千曲川のスケッチ / 島崎藤村
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といえば、初霜を見る。雑木林や平坦な耕地の多い武蔵野へ来る冬、浅々とした感じの好い都会の霜、そういうものを見
私はこの春の遅い山の上を見た眼で、武蔵野の名残を汽車の窓から眺めて来ると、「アア柔かい雨が降るナア」
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上って行く学士も、ある藩の士族だ。校長は、江戸の御家人とかだ。休職の憲兵大尉で、学校の幹事と、漢学の教師
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私は、佐久、小県の高い傾斜から主に谷底の方に下瞰した千曲川をのみ君
それから佐久あたりには殊に消極的な勇気に富んでいる人を見かける。ここには極くノンキ
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まで思いを馳せたりしたものであった。当時わたしは横浜のケリイという店からおもに洋書を求めていたが、その店から送り届けて
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の幹事と、漢学の教師とを兼ねている先生は、小諸藩の人だ。学士なぞは十九歳で戦争に出たこともあるとか。
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を腰に差して麻袋を負ったような人達は、諏訪、松本あたりからこの町へ入込んで来る。旅舎は一時繭買の群で満たさ
が岳の裾から甲州へ下り、甲府へ出、それから諏訪へ廻って、そこで私達を待受けていた理学士、水彩画家B君、
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三峯神社とした盗難除の御札を貼付けた馬小屋や、萩なぞを刈って乾して
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雪国の鬱陶しさよ。汽車は犀川を渡った。あの水を合せてから、千曲川は一層大河の趣を加える
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B君は西洋でこの花のことを聞いて来て、北海道とか浅間山脈とかにあるとは知っていたが、なにしろあまり沢山ある
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青木村というところで、いかに農夫達が労苦するかを見た。彼等の背中
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南風が吹けば浅間山の雪が溶け、西風が吹けば畠の青麦が熟する。これは小使の私に
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その大波を越えて、蓼科の山脈が望まれ、遙かに日本アルプスの遠い山々も見えた。その日は私は千曲川の凄まじい音を立てて流れるの
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場処へ来ていた。谷底はまだ明けきらない。遠い八ヶ岳は灰色に包まれ、その上に紅い雲が棚引いた。次第に山の端も輝い
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十三日の祇園
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も思わずにやって来る人達だ。その中を、軽井沢辺りの客と見えて、珍らしそうに眺めて行く西洋の婦人もあった。
軽井沢の方角から雪の高原を越して次第に小諸へ降りて来た汽車、それ
と梅が咲いていて、碓氷峠を一つ越せば軽井沢はまだ冬景色だ。私はこの春の遅い山の上を見た眼で
降るナア」とそう思わない訳には行かない。でも軽井沢ほど小諸は寒くないので、汽車でここへやって来るに随って、枯々
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土曜日に、私はこの画家を訪ねるつもりで、小諸から田中まで汽車に乗って、それから一里ばかり小県の傾斜を上った。
。駅夫等は集って歌留多の遊びなぞしていた。田中まで行くと、いくらか客を加えたが、その田舎らしい小さな駅は平素より
で麦畠の方へ通う農夫等も寒そうであった。田中の駅を通り過ぎる頃、浅間、黒斑、烏帽子等の一帯の山脈の方を望む
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見たし、依田川という千曲川の支流に随いて和田峠から諏訪の方へも出て見たし、霊泉寺の温泉から梅木峠を
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休茶屋に腰掛けたことが有った。その時、私は善光寺の方へでも行く「お寺さんか」と聞かれて意外の問に
長野では、私も善光寺の大きな建物と、あの内で行われるドラマチックな儀式とを見たばかりだし
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「伊勢でござります」
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の地方を探るのを楽みとした。私は岩村田から香坂へ抜け、内山峠を越して上州の方へも下りて見たし、依田
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小諸から岩村田町へ出ると、あれから南に続く甲州街道は割合に平坦な、広々とした
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傾斜に添うて赤坂(小諸町の一部)の家つづきの見えるところへ出た。
そういう日のある午後、私は小諸の町裏にある赤坂の田圃中へ出た。その辺は勾配のついた岡つづきで、田と
Oの家は小諸の赤坂という町にある。途中で同僚の老理学士と一緒に成って、水彩
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ものも少い。八つが岳山脈の南の裾に住む山梨の農夫ばかりは、冬季の秣に乏しいので、遠く爰まで馬を引いて
時は農夫の男女が秣を満載した馬を引いて山梨の方へ帰って行くのに逢った。彼等は弁当を食いながら歩いて
間に秣を刈集めなければ成らない。朝暗いうちに山梨を出ても、休んで弁当を食っている暇が無いという。馬を
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小諸の小学を卒えて、師範校の講習を受ける為に飯山まで行くという。汽車の窓から親達の住む方を眺めて、眼を
鳴声も聞える。人家の煙も立ちこめている。それが旧い飯山の城下だ。
のが、これから越後へかけての雪の量だ。飯山へ来て見ると、全く雪に埋もれた町だ。あるいは雪の中から掘出さ
飯山で手拭が愛のしるしに用いられるという話を聞いた。縁を切ると
聞き、同行した娘達を残して置いて翌朝私は飯山を発った。舟橋を渡って、対岸から町の方に城山なぞを望み、
に成って、冷く、足の指も萎れた。親切な飯山の宿で、爪掛を貰って、それを私は草鞋の先に掛けて穿て
以前私が飯山からの帰りがけに――雪の道を橇で帰ったとは反対の側に
戯うような調子で言った。この内儀の話は、飯山から長野あたりへかけての「お寺さん」の生活の一面を語るものだ
で、実際どういう人があるのか、精しくは知らない。飯山の方では私は何となく高い心を持った一人の老僧に逢って
途中で客死した。この学士の記念の絵葉書が、沢山飯山の寺に遺っていたが、熱帯地方の旅の苦みを書きつけてあった
ということは、偶然でない。私はその老僧から、飯山の古い城主の中には若くて政治的生涯を離れ、僧侶の服を纏い、
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熱い雨が落ちて来た。雷の音も聞えた。浅間は麓まで隠れて、灰色に煙るように見えた。いくつかの雲の群
浅間の方から落ちて来る細流は竹藪のところで二つに別れて、一つ
楼上から遠く浅間一帯の山々を望んだ。浅間の見えない日は心細い、などと校長の細君は話していた。
浅間の山麓にあるこの町々は眠から覚めた時だ。朝餐の煙は何と
この節、浅間は日によって八回も煙を噴くことがある。
て見るとか、空を仰ぐとかする時は、きっと浅間の方に非常に大きな煙の団が望まれる。そういう時だけ火山の麓
浅間は大きな爆発の為に崩されたような山で、今いう牙歯山が
の鍛冶場の側を裏口へ通り抜け、体操の教師と一緒に浅間の山腹を指して出掛けた。
に晴れて行った。そこいらは明るく成って来た。浅間の山の裾もすこし顕れて来た。早く行く雲なぞが眼に入る。
辰さんの父親は、女穂、男穂のことから、浅間の裾で砂地だから稲も良いのは作れないこと、小麦畠へ来る鳥
の暮れないうちにと、岡つづきの細道を辿って、浅間の方をさして上った。ある松林に行き着く頃は、夕月が銀色に光っ
中にある一筋の細道――それを分けて上ると、浅間の山々が暗い紫色に見えるばかり、松葉の落ち敷いた土を踏んで行って
想像することが出来たろうと思う。私は君の心を浅間の山腹へ連れて行って、あそこから見渡した千曲川の話もしたし
等も寒そうであった。田中の駅を通り過ぎる頃、浅間、黒斑、烏帽子等の一帯の山脈の方を望むと空は一面に灰色で
を望んだ朝から、あの白雪の残った遠い山々――浅間、牙歯のような山続き、陰影の多い谷々、古い崩壊の跡、それ
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た。最早稲田も灰色、野も暗い灰色に包まれ、八幡の杜のこんもりとした欅の梢も暗い茶褐色に隠れて了った。
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白樺の幹に朝日の映るさまなぞを眺めながら、私達は板橋村という方へ進んで行った。この高原の広さは五里四方もある
臭気は紛として、鼻を衝くのでした……板橋村を離れて、旅人の群にも逢いました。
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ている。私は本町の裏手から停車場と共に開けた相生町の道路を横ぎり、古い士族屋敷の残った袋町を通りぬけて、田圃側の細道
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出来た。この修学旅行には、八つが岳の裾から甲州へ下り、甲府へ出、それから諏訪へ廻って、そこで私達を待受けて
としたところもあって、そこまで行くと何となく甲州に近づいた気がする。山を越して入込んで来るという甲州商人の往来
頃は、影が山から山へ映しておりました。甲州に跨る山脈の色は幾度変ったか知れません。今、紫がかった黄
の跡ででもあって、往昔海の口の城主が甲州の武士と戦って、戦死したと言伝えられる場所もある。
溶けるような味のするもあった。間もなく私達は甲州の方に向いた八つが岳の側面が望まれるところへ出た。私達
と学生は互に呼びかわして、そこから高い峻しい坂道を甲州の方へ下りた。
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昼の弁当を食った後、四五人の学生と一緒に懐古園へ行って見た。荒廃した、高い石垣の間は、新緑で埋れ
ない。梅も桜も李も殆んど同時に開く。城址の懐古園には二十五日に祭があるが、その頃が花の盛りだ。する
その日は、校長はじめ、他の同僚も懐古園の方へ弓をひきに出掛けた。あの緑蔭には、同志の者が
もあれば、姉と二人ぎり城門の傍に住んで、懐古園の方へ水を運んだり、役場の手伝いをしたりしている人も
見ると、降った、降った、とそう思う。私は懐古園の松に掛った雪が、時々崩れ落ちる度に、濛々とした白い烟
の長いのに苦むとか。私は学校の往還に、懐古園の踏切を通るが、あの見張番所のところには、ポイント・メンが独り
行っても花の香気に満ち溢れていないところは無い。懐古園の城址へでも生徒を連れて行って見ると、短いながらに深い春
、白馬会の展覧会に出した「朝」の図なぞも懐古園附近の松林を描いたもののように覚えている。わたしは同君に頼ん
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、蓬、それから短い楊などの多い石の間で、長野から来ている師範校の学生と一緒に成た。A、A、W
たが、今でも私の眼についているのは長野の方から知事に随いて来た背の高い参事官だ。白いしなやかな手
「越後路から長野の方へ出まして、諸方を廻って参りました。これから寒くなり
の窓から田中、上田、坂木などの駅々を通り過ぎて、長野まで行った。そこにある測候所を見たいと思ったのがこの小さな旅
夜とその翌日を、私は長野の方で送った。長野測候所に技手を勤むる人から私は招きの手紙を受けて、未知
クリスマスの夜とその翌日を、私は長野の方で送った。長野測候所に技手を勤むる人から私は招き
楽みを想像しながら、クリスマスのあるという日の暮方に長野へ入った。例の測候所の技手の家を訪ねると、主人はまだ若い
長野測候所
翌朝、私は親切な技手に伴われて、長野測候所のある岡の上に登った。
楼階を昇り、観測台の上へ出た。朝の長野の町の一部がそこから見渡される。向うに連なる山の裾には、
ような調子で言った。この内儀の話は、飯山から長野あたりへかけての「お寺さん」の生活の一面を語るものだ。
長野では、私も善光寺の大きな建物と、あの内で行われるドラマチックな儀式
は、多く国に居て身を立てることを考える。毎年長野の師範学校で募集する生徒の数に比べて、それに応じようとする青年の
ない。新聞記者までも「先生」として立てられる。長野あたりから新聞記者を聘して講演を聴くなぞはここらでは珍しくない。
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修学旅行には、八つが岳の裾から甲州へ下り、甲府へ出、それから諏訪へ廻って、そこで私達を待受けていた理学
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学校の生徒でOという青年が亡くなった。曾て私が仙台の学校に一年ばかり教師をしていた頃――私はまだ二十五
。わたしたちの旧い「文学界」、あの同人の仕事もわたしが仙台から東京の方へ引き返す頃にはすでに終りを告げたが、五年ばかり
なることが出来れば、旧いものは既に毀れている。これが仙台以来のわたしの信条であった。来るべき時代のために支度するという
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一夏は君独りで来られた。この書の中にある小諸城址の附近、中棚温泉、浅間一帯の傾斜の地なぞは君の記憶に
の初旅であったと覚えている。私は信州の小諸で家を持つように成ってから、二夏ほどあの山の上で妻
種々なことを学んだ。田舎教師としての私は小諸義塾で町の商人や旧士族やそれから百姓の子弟を教えるのが勤め
君や私の生活のさまを変えた。しかし七年間の小諸生活は私に取って一生忘れることの出来ないものだ。今でも私
私は今、小諸の城址に近いところの学校で、君の同年位な学生を教えている
。平原、小原、山浦、大久保、西原、滋野、その他小諸附近に散在する村落から、一里も二里もあるところを歩いて通っ
私の教えている生徒は小諸町の青年ばかりでは無い。平原、小原、山浦、大久保、西原、滋野
そこには生々とした樹蔭が多いから。それに、小諸からその村へ通う畠の間の平かな道も好きだ。
晩の乳を配達する用意が出来た。Sの兄は小諸を指して出掛けた。
ている。B君は製作の余暇に、毎週根津村から小諸まで通って来る。
土曜日に、私はこの画家を訪ねるつもりで、小諸から田中まで汽車に乗って、それから一里ばかり小県の傾斜を上っ
小諸はこの傾斜に添うて、北国街道の両側に細長く発達した町だ。
を迎えたばかりであったが、行く行くは新時代の小諸を形造る壮年の一人として、土地のものに望を嘱されて
の幹事と、漢学の教師とを兼ねている先生は、小諸藩の人だ。学士なぞは十九歳で戦争に出たこともあると
小諸へ来て隠れた学士に取って、この緑蔭は更に奥の方の隠れ家
裏へ移ると直ぐその組合に入れられた。一体、この小諸の町には、平地というものが無い。すこし雨でも降ると、
有るだろう。田舎の神経質はこんなところにも表れている。小諸がそうだ。裏町や、小路や、田圃側の細い道なぞを択んで
て、丁度そういう田圃側の道へ出た。裏側から小諸の町の一部を見ると、白壁づくりの建物が土壁のものに混って
その辺も矢張谷の起点の一つだ。M君が小諸に居た頃は、この谷間で水彩画を作ったこともあった。学校
傾斜に添うて赤坂(小諸町の一部)の家つづきの見えるところへ出た。
たかと思うが、矢張浅間の山つづきだ、ホラ、小諸の城址にある天主台――あの石垣の上の松の間から、黒斑
、その他の同僚とも一緒に成って、和田の方から小諸へ戻って来た。この旅には殆んど一週間を費した。私達は
小諸から岩村田町へ出ると、あれから南に続く甲州街道は割合に平坦な、
成る人が提灯つけて旅舎へ訪ねて来た。ここから小諸へ出て、長いこと私達の校長の家に奉公していた娘が
そういう日のある午後、私は小諸の町裏にある赤坂の田圃中へ出た。その辺は勾配のついた
は地勢に応じたことを考えるという話もした。小諸は東西の風をうけるから、南北に向って「ウネ」を造ると、
、三十時代には十年も人力車を引いて、自分が小諸の車夫の初だということ、それから同居する夫婦の噂なぞもし
ある日、復た私は光岳寺の横手を通り抜けて、小諸の東側にあたる岡の上に行って見た。
好いところで、大きな波濤のような傾斜の下の方に小諸町の一部が瞰下される位置にある。私の周囲には、既に刈
その時は最早暮色が薄く迫った。小諸の町つづきと、かなたの山々の間にある谷には、白い夕靄が
小諸の町はずれに近い、与良町のある家の門で、
ことが出来た。そこまで行くと、最早人里は遠く、小諸の方は隠れて見えなかった。時々私達は林の中にたたずんで、
さんは番人の細君のことで、本家の小母さんとは小諸を出がけに私達にすこしは多く米を持って行けと注意してくれた
招きの手紙を受けて、未知の人々に逢うために、小諸を発ち、汽車の窓から田中、上田、坂木などの駅々を通り過ぎて、
月の二十日前後には初雪を見る。ある朝私は小諸の住居で眼が覚めると、思いがけない大雪が来ていた。塩の
更に小諸町裏の田圃側へ出て見ると、浅々と萌え出た麦などは皆な
が溢れて、それが太い氷の柱のように成る。小諸は降らない日でも、越後の方から上って来る汽車の屋根の白い
に包まれて、全体の姿を顕す日も稀だ。小諸の停車場に架けた筧からは水が溢れて、それが太い氷の柱
え難いものがあった。朝早く私は上田をさして小諸の住居を出た。
小諸停車場には汽車を待つ客も少い。駅夫等は集って歌留多の遊びなぞ
、太物、その他上田で小売する商品の中には、小諸から供給する荷物も少くないという。
の殷富の程度はとにかく、小諸ほど陰気で重々しくない。小諸の商人は買いたか御買いなさいという無愛想な顔付をしていて
大小はさて措き、又実際の殷富の程度はとにかく、小諸ほど陰気で重々しくない。小諸の商人は買いたか御買いなさいという無愛想
豊かに、表面は無愛想でもその実親切を貴ぶのが小諸だ。これが生活上の形式主義を産む所以であろうと思う。上田へ
着て来たやわらか物を脱いでそれを綿服に着更えながら小諸に入る若い謀反人のあることを知っている。要するに、表面は空しく
誇りとするが小諸の旦那衆である。けれども私は小諸の質素も一種の形式主義に落ちているのを認める。私は、他所
を恥ともせず、否むしろ粗服を誇りとするが小諸の旦那衆である。けれども私は小諸の質素も一種の形式主義に
地大根の沢庵を噛み、朝晩味噌汁に甘んじて働くのは小諸である。十年も昔に流行ったような紋付羽織を祝儀不祝儀に着用
一般の気風というものも畢竟地勢の然らしめるところで、小諸のような砂地の傾斜に石垣を築いてその上に骨の折れる生活を
上田町に着いた。上田は小諸の堅実にひきかえ、敏捷を以て聞えた土地だ。この一般の気風と
という肉屋を訪ねると、例の籠を肩に掛けて小諸まで売りに来る男が私を待っていてくれた。私は肉屋の
軽井沢の方角から雪の高原を越して次第に小諸へ降りて来た汽車、それに私が乗ったのは一月の十三
汽車が小諸を離れる時、プラットフォムの上に立つ駅夫等の呼吸も白く見えた。
娘達で、I、Kという連中だ。この二人は小諸の小学を卒えて、師範校の講習を受ける為に飯山まで行くという
この旅は私独りでなく小諸から二人の連があった。いずれも私の家に近いところの娘達
千曲川の水が油のように流れて来る。これが小諸附近の断崖を突いて白波を揚げつつ流れ下る同じ水かと思うと、何
ているような老僧のような人も見当らない。私は小諸辺で幾人かの僧侶に逢ってみたが、実際社会の人達
いう建物は何かの折に公会堂の役に立てられる。小諸でも町費の大部分を傾けて、他の町に劣らない程の大校舎
見れば、そういう人から新智識を吸集しようとする。小諸辺のことで言ってみても、名士先生を歓迎する会は実に
な人がある。それにつけて思出すことは、私が小諸へ来たばかりの時、青年会を起そうという話が町の有志者
T君の顔色の変ったのを見たことが無い。小諸からすこし離れた西原という村から出た人だ。T君の顔を
ように成った。間もなくその駅長は面白くなくて、小諸を去ったとか。
ところが茂十郎さんかも知れない。でも、この人が小諸で豆腐屋を始めた時は、誰も気の毒に思って買う人が無かっ
小諸新町の坂を下りると、浅い谷がある。細い流を隔てて水車小屋
も、矢張古めかしい門のある閑静な住居だ。M君が小諸に足を停めたころは非常な勉強で、松林の朝、その他の
Oの家は小諸の赤坂という町にある。途中で同僚の老理学士と一緒に成っ
私達の学校の校長が小諸小学校の校堂に演説会のあったのを機会として、医者仲間
を薄々聞いていた。果して、岡源の二階には小諸医会の面々が集っていた。その時私は校長に代って、
」とそう思わない訳には行かない。でも軽井沢ほど小諸は寒くないので、汽車でここへやって来るに随って、枯々な
実際私が小諸に行って、饑え渇いた旅人のように山を望んだ朝から、
義塾の生徒をも教えに通われた。同君の画業は小諸時代に大に進み、白馬会の展覧会に出した「朝」の図なぞ
家庭をつくって一年ばかり住んでおられ、余暇には小諸義塾の生徒をも教えに通われた。同君の画業は小諸時代に大
自分の日課のようにした。ちょうどわたしと前後して小諸へ来た水彩画家三宅克巳君が袋町というところに新家庭をつくって
紅葉山人の死を小諸の方にいて聞いた頃のことも忘れがたい。わたしは一年に
に出掛けた。このスケッチは、いろいろの意味で思い出の多い小諸生活の形見である。
の家に迎えた日のことも忘れがたい。わたしはよく小諸義塾の鮫島理学士や水彩画家丸山晩霞君と連れ立ち、学校の生徒等と
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抱き、君をわが背に乗せて歩きました。君が日本橋久松町の小学校へ通われる頃は、私は白金の明治学院へ通った
という。東京の下町に人となった君は――日本橋天馬町の針問屋とか、浅草猿屋町の隠宅とかは、君
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て、蛙の声などを聞きながら帰って行く。山浦、大久保は対岸にある村々だ。牛蒡、人参などの好い野菜を出す土地だ。
小諸町の青年ばかりでは無い。平原、小原、山浦、大久保、西原、滋野、その他小諸附近に散在する村落から、一里も二
ながら恣に賞することが出来る。対岸に煙の見えるのは大久保村だ。その下に見える釣橋が戻り橋だ。川向から聞える朝々の鶏の
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M君は沢山信州の風景を描いて、一年ばかりで東京の方へ帰って行った。今ではB君がその後をうけて生徒
東京の下町の空気の中に成長した君なぞに、この光景を見せたら
置いて、皆なここへ遊びに来ているという。東京の下町に人となった君は――日本橋天馬町の針問屋とか
た。仕立屋は庭の高麗檜葉を指して見せて、特に東京から取寄せたものであると言ったが、あまり私の心を惹かなかった
私は烈しい気候の刺激に抵抗し得るように成った。東京に居た頃から見ると、私は自分の皮膚が殊に丈夫に成った
君に誘われて、山あるきに出掛けた。W君は東京の学校出で、若い、元気の好い、書生肌の人だから、山野
しては小さいが、眺望の好い位置にある。そこは東京の気象台へ宛てて日毎の報告を造る場所に過ぎないと言うけれども、
と言って、その縁日に達磨を売る市が立つ。丁度東京の酉の市の賑いだ。願い事が叶えば、その達磨に眼を入れて納める
へ引返して来る時ほど気候の相違を感ずるものは無い。東京では桜の時分に、汽車で上州辺を通ると梅が咲いてい
の旧い「文学界」、あの同人の仕事もわたしが仙台から東京の方へ引き返す頃にはすでに終りを告げたが、五年ばかりも続い
このスケッチをつくっていた頃、わたしは東京の岡野知十君から俳諧雑誌「半面」の寄贈を受けたことがあった
かけて当時同君の右に出るものはなかった。しかし、東京の知人等からも離れて来ているわたしに取っては、おそらくそれが
頃のことも忘れがたい。わたしは一年に一度ぐらいしか東京の友人を訪ねる機会もなかったから、したがって諸先輩の消息を知ること
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なった君は――日本橋天馬町の針問屋とか、浅草猿屋町の隠宅とかは、君にも私に可懐しい名だ――
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の駅長のことを聞いたことが有った。この人は新橋から直江津に移り、車掌を五年勤め、それから助役に七年の月日
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千曲川のスケッチ
て一生忘れることの出来ないものだ。今でも私は千曲川の川上から川下までを生々と眼の前に見ることが出来る。あの浅間
指して、松林の間を通り鉄道の線路に添い、あるいは千曲川の岸に随いて、蛙の声などを聞きながら帰って行く。山浦、
とした頬の色なぞが素樸な快感を与える。一体千曲川の沿岸では女がよく働く、随って気象も強い。恐らく、これは
から擅に望むことが出来た。遠く谷底の方に、千曲川の流れて行くのも見えた。
士族の屋敷跡に近くて、松林を隔てて深い谷底を流れる千曲川の音を聞くことが出来る。その部屋はある教室の階上にあたって、
は無い。旧士族で、閑散な日を送りかねて、千曲川へ釣に行く隠士風の人もあれば、姉と二人ぎり城門の傍
、今では最早濃い新緑の香に変って了った。千曲川は天主台の上まで登らなければ見られない。谷の深さは、
を挟んで、古城の附近に幾つとなく有る。それが千曲川の方へ落ちるに随って余程深いものと成っている。私達は城門の
。その下に温泉場の旗が見える。林檎畠が見える。千曲川はその向を流れている。
の一時過に、私は田圃脇の道を通って、千曲川の岸へ出た。蘆、蓬、それから短い楊などの多い石の
書斎を見るのを楽みにする。そればかりではない、千曲川の眺望はその楼上の欄に倚りながら恣に賞することが出来る。対岸に
―赤く塗った鉄橋――あれを渡る時は、大河らしい千曲川の水を眼下に眺めて行った。私は上田附近の平地にある幾多
に包まれ、半ば赤い崖に成った山脈に添うて、千曲川の激流を左に望みながら、私は汽車で上田まで乗った。上田橋―
私は植物の教師T君と一緒に学生を引連れて、千曲川の上流を指して出掛けた。秋の日和で楽しい旅を続けることが出来
その中でも、千曲川の上流から野辺山が原へかけては一度私が遊びに行ったことの
、秋らしい南佐久の領分が私達の眼前に展けて来る。千曲川はこの田畠の多い谷間を流れている。
一体、犀川に合するまでの千曲川は、殆んど船の影を見ない。唯、流れるままに任せてある。
、小県の高い傾斜から主に谷底の方に下瞰した千曲川をのみ君に語っていた。今、私達が歩いて行く地勢は、
て来た恐しく大きな石が埋まっている。その間を流れる千曲川は大河というよりも寧ろ大きな谿流に近い。この谿流に面した休茶屋
いえ――来て見る度に私を驚かす。ここから更に千曲川の上流に当って、川上の八カ村というのがある。その辺は
千曲川の源、かすかに見えるのが川上の村落です。千曲川は朝日をうけて白く光りました――」
山々も残りなく顕れました。遠くその間を流れるのが千曲川の源、かすかに見えるのが川上の村落です。千曲川は朝日をうけ
にはバラバラと木の葉のあたる音がしてその間には千曲川の河音も平素から見るとずっと近く聞えた。
カステラや羊羹を店頭に並べて売る菓子屋の夫婦が居る。千曲川の方から投網をさげてよく帰って来る髪の長い売卜者が居る。
八重原などの村々を数えることが出来る。白壁も遠く見える。千曲川も白く光って見える。
に日本アルプスの遠い山々も見えた。その日は私は千曲川の凄まじい音を立てて流れるのをも聞いた。
鉄道が今では中仙道なり、北国街道なりだ。この千曲川の沿岸に及ぼす激烈な影響には、驚かれるものがある。それは静か
千曲川に沿うて
ことは君にも話した。君は私と共に、千曲川の上流にある主なる部分を見たというものだ。私は更に下流
上州の方へも下りて見たし、依田川という千曲川の支流に随いて和田峠から諏訪の方へも出て見たし、
山々、村々の話もした。暇さえあれば私は千曲川沿岸の地方を探るのを楽みとした。私は岩村田から香坂へ抜け
心を浅間の山腹へ連れて行って、あそこから見渡した千曲川の話もしたし、ずっと上流の方へ誘って行ってそこにある
雪に掩われて、谷の下の方を暗い藍色な千曲川の水が流れて行った。村落のあるところには人家の屋根も白く
。汽車は犀川を渡った。あの水を合せてから、千曲川は一層大河の趣を加えるが、その日は犀川附近の広い稲田も、
を私達は蟹沢まで歩いた。そこまで行くと、始めて千曲川に舟を見る。
稲田は黄色い海を見るようだった。向の方には千曲川の光って流れて行くのを望んだこともあった。遠く好い欅の
た。奥深く、果てもなく白々と続いた方から、暗い千曲川の水が油のように流れて来る。これが小諸附近の断崖を突い
思うと、又た艪の音が起った。その音は千曲川の静かな水に響いてあだかも牛の鳴声の如く聞える。舟が鳴くよう
黒岩山を背景にして、広々とした千曲川の河原に続いた町の眺めが私達の眼前に展けた。雪の中
のかたちを見せ、遠い村落も雪の中に沈んだ。千曲川の水は寂しく音もなく流れていた。
復た霙が降って来た。千曲川の岸へ出て見ると、そこは川船の着いたところで対岸へ通う
眼もまぶしく、雪の反射で悩まされた。その日は千曲川の水も黄緑に濁って見えた。
に宗教的なところのあるのは事実のようだ。これは千曲川の下流に行って特にそう感ぜられる。
出て見れば、まるで氷の野だ。こうなると、千曲川も白く氷りつめる。その氷の下を例の水の勢で流れ下る音が
「千曲川のスケッチ」奥書
博文館の雑誌「中学世界」に毎月連載した。「千曲川のスケッチ」と題したのもその時であった。大正一年の冬
した上に、その正しい描写には心をひかれ、千曲川の川上にあたる高原地の方へ出掛けた折なぞ、トルストイ作中の人物を
水彩画家丸山晩霞君と連れ立ち、学校の生徒等と一緒に千曲川の上流から下流の方までも旅行に出掛けた。このスケッチは、いろいろの
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よく自分の生徒を連れて、ここへ泳ぎに来るが、隅田川なぞで泳いだことを思うと水瀬からして違う。青く澄んだ川の