日本脱出記 / 大杉栄
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向けて追放されようとした時にも、マドリッドよりもバルセロナの方に君等の仲間は多いんだからと言って、わざわざ地図や時間表など
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日本から追放されたロシア人のコズロフが、その前年ひそかに葉山の家から僕の鎌倉の家に逃げて来て、そしてそこからさらに神戸へ
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ヨーロッパのどこに、その可能性のあるところがあるんだろう。ウィーンという一説もあるが、それもどうやらあぶないらしい。
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。そしてそのセン・ティミエ大会に与かった一人のマラテスタも、ローマからひそかに国境を脱け出て、そこに出席した。先年彼はこのスイスから
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た。一月の末から二月の初めにかけて、ベルリンで国際無政府主義大会を開くことになったが、ぜひやって来ないか、と
だ。そして僕がこんどこの上海に寄ったのは、ベルリンの大会で(九字削除)が組織されるのと同時に、僕等にとっ
今はまだ何にも言えない。ただそこにいる間に、ベルリンの大会が日延べになったことが分ったので、ゆっくりと目的を果たすこと
。僕の目的の国際無政府主義大会は、四月一日に、ベルリンで開かれることになっていたのだ。そこでは、本名を名乗らなけれ
はたしてやれるかどうか分らない。ドイツの同志からは、とてもベルリンでは不可能だ、と言って来ている。するとヨーロッパのどこに、その
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八月の末に、大阪で、例の労働組合総連合創立大会が開かれた。そしてそこで、無政府主義者と
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ただ附箋が三、四枚はってあったが、それは鎌倉に宛てて書いてあったので、そこから逗子に廻り、さらにまた東京に
ロシア人のコズロフが、その前年ひそかに葉山の家から僕の鎌倉の家に逃げて来て、そしてそこからさらに神戸へ逃げて行った時に
、Rがこの役目を勤めてくれた。偶然その日に鎌倉へ遊びに来たのだったが、行先きは言わずにただちょっと行衛不明
僕の顔を知らないものはないくらいなのだ。長年鎌倉や逗子にいた間に、代る代るいろんな奴が尾行に来ている。
た。朝鮮仮政府の首要の地位にいる一青年Mが、鎌倉の僕の家にふいと訪ねて来た。要件は、要するに、近く上海
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コロンボ近くなった頃だと思う。無線電信で、ルール地方占領とフランスの共産党首領カシエン等の捕縛とが伝えられた。
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その翌日は、九州の郷里に帰っている女房と子供とを呼びよせに、Mを使いにやった
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れて、二人ともずいぶんびくびくしながら行った。ことに一度、建長寺と円覚寺との間頃で後ろからあかりをつけない自動車が走って来て
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ずいぶん剣呑だとも思ったが、しかしそれよりもっと剣呑な横浜からよりは、安全だと思った。横浜の警官でほとんど僕の顔を知ら
よりもっと剣呑な横浜からよりは、安全だと思った。横浜の警官でほとんど僕の顔を知らないものはないくらいなのだ。長年鎌倉
出る前々日、次のような借用証一枚に代えて、横浜までの二等切符を一枚、領事から受取った。
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の中心になろうとしていたのだ。その後、香港で起った船員や仲仕の大罷工には、これらの無政府主義者がその背後に
へ行ったとか、ハルピンからロシアへ行ったとか、香港からヨーロッパへ渡ったとか、いやどことかで捕まったとか、という
たぶん香港からだったろう、一人の安南人らしい、白い口髯や細いあご髯を長く垂らして
さきに僕は香港の港を眺めながらの、支那の学生等の愛国的憤慨の言葉も聞いた
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二人はそう相談をきめて、モンマルトルの真ん中に宿をとったのだ。そして予定通り昼夜兼行で遊び暮しながら僕は
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帰るとすぐ、僕は上海でのこの顛末を、まず堺に話しした。そして堺から山川に話しして、さらに三人でその相談
上海でのこの顛末を、まず堺に話しした。そして堺から山川に話しして、さらに三人でその相談をすることにきめた。
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――一九二三年四月五日、リヨンにて――
で、三月のなかばにこのわかれにくいドリイにわかれて、リヨンへ逃げた。そしてすぐドイツ行きの仕度にかかった。
それだからこそ、時々彼女を思いだしたのだろうと思う。リヨンではたった一人のそして停車場まで夜遅く送って来た女のことも、メーデー
へ着いたのだった。)僕はマダムと別れて、リヨンへ行った。そこには僕の仮り国籍の同志が数名いて、僕
僕はパリへの旅を急いでいた。そしてこのリヨンには、またあとでゆっくり来るとしても、こんどは一晩か二晩
二晩とまってすぐパリへ立つ予定でいた。が、リヨンの同志はそれを許さなかった。
僕はいよいよあぶないと思った。そしてリヨンから一緒に来た支那の一同志と、パリの郊外や少し遠い田舎にいる
リヨンの同志はすぐ帰った。僕はその女と相談して、どこかもっと安全
とったのだ。そして予定通り昼夜兼行で遊び暮しながら僕はリヨンからのたよりを待っていた。ヨーロッパ歴遊の新しい旅券が手にはいれば、
なっていたのだ。そして僕はその知らせとともにリヨンに帰って、すぐまたドイツへ出発する手続きにかかる筈だったのだ。
Sはもとの田舎に帰った。僕はリヨンの古巣に帰った。そして、あちこち歩き廻って来たことなぞは知らん顔
の問題は、僕がフランスに来た最初から、僕とリヨンの同志との間に闘わされた議論だった。そんな七面倒臭いカルト・ディダンティテ
四月二十八日の夜、僕はリヨンの同志のただ一人にだけ暇乞してひそかにまたパリにはいった。そしてル
そして旅券や身元証明書は、ドイツ行きの許可証を貰うためにリヨンの警察本部にあずけてあると事実ありのままを言った。職業は新聞記者だ。主義
それで、リヨンの警察へ問い合せられてその実際が分り、本当になんでもなくって放免さ
「おい、わざわざリヨンから出て来て演説したんだから、大ぶ貰ったろう。」
生じっか立寄ってまた迷惑をかけてもと思って、リヨンには寄らずに、翌朝マルセイユに着いた。が、マルセイユでは、別に
僕はその間にうちへも電報を打ち、パリやリヨンの友人等にも電報や手紙を出して、その日までに立てる準備をし
が、フランスは、マルセイユでもリヨンでもパリでも、実に平穏なものだった。今にも戦争が始まり
』ですら、フランスで一番保守的でそして一番宗教的な大都会のリヨンで、しかも郊外とは言いながら寺院区とまで言われているある丘の上
そしてさらにその後、リヨンで、町の人達がよく遊びに行くリイル・バルブへ行った。翻訳すれ
バルブへ行った。翻訳すれば羊の鬚島だが、リヨンの町の真ん中を通っているサオヌ河の少し上の、ちょっと向島というよう
それから、このリヨンの停車場前の広場が何かで大にぎやかだというので、ある晩行っ
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地名は多くはそれかあるいはモンパルナスだった。そこは、ちょうど本所とか浅草とかいうように、そういう種類の人間の巣窟なのだろう。
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なうわさを聞いたとかいうのはうそだ。それはパリへ行ってからのことなのだ。途中でのことはほかの記事にちょいちょい
貰おう――どこをどうしてだか知らないが、とにかくパリに着いた。
フランス無政府主義同盟機関『ル・リベルテエル』社のあるところは、パリの、しかもブウルヴァル・ド・ベルヴィル(強いて翻訳すれば「美しい町の通り」)
パリの便所
パリにつくとすぐ、仲間の一人の女に案内されて、その連中の巣くっ
のはまだ分る。しかし電燈のないホテルが、今時、このパリにあるんだろうか。僕は少々驚いてつれの女に聞いた。
と言う彼女の話によると、パリの真ん中に、未だ石油ランプを使っているうちがいくらでもあるんだそう
と、日本にいて考えてはいけない。その後、パリのあちこちを歩いて見たが、こうした西洋便所じゃない、そして幾室
パリについた晩、近所のうすぎたないレストランへ行って、三フラン五十の定食を食っ
それからパリの中心のグランブウルヴァル近くのあるホテルへ引っこすとすぐ、夕方その辺をぶらぶらしながら
今パリではミディネットが同盟罷工をしている。
六十フランから一カ月三、四百フランというのが、まずパリでの一般のミディネットの普通の収入なのだ。パリの貧乏人の女は
パリでの一般のミディネットの普通の収入なのだ。パリの貧乏人の女は、娘でも細君でも、大がいみなこうして働い
フランの室というのは、安ホテルの屋根裏だ。そしてパリのミディネットは、親のうちにいるものはごくまれで大がいはみなこの
ある。また白粉をつけているものもかなり多い。しかし、パリの町の中をあるいている女で、そうでないものがどれだけあるだろう
――一九二三年四月三十日、パリにて――
パリに
パリの女の世話のないことは、前の「パリの便所」の中で話し
という踊り子が一人いた。バル・タバレンと言えば、パリへ行った外国人で知らないもののない、あまり上品でない、ごく有名な踊り場
のすぐそばに下宿していたのだが、どうもパリは危険らしい様子なので、三月のなかばにこのわかれにくいドリイにわかれて
一カ月あまり過ぎた。むしゃくしゃもする。もうメーデーも近づく。パリもなつかしい。ちょっと行って見ようとなってまた出かけた。
パリの牢のスウヴニルに
パリの牢屋
のプログラムの中にもあったんだが、とうとうそれをパリでやっちゃった。
実は、大ぶうかつではあったが、このパリでということは、最初はあまり予期していなかったのだ。
モスクワ大学出身の女で、かつてパリに幾年か留学したことがあり、その兄が社会革命党に関係し
(前の「日本脱出記」の中では、パリで初めてこのカルト・ディダンティテの問題にぶつかったように言ってあるが、あの時
僕はパリへの旅を急いでいた。そしてこのリヨンには、またあとでゆっくり来る
としても、こんどは一晩か二晩とまってすぐパリへ立つ予定でいた。が、リヨンの同志はそれを許さなかった。
が、僕はそんな面倒はよして、すぐパリへ出かけた。そしてベルヴィルのフランス無政府主義同盟へ行くと、そこは「日本脱出記
た。そしてリヨンから一緒に来た支那の一同志と、パリの郊外や少し遠い田舎にいるやはり支那の同志等を訪ね廻って、四、
を訪ねることもできないんじゃ、仕方がない、せめてはパリ第一の遊び場に陣取ってうんと遊ぶんだね。」
大事がそっと耳にはいった。それは、日本の政府からパリの大使館にあてて、Sの素行を至急調べろという訓電が来たという
(これはあとで、メーデーの日の前々日かに、パリでそっと耳にした話だが、実はその時すでに、日本政府からドイツ
ていた。が、ようやく借金して、大急ぎで二人でパリを逃げ出した。
た。そしていっそのことそんな合法の手続きはいっさいうっちゃって、パリで会ったロシアの同志のようにそっと国境を脱け出ようかと思った。この合法
た。僕はほとんどドイツ行きをあきらめた。そしてひそかにまたパリへ出かけようと決心した。パリのメーデーの実況も見たかった。もう一カ月
あきらめた。そしてひそかにまたパリへ出かけようと決心した。パリのメーデーの実況も見たかった。もう一カ月ばかり続けているミディネット(裁縫
いろんな研究材料も集めて見たかった。また新装をこらしたパリの街路樹の景色も見たかった。女の顔も見たかった。
はリヨンの同志のただ一人にだけ暇乞してひそかにまたパリにはいった。そしてル・リベルテエル社のコロメルを訪ねて、メーデーの当日、セン
事勿れ主義を執ったのだ。さればその屋内集会も、パリの市内ではわずかにC・G・T・Uの本部の集会一つ
セン・ドニはパリの北郊の鉄工町だ。そしてそこの労働者はもっとも革命的であり、そこの集会は
早く僕は市内の様子を見に出かけた。が、パリはいつものパリとほとんど何の変りもなかった。ただ多少淋しく思われたの
内の様子を見に出かけた。が、パリはいつものパリとほとんど何の変りもなかった。ただ多少淋しく思われたのは、タクシーが
きのうと同じようなことの取調べだ。そして僕が前にパリにいた時の宿屋をいつまでも頑ばって言わなかったら、四、五人
一人と兵庫県の役人一人と都合二人で、僕を探しにパリに来ていたのだそうだ。
と言ったのももっともだと思った。そして、いつかパリで見たクレンクビュの活動写真で、このボテふりの親爺が初めて牢に入れられ
パリの牢やラ・サンテに。
パンはどこのパン屋にもつい見かけたことがなかった。パリではそんなパンを食う人間はまずないのだ。
なったり、モオリスとなったりして、そしてそのモンマルトルというパリの地名は多くはそれかあるいはモンパルナスだった。そこは、ちょうど本所とか浅草
行こうというものもない。みな、このままフランスに、しかもパリに、とどまっているつもりらしい。
僕はその間にうちへも電報を打ち、パリやリヨンの友人等にも電報や手紙を出して、その日までに立てる準備
即刻追放というんで、パリではあんなに厳重だったのだから、ここでもたぶん警戒がうるさかろうと思っ
「うちからか、パリからか、どっちかから金の来次第、一つ逃げだしてやろうか。そしてこんど
こんどは、まったくの不合法で、勝手に飛び廻ってやろうか。パリへも帰ろう。ドイツへも行こう。イタリアへも行こう。その他、行けるだけ行っ
警察では、パリの警視庁から来た長文の電報を前に置いて、いろいろと取調べのあっ
ほんとうのお大名の一等のをもらえる筈だったが、パリの大使館で誰かがもっとも千万の三等説を持ち出したので、その間
ていたが、僕がフランスを出る数日前に、パリ近郊の下院代議士補欠選挙の候補者として、未曽有の投票数で当選した。
がいは労働者町なのだ。フランスの労働者は、少なくともパリ近郊の労働者は、半分は謀叛人に組みし、残りの半分はまったく政治に
この「謀叛人」はまた、それとほとんど同時に、やはりパリ近郊のある町から、市会議員としても選挙された。
知りあいになった。この女はモスクワ大学の史学科を出て、パリにも留学したことがあり、大ぶ進歩した自由思想の持主で、いつも
硬骨でそして衆望のあるのが出ると、すぐにそれをパリへ留学させる。そして毎月幾分の金をやってどこかのホテルの一室に
その一人に、パリでそっと会う筈にしていたが、やはりいろんな面倒があって、とうとうそれ
が、フランスは、マルセイユでもリヨンでもパリでも、実に平穏なものだった。今にも戦争が始まりそうだと
フランスに着いてからの主な仕事の一つは、毎朝、パリから出るほとんど全部の新聞に目を通すことだった。
その後パリで八千人ばかりのミディネット(裁縫女工)の罷工があった時にも、
パリに着いた晩、夕飯を食いに、宿からそとへ出て見て驚いた
白鬚様があるのでもなし、ただ小さな島一ぱいに、パリの貧民窟のと同じドンチャンドンチャンがあるだけの話だ。
、玉転がしと文まわしと鉄砲とだ。そしてそこをやはりパリのと同じように、五フランか十フランかの安淫売がぞろぞろとぶらついて
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ようにそう言った。そして旅券なぞも、途中はもとより、マルセイユ上陸の時ですら、なければなしで通れるほどに世話がない、という話
しかるに、このマダムNと一緒にマルセイユに上陸して、あるホテルに着いた時、フランスのこの自由はすぐさま幻滅さ
いうのに乗って上海を出て、二月十三日にマルセイユへ着いたのだった。)僕はマダムと別れて、リヨンへ行った。
だろうと思う、また主事室へ呼び出されて、これからすぐマルセイユへ出発しろと命ぜられた。
マルセイユの警察へは僕の出発と到着との時刻を電報してあるからと言う
かけてもと思って、リヨンには寄らずに、翌朝マルセイユに着いた。が、マルセイユでは、別に制服も私服も迎いに出て
リヨンには寄らずに、翌朝マルセイユに着いた。が、マルセイユでは、別に制服も私服も迎いに出ているような様子はなかった
菅君はマルセイユの警察へ行って、第一の船で出帆するという命令のその「第
警戒はたしかにない。そして僕はマルセイユのある同志を訪ねて、そっとその相談をした。方法はたしかにある。
だが、こんどは例外でそのあべこべに行った。帰りはマルセイユの領事館で二等の切符を買ってもらった。それもうまく行けばほんとうの
が、フランスは、マルセイユでもリヨンでもパリでも、実に平穏なものだった。今にも
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コロンボ近くなった頃だと思う。無線電信で、ルール地方占領とフランスの共産党首領
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僕の鎌倉の家に逃げて来て、そしてそこからさらに神戸へ逃げて行った時には、そのあとで僕は三日ばかり時々大きな
。が、それらしい顔もついに見ないで、翌朝無事に神戸に着いた。
神戸は、実は僕にとっては、大きな鬼門なのだ。先きにコズロフ
出て来ると山川とだけに会って、その妻子のいる神戸へ行った。そして僕は山川から栄蔵の伝言だというのを聞いた
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船は門司を通過して長崎に着いた。そこでもやはり、二人の制服と四、五人の私服
ここに坐り込んでBの帰るのを待つかだ。僕は長崎から上海までの暴風で大ぶ疲れていたので、そしてまたよくは分ら
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書いてあったので、そこから逗子に廻り、さらにまた東京に廻って来たしるしに過ぎなかった。そんなにあちこちと廻って来ながら
は中途で失敗して、まだ日本を去らない前に再び東京に帰って来ることを余儀なくされたに過ぎなかった。
だ。しかしその夏、やはり支那の同志のWがひそかに東京に来て、お互いの連絡は十分についていたのだ。そして
を見てハッとした。知っている顔だ。去年まで東京でたびたび会って、よく知っているNだ。彼も無政府主義者だと言って
円五十銭)という室代の幾分かを払った。東京の木賃宿の一日五十銭に較べればよほど安い。ガスは一サンティムの
ちょうどはいる前の日に、『東京日日』の記者から原稿料の幾分かを貰っていたものだから、二
――一九二三年八月十日、東京にて――
最近の『東京朝日新聞』に、そのパリ特派員の某君の記事の中に、王党の一首領
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こんどだって、駒込の家はやはり狭いし、そとから十分のぞかれる。すぐ前のあき地の小さな
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御者にはただこう言っただけなのだが、上海の銀座通り大馬路を通りぬけて、二大歓楽場の新世界の角から大世界の方
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見ると、なるほど大通りは大通りに違いないが、ちょうどあの、浅草から万年町の方へ行く何とかいう大きな通りそのままの感じだ。もっとも
はそれかあるいはモンパルナスだった。そこは、ちょうど本所とか浅草とかいうように、そういう種類の人間の巣窟なのだろう。
なのだ。しかも日本の浅草よりも、もっともっと下劣な浅草なのだ。
驚いた。その辺はまるで浅草なのだ。しかも日本の浅草よりも、もっともっと下劣な浅草なのだ。
宿からそとへ出て見て驚いた。その辺はまるで浅草なのだ。しかも日本の浅草よりも、もっともっと下劣な浅草なのだ
僕は前に浅草と言ったが、それよりもむしろ九段の祭りと言う方が適当か
そしてその後、日本の浅草よりももっとずっと上等の遊び場へ行って、そこの立派な踊り場やキャフェの
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町の真ん中を通っているサオヌ河の少し上の、ちょっと向島というようなところだ。が、そこには白鬚様があるのでも