鎮西八郎 / 楠山正雄
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代り強い弓の引けないように、ひじの筋を抜いて伊豆の大島に流しました。
鬼ガ島を平らげたついでに、ずんずん船をこぎすすめて、やがて伊豆の島々を残らず自分の領分にしてしまいました。そして鬼ガ島から大男を
た役人がくやしがって、ある時都に上り、為朝が伊豆の七島を勝手に奪った上に、鬼ガ島から鬼をつれて来て、らんぼう
天子さまはたいそうおおどろきになり、伊豆の国司の狩野介茂光というものにたくさんの兵をつけて、二十余艘
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、為朝のことを鎮西八郎と呼ぶようになりました。鎮西というのは西の国ということで、九州の異名でございます。
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国々を方々めぐりあるいて、為朝はとうとう九州に渡りました。その時分九州のうちには、たくさんの大名があって、
方々めぐりあるいて、為朝はとうとう九州に渡りました。その時分九州のうちには、たくさんの大名があって、めいめい国を分け取りにしてい
為朝は九州に下ると、さっそく肥後の国に根城を定め、阿蘇忠国という大名を家来
定め、阿蘇忠国という大名を家来にして、自分勝手に九州の総追捕使という役になって、九州の大名を残らず打ち従えようとし
、自分勝手に九州の総追捕使という役になって、九州の大名を残らず打ち従えようとしました。九州の総追捕使というのは
なって、九州の大名を残らず打ち従えようとしました。九州の総追捕使というのは、九州の総督という意味なのです。する
としました。九州の総追捕使というのは、九州の総督という意味なのです。すると外の大名たちは、これも半分
「はッは。たかが九州の小大名のくせに、ばかなやつらだ。いったいおれを何だと思っ
案内者にして、わずかな味方の兵を連れたなり、九州の城という城を片っぱしからめぐり歩いて、十三の年の春から十五の年
いうくらいでした。それで三年めの末にはとうとう九州残らず打ち従えて、こんどこそほんとうに総追捕使になってしまいました。
でした。そこでそっと都に使いを立てて、為朝が九州に来てさんざん乱暴を働いたこと、天子さまのお許しも受けないで、
たこと、天子さまのお許しも受けないで、自分勝手に九州の総追捕使になったことなどをくわしく手紙に書き、その上に為朝
ならべて、どうか一日も早く為朝をつかまえて、九州の人民の難儀をお救い下さいと申し上げました。
こういうわけで九州から為朝について来た家来は二十八騎だけでしたが、どうして
いるうちにこんなに大勢の人から慕われて、ほんとうに九州の王さま同様だったのです。それでだれいうとなく、為朝のことを
た。鎮西というのは西の国ということで、九州の異名でございます。
「わたくしは久しく九州に居りまして、何十度となくいくさをいたしましたが、こちらから寄せて
「九州よりはずっと小さいが、また為朝の国ができた。」
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まさるものはございません。今夜これからすぐ敵の本営の高松殿におしよせて、三方から火をつけて焼き立てた上、向かってくる敵
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為朝はそれから京都へ引かれて、首をきられるはずでしたが、天子さまは為朝の