うすゆき抄 / 久生十蘭
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わける。資子は縁故をたよって、御所の曹司から摂津の芥川城へ、そこから伊勢の浅香城へというふうに転々と行子の身柄を移す
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一夜のうちに灰にしてしまったことがあった。諏訪、上原の合戦では、糧道の先達に道を教えなかったら、村端へ
と穴山が不和になり、来年の正月匆々、勝頼父子は諏訪の上原あたりへ押出す。相模、関東はいまや大乱に及ぶ形勢になっている
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なかった。近くは日金山から長尾峠、遠くは丹沢、籠坂峠のあたりまで人をやって手掛けをたずねさせたが、とうとう消息知れずという
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本、仮名草紙の「薄雪物語」では、園部左衛門が清水寺で薄雪姫という美女に逢い、恋文を送って本意をとげたが、愛人
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を焼き殺し、その風摩小太郎が、道益の子の道長に箱根の木賀の湯で討たれるあたりが、因果のはじまりのように見えるけれども、
道益はふるえのでるほど仰天し、箱根の木賀の湯は金創にも逆上にも利くというので、供を
銃を敵方に差上げたところで、あえなく大詰をだした。箱根の外輪山に囲まれた入谷津の谷戸は、そういう仕事を仕終すの
わかりだしたとでもいいましょうか。だいいちが面相です。箱根の木賀ノ湯で、風摩小太郎とおなじ湯壺につかりましたが、あの郷士の
たが、翌年、足柄路が恢復し、以来、足柄、箱根の二道になった。足柄路は酒匂川のほとりを関本に上り、苅野、
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たよって、御所の曹司から摂津の芥川城へ、そこから伊勢の浅香城へというふうに転々と行子の身柄を移す。大炊介は資子
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山城の賀茂は社家でいながら、賀茂村から比叡山の水呑に達する広大な領地をもって居り、一族の女たちは国学と古文
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風摩の一族が伊豆の聖山で晴耕雨読の簡素な生活をしていたのは、永禄のほんのはじめ
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、いつもその目的のためばかりに使われるとはかぎらない。越前の戦争のころには、竜興はもう身体の自由がきかなくなり、輿に
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ではなかった。近くは日金山から長尾峠、遠くは丹沢、籠坂峠のあたりまで人をやって手掛けをたずねさせたが、とうとう消息知れ
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尼院から、大炊介は儒学の勉強をしていた下野の足利学校から、どちらも五年ぶりに故里へ帰り着いたその第一日目
いる青山大炊介という郷士ですが、四、五年、下野の足利に居り、この谷津にかような邸第の出来たことも、今日はじめて
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正月匆々、勝頼父子は諏訪の上原あたりへ押出す。相模、関東はいまや大乱に及ぶ形勢になっているが、北条の親子はもとより、織田
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を堰きわける。資子は縁故をたよって、御所の曹司から摂津の芥川城へ、そこから伊勢の浅香城へというふうに転々と行子の
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いとしがり、沼津の浜まで迎いの船をやったが、真鶴岬をかわしたところで、行子は片浜から岸づたいに歩いて行くといいだし、急に
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な運命を負った男だった。道益がまだ泉州の堺にいるとき、遠い縁つづきにあたる陰陽博士の賀茂円明がやってきて、「
売り沽し、相模府中の小田原に南蛮座をつくって、堺では見向きもされぬ南蛮端物の納屋払いをしたりし、わずかの間
おのれ、資子、行子、一門一族、血につながるものは、堺から、山城から、紀州から、一人残らず根こそぎに探しだされ、目もあてられ
もう一つのタイプは、京都と堺、とりわけ堺自由市の富有の商人の女室で、このほうは機才にこそ
て燧石銃を担いでいる。これはその後、京、堺を荒しまわった茨組の風俗になった。そういう異形の一団が淡い月影を
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が大勢出た。美濃の蜂須賀、稲田、近江の日比野、長江、下総の勾坂、信濃の滝川などはその尤なるもので、各地の大小名
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、古くは足柄路の一筋だけだった。延暦二十一年に富士山が噴火し、焼石が押しだして通れなくなったので、箱根の近くに新道
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のものを持ちだしていいと約束させ、亭主や愛人を大手門から背負いだす朝倉の女房や、新婚匆々の夫を朝鮮征伐にとられ、それ
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も取詰めた場所である。山邸のあるところは、府中の町端まで見晴す絶好の高台で、どんな人間が上ってくるか、十町
胸を撫でおろしたが、いちど痞えたおびえは去らず、府中で名の通った無法者を十人ばかり兵隊に雇いいれ、弓矢を持たせて見張りの
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長男のときは、賀茂宮で一万遍の大祓をした選名が道長と告示されて気をよく
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)の手について朝鮮征伐に行き、唐島を経て京都へ帰った文禄二年の秋の末で終っている。
なに気ないことからはじまった。行子は預けられていた京都の黒谷の尼院から、大炊介は儒学の勉強をしていた下野
南へ送り、疲れを知らぬ奮闘をつづけていた。京都の尼寺へ預けておいた行子を急に小田原へ呼びかえすことにしたの
もう一つのタイプは、京都と堺、とりわけ堺自由市の富有の商人の女室で、このほうは
ず手仕舞いにして、金筐と財宝を荷駄につけて京都へ転住を決行している。
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勝頼の郎党の首、七百余級を獲ちとり、秀吉が鳥取城攻めにかかった年である。応仁の乱にはじまった大暗黒時代がおおよそ
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みせる。「将軍記」第十五に、秀吉が加藤清正や福島正則に度はずれの賞を出し、「わづか二百石の禄をうけしに、
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ひとの話では、永禄十年に信長に岐阜の井ノ口城から追い落され、京の山科の地蔵堂で一塊の腐肉となって