大阪の反逆 / 坂口安吾
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大阪の反逆
将棋の升田七段が木村名人に三連勝以来、大阪の反逆といふやうなことが、時々新聞雑誌に現れはじめた。将棋のこと
いふ日本的迷信に対して反逆し得る文化的地盤は、たしかに大阪の市民性に最も豊富にあるやうだ。京都で火の会の講演があつ
大阪の市民性にはかゝる江戸的通念に対して本質的にあべこべの気質的地盤が
がある。たとへば江戸趣味に於ては軽蔑せられる成金趣味が大阪に於てはそれが人の子の当然なる発露として謳歌せられる類ひ
大阪の性格は気質的に商人で、文学的には戯作者の型がおのづから
日本文学の誠実ぶつた贋物の道徳性、無思想性に、大阪の地盤から戯作者的な反逆が行はれることは当然であつたらう。
然し、大阪的な反逆といふのは、まことに尤もなやうで、然し、実際は意味
尤もなやうで、然し、実際は意味をなさない。ともかく大阪といふところは、東京と対立しうる唯一の大都市で、同時に何百年来
東京と対立して、東京が保守的であるとすれば、大阪はともかく進歩的で、東京に懐古型の通とか粋といふものが正統で
通とか粋といふものが正統であるとすれば、大阪は新型好みのオッチョコチョイの如くだけれども実質的な内容をつかんでをるので、
名人気質の仙人的骨董的神格的なものであるとき、大阪の芸術は同時に商品であることを建前としてゐる。かくの如くに
東京への反逆、つまり日本の在来文化への反逆が、大阪の名に於て行はれることも、一応理窟はある。
然しながら、大阪は、たかゞ一つの都市であり、一応東京に対立し、在来の日本
あり、その絶対の地盤から為さるべきものであつて、一大阪の地盤によつて為さるべきものではない。
織田の可能性の文学は、たゞ大阪の地盤を利用して、自己の論法を展開する便宜の具としてゐる
の支柱となつてゐる感情は、熱情は、東京に対する大阪であり、織田の反逆でなしに、大阪の反逆、根柢にさういふ対立の
、東京に対する大阪であり、織田の反逆でなしに、大阪の反逆、根柢にさういふ対立の感情的な低さがある。
それは彼の「可能性の大阪」(新生)の大阪の言葉に於て歴然たるものがあつて、こゝで
それは彼の「可能性の大阪」(新生)の大阪の言葉に於て歴然たるものがあつて、こゝで彼は大阪の言葉を
言葉に於て歴然たるものがあつて、こゝで彼は大阪の言葉を可能性に於てでなしに、むしろ大阪弁に美を、オルソドックスを信じ
にも、文学本来の地盤からでなしに、東京に対する大阪の地盤から、さういふ地盤的理性、地盤的感情、地盤的情熱を支柱と
坂田八段の端歩のことを言つた。これは如何にも大阪的だ。然し、大阪の良さではなく、大阪の悪さだ。少く
ことを言つた。これは如何にも大阪的だ。然し、大阪の良さではなく、大阪の悪さだ。少くとも、この場合は、
も大阪的だ。然し、大阪の良さではなく、大阪の悪さだ。少くとも、この場合は、大阪の悪さなのである
なく、大阪の悪さだ。少くとも、この場合は、大阪の悪さなのである。なぜなら、木村名人の序盤に位負けしては
を限定し低めてしまつたバカ/\しい例であり、大阪の長所はこゝに於て逆転し、最大の悪さとなつてゐる。それ
て逆転し、最大の悪さとなつてゐる。それは大阪といふものの文化的自覚が、真理の場に於て自立したものでは
対立に於て自立自覚せられてゐるからで、そこに大阪の自覚のぬけがたい二流性が存してゐる。かゝる対立によつて自立せられる
今日ジャーナリズムが大阪の反逆などといふのは馬鹿げてゐる。反逆は大阪の性格、大阪の伝統
が大阪の反逆などといふのは馬鹿げてゐる。反逆は大阪の性格、大阪の伝統の如きものによつて、為さるべきものではない。
などといふのは馬鹿げてゐる。反逆は大阪の性格、大阪の伝統の如きものによつて、為さるべきものではない。文学は文学本来
は悲しい男であつた。彼はあまりにも、ふるさと、大阪を意識しすぎたのである。ありあまる才能を持ちながら、大阪に限定され
を意識しすぎたのである。ありあまる才能を持ちながら、大阪に限定されてしまつた。彼は坂田八段の端歩を再現して
まさしく日本文学にとつては、大阪の商人気質、実質主義のオッチョコチョイが必要なのだ。文学本来の本質たる厳
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江戸の精神、江戸趣味と称する通人の魂の型は概ね荷風の流義で、
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、たしかに大阪の市民性に最も豊富にあるやうだ。京都で火の会の講演があつたとき、織田は客席の灯を消させ
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両都市が気質的にも対立してゐるのだから、東京への反逆、つまり日本の在来文化への反逆が、大阪の名に於
の如くだけれども実質的な内容をつかんでをるので、東京の芸術が職人気質名人気質の仙人的骨董的神格的なものであるとき
東京が保守的であるとすれば、大阪はともかく進歩的で、東京に懐古型の通とか粋といふものが正統であるとすれば、
おまけに、その文化が気質的に東京と対立して、東京が保守的であるとすれば、大阪はともかく進歩的で、東京に懐古型の
文化をもつてゐる。おまけに、その文化が気質的に東京と対立して、東京が保守的であるとすれば、大阪はともかく進歩的で
、実際は意味をなさない。ともかく大阪といふところは、東京と対立しうる唯一の大都市で、同時に何百年来の独自な文化を
ながら、大阪は、たかゞ一つの都市であり、一応東京に対立し、在来の日本思想の弱点に気質的な修正を与へうる一部
織田の論理の支柱となつてゐる感情は、熱情は、東京に対する大阪であり、織田の反逆でなしに、大阪の反逆、根柢に
を否定するにも、文学本来の地盤からでなしに、東京に対する大阪の地盤から、さういふ地盤的理性、地盤的感情、地盤的
すぎないのだから。木村名人のこの心構へは、東京の地盤とは関係がない。これは万国万民に遍在するたゞ真理の地盤
、真理の場に於て自立したものではなく、東京との対立に於て自立自覚せられてゐるからで、そこに大阪の