獄中への手紙 12 一九四五年(昭和二十年) / 宮本百合子

獄中への手紙のword cloud

地名一覧

横浜

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身体ケンサしているらしい風です(ラジオでの話)(横浜など)わたしはどうしても忙しくなり、動きも多くなりましょうから、そういう

、三十二時間かかっているわけです。汽車丈二十六時間ね。横浜辺からもう立つ人が出来はじめ名古屋で通路がふさがり大阪以西は謂わば二等

茨城

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にトラックが来て、春木屋の荷と人とをつんで茨城の田舎へ運びました。ここの家には今おやじと中学二年の弟

た。御主人は二十二日に出張し、O子は昨日茨城の実家へ行き一週間は、わたし一人となりました。〔中略〕

赤坂

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た、そして、この傷だらけの東京に愛着を覚えます。赤坂あたりに桜が咲きはじめていてね、疎開の砂塵の間に、薄紅の

近江八景

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二十八日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(近江八景・粟津の青嵐(1―3)、京都平安神宮(2―3)、近江八景

ロンドン

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ちがったのね、対象も全然ちがうから当然ですけれども。ロンドンに戻れば気の毒な浦島の子であったこの老人はどうしたでしょう。

みる血統よ。父は若い時イギリスに行きたくてベデカーでロンドンをすっかり勉強していたために、父親が洋行帰りという詐欺にかかった

なりをとりかえして来たという武勇伝があります。ベデカーのロンドンとその男の話すロンドンとでは違ったのですって。(一高時代のこと

という武勇伝があります。ベデカーのロンドンとその男の話すロンドンとでは違ったのですって。(一高時代のこと)

妹背山

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。そしてそれは紅色と思っていたのよ。だから妹背山のお三輪は采女の背に赤い糸を縫いとめて、それを辿って鹿の子

護国神社

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バクダンは護国神社附近を中心に落ちた由です(ラジオ)、護国神社ってあの河の堤から入って行く公園のところでしょう? 達ちゃんいかがでしょう、本当

。福やはわたしも知って居ります、あすこから電車で護国神社まで行った覚もあります。目下のところ一番気になるのは達ちゃんのこと

オホーツク海

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。僕はまだ殆ど少年と云ってよかったが一人でつめたいオホーツク海で泳ぎました。」「僕の四十四歳の肉体は肉体としても十分

ベルリン

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交戦国人として抑留されたのではないから。ベルリンなんかにいた日本人の中で動きかたが目立ったということは、単純で

河内

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支那と日本との関係』金永鍵(この人は仏印の河内、仏国東洋学院同本部の図書主任)。『支那家族研究』牧野巽 生活

川崎

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一応しずまって食堂へ来て、その日の午後川崎から来た女の呉れたチューリップが紅と黄に美しく朝鮮の黒い壺にささ

ニューヨーク

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あしかけ五年でした。前大戦の時(十一月)丁度ニューヨークにいて、休戦の実に底ぬけな祝いを目撃しました。十五日正午

下田

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です。日本人記者二名が陪観し、その艦上にペルリが下田へ来たときたてていた星条旗と真珠湾に翻っていた旗とを二

札幌

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かどこか。面倒でないところで。保護観察所が、札幌の同じ役所へ紹介をくれました。先ずそこへ行って相談してからそちら

。わたしとしても参考が必要です。鈴木義男弁護士に札幌の斎藤忠雄という弁護士に紹介を貰いました。この人は土着の人で

人のあるのは心づようございます。わたしは、三つ迄札幌の農大の中で育ったし二十代には永く逗留してあちこち旅行もし

が、北海道、北海道、いくら考えても目に浮ぶのは札幌のアカシヤの並木や美しい植物園の緑の風景、父の建てた道庁や大学の

ました。今でもおそろしく細かい断片がのこって居ります。札幌のバチラー博士[自注18]がアイヌ語字典をつくりました。パール・バックの「戦える

いう水彩画がありました。新しい何かのものをもって札幌に来た二人は尊敬され乍ら、お祈りをしてイギリス生粋の酸っぱいルーバープ

神奈川

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に第一次進駐が開始されます。東京湾から厚木(神奈川)の方へ。厚木というところには、農民作家なる和田伝が居りまし

網走町

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七月七日 〔北海道網走町網走刑務所の顕治宛 福島県郡山市開成山より(開成山大神宮(※)、開成山大神宮

栞というのは、旅行者に便利に出来ていて、網走町というところを見ると、山積された木材をつみこむ貨車の絵の上に

名古屋

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汽車丈二十六時間ね。横浜辺からもう立つ人が出来はじめ名古屋で通路がふさがり大阪以西は謂わば二等も三等もないという有様でし

鎌倉

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島木健作が鎌倉で病気により死去しました、ペンの手紙に「書いて、死んで、

富山県

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楼のほか唯一つ。それは何とかいう人が富山県へ疎開したということです。タバコやもその横の露路も、焼けぼっくい

丸の内

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名倉の薬をはりつけてどうやらこれが書けます。国は丸の内です。

四谷

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一九三三年頃、百合子が弟夫婦と暮していた東京、四谷区信濃町の家。

金沢市

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見つける困難は言葉につくせなくなりました。『春桃』も金沢市の古本屋から上京した本でした、そういう紙が貼ってあったのよ

筑摩

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そのうちには又いくらかの収入の途もつきましょう。筑摩の方からは、予約の1/3しかうけとって居ず、この間会って

いつぞや筑摩から金を前に借りることはしない、つまり原稿をわたすことはしないと

ないと云って居りましたろう? あれはよかったわ、筑摩は、あの頃の気分で本の内容に希望をもっていました。わたし

本郷

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が、これは多分江場土ででも買って貰わなくては。本郷と駒込の郵便局が一つになって駒込中学にやどかりして居ります、切手

ですものねえ。東京に街燈のつくところはどこいらでしょう。本郷では西片町と大学前通り、うちの前の通りすこし丈です。あとは街燈その

北海道

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七月七日 〔北海道網走町網走刑務所の顕治宛 福島県郡山市開成山より(開成山大神宮(※)、開成

辺はもう秋が来ているのかしらと思います。尤も北海道は八月で夏は終りましょうけれど。わたしは、今、一寸した気候の

暮すのか、珍しく又茫漠とした感じです。でも北海道は、いいわ。結局は一番ようございましょう。暮しいいでしょう。スケールの大きい生活

思ってね。さて、それなら自分も行くのだが、北海道、北海道、いくら考えても目に浮ぶのは札幌のアカシヤの並木や美しい植物園

ね。さて、それなら自分も行くのだが、北海道、北海道、いくら考えても目に浮ぶのは札幌のアカシヤの並木や美しい植物園の緑

とか打ち合わせしておきましょう。本そのものは、やけない北海道にたくさんあるわけだけれど、人間を通して出現するわけだからそこがどう行く

その久一のところへ梅干をおみやげにもって行きます。北海道に梅干はないのですって。農家では生活出来ませんが、その辺に

。十九日に行くとき郡山にはり出しが出ていて、北海道は売らないしいつとも分らないと出て居りました。二十四日に東京

新発足をする機会を見出そうと決心したらしいのです。北海道へ行き、私はどちらかというと特殊な条件で制約されなければなら

たのなら。動機が純一ならば。ねえ。寿が、北海道へ行って暮そうと決心したことで、これまでのいらざる頭のよさ

な地図をみます。札幌鉄道局が十四年に出した北海道旅の栞というのは、旅行者に便利に出来ていて、網走町と

やれないからせめて船にのる迄送って行く。そして後から北海道へ行って暮したい、そう計画したのでした。事情が変りましたから

事情が変りましたからわたし一人で結構ですし、寿が北海道へ来ない方が大局としていいでしょう。しかし寿とすれば、事情が

とすれば、事情が変ったから送るのもやめたし北海道もやめた、待たしてすまなかった、というべきです。あんなに縋るように

全焼。(世田ヶ谷にいた人ね)「顕治は東京より北海道の方が無事と申しますので安心致して居ります」「何も彼も

シベリア

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いたのはグルノーブル(スタンダールの生れた町)にいてシベリアを経て帰りました。緑郎について、生活ぶりについて、いつか

日光連山

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なししず心なし。段々夕暮れになって山際の西日が美しく日光連山から福島の嶽の山並が見えて来て、短い満載列車はたった一つの

長者町

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書いているか見当がおつきになりましょう。昨日寿江子と長者町へ参りました。三時十八分の汽車で。雨がさっと降って来

で。雨がさっと降って来たりしましたが、長者町の駅へ着いた時には雨上りで、その気持のよさと云ったら。

ませんでした。汽車も例外に混みようが少い由。長者町の駅へついたらピシャピシャ国民車(人力車の変形)が来て、寿のリュックや

五月十日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 千葉県長者町より(封緘はがき)〕

五月十日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 千葉県長者町より(封書)〕

昨日の朝三時半に起きて、黎明の樹の下道を長者町の駅へ出て、九時前帰宅いたしました。一昨日申告して、

[自注14]五月二十一日――千葉県長者町に暮している妹寿江のところに行ったときの手紙。

周防村

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ところが十六日に周防村の新谷という一等兵が来て、負傷後宮本と三日一つトラックにい

青山

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。この頃久しぶりで地下鉄にのりました、去年の六月、青山へ墓参にゆくとき乗った頃には、まだ地下フォームも明るかったのに、

大館

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ばいいわ。小樽のおばあさんにたのんで、秋田の大館というところから花岡へ行く途中釈迦内村というところに甥子の出征留守

志賀高原

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/3)、碁石山全景(2/3)、雪の志賀高原(3/3)の写真絵はがき)〕

青森

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来ました。一組の夫妻、この人は旦那さんが青森へ行くために。もう一人は先日山西省の学術探検から戻った人。いろいろ

って。寿は信州追分の方へ行くかさもなければ青森の方へ行くかするそうです、わたしと一緒に暮したらいいのに。

いろいろ思いやりながら五日の夜汽車にのって戻りました。青森行は大変ね、北の方ははじめてでいらっしゃるから風景も印象的でしたろう。

のる迄が大変だからそこまで送ってくれて、七八時間青森にいて水煙も立たないようなら其で安心して一旦かえり出直すと、

人に世話も頼んだ方がよいということになり、青森まで船にのる迄が大変だからそこまで送ってくれて、七八時間青森

トン以上の船の航行制限が出て居りますので、青森までの切符は列に立てば手に入りますが、海が一寸不便です

そうするともう十月ね。わたしの心配は、郡山、青森、函館というようなところはいずれ進駐地でしょうから、その時はまた交通

千葉

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千葉へ一寸帰り、今又来て居ります。あのひとも千葉を動く気になって居ります。主として経済上の理由から。あっち

寿江子は一昨々日千葉へ一寸帰り、今又来て居ります。あのひとも千葉を動く気に

一歩とひろげられて大きやかな河口の眺めとなる変化は、千葉にしては大出来です。

千葉で休んで来た力で移動の仕事やってしまって、なるたけ早くここを

ここに来て居りますが「木菟党」はわたしのは千葉で寿に云ってやってお送りさせます。

なければ、しのぎいいことね。海に近い柔らかさは、千葉の江場土でおどろくように甘美でした。そちらの海はもっと雄大で勁いから

只一人でやれない、と云っていたのですが、千葉の今いるところは、この節「雨霰れ」となって来ましたし

のところでは、下の写真をやる方の息子が、千葉から解除になって戻り、もう一人は隆ちゃんと同じように濠北の

仙台

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のものを疎開し、御宿に住居をもって居り父親は仙台の方に鉱山をやってそちらに疎開する決心して居たので、

思います。こちらへ来る日(五日)は十時の仙台行臨時でしたが、八時から列に立ったのよ。まる二昼夜

のなかったのは幸です。てっちゃんのところも家族を仙台にやって、さてあすこがあれ丈蒙ってどうかしらと思ったところ無事、

見てもいいかと思います。てっちゃんなんかに。(仙台からおくさん子供よびもどしたい由)そうするともう十月ね。わたしの心配

福島

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という夏頃手伝っていた娘が、会いたくて思い切って福島から来ました。わたしは大助りよ、いろいろ手伝って貰えるから。きょうも

国の迎えが主眼で。上野では(一時二十五分)福島行きでどうやら座席をとりましたが赤羽からひどいこみかたで久喜でペン

心なし。段々夕暮れになって山際の西日が美しく日光連山から福島の嶽の山並が見えて来て、短い満載列車はたった一つの灯

こちらでは、朝日新聞が東京から来なくなって福島民報一本立てとなり地方独立単位にはじまりました。毎日、読売、朝日

奈良

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は、時にあなたを苦笑させ、時におこらせ、奈良の薬師寺の国宝の四天王の眼のように四角い四角い眼で見られるとき

京都

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町より(近江八景・粟津の青嵐(1―3)、京都平安神宮(2―3)、近江八景・堅田浮見堂(3―3)の

月二十三日 〔網走刑務所の顕治宛 福島県郡山市開成山より(京都三十三間堂の写真絵はがき)〕

秋田

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を置けばいいわ。小樽のおばあさんにたのんで、秋田の大館というところから花岡へ行く途中釈迦内村というところに甥子

小樽

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で困るならあの人たちのいい人を置けばいいわ。小樽のおばあさんにたのんで、秋田の大館というところから花岡へ行く途中

山形

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数日大活動をして、ペンをつれて一応どこか山形辺の温泉に一先ず行き、そこで一ヵ月もいるうちに、きまればそこ

松山

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のも苦しいというのは生れてはじめての経験でした。松山[自注19]にいらした頃、体がひどく痛むことがおありになっ

[自注19]松山――顕治は松山高等学校に学んだ。

[自注19]松山――顕治は松山高等学校に学んだ。

甲府

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死なれました。柳瀬さん[自注23]という画家が甲府へ疎開準備中新宿との往復の間、駅で戦災死されました。

長野

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卯女の父さんは応召して長野の方へ行きました。卯女と母さんとは一本田[自注21]の田舎

でしたろう。食事のこともましなのは何よりです。長野にいた戸坂さん[自注27]という人は営養失調で死去され

広島

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広島の原子バクダンは護国神社附近を中心に落ちた由です(ラジオ)、護国神社って

まだ御返事頂きません。丸山定夫一行十七名の移動劇団が広島の福やデパートに泊っていて、全滅いたしました。福やはわたし

た。当地も日々空襲で汽車不通」十二日に友人が広島へゆき調べてくれましたが、原隊では本人当日軽傷なるも行方不明と

七月十七日召集をうけ広島に入隊。八月二日に休暇が出て、四日に又戻り、

だに達治の死体が分らないというのは不思議です。たとえ広島は焦土と化しても三日も生きていたのなら、どこで死ん

いう人だそうです。原簿がやけてしまったそうです。広島全部焦土の由。その上生きている人々は解除で四散し、全く手

三時三十五分位に広島へ着く筈のところ七時半頃に着。いつものようにのりかえようと思って

広島はひどいわ。己斐は勿論のこと、五日市でしたか、あの辺までやけ

新潟

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早朝買いにゆき、買えたら最も早い機会で立ちます。多分新潟まわりでしょう。

中野区

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焼けて、いきなり行くところがなくてはいけないので、中野区鷺の宮三ノ三六近藤方にきめました。うらの近藤さんの老母が

駒込

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一月二日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

一月十日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

一月十三日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

一月三十一日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

二月三日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

二月二十日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

二月二十六日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

三月七日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(和田三造筆「戸穏神楽舞」の絵はがき)〕

三月十二日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

三月十八日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

三月二十三日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

三月二十九日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

四月六日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

四月十八日 (消印)〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

空襲――四月十三日百合子が一人留守番していた駒込林町の弟の家の周辺が空襲をうけた。竹垣の外の細い

四月二十八日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(近江八景・粟津の青嵐(1―3)、京都平安神宮(

五月二十日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

貰わなくては。本郷と駒込の郵便局が一つになって駒込中学にやどかりして居ります、切手類一切なしよ。こんど中央できいて

これは多分江場土ででも買って貰わなくては。本郷と駒込の郵便局が一つになって駒込中学にやどかりして居ります、切手類

月二十一日 [自注14]〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(野口謙次郎筆「十和田湖之春」の絵はがき)〕

五月二十六日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

六月二十三日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(国立公園小豆島の坂手港棧橋及洞雲山全景(1/3)

巣鴨

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一月二日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

一月十日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

一月十三日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

一月三十一日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

二月三日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

二月二十日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

二月二十六日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

を失っていたときの様子――一九四二年七月、巣鴨拘置所で百合子が熱射病でたおれたときのこと。

三月七日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(和田三造筆「戸穏神楽舞」

三月十二日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

三月十八日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

三月二十三日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

三月二十九日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

四月六日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

[自注10]日の出――巣鴨拘置所附近の日の出町。

四月十八日 (消印)〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

細い道の隣までやけて家は残った。この前後に巣鴨、大塚、池袋にかけて大空襲をうけ、拘置所のぐるり一帯は焼野原と

四月二十八日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(近江八景・粟津の青嵐(1―

五月十日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 千葉県長者町江場土中條内より(封緘はがき)〕

五月十日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 千葉県長者町より(封緘はがき)〕

五月十日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 千葉県長者町より(封書)〕

五月二十日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

五月二十一日 [自注14]〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(野口謙次郎筆「十和田湖之春」の

五月二十六日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

六月十六日夕 〔巣鴨拘置所の顕治宛 福島県郡山市開成山より(封書)〕

六月十七日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 福島県郡山市開成山より(封書)〕

六月十八日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 福島県郡山市開成山より(封書)〕

六月二十三日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(国立公園小豆島の坂手港棧橋及洞雲山

開成山から書いて居ります。六月十六日にここから巣鴨へ書いたのが戻って来てそちらのことがわかりました。急に

七月二日には巣鴨へ行こうと計画して居りました。二十八日かに、開成山から使

にか、ほっとなすったところがあろうかとも思います。巣鴨は焼けてからは実にでしたものねえ。こんどは、わたしもここへ

[自注25]すっかり違う条件――一九四二年、巣鴨拘置所で倒れて以来の回復しきらぬ健康状態。

大久保

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が、日本の建設のためにあれだけの仕事をした大久保利通は講談にならない、木戸も講談にならない、これは何事かを

一寸した事から面白いことを発見いたしました。祖父は大久保利通と共鳴してここの開墾事業に着手したのですが、当時国庫

日比谷

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楽になります。この夏時分はひどうございましたもの。日比谷から帰ると六時、それから台所をして夕飯八時でした。

そして、団子坂下あたりの店のこわされているのと、日比谷あたり麹町あたり、同じ細くやにっこい内部の組立てを露出しているのには、

し、めがねやの金田も、焼けて居ります、尾張町から日比谷へ(新宿行で)向うところ、強制疎開の家屋破壊で大変だし、

目白

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当分フロおじゃんということかもしれません。そしたら目白の家でつかっていた丸形のをお医者様のところから引上げてで

ない有様です。さがしても見ましょうが(神田辺を)目白の先生にたのんで見ましょう、何かあるかもしれません。そしてこちら

。古本やが用をなさなく成って居りますけれども。目白の先生にたのむときこれらを書いて見ましょう。一冊でもあれば

も出来ないわ。お風呂はボイラーの底抜けが直らず、目白からもって来た桶はまだ煙突がないの、おまけにすこし底があやしい

金・土と実現不能で気にして居りましたら、目白の先生が昨夜見舞によってくれました。早速お手紙を引きくらべて顧問

灯つきましたろうか。日暮里駅のところでえらい目を見た目白の先生が後へも先へも行けずこちらへ逃げて来たら、火の手

先生が見舞に見えて、もしここが駄目になったら、目白へ行くということにきめました、何しろ焼け出されの人々を、御勝手に

昨夜目白の先生が見舞に見えて、もしここが駄目になったら、目白へ行く

ふかくお思いになりましょう。近頃心ひかれた作品集です。目白の先生にたのんであった本も、もち主が東京にいなくなってい

でしょうね、ありそうでもあり、無さそうでもあり。目白の先生は旅行中でしたろうと思います。火の見櫓が見えた二階の

の裏のわたしたちの愛すべき小さい家も遂になくなりました。目白のもとの家二つは、どうでしょうね、ありそうでもあり、無さ

ていたら、なかの口に誰か来て、それは目白の先生でした。六時頃来られる筈だったのに、〔中略〕

別の面からはお話したように思うけれど。それは、目白にいた時分(十四年頃でしたろうか)あなたが私の仕事がジャーナリスティック

神田

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手のつけようのない有様です。さがしても見ましょうが(神田辺を)目白の先生にたのんで見ましょう、何かあるかもしれませ

ために、父親が洋行帰りという詐欺にかかったのを神田の宿屋まで追っかけて行って金五十円なりをとりかえして来たという武勇伝

東京

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て貰って焼あとを通りました。相当なものです。東京からみればそれは一部に軽微な被害ですが、界隈に住むものとし

徴用のことがあるから、どうするでしょうね、そうしたら東京にいなくてはならないでしょうが。そうなればブランカ恐慌です、御察し

のそういう偏見の結果は計らざる不幸さえ招きますから、東京にいてさえわけの分らない目に遭うものを、そういうあぶなっかしさに

よ。凄いわ。そして、自分は「田舎のおなか」で東京暮しをいたします。寿が逗留していたにしろ、寿は米を

きのうの吹雪は東京に珍しい光景でした、本当の吹雪で。一尺近い積りかたで庭の

です。目白の先生にたのんであった本も、もち主が東京にいなくなっていたりしてなかなか手に入らぬ由、あのお手紙

ます。弟はずっとここから京華に通うでしょう、おやじは、東京にうちがなくなったから上京すればここに泊ります。「その代りあっちから

。その人が不足していて。だからわたしも案外東京ぐるりでの生活が継続するのではないかと思います。先ず第一

。そちらでの生活が何とかなる見とおしさえつけば。東京との連絡は絶えますし振替とか為替はきかなくなりますし金銭その

に一度ぜひという用事があるという丈になれば、東京暮しにしろ場所は変り得るかもしれませんから。然しわたしの経済事情

の御都合のつくときそういたしましょう。土、日、は、東京がこの間うち、いつもやられたのでわたしがいないのは逃げた

同じ東京でも、目下のところ第一線的地域にいる人間、やけ出された人しか

の身幅ぐらいのところの左手にガラス戸があって、「東京講演会」と書いてあったのにね。講演の速記と、その原稿を

もいくらか具体的になりました、そして、この傷だらけの東京に愛着を覚えます。赤坂あたりに桜が咲きはじめていてね、疎開

。そのつもりで居ります。汽車どころではなくなりましょうから。東京も外へ出て、あの焼原のどこかにぽっちり樹も青くている

(!)がいるので本月一杯はどうしても東京にいなくてはなりません。来月おめにかかるときどちらでしょうね。

ば妹一人とりかえしたようなしんみりしたよろこびがあります。東京に来ているときは、遑しいし第一、ここの家に対する苦しい反撥

は別ですという生活はなりたちませんものね。こんなひどい東京にいて、私がこうしていられるのは、わたしの与える無形な

財務整理(!)のため来月初旬まではどうしても東京にいなくてはなりませんが、それ迄ここ数日大活動をし

移動の仕事やってしまって、なるたけ早くここを動きます。東京にいなくてはならないということと、ここにいるということと

てしまったらこまると思います。移動して出たら、もう東京へは戻れないし。でもまア、万一そういうときには又その時

勿論明日わたしがここを立ってひどく混む汽車にもまれて東京へついて、それからそちらへシャツを届けに行ってそれでもまだ着か

で必死に生きている人々は、いじらしいいとしいと思います。東京のいじらしさには、特定の個人が中心となっているというばかりで

がこぼれかかるような思いでした。東京は可愛いわ。あんな東京で必死に生きている人々は、いじらしいいとしいと思います。東京のいじらしさ

にくい感じでした。涙がこぼれかかるような思いでした。東京は可愛いわ。あんな東京で必死に生きている人々は、いじらしいいとしいと思い

原の真暗ななかにすこしずつ点々と灯かげが見えるような東京。いとしいものはその灯の小さい影の下に生活をしている。切ない

鳴いているの。そこを、わたしは一人で歩きつつ、東京をどんなこころもちで思いやったことでしょう。いとしきものをのこし来にけり。焼原

あれば水のみ所の鏡もあり、駅全体の空気は東京で忘れられたおだやかさです。一時預りもやっていたのよ。それ

のかしら。やけのこりの近所のどこかよ。今の東京を見たら国もすこしは活が入るでしょう。そして、自分の将来という

太郎が(もう五年よ。すっかりこっちの言葉になり、東京の子に見られないふっくりした少年となりました、)お父さまア(

きょうほんとうは、もうここを立つ筈でした。ところが、東京へ国が来るための切符が又候出来ず、座席もない汽車にわたし

こちらでは、朝日新聞が東京から来なくなって福島民報一本立てとなり地方独立単位にはじまりました

の本みんな出て来て別にしておきました。東京からは第四種も駄目となり本を送るのは一層不便となりまし

ていて何一つないのよ。焼くよりは、と東京では売り出しましたから対照が面白いこと。三越なんか売っているのは薬

に果すことが出来ました。いい工合に、その間は東京がすこしひまで壕へ入ることもなかったので、本当に助りまし

いうのはいいこころもちよ。わたしはもう十何年か、東京を体がはなれているときはいつも心ばかりそちらにのこっていて、しん

少いのね、痒いことが少い夏はどんなに快いでしょう。東京から来ると、ここでさえ、こんなに蠅が少いところではなかった筈

にしてね。ここに風呂がないのよ。わたしは東京であれ丈疲れて来たから痛みがおこって来たのでしょう。近所の

体の痛いのと、ガタガタで、東京へゆくのもすこしおくれますが、大奮発をしてそちらまで辿りつきましょう。

ぼんやり安全感があるせいか(うちのものは、よ。東京に比べたら、というところがあって)緊張も準備もぼやんとし

入れてもらうことにし、三四日うちに元気になって東京へはせ戻り、さて網走りまで出発いたします。わたしは臂力が足りないし疲れ

いつとも分らないと出て居りました。二十四日に東京では駄目でしたが、二十五日の朝ついて訊いたら一日三枚

は能率も上らないし、私の健康程度では一人で東京へ往復したりする位なら田舎へ行かないがまし位よ、すこし極言すれば

――一九三三年頃、百合子が弟夫婦と暮していた東京、四谷区信濃町の家。

東京でも、ここでも洗濯に出せませんので。東京には毛布うけ合う洗濯やはないし、ここは、その店の辺が

の中にあなたの毛布をよくひろげて乾します。今年は東京でも、ここでも洗濯に出せませんので。東京には毛布うけ

けれど。そこいらの空気はどんな匂いがいたしますか? 東京から行くと、ここでさえ大気は生きている草木の芳しさでいっぱいです

雑然とした目次ですけれども、丁度東京を去る前にあちこちやけのこりの本やから見つけたものです。

かもしれない場所へも行くだろうと思います。ここや東京やそちらと全く雰囲気の違う(家ではなくてよ、地方として

する人なしきく人なし、山の風雨だけでしたが、東京はいろいろもっとで切符のこともなかなかはかどらないのではないでしょうか。待ち遠し

さは、一つの歴史の感情としてしみ入ります。東京にいたらどんなだったでしょう。焼けのこったあちらこちらの人家のかたまりは、やはり一

日にこちらへ来て一ヵ月と十日ばかり(間で東京へ一週間)経ちました。そちらへ行くのがおくれてへこたれです。ただ

そちらへゆくのが分っているからでしょうが。いいときに東京を去ったと思います。

外が明るいのにこんなにびっくり珍しく眺めるのですものねえ。東京に街燈のつくところはどこいらでしょう。本郷では西片町と大学前通り、うち

岩本家というところの風があなかしこだから)。途中東京へ一寸よって見てもいいかと思います。てっちゃんなんかに。(

多くなりましょうから、そういう場合は不便でしょうと思います。東京なら広うございますけれどもね。

絢子宅全焼。(世田ヶ谷にいた人ね)「顕治は東京より北海道の方が無事と申しますので安心致して居ります」「何

も行方不明というのは。実に解せません。しかし、東京で現に五分前まで一緒の家の壕にいた我娘が遂に行方不明

日てっちゃんのところへ行く予定のところ、八日マッカーサアの東京進駐で、いくらか普段と違うというので用心して九日てっちゃん

ず、止ったところは皆実にひどくやられて居ります。東京も実にひどいが面積がひろく、その中にいるから、汽車で森や

までよりもずっと時間がかかりここまで来たのに、まるで東京からぬけきらないままのような気がします。焼跡つづきだから。急行

の点から丈云っても、資料の関係や何かで東京にいないと困りますが、食物が余り閉口で、仕事出来る丈の食物

七日に一本田の卯女のところへ行き、出来る丈早く東京へ帰ると云うハガキを開成山で貰いました。もうきっと帰って居りましょう

、シユクシヤノヨウイアリ』という電報を東京からうけとった。発信人は東京の予防拘禁所にいた同志の一人と、弁護士の連名であった。

の昼頃、顕治は『デタラスグカエレ、シユクシヤノヨウイアリ』という電報を東京からうけとった。発信人は東京の予防拘禁所にいた同志の一人と

葉書も着いていなかった。顕治が十月十四日に東京の家(百合子が暮していた義弟の家)へ帰ってきてから

島田を立って山陽東海道線の故障のため、五日かかって東京へ着いた。当時の混乱状態で顕治からの電報も葉書も着いてい

日暮里

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三つ四つの轟音をふとんかぶって失敬しました。日暮里の方に向って、うちから半丁ばかりのところに大疎開道が出来た

はものの数でもないけれども、ね。帰って、日暮里の道を下駄をわらないように重いものもってヨタヨタ来たらむこうから笑っ

市ヶ谷

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[自注3]いかめしい建物の庇合わい――市ヶ谷刑務所の建物――父の死んだ時、百合子はこの建物の中にい

田端

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は、池袋が余りの人で危険ですから大塚まで歩き又田端へ下りたら丁度一機来て、あすこの辺からうちの辺鬼門故首

御心配だといけないと思って大苦心をして、田端まで歩いて行きましたところそちらもお休みでした。帰りは、池袋が

大塚

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でした。帰りは、池袋が余りの人で危険ですから大塚まで歩き又田端へ下りたら丁度一機来て、あすこの辺からうちの

の隣までやけて家は残った。この前後に巣鴨、大塚、池袋にかけて大空襲をうけ、拘置所のぐるり一帯は焼野原となった

池袋

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て行きましたところそちらもお休みでした。帰りは、池袋が余りの人で危険ですから大塚まで歩き又田端へ下りたら丁度一機

新宿のこちら側(池袋より)は被害なく用を足しました。そして、又ぐるりと電車で帰っ

までやけて家は残った。この前後に巣鴨、大塚、池袋にかけて大空襲をうけ、拘置所のぐるり一帯は焼野原となった。拘置所

、〔中略〕電話で伺いを立ててから来ようとしたら池袋のぐるりに公衆がなくて歩き歩き千川の避難先のうち迄帰ってしまっ

蔵前

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ねえ」これは瀧川という娘よ。このひとの兄は蔵前で到頭義母(妻の母)と焼死しました。

赤羽

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配給をここでうける)Gの父(鉄道につとめ、家族赤羽で強制疎開となり)合宿暮しではやり切れないから、こちらで配給を

一時二十五分)福島行きでどうやら座席をとりましたが赤羽からひどいこみかたで久喜でペンがおりるときは窓から出ました。窓

新宿

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きのうは、暑くなかったので、昼飯後、日本橋と新宿へ参りました。この頃久しぶりで地下鉄にのりました、去年の六月、

強制疎開の家屋破壊で大変だし、麹町の通りも、新宿も。こわされている家屋を見ると、本当にこわすべきと思います。

やの金田も、焼けて居ります、尾張町から日比谷へ(新宿行で)向うところ、強制疎開の家屋破壊で大変だし、麹町の通り

新宿のこちら側(池袋より)は被害なく用を足しました。そして、又ぐるり

。柳瀬さん[自注23]という画家が甲府へ疎開準備中新宿との往復の間、駅で戦災死されました。実に気の毒です

日本橋

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きのうは、暑くなかったので、昼飯後、日本橋と新宿へ参りました。この頃久しぶりで地下鉄にのりました、去年の六

日本橋まで歩いて行ったら、白木屋も使えるのは一、二階だけらしく上部は

麹町

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団子坂下あたりの店のこわされているのと、日比谷あたり麹町あたり、同じ細くやにっこい内部の組立てを露出しているのには、つよく感じ

で)向うところ、強制疎開の家屋破壊で大変だし、麹町の通りも、新宿も。こわされている家屋を見ると、本当にこわす

銀座

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銀座がやけてはじめて通りました。実に変りました。御木本もなくなったし

?」「そうね」そして又のって、ぐるりと廻って銀座の方へ出たりしてかえりました。ちょいちょいそういうことがありました

五反田

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一人では困る道伴れになって貰うというわけです。(五反田に近い上大崎に知った家がありましたが、やけたらしいことよ。

久喜

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でどうやら座席をとりましたが赤羽からひどいこみかたで久喜でペンがおりるときは窓から出ました。窓からというとこわいけれど

てくれました。そこで急に支度して、ペンに久喜まで送られて来ました。国の迎えが主眼で。上野では(

を三人づれで立ち(国、わたし、瀧川)わたしは久喜の友人のところへまわりました。十五日にそこまで成城から行った荷物

謂わば二等も三等もないという有様でした。久喜で降りるときには窓から降りました。岩国では昇降口から出まし

日。六日に出発して、その日の午後埼玉県の久喜に途中下車。荷物のことや何かいろいろ世話になった友人のところへより

上野

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まで送られて来ました。国の迎えが主眼で。上野では(一時二十五分)福島行きでどうやら座席をとりましたが赤羽

夜八時頃の上野、ひどかったでしょう? あの広いところに一杯の人々とその気分。成程と

新橋

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円しか全財産もっていなかったのに切符と一緒に新橋の駅のスタンドで本を買っていて財布を下へおいてとられ

信濃町

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のお母さんも仰天なさったことがあるらしいのよ、昔、信濃町[自注17]へ十日ほどおとまりになったとき。あの優しい咲枝さん

頃、百合子が弟夫婦と暮していた東京、四谷区信濃町の家。

[自注17]信濃町――一九三三年頃、百合子が弟夫婦と暮していた東京、四谷区

桜田門

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気象台の下から濠端に出て、ひろい凱旋道路のところから桜田門の方へ出ました。そして、そこらの濠端で降りて、団扇など

東京湾

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二十六日に第一次進駐が開始されます。東京湾から厚木(神奈川)の方へ。厚木というところには、農民作家なる

受諾に関する書類の正式調印で、重光、梅津両全権が東京湾のミズーリー号の上でマッカーサーやウェーンライト、パーシブルという人々、その他中国、