十和田湖 / 大町桂月
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迎へ來らむとす。そのついでに、君を我郷里の十和田湖に案内したしと思ふ。われ少時、しば/\遊びて、以爲
日光に遊び、華嚴瀧や中禪寺湖を見たるが、わが十和田湖は、之にまさるとも、劣らざることを確信しぬ。請ふ、來り看よと
いよ/\目的地たる十和田湖に赴かむとて徒歩す。三浦道太郎氏、江渡省三氏、松原宙次郎氏、
孤立せる蝋燭岩あたりにいたりて、船を返しぬ。十和田湖前より別路を取り、大黒天、天の岩戸、金の神、山の神、火の
十和田湖は、四面、山に圍まる。銀山、鉛山西にあり。東にありて
大となり、終に見る能はざるに至る。船夫曰く、十和田湖中、此の中海が最も深し。曾て百尋の繩を下しけるに、水底に
。千丈幕は、御倉山の特色にして、かねて十和田湖の一特色也。この一大斷崖の爲に、人は陸地よりこの山に上る
は、この巖ありて、この樹なし。天下の風光、十和田湖ひとり其の美を擅にす。舟をすてて、白籠神社にいたる。數
、濃霧の爲に、眺望を得る能はざりしかど、十和田湖を見下ろす處を花部山と定めたる考へだけは誤らざるべしと確信する也。
宿すること一夜、都合五夜にして、われはこの趣味多き十和田湖を去りぬ。九月三日也。道太郎氏父子、百穗、及び余の
の見えざるものもありて、益※奧ゆかしく感ぜられる。十和田湖に遊びて、この溪流を見ざるものは、未だ十和田湖を見たるものと云ふ
。十和田湖に遊びて、この溪流を見ざるものは、未だ十和田湖を見たるものと云ふべからざる也。
燒かしめ、一瓶の酒を傾けつくして、余は終に十和田湖に別れぬ。
十和田湖に、一つの神話あり。八郎太郎といふもの、化して龍となり
されど、余の主とせるは、十和田湖の勝を探るに在り。こゝに、十和田湖の勝景の大要をあげむに、『
とせるは、十和田湖の勝を探るに在り。こゝに、十和田湖の勝景の大要をあげむに、『山湖』として、最も偉大なること
、碁盤石、雅俗とり/″\に趣味あり。げに、十和田湖は、風光の衆美を一つに集めたる、天下有數の勝地也。
余は、十和田湖に遊びて、四通りの路を經過したり。小坂よりの路と毛馬内より
取らば、湖の一部を俯觀するを得べし。されど、十和田湖より奧入瀬溪を取り去らば、十和田湖の勝は、その一半を失ふべし。且つ
を得べし。されど、十和田湖より奧入瀬溪を取り去らば、十和田湖の勝は、その一半を失ふべし。且つ三本木より奧入瀬溪を經るの路
は、天下、山川を愛するの士に告ぐ。必ず往いて十和田湖を見よ。往きか、歸りかには、必ず奧入瀬溪を過ぎよ。同じ道
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鮫港は、蕪島を前に控へて、風致あり。物見岩の眺望に至つては、實に
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の順序、精しく示さる。和井内氏は、カバチエポと稱する北海道の鱒をとりよせて、此處に養殖すること年あり。この湖の水、
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皆巖也。而していづれも姫小松を帶びざるは無し。松島には、この樹ありて、この巖なく、雄鹿半島には、この巖あり
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本州の北に盡きむとする處、八甲田山崛起し、その山脈南に延びて、南部と津輕とを分ち、更に南下
は、その尾也。甲信の群山は、その腹也。八甲田山はその頭也。頭に目あり。凡そ三里四方、我國の『山
は海に連なりて、盡くる處を知らず。西は八甲田山より十和田湖につゞける一帶の連山、この日は、雲にかくれたり。近きは三本木
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。銀山、鉛山西にあり。東にありて最も高きは十和田山、南にありて最も高きは前山、北にありて最も高きは花部山也
御倉半島の端に崛起せる御倉山を望み、左に十和田山を望み、前に花部山を望む。花部の右に二峰首を出す。西
、三浦氏も賛成す。さらば御倉山にせむか、十和田山にせむか、花部山にせむかといろ/\考へたる末、終に
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見ぬ。最上川も見ぬ、山は南部富士の稱ある岩手山、津輕富士の稱ある岩木山、鳥海山、月山、いづれも奧羽第一流の
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。墓の後ろは、芝生ひろく、眺望ひらけたり。こゝを瀬戸山と稱す。南は名久井嶽を望み、北は恐山一群の山を望む。東
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を以て之に對す。八郎終に力屈して、去つて八郎潟をつくる。南祖坊長く茲に鎭す。十和田湖畔、南祖坊の祠
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この夜、毛馬内にやどり、翌十一日、大館より汽車に乘り、秋田、山形、米澤、福島、二本松、白河、宇都宮を經
か、毛馬内か、いづれを擇ぶとも、さしたる差別なし。大館より小坂銅山まで、輕便電車のひらくること、近日のうちに在り。小坂より
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之をわたりぬ。北上川は、其の上流を見ぬ。最上川も見ぬ、山は南部富士の稱ある岩手山、津輕富士の稱ある岩木
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十和田湖は、四面、山に圍まる。銀山、鉛山西にあり。東にありて最も高きは十和田山、南にありて最も高き
、心勇む。午前八時發足し、小坂銅山を經、鉛山を越えて、午後七時、銀山の旅店に投ず。この路、十二里
九月十日、銀山を發し、鉛山を經て、發荷にいたる。この路二里と稱す。五戸よりする路も
一週する路も、他は馬を通ずれども、たゞ鉛山より發荷迄、一里の路だけは、馬を通ぜず。路絶えて、
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本州の北に盡きむとする處、八甲田山崛起し、その山脈南に延びて
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休屋は、十和田諸部落の中心點也。十和田神社こゝに在り。奇景このあたりに集まる。祠官にして、兼ねて宿屋を
※こゝのみにありて、並木を爲して長くつゞく。十和田神社に詣づ。日本武尊を祀る。險しき巖山を攀づ。山に臨み
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より汽車に乘換へて、青森を過ぎ、弘前に至りて、岩木山を仰ぐ。聞く、この弘前の長勝寺に、北條時頼の造らせたる鐘あり
山は南部富士の稱ある岩手山、津輕富士の稱ある岩木山、鳥海山、月山、いづれも奧羽第一流の名山也。就中、鳥海山ひとり群を
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秀雄の三氏、青年會を代表して來たる。麥酒と青森名産の林檎とを贈らる。醉後、江渡又兵衞氏と碁を鬪
、密竹の中に迷ふ。唯※幸にも、青森、秋田二縣の界とて、十間ぐらゐ毎に小さき木標あり。漸く
上らむとする也。尻内驛より汽車に乘換へて、青森を過ぎ、弘前に至りて、岩木山を仰ぐ。聞く、この弘前の長勝
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竹の中に迷ふ。唯※幸にも、青森、秋田二縣の界とて、十間ぐらゐ毎に小さき木標あり。漸く一標
、毛馬内にやどり、翌十一日、大館より汽車に乘り、秋田、山形、米澤、福島、二本松、白河、宇都宮を經て、われは東京
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八戸は、もと南部支藩のありたる處、人口二萬、盛岡以北、陸奧東部唯一の大都會也。陸には汽車つゞき、海に
一句を贈らる。大蘆氏は偶然汽車中にて逢ひて、盛岡より知合となりたる人也。木材商にして、今は八戸唯一の
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、こゝに大理石採取を企てて、日なほ淺し。福井助五郎氏在り。その説明する所によれば、こゝの大理石の如き大材
面白く感ぜらるゝ也。大久保氏は、長谷川英治、野呂彦太郎、福井助五郎の三氏と共に、こゝに大理石採取を企てて、日なほ
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に乘り、秋田、山形、米澤、福島、二本松、白河、宇都宮を經て、われは東京に歸りぬ。
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十一日、大館より汽車に乘り、秋田、山形、米澤、福島、二本松、白河、宇都宮を經て、われは東京に歸りぬ。
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にやどり、翌十一日、大館より汽車に乘り、秋田、山形、米澤、福島、二本松、白河、宇都宮を經て、われは東京に歸り
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素、大島市太郎の四氏發起人となり、畜産學校の校長高尾角太郎氏、その教員の佐藤、木場、板持、佐藤、久嶽氏、開墾
青年會に赴き、春汀と余と演説す。堺氏、高尾氏、岩館氏、川島氏など、青年以外の人も多く集まれり。
九月六日、朝早く、畜産學校々長高尾角次郎氏に案内せられて、其の學校に赴き、殘る隈なく見て、精しき
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、米田宇兵衞、南部興寧、福士協助、伊東嘉平、大久保忠一、夏堀源一郎、戸田利三郎、大蘆梧樓、關野重三郎、福田男兒、永井
、橋本八右衞門、女鹿左織、内田與兵衞、大久保徳治郎、石橋源三郎、安並正晴、米田宇兵衞、南部興寧、福士協助、
ば、酒の味も變りて、面白く感ぜらるゝ也。大久保氏は、長谷川英治、野呂彦太郎、福井助五郎の三氏と共に、こゝ
百穗に別れ、三本木の川崎氏とも別れ、われひとり大久保徳治郎氏と共に、馬車に乘りて、その所有の大理石の山に赴く
馬車に迎へられて、八戸なる大久保氏の家にいたり、大いに饗せらる。浦山老人も來たる。爛醉し
、女鹿氏など來りて別れを叙す。八戸驛にて、大久保徳治氏に別れ、尻内驛にて、浦山氏にも別れて、いよ/
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米澤、福島、二本松、白河、宇都宮を經て、われは東京に歸りぬ。