自叙伝 / 大杉栄
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だろうが、それはほかでもない、神近の怨霊だ。葉山の日蔭の茶屋の一番奥の二階で、夜の三時頃、眠って
を二つ抱えて、一カ月ばかりの計画でいつもの通り葉山へ出かけることになった。
、ただできたというだけのことを話した。そして当分葉山へ行くということを話した。
「葉山へは一人で?」
の計画を非常に喜んだ。しかし彼女にはまだ、その葉山では、僕と伊藤とが一緒にいるのではあるまいかと疑われ
? あなたが出かける時、私を誘うこと。そして一日、葉山で遊ぶこと。」
「よかろう。それじゃ茅ヶ崎まで一緒に行って、葉山に一晩泊って帰るか。」
葉山に泊った翌朝は、もう秋も大ぶ進んでいるのに、ぽかぽかと暖かい、
には鎌倉から片瀬までの海岸や江の島などを控えて、葉山から三崎へ行く街道の中でも一番景色のいいところだった。それに、
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山田の伯父が四谷にいた。威海衛で戦死した大寺少将の邸を買って、そのあとを
になってからだとも思うが、夜は、その頃四谷の箪笥町に開かれたフランス語学校というのに通った。これは、庄司
当時僕は、女房の保子を四谷の家に一人置いて、最初は番町のある下宿屋の二階に、そしてそこ
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、僕の家は、今言った練兵場に沿うた、片田町というのにあった。四番目の家だ。これも焼けて無かった。
戦争は大がい片田町から町の方の仲町というのに通ずる竹町で行われた。いつも向うから
やはり片田町のその家にいた時のことだ。
日清戦争で出征するとすぐ、竹町とは反対の方の片田町の隣りの、西ヶ輪という町に引越した。斎藤という洋服屋の
」と電報が来た。三の丸では次弟が生れた。片田町では三番目の妹が生れた。そして、これで僕は三人の妹
の、庭も何にもない小さな家にひっこんだのだ。片田町の家は七間か八間あった。そしてできるだけの倹約をして貯金を
父が戦争から帰って来る少し前に、家はまた片田町の、前のとは四、五軒離れたところに引越した。そしてそこから
漢文を教わりに私塾に通った。英語は前にいた片田町の家の隣りの速見という先生に就いた。どんな学歴の人か知らない
遊び場は、前の片田町にいた時とは違って、もうすぐ前の練兵場ではなくなってい
僕等がいた片田町の裏の小人町(おこひとまち)というのは淫売町だった。片田町
(おこひとまち)というのは淫売町だった。片田町の一方のはじの、西ヶ輪に近い部分も、やはりそうだった。日曜
かという疑いが出て来た。それは、これが片田町の家の、父の室での出来事であったように思われるからである
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最初の夏は、伊勢のからすという海岸へ遊泳演習に行った。
何とかいう有名なお爺さんで、若い時には伊勢から向う岸の尾張の知多半島まで、よく泳いでは味噌を買いに行ったと
の下宿にたよって来た。田中は北川大尉と同国の伊勢だった。で、田中のおやじさんは心配して北川大尉を訪ねた。
が幼年学校にはいるとすぐだった。僕等は二人が伊勢へお参りするのを停車場の構内で迎えて、二人のごく丁寧な答礼にすっかり
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その来年には知多半島の大野へ行った。僕は名は助手でも、観海流も何にも教える
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若い衆になりきっているものもはいって来た。新潟や長岡の中学校の食いつめものもいた。
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という話だった。登坂は一時水産で大ぶ儲けて、山陰道のどこかで土地の芸者を二人ばかりかこっていたというほどの勢いだっ
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虎公は高等小学校を終えるとすぐ北海道へ小僧にやられた。そしてその数年後にまったく消息が絶えてしまった
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が突き出て、その向うには鎌倉から片瀬までの海岸や江の島などを控えて、葉山から三崎へ行く街道の中でも一番景色のいいところ
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東京に着くとすぐ、僕は牛込矢来町の、当時から予備か後備かになっていた退役大尉の、大久保のお父さん
のほかに、いろんな種類のむずかしい本があった。僕は矢来町の下宿にいた時から引続いて、そこから哲学だの宗教だの社会問題
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東京に着くとすぐ、僕は牛込矢来町の、当時から予備か後備かになっていた退役大尉の、大久保の
せず、また考えても見ない時代だった。僕は牛込の矢来に下宿していた。ある寒い日の夕方、その下宿にいた
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さんというのが面白い人だったんだそうですね。大阪で米はんにいろいろ聞いたんだが、あんまり面白いんですっかり忘れちゃった。
それにこの米はんが大阪のある同志と知っていて、その同志との間によく僕の話を
であったか、もう二、三年前になるが、大阪へ行ったついでにしばらく目で米はんを訪ねて見た。米はんはお
て出かけたのだったが、それが名古屋までとなり、大阪までとなって、大旅行になってしまった。
名古屋と大阪とでは、名古屋では父方の親戚を、大阪では母方の親戚を歩き
名古屋と大阪とでは、名古屋では父方の親戚を、大阪では母方の親戚を歩き廻った。
ありそうな、快活な少年だった。そしてその足ですぐ大阪へ行った。
大阪には山田の伯父が旅団長をしていた。僕は毎日、弁当と地図
そんなお通夜が二晩か三晩続いて、大阪にいたお祖母さん(母の母)と僕のすぐ妹の春とが
。ほかにもまだ、やはり同時頃に同じような理由で大阪の幼年学校を退学させられた、島田というのともう一人と、どこ
、これもすぐ友達になった。みんな、名古屋、仙台、大阪と所は違うが、同じ幼年学校の同期生だったのだ。
を書いて、それを当時彼女が続きものを書いていた大阪毎日に売る予定だった。彼女はそれを大毎の菊池幽芳氏に交渉した
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鎌倉から片瀬までの海岸や江の島などを控えて、葉山から三崎へ行く街道の中でも一番景色のいいところだった。それに、もう遅
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その時隅田は、前に東京へ出て英語を勉強したいために憲兵になって、
「隅田は大変肺を悪くしましてね、熊本の憲兵隊長をしていた
。お医者もいろんなことを言ってちっとも分りませんし、隅田ももう長い間の病気ですっかり弱りこんでいるんです。」
翌日行って見ると、隅田の病気は話で聞いたよりもよほど悪いように見えた。今まで僕が見
さっそく行って見ると、隅田の死骸のそばでは、大勢の男女が集まって、大きな珠数のような綱
「私こんなことを言っちゃいけないんでしょうけれど、隅田のなくなることはもうとうから覚悟していましたし、今じゃ隅田のなくなった
なくなることはもうとうから覚悟していましたし、今じゃ隅田のなくなった悲しみよりも私のこれからのからだの方がよっぽど心配なんです
。それはどうとかしてやって行けます。けれど、隅田がなくなって方々から親戚のものが集まって来てから、私今までまるでいじめられ
「隅田の国の方の人が来るとすぐ、私をつかまえて、おやお前はまだ
いいえ、どこまでも辛棒して見るつもりです。今私は隅田の郷里に帰って、世間とのいっさいの交渉を断って、ただ一人の子供
の交渉を断って、ただ一人の子供を育てあげることと、隅田の位牌を守って行くこととの、本当の尼さんのような生活をする
その翌日、隅田の葬式があったのだが、僕は着て行く着物も袴も何にも
いよいよあすとかあさってとか、隅田の郷里に帰るので、牛込のある親戚へ用のあったのを幸いに
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見た。米はんはお祖母さんの家を継いで、淀屋橋の近くで靴屋をしていた。僕はちょうど二十年目で米はんと
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辺は遠く海中にまで岩が突き出て、その向うには鎌倉から片瀬までの海岸や江の島などを控えて、葉山から三崎へ行く街道の中
汽車に乗ったんですけれど、鍵のことを思いだして、鎌倉から引返して来ましたの。だけどもう今日は上りはないわ。」
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さんの姉さんの方の田中は、中将になって今ワシントンの太平洋会議に陸軍代表の主席として出ている。ついでに言うが、
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は毎日、弁当と地図とを持って、摂津、河内、和泉と、ところ定めず歩き廻った。どうかすると、剣を抜いて道に
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いた。僕は毎日、弁当と地図とを持って、摂津、河内、和泉と、ところ定めず歩き廻った。どうかすると、剣を
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たが、決して叱ることはなかった。その後すぐこの本屋は上町に店を持って、やはり万松堂と言っていた。そして僕は、それ
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に出かけた。奈良から橿原神宮に詣でて、雨の中を吉野山に登って、何とかというお寺に泊った。第二期生だけが
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家は番町のどこかにあった。門の両側に二軒家があって、父の家は
、女房の保子を四谷の家に一人置いて、最初は番町のある下宿屋の二階に、そしてそこを下宿料の不払で逐い出されて
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。今では、その越治村が隣り村と合併して、神守村となっている、父の家は代々その宇治の庄屋を勤めていたらしい
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近しくなった。ことに一緒に順天中学へはいるとすぐ、本郷の壱岐坂下に一室をかりてそこに一緒に住んだ。
らの人とは、ただ新聞上の議論と、時に本郷の中央会堂で開かれた演説会での雄弁とに接しただけで、直接
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父の家は、名古屋を距る西に四里、津島という町の近くの、越治村大字宇治
。そして僕が十五の時、幼年学校にはいるんで名古屋へ行った時、第一にこの老人に会うようにと父から言いつけられて
などをやっていた。次のは一昌といって、名古屋にいたが、そして僕が幼年学校にいた間はずいぶん世話にもなっ
その後四、五年して、名古屋の幼年学校で山形の太郎と会った時、自分はこの耳でその音を
で、十円もらって出かけたのだったが、それが名古屋までとなり、大阪までとなって、大旅行になってしまった。
名古屋と大阪とでは、名古屋では父方の親戚を、大阪では母方の親戚
名古屋と大阪とでは、名古屋では父方の親戚を、大阪では母方の親戚を歩き廻った。
僕は僕の本籍地の名古屋の幼年学校にはいった。
名古屋へ行く途中、東京で、一、二年前から上京していた大久保を
た。おかずは枝豆と罐詰の牛肉が少々とだった。名古屋の第三師団全部が、その朝はこの御馳走だったのだ。
教頭の講演が済むと、こんどは名古屋の東の町はずれにあたる、陸軍墓地へ連れて行かれた。北川大尉を始め
というのとがいた。どちらも、武揚学校という名古屋での陸軍予備校から来たもので、その友達が多かった。国の名古屋の
予備校から来たもので、その友達が多かった。国の名古屋のものは、大がいその友達だった。中にも、僕よりも右翼
してひそかに慰めてくれたらしい父は、僕がまた名古屋へ帰る前の晩に、初めて一晩ゆっくりと僕の将来を戒めた。母
で、黙って礼ちゃんのお父さんを盗み見していた。名古屋からどこへも寄らずに、こうして汽車の中を父と二人で黙っ
の前に呼ばれた。父の顔にはもう僕を名古屋へ迎いに来て以来の、むずかしそうな筋が一つも出ていなかっ
かで落ち合って、これもすぐ友達になった。みんな、名古屋、仙台、大阪と所は違うが、同じ幼年学校の同期生だったのだ。
その頃、僕よりも一期上でやはり名古屋出身の田中というのが、中央幼年学校から逐い出されて、これも僕
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て、神守村となっている、父の家は代々その宇治の庄屋を勤めていたらしい。
には二人兄があった。長兄は猪といって、宇治の家を継いで、村長などをやっていた。次のは一昌といっ
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大ぶさびしくなった頃だろう、例のお米さんを連れ出してそっと青山に出かけて行った。練兵場にはいった頃に、お米さんはもう歩けない
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黒く焦げた焼米が出て来た。綺麗な冷たい水の加治川。それらはみな、子供の足にはちょうどいい遠足の一里前後のところ
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な大通りを通って、僕が位牌を持たせられて、宝光寺という旧藩主の菩提寺まで練って行った。新発田にもう十幾年もい
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のいい顔の先生そのままでいる。そして今でも、小石川のその修養塾のそばに道場を造って柔道の先生をし、また夏は
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全校の生徒が、修学旅行で大和巡りに出かけた。奈良から橿原神宮に詣でて、雨の中を吉野山に登って、何とかというお
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僕を佐渡へ旅行にやったりしてひそかに慰めてくれたらしい父は、僕がまた
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失態で新発田へ逐いやられたのか知らない。週番で宮城につめていた時、何かの際に馬から跳ね飛ばされて、お濠
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この会での一番大きな問題は、遼東半島の還附だった。僕は『少年世界』の投書欄にあった臥薪嘗胆論
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。僕は毎日、弁当と地図とを持って、摂津、河内、和泉と、ところ定めず歩き廻った。どうかすると、剣を抜いて
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そして最後に堺が立って、「ここには資本家の子があり、軍人の子があり、
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赤旗事件でやられて、東京監獄から千葉監獄へ連れて行かれた、二日目か三日目かの朝だっ
して、僕は自動車で、そこからいくらもない逗子の千葉病院に運ばれた。そしてすぐ手術台の上に横たわった。
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お祖父さんは楠井力松と言った。和歌山の湊七曲りというところにあった、かなり大きな造り酒屋だったそうだ。
の伯父は、とうに中将で予備になって、今は和歌山に隠居している。
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もう一つの僕等の方と隣りの建物には、山形というやはり少佐か大尉かの家があった。僕の父もその頃
も男の子が二人いた。その上の四郎というのは山形の一番上のと同じ年恰好だった。横井の家にも僕と同じ
山形の家には僕より二つ三つ上のを頭に四、五人
その二人とほんとうに親しむことはできなかった。僕はその山形の中にも多分の野獣性が潜んでいるのを見ていた。
の野生的なのを馬鹿にしていたようだった。山形の次郎もお坊ちゃんだった。が、彼は長い間町の方に
その山形の家からお化が出た。
ある晩、山形の「伯母さん」というのが、便所へ行った帰りに、手を
山形家は大騒ぎになった。もといた家の近所の、町の若衆が四
そんなことが幾度も繰返されているうちに、最後に、山形のお母さんがふだんから信心しているある坊さんが祈祷に来た。そして
、何等かの策略のようにうわさしていた。山形のお母さんというのはちょっと意気なところのある人だった。
どうしてもあのお化を信ずると言っていた。山形は僕より二年前に幼年学校にはいっていたのだ。
その後四、五年して、名古屋の幼年学校で山形の太郎と会った時、自分はこの耳でその音を聞いたんだ
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の秀才が勉強するにはそのほかに方法はなかった、新潟の師範学校にはいっていた。彼女もやはりその姉さんと同じ運命に従っ
農村の若い衆になりきっているものもはいって来た。新潟や長岡の中学校の食いつめものもいた。
越後はまだ直江津までしか鉄道がなかったので、新潟から船でそこまで行った。汽船や汽車に乗ったのは勿論、そんな
を真ん中にして降り積る雪の中を七里の間、新潟まで送って行った。
「それじゃあなたは新潟へはいらっしゃらなかったんですか。」
「え、行きません、母は新潟にいるんですか。」
「ええ、きのう新潟病院でおなくなりになりました。そして、きょう、もうすぐみなさんでこちら
いたのだが、帰ってすぐ手術をすると言って新潟へ出かけたのだそうだ。しかも、「なあに、二週間もすればぴんぴん
が立ちましてね。何もそんな覚悟までして、わざわざ新潟くんだりへ手術なぞしにいらっしゃらなくてもよさそうなものだと思いまして
いるのを見た。礼ちゃんも二、三日前から新潟の母のところへ行っていたのだ。たしかその晩だったと思う
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、彼のほんとうの父は何とかという人で、金沢で大久保利通を暗殺した一人で、しかもその最初の太刀を見舞ったの
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末川家は鹿児島の家老の家柄で、その主人はもと海軍の主計監とかをして
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三好校長は深田教頭と一緒に、長野の中学校へ行くこととなった。その送別会が仲町の何とかという
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。彼もやはりドイツ語を希望していた。そこへ、熊本の地方の先輩である石川が、休暇で東京に遊びに来ていて
「隅田は大変肺を悪くしましてね、熊本の憲兵隊長をしていたのをよして、今はこちらに来
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に、全校の生徒が、修学旅行で大和巡りに出かけた。奈良から橿原神宮に詣でて、雨の中を吉野山に登って、何とか
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。いつも薄ぎたない着物を着て、頭を坊主にして、秋田あたりのズウズウ弁で愛嬌のある大きな声をだして女中を怒鳴っていた
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がいた。やはり僕とほとんど同時頃に、男色で、仙台の幼年学校から逐われて来たのだった。
落ち合って、これもすぐ友達になった。みんな、名古屋、仙台、大阪と所は違うが、同じ幼年学校の同期生だったのだ。
一期上で、そして僕等よりも一年ほど前に仙台を出た箱田というのが、その年に高等学校へはいって、ちょいちょい僕
はまた幾度も休職になりかかった。父はそのたびに仙台へ行って、旅団長のために弁解して、師団長と激論した。そんな
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副官の何かの不しだらの責を負って、旅団副官から福島連隊区の副官に左遷されたのだった。
は外国語学校の入学試験に及第するとすぐ、父のいた福島へ行った。父はその少し前に、部下の副官の何かの不しだら
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赤旗事件でやられて、東京監獄から千葉監獄へ連れて行かれた、二日目か三日目か
もっともその以前東京にいた時のことも少しは記憶している。
同じ近衛から新発田へやられるもう一人の下士官と一緒に、東京を出た。僕はその旅の中で、碓氷峠を通る時のこと
僕が幼年学校にいた頃、暑中休暇に、ふと道で東京でこの先生と出っくわしたことがあった。昔と同じように口もとを引きしめ
持って、みんなでどこかへ出かけて行った。僕は東京へ行くというのは嘘だろうと思ったが、そのやりかたが大げさな
母は「もうこんな強情な子の世話はできないから、東京の山田の伯母さんのところへ行ってしまう」と言って、女中や子供
最初は東京までのつもりで、十円もらって出かけたのだったが、それが名古屋
つましい家ばかりなので、一向面白くなかった。そしてすぐまた東京に帰って、一カ月あまり遊んでいた。
軍人精神を吹っこまれて、各地方のものがみんな東京の中央に集まるのだった。
本籍を持っているものは、その師団司令部所在地の、すなわち東京の地方にはいった。そしてそこで三年間いわゆる軍人精神を吹っこまれ
幼年学校は、東京に中央幼年学校というのがあって、そして当時の六個師団の各
東京の地方にはフランス語とドイツ語とロシア語とがあった。が、その他の
そこへ、熊本の地方の先輩である石川が、休暇で東京に遊びに来ていて、一緒に落ち合った。彼はやはりドイツ語で、
た大久保を訪ねた。彼も去年は落第して今年は東京の地方に及第したのだった。彼もやはりドイツ語を希望してい
名古屋へ行く途中、東京で、一、二年前から上京していた大久保を訪ねた。彼
とか三十年祭とかいうんで、その殿様夫婦が東京からやって来た時、僕は彼等の通ったあとの麝香か何
最初遠慮していた。が、他国の先輩、ことに東京から来た先輩がすぐに僕をそこへ連れて行った。
寝静まってから左翼の方の寝台へ遊びに行くこともやはり東京から来た先輩に教わった。「仲間」の仕事というのは、これ
この東京から来た先輩の中には、もっとも「仲間」ではなかったが乃木
寝室のものの中に、中村という男がいた。東京のもので、口先きばかりでなく、真から元気のいい男だった。そいつ
の規則書を貰うことは忘れなかった。そして別に『東京遊学案内』という本をも買った。
が、東京に着くとフランス語のある中学校の、学習院と暁星中学校と成城学校との
と石川県人との間にごたごたが持ちあがった。石川県人は東京やその他の県の有力者に助けを求めた。
は味方の四、五人と謀って、敵に結びついた東京の一番有力な何とかという男を、撃剣場の前へ呼び出した
僕はその夏東京で買った『遊学案内』をひろげて見た。そしてそれの中学校の上級
た。そして終日、離れの一室に籠って、近い将来の東京での自由な生活を夢みながら、自分の好ききらいには構わずに、一人
にお願いしますわ、早く栄さんのお望み通りに東京へ出しておやんなさるといいわ。」
毎晩遅くまで勉強していらっしゃるんだわ。そして近いうちに東京へいらっしゃりたいですって。これからの方針も何もかも、もう自分一人
「とにかく東京へ出して勉強はさせてやるつもりだが、文学というのだけは
「お父さんも東京へ出してやるとおっしゃるんだから、今晩はもうこれで室へ帰って
出身で英語がお得意なので、やはり何とかして東京へ出て語学校へはいりたいと言っていた。父も、以前に
やっていた。そしてそのフランス語を大成さすべく、しきりに東京へ出て語学校へはいりたがっていたのだ。礼ちゃんの花婿の
東京に着くとすぐ、僕は牛込矢来町の、当時から予備か後備かになっ
そして僕は、正月の休みの間に探し歩いた、猿楽町の東京学院へ(今はもうないようだが)、中学校五年級受験科という
こうして僕は、東京に着く早々、何もかも忘れて夜昼ただ夢中になって勉強し
東京学院にはいったのも、またフランス語学校にはいったのも、僕は自分
思った、その自由が今完全に得られたのだ。東京学院の先生は、生徒が覚えようと覚えまいとそんなことにはちっとも構わず
Y新聞のD(幸徳)やS(堺)、M(東京毎日)新聞のK(木下尚江)W大学のA(安部磯雄)などの
「いや、僕は今東京から来たんです。」
礼ちゃんはまた口を切って、東京での僕の学校の様子を聞いた。僕は去年の暮に、この
十月の初めになって、僕は東京中学校(今はもうないようだ)と順天中学校との五年の試験を
さしては受験料を儲けるのを例としていた。東京中学校のも順天中学校のもその最後の第三回目の生徒募集の時
今はどうか知らないが、その頃の東京の私立のへぼ中学校では、ほとんど毎学年毎学期に各級の入学試験をやっ
しかし、万一の時にはと思って、少し早くからはじまる東京中学校のは自分で受けて、順天中学校のは換玉を使うことにきめ
ところが、僕自身が受けた東京中学校の方は、僕の大嫌いな用器画が三題ともちっとも分らないで、
してからのことと思うが、彼女とその夫とを東京衛戍病院に訪ねた。どうして彼女等がそこにいることを知った
いたが、その後どこかへ転任して、今病気で東京に帰っているんだというような話をしていた。そして僕
その時隅田は、前に東京へ出て英語を勉強したいために憲兵になって、憲兵何とか
場合には、もういっさいをなげうって、飛び出すんです。すぐ東京へ逃げていらっしゃい。僕がいる以上は、どんなことがあっても、あなた
この登坂とは、その年の一月、すなわち僕が東京へ出て来るとすぐ、市ヶ谷の幼年学校の面会室で出遭った。そして
も大して愉快ではなかった。そして一カ月ばかりしてまた東京に帰った。
宿屋の方の多少の払いをして、僕一人急いで東京に帰った。神近から少しでもまとまった金をかりたのはこれが
夜十時頃になって、もうとうに東京へ帰ったろうと思っていた伊藤から、電話がかかって来た。ホテル
朝飯を済ますと、伊藤はすぐ出て行った。勿論東京へ帰ったのだ。が、神近はそれを疑っているようだった。
な意味の、あまりに突然のものだった。僕はすぐ東京へ出た。そして彼女をその家に訪うた。が、彼女は僕の
「あのね、すぐ医者を呼んで下さい。それから東京の伊藤のところへすぐ来るように電話をかけて下さい。それからもう一
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いた。それともう一人、石川の家の筋向いの、大久保という大尉の家の子供と、それだけがすぐに友達になってしまっ
て、町の小学校に通っていたところから、石川や大久保とは違ったレファインメントを持っていた。したがってその二人とほんとうに親しむ
たが、お互いに軽蔑し合っていた。石川と大久保とは古くから向い合って住んでいて仲が善かった。僕はこの二人
石川や大久保の家ではこのお化の話をてんで相手にしなかった。そしてそれ
美少年の石川や大久保は玉子さんびいきだった。それで僕はなおさら玉子さんを嫌って光子さん
とも大沢が級長で僕と大久保とが副級長だった。大久保は僕よりも一つ年が多く、大沢は二つくらい多いようだった
ことができずに、二年とも大沢が級長で僕と大久保とが副級長だった。大久保は僕よりも一つ年が多く、大沢
終る少し前のことだった。ある日先生から、大沢と大久保と僕と三人に、その晩先生の下宿を訪ねるようにと言われ
のほんとうの父は何とかという人で、金沢で大久保利通を暗殺した一人で、しかもその最初の太刀を見舞ったのだと
子は大がいそこにはいった。石川もはいった。大久保もはいった。また、前に言った威海衛の戦争の時に一週間山
非常にお得意らしかった。彼はフランス語をさんざんにけなした。大久保と僕とは、何が書いてあるんだかちっとも分らない亀の子文字の
、東京で、一、二年前から上京していた大久保を訪ねた。彼も去年は落第して今年は東京の地方に及第し
、大久保のお父さんを訪ねた。上京のたんびに僕はこの大久保のうちへ遊びに行って、そのすぐ向いに下宿屋のあることを知って
当時から予備か後備かになっていた退役大尉の、大久保のお父さんを訪ねた。上京のたんびに僕はこの大久保のうちへ遊びに
すぐ帰れ」というのだけを見て、驚いて向いの大久保から旅費をかりて上野の停車場へ駈けつけたことを思いついた。
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だけを見て、驚いて向いの大久保から旅費をかりて上野の停車場へ駈けつけたことを思いついた。
僕は父の軍隊を上野停車場で迎えた。そして一晩駅前の父の宿に泊った。
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いうように聞いたが、そしてそれから間もなく一度銀座でたしかにその人らしい顔をちょっと見たのだが、どこにどうし
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堺君の家からあしたの市民大会のビラを抱えて、麹町三丁目あたりからそれを撒き歩きはじめた。その時僕はふと礼ちゃんらしい
それから幾日目だったか、ある日、礼ちゃんが麹町の僕の下宿に訪ねて来た。
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になって、電車の値上反対運動をやった。そして日比谷で市民大会というのを開いて、そこで集まった群集の力で電車
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の一月、すなわち僕が東京へ出て来るとすぐ、市ヶ谷の幼年学校の面会室で出遭った。そして彼から、新発田での旧友で
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僕はまた、壱岐坂上の貸本屋のほかに、神保町あたりのある貸本屋のお得意にもなっていた。そこには、小説本
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に行ったが、ことに下宿を登坂や田中のいた月島に移してからは、ほとんど毎日学校の往復に寄って、雑誌の帯封を
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僕はそう思いながらすぐ永田町へ出かけた。
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夏は子安辺で水泳の先生をして、毎年の冬隅田川で寒中水泳を催している。