刺繍 / 島崎藤村
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。彼女が嫁いて来たばかりの頃は、大塚さんは湯島の方にもっと大きな邸を持っていたが、ある関係の深い銀行の破産
湯島の家の方で親子揃って食った時のことが浮んで来た。この
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に、会社の見廻りに行く時が来た。大塚さんは根岸にある自宅から京橋の方へ出掛けて、しばらく会社で時を移した。用達
も止め、用達をそこそこに切揚げて、車はそのまま根岸の家の方へ走らせることにした。
関係の深い銀行の破産から、他に貸してあったこの根岸の家の方へ移り住んだのだ。そういう時に成ると、おせんは何
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ふと大塚さんは眼が覚めた。
根岸辺の空を通り過ぎるような雨だ。その音で、大塚さんは起されたのだ。寝床の上で独り耳を澄まして、彼
大塚さんは五十を越していた。しかしこれから若く成って行くのか、
例のように、会社の見廻りに行く時が来た。大塚さんは根岸にある自宅から京橋の方へ出掛けて、しばらく会社で時を
大塚さんは心に叫ぼうとしたほど、その婦人を見て驚いた。三
も無かった。彼女は以前の夫の方を振向いた。大塚さんはハッと思って、見たような見ないような振をしながら、
も、同じ東京の中に住んでいるということも、大塚さんは耳にしていた。しかし別れて三年ほどの間よくも
彼女はまだ若く見えた。その筈だ、大塚さんと結婚した時が二十で、別れた時が二十五だったから。
了ったろう……何故もっと彼女を大切にしなかったろう……大塚さんは他人の妻に成っている彼女を眼のあたりに見て、今更
の嬉しいも、殆ど一緒に成って、車の上にある大塚さんの胸に浮んだ。
大塚さんが彼女と一緒に成ったに就いては、その当時、親戚や友人
して二人を見て笑ったものも無かった。すくなくも大塚さんにはそう思われた。どうして、おせんが地味な服装でも
もとより、大塚さんがおせんと一緒に成った時は、初めて結婚する人では無かった
三年振で別れた妻に逢って見た大塚さんは、この平素信じていたことを――そうだ、よく彼女に
だった。そして、彼女の裾に纏い着いたものだ。大塚さんは、この小さい犬を抱いて可愛がったおせんが、まだその廊下の
ある。黒い六角形の柱時計も同じように掛っている。大塚さんはその食卓の側に坐って、珈琲でも持って来るように、
こう婆さんが話した。大塚さんはその日別れた妻に逢ったことを、誰も家のものに
マルは尻尾を振りながら、主人の側へ来た。大塚さんが頭を撫でてやると、白い毛の長く掩い冠さった額を
ものにも嗅がせた。マルにまで嗅がせた。まだ大塚さんはその食卓の上に載せた彼女の白い優しい手を見ることが出来
に対い合っていた時の、彼女の軽い笑を、まだ大塚さんは聞くことが出来た。毛糸なぞも編むことが上手で、青と
香ばしい珈琲のにおいは、過去った方へ大塚さんの心を連れて行った。マルを膝に乗せて、その食卓に
庭下駄を穿きながら、草むしりなぞを根気にしたところだ。大塚さんは春らしい日の映った庭土の上を歩き廻って、どうかすると
ものだ。それほど子供らしかった。ああいう時には、大塚さんはもう嘆息して了った。でも、この根岸へ移って落着いて
子供だった。彼女が嫁いて来たばかりの頃は、大塚さんは湯島の方にもっと大きな邸を持っていたが、ある関係の
人に変って行った。彼女と別れる前の年あたりには、大塚さんは何でも彼女の思う通りに任せて、万事家のことは放擲
時には可愛くて可愛くて成らなかったおせんが、次第に大塚さんには見ても飽き飽きする様な人に変って行った。彼女と
しかも堪え難い形でやって来た……それを大塚さんは考えた。
おせんと同棲して五年ばかり経った時の大塚さんは、何とかして彼女と別れる機会をのみ待った。機会が
にテーブルを置いて、安楽椅子に腰掛けるようにしてある。大塚さんはその一つに腰掛けて見た。
大塚さんは彼女を放擲して関わずに置いた日のことを考えた
悲しい幕が開けて行った。大塚さんはその刺繍台の側に、許し難い、若い二人を見つけた。尤も
そこまで考え続けると、おせんのことばかりでなく、大塚さんは自分自身が前よりはハッキリと見えて来た。そういう悲しい幕の
ような人だけに、余計可哀そうに思われて来た。大塚さんは、安楽椅子に倚りながら、種々なことを思出した。若い妻が訳
入って来た。訪問の客のあることを告げた。大塚さんは沈思を破られたという風で、誰にも逢いたくないと
と附添えて言った。大塚さんが客を謝るというは、めずらしいことだった。
書生が出て行った後、大塚さんはその部屋の内を歩いて、そこに箪笥が置いてあった、
残っている物でも出て来るか、こう思って、大塚さんは戸棚の中までも開けて見た。
行李一つ纏めることも出来なかった。見るに見兼ねて、大塚さんは彼女の風呂敷包までも包み直して遣った。車に乗るまでも見
一人も彼女に子供が無かったことなぞを思わせた。大塚さんは納戸を離れて、部屋にある安楽椅子の後を廻った。廊下へ
大塚さんはマルを膝の上に乗せて、抱締るようにして顔を
をおせんに言い聞かせて、生家の方へ帰してやった。大塚さんはそれも考えて見た。
て行った長い長い悲哀は、唯さえ白く成って来た大塚さんの髪を余計に白くした。
か。決してそうで無かった。後に成って、反って大塚さんは眼に見えない若い二人の交換す言葉や、手紙や、それから
という噂は、何か重荷でも卸したように、大塚さんの心を離れさせた。曽て彼の妻であった人も、今
万事大塚さんには惜しく成って来た。女というものの考え方からして変っ
来た。婆さんは大きな皿を手に持ったまま、大塚さんの顔を眺めて、
大塚さんの親戚からと言って、春らしい到来物が着いた。青々とした
何かおせんの着物で残っているものはないか。こう大塚さんは何気なく婆さんに尋ねた。
庭で鳴く小鳥の声までも、大塚さんの耳には、復た回って来た春を私語いた。あらゆる
音をさせていた。電燈の点いた食堂で、大塚さんは例の食卓に対って、おせんと一緒に食った時のことを
似て大きい方だった。背なぞは父ほどあった。大塚さんがこの子息におせんを紹介した時は、若い母の方が反っ
今では音信不通な人に成っている。その人は大塚さんがずっと若い時に出来た子息で、体格は父に似て大きい方
ような子息のことも、大塚さんの胸に浮んだ。大塚さんは全く子が無いでは無い。一人ある。しかも今では音信不通
、どうしているか解らないような子息のことも、大塚さんの胸に浮んだ。大塚さんは全く子が無いでは無い。一人
こういう話を聞く度に、大塚さんは耳を塞ぎたかった。
か。それを思うと、銀座で逢った人が余計に大塚さんの眼前に彷彿いた。黄ばんだ柳の花を通して見た
その晩、大塚さんは自分の臥たり起きたりする部屋に籠って、そこに彼女を探し
の花弁が彼女の口唇を思わせるように出来ている。大塚さんはそれを自分の顔に押宛て押宛てして見た。
。周囲のものは皆な老い行く。そういう中で、大塚さん独りはますます若くなって行った……
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しばらく会社で時を移した。用達することがあって、銀座の通へ出た頃は、実に体躯が暢々とした。腰の
種々な色彩に塗られた銀座通の高い建物の壁には温暖な日が映っていた。用達の
日は、最早二度と無かろうか。それを思うと、銀座で逢った人が余計に大塚さんの眼前に彷彿いた。黄ばんだ
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がある医者の細君に成っているということも、同じ東京の中に住んでいるということも、大塚さんは耳にしてい
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に行く時が来た。大塚さんは根岸にある自宅から京橋の方へ出掛けて、しばらく会社で時を移した。用達することがあっ