ボニン島物語 / 久生十蘭
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糺し申さばやと公儀へ御届けあり、すなはち御免を蒙り、伊勢の国にて大船をつくり、武具、馬具、兵糧等おびただしく積み入れ、小笠原式部と言ふ文武兼備
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大湊を開帆、同十五日朝、八丈島、同十八日青ヶ島、鳥島を見過し、同月廿二日、八丈島の南三百里の処にて御申
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して、みな帰った。おれの曽祖父が八方走りまわり、半蔵門の八戸の上邸から二百両ほど借りだしたが、それでは足らぬ。
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起きる。三十三世修理太夫利視のときには、芝の増上寺から借りた二千両の金の期限がきても返済できずにいたところ
金の期限がきても返済できずにいたところ、増上寺の坊主どもが八十人ばかり上邸へおしかけ、登城しようとして玄関先に出
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は、途中を急いで十五日の旅である。杉戸、小金井、喜連川と泊りをかさね、四月十六日の午後、北郡の七戸に着い
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掛取りの居催促は、いまにはじまったことではなく、江戸の上邸では、毎年、四季の終りに、いつもこういうさわぎが起きる。
ばかり暮らし、この春、上り風に吹き送られて、事なく江戸に帰りついたという、大湊の舟子どものことだろう。鉄砲洲の上邸の
久太夫の役が、七尾駒三郎と深志にまわってきた。江戸の家老の毛馬内典膳は、二人を御用の間へ呼んで「如才もあるまい
江戸を発ったのが、天保九年の四月三日。本土の果てなる大湊
いい。それはそれとして、湊屋清兵衛といえば、江戸にまで聞えている名だが、大旦那のお前が、名子百姓の庄吉を
な収穫をしたといったが、その穀種も、江戸へ運ぶ分だったのか。そうだろうな」
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桜田門外で、笑うに耐えた忍傷沙汰があった。盛岡二十万石、南部信濃守利済の御先手物頭、田中久太夫という士が、
南部領、盛岡の城下から東南、南部米の米所で作毛三分二厘五毛、西
夏もまだ終らぬうちに、盛岡の城下では、藁しべを食い、豆殻を食い、松の木の皮を
盛岡から北、三戸郡や北郡では、九月ごろから人肉を食った。はじめ
、勘定所の頭取をつとめていた。十一月のはじめ、盛岡、寺小路東禅寺と報恩寺に救い小屋を建てて窮民の収容にかかった
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使い果され、川は開いたが、渡りもならない。福島に使いをやって島田という商人から金を借り、それで、やっと安堵
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、野州、阿久津の鬼怒川が出水して川止めになり、宇都宮へ戻って、四日あまり滞在なさったが、旅費を使い果され、川
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はないだろう。おぬしらは、父達が南部の産物を長崎へ持って行って商法の手違いをやらかし、その申訳に腹を切って死ん
一、船は於長崎売払、陸地罷帰り申候 以上
渡外禁止は重い掟。外国との商貨の交易は長崎の貨物取衆十人以外には法度だ。そこまで大事をやってのけたら
「長崎で船を売ったと書いてあるが、船主舟子には一言も触れて
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天保八年十二月の末、大手前にほど近い桜田門外で、笑うに耐えた忍傷沙汰があった。盛岡二十万石、南部