青春物語 02 青春物語 / 谷崎潤一郎
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来る」と、私は「日記」に書いてゐるが、平等院を見物したのは着いた日であつたか翌日であつたかも忘れ
風もない、蒸し暑い、重苦しい日であつたに違ひない。平等院を出た帰りに宇治川の土手の上に彳みながら水の流れを見渡した
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辺であつたか今では思ひ出すよすがもない。当時既に平安神宮の建つてゐたことは記憶してゐるが、動物園や公会堂や公園なども
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たけれども、どうしても承知されなかつたこと、関東と関西との人情の比較等である。此の最後の話のとき、「先生
で直ぐもう上方に染まるなんて、江戸ツ児の名折れだ、関東者は関東者らしくテキパキ物を云へ! 私は、幹彦君が習ひ立ての
イヤと云ふほど後頭部を打つた。いつたい関西の人力車は関東のよりも幅が狭く、きやしやに造つてあるので、横に引
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して方々へ問ひ合はせて貰つて、兵庫県の今津へ寄留することに話を決めて貰つたりしたが、これも最後の
、書類は疾うに東京から着いてゐたので、毎日今津へ行かうとしては京阪電車の停車場までは出かけるけれども、電車を見ると
やら自信を得た私は、大阪へ着くと直ぐ阪神で今津の役場へ駈けつけたが、もう時間外で間に合はなかつたのであつた
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うちに京都の夏は追ひ/\闌になつて来る。加茂川には床が張り出される。カラツと晴れて空も街路も屋根瓦も壁もキラキラ
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」に仮借なき削除を施され、独特の解釈を以て築地小劇場の舞台に上場され、原作者の想到し得なかつた優秀な演出をされ
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つてゐるのが癪に触つたからなので、京都大阪は如才のない土地柄故それ程でもなかつたけれど、東京はその弊害が
たのは、東京で赤坂の萬龍、新橋の静枝、大阪で富田屋の八千代だつたであらう。就中萬龍は嬌名一世を圧し、東京藝者
一層多くその聡明に負ふところがあつたかも知れない。大阪の八千代、―――後の菅楯彦氏夫人なども、非常に聡明であつ
に思ふが、支局長の春秋さんと云ふ人はその後大阪の本社に移り、昨年であつたか不幸電車の奇禍に遭つて物故され
大阪の岸本吉左衛門さんが私たちの後を追つて宇治へ訪ねて来られたのも
られたのであらう。その日岸本さんは、私がまだ大阪を見たことがないと云ふと、ではいゝ宿を見付けて置くから是非
があつて、それから数日の後、私は始めて大阪へ出かけた。岸本さんの指定された宿と云ふのは、名前は忘れ
足先に来てゐたお多佳さん、それから初対面の大阪の紳士が二三人ゐて、人形芝居の説明をしてくれた。云ふ迄
の交際は上述の如く不首尾に終つたが、その頃大阪で新聞記者をしてゐた岩野泡鳴君は、根が先生とは全く反対
ぴん/\する。(雑魚寝で一番悩まされたのは、大阪の宿にゐた時分、中井浩水君が新町の茨木屋に十日も
参つてしまつた。かてゝ加へて、京都や大阪は東京よりも衣更への時期が早い。四月の末にはもう単衣
で辛うじて胡麻化すことが出来た。それから或る時、阪神電車で大阪から御影へ行く途中に発作を感じて、同行の友人に「気分が悪い」
直ぐ次の駅で一二時間休んでから、少しづゝ乗り継いで大阪へ帰つた。そして大阪から京都へ戻るにも、汽車でなく電車にした
時間休んでから、少しづゝ乗り継いで大阪へ帰つた。そして大阪から京都へ戻るにも、汽車でなく電車にした。幹彦君はお医者
か京阪の附近で検査を受けようと云ふ案を思ひ付き、大阪の或る会社に勤めてゐる友人を煩はして方々へ問ひ合はせて
て来て「どちらへお出かけです」と云ふので、「大阪まで」と云つてしまふと、「では御一緒に」と云はれて、
しかし金子さんのお蔭でどうやら自信を得た私は、大阪へ着くと直ぐ阪神で今津の役場へ駈けつけたが、もう時間外で間に合
大阪で、今橋辺や中之島辺にたつた一人で宿を取つて、十日
いろ/\と断片的に思ひ出すのであるが、あの時分の大阪は堺筋の一部分が取り拡げられてゐたゞけで、船場島の内の
が出来る、あれは全然東京の町にはない光景で、大阪の如き暑い土地ではあゝして路面へ蔭を作る必要があるのだらう
まで私を送つてくれたのである。小野君は大阪の私の宿へ来て病状を見舞つてくれ、天神橋の近所にある知人
液を思ひついたのはいつ頃からか覚えないが、多分大阪滞在中のことであらう。細い針線の棒に脱脂綿を巻き着け、ヨヂウムの
たい念願が切であるが、わが回想に浮かぶ若き日の大阪がいかになつかしいことぞ。鴨西、鴨東の蘭燈の影、嵯峨嵐山の晩春の
京洛附近にも思ひ出の種は数々あるが、分けても大阪は現在の私に縁故が深くなつたせゐか道頓堀川の水を見て
堪へない。あの時の旅行は京都を根拠地にして、大阪に滞在したのは前後廿日程に過ぎなかつたのに、年々花たちばなの
薫る季節になれば、不思議にも京都のことよりは多く大阪のことの方が記憶によみがへつて来る。蓋し私の最も若く楽
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、往き復りとも俥に乗つて行つたその帰り路、たしか萩の茶屋辺まで来た時に、俥の上で何の気もなく少しうしろ
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奈良、長岡、平安の旧都の跡も調べて見よう。などゝいろ/\の慾望を抱い
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の夜、風間氏の家を辞した。(当時私は本郷にゐたのか、向嶋にゐたのか、これも確かな記憶がない
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名古屋の俥の東京よりも新式で敏捷なのには、大いに江戸ツ児の度胆
きり想ひ浮かべることが出来るのである。私は前の晩に名古屋に一泊し、明くる朝京都へ向つたのであつたが、汽車の中
恐くなつたら何処でゞも降りられるやうに普通車を選び、名古屋で一と晩泊つたりして、警戒しながら来たのであつたが
を捨てゝ還俗することになり、自分の用件を兼ねて名古屋まで私を送つてくれたのである。小野君は大阪の私の宿
ある)勿論その時もガタンガタンの普通車へ乗つた。名古屋で小野君に別れた時は真つ青になつたが、薬とウイスキーと
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ゝ威嚇するやうに傍を走つた。土佐堀川だか江戸堀川だか、もう一つ南の堀割だつたか、とある橋の上へ来ると
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大阪の私の宿へ来て病状を見舞つてくれ、天神橋の近所にある知人の医者の許へ連れて行つてくれたりした。全く
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、人形芝居の説明をしてくれた。云ふ迄もなく摂津や越路や團平などの生きてゐた時代であるから、私はさう云ふ
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俥を連ねて、巨椋堤や槙島のあたりを通つて宇治へ出かけた、あの日のことを想ひ出す。何でもあれは八重山吹の
か。兎に角われ/\はその晩は一泊するつもりで宇治の浮舟園へ着いた。(浮舟園は故山本宣治君の生家花屋敷のこと
風光を讃へ、「嵐山は俗でいけない、景色は宇治に限る」と云ふのであつた。たゞ惜しむらくは宇治電が水力電気の
大阪の岸本吉左衛門さんが私たちの後を追つて宇治へ訪ねて来られたのも、此の時であつたと思ふ。氏はまだ
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恒川の家にゐないで、そこから数丁を隔てた穏田の方にある、彼の義兄で当時政友会の代議士であつた風間礼助氏
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そしてその前年、木村荘太が自らの家庭を破壊して京都岡崎の和辻の宿へ走つた時にも、金さへあれば一緒に行きたか
た。幹彦君と私とは東野さんに案内されて岡崎のお宅までぶら/\歩いて行つたことを覚えてゐる。が、それが
\歩いて行つたことを覚えてゐる。が、それが岡崎のどの辺であつたか今では思ひ出すよすがもない。当時既に平安神宮の建つ
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町であり、西はげんげと菜の花の咲き乱れた野がずつと太秦から嵯峨の方までつゞいてゐた。私は嵐山電車の窓の中から菜畑
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やうに覚えてゐる。聞く所に依ればもとあの辺は建仁寺の地内であつたのを、祇園の女紅場が寺から借りるか買ふかし
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とは少しも知らなかつたのであつた。但し、箱根の出水の時に偶※塔之沢の旅館に泊り合はせてゐた此の二人
。だから私は、二人の恋愛の発端とも云ふべき箱根の出来事に就いても、その後の発展に就いても、何も語る資格は
就いても、何も語る資格はないのである。(箱根の事件は、その時萬龍と一緒にゐた何とか云ふ雛妓の話
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矢張その帰り途であつたかと思ふが、寺は対岸の朝日山の半腹にあつて、山吹は寺の楼門の際から宇治川の岸に
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て、一日に横浜を往復した事があつた。鎌倉などは二た月もかゝつて、毎日々々長谷の親類の別荘から
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ない。私は、午後の日盛りに、幹彦君と連れ立つて知恩院の石段を喘ぎ/\上つた苦しさを今も想ひ出す。あんな僅かな、
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。それが今日のやうな話下手になつたのは、江戸つ児の軽佻浮薄な癖がしみ/″\厭になつて、中年頃から
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た同勢で氏の寓居を訪ね、そこから氏の案内で宝塚に遊んだことがあつた。
それが、その時分の宝塚であるから、新温泉も少女歌劇もなく、今の旧温泉へ行く橋を
は京阪の都会に見出だされるばかりである。未だに私は宝塚に遊ぶと、泡鳴氏の面影が眼前にちらつき、南北線の橋の上を通る
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さう云へば真葛ヶ原などゝ云ふものも残つてゐて、高台寺からあの電車通りへかけてひろい野つ原で、ところ/″\に大木が
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都合があつて一日後から来ることになり、私ひとり梅田からその教へられた宿へ行つてみると、すぐ文楽座の方へ来て
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私は日を改めて岸本さんから招待された。場所は清水寺の近くの、二年坂の「自楽居」と云ふ家で、私の
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興を催して頻りに此のあたりの風光を讃へ、「嵐山は俗でいけない、景色は宇治に限る」と云ふのであつた。たゞ
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気の毒な程だつた。それと云ふのが、工学博士で横浜の某船渠会社の顧問をしてをられた厳父の地位として、社会的
でも十六の歳に、薩摩下駄を穿いて、一日に横浜を往復した事があつた。鎌倉などは二た月もかゝつて
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日であつたに違ひない。平等院を出た帰りに宇治川の土手の上に彳みながら水の流れを見渡した時、あの堤防の桜
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都度こまやかな消息を戴くやうになつたが、生憎今は関西に住んでゐるので、親しく謦咳に接して往時を追懐する時は容易に
で、もう今日から二十年前だ。私はあの大震災以来関西へ逃げて来て現在では上方の住人になつてしまつてゐるが、
得ない。誰かあの当時、二十年の後に自分が関西に居着くやうになることを予想しようぞ。思へば不思議な因縁であるが、
た。それやこれやを考へると、矢張あの当時から将来関西に定住する下地があつたのに違ひない。たゞあの時分は「己は江戸
当日の先生の話の中で今覚えてゐるのは、関西に於ける新聞記者と僧侶の勢力の侮り難いこと、都踊りの人気の素晴らしい
も、どうしても承知されなかつたこと、関東と関西との人情の比較等である。此の最後の話のとき、「先生の御
のかなと、ぼんやりそんな風に感じた。それに、関西は東京に比べると土の色が白いものだから、光線の照り返しが非常に
へ叩きつけられてイヤと云ふほど後頭部を打つた。いつたい関西の人力車は関東のよりも幅が狭く、きやしやに造つてあるので
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も岡本さん兄弟と幹彦君と私と四人連れで、七条から丹波口まで汽車で行つたのを覚えてゐるが、その頃の京都の西
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、大概これと「京の四季」をやる。しかし此の頃は島原を除いては燭台を使ふやうなこともだん/\廃れて行く。三味線
さんと一緒によく私たちを方々へ引き廻して下すつた。島原の角屋で遊んだ時も岡本さん兄弟と幹彦君と私と四人連れ
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して木村を訪ねたことがあつた。木村の居間は芝浦の海に面した芝浜館の階下にあつた。夕方、まだ電燈のつかない
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なければ、当時最も売れつ児だつたのは、東京で赤坂の萬龍、新橋の静枝、大阪で富田屋の八千代だつたであらう。就中萬
思ひやられた)それと云ふのが、柳橋は新橋や赤坂と共に一流の土地であつたけれども、後者は多く華族や大官の遊び
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養軒と云ふ洋食屋へ連れて行かれ、其処で始めて祇園の藝者と云ふものを見せられたのである。「若い方のは、今夜
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、私より一と足先に此の地へ来て三本木の「信楽」と云ふ宿に滞在してゐた長田幹彦君の所へ飛んで行つた
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に違ひない。………今度京都へ出て来たら、比叡山へも登つて見よう。八瀬大原へも行つて見よう。
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直ぐに春日神社へお詣りをし、博物館を見物して三笠山の下を通つて、手向山八幡、三月堂、二月堂、大仏殿
までを、はつきり段をつけて染め分けてゐる。私は三笠山を下から見上げた時に、あのつる/\した、木の一本も
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三人は、気障で生意気で手が着けられなかつた。木村は両国の肉屋「いろは」で生れ、後藤は伝馬町だか馬喰町だかの医師の家に生れ、
の文人には新橋赤坂よりも親しみ易かつたのであらう。両国辺に生れた木村や後藤が此の土地に愛着したのは当然であるが、私も五つか
いてをられるが如く、当時われ/\は、人形町、浜町、両国、柳橋附近の空気にノスタルジヤを感じてゐた。これらの土地は、木村にも
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たが、若葉の時候に奈良なんぞを歩いてみると、上野公園などゝは違つて、木の色でも地面の色でも、とても
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威張つてゐるのが癪に触つたからなので、京都大阪は如才のない土地柄故それ程でもなかつたけれど、東京はその
連載すると云ふ約束で、東日から金を貰つて、京都へ出かけた。所謂「朱雀日記」と題するものがこの時の見物記で
いかにもその標本のやうに出来上つてゐる。で、京都へ行きたいと云ふことも、多分私にその意向があることを松内さん
。そしてその前年、木村荘太が自らの家庭を破壊して京都岡崎の和辻の宿へ走つた時にも、金さへあれば一緒に行き
には、大いに江戸ツ児の度胆を抜かれたが、京都の方は流石に悠長で、ゴム輪とは云へ、ピカピカ光つた車台など
の出来ない紅殻塗りの格子造りの構へを、「これが京都かなあ」と思つてなつかしくも物珍しくも眺めたことだつた。三条御幸町の
であつた。此処にも書いてあるやうに、当時の京都は四条通りの一部分が漸く拡張工事をしてゐる最中であつて、烏丸
。私は前の晩に名古屋に一泊し、明くる朝京都へ向つたのであつたが、汽車の中から雨がしと/\降り
私は京都には全く一人も友達がなかつたので、着いた明くる日、私より一
昔山陽の山紫水明処があつた所で、当時は殆ど京都の郊外に近かつたので、下木屋町の私の宿から俥で行く
一端を知るべしと云ふやうな話。嘗て漱石が虚子と京都に遊んだ時にも大友へ行つてお多佳さんに会つたと云ふ話
あつたのかはつきりしないが、この人の噂は京都へ来てから間もなく誰かに聞かされてゐた。彼女は非常
まで汽車で行つたのを覚えてゐるが、その頃の京都の西の郊外は東の方よりも一層人家が疎らであつて、千本
たし、糠雨に降られたと云ふ記憶もない。たゞ京都の初夏の頃にしば/\ある、陰気な雨雲が蔽ひかぶさつ
或る日、此方へ来てから間もなく、当時京都の帝大に教鞭を取つてをられた上田敏先生が私たちに会つて
には見えなかつたので、これは事に依ると京都を永住の地と定めて家を建てられたのかも知れないと、
の話のとき、「先生の御家庭ではお子さん達が京都弁を使ふやうにおなりになりはしませんか」と、私
の勢力の侮り難いこと、都踊りの人気の素晴らしいこと、京都の人は都踊りを見ないのを耻のやうに心得て、十度
の庇に身を倚せかけつゝ、裏庭に廻れば、京都の料理屋に有りがちな「入金」式の家の造り。成る程此処が瓢亭
も疲れるのも淫楽の結果に違ひない。………今度京都へ出て来たら、比叡山へも登つて見よう。八瀬大原へも行つ
さうにぶく/\に太つてゐたのである。おまけに京都へ来てからと云ふものは一層急激に太り出して、日に/\
所にあらずと云ふ気になつてゐた。それで京都へ着くと間もなく連日連夜の遊蕩三昧が始まつたのであるが、
、私は何の不安にも襲はれずに、無事に京都へ着いたのである。尤もさう云へば、汽車に乗るについては
は前に記した通りである)それから四五年の後京都へ旅立つ時分には殆ど快癒してゐたのであつた。その證拠に
ほ憂鬱になるのであつた。が、そんなになりながら京都にぐづ/\してゐたと云ふのは、旅費がなかつたからばかり
は内心参つてしまつた。かてゝ加へて、京都や大阪は東京よりも衣更への時期が早い。四月の末に
そのうちに京都の夏は追ひ/\闌になつて来る。加茂川には床が張り出される
に帰れないのが忌ま/\しくて仕様がなかつた。京都ぢゆうの人の顔が皆癪に触つた。態度がだん/\
しきりに焦ら立ち、ヤキモキしたり、腹を立てたりした。京都なんてもう一日もイヤだと思ひ、さう思ふのに帰れないのが忌ま
した。さうなつて来ると、此のキラキラした夏の京都と云ふ所が雲煙万里を隔てた他郷のやうに思へて、尚更帰心矢
でから、少しづゝ乗り継いで大阪へ帰つた。そして大阪から京都へ戻るにも、汽車でなく電車にした。幹彦君はお医者さん
テキパキ物を云へ! 私は、幹彦君が習ひ立ての京都弁で藝者としやべつてゐるのを聞くと、ムカムカとしてこんな
の物云ひやアクセントを洩らすと云ふ風であつたから、京都がイヤになり出した私には、此れが甚だ癇に触つた。
多分此の時のことであつたらうと思ふ。これもやつぱり京都へ帰る道中が恐かつたからである。私は此の滞在中のこと
のに、年々花たちばなの薫る季節になれば、不思議にも京都のことよりは多く大阪のことの方が記憶によみがへつて来る
ても転た懐旧の情に堪へない。あの時の旅行は京都を根拠地にして、大阪に滞在したのは前後廿日程に過ぎな
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て徐ろに時節の来るのを待たうかと思ひ、山形、青森等の新聞社へ頼み込んで、殆ど話が纏まりかけたこともあつた。かう
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もなつて徐ろに時節の来るのを待たうかと思ひ、山形、青森等の新聞社へ頼み込んで、殆ど話が纏まりかけたこともあつた
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」に出て来る人)が出資者となつて、小山内薫秋田雨雀両氏の編輯で、その同じ名の雑誌が出たことがあり、それ
」、及び西鶴の世之介を扱つた何とか云ふ戯曲、秋田君の「槍の権三の死」、同「第一の暁」(
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はまた一層若いのに、此の主人側の両君が席上で巴里の街筋の話をしてゐたのをみると、その頃既に両君とも
嘗て先生は巴里の劇場に於て始めて永井荷風氏と相識つた時の印象を語り
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くたびれる』と云ふ事を、屡※感じるやうになつた。奈良を一日見物してさへ、股擦れが出来る位無上に太つて了つて
奈良、長岡、平安の旧都の跡も調べて見よう。などゝいろ/\の
、最初はさうも思はなかつたが、若葉の時候に奈良なんぞを歩いてみると、上野公園などゝは違つて、木の色で
壁のやうに切つ立つて迫つて来たりした。奈良を一日歩いた時にも、あの春日野の芝生の緑があまりキラキラ反射する
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方かであつたに違ひないと云ふのは、その昔深川の木場の若旦那で、小山内氏のパトロンであつたKさんと云ふ人(
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團菊を始めとして歌舞伎の名優中の何割かは東京人であらうし、文学の方でも、紅葉、露伴、漱石の三巨星
傑出した人物があまり出てゐない。鳩山文部大臣は東京人の政治家で将来を矚目されてゐるやうだけれども、今迄のところ
一体、東京からは傑出した人物があまり出てゐない。鳩山文部大臣は東京人
八千代だつたであらう。就中萬龍は嬌名一世を圧し、東京藝者の代表的な者として花柳界の人気を一身に集めてゐた。
誤まりがなければ、当時最も売れつ児だつたのは、東京で赤坂の萬龍、新橋の静枝、大阪で富田屋の八千代だつたであらう
は如才のない土地柄故それ程でもなかつたけれど、東京はその弊害が甚だしかつた。私の記憶にして誤まりがなければ、
したことがあり、帝大の政治科を出てから暫く東京日日の記者を勤め、後に朝鮮銀行に転じて現に平壌の支店長をし
、三人ながら生粋の日本橋ツ児と云ふ訳で、いつも東京の下町の話が始まると、和辻や大貫は田舎者扱ひで除外されて
賢一郎君の依嘱を受けて「あくび」と云ふ中篇物を東京日日新聞紙上へ書いたことがあつて、これが私の新聞へ続き物を
も、見物するにも、一向勝手が分らないところから、東京の松内さんに戴いた紹介状を持つて、早速大阪毎日支局の春秋さんを
名古屋の俥の東京よりも新式で敏捷なのには、大いに江戸ツ児の度胆を抜かれ
幌の間からその狭い烏丸通りの両側に並ぶ家々を、東京では見ることの出来ない紅殻塗りの格子造りの構へを、「これが
光る、光線の加減では青く真つ黒にさへ見える、東京で云ふ「くれなゐの紅」と云ふ奴だつた。私は今にして
のする地唄の三味線を持つて来ることは殆どない。年々東京風に化して長唄清元等の江戸唄が跋扈する現代では、特別の温習
感心してゐる風流気などは持ち合はせなかつた。東京にゐても夕方になるとそは/\して無上に茶屋酒が恋ひ
ゐる頃だつたから、五月に這入つてからであらう。東京と違つて、上方の五月と云ふとなか/\暑い。巨椋の池
やうに固くなつて拝聴してゐた。先生は爽快なる東京弁を以て上方の人情風俗を語られ、奇警な観察と上品な諧謔
と云へば肥満してをられた。それに、思ふに東京育ちの先生は都会人の嗜みを重んじて、学者風や文人風に見えること
もあらう。尚、一層皮肉な観察をすれば、先生は東京生れの二青年作家に、その同じ都会育ちの文人の大先輩として、
ついでながら、当日先生は東京風のイヤ味のない和服の着流しで、その好みには五分の隙も
には至る所に借金が出来、這ふ/\の体で東京へ逃げ帰つたものだが、その際にも御礼状一つ差し上げなかつた
なと、ぼんやりそんな風に感じた。それに、関西は東京に比べると土の色が白いものだから、光線の照り返しが非常にチカチカ
ので、単衣羽織と云へば絽のことであつた。東京で上方流の単衣羽織を着るやうになつたのは震災以後のやうに
は最後まで着た切り雀であつた。(あの時分、東京では上方の所謂「単衣羽織」と云ふものがなかつた。袷羽織から
が絽の羽織を着る時分になつてから、たまりかねて東京へ手紙を出し、綴れの単衣帯と夏羽織とを偕楽園から送つて貰
てしまつた。かてゝ加へて、京都や大阪は東京よりも衣更への時期が早い。四月の末にはもう単衣羽織
なつてゐた。私は是非とも検査の日までに東京へ帰つて、日本橋の区役所へ出頭するか、それが駄目なら此方で検査
の短距離の間でさへそんな風になるのであるから、東京へ帰ることなんぞは当分思ひも寄らなかつた。私は今後、半年かゝる
で帰るにも帰られず、毎日のらくらしてゐると、東京では親父が心配して徴兵の方はどうするつもりだと手紙で云つ
なるのである。あゝ、今年は何と云ふ厄年か、東京で病気が再発したのならどうにか凌いで行けるだらうに、選りに
ばならなくなる、その汽車の中で自分はヤラレる、東京へ着く迄に死ぬ、さう云ふ風に運命の罠が作られてゐるの
遅刻で手続きが取れなかつた。たしか、書類は疾うに東京から着いてゐたので、毎日今津へ行かうとしては京阪電車の
で一層暑い感じがした。橋の上から見下ろすと、東京と違つて規則正しい直線を成してゐる町通りが、北から南へ果てしも
渡す、つまり往来にテント張りの天井が出来る、あれは全然東京の町にはない光景で、大阪の如き暑い土地ではあゝして路面
それやこれやのために暗澹たる胸を抱いて遥かに東京の空を慕ひながら、前途に何の希望もなく、明日はどうなる
書いて行くと際限がないから、結局私がいかにして東京へ帰ることが出来たかを記しておかう。兎に角私は、六月の
今日の縁が結ばれてゐたからであらうか。況んや東京の下町が全く形態を改めてしまつてからは、私の過去の夢の
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売れつ児だつたのは、東京で赤坂の萬龍、新橋の静枝、大阪で富田屋の八千代だつたであらう。就中萬龍は嬌名一世
、殆ど藝者の肖像ばかりであつたから、われ/\は新橋赤坂辺の一流の妓の顔だちは写真でよく知つてゐたけれども
の興趣に適してゐたから、無位無官の文人には新橋赤坂よりも親しみ易かつたのであらう。両国辺に生れた木村や後藤
振りが思ひやられた)それと云ふのが、柳橋は新橋や赤坂と共に一流の土地であつたけれども、後者は多く華族や
の方では見覚えてゐた。今夜も多分臨川君は新橋辺で飲んでゐて、一杯機嫌で会場を荒らしに来たので
、長田(秀)、喜熨斗、木村、和辻等の諸君と新橋の花月で忘年会を開き、二階の中沢君の座敷へ闖入したこと
かも知れない。まだ重なお茶屋は大概四条通りの北、新橋方面にあつて、たゞ万亭が今と同じ所、花見小路の曲り角にあつ
が想ひ出される。その「大友」と云ふのは祇園の新橋にあるお茶屋のことで、お多佳さんはあの時分から彼処の女将であつ
用ひて辛くも一人旅を続けながら、どうやらかうやら新橋ステーシヨンに着いた。
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蠣殻町の相場師の子であつたから、三人ながら生粋の日本橋ツ児と云ふ訳で、いつも東京の下町の話が始まると、和辻や
、吉井、長田(秀)、木村、私など、夜更けの日本橋通りをつながつて歩いて、魚河岸の屋台へ飛び込んだまでは知つて
私は是非とも検査の日までに東京へ帰つて、日本橋の区役所へ出頭するか、それが駄目なら此方で検査を受けるやうに手続き
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抱いてをられるが如く、当時われ/\は、人形町、浜町、両国、柳橋附近の空気にノスタルジヤを感じてゐた。これらの土地
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憧れを抱いてをられるが如く、当時われ/\は、人形町、浜町、両国、柳橋附近の空気にノスタルジヤを感じてゐた。これら
、大方明治四十二年の十一月頃であつたらう。会場は人形町の西洋料理屋三州屋、主催者は誰であつたか記憶しないが、集
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はない)さう云へば「亀清」で思ひ出したが、浅草生れの久保田君が公園から竜泉寺町界隈の地域に憧れを抱いてをられる
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行くことにした。その帽子と云ふのが、或る晩銀座を散歩すると、何処かの帽子屋のシヨウウインドウに変な恰好の帽子
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近所の本屋へ駈け付けた。そして家へ帰る途々、神保町の電車通りを歩きながら読んだ。私は、雑誌を開けて持つてゐる
一度失敗してからは容易に盛り返すことが出来ず、神田南神保町のとある路次の奥の裏長屋に逼塞してゐた。
稿料を届けて寄越した。次いで中央公論主筆瀧田樗陰氏が神保町の裏長屋へやつて来た。私は直ちに「秘密」を書いて中央公論
。その頃のことだから勿論自動車などへは乗らない。神保町から電車で芝の山内へ行つたのだが、瀧田君は吊り革にぶら下り
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の海水館と云ふ下宿屋に住んでをられた。私は品川の海が見える二階の部屋へ通されて、一時間ばかりお邪魔をし
あらう。氏はわれ/\を引率してしば/\品川洲崎等へ遊びに行かれたが、そんな時にも全く同輩の態度で
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私は二十四歳であつた。当時氏はまだ独身で、月島の海水館と云ふ下宿屋に住んでをられた。私は品川の海が
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池の汀に離れ座敷が建つてゐたりして、ちよつと向島の入金のやうな感じだつた。「日記」を見ると、それから私たち
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。と云ふのは、或る日どう云ふつもりであつたか住吉神社へお詣りに出かけたのであるが、その時分南海電車は出来て