安吾の新日本地理 06 長崎チャンポン――九州の巻―― / 坂口安吾
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の記録は次兵衛、または次太夫)という。彼は有馬の学林で育てられた。彼は語学に天才があって、彼の話す完全
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。一方その指導者たる神父は、主としてマカオならびにマニラから日本に潜入する。潜入した神父はヨーロッパ人も多いけれども、日本の
で一応の教義を学んだ後に国外へ脱走して、マニラやマカオで更に勉強し、修道士(当時これをイルマンという)とか、司祭
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「それは佐世保から来るんです。長崎には居りません」
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のが正しいようだ。西暦一六三五年)八月、次兵衛が浦上に隠れていると密告する者があって、長崎奉行は四辺の諸藩とレンラク
人は穴地蔵とか、穴弘法とか云ってます。浦上にも穴弘法というのがありますが、それとは違うのです。穴
浦上の方は所在の戦災工場が殆ど戦争用のものであるために復活せず
の歴史もあって、諸方に隠れ切支丹があるうちで、浦上だけは特に一般に名を知られ、その代表のようなものだ。長崎市民
というような返事で、浦上の切支丹をクロとよぶものだと心得ていたようだった。異教徒から見れ
だと心得ていたようだった。異教徒から見れば、浦上は特別の切支丹地帯で、別人種的にも思えたかも知れん。私が
にも思えたかも知れん。私が十年前に浦上の土をふんだだけで、また、農家の内部をチラと見ただけで
すると浦上の村民が十五人ばかり天主堂の見物のフリをしてやってきて、他
の一人は、明らかにそう考えていたようだし、浦上の人家や山河には、その異人視を百倍も強く感受してオドオドと
見えるのであろう。そのオドオドと孤絶した哀れさは、浦上の人家や山河にまで、同じような暗い陰が至るところに落ちてしみついて
私は今回、長崎へ行き、浦上の原子バクダンのバクハツ中心地から、浦上の天主堂の廃墟へと登りました。天主堂
今回、長崎へ行き、浦上の原子バクダンのバクハツ中心地から、浦上の天主堂の廃墟へと登りました。天主堂の丘は庄屋の屋敷跡だそうです
また、天主堂の廃墟の建札には、浦上の信徒一万余名、死者八千五百名とありましたよ。死者の全数
浦上も長崎のウチなんだ。あるいは長崎以上の胃袋かも知れないのだ。
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の幅もない一本の直線型に焼けただけで、長崎市のほぼ全部は昔ながらに、そっくり健在でした。
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非ずや。切支丹の十字に対して、一方は真言の九字の印をきるという。まア、真言といえば山伏の法術も真言の秘法
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総指揮に当る長崎の両奉行所も全員出動。さらに、佐賀、平戸、島原の三藩も命令によって出動しました。
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私は家へ戻って長崎の地図を探した。島原も天草も五島も、参謀本部の五万分の一、二十万分の一、みんな
当る長崎の両奉行所も全員出動。さらに、佐賀、平戸、島原の三藩も命令によって出動しました。
天主堂を訪ねて行った。それは長崎の図書館長が、島原の乱について教会側の記録をまとめたパンフレットが大浦の天主堂からでてい
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が、実に数万人の捜査網をくぐり、九州から江戸の間を股にかけて七年間というもの日本中を騒がしたのである
までつづきます。パジェスの記事によると、彼は一時は江戸へ逃れ、そのとき将軍の小姓に伝道してその何人かを改宗させた
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筈のタテマエであるから、今の丸山のお蝶さん方は糸川がパンパンならば同じように丸山のパンパンと云うべきであるらしいが、否々々
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私はまた他の一日、大浦の天主堂を訪ねて行った。それは長崎の図書館長が、島原の乱に
島原の乱について教会側の記録をまとめたパンフレットが大浦の天主堂からでていますから、それをもとめなさい、と教えてくれたから
私はどうしてだか、大浦の天主堂のあの日本人の神父さんを今でもアリアリと覚えていますよ。
たね。そのときだけは元気で無邪気でしたのに。大浦の天主堂は原子バクダンの被害をそう蒙らず、今は改装の手入れ中でした
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を得ん。一方その指導者たる神父は、主としてマカオならびにマニラから日本に潜入する。潜入した神父はヨーロッパ人も多いけれども
の教義を学んだ後に国外へ脱走して、マニラやマカオで更に勉強し、修道士(当時これをイルマンという)とか、司祭(つまり
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たあたり若干の平地をのぞいて、道の尾の方も稲佐山の方も、山また山ですね。これを人垣でふさいだ。この人垣は
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であるが、実に数万人の捜査網をくぐり、九州から江戸の間を股にかけて七年間というもの日本中を騒がしたの
この忍術使いは忍びの術には達していたが、九州の農民の方言も分らぬばかりでなく、切支丹の用語も知らず、その祭儀
九州には隠れ切支丹が多かったが、そのうちで最も有名なのは浦上であっ
からずありますな。そして、長崎の女は、他の九州の女のように武士道的に、葉隠れ的に、また切支丹的に身を
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長崎チャンポン――九州の巻――
跡を断ち、表向き信教を奉ずる者もなくなった。もっとも、長崎周辺や天草等に、表面は仏教徒を装うて子々孫々切支丹を奉じた
だが、そのキザシは至るところに見ることができた。長崎港内の造船所のドックにはいりきれずに大きな図体を湾内に露出して
私がこの前に長崎を訪れたのは今からちょうど十年前であった。季節もちょうど今ごろ
のは原子バクダンの跡だけだ。私はそう考えて、長崎の古本屋で若干の本を買ったりしたが、一番平凡な探し物を忘れ
今度の旅行にでかけた。十年前にゆっくり滞在した長崎だ。新しく見聞する必要があるのは原子バクダンの跡だけだ。私は
あの地方を二週間ぐらいブラブラしていたのである。長崎では、毎日図書館に通って、そこにだけしかない郷土史料を筆写し
に歩いていたが、諏訪神社のベンチに腰を下して長崎港を眼下に眺めつつその手製の地図を見ているときに憲兵につかまっ
すら、当時は手に入れることができなかった。私は長崎の人に手製の地図を書いてもらって、それをタヨリに歩いてい
ないのだ。ない筈ですよ。私はようやく思いだした。長崎は要塞地帯だもの、五万分の一が手にはいらぬのは当然だっ
分の一、二十万分の一、みんな揃っているが、長崎だけがないのだ。ない筈ですよ。私はようやく思いだした。長崎は
私は家へ戻って長崎の地図を探した。島原も天草も五島も、参謀本部の五万分の
ために、今に至るまで私の書庫には一枚の長崎地図もないことに気づかなかったのである。
金鍔次兵衛」という怪人物で、私が十年前の長崎旅行の後にまず第一に書いたのは彼の行蹟について
そのときの長崎旅行は島原天草の一揆の史料をあつめ、実地を見て歩くためであっ
、昔からの通称にすぎないのかは分らないが、長崎港外の戸町へ行って「金鍔」ときけば直ちに通じる通り、彼の足跡
れたところには「金鍔谷」という地名が残り、長崎の地図が手もとにないから、正しい町名なのか、昔からの通称に
なども甚だ幼稚であったばかりでなく、後日の彼は長崎を中心とする信徒の最も重要な支配者であり指導者でもあり、逃げ隠れが
采女の別当に雇われることに成功した。竹中采女は長崎奉行であり、切支丹断圧の総元締のようなものだ。次兵衛はまんまと
を伝えた。そしてトマス次兵衛という日本人の神父があって長崎の切支丹を支配しているということは取締りの役人に知れていた
、彼が長崎の信徒の団体を支配した。昼は長崎奉行の別当をつとめ、夜になると、町々を村々を山野を走って
グチエレスの死後は、彼が長崎の信徒の団体を支配した。昼は長崎奉行の別当をつとめ、夜
を山中にかくまっているという情報がはいった。そこで長崎の両奉行から城主に出動の命令があった。
次兵衛が浦上に隠れていると密告する者があって、長崎奉行は四辺の諸藩とレンラクして捜査中、大村領戸根村脇崎の塩焼き(
むろん、総指揮に当る長崎の両奉行所も全員出動。さらに、佐賀、平戸、島原の三藩も命令
尺から三尺ぐらい、二十坪ぐらいはありましょう。中から長崎の海が目の下に、そして対岸は造船所あたりでしょうか。その穴の
こともあり、千人番所というものがあって、いわば長崎周辺で最も整備した探偵陣地であるが、その目と鼻の先の
て無邪気で明るい牧歌的なものを私は考える。この穴ボコから長崎の港そのものは見えないが、それにつづく静かな海が見え、その
彼の刑死した年に、長崎では、アウグスチノ会員のイルマンたちやおびただしい信徒が捕縛されているところを
この谷に今では長崎の教会のカリヨンが海をわたってきこえてくるが、彼はこの風光や
とよぶということだが、しかし十年前に私が長崎の二三の市民にききただしたところでは、
一般に名を知られ、その代表のようなものだ。長崎市民は浦上切支丹を「クロ」とよんで白眼視していたものだ。
私に「クロ」という呼称の存在を教えてくれた長崎市民の一人は、明らかにそう考えていたようだし、浦上の人家
他の一日、大浦の天主堂を訪ねて行った。それは長崎の図書館長が、島原の乱について教会側の記録をまとめたパンフレット
私は今回、長崎へ行き、浦上の原子バクダンのバクハツ中心地から、浦上の天主堂の廃墟へと
長崎の市街は金比羅山のおかげで助かったのですかね。とにかく山の端を外れ
長崎旅行の手引きをしてくれた長崎出身の人が、長崎で一番特徴があるのはこの旅館かも知れませんよ、と云って
なぜかというと、長崎旅行の手引きをしてくれた長崎出身の人が、長崎で一番特徴があるのはこの旅館かも知れませ
ホテルというところに泊りました。なぜかというと、長崎旅行の手引きをしてくれた長崎出身の人が、長崎で一番特徴が
十年前に長崎へ行ったときは、大浦天主堂の真下のイーグルホテルというところに泊りました
ではないマドロス相手らしいね。けれども当時は外国船の長崎入港ということが殆どなくなった時であるから、あるいは営業を休んでいる
映画がよくあるでしょうが。ウーム。なるほど、マドロス宿か。長崎的々はこれであるな、と大感服致したものさ。
旅行に有益な教示や助言を与えてくれた。こういう長崎的々な、否、全然日本ばなれのした外地の安宿そのまま的の存在
長崎の市街は意外にもエキゾチックなところが少くて、一番異国的なのは、
長崎は殆ど火事がなかったところで、したがって、どんな家でも百年以上
「長崎にはパンパンが居ないんです」
た。なるほど、旅行先でこういう自慢をきいたのは長崎がはじめてでしたな。しかし、私は長崎駅へ到着したとき、待合室で
「それは佐世保から来るんです。長崎には居りません」
御自信であった。しかし、このパンパンなる言葉の解釈が長崎的で面白いのですよ。彼女らが断々乎としてその存在を否定し
ところですな。長崎の丸山は、常に永遠に絶対に長崎の丸山であって、他のいかなるものでもないですぞ。パンパンでは
は居りませんぞ。これが長崎のよいところですな。長崎の丸山は、常に永遠に絶対に長崎の丸山であって、他の
於ては断乎としてパンパンは居りませんぞ。これが長崎のよいところですな。長崎の丸山は、常に永遠に絶対に長崎の
否々々。断々乎として何百万遍も否である。長崎に於ては断乎としてパンパンは居りませんぞ。これが長崎のよい
には怪しき新製品の如きものは存在しとらんですぞ。長崎気質というものは実に古風なもので、開港場にふさわしい進歩的なもの
物ではないですわ。よってパンパンではないです。長崎には怪しき新製品の如きものは存在しとらんですぞ。長崎気質という
よりもパンパンに似ているらしく思われるが、そんな思弁は長崎では通用しないね。丸山は現代の物ではないですわ。よっ
は実に長崎的々ですよ。黒船時代に於ける開港場長崎の丸山の女性が、今日の世態風俗に照り合して元公爵夫人に似
が絶対に居ないのである。こういうところは実に長崎的々ですよ。黒船時代に於ける開港場長崎の丸山の女性が、今日
そういうワケで長崎にはパンパンが絶対に居ないのである。こういうところは実に長崎
食堂の場というようなのがあってごらん。彼女が長崎の女である限りは、お蝶さんが肺病と脚気と弁膜症を併発し
や彼女をあまく見ると、ひどい目にあうよ。実に長崎の彼や彼女というものは、実に、実に、また実に、
に可憐であるかというと、否、否、否。長崎の彼や彼女をあまく見ると、ひどい目にあうよ。実に長崎の
そこで長崎の人間は古風で温和で気が弱くて実にお蝶さんのように可憐
腹に詰めておきたいな、というような際に、長崎ならばチャンポン屋というものがあって、そういう時にはこれに限る
長崎の街を散歩して、ちょッと手軽にヒルメシを食いたいな、お八ツ
はこれを牛か豚の食糧と判断して、ハテナ、長崎の食堂の女の子にはオレが牛か豚に見えるとは思われないが
人間のために作られたものに相違ないが、案ずるに長崎チャンポンの法則として一度に一日ぶんのチャンポンを買って三度の
バタフライの楚々たる外形にだまされてはいけませんぞ。長崎の胃袋こそは警戒しなければならん。かのお蝶さんはピンカートンに恋いこがれて
ところがチャンポン屋に回を重ねて通ううちに、長崎の老若男女というものは実に一人のこらず同じような特別の胃袋の
しかし、私はこのたび長崎に至り、チャンポン屋へはいって長崎の彼や彼女の例外なき胃袋に接し、十年前に見たそれら
しかし、私はこのたび長崎に至り、チャンポン屋へはいって長崎の彼や彼女の例外なき胃袋に接し
が一合七勺の遅配欠配に我慢ができても、長崎の胃袋は三合ズツの完全配給に音をあげるのは当り前だ。
浦上も長崎のウチなんだ。あるいは長崎以上の胃袋かも知れないのだ。ワカッタ! オレが一合七勺
浦上も長崎のウチなんだ。あるいは長崎以上の胃袋かも知れないのだ。ワカッタ
浦上に単に旅行しただけでは分らない。実に長崎でチャンポンを食べてみなければ全然理解しがたい謎中の謎であった
合の配給になぜ神を売ったか。それは私が長崎浦上に単に旅行しただけでは分らない。実に長崎でチャンポンを
長崎のチャンポン屋へ行ってみないと、浦上切支丹の棄教の秘密が分らん
しかし超特製品の胃袋が全市民に共通している長崎は、さすがに食べ物が安いね。だいたいに九州全体が安いのだろうか。
長崎も食べ物は実に安いね。そして、さすがに、日本では最も特徴の
なるものは、終戦前まで仰陽亭とか云って、長崎第一級のシッポク料理屋だったそうですよ。うまいわけだ。当時の第一級
な娘がここには相当多かったものらしいね。これも長崎的なのかも知れないな。
、閉鎖的な気風が少からずありますな。そして、長崎の女は、他の九州の女のように武士道的に、葉隠れ的
実際、長崎というところは、開港場であって、それに相応した開放的な気風
しかし、とにかく、長崎には、非常に独特な都市の感情がありますね。それはたしかに
「長崎にはパンパンはいません」
。それを改めて思いだすと、古風で、自由で、可憐な長崎が、かなりよく分るではありませんか。パンパンはいないけれども、
さ。チャンポンのカナダライが一とまわり小さくなる時は、まさに長崎滅亡の時であろう。
ないということは、平和の根本条件なんだね。長崎と浦上の胃袋は、けだし平和の根本条件の化身の如きオモムキがあるの
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むろん、総指揮に当る長崎の両奉行所も全員出動。さらに、佐賀、平戸、島原の三藩も命令によって出動しました。
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てのことであった。元治二年(一八六五年)に大浦天主堂が落成した。これは在留の外国人のためのもので、日本人に伝道
十年前に長崎へ行ったときは、大浦天主堂の真下のイーグルホテルというところに泊りました。なぜかというと、
にもエキゾチックなところが少くて、一番異国的なのは、大浦天主堂の裏手の丘の居留地、緑につつまれた古風な洋館地帯だけでしょうか
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巴里の屋根裏の映画かなんかに、たしかに何回も見た覚えがあります
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私は福岡で汽車を二時間待つ間、水タキを食う気になって、案内所
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よりも、私の泊った旅館の料理が一番うまかった。福島旅館というのです。ここで食ったシッポク料理は料理屋のよりもうまかった
あとできいたら、福島旅館なるものは、終戦前まで仰陽亭とか云って、長崎第一級
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がなくとも、五六ぺん泣きじゃくるうちに古墳の山をくずして東京の男の三食分をペロリと平らげて、まだ前夜から何も食べて
金鍔次兵衛のサイセン箱へ差上げた二十円だったらしいな。東京なら五六千円より安い筈はなさそうだが、実におどろきましたよ。
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出かけると、料理屋じゃなくて、汚い小さな旅館だったね。住吉町の住の江旅館と云った。