花火と大川端 / 長谷川時雨

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地名一覧

本所

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この大火の町、深川にも、本所にも幕府の倉庫があり、商庫もあつたことは、深川の河岸藏

が止められてから柳橋へ移つたのだといふが、本所一つ目お旅の辨天にも岡場所の藝妓たちが居た。かうし

吾妻橋

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が知れるかと思ふ。大川橋といふ名でかかつた吾妻橋上流の兩岸は、あまり知れ亙りすぎてゐるほどの東名所で、いはゆる風流

江戸

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たわけだ。大川が大都會を貫く水路になつて、江戸の文明と密接な關係をもつてくると、有名な淺草海苔も、もうその

のだつた。次の大火事に構へるところに、いかに江戸に大火がつきものだつたかといふことがわかり、しかもその翌年正月、駒込吉祥寺

昔は江戸に飯を賣る店はなかりしを、天和の頃始めて淺草並木町に奈良

江戸の大火は、明暦後も度々あつたのに、どうしたことか兩國橋

とても多くは知るまい。眞淵は田安家の招きによつて江戸へ下つたのだ。三派はいまの中洲のあたりの名で、月

根岸の時雨の松(お行の松)と共に、江戸の小説歌曲にゆかりの深い名木だつた。(書落したが、この淺草倉の

のと、庶士の俸祿を渡すところなので、江戸の米の價はといふより、諸國の米の價が、この太倉の虚しい

江戸の金融は、そのほかに幕府や諸藩の御金御用達があつた。それら

だが、江戸の都市美には田園風景を多分に抱へこんでゐた。いま、江戸憧憬者

大江戸

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、恰も陸地に異ならず絃歌皷吹は耳やかましく、實に大江戸の盛事なり、俗に川開きといふ即是なり(名所圖繪)

新堀川

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鳥越の新堀川に天文臺のあつたといふ古跡も私たちは知らなかつた。

回向院

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紀念堂が祀られ、明暦大火のは、諸宗山無縁寺回向院が建立された。その時の燒死者は舟で運んで、六十間四方

厩橋

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幕府の米倉は、藏前須賀橋から厩橋まで建つづき、大川に添つて、南北三百二十間、東北百三十間面積三萬六千六百

佐賀町

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元祿十年に現在のところへ移つたが、其前は佐賀町が材木河岸で、お船藏は新大橋――兩國橋のつぎにかかつた

佐賀

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元祿十年に現在のところへ移つたが、其前は佐賀町が材木河岸で、お船藏は新大橋――兩國橋のつぎにか

奈良

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店はなかりしを、天和の頃始めて淺草並木町に奈良茶飯の店ありしを、諸人珍らしとてわざわざゆきしよし、近古のさう

下谷

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たつた一つ例にあげただけで、首尾の松は下谷根岸の時雨の松(お行の松)と共に、江戸の小説歌曲

深川

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、または二洲橋――と名附けられ、對岸の深川、本所は(もとの名、永代島、牛島)とうに御府内に抱へこま

も幕府の倉庫があり、商庫もあつたことは、深川の河岸藏には、米十萬七千俵、其他に、豆、麥

この大火の町、深川にも、本所にも幕府の倉庫があり、商庫もあつたことは

橋のかからない前の深川浦――蛤町邊をいふ――は、天正ごろから魚市場があり、

橋がかかつてからの深川は、府内第一の豪華な歌舞酒地とされた。富岡門前の

つれて、追々食店多くなりし中に、明和のころ深川洲崎の料理茶屋は、升屋祝阿彌といふ京都風に傚ひたるべし、此者

幕末、天保のころになると、江戸繁昌記深川のくだりには、

と吟じ、深川に住つてゐたのは元祿のころだつた。三派に新大橋

壓したのであらう。この人々の金の捨てどころが深川の巽巳であり、吉原であり、兩國橋畔なのであつたから、まけ

とりの世界に、きりはなせないのは角力場で、はじめは深川八幡内で興行してゐたが、寛政三年になつてから囘向

吉祥寺

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だつたかといふことがわかり、しかもその翌年正月、駒込吉祥寺に大火があり、年をつづけて千代田城も燒亡してゐる。この年

駒込

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つきものだつたかといふことがわかり、しかもその翌年正月、駒込吉祥寺に大火があり、年をつづけて千代田城も燒亡してゐる。この

向島

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千蔭、平春海もこの縣居へ訪れもしたであらう。向島には文人墨客の居住のあともと思ひもするが、大川端の明治座の

高尾

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と賞してゐるが、傾城高尾が舟中で仙臺樣になぶり斬りにされたつるし斬りの傳説も

人形町

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新大橋の日本橋區側の方をいつてみると、人形町通、および大門通りの舊吉原(元和三年に商賣はじめ)と歌舞伎

日本橋

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新大橋の日本橋區側の方をいつてみると、人形町通、および大門通りの舊吉原

はつてゐたといふことで、此處の芝居も、日本橋葺屋町堺町のと同時に淺草山の宿へ(これも隅田川流岸)

銀座

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御船手番所があり、新川三十間堀には酒醤油の問屋と銀座があり、木挽町にも正保元年から山村座がある。萬治三年には

隅田川

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江東一帶は工業地區となり、隅田川は機械油を流しうかべる現今こそ、金の集散は著しいであらうが、昔の

隅田川本流大川に橋のかかつたのは、萬治三年の兩國橋――

葺屋町堺町のと同時に淺草山の宿へ(これも隅田川流岸)移つたが、それは天保になつてから、例の水野越前

すぎるからだ。兩國橋畔の變りかたは實に汚ならしい。隅田川筋一帶がさうではあるが、他所は近代的美を徐々に造りつつある

新大橋

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が、其前は佐賀町が材木河岸で、お船藏は新大橋――兩國橋のつぎにかかつた――附近、幕府の軍艦安宅丸

つてゐたのは元祿のころだつた。三派に新大橋がかかつたとき

新大橋の日本橋區側の方をいつてみると、人形町通、および大門通りの

京橋

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流れにそつて京橋區内にはいると、靈岸島湊町に御船手番所があり、新川三十間堀に