親鸞 / 吉川英治
地名一覧
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逢坂山の関へかかると、追立の役人たちは、役目をすまして、引返した。
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門や築地の壊された所は限りもありません。粟田の辻のあの大きな銀杏の樹すら折れていました」
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渡辺党や、三井寺法師の一類をかたらって、一門宇治平等院にたてこもって、やがて、都押しと聞いた」
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追われるように――そしてさまざまな疑いと迷いに乱れながら加茂川まで走ってきた。研ぎたての刀を横に置いたように、加茂川の水
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て見い」崩れだして、十人、二十人ずつ、わらわらと四条の方へ、駈け降りて行った。
「ああ」四条の仮橋の欄を見ると、綿のようにつかれた体は、無意識に
肩を並べて、二人は歩みだした。四条の橋を東へ渡りかけて、
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はふたたび吉水へ出直した。そして、上人の身を一時、阿弥陀ヶ峰のふもと蓮華王院の辰巳にあたる小松谷の草庵に移した。
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はい、讃岐の上人様には、お館の御領地、讃岐国塩飽の小松の庄とやらいう所に、新たに一寺を建てて生福寺
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「冬が来れば、寒かろうとて、わしらばかりでなく、東寺や、八坂の床下に棲む子らにまで、古いお着物は恵んで下さるしの
「東寺の鴉みたいに、ガアガア反対する奴もあるが、そいつら自身は、どうだ
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加茂の水には、小さな波紋へ、波紋が、無数に重なった。東山連峰の
霞の底の京洛をながめると、そこには悠久とながれる加茂の一水が帯のように光っているだけで、人間の箇々の消長や、
いって、ふと、橋の欄から見下ろすと、そこを行く加茂の水ばかりは、淙々として変りがない。
いたが、ふたりとも妙に無口になっていた。加茂の岸に立って振向くと、山にはまだポチと二つの灯が残っ
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郷族が、草を薙いで、呼応してくるし、熊野の僧兵が呼応するし、これだけでも平家の狼狽はかなりみぐるしいものであっ
上皇が熊野へ行幸のあいだは、御所のお留守の者ばかりなので、参内する公卿
月も越えて、十二月の上旬、後鳥羽上皇は、すでに熊野からお帰りになった。
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禅光房などの高足八名に対して、備後、伊豆、佐渡、阿波の諸国にわけて、それぞれへ、
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中年になってふたたび親鸞を書いた。台日、福岡、名古屋、北海タイムス等、地方紙五社の連合掲載のために書きおろしたのであり、
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難波江へ――岡崎を出た綽空が、まっすぐに、摂津の四天王寺へ向っていたのは、その宏恩に対して、今日の報告
摂津から大和路を巡ってくる――そういったまま飄然と旅に出た良人
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わしの父、成田兵衛だけだ。わしの父はな、宇治の平等院で、源氏武者の首、七つも挙げたのだぞ」
いっ、知らないっ」その手を振り払って、まっしぐらに、宇治の橋を、町の方へ、駈けだして行くのであった。
「宇治かの、おもとの家は」と訊いた。
「そういわないで、私たちも、宇治の町へ行く者です。送ってあげよう」
ようにはしない……さ、歩いてください」やっと、宇治の町まで連れてきて、女の家をたずねると、
宇治の郷士でもあろうか、粗末な野太刀を佩いた老人だった。
に、木賊四郎という野盗に誘拐かされて、この宇治の色町へ売られた妹なのでございまする。――けれど、妹が売女
、水は無窮に流れて、流れた水は、ふたたびこの宇治の山河に、会いはしない……」
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その時の白馬の貴人は、九条関白忠通公で、縁といおうか、不思議といおうか、慈円僧正の父君
どこへ行って戻られたのか、九条の月輪殿の門前に、一輛の輦がついて、その中から主の
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「筑後っ。筑後やあるっ」と、呶鳴った。
「筑後っ。筑後やあるっ」と、呶鳴った。
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綽空は、同房の混雑に、その年のすえ、岡崎に小やかな草庵を見つけて、そこへ身を移すことにした。
勿論、日ごとに、岡崎から吉水へ通って、上人に仕えることと易行念仏門の本願に研鑽すること
岡崎の家
岡崎の草庵の地は、松に囲まれた林の陰で、その松のあいだ
不在でありするので、まだ陽の明るいうちに、めずらしく岡崎の草庵へ綽空は帰ってきたのである。
ぜ。綽空は、ついここから、二十町ばかり先の岡崎に住んでいるんで」
眠ったであろう、その翌る日、蜘蛛太はただ一人で、岡崎の綽空の庵から帰ってゆく、一人の被衣の女を見つけて、しめた
、世間のうわさが下火になったと思うと、またぞろ、岡崎の一ツ家に移っている。なかなかうまい! だが四郎の眼力はそんな魔術に
綽空は、その朝――まだ暗いうちに岡崎の草庵を出て、白河のほとりを、いつもならば西へ下るのに、
が館を脅やかしてから侍女の万野もその後はふッつりと岡崎へすがたを見せない。おそらく、禁足を命じられているのであろう。
べつに、新しく普請されてもいなかった。場所は岡崎の松林のうち――家は、綽空がいなければ、栗鼠が畳を
綽空がいなければ、栗鼠が畳を駈けているあの岡崎の草庵なのである。
「知らんかい、あれや、岡崎の松林に住んでいる坊じゃげな」
日の出る朝には、岡崎の草庵を二人の輦が出た、夕月のさしのぼる黄昏れには、二人の輦
岡崎の愛の巣では、若い妻と、法悦のうちにある綽空とが
で帰ります」どこへともいわずに綽空は、岡崎の松林から出てゆくのである。玉日は、良人のうしろ姿へ、掌を
難波江へ――岡崎を出た綽空が、まっすぐに、摂津の四天王寺へ向っていたのは
覚悟というものか、嫁いでから後は、いつか草ぶかい岡崎の草庵にも住み馴れていた。
た玉日であったが、近ごろは、人里を離れたこの岡崎の住居にも馴れたので、また、裏の松ばやしに棲む狐の類
――その後は、近くに人家とてはないこの岡崎の一草庵は、ただ松をふく暗い風の声があるばかりで、人々が
さすがに、彼も、この京都の地を踏んでは、岡崎の家がなつかしいのであろう、新妻の笑顔にも早く接したいのであろう、
と思った。――悄然と、覚明の姿は、やがて岡崎の松林を去って、いずこへともなく落ちて行った。
―ある日は、新郎新婦が、その裡に乗って、岡崎から吉水までの大路を牛飼に曳かせ、都の人々から嫉妬の石を雨
旅に出た。――めいめいも、行く先を求めて、岡崎を離れた。
て、再度の報復に出てくるかと思ったが、岡崎の草庵へも、あれなりなんの行動も起してこないのである。
。したがって、吉水さえ打っ仆してしまえば、後は、岡崎の善信だろうが、何だろうが、みな支離滅裂となって、社会へ何の力
「それを、一草庵の岡崎へなど、度々出向いて、争うなどとは、愚の骨頂だ。聞けば、
ただ、吉水を仆せばよいのだ。吉水を仆せば、岡崎などは、そのついでに自滅する。もうくだらぬ暇つぶしはやめて、目的へ邁進
あいだに、百九十名がそれに書かれたのである。岡崎の草庵から駈けつけた善信も、もちろん、そのうちに連判していた。
岡崎の草庵から、善信も、度々そこへ通っていた。そして、いつも火の
から間もなく、おれは、例の善信の奴が、岡崎の草庵を出て、難波から河内のほうへ旅に出たのを知った
「いるとも。――岡崎の草庵で、妻の玉日と、人も羨む生活をしている」
壇の上に立って、岡崎の善信は今、低い音吐のうちに何か力強いものを打ちこめて、諄々と
たら、善信などは、坊主のくせに、女房を持ち、岡崎の庵室で、あの玉日というきれいな女と、破戒の生活を大びらにやっ
――わしはついきのう、上人のおゆるしを賜わって、岡崎の善信どのの手で得度していただいたのだ」
吉水禅房や、岡崎を初め、あらゆる念仏門系の法壇のある所を、所きらわず歩きまわって
山づたいに、吉水の上人の所へゆくから、そこもとは、岡崎のほうへ走って善信御房に、この仔細を伝えてくれ」
「住蓮は、首尾よく、岡崎の善信御房のところへ行き着いたろうか」そう考えると、彼もじっとして
「岡崎の善信御房へ――」と、彼は短気にそこを目ざして人里へ
「この分では、善信御房の岡崎のお住居も、どうあろうか」と、心もとなく思いながら、深夜、山林からそっと
いうのは、つい先ごろ――去年の暮に――この岡崎の草庵へ新しく侍いて、実直に働いている新沙弥であった。
それ以来、彼は、岡崎の草庵へ来て、草庵の拭き掃除やら裏方の用やら、夜の番人やら、
白川のほうからこの岡崎の丘の林へのぼって来る小さい人影が分るのだ、飄々として、
善信が岡崎へもどって来たのは、決して罪がゆるされたからではない。
、評定所の門から出され、その日の来るまでは、岡崎に蟄居と決まった。
行われていたにちがいない。その禅閤も、やがて、岡崎を訪れ、
から行く道にも、神楽岡から降る道にも、すべて、岡崎の草庵へかよう道には、鹿垣が囲ってあって、
は日の暮れるのを待って、道のない崖道から、岡崎の松林の奥谷へ、生命がけで這い降りて行った。
てきて、その輿を見送り、すぐ牛車を返して、岡崎のほうへ急いだ。
――と共に、自分もこれから間もなく、この岡崎の草庵から、雪の越路へ立って行かなければならない身であることを
ように寂として、どの部屋も、空虚を思わせる岡崎の家だった。
が、まだ後ろに聞える心地がして、幾たびか、岡崎の林を振りかえった。
岡崎から粟田口へ――そして街道を一すじに登って蹴上の坂にかかるころは、
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箭四郎はいそげといわれながら、道を迂回して、三条の磧から仮橋を越えて、十禅師の坂へかかった。
まで怺えておれ」すぐ堤を越えて、また歩いた。三条の大路をまっ直ぐ西へ。
妻小宰相、資賢の娘玉琴、信実の伯母人、三条の小川侍従の姫、花園准后の侍女三河の局、伊豆の走り湯の妙真
そんなことを考えながら、三条のほうへ、並木にそって、半町ほど歩みかけると、誰か、後ろで
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興福寺奏状
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吉野の桜はもう散って吹雪になっていたが、月輪の里の八重桜は
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大いに語ろうではないか」二人は腕を拉しあって、祇園神社の暗がりへと入って行った。どっかと石段に腰をすえて、
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「弥太。――いや奥州の吉次殿、して、宿は」
にも、風土にも、また唐土の文化にも恵まれぬ奥州でさえ、こんな図はない)
「――奥州の堀井弥太と仰っしゃってくだされば、なおよくお分りのはずでございます。
か、関東へ逃れて、身を潜め、今では、奥州の藤原秀衡の懸人になっているとやら……」
――それは、この母の従姉弟に、今は、奥州の藤原秀衡のもとに潜んでいる源九郎義経があり、また、近ごろ、伊豆で
鞍馬の峰にあって、奥州へ逃げのびた遮那王の義経も、短くて華やかなその生涯を、つい二年
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華やかな一時代と幾多の儚い物語とを綴って、やがて屋島から壇の浦の末路へまで語りつづけてきた。
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は、ちょっと、考えていたが、眼の前の、青蓮院の小門を片手で押しながら、
(まだか)というように、青蓮院の方を、振向いた。
そこから見ると、青蓮院の長い土塀と、土塀の中の鬱蒼とした樹林は、一城ほども
「おウい」振向くと、兄の範綱が、青蓮院の方から、駈けてくるのが見えた。宗業は、救われたよう
「お館さま、青蓮院でございまする」と、箱の簾にささやいた。
「九歳です」青蓮院の廻廊は長かった。そこからまた、橋廊下をこえると、さらに、寂とし
青蓮院を訪れると、時々、こういう目馴れない食味や、什器を見せられて、
六十二世の座主、覚快法親王より三昧の奥儀をうけて、青蓮院の伝燈をあずかり申す慈円が、身にかえての儀と」
青蓮院のひろい内殿は、どこかの筧の水の音が、寒い夕風を生み、
を掻きあわせてさし俯向いた六条の範綱をのせて、青蓮院から粟田口の、さびしい、花吹雪の中を、帰ってゆくのであった。
コウン、コウン、コン――青蓮院の山門には、足場がかかっていた。夏の暴風で破損した欄間
ヘエ、それでは、お小さいわけだ、いつから、この青蓮院へおいでになりました」
「六条のお館は、和子様が、青蓮院にお入りあそばしてから、まるで、冬枯れの家のようにおさびしくてな」
「たった今、青蓮院へ伺ったところが、かくとのことに、追ってきたのじゃ。箭
「新座主といえば、こんど、青蓮院からのぼられた慈円僧正だが、その座主について、何か問題がある
、結局、取るにたらん子どものことだし、僧正が青蓮院に在住のころから、お側に侍いていた者でもあるし……
もうかぶことだし、御連枝の出で名門の深窓から、青蓮院へ坐ったのみで、世間知らずの若い座主と心であまく見ていた
粟田口の青蓮院についたころは、すでにとっぷりと暮れた宵の闇だった。ここばかりは
その後、座主の任を辞して、叡山からまたもとの青蓮院へもどって、いたって心やすい私生活のうちに、茶だの和歌だのに毎日を
は変って、お行き先も知れません。で、――青蓮院でおうかがいいたせば分るであろうと、戻って参ったわけでございますが、
さまして、朝の勤めをすますと、きれいに掃かれた青蓮院の境内には、針葉樹の木洩れ陽が映して、初秋の朝雲が、粟田山の
衛門は、先に立って、青蓮院の長い土塀にそって歩きだした。そして、裏門の方へと二十歩ほど、
危ない身を、朝麿の手をひいて、からくも、青蓮院のうちに隠れ、箭四郎も供をして、しばらく世の成りゆきを見て
「万一、どうしても、お聞き入れがなかったら青蓮院の師の君におすがりしてもと、わしは思う……。あの幸福
伴うて、京都のお養父上にお目にかかり、かたがた青蓮院の師の君にもおとりなしを願うて、ひとまず弟の身を、家に
て、あてどもなく疲れあるいた彼は、ふいに、青蓮院の門前にあらわれて、取次を乞い、見ちがえるほど痩せおとろえた姿で、師の
それが、青蓮院へ辿りついて、師のやさしいことばにふれ、ふと安息を感じたせいか、二
「おう、青蓮院どのか」月輪兼実がもうそこに立っている。
いう秀才じゃ。そなたがまだ、乳人のふところに抱かれて青蓮院へ詣でたころには、たしか、範宴も愛くるしい稚子僧でいたはずじゃが
「お師さまは、叡山にいれば、叡山の人となり、青蓮院にいらっしゃれば、青蓮院の人となり、俗家へいらっしゃれば、俗家の人と
叡山にいれば、叡山の人となり、青蓮院にいらっしゃれば、青蓮院の人となり、俗家へいらっしゃれば、俗家の人となる。女房たちや、
青蓮院の門が見えた。その門を潜る時、慈円はまた、ことばをくりかえして
、心がかりになっていたことでもあるし、この青蓮院へついてもまっ先にその後の消息をたずねたいと思っていたのでも
門を出た。尋有の顔が、いつまでも、青蓮院の門のそばに立って見送っていた。
は、権智房ひとりであった。権智房は、青蓮院の慈円僧正から、きょうの講義の首尾を案じて、麓からわざわざ様子を見
七日である。範宴は、網代牛車を打たせて、青蓮院の僧正のもとへ、これから初春の賀詞をのべにゆこうと思うのであっ
いうように、当惑そうな眼を見あわせた。そのくせ、青蓮院の歌会には、いつも、席に見える顔であり、四位、蔵人、某の
の狭い一部の納言や沙門たちが、その後になって、青蓮院の僧正こそは、世をあざむく似非法師じゃ、なぜなれば、なるほど、松を
ならば、あんな恋歌が詠み出られるはずはない。必定、青蓮院の僧正は、一生不犯などと、聖めかしてはおわすが、実は、人
「何事でございますか」範宴は、何となく、青蓮院のうちに、静中の動とでもいうような波躁ぎを感じながら師の
臆測で見ようとする人々には、よろしく、僧正と共に青蓮院に起臥してみるがよい。いかに、僧正が、女性のない人生をとおって
青蓮院の僧正の姪にあたる姫の危難を、僧正のお弟子にあたる師の房
がするものと見えて、今日の書面では、ぜひ、青蓮院の僧正と共にいちど館へ遊びにきていただきたい、なにも、ご
「青蓮院どの、それでは、主客顛倒というものではないか」
ていう心持になるのであった。――同時に、青蓮院の僧正に対しても、そこにいる弟の尋有にも、また、世
しかいわれますまい。さらに、お父君は元より、青蓮院の僧正、一族の方々のお困りも必然です。それもこれも皆この範宴
する心だという者がある。四王院の阿闍梨や、青蓮院の僧正などは、それでひそかに、心配しているらしい」
いた。似ているはず――範宴の弟、今は青蓮院にいる尋有なのであった。
兄の恩師でありまた自分の師でもある青蓮院の僧正も、玉日姫の父である月輪の前関白も、夜の眠りすら
「わかってくれたら、早う帰れ、青蓮院の師のもとへ帰れ。それまでは、この兄もあると思うな。ただ
彼はすぐ麓へ向けて使いをやった。使いは、青蓮院と、聖光院へまわった。
青蓮院の慈円僧正と、そのほかへ四、五度の消息をつかわしたり、慈円から
聖光院も、青蓮院も、この吉水とは垣の隣といってもよいほど近いのだ。そして
といってもよいほど近いのだ。そして、自分が、青蓮院の門を手をひかれて行って、髪を下ろした九歳のころに
「聖光院の御門跡もかわりましたゆえ、青蓮院の僧正におすがりして、尋有様と共に、僧正のお給仕をいたし
「こよいの暴風雨で、青蓮院のほうも何かと騒がしかろう。わしの見舞よりは、僧正のお身のまわり
すでに、清掃された一室に慈円は坐っていた。青蓮院を出て、慈円僧正は昨年から二度目の座主の地位について、この
叡山の慈円座主は、山を降りて青蓮院にあった。そこから、月輪へは絶えず使いが走るし、月輪から吉水
「それでは以前、青蓮院の慈円僧正につかえ、後に、叡山へ入った範宴少納言ではあるまいか
七日には、二人して、粟田口の青蓮院の僧正へ、賀詞をのべに行った。尋有も、いよいよ健やかな勉学期
若い一人の僧が、急ぎ足に、青蓮院を出て行った。善信の弟、尋有である。
「その朝の鐘は、尋有が撞きます。青蓮院の卯の刻の鐘が鳴りましたら、弟が、見えぬ所から見送って
来た時の尋有のことばを。――弟が撞く青蓮院の鐘の音を。
いた。その――一撞一韻ごとに、善信は、青蓮院の鐘楼に立っている弟の尋有の気もちを、胸にうけ取っていた
さまの御流謫の後は、和子様を護り育てて、青蓮院の叔父君から名も範意といただき、行く末は、お父君にもまさる
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がよい)という意見なので、一行はまた、むなしく善光寺へもどって、さらに、道をかえて、浅間山のけむりをあてに、碓氷越え
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をひいた。――また、碓氷を越えて、上野や下野の方面へもたびたび出た。
そういえば、近ごろ、信州に草庵をむすんで、時折、下野の辺りまで布教に来る高徳なお上人があると聞いているが、そのお方
時、彼のうしろから、赫々と大きな太陽の光が、下野の山々を朱にそめてかがやき出していた。
た。沃野には菜の花がけむっていた、筑波も、下野の山々も、霞のうちから、あきらかに紫いろの山襞を描いていた。
下野の城主大内国時の一族をはじめ、久下田太郎秀国、真壁の郡司や相馬の城主
下野の城主国時と、親鸞とは、大地へ下り、東西にわかれて、鍬
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「高雄の神護寺へ参らぬか」
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もっとも、佐々木光実と了智の兄弟は、碓氷峠のあたりまで見送って、元の地へ引っ返した。もちろん、親鸞によって開拓
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移ってからも、彼の不断の行願は決してやまない。山王神社に七日の参籠をしたのもその頃であるし、山へも時折
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「追いついてみれば、何の事じゃ、越前の庄司が娘と、その腰元ではないか」告げるほうも、がっかりであっ
越前の新川村へ来た時には、こういうことがあった。
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「ほ、石川郷の叡福寺のある? ……」
「誰だろう」と、磯長の叡福寺の者は、炉のそばでうわさをしていた。
疑問をもちだして、ただ一人で、叡山を下りこの磯長の叡福寺に、ずっと逗留していたのです。……でもあなたの、剛気に
「私はそれが唯一のみやげです。あしたは叡福寺を立とうと思うが、もう叡山には帰らないつもりです」
廟に籠って厳寒の一夜を明かした折に、そこの叡福寺に泊っていた一人の法印と出会って、互いに、求法の迷悟と
空は、知っているのか否か、やがて、磯長の叡福寺へ彼の姿はかくれた。聖徳太子の御霊廟のある御葉山の松の丘
、白い下着に、墨の法衣をつけ、綽空は、叡福寺の厨から紙燈芯を一つもらって、奥の御霊廟へ一人すすんで行っ
「お……あの山門は磯長の叡福寺ではないか。……そうだ、聖徳太子の御廟のある……」
そして胸噪ぎに駆らるるまま、どこというあてもなく、叡福寺の人々と共に探し歩いた。
「逃げるならば、叡福寺の僧房へでも、おかくれになればよいのに」
「私は、あの叡福寺の御葉山のふもとにある聖徳太子の御廟へ、ちと、心願がありまして、
河内の磯長の里の叡福寺にある聖徳太子の御廟へ参ることと、この六角堂へ籠って、心ゆくまで、感謝
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「では、東大寺の明一和尚はいかがですか、元興寺の慈法和尚は堕落僧でございましょうか。遠く、仏法の明らかな時代に
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た。小栗の城主尚家もきていた。相馬、笠間などの大小名をはじめその家臣、郷士、町人、それを観る雑多な民衆―
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「いや」範綱は、首を振った。山萩の寝ている野道を曲がって、狭いだらだら坂を先へ降りて行きながら、
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。日出る東の果てを指して――。俺は、伊豆にながされてゆく。だが、そこから必ず窮民の曙光が、遠からぬうち
まず、八月七日には、関東の伊豆に、頼朝が義朝滅亡以来、絶えて久しく、この天が下に見なかった白旗を
「木曾の冠者義仲、近江以北の諸源氏をかたらって、伊豆の頼朝に応じて候」とある。愕然と、六波羅の人心は、揺れうごいた
のもとに潜んでいる源九郎義経があり、また、近ごろ、伊豆で旗挙げをしたと沙汰する頼朝がある。――それで、亡きおもとの
伊豆の頼朝には、いわゆる、坂東武者とよばれる郷族が、草を薙いで
いうほどな人間でもないが、これでも、先祖は伊豆の一族。今では浪人をしているので、生国の名をとって
三条の小川侍従の姫、花園准后の侍女三河の局、伊豆の走り湯の妙真尼など、ここにも旧教に眺められない特色があった
房、禅光房などの高足八名に対して、備後、伊豆、佐渡、阿波の諸国にわけて、それぞれへ、
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、念仏停止のため、都を追い払われてから、この先の赤城の麓に草庵をかまえておりましたが、このほど、恩師法然様が讃岐
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(範宴――、よう見えるか)と、ある時、比叡の峰から、京都の町を指さしていう。範宴が、うなずいて、
孤雲は、谷間に下り、水にそって、比叡の山から里へと、いっさんに逃げて行った。
の信願をもって自分の信願とし、雪の比叡へ三度目にのぼったのである。
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「生信房というて、元、京都から中国九州にまでわたって、悪名をとどろかせた天城四郎が成れの果――今で
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ある稲田の草庵の軒先からは、いつもうす紫に霞んでいる筑波の山が見えた。窓からは、加波山の連峰が見え、吾国山の
筑波の山の影が、田水に落ちていた。親鸞は、泥足を洗って
「あれか、甲賀坊は、万一の場合にと、筑波の野武士を狩り集めに行った。そう、人数はいるまいと思うが、水も
一瞬に晴らすか。そのせいかあの雲、血のように筑波の空をかけて赤い――。オオ、筑波といえば、あれへ来るの
のように筑波の空をかけて赤い――。オオ、筑波といえば、あれへ来るのは柿岡へやった野武士たちらしい」待ちかまえている
筑波の野武士たちは、三の手になって、野刀を閃めかせながら、岩蔭
半ばであった。沃野には菜の花がけむっていた、筑波も、下野の山々も、霞のうちから、あきらかに紫いろの山襞を描いて
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に、次男の宗盛が右大将に昇官して、徳大寺、花山院の諸卿をも超え、自分の上にも坐ったということが、何
じゃ――猿に履じゃ。それを、一躍、徳大寺や花山院の諸卿をとび超えて、右大将に任ずるとは、なんと、阿呆らしい――
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叡山の騒擾はその後もつづいていた。院政の威光も、平家の権力も、
数名の将のほかは、院宣のとおりに思って、叡山を攻めるのだとばかり思っていたらしい。
だが、院の中枢部の人々の肚は、敵は叡山にはなくて、六波羅にあった。山法師を討つと見せて、平家一門へ
十二月に入ると初旬の三日には、慈円僧正が叡山にのぼるということを、範宴は、弟子僧から聞いた。
叡山の座主であり、慈円僧正の師でもある覚快法親王が、世を去られ
役人からも、非難されているのですから、とても、叡山などへ、範宴さまを、お連れくださるわけはありません」
「冗談じゃない。叡山というところは、お小僧なぞの行けるところではなし、また、掟とし
て、社会よりも、高いところにあるのが僧だ、叡山だ。――平家が悩む時には、平家も救ってやろう、源氏が苦しむ
房のことばも、あまり過激すぎる。そんなに腑甲斐のない叡山なら、自分から、さっさと山を下りたらいいじゃないか」
によると、戦ぎらいの公達は、よく、三井や、叡山や、根来などの、学僧のあいだに、姿をかえて匿れこむよしです。
(叡山は、河の外だよ)範宴は、なにか、うっすらと、教えをうけ
「何なりとも、仰せられい。叡山は、慈円のものにあらず、また、学僧のものにあらず、長老の
「当、叡山はおろか、日本四ヵ所の戒壇においても、まだかつて、範宴のごとき童
慈円僧正は、その後、座主の任を辞して、叡山からまたもとの青蓮院へもどって、いたって心やすい私生活のうちに、茶だの
「華厳を研究して、叡山の若僧のうちでは、並ぶ者がないよしを噂に聞いたが」
範宴が、今度、叡山を下りてから、何よりもふかく多く心に映ったものは、「女」
。この朱王房の顔を忘れたか。俺は、叡山の土牢から逃亡した成田兵衛の子――寿童丸が成れの果て――今
…いや怖かろう、あいつは、日野の学舎にいても、叡山にいても、師に取り入るのが巧く、長上に諂っては、出世し
僧都には、あらかじめ、叡山から書状を出しておいたことだし、慈円僧正からも口添えがあったこと
「あれは、九歳で入壇して大戒を受けた叡山の範宴少納言だそうだ」と、学寮の同窓たちは、うすうす彼の生い立ちを
叡山に苦行し、南都に学び、あらゆる研鑽にうきみを窶していたところで
「あなたは、叡山の竹林房静厳の御弟子、安居院の法印聖覚どのではありませんか
すこし現状の仏法に、疑問をもちだして、ただ一人で、叡山を下りこの磯長の叡福寺に、ずっと逗留していたのです。……
叡山の静厳には、範宴も師事したことがあるので、その高足の
似た懐疑者のひとりであって、どうしても、叡山の現状には、安心と決定ができないために、一時は、ちかごろ支那から
「いったい、今の叡山の人々が、何を信念に安住していられるのか、私にはふしぎ
期のころ、仏徒の腐敗をなげいて、伝教大師が、叡山をひらき、あまねく日本の仏界を照らした光は、もう油がきれてしまった
光は、もう油がきれてしまったのでしょう、現状の叡山は、もはや、われわれ真摯な者にとっては、立命の地でもなし、
のみやげです。あしたは叡福寺を立とうと思うが、もう叡山には帰らないつもりです」
たではないか。第一、顔の色つやも悪い。叡山にいたころのおもかげもありはしない」
「お師さまは、叡山にいれば、叡山の人となり、青蓮院にいらっしゃれば、青蓮院の人となり、俗
あくる朝、範宴は、叡山の道をさして、飄然と門を出た。尋有の顔が、いつ
「郷に入っては、郷にしたがえと申します。やはり叡山には叡山の伝統もあり、ここの法師たちの気風だの、学風だの
入っては、郷にしたがえと申します。やはり叡山には叡山の伝統もあり、ここの法師たちの気風だの、学風だのというもの
「おのれ、叡山の者とも見えぬが、どこの乞食法師だ。よくも、朋輩を打っ
突然、召状があって、範宴は叡山を下り、御所へ行くあいだの辻々で、そういう酸鼻なものを、いくつも
院門跡に補せらる――というお沙汰であった。叡山では、またしても、
自分が叡山の大衆に威嚇され嘲罵されても、その学説は曲げ得られないよう
ひところ、叡山の西塔にもいたという義経の臣、武蔵坊弁慶とかいう男も
磯長の太子堂に、叡山の床に、あの幾年かの苦行も今はなんの力のたしにも
なかった。そしてやがて、息を喘いて上ってゆくのは叡山の麓だった。彼の心には常にこの山があった。この山
範宴御房の行く道は一つしかあるまい。それは叡山だ。きっと叡山へ登ると信念をもっていいました……で、お姫
行く道は一つしかあるまい。それは叡山だ。きっと叡山へ登ると信念をもっていいました……で、お姫様と心を
て上るなどということは思いもよらない望みである。叡山の高嶺はおろかなこと、この雲母坂から先は一歩でも女人の踏み入ること
「なんだか、社会がばからしくなってきた。この叡山までが嘘でつつまれていると思うと――」
うちでも、怖いと思って忍びこむ所はねえが、この叡山だけは気をつけないと少し怖い。なぜなれば、ここの山法師ときては
「叡山から三里十六町、この正月の十日から発願して、ちょうど今宵で九十九
(範宴離山)の噂は、半日の間に、叡山にひろがっていた。ひそかに、彼へ私淑している人々だの、彼
に、また、血みどろな修行の壇としてきた、叡山に対して、永遠の訣別を告げていたのであったが、送る人々
彼が叡山を下りて、ここへ帰ったという事実は、一日のうちに洛中洛外
ものである。おのおのは帰院して、範宴遁世のよしを叡山へ伝えあげてもらいたい。なお一山の大衆には、べつに宝幢院へ宛て
の業をとらえて非難しているそうな。そしてまた、叡山の衆は、おん身が浄土門に入ったと聞いて恩義ある宗壇へ
ます。しかし、近いうちに、慈円僧正には、ふたたび、叡山の座主におつきになられるようなお話でございますから、そうなると
ぬぞ。月輪の姫とのことで、ぼろを出すと叡山に逃げこみ、叡山もあやうくなると吉水へかくれ、そろそろ、世間のうわさが下火に
の姫とのことで、ぼろを出すと叡山に逃げこみ、叡山もあやうくなると吉水へかくれ、そろそろ、世間のうわさが下火になったと思う
、白河のほとりを、いつもならば西へ下るのに、叡山のほうへ真向きに歩いていた。
徒になろうという意志を固めているのだ。所詮、叡山は二度と自分を容れまい――容れる雅量があるまい――今日が別れ
叡山の慈円座主は、山を降りて青蓮院にあった。そこから、月輪へ
。二十年前に、彼奴と会った時は、俺は叡山の仲間僧だったし、彼奴はすでに、授戒登壇をゆるされた一院の
かぞえれば、叡山の雲にも、路傍の一木一草にも、ひざまずいて、掌をあわせたい恩
また、叡山を去って、吉水の念仏門に身を投じ、自力難行から他力易行へ転向
が来る……。それを早めようとしているのが、叡山の人々だ、南都の大衆だ、高雄の一山だ」
叡山の大衆は、伝統の威権と、その社会的な力の上から。
慈円僧正がいなくなっては、いよいよ、これから吉水と叡山とは、うるさいことになろうぞ」
人間の感情というものを外においてのことで、叡山の者にも、感情はあるから、近年の吉水と、自分たちの蟠踞し
「叡山には、一日ごとに、有力な檀徒や碩学が、みな山を見捨てて
叡山は、その大きな権力と、自尊心から、度々、これを問題に取りあげて、いわゆる
時の叡山の座主は、慈円僧正であった、僧正と月輪禅閤とは肉親である。
いる者の妻となっている。その善信も、元は叡山に学び、叡山に奉じていた裏切り者である、それが今では吉水
「つまり、叡山が騒めいているのは、宗教が問題ではなく、権力の争いを売りかけ
僧がすぐいった。それは、つい一昨年ごろまで、叡山にいた者で、実性という若い末弟子だった。
ない間に、森の奥へ走っていた。そして、叡山の肩に低く垂れている夕雲を仰ぎながら、どこともなく姿をかくして
で鼻を抑え、声まで変らせて、西塔、東塔、叡山の峰、谷々にある僧院の前へ行っては、厄払いのように、呶鳴っ
これが、叡山名物の、いわゆる「山門の僉議」の布令なのである。
うごかしたものである、武力のあった平氏も源氏も、叡山だけは意のままにならなかった。――時勢は刻々と移ってはいるが
をしでかすかわからぬ。かくては、宗祖大師の遺業も、叡山の権威もどこにあるか、世人は疑うだろう、三塔三千の大衆は、
」老声である、声から察しるに、この法師は叡山でもかなりの長老らしい。
が、かくものものしく騒いだとあっては、大人げない。叡山は、吉水の一団に対して、私憤をもって起ったのではない、
たのであろう、吉水の弟子僧たちと相談して、叡山の動向を見にきていた例の実性という若者であった。
「近ごろ、南都、高雄、そのほか叡山なども、主となって、吉水を敵視し、上人以下の念仏門の人々
吉水の学僧たちの若い人たちが実性に命じて、叡山の様子を密偵しにやったとみえまする」
ましょう……。このままに、手をこまねいていたら、叡山や南都の法敵のために、上人のお身も気づかわれます。せっかく、築きあげ
明らかに、それは叡山の法師たちに違いないのである、特徴のある法衣の裾を短かに着
また、京都の六角堂は、そこの精舎へ、叡山から百夜のあいだ、求道に燃え、死ぬか生きるかの悲壮なちかいを立てて
てやったことから、その翌る日、彼を捕えにきた叡山の者を、太夫房覚明がひどく懲らして追い返したために、山門の荒法師たち
叡山や、高雄や、南都の反念仏宗のものが、こぞって法然を誹謗し
「わが聖域たる叡山のうちへ、密偵を入れこみたる理由はいかん」
――だが、それをもって、叡山が、山門の僉議の決議を変更し、対念仏門の考え方を好転した
、法然上人以下、門弟百九十余名、連名をもって、叡山へ謝罪文を送ってきた。今、それを読みあげるから、静かにして
それは、上人が、叡山の大衆に対して、誤解をとくために送ろうとするものであった。言々
「これは叡山に対する降伏状にひとしいものではないか」と蔭へ来て、無念そう
七箇条の誓文と、叡山へ送る一文には、法敵を責めている論争は一つもない。ただ
それが叡山に届けられ、大講堂で今日読み上げられたのである。
が、こうして山を説いてあるいたので、叡山の感情は、非常にやわらいできたように見えた。
擁護するために、ただ暴圧的に、吉水を押しつぶそうと試みる叡山などの反撃とは、それはまるで比較にならない真摯な反駁であった。
まして、叡山の大衆、南都の大衆などは、手を打って、
「叡山三千房が、こぞって迫害の手をのばそうとしている折、また、栂尾
叡山は、権力の上から。
わけても、朝廷には今、叡山の訴状が出ているし、南都の衆僧からも、念仏悪の罪状をかぞえ
もちろん、ここにも、叡山に加担する公卿や、南都の云い分や、明慧上人の学説に共鳴する者
、廟議の方針が、にわかに一決しないのを見ると叡山は、
「叡山の態度こそ、怪しからぬものである。吉水の法然と、それとを比較すれ
妻として嫁いでいるし、弟の慈円僧正は、叡山の座主であったが、その座主にもいたたまれないで下山しているのだ
も少しも眼をつけないその方面を探るとしたら、叡山でもない、高雄でもない、奈良でもない、やはり吉水がいちばん臭いと
樵夫のような男が、ぶらりと叡山の根本中堂の前に立った。座主の執事らしい僧が、
、中堂からは、にわかに使いが走り、主なる長老や叡山の中堅が二十名も集まってくる。
、御門の外へ出た。門の外には、叡山の法師たちが、頭巾の裡から眼をひからして待っていた。
「好機。ここを外すな」叡山はまた、鳴動しだした。
遠く叡山のふもとの方まで、彼は逃げ走って、山林の中へかくれたが、そこ
の声高にいい交わして通る言葉を聞いて、住蓮は、叡山の策動や、この虚に乗じて、素志をとげようとしつつある彼らの
南都、叡山、その他の諸宗諸国の反念仏派は、この時と、なお輿論をあげ
のである。――しかし彼は吉水の味方でもなく叡山の味方でもなかった。
た。それが、かねて弁円から聞いていることによって叡山の卑劣な奸策が大きな動因となっているのをよく知っているからである
いるからである。(この身一つを捨てる気で、叡山に火をつけてやろうか)などと口走ったりすることもあったが、裏方
「ほう……叡山の東谷へ移られるか。奇しき縁じゃ。兄は、叡山の大衆より、法
叡山の東谷へ移られるか。奇しき縁じゃ。兄は、叡山の大衆より、法魔仏敵のそしりをうけて追われてゆくに」
うちにまじっていた。――万一というのは、叡山の荒法師や、無頼な僧のうちに、不穏な行動に出ようとする者が
払い捨てるに惜しい気がした。雪を見ていると、叡山の苦学や、法隆寺の苦行や、若年の修学時代が思い出されるのだった。
吉水禅房の人々が、これからどううごくか――また、叡山やその他の旧教の徒が、それを機会にどう策動するか。
、あらゆる嘲罵や、無智の者の無自覚に対しても、叡山や南都の知識大衆と闘ったような、不屈さを示して、意力を曲げ
が、その後、おれは父を亡い、町にさまよい、叡山を追われ、家はなく、ただ知るのは、世間の人の冷たさのみ
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伐たれてしまった。そして、その頼朝が、今では鎌倉に覇府をひらいて、天下に覇を唱えているのであるから、平家の
この年、鎌倉では、頼朝が死んだ。そして、梶原景時は、府を追われて、
「離れてはいようが、心もとない。上洛中の鎌倉の大名衆や執権の家人たちが、一堂に集まって、夕刻から、師の
専横を御覧ぜられ、武家幕府の奢りを憎み給い、やがては鎌倉の末路も久しからずしてこうぞよという諷刺をふくめて、前司行長
興亡からは無視されているので、これは幕府が鎌倉に興ろうがどうしようが今日の天気と明日の天気のように見ている―
か、三井寺のなにがしとか、また聖護院の山伏だの、鎌倉の浪人者だの、名もない市井の無頼漢までが、きのうも今日もこれ
、俺とは比較にならぬほどの武功もあり、時めく鎌倉の幕臣として、これから大名暮しもできる身を、どうして、武門
差別なく、救いの扉をひらかれたものとして、鎌倉の将軍家実朝の母の政子が、遥かに、信仰をよせている他、越前
の大名となっていた、一族門葉も少なくはない、鎌倉との交渉も、簡単には参らない。彼はそれを捨てることに、どんな
――すると、すでに鎌倉では、彼のそうした憂悶のあらわれを、敏感に知っていた。
のあらわれを、敏感に知っていた。三郎盛綱は、鎌倉に対して近ごろ不満をいだいているらしいと沙汰する者があったり、それに
か、上人から聞かされる一語一語が、いままで、鎌倉の将軍家から貰った武功の恩賞より身に沁みてうれしい。――頼朝がおれ
「しかし殿……すでに鎌倉の右府もおかくれ遊ばした今日、今さら事新しゅう、亡き将軍家のおことばを取り立てて
せる)と申したあの一言を、旗差物へ書いて、鎌倉へ登ろうと幾度かいっていた、その度ごとに、汝を初め、老臣
ついさきごろまで、備前児島の城主であった彼である、鎌倉の覇主頼朝に対してすら、ついに頼朝の死ぬまで屈しなかった彼の膝
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東大寺の光円を訪れ、唐招提寺をたたき、そのほか、法燈のあるところといえば、嶮しさに怯まず
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「待てっ」と、京極の辻でさけんだ。
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下野国芳賀郡の大内の庄とよぶ土地だった、そこの柳島に、一粒の念仏
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しかし、もうそこは、五条の平家の庁に近くもあったし、いつのまにか、辻々からつい
この学舎には、堀河、京極、五条、烏丸などの、権門の子をはじめ、下は六、七歳から十五、
は、そう見ながら、ただの雲水の法師のように、五条を北川の方へ歩みだした。
はいったいどこへゆくのかと疑っていると、やがて、五条の西洞院までくると、この界隈では第一の構えに見える宏壮な門の
しながら駈けて行った。けれど、どこで行きちがったか、五条でも会わず、西洞院でも会わず、西大路でも会わない。
太、てめえは柄が小さいから人目につかなくっていい。五条のたもとまで行って、轅に螺鈿がちりばめてある美しい檳榔毛の蒔絵輦が
寺侍がある。一枝の梅に、文書を結いつけて、五条の西洞院へはどう行きますかと、京の往来の者に訊ねていた
、尻尾を半分失った例の大犬の黒をつれて、五条の裏町のきたない酒売店の土間で、弁円が、そこの亭主を相手に、
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境内の一乗院が、彼のいる室と定められた。そこで、彼は、四教義の
へ下りてゆく法師たちの疲れた姿を、範宴は、一乗院の窓から見ていた。
雪に埋った一乗院の窓からは、どんな寒い晩も、四教義を音読する範宴の声が聞え
、まだどんな、卑怯な振舞いをせぬとも限らぬ、一乗院まで、お送りして進ぜよう」
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渓流にそって、道は白川へ展けている。そのころから風が変って、耳を奪うような北山颪
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ざらぬ。上人がこのたび下向の命を沙汰された土佐国は、御老躯に対し、あまりにご不便。で――儂が所領する讃岐
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が、その前後に最も心のよろこびとしたことは、四天王寺へ詣って、寺蔵の聖徳太子の勝鬘経と法華経とを親しく拝観した
ので、奥へ行って、あいさつをすると、それは四天王寺の住持で良秀僧都という大徳であった。
しばらく、四天王寺に停まっていた。そして、ふたたび草鞋の緒を結ぶと、足を、河内
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(越後国、国府へ遠流)と決まったのであった。
ここは、越後国の国府で竹内という土地だった。都から遠くながされてきた流人善信
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と思うのでござる。洛内にては、人目もあるゆえ、鹿ヶ谷へ集った当日、万端お謀ちあわせする考え。――ついては、源家
「きょうは六月二日とあれば、さだめし、鹿ヶ谷の俊寛僧都の庵に衆会のお催しあることと存じまするが、院の
たちまち、鹿ヶ谷への行幸は、沙汰やめになった。武者所の人々は、
を、空のまますすめて、松明をともし、暗い道を鹿ヶ谷の集まりへと急いで行った。
法皇の行幸はなかったが、すでに、暮れる前から、鹿ヶ谷の俊寛の山荘には、新大納言以下、不平組の文官や武官が、おのおの
た輿論であった。新大納言や、浄憲法師や、鹿ヶ谷に集まった人々は、その政機を利用して、にわかに、山門討伐の院宣
太刀を剥がれて、西八条へ召し捕られてゆくし、また、鹿ヶ谷の俊寛も、手あらい雑兵に縛しめられ、犬か牛のように、鞭で
わけても、極刑にひとしい厳罰をうけたのは、鹿ヶ谷の俊寛であった。流されて行く先が、鬼界ヶ島と聞いただけでも、
「鹿ヶ谷の方」
……じゃあ、ご存じないのも無理はない。きょうは、鹿ヶ谷へ、わざわざ吉水のお上人様が出向いて、私たちのために、有難いお勤め
「それで、こうしてみんな、鹿ヶ谷へ行くのですよ」遅れては――と心の急くらしい足つきで、女
「え、あのお二方は、いつも、鹿ヶ谷にいらっしゃるのですから、きっと、きょうもお見えになりましょう」
鹿ヶ谷のふもとに来ると、そこは、夏木立と涼しい蝉時雨につつまれていた
鹿ヶ谷――ここの夏草を踏み、夏木立の梢を仰ぐと、都の人は
それがふと、数年前から、この鹿ヶ谷にも、人の足が通い初めて、都の人が、
(鹿ヶ谷の住蓮様)
て、その布教に当ってきたのであった。そして鹿ヶ谷の廃寺を興したのも、この社会に、一燈でも多く念仏の火を
の大気に吹かれたのである。――ふたりは、鹿ヶ谷へゆく道が、どれほど高くても、難路であっても、苦痛などと
「私は今、法友の住蓮と二人して、この鹿ヶ谷に住み、今日もかように吉水の師の房を迎えて、幸いに、盛
「ほんに、いつか鹿ヶ谷で聴いた法話を思い出しますね」
小道を見せている。道はだんだん登りになる。やがて、鹿ヶ谷は近いのであった。
鹿ヶ谷の法勝寺は、月に幾日かは、必ず法話や専修念仏の衆会
の法会や、念仏の唱導を、活溌にやっていた鹿ヶ谷の法勝寺が、近ごろ、はたと戸をとざしている。住蓮か安楽房かが
尾行てゆくと、麓へではなく、住蓮は鹿ヶ谷からなお上の山路へ一人で登って行くのだった。手になにやら包み
「ゆうべの夜中から、鹿ヶ谷の奥峰から山づたいに参ったので、麓にある山伏の行衣を取り寄せて身
、自身で探りあててきた次第を述べたてた――勿論、鹿ヶ谷の安楽房と住蓮のことは、極力それを誇張して。
「おねがいあって参りました。鹿ヶ谷に住む安楽房という者です。自分のいたした罪状について自首いたして
「なに、鹿ヶ谷の」わらわらと四、五名の侍たちが彼の両手を扼して、
「汝と共に、鹿ヶ谷におったはずの住蓮は、いずこへ潜伏したか」と、追求し、
敵地だからである。叡山の山僧たちは、この附近へ鹿ヶ谷の一名が逃げこんだと聞くと、奮い立って、山狩りに奔命していた
「おれは、鹿ヶ谷の住蓮だ、おれの念仏を停めてみい」といって、それから牢
「――鹿ヶ谷の坊様たちが斬られなさる」群衆は、河原へ集まった。矢来の外
「――たいへんでございます、鹿ヶ谷から四里ほど奥の小屋のうちで、若い尼様が二人、自害して
には、性願房、善綽房という二人は、かねてから鹿ヶ谷の安楽房や住蓮と親密であり、かたがた、平常のこともあって、これ
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せ)と、いつもの手段に出て、近いうちに、日吉、山王の神輿をかついで一山三千が示威運動に出るらしいという警報が都
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翌年の五月の下旬であった。難波から京都の附近一帯にわたって、めずらしい大風がふいて、ちょうど、五月雨あげくな
このごろは夜はわけても佳し、折から、めずらしい琵琶法師が難波から来て滞在しているから、平家の一曲をお耳に入れ、姫
、例の善信の奴が、岡崎の草庵を出て、難波から河内のほうへ旅に出たのを知ったから尾けて行った。そして
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迎え、親鸞ひとりでもなるまい。これにおる証信房、鹿島の順信房、そのほか二、三名は召し連れましょう」
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奥まった寝殿には、催馬楽の笛や笙が遠く鳴っていた。時折、女房たちの笑いさざめく声が、
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に霞んでいる筑波の山が見えた。窓からは、加波山の連峰が見え、吾国山の襞が、澄んだ日には、あきらかに手
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稲田、福原をあわせて何千石という広茫な青田をわたって来るすず風が、絶えず
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は坂道にとり残された。やっと、追いついてみると、もう仙洞御所の東門に、主人の姿はそこになかった。
そこの仙洞御所と、清盛のいる西八条の館とは、目と鼻の先だった。物々しい
れた安倍資成は、二十騎ばかりを具れて、仙洞御所へ、急使として駈けて行った。
ましたが、ずっと以前、師の君に随身して、仙洞御所へうかがったことがございます。その折、あなた様にも、鈴虫様にも
っているのも、実は無理でないのであって、仙洞御所の命はいよいよきびしく、中務省の吏員はやっきになって、二人の局の
「ここだな」仙洞御所の前に立って、弁円は杖をとめた。御門垣から少し離れた所
――仙洞御所の逆鱗!
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負って寺を追われましたのじゃ。それ幸いと、加古川の辺りで、その女と、女の死ぬ年まで暮しましたがの、さて
まま寺にいて、僧正になっていたのと、加古川の片田舎で女と暮したあげく女に死にわかれて、盲目の芸人となって、
奈良の白拍子との噂が立って放逐され、播州の加古川で渡し守をしているということが世間の笑い話になってから「加古川の
「お、琵琶の音がする。……加古川の法師は? ……」輦のうちで眼をふさぎながら、範宴は、
「おう、加古川の峰阿弥どのか」
、自分は、水際の石に腰をすえていた。加古川の教信沙弥の成れの果て――かの峰阿弥なのである。
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院の御所とか、六波羅の館とかまた平家の門葉の第宅には、夜となれば月、昼
なぜならば――その前に、吉光御前の血統は六波羅の忌むところとなって、義朝の子たちである――頼朝や遮那王(
には、昼間から、催馬楽の笛が洩れ、加茂川にのぞむ六波羅の薔薇園には、きょうも、小松殿か、平相国かが、人招き
「いや、手を焼くのは、附人よりも、やがて六波羅の平家衆ではございますまいか。伊豆には、兄の頼朝が、もう
物を出し入れするごとに不安だし、もし逃げられて、六波羅へ、あだ口をきかれたらばお館の御運命にもかかわるといって
「ではやはり、蔵人殿のご推察どおり、六波羅方の諜し者じゃな」
小松殿の薔薇園があり、その向い側には入道相国の六波羅の北門があって、その間を往来するのはいつも何となく小気味がよく
部の人々の肚は、敵は叡山にはなくて、六波羅にあった。山法師を討つと見せて、平家一門へ私怨と公憤の火ぶたを
目と鼻の先だった。物々しい弓馬のうごきは、すぐ六波羅の御家人から、
「五条、四条、出陣の六波羅の軍馬で、通れるどころではない。――聞けば、高倉の宮をいただい
「つい昨日までは、天下の春は、六波羅の政庁と、平氏一門に聚まって、平氏の家人でなければ、人に
糺の原でも、あの後で、野火のことを、六波羅の庁に、訴えたろう」
川をへだてているものの、火とさえいえば、六波羅のまえは、四門に兵を備え、出入りや往来へ、きびしい眼を射向け
「いや、西洞院から東の大路は、なにやら、六波羅に異変があって、往来を止めてあるとのことで……」と、
間近くは六波羅の入道
た。それに都会の秩序がだんだんに整ってきて、六波羅の捕吏たちの追うこともきびしくなった。一頃ならば市中の塔や空
というのだ、密会をしたというのだ、しかも六波羅の夜の警吏に、その証拠すらつかまれているという。
へ忠義だてしてえ奴は、今のうちに、六波羅の警吏へ訴えてやるがいい。――だが一言断っておくが、俺
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都へ上ってきたのでございました。もし入道が熊谷の帰途に、私の寺にお立ち寄りくださらなかったら、あるいは、私は生涯ここ
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だ。常磐とよぶ母の乳ぶさから※ぎ離されて、鞍馬寺へ追い上げられてから、もう、十年の余になる。
範朝臣は、あべこべに、遮那王が身の終るまで、鞍馬寺に、抹香弄りをしていることを、祈っているのだ。
「――御曹子と申しても、実は、鞍馬寺の預かり稚子でござるゆえ、ちと、身装にも、特徴があるし、体は
「兄上、今の侍どもは、鞍馬寺の者と申しましたな」
「兄上、やはり、鞍馬寺の牛若でございますな」
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鞍馬の峰にあって、奥州へ逃げのびた遮那王の義経も、短くて華やかな
、樹々はほの紅い芽を点じてはいるが、ふり仰ぐと、鞍馬の奥の峰の肩にも、四明ヶ岳のふかい襞にも、まだ残雪が白かっ
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末だった。かねてから、範宴の宿望であった大和の法隆寺へ遊学する願いが、中堂の総務所に聴き届けられて、彼は、この
「無動寺の範宴にござりますが、このたび、奈良の法隆寺へ遊学のため、下山いたしましたので、僧正の君に、よそながらお
ことが必要だ。――ただ専念に)と、行く手の法隆寺に、その希望をつなぎ、おのずから足に力が入るのを覚えつつ大和へ急い
もうここまで来れば、行く先の法隆寺は近いし、先にそこへさえ行っていれば、後から彼の来ること
いるが、月明を幸いに、これから二里とはない法隆寺のこと、夜をかけて、歩いてしまおうではないかとなった。
それから月の白い道を、露に濡れて、法隆寺の門に辿りついたのは、夜も更けたころで、境内の西園院の
「私も、一昨日から、法隆寺のまわりを歩いて、幾人も、同じお年ごろの学僧様が多いので
せんのだ。それが覚運僧都の仰せでもあり、法隆寺の掟でもあるのだぞ。よいかっ」
体になると、範宴は、性善坊にも告げず、法隆寺から一人で町の方へ出て行った。
やがて、黄昏れの寒鴉の声を聞きながら、範宴も、法隆寺へ帰って行った。そして、山門の外から本堂の御扉を拝して、
ように、学生たちへ、華厳法相の講義をすまして、法隆寺の覚運が、橋廊下をもどってくると、
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仁和寺の十四宇の大廈と、四十九院の堂塔伽藍が御室から衣笠山の峰や谷へかけて瑤珞や青丹の建築美をつらね、時の文化の力
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また、むなしく善光寺へもどって、さらに、道をかえて、浅間山のけむりをあてに、碓氷越えを指してすすんだ。
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空地が半分以上も占めている六条の延寿院附近は、千種町というのが正しいのであるが、京の者
「六条お牛場」というのが割り込んでいて、汚い牛飼長屋だの、牛小屋だ
、後白河法皇の離宮である院の別名なのである。六条からはそう遠くはない。しかし本道の五条大橋を越えてゆくと、橋の
「六条の朝臣らしゅうござります」側近がささやくと、
しかし、十八公麿は見たがるのである。六条の館は、以前の日野の里とはちがって、都の町中である。
まだ不安である。安心するには早すぎる。一人で、六条まで帰れるはずはないし、さだめし、どこかで泣いて、自分の姿を
「六条のお館は、和子様が、青蓮院にお入りあそばしてから、まるで、
「はい、ふしぎなご縁で、六条のお館に、捕われていたこともございますし、また、その後も、
「お法師さま」六条のお牛場のあたりを、二人は、見まわしていると、かつて、その辺の
のみならず六条の館は、どう探しても見つからなかった。
私からおすすめ申しあげて、実は、これへ参る先に、六条のお館をさがしました所が、まるで町の様子は変って、お行き先
「僧正のおいいつけで、今日は、六条範綱様のお住居へ、ご案内申すつもりで、お待ちうけいたしていた
その折、六条の館も、あの附近も、一様に焼き払われて、範綱は身辺すら危ない
並木の蔭へでも引込んでいろ。それでなくとも、六条の町の火放けは、天城四郎のしわざだと、もう俺たちの噂が
朝の清掃が済むと、性善坊は六条まで行く用事があるといって、後をたのんで出ていった。
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、南都にも聞えた秀才であったが、俺は、聖護院の端くれ山伏にすぎなかった……」黒を刎ねのけて、彼は、むっくり
毎日こうして歩いているが、京にいる間は、聖護院の西の坊を宿にしているから、そこまで、やって来てくれ
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従弟の鞍馬の遮那王どの、とうとう、山を下りて、関東へと、身をかくしてしまわれたということです」
て、あれほどきびしい平家の付人の眼を晦ましたか、関東へ逃れて、身を潜め、今では、奥州の藤原秀衡の懸人になっ
まず、八月七日には、関東の伊豆に、頼朝が義朝滅亡以来、絶えて久しく、この天が下に見なかった
義朝の従兄妹にてさいつころから、大軍を糾合して、関東より攻めのぼるであろうと怖れられている頼朝、義経は、この十八公麿には、
のみならず、昨年来、関東の方から起った源氏の革新的な軍勢は、日のたつにしたがってその勢い
「実は、手前はこよい関東の方から、初めて京へ参ったばかりの田舎侍で、道にまようて、ぼんやり
に、稲田九郎頼重とか、笠間長門守時朝などという関東の武門において名のある人々のうちにも、吉水禅房の帰依者が
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わずか二年とたたないうちがそうであった。角間から佐久郡一帯は、田に野に山に、生きるをたのしむ人の顔がどこにも
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(白山の僧が、神輿をかついで、延暦寺へ押しかけたそうな)
その僧徒たちが、示威運動をやったり、延暦寺の座主が、そのために流されたり、院の政務も、洛内も、騒擾を
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に随って、天台の三大部を卒業するし、また、仁和寺の慶存をたずねて、華厳を聴き、南都の碩学たちで、彼はと
仁和寺の十四宇の大廈と、四十九院の堂塔伽藍が御室から衣笠山の峰や谷へ
から冬へ、また冬から年を越えての正月まで、仁和寺をはじめ、化蔵院や、円融寺や、等持院、この辺りの仏都市へ
きょうも仁和寺の附近は賑わっていた。一つの供養塔を建立した奇特な長者が
一代で莫大な富を得た商人であったが、仁和寺の法筵で説教を聞いてからにわかに何事か悟ったらしく、その富の
、長者は脱殻のように老いた体を授けられつつ、仁和寺の客間へ請ぜられて行った。
こんな土のついた小銭などを拾ってこいといった、仁和寺で働いてこいといったのは、今日、供養塔の棟上げをした長者が
「仁和寺の法橋や、南都の覚運僧都などへも、遺物を贈ったというくらいだ
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、この附近の寺院を相手に商いしている家々や、河内がよいの荷駄の馬方や、樵夫や、野武士などかなり聚合して軒をならべ
た。初めて、その御真筆に接した時、範宴は、河内の御霊廟の白い冬の夜を思いだした。
それから彼は、河内の讃良にながれていた。そこの奇特な長者の後家が、まことに信心
河内の磯長の里の叡福寺にある聖徳太子の御廟へ参ることと、この六角堂へ
の善信の奴が、岡崎の草庵を出て、難波から河内のほうへ旅に出たのを知ったから尾けて行った。そして、磯長
――あの折は、この弁円も見のがし、また、次の河内の太子廟でも、むなしく彼奴を取り逃がしたが、今日はそうはさせぬ
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まいか)と伝え合う者があって、やがてその評判が、常陸国真壁の代官小島武弘の耳へも入った。
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――だが、そうした武運のめでたい男も、鳥坂城に城資盛を討った老後の一戦から、ふッつりと、明けても暮れ
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、まだ十九の頃に、若い髻を切って、大峰、葛城、粉河、戸隠、羽黒、そしてまた那智の千日籠りと、諸山の荒行を
「それから数年、俺は、大峰へ入り、葛城へわけ登り、諸国の大山を経巡って、役の優婆塞が流れを汲み、孜々
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――七条を西へ。大宮を下って、鳥羽街道を真っすぐに進んでゆくのであっ
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「興福寺へ行ってまいる」と、性善坊も覚明もつれずに、ただ一人で、
彼の念願は、興福寺の経蔵のうちにあった。許しをうけて、その大蔵の暗闇にはいった
前身の名を申し上げるは面映ゆいが、実は、わしは、興福寺にいた教信沙弥でおざるよ」
奈良の興福寺の衆徒と、その衆徒が、当代の生き仏と仰いでいる、笠置の解脱上人
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。一面の琵琶を背に負い、杖をついてとぼとぼと志賀の峠から下りてくる法師があった。足もとの様子で盲人と見たの
「志賀から北国路への道を、被衣した若い女がふたり、駅伝の駒を
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登るともう広やかなる耕地の彼方に、奈良の丘や、東大寺の塔の先や、紅葉した旧都の秋が、遥かに望まれてき
東大寺の光円を訪れ、唐招提寺をたたき、そのほか、法燈のあるところ
ても天平のころからあったということは光明皇后から東大寺へ御寄進なされました御物を拝見いたしましても頷けることでございましょう」
「では、東大寺の明一和尚はいかがですか、元興寺の慈法和尚は堕落僧でございましょう
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中年になってふたたび親鸞を書いた。台日、福岡、名古屋、北海タイムス等、地方紙五社の連合掲載のために書きおろしたの
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「今日、京都へついたばかり。何のうわさも聞いておらぬ」
「さては、京都へ、密使にでも来たという筋あいか」
、堀井弥太では、おかしかろう。――一年に一度ずつ京都へ顧客廻りに来る、奥州者の砂金売り吉次とは、実は、この
の方から、人買いとやら、人攫いとやらが、たくさん、京都へ来て徘徊いているそうな、もしものことがあっては、良人
から那須野の原をさらに越えて、陸奥のあらえびすどもが、京都の風をまねて文化を創っている奥州平泉の城下へ遠く売りとばされて
、よう見えるか)と、ある時、比叡の峰から、京都の町を指さしていう。範宴が、うなずいて、
「すべてが、一昔前になったな」京都の町へ入ると、範宴は、眼に見るものすべてに、推移を感じ
「あの……実は……私は京都の粟田口の者でございますが」
うなずいたのを見て、十日ほどの暇をいただいて京都へ行ってきたいという願いを申し出ると、覚運は、
「ついては、おもとも京都へ共に帰らぬか」
は、きっと、お父さんのいいつけをうけて、私たちを、うまく京都へ連れ帰ってこいといわれているに違いありません」女には、
この身ひとりがこのましい。そちは、朝麿を伴うて、京都のお養父上にお目にかかり、かたがた青蓮院の師の君にも
、梢のことが、不安で、悲しく、このまま自分ばかり京都へもどることは心がすまない様子であった。
、その女というのは、十九か、二十歳ほどの、京都ふうの愛くるしい娘ではありませんでしたか」
めぐらなければならない。しかし、そこに立つと、遥かに京都の灯がちらちらとみえ、あさぎ色の星空がひらけて足もとはずっと明るくなっ
翌年の五月の下旬であった。難波から京都の附近一帯にわたって、めずらしい大風がふいて、ちょうど、五月雨あげくなの
てはならぬ。今もって、悪業を行とし、京都を中心に近畿いったいをあらし廻る浄土の賊天城四郎の贄にさせて
おそらく、玉日の面ざしから、広い京都にも稀れな美を射られて、惑ったり、考え直したりしているもの
京都六角堂の精舎から、かがやかしい顔いろを持って、春かぜの吹く巷へ出て
もしないで歩いてゆく。さすがに、彼も、この京都の地を踏んでは、岡崎の家がなつかしいのであろう、新妻の笑顔
しかし、この京都へ戻ってきて彼がすぐ訪れたのは、その草庵でも、新妻
また、京都の六角堂は、そこの精舎へ、叡山から百夜のあいだ、求道に燃え、
その三人の弟子たちは、皆、善信が京都からこの越後へ送られてくる途々の間に、善信の徳を慕って
「まだ私が京都にいた折、しきりと、念仏はよいものと、町の衆がうわさ
「わたくしは元、京都の六条で、白拍子をしておりました。そのころこの国府の代官
その侏儒は、京都から雇ってきた蜘蛛太とよぶ男で、庭掃除の小者として
。おん身の手をもって、どうぞ、山吹を元の京都へ返してやって欲しい。……どうじゃ、その頼みなら聞いてくださるで
役目上、役宅のうちから、領土の検見張だの、京都との往復の文書だの、政治上の大事な書類などを、死んでも
、勅勘の身と、一度はかたく辞退したが、すでに京都へは年景から文書をもって届け出てあるとのことに、
この教順を初め、三名の弟子は、元々、京都から従いてきた親鸞の古い弟子ではなかった。親鸞が北国へ来る
はさることながら、御赦免の天恩を浴み、おなつかしい京都の土をお踏み遊ばしてからおかくれなされたことが、せめてもの
定めし、お力落しでもございましょうが、何とぞ、一刻もはやく京都へお出まし下さいますよう、私からも、お願い申しまする。どうぞ、皆
度と聞かれぬことになったのじゃ。――その京都に何たのしみあって参ろうぞ、この上は、親鸞はもう上洛をいたしませ
――もう京都へ帰る張合いもない――といったことばは、彼の真実であった
、自分がまったく意味をなさないものになるし、また、京都で親鸞を待ちかねている人々の失望のほども思いやられて、
明智房はまた、そこから親鸞のことばを伝えるために、京都へ引っ返してゆくほかなかった。
領の国主佐竹末賢殿が、はるばる領下の祈願所へ京都から召し呼ばれ、国中の山伏の総司として崇め、末派十二坊
はないかと存じます。――もと、その修験者は、京都の聖護院の御内にあって、学識も修行も相応にすぐれた先達の
京都の聖護院から国守の佐竹家に招請されて下ってきたという豊前
「生信房というて、元、京都から中国九州にまでわたって、悪名をとどろかせた天城四郎が成れの果
…ああ……」思わずうめいたものである。――京都の巷で見たころの親鸞の顔には、もっと険しいものがあった
「先ごろ、京都へのぼられた真仏御房が、勅額をいただいて参られるころには、
とのあいだに生げた一つぶ種の範意は、京都で、父の顔を知らずに亡くなってしまったけれど――とにかく彼は
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「お召しでございますか」執事の高松衛門が、次の間まで来て、手をつかえた。
「はいっ」高松衛門はすぐ手をついて、
「はいっ」高松衛門は、廊を、つつつと小走りに退がった。
「お使いの者、もどりました」高松衛門が、あわただしく、告げてきた。待ちかねて、
すると、執事の高松衛門が、山門の外に待っていて、
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「無動寺の範宴にござりますが、このたび、奈良の法隆寺へ遊学のため、下山いたしましたので、僧正の君に、
奈良も近いので、あるいは、先へ気ままに歩いて、奈良の口で待っているおつもりか?
ここに見えないとすると、もう奈良も近いので、あるいは、先へ気ままに歩いて、奈良の口で待っ
のであったが、ふと思うことには、万一このまま奈良の町へ入って、範宴が、そこに自分を待ってでもいたら
出た。そこまで登るともう広やかなる耕地の彼方に、奈良の丘や、東大寺の塔の先や、紅葉した旧都の秋が、
どこで行きちがったのか、範宴は性善坊とはぐれて、奈良の杉林のあたりに、ただ一人でたたずんでいた。
「そんな義理がたいことには及ばないさ。奈良の茶屋町で、一晩遊べば、あれくらいな金はすぐにけし飛んでしまう
「なあに、奈良は女の都だ、若い範宴が何を修行してきたかわかるもの
つれずに、ただ一人で、雲のふところを下りて、奈良へ行った。
のようにいわれていたこともある、それが、奈良の白拍子との噂が立って放逐され、播州の加古川で渡し守をし
「あ……教信」聞いたことがある、奈良ではかなり有名な人だ、学徳兼備の僧のようにいわれてい
。遠く、仏法の明らかな時代に溯ってみますると、奈良朝のころには、明一や、慈法のような碩学で、妻を
また、奈良の解脱上人たちは、主にその教化の方面から、
奈良の興福寺の衆徒と、その衆徒が、当代の生き仏と仰いでいる、
そして今は、奈良の衆僧が、
「奈良、高雄、みな旧教の蒙をかぶって、象牙の塔に籠っている過去
探るとしたら、叡山でもない、高雄でもない、奈良でもない、やはり吉水がいちばん臭いという結論になるのだ。――
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人々では。熊谷直実の蓮生をはじめ、甘糟太郎忠綱、宇都宮頼綱、上野の御家人小四郎隆義、武蔵の住人弥太郎親盛、園田成家、津戸三郎
の――法然上人随身のひとりである熊谷蓮生房の親友宇都宮頼綱もその地方の豪族であった。――そしてその頼綱はまた、蓮生
同時にまた念仏門の帰依者の稲田九郎頼重とか、宇都宮一族などの地方の権門たちが、
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大津口の並木の辻にも、その高札をとりまいて、黒山のように人
大津へ着く。――船は帆を寝せて一行を待っていた。
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通れない雪だというのである。生命がけで行っても福島まで行けるかどうかという者があった。
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住吉四所のおん前には
住吉四所のおん前にゃ
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西、河内生駒路、東、伊賀上野道。
。熊谷直実の蓮生をはじめ、甘糟太郎忠綱、宇都宮頼綱、上野の御家人小四郎隆義、武蔵の住人弥太郎親盛、園田成家、津戸三郎為盛。
そして、辛くも、峠をこえ、眼の下に、上野領の南の平野をながめた時は、すでに暦は、二月の下旬
よく杖をひいた。――また、碓氷を越えて、上野や下野の方面へもたびたび出た。
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――七条を西へ。大宮を下って、鳥羽街道を真っすぐに進んでゆくのであった、その途中
大地に坐って伏し拝む人々とまじって、月輪の老公は、大宮口まで従いてきて、その輿を見送り、すぐ牛車を返して、岡崎