細雪 03 下巻 / 谷崎潤一郎

細雪のword cloud

地名一覧

小石川

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、老年に及んでから京都を恋しがるようになり、遂に小石川の本邸を捨てて嵯峨に隠棲してしまったのであるが、それを思う

であるが、国嶋の意見としては、御牧氏も小石川に子爵家の本邸があるのだし、蒔岡氏の方も渋谷に本家が

鈴蘭台

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、と云って尋ねた。はい、一人でございます、ちょっと鈴蘭台まで行って参りました、と云うと、蒔岡さんの所の皆さん、お

法隆寺

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いながら案外大和の名所古蹟には不案内で、妹などは法隆寺の壁画さえ見ていないのです、と云い、奈良の旅館は純日本式

今宮

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ほら、あれじゃないの。十日戎の日に西宮や今宮で売ってる、笹の枝に小判だの大福帳だの千両箱だのを結い着け

岐阜市

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た。蛍の名所と云えば江州の守山辺にも、岐阜市の郊外などにもあるが、大概そう云う土地では名産の蛍を貴いあたり

平安神宮

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そんなに早く出歩けるようになれるであろうか。嵯峨、嵐山、平安神宮は駄目だとしても、せめて御室の花にでも間に合ってくれないか

客の少いのが、花を見るには却って好都合で、平安神宮の紅枝垂の美しさがこんなにしみじみと眺められたことはなく、人々が皆

日曜に日帰りで京都へ行き、瓢亭などは抜きにして平安神宮から嵯峨方面を申訳に一巡したが、今年も亦妙子がいず、四

関東

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「―――これは多分、関東の方は御存知ない言葉だと思うんですが、大阪にキッキョウと云うものが

多分あれを炒る時に爆ぜるからハゼと申すのでしょうか。関東の方では三月の節句にあれを使って豆炒りを拵えますが、…

話題は暫く関東と関西との風俗や言葉の比較に移ったが、大阪で生れて、東京

既に十分満足であった。幸子のように上方に生れて関東の地を蹈むことの稀な者が富士山に寄せる好奇心は、外国人がフジヤマ

倫敦

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「―――今に倫敦かて空襲されまっせ」

になるかも知れない形勢になったについては、倫敦の郊外にいると云うカタリナのことも話題に上った。ほんとうに、人の

お便りがございますか、こんな戦争になってしまって、倫敦は独軍の空爆でえらいことでございますね、カタリナさんはどうしていらっしゃるだろう

に出した手紙が先日来ましたが、自分の家は倫敦の郊外で、独逸の飛行機が飛んで来る通路に当っているので、毎日

満洲

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兄さんたちも、そんな口があるなら是非その募集に応じて満洲へ行け、皇帝のお附なら人聞きもよいし、仕事は何もむずかしいことは

には実に向いている、啓三郎がその気になって満洲へ行くなら、門出の祝いに勘当を許してやろう、と、そう云っている

大阪

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これはひとしお着附に念が入っていた。出がけに大阪まで省線電車で一緒であった貞之助は、向う側にかけた雪子の姿をしげしげ

らしいことを早くも感じていた様子であったが、大阪で汽車に乗り換えると、

があった。と云うのも、余人は知らず、「大阪生れ」と云うことに誇を抱いている幸子は、幼少の頃から豊太閤

「はい、神戸へはあまり参りませんけれども、大阪へは、年に一二回程は、―――」

はお母ちゃんの二十三年なので、再来月は皆で大阪へ行かなければならないと、頻りにそのことを話していたが、雪子

十二年十二月の父の十三回忌の時に、辰雄は大阪へは出て来ないで、道玄坂の近所にある、善慶寺の法類に

違いないであろうが、義兄の本当の腹の中は、大阪で父の法事をすればどうしても華美になり、無駄な費えが懸る

それやこれやがあるものだから、十三回忌にはわざと大阪の地を避けたのであるらしかった。親戚の老人の誰彼などは辰雄の

に挟まって困ったのであったが、十七回忌には大阪へ行って埋め合せをするからと云うのが、その折の辰雄の言訳であっ

行ったのであったが、でも幸子は、父が大阪より京都の方でより多く遊んだこと、自分もしばしば祇園の茶屋へ連れて

の厄介にもならないで済ませる、あたしは二年ぶりの大阪であるし、留守の方もお久どんがいてくれるからまあ安心だし、

こんなことを話した。―――自分はあのお方は大阪の方に住んでいらっしゃるのだとばかり思っていたところ、西宮の一本松の

「兄さんに勘当されて、大阪の家にいられんようになってん」

ばかり前から、幸子は家で琴の練習を、妙子は大阪の作いね師匠の所へ通って舞の練習を続けていた。姉は

の松竹へ来たよって見に行ったけど、東京や大阪で見るようなことあれへなんだ。保名をやったけど、延寿太夫も

て貰ったのは一昨年の秋のことで、幸子は大阪で七つ八つの幼い娘が入門の時に習う、「箱入りの、姫

亡命の白系露人の娘と、大阪の旧家の箱入娘とを比較するのは間違っているかも知れないが、

いてくれるらしかったが、或る時行くと、「奥さんは大阪の丹生さんと云う方を御存じでいらっしゃいますか」と云う話が出た。

に御飯を戴くと云うようなことにして、場所は大阪、日は二三日うちがようございますが、シカとしたことはいずれ電話

あること、独逸に留学したことがあること、住宅は大阪の天王寺区烏ヶ辻に借家していて、現在は娘と二人で「ばあや

雪子が微かに頷いたのを看て取って、幸子は大阪の事務所へ急報で申込んだ。

、関東の方は御存知ない言葉だと思うんですが、大阪にキッキョウと云うものがあるのを、井谷さんは御存知ですか」

がいろいろ笹の枝に喰っ着けてあるのよ。あれを大阪では、字で書けば『吉兆』なんだけれど、訛ってキッキョウって云う

「人は見かけに依らないもんでしょ。あたしこう見えても大阪生れなんですのよ」

関東と関西との風俗や言葉の比較に移ったが、大阪で生れて、東京で育って、又大阪へ帰って来たと云う丹生夫人

移ったが、大阪で生れて、東京で育って、又大阪へ帰って来たと云う丹生夫人は、「あたしは両棲動物よ」と云う

その翌日の午後三時頃に電話があって、わたくし只今大阪に参っているのですが、これから一時間ばかりしてから、丹生さんの

たので、いいえ、お届け下さらないでも僕が毎日大阪へ出ますから、会社の方へ戴きに上ります、………何卒是非、

のような造りの小料理屋の二階へ上った。貞之助も大阪の街の地理には相当明るいつもりだけれども、こんな所にこんな露地や料理屋

に電話を懸けさせ、無礼を詑びさせて、今夕大阪へ行かせるようにする。―――それがこの失錯を取り返す一番良い方法で

始末なので、これはただごとでないと感じて、直ぐ大阪へ飛んで行って、橋寺氏にも丹生夫人にも会ったが、なるほど、

てしまったのであったが、今年の今月も菊五郎が大阪に来ている。今度の所作は藤娘なので、今年は是非と思って

は、懇意な仲になっていて、そう云う連中が大阪へ来ると、舞台はロクに見もしない癖に必ず楽屋を訪問することを

と云う花は一重も八重も残らず散り、菊五郎は大阪を打ち上げて行ってしまった。妙子がほんとうに出歩けるようになったのは五

ヘニング夫人を訪ねて飜訳を依頼し、又数日後に大阪へついでがあったので、心斎橋筋の「みのや」へ行って舞扇を買い

から立って帰途は御殿場へ出ることにした。彼女は大阪を立つ時に、夏は三等寝台に限る、暑苦しいカーテンのようなものが

でられんほど生活に窮してるねんわ。そうか云うて、大阪では雇うてくれる人もあれへんし、あんまり身を落す訳にも行かん

云うことにならんもんでもないやろうな。もしわれわれで大阪あたりに就職口を見付けて上げれば、此方に住んでもええ云うことに

たが、それでも彼女の二人の弟、―――大阪で開業している村上医学博士の夫妻と、国分商店の店員である房次郎夫妻

その明くる日は、巧い工合に大阪発の夜の寝台が取れたので、三人は一日じゅう支度に追わ

「『こいさん』と云う言葉は、大阪だけのようでございますね。京都ではあんまり使わないようでございますが」

もした。御牧はその席上でも、僕は京都か大阪に家を持ちます、と云う言葉を再三繰り返したのであったが、幸子

になったので、貞之助はほっとして、その足で大阪の事務所へ出たのであったが、間もなく奥畑から電話が懸って

何の前触れもなくヒョッコリ光代が這入って来た。社用で大阪へ来たのであるが、ついでにお宅へお寄りして「テストに

が、そのついでに社長から伝言を托された、社長は大阪に用があって昨二日に下阪した筈であるが、今日の午後

に茶席へ導かれ、御牧の妹に当るとか云う、大阪の紳商園村家に嫁いでいる夫人の手前でお茶があり、広間へ

が買い取って新夫婦に贈ることになろう、御牧氏は近々大阪か神戸に職を求めることになろうし、彼処なら蘆屋も近いことであるから、

シュトルツ夫人のは独逸語で書いてあった。依って小生大阪へ持って行き、知人に飜訳して貰ったもの別紙の通り

達する見込であったが、そうなると自然蒔岡側も、大阪の親戚を始め、名古屋の辰雄の実家種田家の人々なども、あの大垣の

雪子の嫁入道具万端がきらびやかに飾られて、床の間には大阪の親戚その他から祝って来た進物の山が出来ていた。が、

てしまった。と、その日の朝に間に合うように、大阪の岡米に誂えて置いた鬘が出来て来たので、彼女はちょっと

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と、不意に庭の方で靴の音がして、萩の袖垣の向うから、派手な茄子紺の両前の背広を着て、金縁の濃い

道成寺

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京都行きには差支えなかったものの、あのお蔭で菊五郎の道成寺を見損ってしまったのであったが、今年の今月も菊五郎が大阪に

南禅寺

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と云うようなことから、京都に住むなら嵯峨辺か、南禅寺、岡崎、鹿ヶ谷方面に限ると云うような話になり、つい夜が更ける迄

博多

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けれども、「見合い」の件があることを慮って、博多の袋帯に暑苦しさを怺えながら、悦子と大して変らないような子供っぽい簡単服

春日山

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それは蕁麻疹のような痒さであったが、今朝から春日山の若葉の間をくぐり抜けたり、ライカを持ち歩いている貞之助のために五六回も

有馬

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は絶対に出入りを差止め、夜間にアパートから自動車に乗せて有馬まで運ばせる。附添には、何かと難はあるけれどもお春に

与えて、附いて行かせることにしよう。云う迄もなく有馬の旅館では蒔岡の姓を隠して、何処かの夫人が療養に来て

である。そう云う風にして臨月まで滞在して、有馬でお産をしてもよいし、或は、人に発見される恐れさえなけれ

十月末の或る日の夕方、お春を附けてそっと有馬へ立たせてやったが、その道すがらも、わざと顔見知りのガレージを避けて

神戸へ出て又外の車に乗り換え、山越しをして有馬へ行かせると云う用心深さであった。お春は幸子から、妙子が

妙子とお春とを有馬へ立たせてしまってから、或る日貞之助は今日奥畑を訪問したと

て、次のような話をした。―――さっき有馬から神有電車に乗って来たら、神戸の終点の改札口を出た所で

ます、宜しく云って下さい、と云って、僕、これから有馬へ行きます、と、改札口を這入りかけたが、カタリナさんからお便りが

、予定日が近づいたので、お春を連れて密かに有馬から神戸へ来、船越病院の一室に移っていた。が、幸子は世間

なっている旨を告げた。院長の話だと、去年有馬へ行く前に診察した時は確かに正常の位置にあったのに、

着せて上げたいと存じまして、と云って、妙子が有馬で縫い上げた産衣を受け取って出て行ったが、間もなく院長が死んだ

三上山

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九月雪子と上京した時に、瀬田の長橋や、三上山や、安土佐和山の城跡などを教えて貰ったことを思い出していたが、

七条駅

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先に暇を告げたが、帰りは広親老人の計らいで七条駅まで自動車で直行した。それならあたしもと、岡本の叔父の所へ帰る

名古屋

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があり、その菅野家が昔から懇意にしている、名古屋の素封家に沢崎と云うのがある、この沢崎家は先代が多額納税議員

ない非常識なところがあるような感を抱いた。なるほど、名古屋の沢崎と云えば大阪辺にも聞えている家で、何処の馬の骨だか

であるが、資産状態は今も決して悪くはなく、先ず名古屋附近で屈指の富豪の中に数えられるであろうこと、―――等々は大体

を丁寧に停って行くのが溜らなく退屈で、岐阜から名古屋までの間がとても長いように感じられたが、程なく幸子と雪子とは

が、程なく幸子と雪子とは又うとうとし始めた。名古屋よ、お母ちゃん、………お城が見えるよ、姉ちゃん、………

とで、二人ともちょっと眼を開くことは開いたが、名古屋を出ると直ぐ又たわいもなく眠った。大府あたりから雨が降って来た

ことを聞かされていたからであった。毎月一二回名古屋へ出向く貞之助は、是非お前達を彼処へ連れて行ってやりたい、悦子など

達の蒲郡行きは、貞之助が思い付いたのであった。名古屋についでのある時と思っていたが、いつも用事が多いので附き合っ

無之幾重にもお赦し下されたく候尤も過日忰より名古屋の知人へ聞合せを依頼致し置き候処昨日返事参り、それに依ればたとい先方

、そうなると自然蒔岡側も、大阪の親戚を始め、名古屋の辰雄の実家種田家の人々なども、あの大垣の菅野未亡人までが出席する

岡崎

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ようなことから、京都に住むなら嵯峨辺か、南禅寺、岡崎、鹿ヶ谷方面に限ると云うような話になり、つい夜が更ける迄しゃべりつづけ

鹿ヶ谷

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ことから、京都に住むなら嵯峨辺か、南禅寺、岡崎、鹿ヶ谷方面に限ると云うような話になり、つい夜が更ける迄しゃべりつづけた。

道玄坂

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その晩、彼女は十時過ぎに道玄坂の家に帰ったが、その男との邂逅のことは義兄にも姉に

の時に、辰雄は大阪へは出て来ないで、道玄坂の近所にある、善慶寺の法類に当る何とか云う浄土宗の寺で

、浜作で昼飯を食べて、西銀座の阿波屋の前から道玄坂へタキシーを飛ばした。妙子はその日も、絶えずしんどいとか疲れたと

幸子はこれを読んで行くうちに、先日道玄坂の家の門前で、自動車の窓を隔てて別れの挨拶を交した姉の

ことだったので、貞之助は暇を告げるとその足で道玄坂へ廻って、鶴子に委しい報告をし、義兄の意見を至急に知らしてくれる

富士五湖

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のであった。ありていに云うと、幸子は先々月、富士五湖めぐりのついでに上京した時にも、姉と電話で話しただけであっ

長良川

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「これは長良川で、………」

「来月は菊五郎が舞台でほんまの鵜を使うて、長良川の鵜飼いの芝居をやるねんて」

高津

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と云って、お昼はお寺の座敷を借りて、高津の八百丹から仕出しを取ることにした、万事は電話で庄吉に云い付け

梅田

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心斎橋筋の気分を味わってから、幸子たちに送られて真っ直ぐ梅田の駅へ行った。

ちょっと散歩にと云って、家を出た。そして阪急で梅田に出、タキシーに乗ると「烏ヶ辻まで」と、ついそう命じてしまっ

「今日四時半に阪急の梅田でお待ちしてるよって、お出かけになりませんか云やはるねん」

三宮

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ていたのであると云った。それで仕方なく岡山から三宮まで一緒に帰ったのであるが、板倉の死後一時全く絶えていた交際

お会いしとうて、………と、そう云って、漸く三宮を九時半発の急行であることを教えて貰った。見送りには三姉妹

心斎橋筋

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お呼ばれを済ますと、蘆屋へは帰らず、一時間ほど心斎橋筋の気分を味わってから、幸子たちに送られて真っ直ぐ梅田の駅へ行った

、又数日後に大阪へついでがあったので、心斎橋筋の「みのや」へ行って舞扇を買い、それをクレプ・ド・シンの

清水寺

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幸子は十二月の上旬に雪子を誘って京都の清水寺へ行き、妙子のために安産の祈祷をして、お札を貰って帰って

嵐山

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も、そんなに早く出歩けるようになれるであろうか。嵯峨、嵐山、平安神宮は駄目だとしても、せめて御室の花にでも間に合ってくれ

当日、貞之助たちは新京阪の桂で乗り替えて嵐山の終点で降り、中之島を徒歩で横ぎって渡月橋のほとりに出た。毎年

、そう広そうにも思えなかったが、座敷の正面に嵐山を取り入れた泉石の眺めは素晴らしかった。国嶋の紹介で主人側の人々との

そこらを案内して廻ったが、ここから見ると、嵐山は庭つづきになっていて、間に道路や大堰川が挟まっているよう

富士山

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に生れて関東の地を蹈むことの稀な者が富士山に寄せる好奇心は、外国人がフジヤマを憧憬するのにも似て、東京人の

ばかりの距離に迫っていた。幸子は今度のように富士山の傍近くへ来、朝に夕に、時々刻々に変化するその相貌に心ゆく

横浜

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か、ペータアの出帆を見送りに、悦子を連れて雪子が横浜へ立つと云う前の晩、久し振で彼女の顔にそれがうっすら現れた

明後日朝の急行にすること、出帆の日まで滞在して横浜までお供したいのであるが、そう長く三人が家を空ける訳にも

ハンブルク

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の地を蹈みたい念願が切であるから、いつかはハンブルクのお宅をお訪ねする日があるかも知れないこと、殊に娘にはピアノ

それをクレプ・ド・シンの生地と一緒に小包便でハンブルクへ出した。

心配はないであろうと思っている、ついては、きっとハンブルクのシュトルツ一家をも訪ねるであろうから、何か御伝言でもあれば娘に

手紙を書いて貰い、それと一緒に舞扇と白生地とをハンブルクへ郵送したのに、シュトルツ家から何の返事も来ないことが気になっ

一九四一年二月九日 ハンブルクにて

持ち下さいました由、この間お手紙を下さいまして、ハンブルクへはいつお越しになられるか今のところまだはっきりしないとのことで

していましたところ、二三日前に父の友人がハンブルクから訪ねて来ましたので、あなたの贈物を直かに手渡ししてくれる

そしてこの中に、ハンブルクのシュトルツ夫人から伯林マイエルオットー街のヘニング嬢に宛てた、指輪を受領したこと

兵庫

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その翌日、妙子は兵庫の産婦人科の船越病院と云うのへ行き、妊娠は五箇月足らず、予定日は

意見に従って、三好の許へ引き取られることになり、兵庫の方に二階借りをして、その日から夫婦暮しを始めた。そして

の風呂敷包に括って、三十分ばかり皆と話してから兵庫の家へ帰って行った。

福原

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「何でも福原の遊郭の中やそうで。………そこのお鮨がえらいおいしい云うこと

中山寺

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これをこいさんにお上げになって下さいと云って、中山寺の安産のお守りを封入して来た。この二つのお札は、お春

関西

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雪子は二月の紀元節の日に関西へ来てから、三、四、五と、今度は殆ど四箇月も滞留する

なく機嫌よくしていたのは、多分その時に又関西へ来られることを当て込んでいるからなのであろう、などと云った。

お春はマンボウと云う言葉を使ったが、これは現在関西の一部の人の間にしか通用しない古い方言である。意味はトンネルの

話題は暫く関東と関西との風俗や言葉の比較に移ったが、大阪で生れて、東京で育っ

住まいしてはるだけやよってに、事に依ったら、関西に住みやはってもええのんと違うか知らん」

、東京でなければいけないのか、就職口さえあれば関西でも差支えないのか、そう云うことも参考迄に伺って置きたいのです

気がするので、大袈裟に云えば、自分の将来は関西にあるとさえ思っていること、―――そして御牧は、もし京都に家

、このような人を夫に持つのなら、居住地などは関西であろうと東京であろうと、問題でないようにさえ思ったのであった

銚子

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がその時沢崎の膳の前に坐って、青九谷の銚子を取った。

阪神

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蒲原病院と云うのは、阪神の御影町にある外科の病院なのであったが、そこの院長の蒲原博士

連絡申上げるであろう、なお昨夜の広親子の話では、阪神の甲子園に園村氏所有の恰好な家作があり、売ってもよいと云う

道頓堀

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非常に大きいこと、そこの工場の構内には映画館でも道頓堀の松竹座ぐらいのものが建っていること、などを語ったが、井谷が

豊橋

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さが思いやられたが、旅館へ急行券の手配を頼んだり豊橋で乗り換えたりするのが煩わしかったので、これで東京まで乗り通すことに極め

で探りを入れていたが、彼女はこの男が先刻豊橋から乗って来たのであることを思い、豊橋辺に知った人などは

それに、………いくら資産家の夫人になれても、豊橋のような小都会で一生を燻って暮すのは余りにも佗びしい、と云う

夙川

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になっていたのであるが、いつの間にか夙川の仕事部屋と共に弟子に譲ってしまったと云っているし、洋裁学院

、看護婦や「ばあやさん」にそれぞれの心づけをしてから夙川のハイアを呼び、一時間ばかり後れて病人の自動車のあとを追った。幸子

近所で聞くと、今月の初めに家を畳んで、たしか夙川のパインクレスト・ホテルへ移ったと云うことなので、パインクレストへ問い合せると

靖国神社

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「観艦式の明くる日が、大政翼賛会の発会式、それに靖国神社の大祭も始まっておりますし、廿一日には観兵式もございますし、

豊橋市

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た。たしかその時の話では、三枝と云うのは豊橋市の素封家だと云うことであったが、多分あの時の三枝がこの男

はあの時大変な身の入れ方で、三枝と云えば豊橋市屈指の資産家であり、あの男はその家の嗣子なのであるから、雪子

岡山

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妙子はつい二三日前に、三七日のお詣りに岡山在まで行って来たところなのではあるが、もうあの不幸な出来事

で待ち受けていたのであると云った。それで仕方なく岡山から三宮まで一緒に帰ったのであるが、板倉の死後一時全く絶えて

のであったが、先月の上旬、四十九日に朝早く岡山へ立って行ってお詣りを済ませ、帰りの汽車に乗ろうと思って

たのである。―――故人の三十五日の後に岡山在の実家から形見分けにと云って送って来たのを、その当座持っ

で、それが余程気に懸っているらしく、未だに毎月岡山の田舎まで墓参りに行くのも、一つはそのためなのであろうと

京都

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京都から東へめったに来たことのない悦子は、今度が二度目の近江

のであったが、でも幸子は、父が大阪より京都の方でより多く遊んだこと、自分もしばしば祇園の茶屋へ連れて行か

ぱっぱっとした豪快な気象であるのに反し、母は京都の町家の生れで、容貌、挙措、進退、すべてが「京美人」の

たので、帰宅してから開けて見ると、中は京都のゑり万製の紋羽二重の胴着であったが、そう云って

であった。あれはお花見の後だったので、京都行きには差支えなかったものの、あのお蔭で菊五郎の道成寺を見損って

である。でも、今年は例年のように姉妹揃って京都へ行くことが出来るであろうか。出来たらどんなに嬉しいか知れないけれども

、夫婦、悦子、雪子の四人で一と晩泊りで京都へ行き、兎も角も吉例の花見をしたことであったが、今年は

経歴の持主だけれども、今では祖先の地である京都の別邸に隠棲して閑日月を送っている。ところで、自分はふとし

人はお公卿さんの子やさかいに、血統から云うたら京都人やし、東京は今のところ、アパート住まいしてはるだけやよって

も知れん。ま、少くともその人の体には、京都人の血が通うてることは確かやな」

も、京都人は大阪人と大分肌合が違いまっせ。京都の人は、女はええけど、男はあんまりええことあれへん」

「関西人云うても、京都人は大阪人と大分肌合が違いまっせ。京都の人は、女はええ

や亜米利加に長い間いたはったのやったら、普通の京都人とは違いますやろうな」

、御牧さんは将来何処でお住まいになるのでしょうか、京都のお父様が家を買ってお上げになるとか承りましたが、何処

「まあ、御牧さんは京都人の癖に『こいさん』を御存知ないんですか」

』と云う言葉は、大阪だけのようでございますね。京都ではあんまり使わないようでございますが」

おありになるのでしょうか、と云うようなことから、京都に住むなら嵯峨辺か、南禅寺、岡崎、鹿ヶ谷方面に限ると云うような

とさえ思っていること、―――そして御牧は、もし京都に家を持つとすれば何処を選ぶべきであろうかと尋ねるので、

、そう云えば自分の父なども、老年に及んでから京都を恋しがるようになり、遂に小石川の本邸を捨てて嵯峨に隠棲して

ていること、左様な次第で、自分は若い時分には京都の土地に何等の興味をも感ぜず、寧ろ欧米の生活に憧れを

生れだったと云うことであるから、自分の体には京都人の血と江戸っ児の血とが半々に流れていること、左様な次第

東京生れであること、自分の父の代までは純粋の京都人であるが、母であった人は深川の生れだったと云うこと

を洩らした。―――今光代さんは自分のことを京都人であると云われたが、御牧の家は祖父の代から東京小石川

、笑いもした。御牧はその席上でも、僕は京都か大阪に家を持ちます、と云う言葉を再三繰り返したのであった

ことには触れず、建築の話や絵画の話から、京都の名園や古刹の話、嵯峨の父子爵邸の林泉や風致の話、

幸子は十二月の上旬に雪子を誘って京都の清水寺へ行き、妙子のために安産の祈祷をして、お札を

日に下阪した筈であるが、今日の午後には京都へ来、ミヤコホテルに泊ることになっている、それで、過日の御返事

、謹厳と云う方の人であるらしく、つまり典型的な「京都人」なのであった。老人は、私は御免を蒙むってと

の籠ったもので、柿伝あたりの仕出しであろうと、京都の食味のことに委しい幸子は推した。子爵の広親老人は、いかにも

たが、今は極寒の季節であるのに加えて、京都の冬は格別なので、大堰川の水の色を見ても何

来た。第一に結納と挙式とを東京で執り行うか京都でするかと云うことであるが、国嶋の意見としては、御牧

に一泊して翌朝京都に出発するつもりであること、京都では父の御機嫌伺いをするだけで、その日のうちに奈良へ行き

プランを打ち明け、結婚の当夜は帝国ホテルに一泊して翌朝京都に出発するつもりであること、京都では父の御機嫌伺いをするだけで

思い切り地味な作りをして、十三日の日曜に日帰りで京都へ行き、瓢亭などは抜きにして平安神宮から嵯峨方面を申訳に一巡し

岐阜

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「昨夜電話で頼んで置きまして、先刻岐阜の駅で汽車まで届けさせたのでございます」

小さな駅々を丁寧に停って行くのが溜らなく退屈で、岐阜から名古屋までの間がとても長いように感じられたが、程なく幸子と

神戸

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「はい、神戸へはあまり参りませんけれども、大阪へは、年に一二回程は

から又一箇月過ぎて、八月の中旬に、菊五郎が神戸へ来たので、貞之助、幸子、悦子、お春の四人で松竹

ことであった、或る日幸子は桑山夫人を案内して神戸の与兵へ昼御飯を食べに行った時、今しがた妙子から電話があって

あれから真っ直ぐ帰らはりましたやら、それとも何処ぞ、神戸へでも行かはりましたやら、………と云うのであっ

早う戻って来なさいや、と云い捨てて向う側へ渡って、神戸行きのバスに乗って行ったが、あれから真っ直ぐ帰らはりましたやら、

たのであったが、奥畑は彼女と反対の方向、神戸行きにばかり乗って、野田行きに乗ったことは一度もなかった。で

「菊五郎は先月神戸の松竹へ来たよって見に行ったけど、東京や大阪で見るよう

から、昼飯にでも誘おうと思って、雪子と二人で神戸へ出て、電話を懸けて見たけれども、留守であった。お

さを紛らすために二人は殆ど二日置きぐらいに連れ立って神戸へ出て、旧い映画や新しい映画を漁って見、どうかすれば日

しょう? 雪子ちゃん、悦ちゃんはお春どんを附けて神戸へ行かしてもええけど、………と云うと、そないせんか

ますが、それなら一度僕の方へもいらしって下さい、神戸へでも御案内しますから、この次の日曜に是非お嬢さんと御

の宝家、等々の案も出たことだけれども、神戸見物と云う意味では菊水が一番珍しかろう、と云うことになった訳で

でから、主人側の四人と都合六人でハイアを神戸まで飛ばして、花隈の菊水へ行った。今日の食事の場所について

ある、一昨日、橋寺氏父子はあなた方に招かれて神戸の菊水で会食されたと云うことであるが、その帰りに皆さん

この、前の日に神戸の元町でも橋寺を怒らしたと云う事実、―――幸子はこの

尚又、幸子はあの日、神戸を散歩した折に橋寺の娘を連れて元町の洋品店へ這入り、

「発病なさった日の夕方、若旦那さんと神戸へ散歩においでになって、『喜助』云う家でお上りになっ

て、姉ちゃんは? と聞いたのには、注射から神戸へ買い物に廻ったと、さりげなく答えて置いたものの、夕方夫が帰っ

とすると、折よく蘆屋川の顔見知りの運転手が、神戸の方から空のタキシーを飛ばして来たので、ちょっと! 帰りやっ

、お春は図らずも、去年の十二月に妙子が神戸のトーアロードのロン・シン婦人洋服店で拵えた駱駝のオーバーコートと、

とは何のことだろう、と云うので、その男が神戸の何処かの酒場に勤めるバアテンダアであるらしいことは見当が付いたけれども

を云っておられるのを、たびたび聞いた、何でも神戸の人間らしいが、何処に住んで何をしている男なのかは

て来て、それから二三日はその本を読んだり、神戸へ映画を見に行ったりして、専ら骨休めをした。そして、次

ことを念願としていたので、これを機会に神戸の地を去り、帰朝後は東京で開業するつもりである。と云うの

幸子は、井谷自身は何と云おうとも、神戸では相当鳴らした美容院のことではあり、顔の売れている人の

宜しく仰っしゃって下さいまし、と云ってから、あの、もう神戸ではお目に懸れませんけれども、出帆迄にはまだ十日程

揃いも揃って良い姉妹であられること、正直のところ、神戸の土地にはそれ程の未練はないのであるが、末長くお附合い

ございませんから、直きに帰って参りますけれども、神戸はこれがお別れだと思うと、ほんとうにお名残惜しゅうございます、殊にお宅

に斯様な話を持ち出すのも如何であるけれども、自分が神戸を去るに方って一番心懸りなのは、何とかして自分の力

まで出かかったのを怺えてしまったのであったが、神戸へ帰って来てからも、つくづく惜しい縁なので、何とかなら

ているので、もしお思召がおありになったら、神戸側を代表すると云うことにして、奥様と、雪子お嬢さんと、

買物をするために、食事を済ますと五人は早めに神戸へ出た。そして、元町で花を買ったが、それを井谷にプラットフォーム

光代、国嶋権蔵氏夫妻と同令嬢、御牧氏、それに神戸側の代表としてあなた方お三人が御出席下さるとすると、

幸子たちは、この娘がまだ神戸の県立第一高女に通っていた時分に、一二度見かけているくらい

これでは何時間待たされるかも分らない形勢であった。神戸の井谷の店であると、こう云う場合に顔を利かして我が儘を云い

或は、人に発見される恐れさえなければ、少し前から神戸の然るべき病院に入院してもよいが、それはその時分の情況次第

先ず妙子を甲麓荘に訪ねて話をし、次に神戸の湊川の某アパートに宿泊している三好を訪ねて、この方も話

見知りのガレージを避けて、省線の本山駅から自動車を招き、神戸へ出て又外の車に乗り換え、山越しをして有馬へ行かせると

ずに会談してから、幸子と雪子と悦子を加えて神戸に出、オリエンタルホテルのグリルで食事をして、新京阪で嵯峨へ帰る

。―――さっき有馬から神有電車に乗って来たら、神戸の終点の改札口を出た所で、兄のキリレンコが立っているの

て新夫婦に贈ることになろう、御牧氏は近々大阪か神戸に職を求めることになろうし、彼処なら蘆屋も近いことであるから、

が近づいたので、お春を連れて密かに有馬から神戸へ来、船越病院の一室に移っていた。が、幸子は世間の

、………どんなに値段が高うても構いませんから神戸じゅうを捜して下さい、………何処かに誰か持っている人は

神戸の船越病院と云うのは、そこの院長が徳望のある熟練家だと

水戸

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の注射をし、後刻プロントジールの注射もするように「水戸ちゃん」に命じた。そして、では又明日伺います、そう御心配なさる

置いたところ、好い塩梅に都合を附けて、今朝から「水戸ちゃん」は来てくれていたが、売れっ児の櫛田医師はいつもの

た。幸子は去年悦子の猩紅熱の時に雇ったあの「水戸ちゃん」に、出来れば今度も来て貰うように昨日看護婦会へ申込んで置い

ぬ男が闖入して来たので吃驚している「水戸ちゃん」を安堵させるために、さあらぬ体にもてなして、自身縁側

まで詰めていて帰って行ったあとで、雪子と「水戸ちゃん」とが枕元にい、お春が次の間の電気火鉢で重湯を煮

やろかと、誰に云うともなく云ったが、「水戸ちゃん」が気を利かして、有り合う紅茶々碗の皿を持って行った

と、「水戸ちゃん」の顔を見たが、

と云ったきり、「水戸ちゃん」も相手にならなかった。

卓上電話に雪子を呼び出して(電話嫌いの雪子は最初「水戸ちゃん」を代りに出したが、済まないが雪子ちゃんに出て貰って

いたが、昨日は特に横柄であったと云う)「水戸ちゃん」だって随分けったいに思ったであろうし、あたし等がどんなに迷惑

かとか、そんなことまで云い出したが、しまいに「水戸ちゃん」までが次の間へ逃げ込んで、病人と二人きりにさせて置いた

そして、病人の夕飯の時間が過ぎてしまうので、「水戸ちゃん」を呼んで、重湯を持って行かせた。奥畑はそれでも

「―――『水戸ちゃん』が附いててくれますし、お春どんが毎日手伝いに行ってます

に果して又病院へやって来た。その日は「水戸ちゃん」の外にお春が居合せただけで、どない致しましょうと、電話

窮屈だけれども八畳の間に、病人の床と「水戸ちゃん」の床に並べて、この間じゅう雪子が寝ていた床を

奈良

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、何処で南京虫にやられましたやろ、と云うと、奈良のホテルの寝台や、僕かて今朝はここが痒いと思うたら、ほら

て見たかったからであった。で、土曜の晩は奈良ホテルに泊り、翌日春日神社から三月堂、大仏殿を経て西の京

頼み、悦子をも彼女に預けて、幸子と二人だけで奈良の新緑を見に出かけた。これは去年から今年にかけ、二人の妹

に滅茶々々にされたことを思うと、いつ迄も奈良ホテルが恨めしく、腹が立って仕方がなかった。

わ、と云うと、どうも僕等の旧婚旅行は奈良以来ケチが附いたようや、と云って笑ったが、これから又出かけ

では何一つ奈良に似ているところはなかった。奈良の建物は白木と云っても年代が古く、うす汚れしていて、暗く

に似ているけれども、外の点では何一つ奈良に似ているところはなかった。奈良の建物は白木と云っても年代

あった。ホテルは建物が白木の御殿造りである点が奈良ホテルに似ているけれども、外の点では何一つ奈良に似

泊ったのであったが、このたびの旧婚旅行は奈良での失敗を償うて余りあるものであった。二人は暑い東京から逃れ

は法隆寺の壁画さえ見ていないのです、と云い、奈良の旅館は純日本式の家にしたいと云う御牧の注文に、それ

雪子に聞いて見る迄もなく、関東方面は結構ですから奈良にお連れになって下さい、あたし等は近くにいながら案外大和の名所

但しこれは自分だけの考なので、雪子さんには奈良なんぞ珍しくないのであったら、箱根熱海方面に変更してもよいので

は父の御機嫌伺いをするだけで、その日のうちに奈良へ行き、二三日間春の大和路を経廻りたいと思っていること、

巴里

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もあるそうであるが、中途退学して仏蘭西へ行き、巴里で暫く絵を習っていたとやら、仏蘭西料理の研究をしたと

深川

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は純粋の京都人であるが、母であった人は深川の生れだったと云うことであるから、自分の体には京都人の

東京

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数年来、雪子の縁談と云えばいつも幸子が聞き込んで東京の方へ知らせてやるのが恒例のようになっており、本家の

たが、六月に入ると間もなく、珍しいことに東京の姉から縁談を一つ知らせて来た。「珍しい」と云うの

が、恐らくこれは彼女からも直接すすめてくれるように、東京の方からも云ってやったものに違いなかった。幸子は、「余り

たが、日を一日繰り上げたのは、大垣から真っ直ぐ東京へ帰ると云う雪子を、三人が蒲郡まで送って行こうと云うことに

も、今度はそう云うことにも余りこだわらず、どうせ一遍東京へ帰らなければならないのだから、皆で大垣まで送って来てくれる

であったが、これは今度のことが極まると同時に東京へ電話を懸け、態々客車便で取り寄せたのであった。

いる未亡人を前にして、なまじなことも云えず、東京の義兄の立ち場も考えてやらなければならないとすると、雪子に

、雪子をあんな目に遭わせたままで、孤影悄然と東京へ立たせるのには忍びなかったのであるが、全く夫は素晴らしいこと

電話で常磐館へ交渉してくれたので、去年の東京行き以来夫と離れて旅行する経験を積んだ幸子は、昔と違って

。ただこの男が普通車に乗っているところから見て、東京まで行くのでないことが察せられ、何処で降りるか知らんと云うこと

ひとしおなのであった。さっきも悦子が、姉ちゃん今日は東京へ行くのを止めて悦子を送って来なさいと、冗談のように云っ

た。殊に今度は蘆屋の滞在が長かったために、もう東京へ帰らないでもよいような気持にさせられていたのと、

が、一つには、これから又何箇月かの間東京で暮さなければならないと云う考が、胸に痞えているせいでも

だり豊橋で乗り換えたりするのが煩わしかったので、これで東京まで乗り通すことに極め、鞄の中に入れて来たアナトール・フランスの短篇集を

あったので、三人を見送ってから暫く待って、東京行きの普通車に乗った。彼女はこんなに長い距離を普通車で行く退屈さ

、今年の母の法要はどうするのであろうか、又東京で済ましてしまわれては親類の口がうるさいよりも、自分たちが治まら

誰彼などは辰雄の遣り方を批難して、親の法事に東京から出て来るぐらいが何であろうとか、本家は近頃えらい締まり屋になり

あると云うので、このたびは勝手ながら亡父の法要を東京で営むことにする、もし御上京のついでに出席して下さる方があれ

しまったことがあった。尤もあの年は秋に本家が東京へ移住したばかりで、何かと取込んでいる際ではあり、又

なっているのであった。貞之助もそれは初耳で、東京で姉さんから話された時は、確かにお母さんの二十三回忌とだけ聞い

「それより幸子ちゃん東京へ来なさい。―――」

先月神戸の松竹へ来たよって見に行ったけど、東京や大阪で見るようなことあれへなんだ。保名をやったけど、

と、正雄が東京のアクセントで云った。

と云っても、それだけでは信用出来ないから、当分東京へ来ていて貰いたいと云うのです。御存知の通り此方は家が

たことだから、今度はぐずぐずにしてしまわないで、東京へ寄越すか、蒔岡家と絶縁を申し渡すか、今月中にどちらかにきめて

顔を見せないで下さい。もしどうしてもこいさんが東京へ来るのを嫌だと云うなら、幸子ちゃんの家にも置かないで

と書いてあるけど、そんなこと、昔のことやわ。東京へ行ってからの兄さんは、本気であたし等を引き取ることなんか、考えて

「しかしどうしょう。とてもこいさん東京へ行く気イないやろう思うけど」

「なあ、こいさん、長い間でのうても、暫く東京へ行ってくれへん?」

。たしかその時は、下妻夫人と、名前は忘れたが東京の何とか云う凄いハイカラな気障な奥さん―――亜米利加帰りの、「

弁とを完全に使い分ける夫人であったのが、この頃は東京弁ばかりにしているのか、この前会った時もそうであった

しゃって下さらなけりゃ、―――と、相手次第で大阪弁と東京弁とを完全に使い分ける夫人であったのが、この頃は東京弁ばかりに

丹生さんひどいわ、―――と、幸子もいくらか東京弁に釣り込まれながら、―――だってあなた、あたしが附いて来たら

には誰よりも通であり、貞之助や井谷を相手に東京弁と大阪弁との鮮やかな使い分けをして見せるのであった。それから

風俗や言葉の比較に移ったが、大阪で生れて、東京で育って、又大阪へ帰って来たと云う丹生夫人は、「あたし

の調子にもただならぬものがあった。歯切れのよい東京弁の人なのが、興奮しているので一層テキパキした口調に

ことに改めて感心させられた次第であった。そして、東京の姉があの手紙を見て、どんなにか心配しているであろうと

折もなくて過ぎていたところ、八月の下旬に東京へ行く用が出来たのを機会に、何処か東海道の沿線では、

好奇心は、外国人がフジヤマを憧憬するのにも似て、東京人の想像も及ばないものがあるので、彼女が特にこのホテルを選ん

の失敗を償うて余りあるものであった。二人は暑い東京から逃れて来て、爽やかな山麓の秋の空気を深々と吸い、ときどき

で、これを機会に神戸の地を去り、帰朝後は東京で開業するつもりである。と云うのであった。この話は幸子たち

ないでものことであるが、実は自分は、年来東京へ進出することを念願としていたので、これを機会に神戸

致します云々と記してあり、而も明日の夜行で立って東京へ行き、出帆迄は帝国ホテルに滞在の予定とあるので、もう何処へ

見送り戴かなくっても宜しいのでございますけれども、実は東京で皆さんに御紹介申上げたい方があるのでございます、………

、もし御都合がおつきになりましたら、お三人で東京まで入らしって下さいませんでしょうか、と云い出すのであった。そして、

で直ぐ懇意になったのであった。いったい井谷はそう東京には用がないのだけれども、娘が特別国嶋氏に眼をかけ

会って御覧になったらどうであろう。この御返事は、いずれ東京へ行った上で、明日でも電話でお伺いする。送別会の日や

此方様でお考えになって戴きたい。ついては、東京で国嶋氏が自分のために小宴を催してくれることになっているの

とおいて、兎も角も井谷さんの送別会に出席するために東京へ行ったらええやないか。ぜんたい縁談のことがのうても、それぐらい

「ちょうど陽気もええよって、見送り旁※久振に東京見て来ますわ。今年はお花見に外れたさかい、その埋め合せさして

ようにも思えて、その心づくしに対しても、今度の東京行きに参加しなければ済まなく感じられたのであった。

に来、特に「こいさんに会いたい」と云い、是非東京へも一緒に来るようにとまで云ってくれたと聞いては、ひとしお

「姉ちゃん、東京へ行って来なさい」

「あのなあ、雪子ちゃんの東京行きには、一つ条件がありますねん」

「雪姉ちゃん、そんなに東京嫌いやったら、今度の話も先ず望みない思う方がええねんな」

「悦子、姉ちゃんがお嫁に行くのんは仕方ないけど、東京やったら止めた方がええ思うねん」

「そうかて、東京みたいな所に行かしたら、姉ちゃんが可哀そうやわ。なあ姉ちゃん」

の子やさかいに、血統から云うたら京都人やし、東京は今のところ、アパート住まいしてはるだけやよってに、事に依っ

「そんでもその人、自分は東京生れかも知れへんし、仏蘭西や亜米利加に長い間いたはったのやっ

「東京の土地は厭やけど、人は東京人の方がええことないか知らん」

「東京の土地は厭やけど、人は東京人の方がええことないか知ら

井谷へ贈る記念品は、東京の送別会迄に極めればよいことになったので、今夜は取敢えず花束に

帝国ホテルに泊られたら如何であろうか、今月から来月へかけて東京は二千六百年祭その他で、殆ど全部の旅館が詰まっているが、幸い

であること、等を知らせて来、なおあなた方は東京は何処へお泊りになるのであろうか、御本家がおありになる

連れて行って貰おうと思うてたのんに、と云うと、東京で懸けたらええがな、帝国ホテルに美容院あるやろう、と、ケロリとした

し、廿一日には観兵式もございますし、今月の東京は大変なんでございますのよ。宿屋なんか何処も超満員で、…

は云ってから、しかし恐らく東京だろうと存じますけれども、東京ではお厭でしょうか、と聞き返すので、いいえ、別段、………

して見ましょう、と、井谷は云ってから、しかし恐らく東京だろうと存じますけれども、東京ではお厭でしょうか、と聞き返すので

それを条件にすると申すのではございませんが、東京でなければいけないのか、就職口さえあれば関西でも差支えないの

も、寧ろそう云う幸子自身が、何となくこの妹を東京へはやりたくない、出来れば京阪神の間に住まわせてやりたい、と云う密か

、先日もちょっとその話が出たように、縁づく先が東京であると云うことで、これは当人が逡巡するであろうことはほぼ間違い

「東京の連中もみんなそう云っておりますのでね。光ちゃんまで見た覚え

でなく、他日自分が建ててみたい住宅の様式は、東京よりも阪神地方の環境に調和するような気がするので、大袈裟に

の代から東京小石川に本邸を移したので、自分は東京生れであること、自分の父の代までは純粋の京都人であるが

あると云われたが、御牧の家は祖父の代から東京小石川に本邸を移したので、自分は東京生れであること、自分の

が、御牧さんは家をお持ちになるとして、東京でなければいけませんの? と云う風な質問が緒になって

敵地にいる心地で身をすくめながら、あたりでぺちゃくちゃ取り交される東京弁の会話に、こっそり耳を傾けているより外はなかったが、今日

待っている間も、周囲がいずれも見も知らぬ純東京の奥様や令嬢ばかりで、誰一人話しかけてくれる者もいない。二人は

人を夫に持つのなら、居住地などは関西であろうと東京であろうと、問題でないようにさえ思ったのであった。

、実を云えば去年の十月、本家が妙子に、東京へ来るか、でなければ蒔岡家と絶縁するか、二つに一つ

のことを聞かれて見ると、たまたま四人の姉妹が東京に落ち合いながら、ひとりこの姉を除け者にして芝居に誘わなかったことが

「けど、東京に来てはることが分ってて、顔出しせえへんのんもどうやろうか。

…こう云う良い縁に行き遇いながら、所もあろうに舞台を東京に選ばなければならなかったのは、やっぱり雪子ちゃんに運がないのだ

た。………が、今になって見れば、やっぱり東京は鬼門だった。そしてやっぱり、今度もこれが躓きになって、雪子ちゃん

して上々の首尾だったのであるから、最早や「東京行き」に纏わる悪因縁は絶たれたのである、と云う風に、努め

ので、何となく幸先が悪いような気がし、東京では又ロクでもないことが起るのではないか、二度ある

ことがしばしばであるのに、たまたま今度の見合いの場所が東京と云う廻り合せになったので、何となく幸先が悪いような気が

であろうか。一昨年の秋、新婚旅行以来九年ぶりに東京へ来た時にも、こいさんと板倉との恋愛を素っ葉抜いた

のは、どう云う因縁なのであろうか。あたしはよくよく東京が性に合わないせいであろうか。一昨年の秋、新婚旅行以来九年

いったい、東京へ来る度に何かしらこう云う目に遇うのは、どう云う因縁なの

云うただならぬ体であることが分っているなら、なぜ東京へ附いて来るのを遠慮してくれなかったのか。彼女にして

妙子の妊娠の件を打ち明けられたのは、彼女たちが東京から帰って来た夜のことであった。幸子は夫の顔を見る

、今だから申上げますけれども、わたし等は皆さんが東京へいらっしゃいます前から、こいさんのお腹が大きいことを存じていたの

牧を阪急まで送って行って別れた。御牧の態度は東京の時と少しも変らず、初対面の貞之助の前でも、磊落で、

日近くに、或る夜嵯峨の子爵邸から電話で、昨日東京から此方へ着き、二三日滞在しているつもりであるが、一遍御主人

は、十二月も押し詰まった二十二日に外の用事をかねて東京へ出かけた。それ迄の間に彼は二三の手蔓を求めて、御牧

そう云って光代に一日の延期を乞うた。尤も「東京へ電話」と云ったのは口実に過ぎなかったのだけれども、ちょうど

、約束の返事が遅れていた言訳をして、今夜東京へ電話をかけて兄の意向を聞くことにするから、御足労ながら明朝もう

いたのであるが、ありていに云えば雪子ちゃんが、東京へ行くことを甚しく厭い、幸子も幾分それに同情する気味があったの

蒔岡氏の方も渋谷に本家があられるのだから、東京でするのが本当と思うこと、結納の日取は三月二十五日と

ために蘆屋へ来た。第一に結納と挙式とを東京で執り行うか京都でするかと云うことであるが、国嶋の意見とし

幸子は東京になったと聞いて何となく気が進まなかったが、これと云う

発せられることになったので、当日御牧側は、東京の親戚知友は勿論、関西方面からの出席者も相当の数に達する見込で

渋谷

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多少気がかりだったので、半日ばかり暇が出来た日に渋谷へ行って見たと、帰って来てからそんな話をした。そして

「あんた、渋谷へ寄って来なさった?」

幸子は夫の留守の間にと思って、渋谷へ電話をかけて姉を呼び出し、実はこれこれで今朝此方へ出て

ならんとは思うてるけど、行ったら結局、自分だけが渋谷へ残されるようになりそうやよって、それが厭や云いますねん」

「渋谷へ寄らんと置いたらええが」

利きたくないので、蒔岡の家庭の事情、―――渋谷の本家と蘆屋の分家との関係、義兄辰雄と雪子や妙子との折合

、彼女は今朝、義兄が勤めに出かけた頃を見計らって渋谷の姉に電話を懸け、井谷が今度これこれなので、その送別会に

たのであったが、それから一週間ばかり過ぎて、渋谷の鶴子からも手紙が来た。いつもよくよくの用事でなければ文を寄越さ

だけれども、ちょうど時間があることなので、その晩渋谷を申込んで見ると、姉が出て来て、辰雄は麻布へ年始に

も過ぎてからのことと考えていたし、それに渋谷からもまだ何とも云って来ていないのであった。が、

、と云って来た。貞之助はそれにつけても、渋谷の義兄から未だに返事が来ないのが気に懸ったが、本家の

の方へ電話でその旨を知らせてやったが、渋谷では子供たちが家を散々住み荒らして、豚小屋のようにむさくろしくし

の相談があって、貞之助たちもそれに異議はなく、渋谷の方へ電話でその旨を知らせてやったが、渋谷では子供たち

子爵家の本邸があるのだし、蒔岡氏の方も渋谷に本家があられるのだから、東京でするのが本当と思うこと、

三月一杯を渋谷の姉夫婦の許で暮した雪子は、結婚の日までそのまま滞留し

住吉

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のであるが、去年蒲原はここから十丁あまり離れた住吉村観音林に、某実業家の邸宅が売りに出たのを買い取ってその

新宿

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上京し、幸子は二日後から行って浜屋で落ち合い、新宿から立って帰途は御殿場へ出ることにした。彼女は大阪を立つ時

銀座

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あまり退屈なので、街路に日蔭が出来るのを待って銀座方面へ散歩に出かけ、前に一度見たことのある「歴史は夜作ら

。それで当人も気をよくして、最近では西銀座の或るビルの一角に事務所を設け、本職の建築屋さんになりかけて

を持っていた時代には、女性日本社が同じ西銀座のつい近くにあるので、殆ど毎日遊びに来、社員の総べてと馴染

へ出て参りまして、又後程伺いますが、何ぞ銀座にお買物の御用でもございませんでしょうか。もしも御用がおあり

ねん。―――今日はまあ、一と休みして、銀座へでも行って見よう、いろいろ買物もせんならんし。………

がなかなか現れそうもないので、午後からは三人で銀座へ出かけた。そして、懸案になっている井谷への餞別の品を、

此方へ渡りしてから、浜作で昼飯を食べて、西銀座の阿波屋の前から道玄坂へタキシーを飛ばした。妙子はその日も、絶え

、などを匂わして置いたのであったが、朝から銀座を歩き廻って尾張町の交叉点を三四回も彼方へ渡り此方へ渡りして

光代は、それでは明朝お見送りいたしますから、と西銀座で別れ、あとの四人は又ホテルまで歩いてしまった。

新橋

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があったかも知れないし、帰朝してからも大分新橋赤坂あたりで遊んでおり、放蕩の味は知っているらしいのであるが

目白

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に依ると、井谷がこの人を知ったのは、去年目白を卒業して雑誌「女性日本」の記者になった娘光代の紹介な