都まで一緒に行けとも言い聞かせた。別当はこの男の逃亡を気づかって、
京都と聞いて、諏訪の百姓は言った。
。わたしに言わせると、浪士も若いものばかりでしたら、京都まで行こうとしますまい。水戸の城下の方で討死の覚悟をするだろう
に住む景蔵が住居の門口から声をかけた。そこは京都の方から景蔵をたよって来て身を隠したり、しばらく逗留したりし
は旧い友だちであり、平田の門人仲間であり、互いに京都まで出て幾多の政変の渦の中にも立って見た間柄である
です。半蔵さんとわたしと二人の時は、景蔵さんは京都の方へ行ってる。景蔵さんと一緒の時は、半蔵さんは江戸に
なって見ると、天王山における真木和泉の自刃も、京都における佐久間象山の横死も、皆その年の出来事だ。名高い攘夷論者
。のみならず、筑後水天宮の祠官の家に生まれ、京都学習院の徴士にまで補せられ、堂々たる朝臣の列にあった真木和泉が
「そういう景蔵さんの意見は、実際の京都生活から来てる。どうもわたしはそう思う。」
ごくまれな人のことで、大概の幕府の役人は皆京都あたりの攘夷家に輪をかけたような西洋ぎらいであると言わるる。
て来たからである。それにしても、あれほど京都方の反対があったにもかかわらず、江戸幕府が開港を固執して
「いや、京都へ行って帰って来てから、君らの話まで違って来た。
もなかなか尽きない。半蔵は江戸の旅を、景蔵らは京都の方の話まで持ち出して、寝物語に時のたつのも忘れている
宮川寛斎のうわさ、江戸の方にあった家を挙げて京都に移り住みたい意向であるという師平田鉄胤のうわさ、枕の上で
排斥と古神道の復活とを唱えるために、相携えて京都へ向かおうとしているものもある。
知れ渡ったらどんな驚きと同情とをもって迎えられるだろう、第一京都の方にある師鉄胤はどんなに喜ばれるだろう、そんな話でその日
青山君、わたしも今じゃあの松尾家に居候でさ。京都からやって来た時はいろいろお世話さまでした。あの時は二日二
と正香は言った。「あの人は木曾路を通って京都の方へ行ったんでしょう。青山君の家へも休むか泊まるかし
「そりゃ、君、ことしの夏京都へ行って斬られた佐久間象山だって、一面は洋学者さ。」と
西洋鞍か何かで松代から乗り込んで来た時は、京都人は目をそばだてたものでした。」
「わたしは景蔵さんと一緒に京都の方にいた時です。象山も陪臣ではあるが、それが幕府
に、ばっさり殺られてしまいましたよ。いや、はや、京都は恐ろしいところです。わたしが知ってるだけでも、何度形勢が激変した
名士だって、君、九年も戸を出なかったら、京都の事情にも暗くなりますね。あのとおり、上洛して三月もたつ
「あれは長州の大兵が京都を包囲する前で、叡山に御輿を奉ずる計画なぞのあった時だと
出入りするという松尾多勢子から、その子の誠にあてた京都便りも、半蔵にはめずらしかった。
の上洛はかねてうわさのあったことであり、この先輩の京都土産にはかなりの望みをかけた同門の人たちも多かった。
なって、身辺に危険を感じて来た彼はにわかに京都を去ることになり、夜中江州の八幡にたどり着いて西川善六を訪い、
聴許を得、同家の地方用人を命ぜられた。彼が京都にとどまる間、交わりを結んだのは福羽美静、池村邦則、小川一敏、
長世、および高山、河口らの旧友と会見し、それから京都に出て、直ちに白河家に参候し神祇伯資訓卿に謁し祗役の
五条の最初の旗あげに破れ、生野銀山に破れ、つづいて京都の包囲戦に破れ、さらに筑波の挙兵につまずき、近くは尾州の御隠居
。たとえば、水戸の人たちの中には実力をもって京都の実権を握り天子を挾んで天下に号令するというを何か丈夫の
いう。加州からも平服で周旋に来て、浪士らが京都へ嘆願の趣はかなわせるようせいぜい尽力するとの風聞であった。それ
回忌の大法会を日光山に催し、法親王および諸僧正を京都より迎え、江戸にある老中はもとより、寺社奉行、大目付、勘定奉行から
あったという。朝議もそれを容れた。一橋中納言が京都を出発して大津に着陣したのは前年十二月三日のことだ
し鎮撫に向かいたいよしを朝廷に奏請したのも、京都警衛総督の一橋慶喜であったという。朝議もそれを容れた。一橋
、沿道各所に交戦し、追い追い西上するとのうわさがやかましく京都へ伝えられた時、それを自身に関係ある事だとして直ちに江州
、亡き宍戸侯のために冤をそそぐという意味からも京都をさして国を離れて来たことを書き添え、なお、一同が西上の
。一方は江戸の諸有司から大奥にまで及び、一方は京都守護職から在京の諸藩士にまでつながっているそれらの暗闘の奥に
到底行なわれがたいことを思うものの中に立って、とにもかくにも京都の現状を維持しつつあるのは慶喜の熱心と忍耐とで、朝廷とても
の京都手入れはやがて江戸への勅使下向となった時、京都方の希望をもいれ、将軍後見職に就いたのもこの人だ。
に立たせられたのもこの人だ。薩長二藩の京都手入れはやがて江戸への勅使下向となった時、京都方の希望をもい
奏して処置したいとの考えから、その年の正月に京都の東関門に着いた。ところが朝廷では田沼侯の入京お差し止めと
が続きに続いた。時には、三挺の早駕籠が京都方面から急いで来た。そのあとには江戸行きの長持が暮れ合いから
ば、旧冬尾州の御隠居を総督として長州兵が京都包囲の責めを問うた時、長州藩でもその罪に伏し、罪魁
同じ月の二十二、三日には将軍はすでに京都に着き、二十五日には大坂城にはいった。伝うるところによると
帰った。時に大坂へは切迫した形勢を案じ顔な京都守衛の会津藩士が続々と下って来た。駿河らをつかまえて言う
松前伊豆両閣老免職の御沙汰が突然京都から伝えられた。京都伝奏からのその来書によると、叡慮により官位を召し上げられ、かつ国元
て、阿部豊後、松前伊豆両閣老免職の御沙汰が突然京都から伝えられた。京都伝奏からのその来書によると、叡慮により官位
願っていることではもとよりない。とうとう、将軍は伏見から京都へと引き返し、二条城にはいって、慶喜をして種々代奏せしめた
と将軍とは義理ある御兄弟の間柄でもある、必ず京都へ上られて親しく事情を奏聞の後でなければ敬意を欠く、ぜひと
を往復して各公使を言いなだめていた。彼はまだ京都からの決答も聞かず、老中阿部が退職の後はだれが外交の
心配のあまり、監察の赤松左京とも相談の上で、京都へ行って様子をさぐろうとした。
この勅書には外国公使は決して満足しまい、必ず推して京都に上り彼らの目的を貫かずには置くまい、もしそんな場合にで
、騎馬で急いで来る別手組のものにあった。京都からの使者として、松浦という目付役が勅諚を持参したのだ
は順動丸に乗り移った。その時の老中の言葉に、京都からの急命で各国公使へ勅諚の趣を達しにやって来た、
来たのであろう、自分はこれから艦長に言い付けてすぐさま京都に行くであろう、貴下らはよろしく同行するがよいと。
に任すべきゆえ、すみやかに江戸において談判せられよ、京都の皇帝へは外国事情をよく告げ置くであろうとの趣に認めてもらい
なって、各国の船艦が大坂まで動き、淀川をさかのぼって京都に行くようなことが起こったら、人心も動揺する憂いがあった。駿河
夜はすでに八つ時を過ぎた。それから京都に往復して相談なぞをしていると、翌日の間に合わない。一行に
。各国の船が退帆するのを見届けた上で、京都の方へまいることにいたせ。大君さまへも老中一同へもよく申し上げるが
と共に各国船退帆の報告をもって、兵庫から京都の二条城にたどり着いたころはもはや黄昏時に近い。例の御用部屋に
、老中小笠原壱岐は別室へ彼を招き、その前日あたりの京都での風聞によると彼が兵庫で勝手に勅書を変更し専断の応接を
でそれを言った。さらに声を低くして、駿河が京都に滞在するのははなはだ危ない、早速今晩にも去るがいい、江戸の方
京都から大津経由で木曾街道を下って来て、馬籠本陣の前で馬を
階の縁先の位置から街道の空をうかがった。以前、京都からのがれて来た時の暮田正香を隠したこともある土蔵の壁に
たおりに、長州方でも御隠居の捌きに服し、京都包囲の巨魁たる益田、国司、福原三太夫の首級を差し出し、参謀宍戸左馬助以下
かでも彼の目をあけることに役立った。たとい、京都までは行かず、そこに全国の門人らを励ましつつある師鉄胤を
流言が伝わって来た。家茂公の薨去は一橋慶喜が京都と薩長とに心を寄せて常に台慮に反対したのがその
が帰国、犬千代公ならびに家中衆の入国、十四代将軍が京都より還御のおりの諸役人らの通行、のみならず尾張大納言が参府と
。藩論は佐幕と勤王の両途にさまよっている。たとい京都までは行かないまでも、最も手近な尾州藩に地方有志の声を進める
多年世を忍んでいた流浪の境涯を脱し、もう一度京都へとこころざす旅立ちの途中にある。
の谷としてはめずらしい祭典でしょう。行って見ると、京都の五条家からは奉納の翠簾が来てる、平田家からは蔵版書物の
蔵も言って見せる。「松尾さんのお母さん(多勢子)も京都からわざわざ出かけて来ていましたし、まだそのほかに参列した婦人
「暮田さんは京都へお出かけになるんだよ。ゆっくりしていられないんだよ。」
していますかさ。ひょっとすると、わたしより先に京都へ出ているかもしれません。あの師岡も、今度の大赦にあっ
もある。それが二人の足もとにもある。正香はどんな京都の春が自分を待ち受けていてくれるかというふうで、その畠の
「いずれ京都では鉄胤先生もお待ちかねでしょう。」
連坐した平田門人らは今度の大赦に逢って、また京都にある師鉄胤の周囲に集まろうとしている。そういう正香自身も
「ごらんな、景蔵さんもまた近いうちに京都へ出かけるそうだ。あの人もぐずぐずしちゃいられなくなったと見える。」
落合泊まりで馬籠の宿場へ繰り込んで来た。どうして京都と江戸の間を一往復して少なくとも一年間は寝食いができると
半蔵のもとへ届くようになった。彼はその友人の京都便りを読んで、文久元治の間に朝譴をこうむった有栖川宮親王以下四十
暮田正香と前後して京都にはいった景蔵からの便りも次第に半蔵のもとへ届くようになった
幕府内に少なくないばかりでなく、幕府反対の側にある京都の公卿たちおよび薩長の人士もまたこの人の新将軍として政治の
一切の解決を兵力に訴え、慶喜および会津桑名の勢力を京都より一掃して、岩倉公らと連絡を取りながら王室回復の実をあげよう
いずれも承知するところであろう。しかるに非徳の自分が京都にあるためその禍根を醸したとは思わずに、かえって干戈を動かし、
時の慶喜の言葉に、各においても本来自分が京都にあるのは何のためかと思って見るがいい。こう穏やかでない
を待つという物々しさに満たされて来た。名古屋と京都との往来も頻繁になって、薩長土肥等の諸藩と事を京畿に
天下の公議によりこの国の前途を定めようとするものが京都を中心に渦巻き始めた。その年の十一月も末になると、薩摩
万石以上の諸大名はいずれも勅命を奉じて続々京都に集合しつつあると聞くころだ。天下の公議によりこの国の前途
思いがけない新しい声が聞こえて来た。彼はその声を京都にいる同門の人からも、名古屋にある有志からも、飯田方面の心
自分でもはね起きて、中津川にある友人香蔵のもとまで京都の様子を探りに行こうと思い立った。
、幕府はその時に全く終わりを告げた。この消息は京都にある景蔵からの書面に伝えてある。半蔵との連名にあてて書い
「この前、京都から来た手紙には、こんなことが書いてありました。慶喜公が
政変を逆に行ったんでしょうね。あの時はわたしは京都にいて、あの政変にあいましたから、今度のこともほぼ想像が
香蔵と半蔵とは顔を見合わせて、それから京都にある師鉄胤なぞのうわさに移った。勝重は松薪を加えたり、
まあ見ていてくれたまえなんて、そんなことを言って京都へ立って行きましたっけ。こういう日が来るまでには、どのくらい
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て行ったといううわさを残した。公儀より一頭、水戸藩より一頭のお付き添いだなどと評判はとりどりであったが、あと
ている時で、この留守役はかなり重い。尾州藩主は水戸慶篤と共にその守備に当たっていたのだ。
老中格の小笠原図書頭が意見をいれ、同じ留守役の水戸慶篤とも謀って、財政困難な幕府としては血の出るような
の重立った人たちとわかった。在京する諸大名、および水戸、肥後、加賀、仙台などの家老がいずれもお召に応じ、陣装束
と言われるが、往昔家康公が関ヶ原の合戦に用い、水戸の御隠居も生前好んで常用したというそんな武張った風俗がまた江戸
三の烽火が揚がった。尊王攘夷を旗じるしにする一部の水戸の志士はひそかに長州と連絡を執り、四月以来反旗をひるがえしている
と言ったぎり、平助も口をつぐんだ。水戸はどんなに騒いでいるだろうかとも、江戸詰めの諸藩の家中や徳川の
公武合体派の本拠を覆し、筑波山の方に拠る一派の水戸の志士たちとも東西相呼応して事を挙げようとしたそれらの
もなかったのである。出発の前日、筑波の方の水戸浪士の動静について、確かな筋へ届いたといううわさを東片町の
が急いで両国の旅籠屋を引き揚げて行ったのは、この水戸地方の戦報がしきりに江戸に届くころであった。
血路を西に求めるために囲みを突いて出た。この水戸浪士の動きかけた方向は、まさしく上州路から信州路に当たっていた
水戸の佐幕党と戦いを交えた。この湊の戦いは水戸尊攘派の運命を決した。力尽きて幕府方に降るものが続出し
味方の軍勢と合体して、幕府方の援助を得た水戸の佐幕党と戦いを交えた。この湊の戦いは水戸尊攘派の運命
四月以来、筑波の方に集合していた水戸の尊攘派の志士は、九月下旬になって那珂湊に移り、そこに
運動は、西には長州の敗退となり、東には水戸浪士らの悪戦苦闘となった。
湊を出て西に向かった水戸浪士は、石神村を通過して、久慈郡大子村をさして進んだが
た学館の組織はやや鹿児島の私学校に似ている。水戸浪士の運命をたどるには、一応彼らの気質を知らねばならない
てもその中堅を成す人たちであったのだ。名高い水戸の御隠居(烈公)が在世の日、領内の各地に郷校を設けて
。その人数は、すくなくも九百人の余であった。水戸領内の郷校に学んだ子弟が、なんと言ってもその中堅を成す
というよりも、有為な人物を集めた点で、ほとんど水戸志士の最後のものであった。その人数は、すくなくも九百人の余
しまったという。これが九歳にしかならない当時の水戸の子供だ。
帰ったという。これがわずかに十六歳ばかりの当時の水戸の少年だ。
夜のうちに身を匿したという。これが当時の水戸の天狗連だ。
はなかったが、二人とも小人目付に引き渡された。ちょうど水戸藩では佐幕派の領袖市川三左衛門が得意の時代で、尊攘派征伐の
もしその正反対を江戸にある藩主の側にも、郷里なる水戸城の内にも見いだしたとしたら。
水戸人の持つこのたくましい攻撃力は敵としてその前にあらわれたすべてのもの
八月十日に水戸の吉田に着いた。ところが、水戸にある三左衛門はこの鎮撫の使者に随行して来たものの多くが自己
侯)は藩主の目代として、八月十日に水戸の吉田に着いた。ところが、水戸にある三左衛門はこの鎮撫の使者に
して、幽屏の身ではあるが禁を破って水戸を出発した。そして江戸にある藩主を諫めて奸徒の排斥を謀ろう
奉じ、その根拠を堅めた。これを聞いた耕雲斎らは水戸家の存亡が今日にあるとして、幽屏の身ではあるが
を下した。三左衛門は兵を率いて江戸を出発し、水戸城に帰って簾中母公貞芳院ならびに公子らを奉じ、その根拠を堅めた
、尊攘の志を致そうとしていた。かねて幕府は水戸の尊攘派を毛ぎらいし、誠党領袖の一人なる武田耕雲斎と筑波に
呼び、いわゆる奸党は諸生党とも言った。当時の水戸藩にある才能の士で、誠でないものは奸、奸でないもの
ことも知らない不忠の臣と思い込んだのであった。水戸の党派争いはほとんど宗教戦争に似ていて、成敗利害の外にある
裂けてたたかった。当時諸藩に党派争いはあっても、水戸のように惨酷をきわめたところはない。誠党が奸党を見るの
上にも人一倍責任を感ずる位置に立たせられた。この水戸の苦悶は一方に誠党と称する勤王派の人たちを生み、一方に
を受けないものはなかったくらいである。いかんせん、水戸はこの熱意をもって尊王佐幕の一大矛盾につき当たった。あの波瀾の多い
する役目を勤めた。当時における青年で多少なりとも水戸の影響を受けないものはなかったくらいである。いかんせん、水戸は
徳川時代にあってとにもかくにも歴史の精神を樹立したのは水戸であった。彰考館の修史、弘道館の学問は、諸藩の学風を
た諸藩のうちで藩論の分裂しないところとてもなかった。水戸はことにそれが激しかったのだ。『大日本史』の大業を成就し
水戸ほど苦しい抗争を続けた藩もない。それは実に藩論分裂の形で
さえ惜しまなかったという長州方の京都における敗北が水戸の尊攘派にとっての深い打撃であったことは争われない。
あったが、尊攘の志には一致していた。水戸城を根拠とする三左衛門らを共同の敵とすることにも一致した
西の空へと動き始めた水戸浪士の一団については、当時いろいろな取りざたがあった。行く先は
忘れてはならない。九百余人から成る一団のうち、水戸の精鋭をあつめたと言わるる筑波組は三百余名で、他の六百
しかし、これは亡き水戸の御隠居を師父と仰ぐ人たちが、従二位大納言の旗を押し立て
最初から下野国大平山にこもったのも小四郎であった。水戸の家老職を父とする彼もまた、四人の統率者より成る最高幹部
高崎での一戦の後、上州下仁田まで動いたころの水戸浪士はほとんど敵らしい敵を見出さなかった。高崎勢は同所の橋を破壊
部下のものに防禦の準備を命じ、自己の領地内に水戸浪士の素通りを許すまいとした。和田宿を経て下諏訪宿に通ずる
。その書面は特に幕府から諏訪藩にあてたもので、水戸浪士西下のうわさを伝え、和田峠その他へ早速人数を出張させるよう
はじめ多くのものはそれを頼みにした。和田峠に水戸浪士を追いつめ、一方は田沼勢、一方は高島勢で双方から敵を挾撃
成す老臣で、幕府のきびしい命令をもたらして来た。やがて水戸浪士が望月まで到着したとの知らせがあって見ると、大砲十五門
はまず甲州口をふさぐがいいと言った。あるものは水戸の精鋭を相手にすることを考え、はたして千余人からの同勢で押し寄せて
ころだ。高島城に留守居するものだれ一人として水戸浪士の来ることなぞを意にかけるものもなかった。初めて浪士らが上州
次第すみやかに討ち取れと言いつけた。あの湊での合戦以来、水戸の諸生党を応援した参政田沼玄蕃頭は追討総督として浪士ら
、また雨をついて峠の上に引き返して来る。いよいよ水戸浪士がその日の晩に長窪和田両宿へ止宿のはずだという風聞が
藩も小諸藩も出兵しないのを知っては単独で水戸浪士に当たりがたいと言って、諏訪から繰り出す人数と一手になり防戦したい
水戸浪士の西下が伝わると、沿道の住民の間にも非常な混乱を引き起こし
名を知られた元小姓頭取の山国兵部を参謀にする水戸浪士の群れは、未明に和田宿を出発してこの街道を進んで来
伊賀守としての武田耕雲斎を主将に、水戸家の元町奉行田丸稲右衛門を副将に、軍学に精通することにかけて
の手だ。陣中には五十ばかりになる一人の老女も水戸から随いて来ていたが、この人も脇差を帯の間にさし
その人の愛する子か孫かのような水戸人もしくは準水戸人であるからで。幕府のいう賊徒であり、反対党のいう不忠の
行くのは、その人の愛する子か孫かのような水戸人もしくは準水戸人であるからで。幕府のいう賊徒であり、反対党
箱も、傘も、長持も、長棒の駕籠も、すべて水戸烈公を記念するためのものであったからで。たとい御隠居はそこに
を用いることなぞ皆この人の精密な頭脳から出た。水戸家の元側用人で、一方の統率者なる小四郎は騎馬の側に惣金の
「わたしたちは水戸の諸君に同情してまいったんです。実は、あなたがたの立場を
中津川の浅見景蔵、それから峰谷香蔵なぞは、いずれも水戸の人たちに同情を送るであろうと言って見せるのは伴野から来た
の意志の下に、潔く首途に上ったという彼ら水戸浪士は、もはや幕府に用のない人たちだった。前進あるのみだった
を聞いた時であったとも言わるる。「所詮、水戸家もいつまで幕府のきげんを取ってはいられまい」との意志の
及んだという。宍戸侯の悲惨な最期――それが水戸浪士に与えた影響は大きかった。賊名を負う彼らの足が西へ
。それについで死罪に処せられた従臣二十八人、同じく水戸藩士二人、宍戸侯の切腹を聞いて悲憤のあまり自殺した家来数人
起こって来た。諸国の人の注意は尊攘を標榜する水戸人士の行動と、筑波挙兵以来の出来事とに集まっている当時のことで
半蔵は馬籠本陣の方にいて、この水戸浪士を待ち受けた。彼が贄川や福島の庄屋と共に急いで江戸を
見せるのも、一方に討死を覚悟してかかっているこんな水戸浪士のあるからで。
半蔵に言わせると、この水戸浪士がいたるところで、人の心を揺り動かして来るには驚かれるものが
ないことであった。平田門人としての彼が、水戸の最後のものとも言うべき人たちの前に自分を見つける日のこんな
は半蔵の身にしても思いがけないことであった。水戸の学問と言えば、少年時代からの彼が心をひかれたもので
一通の手紙でその事が判然した。それには水戸派尊攘の義挙を聞いて、その軍に身を投じたのであるが
は家の外にも内にもいそがしい時を送った。水戸浪士をこの峠の上の宿場に迎えるばかりにしたくのできたころ、彼
も若いものばかりでしたら、京都まで行こうとしますまい。水戸の城下の方で討死の覚悟をするだろうと思いますね。」
、年寄役伊之助と組頭庄助の二人と共に宿はずれまで水戸の人たちを迎えようとした。
貿易は売国であるとさえ考えるものは、排外熱の高い水戸浪士中に少なくなかったのである。
友人がこういう意味の手紙を中津川から送ったのは、水戸浪士の通り過ぎてから十七日ほど後にあたる。
街道筋には和宮様御降嫁以来の出来事だと言わるる水戸浪士の通過についても、まだ二人は馬籠の半蔵と話し合って見る機会
あって聞けば、幕府の追討総督田沼玄蕃頭の軍は水戸浪士より数日おくれて伊那の谷まで追って来たが、浪士ら
水戸浪士らは馬籠と落合の両宿に分かれて一泊、中津川昼食で、十一
田東四郎は参謀山国兵部や小荷駄掛り亀山嘉治と共に、水戸浪士中にある三人の平田門人でもあったのだ。
水戸浪士の通り過ぎて行ったあとには、実にいろいろなものが残った。
こんな話を伝え聞いた土地のものは、いずれもその水戸武士の態度に打たれた。あれほどの恐怖をまき散らして行ったあとに
勝重の父儀十郎を見ることも、二人としては水戸浪士の通過以来まだそのおりがなかったからで。
は言った。「横浜貿易でうんともうけた安兵衛さんが、水戸浪士の前へ引き出されるなんて。」
「あの安兵衛さんと水戸浪士の応対が見たかった。」と香蔵が言う。
を刺し貫いたという唐土の予譲を想わせるようなはげしい水戸人の気性がその紙の上におどっていた。しかも、二十三、四
この伊那行きはひどく半蔵をもよろこばせた。水戸浪士の通過を最後にして、その年の街道の仕事もどうやら一段落
も茶色な袖無し羽織などを重ねながらちょっと挨拶に来て、水戸浪士のうわさを始める。
特に半蔵のもとに残して置いて行った歌がある。水戸浪士に加わって来た同門の人が飯田や馬籠での述懐だ。
父が席を避けて行った後、半蔵は水戸浪士の幹部の人たちから礼ごころに贈られたものを二人の友だちの
故人になってしまった。その時、三人の話は水戸の人たちのことに落ちて行った。
尊攘は水戸浪士の掲げて来た旗じるしである。景蔵に言わせると、もともと尊王
「どうでしょう、尊攘ということもあの水戸の人たちを最後とするんじゃありますまいか。」
ということを今だにまっ向から振りかざしているのは、水戸ばかりじゃないでしょうか。そこがあの人たちの実に正直なところでも
脅迫がましい態度に余儀なくせられたとのみ言えるだろうか。水戸浪士の尊攘が話題に上ったのを幸いに、半蔵はその不思議さを
。公卿でも、武士でも、驚くほど実際的ですよ。水戸の人たちのように、ああ物事にこだわっていませんよ。」
そこまで行くと、水戸浪士の進んで来た清内路も近い。清内路の関所と言えば、飯田藩
おれもそうくわしいことは知らんぞなし。なんでも、水戸浪士が来た時に、飯田のお侍様が一人と、二、三
日暮れごろに半蔵らは飯田の城下町にはいった。水戸浪士が間道通過のあとをうけてこの地方に田沼侯の追討軍を迎える
とせず、必ず二十里ずつの距離を置いて徐行しながら水戸浪士のあとを追って来たというのも、そういう幕府の追討総督
の修繕を加えたはもってのほかだと言われよう。飯田町が水戸浪士に軍資金三千両の醵出を約したことなぞはなおなおもってのほかだと言わ
水戸浪士の間道通過に尽力しあわせて未曾有の混乱から飯田の町を救おうと
そういうこの先輩は最初水戸の学問からはいったが、暮田正香と相知るようになってから吉川流
は多分に漢意のまじったものだからである。たとえば、水戸の人たちの中には実力をもって京都の実権を握り天子を挾ん
も水戸の旧い影響の働いていることを想い見た。水戸の学問は要するに武家の学問だからである。武家の学問は多分に
前の先輩とも言うべき義髄になんと言っても水戸の旧い影響の働いていることを想い見た。水戸の学問は要するに
水戸浪士に連れられて人足として西の方へ行った諏訪の百姓も
無宿降蔵とまず生国と名前が断わってあり、右は水戸浪士について越前まで罷り越したものであるが、取り調べの上、子細は
百姓の尋ねて来た意味を読んだ。武田耕雲斎以下、水戸浪士処刑のことはすでに彼の耳にはいっていた際で、自分の
「水戸の人たちも、えらいことになったそうだね。」
おまんをはじめ、清助から下男の佐吉までが水戸浪士のことを聞こうとして、諏訪の百姓の周囲に集まって来た
降蔵の話によると、彼は水戸浪士中の幹部のものが三、四人の供を連れ、いずれも平服
この混雑も静まって行くと、水戸浪士事件の顛末がいろいろな形で世上に流布するようになった。これ
甚七郎に率いられる加州の士卒が先陣を承ったものらしい。水戸浪士の一行がこんな大軍の囲みの中にあって、野も山もほとんど
人、津藩の六百余人、大垣藩の千余人、水戸藩の七百人が着港した。このほかに、間道、海岸、山々
の立場の相違はそこにもあらわれている。「所詮、水戸家もいつまで幕府のきげんをとってはいられまい」との反抗心
明日の水戸のなくなってしまったことを意味するからで。水戸は何もかも早かった。諸藩に魁して大義名分を唱えたことも
な子弟の多くが滅ぼし尽くされたことは実に明日の水戸のなくなってしまったことを意味するからで。水戸は何もかも早かっ
る内外の施政に反対した志士はほとんど一掃せられ、水戸領内の郷校に学んだ有為な子弟の多くが滅ぼし尽くされたことは
出したというにとどまらなかった。なぜかなら、幕府の水戸における内外の施政に反対した志士はほとんど一掃せられ、水戸領
ともあれ、水戸浪士の最後にたどり着いた運命は、半蔵らにとってただただ山国兵部や横
の暗闘の奥には奥のあることが、思いがけなくも水戸浪士の事件を通して、それからそれと彼の胸に浮かんで来るよう
半蔵はこの水戸浪士の事件を通して、いろいろなことを学んだ。これほど関東から中国
たことでもないのだ。はたして、幕府方の反目は水戸浪士の処分にもその隠れた鋒先をあらわした。
率いて加州の陣屋に降るの余儀なきに至った。しかし水戸烈公を父とする慶喜は、その実、浪士らを救おうとして陰
慶喜は厳然たる態度をとって容易に水戸浪士を許そうとはしなかった。そのために武田耕雲斎は浪士全軍を率い
それにつき、世間には種々な風評が立った。あるいは水戸浪士はうまくやられたのだ、金沢藩のために欺かれたのだ
加州ほどの大藩の力でどうして水戸浪士の生命を助けることができなかったか。それにつき、世間には
田沼侯に対する世間の非難の声も高い。水戸浪士を敵として戦い負傷までした諏訪藩の用人塩原彦七ですら
千余人の同勢と言われた水戸浪士も、途中で戦死するもの、負傷するもの、沿道で死亡するものを
糸などを巻きながら、日光大法会のうわさをしたり、水戸浪士のうわさをしたりしている。おまんは糸巻きを手にしている
と半蔵は言った。「いよいよ耕雲斎たちの首級も江戸から水戸へ回されたそうですね。あの城下町を引き回されたそうですね。」
、自己にそむくものは討伐し、日光山大法会の余勢と水戸浪士三百五十余人を斬った権幕とで、年号まで慶応元年と改めた東照宮二百五十
続いて来た。慶喜の野心を疑う老中らは、ほとんど水戸の野心を疑う安政当時の紀州慶福擁立者たちに異ならなかった。老中ら
見ると、幕府内の心あるものは決して党争のために水戸を笑えなかった。幕府の老中らはその専断で外人の圧迫を免れようと
て心細いからというばかりでもない。あるいは先年のように水戸浪士を迎えたり、あるいは幕府の注意人物を家にかくして置いたりする半蔵
幕府の親藩でもこのとおりだ。水戸はまず疑われ、一橋は排斥せられ、尾州まで手を引いた。あだかも
「あの水戸浪士が通った時から見ると、隔世の感がありますね。もうあんな
ことなぞおぼつかないと考え、ことに慶喜が懐刀とも言うべき水戸出身の原市之進とは絶えざる暗闘反目を続けていたのも薩摩の
しかし、慶喜も水戸の御隠居の子である。弘道館の碑に尊王の志をのこした
はお札降りの祝いという触れ込みで、過ぐる四年前水戸浪士通行の際の姿にこしらえ、鎧、兜、弓、鎗、すべて軍中
なる。いくら幕府が厳重な処置をしても、最初に水戸の数十人を殺せば桜田前後には数百人になり、筑波の数百人
地名をクリックすると地図が表示されます
「それですか。それは福島行きの荷です。けさはまだ峠の牛が降りて来ません。」
たように、半蔵も家を引き受けた当座は、だれが福島から来て泊まったとか、お材木方を湯舟沢へ御案内したと
尾張領分の村々からは、人足が二千人も出て、福島詰め野尻詰めで殿様を迎えに来ると言いますから、継立てにはそう困り
領するこの大名は御隠居(慶勝)の世嗣にあたる。木曾福島の代官山村氏がこの人の配下にあるばかりでなく、木曾谷一帯の
街道には、毛付け(木曾福島に立つ馬市)から帰って来る百姓、木曾駒をひき連れた博労なぞが笠
ひいて来て、半蔵や伊之助をつかまえて言った。「福島のお役所というものもある。お役人衆の出張を願った例は、これ
よ。あの人は作食米の拝借の用を兼ねて、福島の方へ立って行きましたよ。」
なかった。美濃の大井宿、中津川宿とても同様で、やむなく福島から出張して来た役人には一時の止宿を願うよりほかに半蔵と
やがてこの宿場では福島からの役人とその下役衆の出張を見た。野尻、三留野の宿
から六日もの荷造りの困難が続いたあとだった。福島の役人衆もずっと逗留していて、在郷の村々へ手分けをして
やらで、木曾福島の役所まで出張した。ちょうどその時福島から帰村の途中に、半蔵は西から来る飛脚のうわさを聞いた。屈辱
は伊奈助郷のことやら自分の村方の用事やらで、木曾福島の役所まで出張した。ちょうどその時福島から帰村の途中に、半蔵は
というものを持って、伏見屋伊之助と問屋九郎兵衛の二人が福島から引き取って来た。
九月の二十七日には、木曾谷中宿村の役人が福島山村氏の屋敷へ呼び出された。その屋敷の御鎗下で、年寄と用達
の古学に理解ある人々にすら、この大和五条の乱は福島の旦那様のいわゆる「浪人の乱暴」としか見なされなかったからで。
、大工、杣、木挽等の職業までも記入して至急福島へ差し出せと触れ回した。村々の鉄砲の数から、猟師筒の玉の目方
公役に付き添いで馬籠までやって来た。ちょうど伊之助は木曾福島出張中であったので、半蔵と九郎兵衛とがこの一行を迎えて、やがて
木曾の上四宿からは贄川の庄屋、中三宿からは福島の庄屋で、馬籠から来た半蔵は下四宿の総代としてで
はすでになじみの旅籠屋である。他の二人の庄屋――福島の幸兵衛、贄川の平助、この人たちも半蔵と一緒にひとまずその旅籠屋に
て見ると、あの木曾街道筋の堅めとして聞こえた福島の関所あたりからして、えらいあわて方であった。諸国に頻発する暴動
たりして来る町々の話を持ち寄った。江戸にある木曾福島の代官山村氏の屋敷を東片町に訪ねたが、あの辺の屋敷町も
その時、福島の幸兵衛も庄屋らしい袴の紐を結んでいたが、半分串談の
福島宿庄屋
一応考慮の中に入れて置いていただきたいというのが福島の庄屋の意見であった。
「早速福島の方へそう言ってやりましょう。」
の方の事実を確かめたいつもりで、東片町の屋敷に木曾福島の山村氏が家中衆を訪ねた。そこでは京都まで騒動聞き届け役なる
氏の屋敷には、いろいろな家中衆もいるが、木曾福島の田舎侍とは大違いで、いずれも交際上手な人たちばかり。そういう人
。それとも岡谷辰野から伊那道へと折れるか。木曾福島の関所を破ることは浪士らの本意ではなかった。二十二里余にわたる
にいて、この水戸浪士を待ち受けた。彼が贄川や福島の庄屋と共に急いで江戸を立って来たのは十月下旬で
西は妻籠の大平口へ。もっとも、妻籠の方へは福島の砲術指南役植松菖助が大将で五、六十人の一隊を引き連れながら、伊那
その時は木曾福島の代官山村氏も幕府の命令を受けて、木曾谷の両端へお堅め
「寿平次さん、君の方へは福島から何か沙汰がありましたか。」
「そりゃ、半蔵さん、福島の旦那様だってなるべく浪士には避けて通ってもらいたい腹でいます
中津川の方へ無事に浪士を落としてやることですね、福島の旦那様も内々はそれを望んでいるんですよ。」
違って、隣に妻籠というものを控えていましょう。福島から出張した人たちは大平口を堅める。えらい騒ぎでしたさ。」
「いや、はや、あの時は福島の家中衆も大あわて。」とまた吉左衛門が言って見せた。「あとに
て見れば、中津川の庄屋は村方の年貢米だけを木曾福島の山村氏(尾州代官)に納める義務はあるが、その他の関係に
あれは三月の山桜がようやくほころびる時分でした。わたしは福島の出張先から帰って、そのことを知りました。」
出された献金の件で、ようやくその年の五月に福島へ行って献納の手続きを済まして来たところであった。献金の用途
五月にはいって、半蔵は木曾福島の地方御役所から呼ばれた用向きを済まし、同行した宿方のものと一緒
当時、木曾福島の代官山村氏は各庄屋を鎗の間に呼び集めた。三役所の役人
半蔵が福島の役所へ持参したのは、その年の五月までかかってどうに
「ちょうど、よいお部屋があいております。ただいま主人は福島の方へ出張しておりますが、もう追ッつけ帰って見えるころです
その夕方に、半蔵は木曾福島の役所から呼ばれた用を済まし、野尻泊まりで村へ帰って来た
見ても、それがわかる。平田篤胤没後の門人が、福島の旦那様によろこばれるかよろこばれないかは言わずと知れたことで
尾州の代官とは言っても、木曾街道要害の地たる福島の関所を幕府から預かっている深い縁故から、必ずしも尾州藩と歩調を
領でも土地の事情が違う。木曾谷三十三か村には福島の役人の目が絶えず光っていることを忘れてはならない。山村
だという顔つきである。米不足から普請工事も見合わせ、福島の大工にも帰ってもらい、左官その他の職人に休んでもらったから
者を救わねばならないと考えた。この際、木曾福島からの見分奉行の出張を求め、場合によっては尾州代官山村甚兵衛氏
なったころは、将軍薨去前後の事情が名古屋方面からも福島方面からも次第に馬籠の会所へ知れて来た。八月の二十日
九月を迎えて、かねて村民の待ち受けていた木曾福島からの秋作見分奉行の出張を見、木曾谷中御年貢上納の難渋を訴える
伊之助方も休泊所に当てられ、金兵衛の隠宅までが福島役人衆の宿を命ぜられた。こういう中で、助郷、その他の
間もなく、木曾福島からの役人衆も出張して来て、諸団体休泊の割当ても始まっ
女馬まで狩り出し、それを荷送りの役に当てた。木曾福島から出張している役人衆の中には、宿の方の混雑を心配
には藤の花が咲き出すころに、彼は馬籠と福島の間を往復して、代官山村氏が名古屋表への出馬を促しに
もそれほど人を毛ぎらいしないで済んだから、木曾福島の役人衆でもだれでもつかまえて自分が世話する村方の事情を訴える
「きのう福島から見えた客がありましてね。あの辺は今、お札の降る最中
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授与の事情を朝廷に弁疏するためであろうという。この仙台の家中の話で、半蔵は将軍還御の日ももはやそんなに遠くないこと
月の十二日とかに江戸をたって来たという仙台の家中は、すこしばかりの茶と焼酎を半蔵の家から差し出した旅の
門前を通り過ぎつつある。半蔵はこの長雨にぬれて来た仙台の家中を最近に自分の家に泊めて見て、本陣としても
相談の上で、おりから江戸屋敷へ帰東の途にある仙台の家老(片倉小十郎)が荷物なぞは一時留め置くことに願い、三棹の
ホッと息をついて行ったかがわかる。嫡子を連れた仙台の家老はその日まで旅をためらっていて、宿方で荷物を預かった
わかった。在京する諸大名、および水戸、肥後、加賀、仙台などの家老がいずれもお召に応じ、陣装束で参内した混雑は
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こなたより船差し出し相尋ね候ところアメリカ船にて、江戸表より長崎へ通船のところ天気悪しきため、碇泊いたし、明朝出帆のつもりに候おもむき申し聞け
の江戸城にはようやく交易大評定のうわさがあって、長崎の港の方に初めてのイギリスの船がはいったと聞くも胸をおどら
すでに足掛け八年になる。この条約によると、神奈川、長崎、函館の三港を開き、新潟の港をも開き、文久二年十二
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の中でもまれにもまれて来たかがわかる。大津の宿から五十四里の余も離れ、天気のよい日には遠くかすかに
行動に移り、それを探知した幕府方もようやく伏見、大津の辺を警戒するようになった。守護職松平容保のにわかな参内と
朝議もそれを容れた。一橋中納言が京都を出発して大津に着陣したのは前年十二月三日のことだ。金沢、小田原、
京都から大津経由で木曾街道を下って来て、馬籠本陣の前で馬を停めた
の風物をあとに見て、ようやく危険区域からも脱出し、大津の宿から五十四里も離れた馬籠峠の上までやって来て、心から
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送ったりしたいそがしさをまだ忘れずにいる。昨日は秋田の姫君が峠の上に着いたとか、今日は肥前島原の女中
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て武士庶民の子弟に文武を習わせた学館の組織はやや鹿児島の私学校に似ている。水戸浪士の運命をたどるには、一応彼
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にと仰せ出されたとしてあった。さてまた、甲府からも応援の人数を差し出すよう申しまいるやも知れないから、そのつもりに
なところからそれを諸人に教えながら古学をひろめたという甲府生まれの岩崎長世、この二人についで平田派の先駆をなしたのが
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立ち往生の姿であった。その時の浪士らはすでに加州金沢藩をはじめ、諸藩の大軍が囲みの中にあった。
であったという。十二月の十日ごろには加州金沢藩の士卒二千余人が一橋中納言の命を奉じてまず敦賀に着港し
に着陣したのは前年十二月三日のことだ。金沢、小田原、会津、桑名の藩兵がそれにしたがった。そのうちに武田勢
加州の兵が在陣すると聞き、そこで一書を金沢藩の陣に送って西上の趣意を述べ、諸藩の兵に対して敵意
嘆願書並びに始末書を受け取って退営した。翌日甚七郎は未明に金沢藩の陣所を出発し、馬を駆って江州梅津の本営にいたり、
答えて使者をかえした。すると今度は耕雲斎が単身で金沢藩の陣中へやって来たから、そういうことなら当方から拙者一人推参
が耕雲斎は藤田小四郎以下三名の将士を使者として金沢藩の陣所に遣わし、永原甚七郎に面会を求めさせた。甚七郎は帯刀まで
余、浪士らは食も竭き、力も窮まった。金沢藩ではそれを察し、こんな飢えと寒さとに迫られたものと
。しかし耕雲斎にして見ると、一橋公の先鋒を承る金沢藩を敵として戦うことはその本志でなかった。筑波組の田丸
ものの流れのあったことも彼には想い当たる。最初金沢藩の永原甚七郎から一戦に及ぼうとの返書のあった時、武田耕雲斎
敦賀に向かった。正月の二十六日、田沼侯は幕命を金沢藩に伝えて、押収の武器一切を受け取り、二十八日には武田以下浪士
なぞの置いて行った話の方を信じたかった。いよいよ金沢藩が武器人員の引き渡しを終わった時に、敦賀本勝寺の書院に耕雲斎
が立った。あるいは水戸浪士はうまくやられたのだ、金沢藩のために欺かれたのだ、そんな説までが半蔵の耳に聞こえ
が身に添わなかったほどでありながら、いったん浪士らが金沢藩に降ったと見ると、虎の威を借りて刑戮をほしいままにする
久留米から、一人は因州から、一人は福岡から、一人は金沢から、一人は柳川から、二人は津から、一人は福井から、一人は
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、間道、海岸、山々の要所要所へ出兵したのは福井藩、大野藩、彦根藩、丸山藩であって、その中でも監
金沢から、一人は柳川から、二人は津から、一人は福井から、一人は佐賀から、一人は広島から、五人は桑名から、それ
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な地を開くべくもなかった。時の老中安藤対馬は新潟、兵庫、江戸、大坂の開港延期を外国公使らに提議し、輸入税
によると、神奈川、長崎、函館の三港を開き、新潟の港をも開き、文久二年十二月になって江戸、大坂、兵庫
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津から、一人は福井から、一人は佐賀から、一人は広島から、五人は桑名から、それに七人は会津から。徳川将軍の
わたった。一昨日は井伊、榊原の軍勢が芸州口から広島へ退いたとか、昨日は長州方の奇兵隊が石州口の浜田にあらわれ
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柳川から、二人は津から、一人は福井から、一人は佐賀から、一人は広島から、五人は桑名から、それに七人は会津
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土佐から、二人は久留米から、一人は因州から、一人は福岡から、一人は金沢から、一人は柳川から、二人は津から、一人は
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、正香は条山神社の方からさげて来た神酒の小樽と干菓子一折りとをそこへ取り出した。
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三人暮らしの気の置けない家族が住む。亭主多吉は深川の米問屋へ帳付けに通っているような人で、付近には名のある
と言って相生町の家の亭主が深川の米問屋へ出かける前に、よく半蔵を見に来る。四か月も二階
は苦笑いして、矢立てを腰にすることを忘れずに深川米の積んである方へ出かけて行くような人だ。
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なって見ると、九門はすでに堅く閉ざされ、長州藩は境町御門の警固を止められ、議奏、伝奏、御親征掛り、国事掛りの
の終わりにわたった。長州方は中立売、蛤門、境町の三方面に破れ、およそ二百余の死体をのこしすてて敗走した。
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た。木曾街道方面よりの入り口とも言うべき板橋から、巣鴨の立場、本郷森川宿なぞを通り過ぎて、両国の旅籠屋十一屋に旅の草鞋
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に出さないまでも、船屋形の両辺を障子で囲み、浅草川に暑さを避けに来る大名旗本の多かったころには、水に
それだけでは済まさせない。毎年五月二十八日には浅草川の川開きの例だが、その年の花火には日ごろ出入りする屋敷方
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一緒になり、さらに三人連れだって殺気のあふれた町々を浅草橋の見附から筋違の見附まで歩いて行って見たのは二十三日のこと
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から解放されて国勝手の命令が出たおりに、日比谷にある長州の上屋敷では表奥の諸殿を取り払ったから、打ち壊された
に出た。江戸じゅうの火消し人足が集められて、まず日比谷にある毛利家の上屋敷が破壊された。かねて長州方ではこの事
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たお書付が諸藩へ一斉に伝達せられた。武蔵、上野、下野、甲斐、信濃の諸国に領地のある諸大名はもとより、相模、
の栄誉を残すであろうと言われるのか。これは小栗上野が一時の諧謔でもない。その内心には、もはや時事はいかんとも
外国政府より購い入れた軍艦や汽船の修繕に苦しみ、小栗上野とその知友喜多村瑞見との協力の下に、元治元年あたりからその計画
ているような、その大番頭の一人とも言うべき小栗上野の口から出た言葉である。土蔵付き売屋とは何か。それ
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のため長窪まで出陣したが、上田藩も松代藩も小諸藩も出兵しないのを知っては単独で水戸浪士に当たりがたいと言っ
はまれだ。わずかに野尻泊まり、落合泊まりで上京する信州小諸城主牧野遠江守の一行をこの馬籠峠の上に迎えたに過ぎない。これ
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てる人を護るとほとんど変わりがなかったからで。あの江戸駒込の別邸で永蟄居を免ぜられたことも知らずじまいにこの世を去った
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至邦に会い、相携えて東山長楽寺に隠れていた品川弥二郎をひそかに訪問し、長州藩が討幕の先駆たる大義をきくことを
ではない。この打ちこわしは前年五月二十八日の夜から品川宿、芝田町、四谷をはじめ、下町、本所辺を荒らし回り、横浜貿易商の家
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て充分の談判を願いたいと。同時に、薩摩藩の大久保市蔵からも幕府への建言があって、これは人心の向背にもかかわり
とは絶えざる暗闘反目を続けていたのも薩摩の大久保一蔵だ。慶喜を家康の再来だとして、その武備を修める形跡の
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ような町中であった。早速平助は十一屋のあるところから両国橋を渡って、その家に半蔵を訪ねて来た。
半蔵は長い両国橋の上まで歩いて行った時に言った。
その日から、半蔵は両国橋の往き還りに筑波山を望むようになった。関東の平野の空がなんと
多くの人は両国橋の方角をさして走った。半蔵らが橋の畔まで急いで行って
早く両国の旅籠屋を出た。霜だ。まだ人通りも少ない両国橋の上に草鞋の跡をつけて、彼は急いで相生町の家まで行っ
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が、大川橋(今の吾妻橋)の方からやって来る隅田川の水はあだかも二百何十年の歴史を語るかのように、その百本
日でも、そこまで行くと風がある。目にある隅田川も彼には江戸の運命と切り離して考えられないようなものだった。
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ある。開港か、攘夷か。それは四艘の黒船が浦賀の久里が浜の沖合いにあらわれてから以来の問題である。国の上下
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十一月の十八日には、浪士らは千曲川を渡って望月宿まで動いた。松本藩の人が姿を変えてひそか