中世の文学伝統 / 風巻景次郎

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地名一覧

天野山

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京近くへ帰ってきて、三十代に熊野、高野山及び天野山、吉野山にこもった。これが修業時代で、五十代に入ると、西国

箱根

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たまくしげ箱根の海はけけれあれや二国かけてなかにたゆたふ

河内国

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とげられ、弘和元年『新葉集』を撰ばれた頃は河内国に住居された。しかしその後の御事蹟は不明で、薨去の年月も御

伊豆

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ちはやふる伊豆のお山の玉椿やほよろづよも色はかはらじ

下総国

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。応永八年美濃に生れた。常胤の子胤頼が下総国香取郡東荘を領してから東氏を名乗った。胤頼は定家の門弟で

弘川寺

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ときで、しばらく京の近くにいて、それから河内の弘川寺に入った。醍醐の末寺で古義真言宗の寺である。

ていたが、望みのごとく文治六年二月十六日弘川寺で世を終ったことが知れると、京都の歌人の間には西行の死

宇治

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宇治関白頼通の頃、美術史の方でいえば法成寺や宇治の平等院が出来たいわゆる藤原時代の頂上で、文学史の方でいえば『

葛城山

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白雲の絶間になびく青柳の葛城山に春風ぞ吹く

河内

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歳のときで、しばらく京の近くにいて、それから河内の弘川寺に入った。醍醐の末寺で古義真言宗の寺である。

長い期間を維持出来たのは、大和・伊勢・紀伊・河内・和泉がその勢力範囲であって、大和アルプスを脊椎とした大山岳地帯全体が海洋

九州

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・地理的な事実が背景となっていたため、西は九州、東は信州・北陸から関東・陸奥にかけ、常に連絡も取れたし

北海道

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今私は北海道の地に来て、札幌の静かで深い秋のけはいの中に沈んでいる

吉野山

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帰ってきて、三十代に熊野、高野山及び天野山、吉野山にこもった。これが修業時代で、五十代に入ると、西国の旅に

吉野山ほき路づたひに尋ね入りて花見し春はひとむかしかも

わが宿と頼まずながら吉野山花に馴れぬる春もいくとせ

四国

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五十代に入ると、西国の旅に出た。備前から四国にわたり、おもに讃岐にいて、筑紫まで行ったようだ。六十九歳になっ

比叡

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あって、精しくはそれを見ていただきたい。)とにかく、比叡に学び、後諸国行脚もしたが、大体は為世の門に学んだ都

熊野

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した。また京近くへ帰ってきて、三十代に熊野、高野山及び天野山、吉野山にこもった。これが修業時代で、五十代

院頃から後鳥羽院にかけて、歴代の上皇方はしばしば熊野へ詣でられるようになって、一生の中には数十回に及んだお方

。出家当時は京都にいたり、三十くらいになってから熊野や高野へこもったりしたらしいことも、それを暗示するものかもしれない

どうにも攻め様がなかったのと、今一つは熊野の海は海賊の根拠でもあって、それが吉野朝の命に従って

大覚寺

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である。そして両家の対立は、実は皇室における大覚寺・持明院両統の対立を後にしておったのである。

の後伏見天皇であるが、わずか三年の御在位で、大覚寺の後二条天皇の御代となり、後宇多の院政となった。すると正安三年

東大寺

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建保四年六月、実朝二十五歳である。東大寺の大仏修理をした宋人陳和卿が来た。実朝に謁して前生は

法成寺

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、その子宇治関白頼通の頃、美術史の方でいえば法成寺や宇治の平等院が出来たいわゆる藤原時代の頂上で、文学史の方でいえ

美濃国

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妙椿が、乱の紛れに東氏の先祖が拝領した美濃国山田荘を横領したので、常縁は頗る悲しんで一首の歌を詠じ

札幌

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今私は北海道の地に来て、札幌の静かで深い秋のけはいの中に沈んでいる。そして多くの友の戦争

奥州

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それから伊勢へ行ってしばらく住んだらしく、それから東海道を奥州まで旅した。また京近くへ帰ってきて、三十代に熊野、高野山

川越

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はじまると関東に逃れ、文明元年心敬の供をして川越の太田道灌のもとに招かれた。それから美濃の郡上城に赴いて常縁

、文亀二年に門弟宗長を伴って関東へ出、川越に行き、箱根湯本に到って旅に死んだ。年八十二。連歌に関する家集

鎌倉

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の逸話を挿むことにしよう。それは『今鏡』という鎌倉の初期に書かれた歴史文学の「村上源氏、にひまくら」の章に

諸学者が訓をつけたのが次点、そして源頼朝が鎌倉へ幕府の基礎を置いた元暦元年に、有名な『元暦校本万葉集』が成っ

ばかり読めない歌が残っていたのだが、それは鎌倉の中頃、仙覚律師の新点で一応すべて訓み解かれるようになるのである。

。六十九歳になって再び伊勢に行き、そこから東海道を鎌倉に出て頼朝に謁し、はるか奥州平泉まで藤原秀衡に会いに行った。旅

である。そしてまた、公家の人たちは、平安末から鎌倉のはじめにかけて深刻な不安を感じつつあったということである。まず

定家ともよく行き来した。しかしその子の信実は、鎌倉第一の画家といわれ、後鳥羽院が隠岐へ遷幸の際、特にお姿

て生きるのである。朝権に対抗する力は今では鎌倉に代表されているのである。そういうお心からの政事方面の院

の、朝権に対する志向をたからかにうたいえたものは、鎌倉の将軍実朝のみであった。後鳥羽院と実朝、この組みあわせの上にのみ、

て殿前に植えた木で、大臣を意味する。金は鎌倉の鎌の篇を取ったのであろう。だから鎌倉右大臣家集の意で

月六日改元、建保元年となったのだが、恐らく鎌倉でできた原本には、改元のことが徹底しないで、旧年号のまま

がたよっていた人々はみないずれかといえば、鎌倉に対して何らかの関係のある人たちであった。上にかかげた

後嵯峨院の皇子の将軍宗尊親王の御師範として、鎌倉へ行っていたので、その筋の力によって撰者の中に加え

庄とも横領して譲らないので、為相の母阿仏は鎌倉まで下って訴えた。『十六夜日記』『夜の鶴』『庭の訓』

いう。さて阿仏の訴訟は容易に決まらない中、阿仏は鎌倉で歿し、引きつづいて弘安九年為氏六十五で薨ずると、二条家では嫡子為世

ところで為相は母とともに鎌倉に下り、彼の地で薨じたので、自然京都に歌の家とし

腹の尊良親王も、種々辛酸を嘗められ、尊氏が鎌倉に叛したときは、為冬は親王を奉じて討伐に向ったが、

京極

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十二 二条・京極・冷泉三家の分立、持明院統と大覚寺統、分立の意義、為世歌論

は、むしろ江戸時代になってからである。ただ二条・京極の両流はいずれも吉野時代に歌壇の棟梁となるべき血統が絶えたので

界内部に対しては、全く無関係であり、専ら二条・京極の対立によって時代は展開して行ったのである。そして両家の対立

以上は鎌倉時代末期における二条・京極・冷泉三家分立の概略であって、関東にあった冷泉は別とし

は、それに十分善処しながら、歌風の上ではあくまで京極・冷泉末流の、ことに正徹の新古今風に対し、二条派の草庵体

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林宗二に伝えたのが奈良伝授、当時奈良は旧都、堺は外国文化を京阪に移入する唯一の貿易港自由都市として発達しはじめておっ

末期の文化はこの両地に多く保存されたし、また堺は新文化発生の地ともなった。それらの関係で、歌人連歌師茶人

高野山

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。また京近くへ帰ってきて、三十代に熊野、高野山及び天野山、吉野山にこもった。これが修業時代で、五十代に入る

神護寺

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も絵には一層すぐれていた。国宝になっている神護寺蔵の重盛と頼朝との画像は隆信の筆といわれて、すでに知って

伊勢

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。この間還俗されて宗良の御俗名を用いられ、伊勢・遠江・越後・越中等におられたが、おもには信州におられたので

加賀

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月以下四回)があって、精しい。その寂超と加賀との間には定家より二十歳ばかり年上の隆信という兄があった。母

日吉

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二十六のとき、出家しようかと思いつめて慈円になだめられ、日吉に参籠して一七日の間に千首歌を詠んだ。これが『為家

九条

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とにかく俊成は清輔の死によって、九条家に拾い上げられてからは、歌界の重鎮となって、実にめざましい活躍

これ程のことをしているのであった。これは九条・西園寺の親幕政策がことをここに至らせたというよりは、中世封建

力を適当に評価して、これを敵にまわさなかった九条・西園寺が京都の政治を左右できたし、それに結びついた定家の一党

関東

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、実朝の添削をするようにもなり、嫡子為家には関東の豪族宇都宮頼綱の女を娶るという風であった。しかもそれは北条時政

おくれて関白に就いた。乱後の勢としては、関東との関係上こうならざるを得なかったろうが、その結果は、定家の一身上

いうよりは、彼が家隆と組んで行うには余りに関東への結びつきが強くなりすぎておったためだったかも知れぬ。そのよう

を蒙った歌仲間の思わくも如何である。とはいえ、関東の意況を考えれば難しいといって、進退に窮したりもした。佐渡

しかし作家の人選の点になると、関東関係の政治権力の影響と、定家自身の歌人的地位からくる私情的人選の

たのは別として、泰時・重時・政村などは関東の意を汲んだので、蓮生坊宇都宮頼綱は岳父だから、信生法師は

られたが、幕府の力で即位されたので、関東に対し御謙遜になっておった。後、第一皇子(後深草)が即位

二条・京極・冷泉三家分立の概略であって、関東にあった冷泉は別とし、二条・京極両家が、両統のかわるごとに

ていたため、西は九州、東は信州・北陸から関東・陸奥にかけ、常に連絡も取れたし、それに北条氏討伐御計画の頃

を移して種玉庵といった。応仁乱がはじまると関東に逃れ、文明元年心敬の供をして川越の太田道灌のもとに招か

行き滞留二年、文亀二年に門弟宗長を伴って関東へ出、川越に行き、箱根湯本に到って旅に死んだ。年八十二。

佐渡

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『新後撰和歌集』である。この年為兼はゆるされて佐渡から京に帰った。

吉野

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。これが平安時代に六集、鎌倉時代に十集、吉野・室町時代に五集、併せて二十一集撰ばれている。これを併せて二十一代

白雲と見ゆるにしるしみよしのの吉野の山の花ざかりかも

み吉野のたかねの桜ちりにけりあらしも白き春の曙

大覚寺統は吉野へ移られたが、為世は老衰した世捨人で、京の方にい残っ

元来吉野の朝廷は、吉野にばかり在ったのでなく、皇居はしばしば移っていること

元来吉野の朝廷は、吉野にばかり在ったのでなく、皇居はしばしば移っていること、また京方の諸

おられるところであるけれども、何といっても大体は吉野が中心であった。あの南和の山岳地帯に、吉野時代を通じて朝廷

和歌を風流の嗜みと化した数寄者の偸安でもない。吉野の廷臣に歌を歌わせたものは、自らに悲運を感じた感傷であっ

尊氏の叛逆を認容できないが、だからといって、吉野の廷臣がすべて英雄になったとはいいたくない。鎌倉末の京都貴紳が

都だにさびしかりしを雲晴れぬ吉野の奥のさみだれの頃     〃

み吉野は見しにもあらず荒れにけりあだなる花はなほ残れども

また天台座主にのぼられた。尊氏の謀叛によって、吉野へ落ちられた後は、薨去まで約五十年、全く流離困乏の御生活であった

筑紫

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出た。備前から四国にわたり、おもに讃岐にいて、筑紫まで行ったようだ。六十九歳になって再び伊勢に行き、そこから東海道を

には大内正弘に招かれて、周防山口に下り、さらに筑紫に旅をした。その間に心敬・一条兼良・太田道灌ら相ついで

東福寺

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世を諷して美濃に流され、後帰って出家し、東福寺に入り、仏照派の下僧となり、栗棘庵に住み、右筆となり

京都

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伝統が流れる時代である。近世の江戸時代になると、京都の公家の和歌はいわゆる堂上家の歌といわれて、幾分旧式のよう

である。この時代は平安時代の伝統を承け継いで、全く京都の宮廷を中心にした公家の間に和歌の伝統が流れる時代である

和歌、というよりは京都宮廷の文化の一転機が、『拾遺集』から『後拾遺集』の

方というものは一ばん目に立つのであるが、元来京都にあった村上源氏や藤原氏の諸流にしても、案外なほど

西国の富裕な地盤にものをいわせて、無理おしに京都へ押し出てくる。このようにして、地方の国司から出て太政

ある院別当などを頭に立てて、源氏平家の武力を京都で行使させるという風になっていたときなので、摂関大臣

であったか、世捨て人になったかした。勿論、京都宮廷をとりまく貴紳の子弟であるから、官位の昇進を他所に見て、

いっている。それらを綜合して考えると、当時の京都貴紳の間においては、たとえ『万葉』がたしなまれても、それ

て要求された詩である。当時としては、京都の中流公家の古く誇らかな家の歴史の故に、下品で露骨な競争

崇徳天皇の保延六年で、真言宗である。出家後しばらく京都近くに居り、それから伊勢へ行ってしばらく住んだらしく、それから東海道を

月十六日弘川寺で世を終ったことが知れると、京都の歌人の間には西行の死にふかい反響がおこった。七十三歳で

をなかなか処理しきれなかった人のようだ。出家当時は京都にいたり、三十くらいになってから熊野や高野へこもったりしたらしい

、その兼実にしてこの嘆きを持ったのである。京都貴紳が去就にまよって綱の切れた舟のようになったとして

いた藤原氏や村上源氏の数多い門閥の集団、つまり京都の文化圏を保ってきた公家の社会が、その存立の基礎に不安を

思い出していただきたいのは、和歌は漢詩と相並んで、京都宮廷を中心にした貴紳の文学の主軸であったということである

、まだ一つの歌壇に結成されていなかった。京都宮廷を中心にして、新古今時代のはなやかな歌壇が生れたのは

、後白河院政の末年から、後鳥羽院御在位の間は、京都には歌壇というものはまだ結成されておらなかった。ただ六条家

その家の範囲内で歌合を催してはいても、京都を打って一丸とするような歌壇というようなものはなかったので

を携えた使者が京都から帰着しているのである。京都の歌人間または高貴の所々に伝写の本がひろまらぬわけはない。

日には『新古今』の写本一部を携えた使者が京都から帰着しているのである。京都の歌人間または高貴の所々に

信清の女が北の方となって下ったときから、京都趣味は実朝の身辺にあったが、もともとは実朝の胸の中にあっ

しても、だからといってそれだけでは当時の京都の歌人よりえらいという理由にはならない。現に『金槐集』にし

歌によって、実朝は晩年に近くなるにつれ、一層京都化して新古今調になったのではないかという推定説すら

和歌のならわしとなった感懐の持ち方なのである。京都の生活と、伝統文化への憧れとを知らぬ、東国の野性の「

吸われたという伝説の生れた、その愛である。京都の中にいて、水の漏れるような隙を鵜の目でさがしつつ

中にあっては一臣民であった。その点では京都の宮廷貴紳と何のかわりもあるわけはない。そこに、

は十二首を採っている。右のような点には京都内だけでの政治的関係や、歌壇的勢力関係がかなり鋭く反映している

思う。そして一刻も忘れてはならぬことは、これが京都の中堅貴紳の欲望であったということである。

に鎌倉に下り、彼の地で薨じたので、自然京都に歌の家として力を張ることは出来ず、武家方に門弟

鎌倉時代には冷泉家は、殆ど訴訟のことばかりで、京都の歌界内部に対しては、全く無関係であり、専ら二条・京極の

けれど、当時の情勢はまさに、それほどに、封建勢力が京都を左右しておったのである。だから二条家が大覚寺統に

して、これを敵にまわさなかった九条・西園寺が京都の政治を左右できたし、それに結びついた定家の一党が、歌

は、冷泉為相と細川庄の問題を争っただけで、京都歌壇における二条・京極の対立はまだ起り得なかった。いわば為氏

高野山の蓮花谷に隠棲したが、元弘建武の間また京都に帰ってもいる。かくて延元三年八十九歳を以て世を去った

四年)は五十歳であるが、師の亡き後は京都歌壇の元老であった。その後二十年ばかりの中に家集をまとめ、

に生れている。あの混沌とした建武中興瓦解後の京都では、生活を守るには数寄の生活のほかなかったであろう。かかる

だからそれは、和歌人だけのものでなく、当時の京都の文人詩客に通ずる生活情調を土台に生れている。あの混沌とした

がすべて英雄になったとはいいたくない。鎌倉末の京都貴紳が数百年来未曾有の吉野流離という非常事を体験したことに

親王・北畠親房・北畠顕家みなそうであった。だから京都の第宅に遊園を愉しむ生活に比べれば、すこぶる荒涼として、艱難辛苦

や『応安新式』やが作られてから、連歌はいよいよ京都での流行を増した。しかも、能楽といわず連歌といわず、それ

観世座の観阿弥・世阿弥父子が義満の寵によって、京都に進出し、田楽の座の能や、諸国の猿楽の座の芸を

芸術でないばかりか、数寄風流ですらない。それは唯京都文化の分け前に与っているという自己満足の具となったのである。

ておよそ三十年、織田信長はすでに足利将軍を追って、京都に君臨しておったのである。

奈良

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れて来ているが、そこまでは溯らなくても、奈良・平安時代の御神楽には、天鈿女命が岩戸の前で踊ったよう

根拠は全国にある荘園である。もちろん日本の人口は、奈良時代には一千万に足りなかったと学者は考えているが、この時代に

た。翌々年正和四年には春日神社へ願立のため奈良へ赴いたが、勿論これは再び持明院統のために画策するところがあっ

伝授、肖柏から林宗二に伝えたのが奈良伝授、当時奈良は旧都、堺は外国文化を京阪に移入する唯一の貿易港自由都市として

たのが堺伝授、肖柏から林宗二に伝えたのが奈良伝授、当時奈良は旧都、堺は外国文化を京阪に移入する唯一の貿易港

高松

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、さらに五摂家に分れて今日に血を引いたが、高松殿腹の長家の筋は摂関大臣に登る家柄にはなれないで、普通

関白道長の子長家から出た。道長には倫子と高松殿と北政所が二人あるといわれたほどであったが、やはり嫡妻

宇都宮

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重代の家来たち、和田・三浦・畠山・比企・朝比奈・宇都宮などの諸豪族は北条氏に対する反感を深くしているのに乗じ、

添削をするようにもなり、嫡子為家には関東の豪族宇都宮頼綱の女を娶るという風であった。しかもそれは北条時政の孫女

ので、蓮生坊宇都宮頼綱は岳父だから、信生法師は宇都宮の一族の上、実朝と歌の上で親しい臣家でもあったから

・政村などは関東の意を汲んだので、蓮生坊宇都宮頼綱は岳父だから、信生法師は宇都宮の一族の上、実朝と歌の

為家の室宇都宮頼綱女には為氏・為教があった。しかし晩年安嘉門院四条を後妻と

金沢

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集』は実朝一生の作と思われていたが、金沢の松岡氏蔵の定家所伝の『金槐集』を昭和四年に佐佐木信綱

千葉

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守となった。東野州と呼ばれる所以である。その後千葉氏の内乱のため東荘へ下ったりしている頃尭孝・正徹とも

歌学の対立の後、東常縁が出た。東常縁は千葉介平常胤の子孫で、本来平氏。応永八年美濃に生れた。常胤

福井

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註 宗祇については福井久蔵博士の『連歌の史的研究』という良著の中を見られると、

大宮

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、状を幕府へ訴えられた。幕府は後嵯峨院の皇后大宮院に上皇の御遺志をうかがったところ、亀山天皇の御筋を立てるべし