呂宋の壺 / 久生十蘭
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は、そぜとるけん、雨の洩ったい」といい、大阪の薩摩屋敷にあった弓矢鉄砲、玉薬のはてまで、軍道具を残らず
元和元年、大阪、夏の陣をもって豊臣氏が滅亡したその五月一日、柬埔塞
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「これは博多の神屋宗湛から借りた真壺だ。よく似せてあるが、呂宋ではない
李旦という博多生れの福建人は、こんなことには馴れきっているふうで、急ぎもせ
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て帰国されたのは、秀頼公に愛想をつかし、薩摩の領国で一と合戦するつもりなのだろうと、咄嗟の才覚で武具運送の
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な顔もせず、それならばといって、邸を大安寺に寄進し、一族をひきつれて飄然と堺の浦から発って行った。それ
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慶長のころ、鹿児島揖宿郡、山川の津に、薩摩藩の御朱印船を預り、南蛮貿易の御用をつとめる大迫
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この年、惟新公が駿府の城へ年賀に上がると、家康が、葉茶壺が払底して、只今の
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「対馬の灰吹銀を千貫目、ペセダの銀銭を二十貫、ほかに錠銀と康煕
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から高砂(台湾)の湊口まで六百五十里、高砂から呂宋のマニラまで八百里、合せて千四百里の海を、こんな小船でおし渡るのかと
六月十八日、サンチャゴはマニラの湊に入って、河口の南に船繋りした。
ひとつへだてた船着場の正面の客舎に宿をとった。マニラは親子二代にわたる旧縁の地で、旅亭のあるじとは知友の仲
マニラの日本人町はカンデラリア天主堂の裏の一郭と、マニラの湊口、ディラオの郊外に
マニラの日本人町はカンデラリア天主堂の裏の一郭と、マニラの湊口、ディラオの郊外にある。
翌年の五月ごろまで、なすこともなくマニラの宿で日を消していたが、助左衛門の捜索をあきらめたのでも
ものを感じだしたが、大谷の姉弟は、暑い盛りのマニラで、部屋からも出ずにひっそりと暮している。顔を見る機会もなかっ
たが、それを承知で、七月二日の朝、マニラを発った。
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呂宋人は口細の壺を好んで使うが、トンドという村にその窯がある。翌日、そこへ行ってみた。真壺
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いわれた新納武蔵の城は、鹿児島の北十里、伊佐郡の大口村にある。
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しないことになって、翌日の夕方、乗客が二人だけサンパンで送られてきた。
真弓、弟はジェリコ菊丸。モニカは誇りの高い気質らしく、サンパンで送られてくる途中で、われわれ姉弟も癩者の血統だが、どうして
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で、吉之丞は郷里の山川の津に帰って、トカラ、琉球の物産回漕をやっていた。
吉之丞は舵場の櫓で、一波ごとに淡くなる琉球の島影を見送っているうちに、李旦がいっていた海賊船のことを思いだし
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慶長のころ、鹿児島揖宿郡、山川の津に、薩摩藩の御朱印船を預り、南蛮貿易の御用をつとめる大迫吉之丞という海商がいた。
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にサンミゲルに着いた。なるほど日本人は住んでいたが、摂津の沖から吹き流されて漂着した漁師原で、助左衛門とは縁もゆかりも
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をおいて海外貿易をはじめるようになったのである。堺の木屋弥三郎、西類子九郎兵衛などとおなじように、武士から町人になった、
戦って大敗し、身をもって遁れてきた義弘を堺で待ち受け、際どいところで船に乗せて鹿児島へ落した。
これも島津の御用をつとめる堺の薩摩屋祐仁は、いよいよ島津も滅亡かと、なにも手につかずに
ていたが、文禄三年の七月、思いがけなく、堺の納屋助左衛門が呂宋の壺の名品を五十個ばかり持ち帰って上覧に供した。
、邸を大安寺に寄進し、一族をひきつれて飄然と堺の浦から発って行った。それは吉之丞も聞いて知っていた。
助左衛門さえ堺にいたら、たやすく事が運ぶのだろうが、ならぬことをねがっても仕様
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、そんなものは持合せない。松浦にも、牧野にも、出雲の松平にも、およそ呂宋の壺を所蔵する向きへ礼をつくして頼んで
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呂宋助左衛門の内儀は敦賀の大谷からきたひとだと聞いている。あの姉弟にたずねたら、助左衛門の
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(例)鹿児島揖宿
慶長のころ、鹿児島揖宿郡、山川の津に、薩摩藩の御朱印船を預り、南蛮貿易の御用
きた義弘を堺で待ち受け、際どいところで船に乗せて鹿児島へ落した。
拙斎。鬼武蔵といわれた新納武蔵の城は、鹿児島の北十里、伊佐郡の大口村にある。
を発って、同、十月九日、七年ぶりで鹿児島に帰着した。
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と便宜があろうから、吉利支丹になれといった。吉之丞は長崎で洗礼を受けて心にもなき信者になり、呂宋から柬埔塞の町々
いたのを島津貴久に見出され、貴久の言付けで、長崎に船屋敷をおいて海外貿易をはじめるようになったのである。堺
が、どう考えても、頼母しいような船ではない。長崎から高砂(台湾)の湊口まで六百五十里、高砂から呂宋のマニラまで八百里