重吉漂流紀聞 / 久生十蘭

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地名一覧

ロンドン

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を指して首をかしげてみせると、すぐ理解して「ロンドン」と答えた。

いくど聞きなおしてもロンドンとしか聞えないが、オランダといっているのが自分の耳にそう伝わるの

聞けば、これはイギリスのロンドンから来た船で、ここで薪水を積み込み、七十日ばかり北へ航海し、

御前崎

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伊豆の子浦に寄り、十一月四日の夜、遠州の御前崎の沖あたりまで行くと、海面がにわかに光りを増し、海全体が大きな手

薩摩

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九月のはじめ、薩摩の漂流人が三人、カワンに送られて来た。船頭は喜三左衛門と

送られて来た。船頭は喜三左衛門というひとで、薩摩の御廻米を積んで江戸に上る途中、大風にあって吹き流され、蝦夷の

尾張藩

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に立った。文化十年、重吉が二十四歳の秋、尾張藩の御廻米を運漕する千二百石積の督乗丸で江戸へ上ったが、船頭

重吉は船頭から尾張藩の御船印と浦賀奉行の御判物を受取り、伊豆生まれの水夫を五人雇い入れ

伊勢

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沸きたつなかを船が後へ後へと戻りはじめた。せっかく伊勢の近くまで来て、後帰りするさえ迷惑なのに、帆柱にあたる風ばかり

名古屋

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時疫にかかって陸に残り、重吉が仮船頭をうけたまわって名古屋まで船を返すことになった。

伊豆

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伊豆の子浦に寄り、十一月四日の夜、遠州の御前崎の沖あたりまで行く

から遠ざかる。日も暮れ、その日の宵五ツ時、伊豆の利島と新島の間を通った。この間はわずか十七、八町ばかりなの

「伊豆の衆のいうとおり黄粉を※めて正月をするようでは、この先の運

房次郎が十六歳で死んだ。六月十二日に庄兵衛と伊豆の子浦の福松が死んだ。十三日に出家になった賄の孫三郎が死ん

月二十八日までに十人がつぎつぎに死に、重吉ほかに、伊豆の音七と亀崎の半兵衛だけが生残った。

せてやる。尾張の半可どものことは知らないが、伊豆の舟子の掟では、舟を沈めたおぼえのある船頭は、身を慎ん

こんな東のはずれの、異国の海へ投げ込まれるくらいなら、伊豆の衆といっしょに死んでいればよかった」

カリフォルニア州

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わからなくなってしまった。後で聞くと、それは南部カリフォルニア州の沖にある無人島だということであった。さすがの重吉も落胆し、

江戸

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尾張藩の御廻米を運漕する千二百石積の督乗丸で江戸へ上ったが、船頭と五人の水夫が時疫にかかって陸に残り、

油二百樽、大豆二百俵を積み、十月の下旬に江戸を出帆した。

は喜三左衛門というひとで、薩摩の御廻米を積んで江戸に上る途中、大風にあって吹き流され、蝦夷の沖を半年ほど漂流して

四日、松前から船に乗せられ、十二月四日、江戸に着いた。蝦夷会所でお調べがあり、翌十四年四月一日、尾州

長崎

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、日本船と見て船を停めたのは、救いあげて長崎まで送り帰そうためなのだろうと思うと、それでいくらか気持が落着いた。

。この船は東北のほうへ走っていたが、たぶん長崎へ行く途中なので、日本船と見て船を停めたのは、

「音七ぬし、半兵衛ぬし、この船は長崎へ行く。国へ帰る日も近づいた」

いよいよ長崎の港に着いたかと、重吉は舷に凭れて酔ったように港

た麦畑にいきあった。まだ二月だというのに、長崎は早く穂の出るところだと思っていると、行く手に白壁づくりの大きな

でならないが、馬鹿かと思われそうで、ここが長崎かとも聞けない。そのうちに片側の日除の下で宴会がはじまり、

と長崎の町の景色を話してきかせると、半兵衛は、

「長崎の御役所のお呼びだしはまだでございますか。わたくしのほうは、先程から

にあるノヴァ・イスパニヤ(メキシコ)という国の港で、長崎から五千里ほど東になっているといい、ここがナガサキ、ここがここ

帰りはたぶん来年の夏頃になるだろうという。三人を長崎へ届けてくれるものとばかり思っていたが、こういう成行では、

そこまでしてくれる親切があるなら、ついでのことに、長崎まで送ってくれるように頼んでくだされ」といった。

浦賀

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重吉は船頭から尾張藩の御船印と浦賀奉行の御判物を受取り、伊豆生まれの水夫を五人雇い入れて半田村の

七八把はある。港々の雑用に預った金だが、浦賀奉行と御判物と尾張様の御船印さえあれば、どこの津へ漂い着い