山彦乙女 / 山本周五郎

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地名一覧

青山

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いた。それでまず、すぐ近くの、赤坂新町にある、青山の家を訪ね、都合がよかったら、少し早めに木挽町へ来るように、云っ

「青山はすぐ江戸へ帰って、私からの知らせを待っていて呉れ」

すでに、江戸のことは迥かに遠かった。村田や青山や、その他の多くの知人は、(柳沢系に代った)新しい勢力の

上野原

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甲州街道の上野原の駅に、千歳屋伝右衛門という宿屋があった。

関所は、上野原から江戸のほうへ戻って、関野という宿の手前にある。そこは武蔵

八丁堀

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乗物は築地から八丁堀へぬけ、日本橋の大通りへと出ていった。

小田原町

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がわは、中通りを隔てて、武家の小屋敷のある、小田原町と向きあっていた。ざっとした板塀に、小さないおり門で、見つき

甘利山

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「あら、もうさっき申上げたでしょ、甘利山のうしろの、向うにある法王山よ、聞いていらっしゃらなかったのね」

「あなたもう甘利山へお登りになって」

と、照らし合せながら、その連峰の南の端によって、甘利山をそれとつきとめ、そのふところの谷や、峡間や、中腹の高原にひらけて

の物を揃えろ、というぐあいに意見を述べ、なお、甘利山とその周辺の、特異な伝習や、人情気風についても、いろいろと注意

地図で見ると、いま半之助のいる位置は、甘利山の東面の、ほぼ七合目に当っていた。

ではなかった。あとでわかったのだが、それは甘利山の頂上尾根が、奥の山へと続く、鞍部であった。

それはまっすぐに、ゆるい登り勾配で、甘利山の頂上へと、続いている。尾根を左へ(いま雲に閉ざされて

そこは甘利山の頂上の近くで、まわりは柔らかい若草と、つつじの木が密生し、どちら

右には甘利山のゆるやかな山腹がのび、うしろには茅戸山がある。ひとくちに云うと、

そこは甘利山の頂上へ登る道と、椹ヶ池へゆく分れ道の手前で、雑木林に囲ま

ついに甘利山の頂上へ来たとき、花世は息をととのえる暇もなく、「ほっ、ほう

甲府勤番

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をよく聞いた。そんなことが祟ったものかどうか、甲府勤番にまわされたが、一年ぶりかで江戸へ出て来て、半之助の

本所

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「つまらない伝説ですよ、本所のおいてけ堀のたぐいで、どこにでもそんな無稽な話はあるもんです

奥津城

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「ただ奥津城(墓)があるからだというのでしょう、恵林寺さまの、まことの御

のでしょう、恵林寺さまの、まことの御遺骸をおさめた奥津城が……そのために、ところの者が命を賭けて守るのだと」

江戸

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か、甲府勤番にまわされたが、一年ぶりかで江戸へ出て来て、半之助の家に二日ほど泊ったとき、その話を

もちろん江戸ではなにも知らなかった。また、そんな異常なことが起こっていようとは

江戸から帰った年の冬、叔父は一人で甘利郷へでかけていった。まえ

始末してあり、その処分の仕方を書いたものや、江戸の家族へ宛てた、遺書のようなものも発見され、いろいろな条件から

隠居ということに定り、孫七はあと始末をして、江戸へ帰って来たのである。

「殿さまは御病気でございます、それでなくとも、江戸の御滞在がながすぎます、一日も早く甘利へお帰りあそばすようにと

ます」権之丞はきっと眼をあげた、「三年まえに江戸へおいでなされてから、これだけの人数をお側にとめ置き、巨額

「花世も江戸へ置きます」

「江戸へ来てから三年、登世が巨額な金品を浪費した、とお云い

ことを、証明して呉れたのです、だから登世は江戸へ出て来たんです」

「わかったでしょう、登世が江戸へ出て来たのは、あの方が甲府城主になったからです、百石

で、多くの銅鉄や、必要な資材、工匠がたくさん江戸から送られています、そして甲府では、殺生禁断の法に乗じて、

詳しいことはわからないが、父が病気になったし、江戸の滞在が延びすぎたから、ひきあげて甘利へ帰るように、といいに来

彼女が江戸へ来たのは四十日ほどまえである。妹にも江戸の風俗をみせ

へ来たのは四十日ほどまえである。妹にも江戸の風俗をみせたいから、という登世の希望で、なかばむりじいに呼びよせられ

それが江戸では、屋敷まわりのほか、どこへも出ることができない、庭の樹

して、その女主人の素性というものがわからない、江戸の者でないことは間違いないし、町人や農家の者でもない、おそらく

甘利郷のみどう家と、江戸で見たものとは、直接につながりをもっているのだろうか。さらにもう

関所で、ちょっとひと揉みあるんですが、それが済んだら江戸へ戻ります」

代表でいきり立ちましてね、旗本にして十日以上、江戸を離るる者は、老中連署の認証を要す、などという緊急特令を

あり、その一に、特に重要な役目でもない限り、江戸を離れてはならない。という箇条があった。もちろん法規の常で、

、二十人の侍と小者人足で、一昨日の朝、江戸を立った。その日は八王子泊り、昨夜は吉野宿で泊って、今日こっちへ

使いますが、中を調べたうえ、鉄炮だったらそのまま江戸へ持ってゆこう、というわけです」

関所は、上野原から江戸のほうへ戻って、関野という宿の手前にある。そこは武蔵と甲斐

通行でもっとも厳しかったのは、よく知られているとおり、江戸から地方へ出る女性と、鉄炮とであった。特に後者は、それが鉄炮

あろう」来太は喚きだした、「しだいによっては江戸へ戻り、老中、大目付へ訴えて出る、その急使の出どころと、出した者

「こんど江戸から、大量の鉄炮をはこび出す者がある、ということで、急に街道

「――なるほどじゃない、その女が江戸をぬけ出して来たんですよ、さっき青山が云っていたような情勢の

を持って、しかも今のあの居直ったようすでは、再び江戸へ帰るつもりはないだろう」

「青山はすぐ江戸へ帰って、私からの知らせを待っていて呉れ」

江戸をぬけだしてから、すでに八カ月ちかく経っている。

の声だとわかったが、かくべつこだわる気持はなかった。江戸と此処では、あまりに距離が大きすぎるし、「丸茂」の豪奢さと

ひところ、江戸で流行した、俗謡である。

包囲されたらしい。そして、この姉や、姉と共に江戸から来た者たちは、逆に追われて、ちりぢりに逃げたもののよう

は用をなさない、苦心経営、鍛練に鍛練して、江戸でも指折り、といわれた彼の腕前は、もはや三歳の幼児を、

柳沢系の者たちにあった。それは、かれらが江戸で策謀していたときから、予定されていたことであるし、

もっと根本的には、平四郎らが、江戸から乗り込んで来た理由は、甲府城に対する示威、ということであった

五月の末に、平四郎たちは江戸へ去った。そのとき、主馬はしきりに、半之助にも江戸へ帰るように

へ去った。そのとき、主馬はしきりに、半之助にも江戸へ帰るように、とすすめた。

――ありますとも、それも江戸の海よ。

――江戸の築地の海、いくらやっても一尾も捉まらないし、そのうちに乙女

江戸にいたときの、やりきれない倦怠や、よりどころのない空虚さや、孤独感

すでに、江戸のことは迥かに遠かった。村田や青山や、その他の多くの知人

富士山

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平四郎の位置からは、右に櫛形山、正面に富士山が見える。すぐ下は杉と椹の大きな林で、それはそのまま、右がわ

小石川

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御薬園といった。のち北は廃止になり、南も小石川の御殿地に移された。当時は典薬頭に属していたが、さきごろ

もともと此処は、小石川の分園として設けられたもので(やがては全部を移す筈であった

いう役名をも兼ねていた。尤もこれは、定期に小石川へ報告に出頭する責任を持つことであるが、まだじっさいに仕事が始まって

武蔵野

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、赤羽川の上流に当る小さな川を越すと、もうまったく武蔵野のけしきになる。……どちらを眺めても、なだらかな丘の起伏が延び

駒場

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支配に変り、御薬園奉行の職制が定って、目黒の駒場に新しい薬園ができた。

半之助は、その駒場の薬園に勤めるのだが、通勤でなく、休日のほかは、小屋に詰める

はいるとまもなく、予定より少し早かったが、半之助は駒場へ移った。

そんな問答もした。また、駒場ではおそらく退屈だろう、と考えたので、読みたいと思いながら読めずに

駒場へ移った日に、半之助はほっとした気持で、そう呟いた。そして、

あるが、その予告を証明するかのように、半之助が駒場へ移った翌日から、にわかに気温が下り、じめじめする陰気な雨が降りだし

の物や、金もだいぶ持ったらしいですが、そのまま駒場へは戻らず、どこかへいってしまったというわけです、なんのため

「駒場のほうは……」

網代

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へと、続いている。その家の玄関の左手に、網代の袖垣があり、そこに一人の若者が、柴折戸をあけて待ってい

兵庫

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兵庫の家は麹町五番町にあり、実の母親と、くみという妻と、千之助

叔父の兵庫はこう云って、ふと、きらきらするような眼をした。

た。そして、やはり狸ばやしは、そこで聞えていた。兵庫はこう云って、低い声で、その笛太鼓の音や、かすかな人ごえ

ひきあげた。しかしそれから十五六日して、ふいと兵庫は戻って来た。

兵庫はひどい姿になっていた。蒼黒くむくんだ、溺死者のような相貌に

なくなったそうである。……自分で云ったとおり、兵庫はしきりに家をぬけ出ようとした。そのときは病気の発作が起こったよう

ことがほぼ明らかになった。こうして行方不明のまま、兵庫は病気隠居ということに定り、孫七はあと始末をして、江戸へ帰っ

年まえに、かんば沢でふしぎな失踪をした、兵庫その人のものに、ひどく似ているようだった。

完全に兵庫は捉まった。うろ覚えではあるが、下僕の孫七の話によると、かん

兵庫は秘密の公務を帯びて、甘利郷へ探査にでかけた。そういう例は

なって、まもなく死んだ、ということである。兵庫は初めのときかんば沢で消息を絶ち、五十日ほどして戻って来

いい、とまで云ったことである。……なにかが兵庫を惹きつけていたのだ。このばあい、なにかが、というのは「

あって、自分で自分を制御できないほどにも、強く兵庫を惹きつけていたのである。

を着、兜の目庇から、白い布を垂れている。兵庫の手記にあったとおりの、異様な姿で、ひと言も口をきかず、

れたのであろう。しかしそうではなく、亡き父の兵庫が、この土地で失踪したということに惹かれて、かれらと行

赤坂

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、叔父は五番町へは孫七という下僕をやり、自分は赤坂一つ木の安倍の家に旅装を解いた。

八ヶ岳

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ひらけた展望がある。主馬の立っているところからは、八ヶ岳、茅ヶ岳などが見え、すぐ下には、かんば沢の、(それはすっかり

あり、眼をあげると、大きく裾を張った茅ヶ岳や、八ヶ岳が眺められる。

恵林寺

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「恵林寺(信玄)さま御他界から百三十余年、みどうの家はその悲願をはたす

ただ奥津城(墓)があるからだというのでしょう、恵林寺さまの、まことの御遺骸をおさめた奥津城が……そのために、ところ

「恵林寺さまの御遺志は、御再興の事ただ一つです」

それは事実そのとおりである。その日は恵林寺機山公(信玄)の忌日に当り、亡き霊をなぐさめるために、いろいろと

武器も、兵粮も、馬も、兵も集めてある、恵林寺さまの御遺志を守って、城にたてこもって、ひと合戦するか、黙って

「登世は明日、甲府城へはいります、恵林寺さまの御遺志を忘れない者、父祖代々の誓いを忘れない者、甘利武田

のなかばに、篝火の中へ落ちて来た、これこそ恵林寺さまの御霊が、挙兵のときをお告げになるあかしです、この……

甲府城

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甲府城では、幾たびか探索を試みた。

、その「座」の担当者に限られているのに、甲府城で小判小粒(金貨)の鋳造が許されたが、これらは、新鋳貨

「今年になってからは、甲府城の武具更新の名目で、多くの銅鉄や、必要な資材、工匠がたくさん

幕府政体はすでに磐石である。甲府城にどれほどの軍資を貯え、どれほどの兵を集めたとしても、

「御大老が甲府城へわたられてから、御使者や荷駄がこの道を往復しない日はない

「それならどこへゆくか、かれらと共に甲府城へ入るか、おそらくそうではないだろう、もちろん城と連絡はあるだろうが、

しまう、生きるか死ぬかの、時が来たのです、甲府城には、武器も、兵粮も、馬も、兵も集めてある、恵林寺

「登世は明日、甲府城へはいります、恵林寺さまの御遺志を忘れない者、父祖代々の誓いを

「柳沢の勢力は瓦解した、甲府城も幕府の手に押えられた、夢は終ったんだ、むだな騒ぎは

事情は、判然とはしないが、おそらく、彼もまた甲府城に拠って、ひと合戦という、夢に憑かれたのであろう。しかしそう

は、平四郎らが、江戸から乗り込んで来た理由は、甲府城に対する示威、ということであった。綱吉の死に続く、吉保の失脚

。綱吉の死に続く、吉保の失脚によって、かねて甲府城に武備を貯えていた、無思慮な一味が、万一にも事を起こす

死者三人、七人が捕えられた。これらは、甲府城の城代、柳沢隼人に引渡されたが、他の者は(二三の条件付き

堺町

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堺町や木挽町の劇場が、富裕な町人や武家たちの、一種の社交場のように

茅ヶ岳

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展望がある。主馬の立っているところからは、八ヶ岳、茅ヶ岳などが見え、すぐ下には、かんば沢の、(それはすっかり崩壊し

の谷間があり、眼をあげると、大きく裾を張った茅ヶ岳や、八ヶ岳が眺められる。

甲州街道

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甲州街道の上野原の駅に、千歳屋伝右衛門という宿屋があった。

甲府

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をよく聞いた。そんなことが祟ったものかどうか、甲府勤番にまわされたが、一年ぶりかで江戸へ出て来て、

甲府から初めて出て来たときも、叔父は五番町へは孫七という下僕を

話題はしぜん、甲府のことが中心であった。半之助はそのなかで、「隠し言葉」「隠し

敵の眼をくらます。というわけだそうである。また甲府周辺の言語や風俗には、信玄にむすびつけて伝承されるものが少なくない

甲府から西へ六里ばかり、巨摩郡の甘利郷という山間の村に、

甲府城では、幾たびか探索を試みた。

が、いちばんつよく頭に残った。こうして明くる朝、甲府へ帰任していった叔父は、それから約一年半ののち、ついに

が、中一年おいて、元禄九年の三月、甲府から下僕の孫七が出て来て、初めて意外な事実を聞かされたの

反柳沢運動にも拘らず、彼の地位がゆるがず、甲府城主となり、大老などと僣称されるようになったのは、ひとえにその

た。甲府侯というのは、四代家綱の弟、甲府宰相綱重の子で、すでに綱吉の後嗣と定っていた。半之助などに

らしい。しきりに、甲府侯、という名が出た。甲府侯というのは、四代家綱の弟、甲府宰相綱重の子で、

やら、将軍の世継ぎを排そうという相談らしい。しきりに、甲府侯、という名が出た。甲府侯というのは、四代家綱

なもので、どこまでが真実であるかわからないが、甲府侯が、反柳沢の主動的なたちばにいる、ということは、

、登世が江戸へ出て来たのは、あの方が甲府城主になったからです、百石そこそこの小身から、表高十五万余、松平の

でもあり、お世継ぎは御養子で、それも壮年の甲府宰相さまですから、将軍家にもしものことがあれば、柳沢一族の運命

らの策謀の一は、将軍継嗣の排斥であった。甲府侯綱豊という人は、その祖父に当る三代家光の気性をうけている

綱吉は館林家の出であって、甲府家とは、血続きであるには、相違ないけれども、親子として

、その「座」の担当者に限られているのに、甲府城で小判小粒(金貨)の鋳造が許されたが、これらは、

な資材、工匠がたくさん江戸から送られています、そして甲府では、殺生禁断の法に乗じて、領内の住民から弓矢、猟銃を

「今年になってからは、甲府城の武具更新の名目で、多くの銅鉄や、必要な資材、工匠

幕府政体はすでに磐石である。甲府城にどれほどの軍資を貯え、どれほどの兵を集めたとして

あと、下僕が持って来たもので、中には、甲府勤番ちゅうの日記や、見聞記や、かんば沢に関する調書などが、

改善するより、そこから逃げだしたくなったに、相違ない。甲府へゆくことは、新しい生活を始めることであったが、そこで「かん

か。それだけなら、解決する法があった筈だ。甲府勤番にまわされたのは、道楽が祟ったのだといわれる。どの

「みどう家」を探査にでかけたのは、初めは甲府城代の意志であったらしい。記録の冒頭の部分に、その報告のため

らはひどく焦りだしたんでしょうな、だいぶ人や荷駄を甲府へ送り始めたんです、今日もその荷駄の一つが此処を通るん

からは、お城を修築するために、多くの荷駄が甲府へ送られている、そうではないか」

「御大老が甲府城へわたられてから、御使者や荷駄がこの道を往復しない日

「それならどこへゆくか、かれらと共に甲府城へ入るか、おそらくそうではないだろう、もちろん城と連絡はあるだろう

五十歳ばかりの、躯の小さな、しゃがれ声の男だった、甲府の城下へいって、三年も義太夫浄瑠璃を稽古し、なにがし太夫とか

な、尊敬を受けているそうである。そのために、甲府城代は、しばしば探査を試みた、現に遠藤兵庫も、同じ目的で山入りを

しまう、生きるか死ぬかの、時が来たのです、甲府城には、武器も、兵粮も、馬も、兵も集めてある、

「登世は明日、甲府城へはいります、恵林寺さまの御遺志を忘れない者、父祖代々の

憑かれたような野心と。そして、それに対抗する、甲府侯綱豊を中軸とした、新しい勢力。こういったものが、今まざまざ

しても同様である。かれらの謀計がうまくゆき、甲府侯を廃し、かれらの好ましい将軍をたてて、その権勢を持続すること

都会生活の倦怠、いろいろな意味から、叔父は(そのため甲府勤番にまわされるほどの)放蕩をした。叔父の気質には、そう

「柳沢の勢力は瓦解した、甲府城も幕府の手に押えられた、夢は終ったんだ、むだな

事情は、判然とはしないが、おそらく、彼もまた甲府城に拠って、ひと合戦という、夢に憑かれたのであろう。

は、これよりさきに、六代将軍となった家宣(甲府侯)と、その帷幄の人々の、すばやい、果断な処置によって、

。綱吉の死に続く、吉保の失脚によって、かねて甲府城に武備を貯えていた、無思慮な一味が、万一にも事

は、平四郎らが、江戸から乗り込んで来た理由は、甲府城に対する示威、ということであった。綱吉の死に続く、吉保

死者三人、七人が捕えられた。これらは、甲府城の城代、柳沢隼人に引渡されたが、他の者は(二三の

長崎

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役所に勤めているが、その用むきで、一年ばかり長崎へいっていた。公用のほかに、自分に必要な、本草学関係の

「村田ならよろこぶだろう」半之助は喰べながら、「彼は長崎へいって来たし、あっちではこんなのをよく喰べてるんじゃない

「まず云うが、村田は長崎へいったね、公用を兼ねて、本草関係の資料を集めるために、

「だが長崎へはゆかなかった」

「どこまで話したか、ああ、村田は長崎などへゆかなかった、というところまでだな」

で聞いたね、そう、丸茂の帰りだったろう、村田が長崎へいったというのは表面の口実で、本当は某方面の探査を

深川

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十文銭が不評で、銀相場が狂いだしたとか、深川のなんとかいう僧が、金銅の地蔵を六躰造って、六カ所

麹町

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兵庫の家は麹町五番町にあり、実の母親と、くみという妻と、千之助という男の子

大久保

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の一人はわからないが、次は水野肥前守、うしろは大久保長門守。二人とも御側衆であった。

「あとの二人は水野と大久保だろう」

柳沢吉里を中心に、大久保長門守、土屋相模守、水野肥前守、松平右京大夫、など、いずれも

そのとき水野とか大久保などという、幕府の閣老たちも、柳沢吉里といっしょに(むろん微行で

神田

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半之助はそう訊いた。松平右京大夫輝貞は、上やしきが神田橋内にあり、御側用人を勤めていた。

館林

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綱吉は館林家の出であって、甲府家とは、血続きであるには、相違

銀座

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に、布令を出した。また貨幣の鋳造は、金座、銀座、銭座といって、その「座」の担当者に限られているのに

駒込

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なぜなら、今日は柳沢家の、駒込の下屋敷へいって、姉妹で猿楽を舞うのであるが、花世はなかなか

こういう関係から、駒込へゆくかゆかないか、ということでは、花世は、相当たたかわなけれ

――駒込へおいでなされ。と花世に囁いた。柳沢邸へいらっしゃってから、うまく

権之丞に固く念を押したうえ、ようやく駒込へゆくことを、承知したのであった。姉はもちろん知らない。

の七夕に、あの女主人は妹と二人で、柳沢の駒込の屋敷へいった」

日本橋

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乗物は築地から八丁堀へぬけ、日本橋の大通りへと出ていった。

「あら、これが日本橋、あら、ちょっと駕を停めてみせて」

「見てみるのよ、日本橋なんですもの」

日本橋の上のことで、たちまち往来の人々の眼を集めた。みんな立停って

目黒

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若年寄の支配に変り、御薬園奉行の職制が定って、目黒の駒場に新しい薬園ができた。

赤羽

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ながら、町家や武家屋敷もあるが、坂をおりて、赤羽川の上流に当る小さな川を越すと、もうまったく武蔵野のけしきになる。

八王子

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で、一昨日の朝、江戸を立った。その日は八王子泊り、昨夜は吉野宿で泊って、今日こっちへ来るというのである。

、棒を持った足軽が十人いるが、これは主馬が八王子の「千人同心組」から(もちろん反柳沢派の閣老から連絡があっ