茶話 02 大正五(一九一六)年 / 薄田泣菫

茶話のword cloud

地名一覧

岩代

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岩代猪苗代湖のなかに翁島といふ小さな島がある。樹木のこんもり繁つた静かな

善光寺

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信濃の善光寺から七八里ばかしの村に近郷切つての富豪がゐる。女房は世間並に

それを聞くと、善光寺の世話方も吃驚したが、一番魂消たのは矢張如来さんであつた

薩摩

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ある薩摩の殿様に、九十を過ぎても色々の道楽に憂身を窶さないでは居

薩摩の殿様は、ある日籠のなかから、栗鼠と梟とを取出させて喧嘩

椿山荘

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「噂を聞きますと、この頃椿山荘をお売りになつたさうですね。お幾らでした。」

伊勢

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伊勢の山田から二里ばかりの在所に磯村といふ土地がある。言ひ伝へによると

伊勢は寂照寺の画僧月僊は乞食月僊と言はれて、幾万といふ潤筆

高野山

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これだけは是非何とかしなければといふので近々高野山に素晴しく大きな英霊塔を建立する考へださうだ。

なからう。尤も学者や芸術家は生前忙しく暮した故で、まだ高野山を見ないで死んだ輩も多からうから、博士の手で無賃乗車券でも配

高野山には色々な人のお骨がたんと納まつてゐる。あれは弥勒出世の

岡崎

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酒井家の説によると、家康の祖父清康が岡崎にゐた頃戦があつた。酒井家の主人は気の利いた男だ

遊んでゐた事があつた。ある日ひよつくり思ひ立つて岡崎にゐる上田敏博士を訪ねた。相手が上田敏氏と島村抱月氏の事

天龍寺

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むかし天龍寺塔頭のある寺にあつた書院の杉戸は、探幽の筆として聞えて

大阪市

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氏と広岡浅子氏とが一緒になつた。この婦人会は大阪市の有力な夫人が集まつて、姉さんごつこのやうな事をして遊ぶ為

葛城

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は、頭の悪いのと同じやうに恥づべき事で、葛城の神様などは、顔が醜いのを恥しがつて、夜しか外を出歩か

豊橋

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廓返りに馬を連れて、古い素麺箱を一つ、豊橋のさる骨董屋に担ぎ込んだ。

鴨川

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むかし京都で物好きな男が三四人集まつて鴨川のほとりで茶を煎じて遊んだ事があつた。(菅茶山が言つた

大徳寺

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亡くなつた市川斎入は茶人だけに、紫野の大徳寺にある、千利休の塔形の墓石に甚く感心をして、

関西

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関西へ来たなら、是非見せて置きたいものが二つ三つある。一つ

靖国神社

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工学博士田辺朔郎氏は、軍人軍属のためには靖国神社を始め、色々の鎮魂の道具があるのに、学者や芸術家にはそんな設備

加茂

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異つた伝説を持つてゐる。本多家の祖先某はもと加茂の社家であつたが、豊後の本多荘に流されたので、本多を

加茂の社家だつただけに本多家では二葉葵を紋所に使つてゐる

道頓堀

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亡くなつた高田実は、道頓堀の劇場へ出る時には、いつも日本橋北詰にある定宿へ泊つたものだ

今津

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むかし今津に米屋与右衛門といふ男が居た。富豪の家に生れたが、学問が

肥後生れの儒者で、京都の望楠書院で鳴らし、摂津の今津へも十年ばかり住むでゐて弟子取をしてゐたので、京阪

大阪

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上り列車で同志会総理加藤高明男が南海遊説の帰途に大阪へ立寄るといふので、まだ薄暗い朝靄のなかから、一等待合室へ顔を出し

とだけは思つてゐるのだが、幸ひ今日男爵が大阪へ来る事なら、一寸顔出しをして、従来の気まづさと旅費の張消し

鴈治郎と歌右衛門とが大阪での顔合せが、梅玉父子の意地張から急に沙汰止みになつたので

氏の漫画葬式をやつたのは面白い企てであつた。大阪のやうな土地柄では名妓の落籍される場合などには、以前の関係

久保田米僊は、大阪の鱧も、京都へ持つて来て、一晩加茂川の水へ漬けておく

こそこの上もなく静かなものだつた。その日は大阪にゐる友達から、名高いお城の黄金水を送つて来たからそれでお茶

岩野氏夫妻がまだ大阪にゐた頃、良人の泡鳴氏が新聞社に出掛けると、清子女史は時々良人

虎列拉が流行り出した為め大阪名物の一つ、築港の夜釣が出来なくなつたのは、釣好きにと

仏蘭西から帰つて来た正宗得三郎氏、あの人が洋行前大阪で自作の展覧会を開いた時、ある文学者がそれを見に往くと、正宗

京都の下長者町に居た頃、南画好きのある男が態々大阪から訪ねて往つて弟子入りをした。

これは英吉利のある田舎町であつた事で、大阪であつた事ではない。大阪では牧師は乞食などに見向もし

であつた事で、大阪であつた事ではない。大阪では牧師は乞食などに見向もしない。そして杖や聖書の代りに

言ふと、中村氏が知つてゐるのは、数多い大阪の芸妓を通じて、若久一人しか無いのだ。

高浜虚子氏が以前何かの用事で大阪に遊びに来た事があつた。その頃船場辺の商人の坊子連

天王寺

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一心寺に元和の往時、天王寺で討死した本多忠朝と家来九人を葬つた墳のある事は、誰

知恩院

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も普通の女学校よりか仏蘭西式の学校を選んだ。知恩院の境内で亡くならないで東京の町のなかで目を瞑つたのは博士が

上田敏博士の追悼会が先日知恩院の本堂で営まれた時、九十余りの骸骨のやうな山下管長が緋の

道成寺

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道成寺の石段7・22(夕)

ある時、この男が紀州の道成寺に詣つた事があつた。その折拍子を踏み/\石段を数へ

兵庫

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兵庫には化狸と間違つて婆さんを叩き殺した者があるさうだ。西洋

明石

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「須磨や明石のあたりから。」

江戸

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京都俳優の随一人坂田藤十郎はよく江戸の劇場へも出たが、その都度江戸の水は不味くて飲めないからと

坂田藤十郎はよく江戸の劇場へも出たが、その都度江戸の水は不味くて飲めないからといつて、態々飲み馴れた京の水を

飲み馴れた京の水を幾つかの大樽に詰め込んで、江戸まで持ち運んだものださうな。水自慢は縹緻自慢と一緒で、自慢する人

ある時、香道の家元蜂谷貞重が江戸に下つて来た。豊和は蜂谷の顔を見ると、懐中から懐紙に

熊野

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ので、道命が法華を誦むとなると、大峰から、熊野から、住吉から、松尾から色々の神様が態々聴きに来たものだ。

富士山

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「富士山の如く」6・17(夕)

の嵩があります。序でに今一つ訊きますが、富士山の高さ程一円紙幣を積むと幾干になるとお思ひですか。

「一寸伺ひますが、往時一夜のうちに琵琶湖とか富士山とか出来たと言ひますが、富士山を取崩したら、見事琵琶湖が埋まるでせ

うちに琵琶湖とか富士山とか出来たと言ひますが、富士山を取崩したら、見事琵琶湖が埋まるでせうかな。」

やうに光つてゐた。「御殿場を標準にして富士山を横断すると、それだけでもつて琵琶湖が十七程埋め立てられる事になります

摂津

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摂津の大物が浦に片葉の蘆しか生きないといふ伝説は古い蘆刈の物語に

斎は肥後生れの儒者で、京都の望楠書院で鳴らし、摂津の今津へも十年ばかり住むでゐて弟子取をしてゐたので

伊予

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伊予の松山は日露戦争以来俘虜の収容地になつてゐるので、そんな事から

東山

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の絹で七度漉した酒を飲ませたといふ、東山の竹酔館は、表の招牌も、

東京市

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は、家族と水盃も仕兼ねない程の旅行嫌ひで、東京市内でも山の手は田舎臭いといつて、滅多に出掛けた事が無いさうだ

落合

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京都から、一人は東京から汽車に乗つて、静岡で落合ひ、日曜日一日を思ふ様楽しく過して月曜日の朝までにはそれぞれ学校へ帰り着く

生玉寺町

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それは生玉寺町青蓮寺の墓地で、この寺は明治三年神仏混淆の時にお廃止に

琵琶湖

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とか出来たと言ひますが、富士山を取崩したら、見事琵琶湖が埋まるでせうかな。」

梅田

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十六日の午前五時四十九分、梅田着の上り列車で同志会総理加藤高明男が南海遊説の帰途に大阪へ立寄る

筑波山

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では水戸烈公より外に偉い人はなく、山では筑波山の外に山らしい山は無いと思つてゐるのが多いが、伝右衛門もその一人で

から、烈公の方は絶念めて、閑さへあると筑波山へばかり登つてゐた。

室生寺

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の墓に相違ないといつて、態々発掘にかゝつた室生寺の境内から、碌な物といつては何一つ出て来なかつたの

姫路藩

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先日硯と阿波侯についての話しを書いたが、姫路藩にも硯について逸話が一つある。藩の家老職に河合寸翁

祇園

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その広岡氏と博士とがある時祇園の大友へ遊びに往つた。大学教授には二種あつて、一種は芸者

の事は※にも出さないやうにしてゐた。祇園の芸妓は辞書と同じ物識だとも思へないのだから。

嵐山

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、滝らしいものが一向に書いてなかつた。これは嵐山の戸無瀬の滝を目の前に控へてゐるので、滝は態と描か

太秦

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太秦の牛祭は、静かな秋の夜半過ぎてからの祭で、鞍馬の火祭

九州

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九州遊説中の原政友会総裁が鹿児島の鶴鳴館で歓迎を受けた時の事

宇治

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な秋の夜半過ぎてからの祭で、鞍馬の火祭、宇治の県祭と並んで夜祭の三絶と呼ばれてゐる。岡崎氏は大の

桂離宮

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京都の桂離宮は小堀遠州が豊太閤に頼まれて、一世一代の積りで拵へた

出雲

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出雲の法名は「文明院岑松立顕居士」で、同寺保存の旧過去帳を見る

この墓地には、出雲の外に、その女房子と、親父の近江、兄弟など六十幾人かの

の間豊に生活を送つてゐた事がよく判る。出雲の父近江は竹田のからくり芝居の元祖で、自分が発明した砂からくり

エルサレム

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むかし基督がエルサレムの何とかいふ郊外を通りかかつた事があつた。暖い日で額

東本願寺

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竹内栖鳳氏は東本願寺の天井に、天人飛行の絵を画く約束で、もう幾年といふもの考へ込ん

茨城

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茨城の北相馬郡桑原村といふ土地に伝右衛門といふ爺さんが居た。一体茨城の

村といふ土地に伝右衛門といふ爺さんが居た。一体茨城の人には、人間では水戸烈公より外に偉い人はなく、山で

倫敦

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メエラント附近の牧師ヰルキンソンが発見したものが一つ、今倫敦の考古学博物館に納まつてゐる。つまり頭をたつた一つしか有たなか

英国の名高い俳優某がある時、倫敦の煤ぼつた市街をぶら/\歩いてゐると、大きな紙包を抱へ込んで

法隆寺

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香取秀真氏が法隆寺の峰の薬師で取調べたところに拠ると、お薬師様に奉納物の鏡

つは京都の博物館にある婆藪仙人と今一つは法隆寺の宝蔵にゐる何とか言つた仏体だ。(以前訳のあつた女の

世の中には米国の雑誌みたいな人も少くない。法隆寺にゐる北畠男爵などはその一人で、暴風のやうなあの人一流の法螺は

男爵になる迄の歴とした系図でも出たら、法隆寺の老人も煙草入のやうな口を開けて喜んだに相違ないが、惜しい

須磨

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「須磨や明石のあたりから。」

シカゴ

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シカゴの或るお婆さんは、「私は聾で加之に唖です。気の毒だと

両国

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ところが、近頃米墨両国の間に、行違ひが頻に起きるので、米国政府は国境に向つてどん/\兵隊を

青山の墓地

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Kは生き残つた母の手で青山の墓地に葬られたが、毎晩のやうにその夢枕に立つて、頭の向

京都

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が京都の田中村に隠退してゐる頃、漱石氏も京都へ遊びに来合せてゐたので、それを機会に二人をさし向ひ

素気なく辞退した事があつた。その後陶庵侯が京都の田中村に隠退してゐる頃、漱石氏も京都へ遊びに来合せて

事があつた。場所は寺町四条の浄教寺で、京都図書館長の湯浅半月氏を始め二三の弾手が集まつたが、聴衆

以前京都で月に一度づつ琵琶法師の藤村性禅氏を中心に平曲好きの人

ことにしたが、短冊と茶菓子の人並外れて好きな京都人も、矢張り最後まで居残る人は一人も無かつたので、折角の

陰陽博士で聞えた安倍晴明の後裔が京都の上京に住んでゐる。ある時日の暮れ方に急ぎ歩で一条戻り橋を通り

この頃京都図書館長を辞めて早稲田大学の図書館に転ずるとかいふ湯浅半月氏は、例

「京都にはもう飽いたからな。」

度と聘ばないのを自慢にしてゐる位だから京都に飽いたといふのに無理も無いが、この評判の女買ひを

※すが、なか/\上手だ。夏目漱石氏が先年京都に遊びに来てからは、

京都に今歳八十幾つかになる老人で、指頭画の達者な爺さんが

「京都では別にこれといつて気に入つた物もないが、唯黄檗

つて一向結構な点が無いので失望した、多分京都や奈良へ往つたら、この償ひがつくだらうと、心細い事を

見せて置きたいものが二つ三つある。一つは京都の博物館にある婆藪仙人と今一つは法隆寺の宝蔵にゐる何と

仏様の笑ひは天人の笑ひである。笑ひといへば京都博物館の婆藪仙人も笑つてゐる。これは地獄を見て来た

先日まで京都図書館長をしてゐた湯浅半月氏に、

京都の西川一草亭氏は、相馬御風氏の論文を見て、こんなに始終人生

京都でさる知名の男が、自分の書斎を新築して立派に出来上つた

―京都の画家が贋物を拵へる事が巧いやうに、京都の女は贋物を産む事が上手だ。孰れにしても立派な腕前

よりも、もつと甚い贋物である事だ。――京都の画家が贋物を拵へる事が巧いやうに、京都の女は贋物を

向ふの天主教の尼さんに聴えないやうに低声で加之に京都訛で、

東京の絵画商人の某が、京都で展覧会を開くために、今尾景年氏の許へ、半切の揮毫を頼み

ある夏醍醐に遊んでゐると、その頃の京都府知事大森鍾一氏が山へ上つて来た。山の坊さん連は

ゐる。で彼方此方を捜し廻るのが、とゞの果は京都にある夫人の許へ、電報で葉巻を催促をする。

大森氏が京都府知事時代に管内の郡部を巡視中、時々持合せの葉巻が切れる事がある

京都の御所を通つた事のあるものは、御苑の植込に所嫌はず西

京都人に食べさせる訳にも往かなかつたので(京都人は色が白くなるとさへ言つたら、どんな草でも喜んで食べる)

さうかといつて、苜蓿を京都人に食べさせる訳にも往かなかつたので(京都人は色が

つて、今では御苑の植込は言ふに及ばず、京都一体にどこの空地にも苜蓿の生へてない土地は見られないやう

よく似た葉で、淡紅色の可愛らしい花をもつ花酢漿も京都にはよく見かける。この花の原産地は阿弗利加の喜望峰だといふ事

たつた一人きりの愛嬢瑠璃子さんが、京都の銅駝校を出ると、博士は東京芝の聖心女学院へ入学させるため

と東京とが大好きで、瑠璃子さんを教育するにも、京都の学校へ入れるのは、大分嫌だつたらしかつた。で、小学校を出る

「でも、子供に京都語だけは覚えさせたくありませんからね。」

たから、高等師範以来の顔昵懇といふので、色々京都についてお説教をしたものだ。

た頃谷本梨庵博士は文科の創設者として早くから京都の土を踏むでゐたから、高等師範以来の顔昵懇といふので

て仕方が無いと言つてゐた。実際谷本博士は長年京都にゐながら、一度も電車に乗つた事はなかつた。そして何時も横目で

てゐる。交通機関の電車にしてからが、(その頃京都にはまだ市の電車といふものは無かつた)横目で見て通れ

の名句に「見て過ぎよ」といふのがあるが、京都は実際見て過ぎればよい土地で、神社もお寺も拝むよりか見

たが「真理」といふものは、独逸製以外に、京都でもちよい/\安手なのが出来るものと見える。

むかし京都の島原に五雲といふ俳諧師が居た。毎月二十五日には北野の天神

だ事があつた。(菅茶山が言つたやうに、京都は物静かで遊ぶには持つて来いの土地柄だが、とりわけお茶と

むかし京都で物好きな男が三四人集まつて鴨川のほとりで茶を煎じて遊ん

久保田米僊は、大阪の鱧も、京都へ持つて来て、一晩加茂川の水へ漬けておくと屹度味が

京都俳優の随一人坂田藤十郎はよく江戸の劇場へも出たが、その都度

夏になると雷が多い。空がごろごろ鳴り出すと、京都の女はチヨコレエトを食べさして、蚕のやうにぶるぶるつと身体を顫はせる

京都は三方山に囲まれてゐるので、夏になると雷が多い。

京都の桂離宮は小堀遠州が豊太閤に頼まれて、一世一代の

四条派の名家だつた望月玉泉が、晩年に京都のある高等女学校に、邦画の教師として一週幾時間か酸漿の

西依成斎は肥後生れの儒者で、京都の望楠書院で鳴らし、摂津の今津へも十年ばかり住むでゐて弟子

亡くなつた上田敏博士は晩年、京都知恩院境内の源光院にある広岡氏の別荘に間借をして住んで

寧そ幸子女史が音楽の先生なぞ止めてしまつて、京都へ来て世話女房になるか、それとも安藤氏が語学の教師を

良人は三高の語学教授で京都に住み、細君は音楽学校のヴイオロニストで東京に居るのでは、恰で七夕

、安藤夫妻は、毎週土曜日の課業が済むと、一人は京都から、一人は東京から汽車に乗つて、静岡で落合ひ、日曜日一日

京都にある若い画家があつた。画が拙かつた故か、度々女に

中橋徳五郎氏は頻りと狸の焼物を集めてゐる。京都の高台寺焼を始めいろんな瀬戸物屋へ自分で出掛けて往つて、狸だ

の教授に「先生、赤穂義士の仇討といふのは一体京都であつた事なんですか、それとも東京なんですか」と

少し以前の事、茶話記者がまだ京都に住むでゐる頃だつた。ある日小栗風葉氏の弟子分にあたる岡本

京都といふ土地は妙な習慣のあるところで、少し文字を識つた男が

貫名海屋の系統を伝へた谷口藹山が、まだ京都の下長者町に居た頃、南画好きのある男が態々大阪から訪ねて往

上田敏博士が文科大学教授として初めて京都の土を踏んだ時、腹が空いてゐたので、停車場近くの

「ほう、京都にも鯛や鱸があるんだね。一体何処から来る?」

ださうで、一向詰らないものだが、こんな句よりも京都に来て山陽や景樹や豊彦やに会つたのは、彼の生涯

むかし柴田是真が鈴木南嶺の添書を持つて京都へ入つて来た。「笠につく蝶と一つに都入り」といふ

「だけどさ、京都にはこの景色が描ける画家はたんと有るまいて。」

それは京都の景色の事。今大和の法隆寺村に隠棲してゐる北畠治房男の

京都高等工芸の中沢岩太博士が洋画を描くのは、世間によく聞えた事実

南画家富岡鉄斎老人の幼友達に、京都は新町丸太町辺に住んでゐる丸兵といふ傘屋の爺さんがゐる。

らしいが、それに少しの嘘も無い、何故といつて京都人は霊魂よりも着物がずつと値段の張つてゐる事をよく判へ

五六年前島村氏が神経衰弱とやらで暫く京都に遊んでゐた事があつた。ある日ひよつくり思ひ立つて岡崎にゐる

「京都は寒いですね、すつかり風邪を引いちやつて……」

鹿児島

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ゐたが、西郷南洲が実際大きかつた事を今度鹿児島へ来て初めて知つたと、南洲を桜島大根か何ぞのやうに言つ

九州遊説中の原政友会総裁が鹿児島の鶴鳴館で歓迎を受けた時の事、発起人の挨拶に次いで堀切

巴里

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、子供が無いのを甚く苦に病んでゐたが、巴里で秘方の薬でも授かつたものか、二度目の洋行から帰つて

巴里の葡萄検査所の横に、銀の塔を看板に出してゐる料理屋が

名を名乗つて大仕事をする宝石商荒しがあつた。巴里の宝石商といふ宝石商は、ニツク・カアタアの名前を聞くと、怖毛を

の茶目連は先刻御存じの探偵物の主人公だが、以前巴里にこの名を名乗つて大仕事をする宝石商荒しがあつた。巴里の

よく淫売狩をも行つた男で、何でもその当時巴里で名うての白首を情婦にして、内職には盗賊を稼いでゐた

はつきり見通した事は言はれないが、世の中には随分巴里の宝石屋荒しのやうな事は少くないと思ふ。呉々も言つておく

先年巴里で、人の妻たるものに、有つて欲しい性質を投票させた事

巴里の辻々にある円太郎馬車が廃められて、自動車が代るやうになつた時

たらうから、それに相応した文句は残さなかつたらうが、巴里の坊さんは別に引導には困らなかつたらしい。何故といつて

ある名高い日本画家が巴里に居た折の事、何処へ往く折にも、人目に立たないやう

へ生れ代るのが願望らしいと言つたが、上田博士は巴里と東京とが大好きで、瑠璃子さんを教育するにも、京都の学校へ

ワイルドは亜米利加の婦人達は死んで天国へ昇るよりか、巴里へ生れ代るのが願望らしいと言つたが、上田博士は巴里と東京と

先年オスカア・ワイルドが巴里の汚い宿屋で窮死した時も、その後二三ヶ月経つてから彼方此方の

を啜りながら、江戸つ子に附物の、東京以外の土地は巴里だらうが、天国だらうが、みんな田舎だと見下したやうな調子で

いふ聞えた俳優が居る。浪漫的な芸風で、倫敦や巴里や伯林などで興行した時も、相応な評判を取つたものだ。

露西亜の若い、ハイカラ紳士が気取つた身振で巴里の料理屋に入つた。別段お腹が空いてもゐなかつたが、滑らか

をおろした。何処から見ても五分の透もない巴里ツ子である。

帰つて来ると、紳士は何処の料理屋へ往つても、巴里へでも聞えさうな大きな声で、「Bifteck pomme」と誂へる事

神戸

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湯浅夫人は神戸の女学院にゐた頃、書庫の図書を一冊も残らず読み尽し

その一つだが、例の「古松研」は今は神戸の某実業家の手に入つて、細君以上に可愛がられてゐるといふ

先日神戸高商の小川忠蔵、小久保定之助の両氏が、英語専攻の学生に饗ばれた

神戸高商にはこんな人達が多いと見えて、或教授は歯医者へ行く途中

月三十一日午後六時過の事、阪神電車の梅田停留場から神戸行の電車に乗込んだ。鈴が鳴つて電車がこれから出かゝらう

応へがないので、態々見立てるのだといつて、神戸から門司まで蘆花君と一緒に薄汚い汽船の三等室に滑り込んだ。

神戸に成金が一人ある。しこたま金が出来てみると、女房の顔と現在

米と菜つ葉とを交換してゐたのだ。恰ど神戸の貿易商が絹とお茶とを積み出して、代りに毒薬と護謨細工の

広業、山岡米華の諸氏が連立て支那観光に出掛ける途すがら神戸へ立寄ると、土地の富豪連が寄つて集つて三人を招待した

神戸の富豪もちやんとさういふ型に嵌つてゐたから、宴会半ばになる

、亀を描き、洋妾のやうな観音様を描き、神戸市長のやうな馬を描きしてゐるうちに、到頭眩がして自分

席上揮毫で、画絹の書損ひをどつさり拵へて、神戸の富豪の胆を潰させた事を書いたが、人間の胆といふ

松山

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伊予の松山は日露戦争以来俘虜の収容地になつてゐるので、そんな事から彼

格安に勉強するとでも吐くだらうと言つたが、松山に居る独逸の俘虜で、日本の紋の研究を始めて、材料をどつさり

奈良

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一向結構な点が無いので失望した、多分京都や奈良へ往つたら、この償ひがつくだらうと、心細い事を言つて

高知

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宮川氏の説によると、足立氏は高知生れだけに武士魂を持合せてゐたが、同志社で基督魂を、紐育

下谷

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ひが出来るからといつて、方々捜し廻つてゐるうち、下谷の古い薬舗で、恰好の看板を見つけて、漸とそれを手に入れた

静岡

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亡くなつた上田敏氏は子供の時静岡へ往く道中、てくてく歩きで箱根を越えた。丁度梅雨晴れの頃で、ある

一人は京都から、一人は東京から汽車に乗つて、静岡で落合ひ、日曜日一日を思ふ様楽しく過して月曜日の朝までにはそれぞれ

金沢

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てゐたさうだ。――中橋氏の狸も例の金沢の選挙無効を聞いて「徳ちやん大あたり」と書く位の洒落気はあつ

熊本

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の事を書いたが、成斎の生れた家は、熊本在の水呑百姓で、両親は朝夙くから肥桶を担いで野良へ仕事に

長野

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幸ひ長野には善光寺がある。自分の村からは汽車でも通へるので、

水戸

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さんが居た。一体茨城の人には、人間では水戸烈公より外に偉い人はなく、山では筑波山の外に山らしい山

仙台

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今、仙台の第二高等学校にゐる登張竹風は、酒に酔ふと、筆を執つて

堀切

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で歓迎を受けた時の事、発起人の挨拶に次いで堀切代議士が五分間演説に、予て大きい/\とは聞いてゐたが、

東京

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と呼ばれてゐる。岡崎氏は大の夜祭好きで、東京にそれが無いのを何よりも残念がつて牛祭だけは是非夜の

青木氏が東京に居られなくなつて浴衣一枚で九州落をした事がある、

内相は男である。男だから毎週土曜日の午後には東京を発つて小田原の別荘へ行く事に定めてゐる。別荘には夫人が

は、家族と水盃も仕兼ねない程の旅行嫌ひで、東京市内でも山の手は田舎臭いといつて、滅多に出掛けた事が無い

で、今だに達者でゐるが、孝行者の奥氏は東京へでも旅をする時には、一番に母親へ挨拶に往く事

「東京へお往きやす言うて、誰ぞお伴でもおすのかいな。」

「あんた一人で東京までようお往きやすか。」と母親はもう涙を一杯眼に浮べて

塚、筆塚、針塚といつたやうなものもあるが、東京新聞の漫画家が寄集まつて、島田三郎氏の漫画葬式をやつたのは

東京の絵画商人の某が、京都で展覧会を開くために、今尾景年氏の

ゐる。年に一度同窓生の会合があると、いつも遙々東京まで出掛けて来る。そして会が始まつて、皆の者が何か議論がましい

聖心女学院へ入学させるために夫人と一緒に瑠璃子さんを東京へ送り、自分は独身生活を営んで、冷い弁当飯で過してゐた

愛嬢瑠璃子さんが、京都の銅駝校を出ると、博士は東京芝の聖心女学院へ入学させるために夫人と一緒に瑠璃子さんを東京へ

式の学校を選んだ。知恩院の境内で亡くならないで東京の町のなかで目を瞑つたのは博士がせめてもの本望だつたか

、大分嫌だつたらしかつた。で、小学校を出ると直ぐ東京へ送つたが、それも普通の女学校よりか仏蘭西式の学校を選ん

代るのが願望らしいと言つたが、上田博士は巴里と東京とが大好きで、瑠璃子さんを教育するにも、京都の学校へ入れるの

笑つてゐた。数多い京都大学にこの二人のやうな東京好きはまたと無かつた。

東京三越の「山と水」展覧会に、故人角田浩々歌客が世界の各地

東京を立つて初めての夜、一行は山の上の旅宿で泊る事になつ

広岡氏が宅へ帰つてみると、博士はまだ起きて東京にゐる瑠璃子さんに手紙を書いてゐた。

それとも安藤氏が語学の教師を思ひ止まつて、東京へ帰つて、嬰児の守でもするか、二つに一つ、どちら

の語学教授で京都に住み、細君は音楽学校のヴイオロニストで東京に居るのでは、恰で七夕様のやうに夏休みを娯む他には

毎週土曜日の課業が済むと、一人は京都から、一人は東京から汽車に乗つて、静岡で落合ひ、日曜日一日を思ふ様楽しく過し

事はないさうだ。彼はそれが為めに清潔好きな東京の女に嫌はれるかも知れないが、持つて生れた癖だけに平気

。俳優の中村鴈治郎などもその一人で、彼はこの頃よく東京の劇場へ出るが、あの通りに白粉をべた塗りする職業でありながら、一

は一体京都であつた事なんですか、それとも東京なんですか」と訊いた事があつたといふ程だから、節用

近頃東京の文学者仲間に妙な神様が流行してゐる。神様といふの

は水つぽい吸物を啜りながら、江戸つ子に附物の、東京以外の土地は巴里だらうが、天国だらうが、みんな田舎だと見下し

ずつと以前、丁度この頃のやうな秋日和に東京の近郊、雑司が谷の附近を※※いてゐると、一人の

陳列されるといふので、廿一日の茶会には東京から名高い五人組の茶人が下つて来た。五人組といふのは

先日東京の銀行集会所へ全国の重立つた銀行家が集まつて、地震学で名高い大森

東京市電気局が、まだ東京鉄道会社だつた頃の車掌運転手の制帽は、白い線を巻きつけて、技術が

東京市電気局が、まだ東京鉄道会社だつた頃の車掌運転手の制帽は、白い

大久保

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大久保知事は、遊廓問題について府会の十七人組の前で、二十八日迄

親爺のそれに匹敵するのは何うにか辛抱出来るが、大久保甲東の息子達のやうなのは一寸……。

雲右衛門の咽喉は、大久保知事の頭のやうに滅茶々々に荒れて、声帯は手の着けやうも

と当て附けがましく言ふので、誰よりも若い積りの大久保夫人は一寸調弄気味になつた。

んが、少くとも私はさうぢやありません。」と大久保夫人は笑ひ/\言つた。「私は母として子供を立派に

大久保の子供達は皆稚い。それがすつかり大人になるまで婆さんは生き伸びる積りで

新橋

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新橋の老妓桃太郎がその往時、雛妓として初めて座敷へ突き出された時、

大宮

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ゐる田舎娘を御覧になつて、「顔立のいゝ娘ぢや、大宮に召し抱へよう」とお約束になつた事があつた。その日の

住吉

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道命が法華を誦むとなると、大峰から、熊野から、住吉から、松尾から色々の神様が態々聴きに来たものだ。そんな折

品川

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むかし釣好きの江戸つ児が鱚を釣りに品川沖へ出た。ちやうど鱚釣に打つてつけの日和で、獲物も

日本橋

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た高田実は、道頓堀の劇場へ出る時には、いつも日本橋北詰にある定宿へ泊つたものだ。その旅館は高田を始め、新旧

渋谷

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先日亡くなつた喜劇俳優渋谷天外は、何処へ往くのにも、紫縮緬の小さな包みを懐中にね