安吾の新日本地理 04 飛鳥の幻――吉野・大和の巻―― / 坂口安吾

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地名一覧

三輪山

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はなく、否、建築としての本殿はないが、三輪山という四百五十米ぐらいの姿の美しい山全体が本殿であり御神体なので

(イカズチの丘)はミモロ山ともいうね。大国主の三輪山がミモロ山である。馬子の頃に三輪逆という三輪の一族らしく

吉野

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飛鳥の幻――吉野・大和の巻――

していない。また、紀州の南端から大台ヶ原を通って吉野へ現れるには、どうしても数日テクる以外に手がないので

ても数日テクる以外に手がないのである。吉野の入口から自動車にのると上の千本までしか登れない。奥の千本へ行く

があって飛鳥の地があり、そこから山岳になって吉野へ熊野へと通じるわけだ。東の方へは初瀬から宇陀、伊賀を越え

いわば吉野も、この古の道の支線の一ツだ。伝に曰く、役の行者

の通る道である。この地帯は山伏の聖地である。吉野には蔵王堂があって、この聖地の本堂だ。そして金峰山のテッペンから大台ヶ原

神武天皇が熊野から八咫の烏の先導で吉野にかかったとき、尾のある人間が井戸の中から出てきて、その

があるほど流れている水量はチョロ/\にすぎない。吉野の宿屋はこの吉水院と同じように深い谷の上に一列に並んでいる

だから、吉野に於ては、むかし、むかし、井戸があるとすれば、実に最高の宝

すれば、実に最高の宝であったに相違ない。吉野の親分が井戸の中から這って現れたというのは当然の話ですよ

東京の親分は省線の駅を縄張りにマーケットをつくるが、吉野の大昔の親分はたった一ツの井戸を縄張りにマーケットを造ったにきまって

には珍しく清水があったし、名も吉水だから、吉野をひらいた役の行者がこゝに庵室を造ったというのも、こゝが

名筆だ。この帝、感情豊富ナリ。しかし、水の乏しい吉野で、枕の下に水をくぐらせてしまったのは、誰しも傷心やみ

あらず、後南朝というべきものがあって、その後も吉野にたてこもり、六十五年がほど抗争していた。

標葉郡

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と戦ったが、西陣南帝は乱後に奥州へ落ち、標葉郡沢之邑というところに住んだそうだ。その後裔が熊沢天皇デアル、と

宮城

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はないか。蝦夷と入鹿は自分を天皇になぞらえて、宮城やミササギをつくッていたそうだが、それにしでもだね、大臣

なっており、またその年には蝦夷がいよいよ甘梼岡に宮城を構えて自分の住居を上宮門、入鹿の住居を谷宮門とよび、子供

蝦夷

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残っていませんね。大極殿で入鹿が殺され、蝦夷がわが家に殺されたとき、死に先立って、天皇記と国記を焼いた

蒙昧な時代ではなかったはずだ。それらの記録は蝦夷とともに焼けた。または、蘇我氏とともに亡びた。しかし、蘇我

のさ。ところがですね。その重大なこととは、蝦夷という大臣とその子の入鹿が殺されただけのことではないか。

子の入鹿が殺されただけのことではないか。蝦夷と入鹿は自分を天皇になぞらえて、宮城やミササギをつくッていたそうだ

の数々のほかに、十月六日のところには、蝦夷が病気と称して朝堂へ姿を見せないばかりか、息子の入鹿に紫冠

翌三年の出来事になっており、またその年には蝦夷がいよいよ甘梼岡に宮城を構えて自分の住居を上宮門、入鹿の住居を

には、どうやら、天皇的な、それに類する語、蝦夷の私製の特別な語があったのかも知れないが、そういう語が

いう語がはいっていたのではないかね。まだ蝦夷も入鹿も天皇ではなかった。なぜなら、すぐその上に、飛鳥天皇御

ところが、それから二年目が入鹿と蝦夷の殺された年であるが、それを法王帝説は、

二年に山背大兄王及び十五王子を殺すとともに、蝦夷か入鹿のどちらかがハッキリ天皇位につき、民衆もそれを認めていた

とともに天皇記も国記も亡び失せた意味は明瞭だ。蝦夷が焼いたのではなく、恐らく中大兄王と藤原鎌足らが草の根をわけて徹底的

熊野

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神武天皇が熊野に上陸して最初に辿ったコースがこれだ。そのころの日本人の生活は

て飛鳥の地があり、そこから山岳になって吉野へ熊野へと通じるわけだ。東の方へは初瀬から宇陀、伊賀を越えて伊勢

神武天皇が熊野から八咫の烏の先導で吉野にかかったとき、尾のある人間が井戸の

伊賀

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へと通じるわけだ。東の方へは初瀬から宇陀、伊賀を越えて伊勢路へ通じ、西の方へは二上山を経て河内、

大峰山

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千本へ行くにもテクらなければダメなんだから、大峰山や大台ヶ原は今もって鏡花先生の高野聖時代さ。交通文明というものに完璧

奥州

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をいただく細川方と戦ったが、西陣南帝は乱後に奥州へ落ち、標葉郡沢之邑というところに住んだそうだ。その後裔が

飛鳥

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ノ香具山の大和三山にかこまれた平地があって飛鳥の地があり、そこから山岳になって吉野へ熊野へと通じるわけだ。

ないと私は空想するのである。蘇我氏の地たる飛鳥のカンナビ山(イカズチの丘)はミモロ山ともいうね。大国主の三輪山が

久米川

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が、仙人は空をとんでとぶとりの飛鳥の里の久米川上空にいたり、センタクしている女の子のフクラハギを見て墜落したね。

大神神社

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いたミヤコがたぶん今の奈良県三輪らしいね。今はそこに大神神社があって大国主を祀っているが、この神社は拝殿があるだけで本殿は

名古屋

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。しかし彼は天皇ではないさ。南朝の血をひく名古屋の雑貨商、熊沢寛道氏であろう。藤原一族は云うまでもなく、大和の

ては今の天皇が天皇のすべてで、熊沢覚道氏は名古屋の雑貨屋にすぎないのである。

伊東

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肺炎をやった。旅行の疲れのせいではなくて、伊東の町に火事があって猛スピードで見物に行って水を浴びたせいで

元興寺

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渡来年代の誤りというカドによって、この本だの元興寺伽藍縁起併ニ流疏記資財帳などを読まされますよ。なるほど欽明戊午と

石上神宮

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し、右手山際に、景行、崇神両帝の陵をすぎ、石上神宮があって、やがて現代教祖のお筆先賑う丹波市となるのである。

大阪

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へ通じ、西の方へは二上山を経て河内、大阪方面へ通じている。三輪のミヤコをまン中に、交通は四通八達し

河内

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伊勢路へ通じ、西の方へは二上山を経て河内、大阪方面へ通じている。三輪のミヤコをまン中に、交通は四通

国記

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聖徳太子と馬子が協力して、天皇記、国記、各氏族の本記というものを録した由ですね。文字のあるところ、

わが家に殺されたとき、死に先立って、天皇記と国記を焼いたそうだ。もっとも恵尺という男が焼ける国記をとりだして中大兄に奉っ

金峰山

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には蔵王堂があって、この聖地の本堂だ。そして金峰山のテッペンから大台ヶ原全体にかけて、すなわち山伏の根本道場だね。蔵王堂は木造

東大寺

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の根本道場だね。蔵王堂は木造建築としては東大寺の次ぐらいに大きいのだそうだが、実にヌッと突ッ立ってる様

吉野山

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吉野山に立って北方を見ると、天は山々の壁によってさえぎられ、一きわ

川は岩石山水の美で名高い渓流であるが、これは吉野山の外側をぐるッと一周して大峯山脈から豊富な水を下流へ運んで

運んでいるけれども、山を距てた外側のことで、吉野山の内ブトコロには水がない。吉野の町は両側が谷だ。両側の

水というものがない。地質のせいかね。そこで吉野山の頂上ちかく上ノ千本のあたりに、大峯山脈のドテッ腹から清水をひいてき

だから、吉野山に井戸水があるということは例外なのだ。清水というものも、甚しく

枝にです。トウトウと谷が流れて然るべきだが、吉野山なるものは殆ど水がないのである。

法隆寺

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本だね。二条、六条天皇のころ、平安末期の法隆寺の大法師だそうだね。

吉水神社

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かも知れない。その庵室が後年の吉水院、今の吉水神社、後ダイゴ天皇の仮の宿舎です。この庵室は鎌倉時代の建築で、後

奈良

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の辺に沿うて盆地を北上すると天理教の丹波市から奈良へと平野がつづいている。南に向ってはウネビ、耳成、天ノ

東西にのびる道が三輪の町で丁字形に岐れて奈良方向へ北上している。今日も古代のように人がそこを歩いて

仙台

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先月、仙台の旅行から戻ってきてから肺炎をやった。旅行の疲れのせいで

京都

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があった。風流でいらせられる。詩歌管絃に身をかためて京都を脱出あそばしたね。字も名筆だ。この帝、感情豊富ナリ。しかし

。アスカへ、アスカへ。十五年ほど前にもブラリと京都の下宿を着流しで出てウネビへ着き、アスカの地へと志したこと

東京

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から這って現れたというのは当然の話ですよ。東京の親分は省線の駅を縄張りにマーケットをつくるが、吉野の大昔の親分