詩集の後に / 薄田泣菫
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抱月、後藤宙外その他二三氏の結社で、事務所は東京牛込神樂坂を少し揚塲町の方に※つた後藤宙外氏の家においてあつた
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郊外を散歩しましたが、華やかな朝日をうけて、葛城山の山巓が金色に輝いてゐるのをよく見受けましたところから、こんな作が出來
七月頃の同誌に載せたものです。役の小角が葛城山へ石橋を架けようとして、海内山神の合力を求めた時、たつた一人、
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が、私の親友で、後に辯護士になつて大阪の市政界に活躍した中井隼太氏でした。私が詩の謝禮に
ほどぶら/\してゐました。三十二年の夏頃、大阪の書肆文淵堂の主人で、俳名春草といふ金尾種次郎氏が、その頃大阪
の主人で、俳名春草といふ金尾種次郎氏が、その頃大阪で『造士新聞』といふ文藝新聞を編輯發行してゐた私の友人平尾
二度刷で、從來安物の講談本しか見られなかつた大阪の出版界では、どちらかといへば、出來のいい出版物でした。
たのは、たつた二度で、それも二度とも大阪の土地ででありました。
と同じ金尾文淵堂から出版しました。その頃私は大阪に出て、角田浩々歌客、平尾不孤氏達と一緒に、雜誌『小天地
詩人の仲間に流行しまして、私も京都で一度、大阪で二度ほど公開の席で、朗吟を試みたことがありました。その
た。私は『ゆく春』出版後、かれこれ二年ほど大阪に居ましたが、雜誌『小天地』の廢刊と同時に京都に移り、岡崎
方に歸りました。ですから『二十五絃』には、大阪、京都、郷里の三地方に關聯した作物が輯められてゐます。※
とに便宜の多い帝都の生活から離れて、京都や、大阪や、また郷里やで、今日まで暮して來ました。お蔭で寂しくはある
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が、雜誌『小天地』の廢刊と同時に京都に移り、岡崎に住んでゐましたのを、日露戰爭がはじまると同時に引拂つて郷里
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生れた作品です。大和、とりわけ奈良の西の京や、法隆寺、龍田のあたりは、むかしも今も、私には已み難い憧憬があります
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て、海内山神の合力を求めた時、たつた一人、葛城の女神が容貌のみにくいのを他にみられるのを恥ぢて、晝間出合は
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いふことが、詩人の仲間に流行しまして、私も京都で一度、大阪で二度ほど公開の席で、朗吟を試みたことが
歸りました。ですから『二十五絃』には、大阪、京都、郷里の三地方に關聯した作物が輯められてゐます。※畫
に居ましたが、雜誌『小天地』の廢刊と同時に京都に移り、岡崎に住んでゐましたのを、日露戰爭がはじまると同時
、激しい雷鳴がありました。それに詩情が動いて、京都加茂神社の傳説と結び合せて出來上つたのがこれで、與謝野氏
ゲエテのウヰルヘルム・マイステルにあるミニヨンの歌を想ひ浮べながら、京都の四季のうつり變りを歌つてみました。上田敏氏はこの
『街頭』は、京都四條寺町で見た小景です。
『をけら詣』は、極月大晦日の夜、京都八坂神社に、元朝の齋火を貰ひに參詣するものが、道の
名聞と生活とに便宜の多い帝都の生活から離れて、京都や、大阪や、また郷里やで、今日まで暮して來ました。お蔭
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例の絶唱を想ひ浮べながら生れた作品です。大和、とりわけ奈良の西の京や、法隆寺、龍田のあたりは、むかしも今も、私
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使の人が謝禮にまゐりました。その頃私は麹町區中六番町のある漢學先生の家に部屋借をして居り
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島村抱月、後藤宙外その他二三氏の結社で、事務所は東京牛込神樂坂を少し揚塲町の方に※つた後藤宙外氏の家において
私は明治三十年の春、徴兵檢査を受けるために、東京を發つて故郷の備中に歸りましたが、暮笛集に輯められた
この詩集の出版元文淵堂は、その後東京に店を移しましたが、その頃は大阪心齋橋南本町の東北に
ません。氏はこの※畫を描くために、五六日東京市中の石切塲をたづね※つた末、やつと註文通りのものを見付け
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に訊いたら判るだらうが、今日神樂坂を通つたら、蒲生氏郷の「蒲」といふ字の下に「燒」といふ字を書い
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『私は日暮里にゐるもので、毎日こちらに通ふわけには參りませんから、