門 / 夏目漱石
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一番古い門閥家なのだそうである。瓦解の際、駿府へ引き上げなかったんだとか、あるいは引き上げてまた出て来たんだと
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のごとく吸い込んだ。二人は毎晩のように三条とか四条とかいう賑やかな町を歩いた。時によると京極も通り抜けた。橋
。しかし誰も知るものはなかった。ただ一人が、昨夕四条の人込の中で、安井によく似た浴衣がけの男を見たと答え
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を呼び起した。昔し京都にいた時分彼の級友に相国寺へ行って坐禅をするものがあった。当時彼はその迂濶を笑ってい
する以上のある動機から、貴重な時間を惜しまずに、相国寺へ行ったのではなかろうかと考え出して、自分の軽薄を深く恥じた。
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「どうしてまた満洲などへ行ったんでしょう」と聞いた。
駄目なら、僕は学校をやめて、いっそ今のうち、満洲か朝鮮へでも行こうかと思ってるんです」
「満洲か朝鮮? ひどくまた思い切ったもんだね。だって、御前先刻満洲は物騒
聞かずに、大いに発展して見たいとかとなえてついに満洲へ渡ったのだと云う。そこで何を始めるかと思うと、遼河を
それを聞くたびに重い胸を痛めた。最後に安井が満洲に行ったと云う音信が来た。宗助は腹の中で、病気はもう
。安井は身体から云っても、性質から云っても、満洲や台湾に向く男ではなかったからである。宗助はできるだけ手を回して
坂井から聞いた話を何度となく反覆した。彼は満洲にいる安井の消息を、家主たる坂井の口を通して知ろうとは、今
ほどの坂井の弟と、それと利害を共にすべく満洲からいっしょに出て来た安井が、いかなる程度の人物になったかを、
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へ下ろう、もし時間が許すなら、興津あたりで泊って、清見寺や三保の松原や、久能山でも見ながら緩くり遊んで行こうと云った
たとき彼は一人でプラットフォームへ降りて、細長い一筋町を清見寺の方へ歩いた。夏もすでに過ぎた九月の初なので、おおかた
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たので、話はそれぎり頓挫して、小六はとうとう本郷へ帰って行った。
た小六は、また雨の音を頭の上に受けて本郷へ帰って行った。しかし中一日置いて、兄さんはまだ行かないんですか
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のだと云う。そこで何を始めるかと思うと、遼河を利用して、豆粕大豆を船で下す、大仕掛な運送業を経営して
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もし詳しい話が聞きたければ、幸い自分の知り合によく鎌倉へ行く男があるから紹介してやろうと云った。宗助は車の中で
」と宗助は落ちついて答えた。地味な宗助とハイカラな鎌倉とはほとんど縁の遠いものであった。突然二つのものを結びつけるのは
その晩はまた御米と小六から代る代る鎌倉の事を根掘り葉掘り問われた。
「やっぱり鎌倉辺が好かろうと思っている」と宗助は落ちついて答えた。
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の印象を酒のごとく吸い込んだ。二人は毎晩のように三条とか四条とかいう賑やかな町を歩いた。時によると京極も通り抜け
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、まだ帰らないんでしょうかね。あなた今度の日曜ぐらいに番町まで行って御覧なさらなくって」と注意した事があるが、宗助は、
ちょうど土曜が来たので、宗助は役所の帰りに、番町の叔母の所へ寄って見た。叔母は、
へ行くのが後れるので、この要件を手紙に認めて番町へ相談したのである。すると、叔母から安之助は神戸へ行って留守
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四条とかいう賑やかな町を歩いた。時によると京極も通り抜けた。橋の真中に立って鴨川の水を眺めた。東山の上
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た。この安井というのは国は越前だが、長く横浜にいたので、言葉や様子は毫も東京ものと異なる点がなかった。
分った。安井はひとまず郷里の福井へ帰って、それから横浜へ行くつもりだから、もしその時には手紙を出して通知をしよう、そう
て見た。けれども返事はついに来なかった。宗助は横浜の方へ問い合わせて見ようと思ったが、つい番地も町名も聞いて置かなかっ
と異なる点はなかった。ただ彼はなぜ宗助より先へ横浜を立ったかを語らなかった。また途中どこで暇取ったため、宗助より後れ
「いや横浜に長く」と答えた。
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から向うへ突切って、上総の海岸を九十九里伝いに、銚子まで来たが、そこから思い出したように東京へ帰った。宗助の所へ
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、興津あたりで泊って、清見寺や三保の松原や、久能山でも見ながら緩くり遊んで行こうと云った。宗助は大いによかろうと答えて
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自分の今日まで知らずに過ぎた名をたくさん覚えた。京都の襟新と云う家の出店の前で、窓硝子へ帽子の鍔を
。その上宗助はある事情のために、一年の時京都へ転学したから、朝夕いっしょに生活していたのは、小六の
なった。東京の家へも帰えれない事になった。京都からすぐ広島へ行って、そこに半年ばかり暮らしているうちに父が死ん
て、なかなかの苦闘であった。彼は書生として京都にいる時分、種々の口実の下に、父から臨時随意に多額の学資
秋も半ば過ぎて、紅葉の赤黒く縮れる頃であった。京都にいた時分は別として、広島でも福岡でも、あまり健康
始めて身重になったのは、二人が京都を去って、広島に瘠世帯を張っている時であった。懐妊と
東山の上に出る静かな月を見た。そうして京都の月は東京の月よりも丸くて大きいように感じた。町や人
懇意になった。それが学年の始りだったので、京都へ来て日のまだ浅い宗助にはだいぶんの便宜であった。彼は
だと云う一口話をやはり友達から聞いた通り繰り返した。狭い京都に飽きた宗助は、単調な生活を破る色彩として、そう云う出来事
出して通知をしよう、そうしてなるべくならいっしょの汽車で京都へ下ろう、もし時間が許すなら、興津あたりで泊って、清見寺や三保
切りに下がった。宗助はまた行李を麻縄で絡げて、京都へ向う支度をしなければならなくなった。
普通の旅費以外に、途中で二三日滞在した上、京都へ着いてからの当分の小遣を渡して、
事になったからと云う断を述べた末に、いずれ京都で緩くり会おうと書いてあった。宗助はそれを洋服の内懐に押し込ん
翌日も約束通り一人で三保と竜華寺を見物して、京都へ行ってから安井に話す材料をできるだけ拵えた。しかし天気のせいか、
一人であったと云う話を聞いた。非常に能弁な京都言葉を操る四十ばかりの細君がいて、安井の世話をしていた
京都へ着いた一日目は、夜汽車の疲れやら、荷物の整理やらで、
なかった。ところがその話を聞いた翌日、すなわち宗助が京都へ着いてから約一週間の後、話の通りの服装をした安井
たかを判然告げなかった。しかし彼は三四日前ようやく京都へ着いた事だけを明かにした。そうして、夏休み前にい
なかった。また途中どこで暇取ったため、宗助より後れて京都へ着いたかを判然告げなかった。しかし彼は三四日前ようやく京都へ
学校近くの閑静な所に一戸を構えた。それは京都に共通な暗い陰気な作りの上に、柱や格子を黒赤く塗って
うちまた秋が来た。去年と同じ事情の下に、京都の秋を繰り返す興味に乏しかった宗助は、安井と御米に誘われて
二人を顧みた。それをいっしょに眺めた宗助にも、京都は全く好い所のように思われた。
「京都は好い所ね」と云って二人を顧みた。それをいっしょに眺めた
、橋を渡る人の影が細く動いた。その年の京都の冬は、音を立てずに肌を透す陰忍な質のもので
だろうと云った。三人はまた行李と鞄を携えて京都へ帰った。冬は何事もなく北風を寒い国へ吹きやった。山
関聯して宗助は坐禅という記憶を呼び起した。昔し京都にいた時分彼の級友に相国寺へ行って坐禅をするものがあっ
児であるかのごとき心持を起した。彼の慢心は京都以来すでに銷磨し尽していた。彼は平凡を分として、今日
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「へえ、安さんは神戸へ行ったんだってね」と手紙を読みながら云った。
「まあ仕方がない。安さんが神戸から帰るまで待つよりほかに道はあるまい」
へ相談したのである。すると、叔母から安之助は神戸へ行って留守だと云う返事が来たのである。
「神戸へ参ったのも、全くその方の用向なので。石油発動機と
この静かな夫婦は、安之助の神戸から土産に買って来たと云う養老昆布の缶をがらがら振って、中
汽車は血色の好い宗助の前をそろそろ過ぎて、たちまち神戸の方に向って煙を吐いた。
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東京の家へも帰えれない事になった。京都からすぐ広島へ行って、そこに半年ばかり暮らしているうちに父が死んだ。母
してくれるだろうぐらいの不慥な希望を残して、また広島へ帰って行った。
病気が本復してから間もなく、宗助はまた広島を去って福岡の方へ移らなければならない身となった。移る前
の葬式の時に出京して、万事を片づけた後、広島へ帰るとき、小六に、御前の学資は叔父さんに預けてあるからと
宗助が広島へ帰ると間もなく、叔父はその売捌方を真田とかいう懇意の
を使いながら、口の中を鏡に照らして見たら、広島で銀を埋めた二枚の奥歯と、研いだように磨り減らした不揃の
売り払うつもりでわざわざここまで足を運んだのであるが、広島以来こう云う事にだいぶ経験を積んだ御蔭で、普通の細君のような
夜になると夫婦とも炬燵にばかり親しんだ。そうして広島や福岡の暖かい冬を羨やんだ。
であった。京都にいた時分は別として、広島でも福岡でも、あまり健康な月日を送った経験のない御米は
て身重になったのは、二人が京都を去って、広島に瘠世帯を張っている時であった。懐妊と事がきまったとき
た影のような死児の上に投げかけた。御米は広島と福岡と東京に残る一つずつの記憶の底に、動かしがたい運命の
この過去を負わされた二人は、広島へ行っても苦しんだ。福岡へ行っても苦しんだ。東京へ出て
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して出た金は、ほとんど使い果たしていた。彼の福岡生活は前後二年を通じて、なかなかの苦闘であった。彼は書生
本復してから間もなく、宗助はまた広島を去って福岡の方へ移らなければならない身となった。移る前に、好い機会
で、宗助もやむを得ず我を折った。宗助が福岡から東京へ移れるようになったのは、全くこの杉原の御蔭である。
なると夫婦とも炬燵にばかり親しんだ。そうして広島や福岡の暖かい冬を羨やんだ。
。京都にいた時分は別として、広島でも福岡でも、あまり健康な月日を送った経験のない御米は、この点
福岡へ移ってから間もなく、御米はまた酸いものを嗜む人となっ
を箪笥の抽出の底へしまってしまった。そこには福岡で亡くなった小供の位牌と、東京で死んだ父の位牌が別々に綿
のような死児の上に投げかけた。御米は広島と福岡と東京に残る一つずつの記憶の底に、動かしがたい運命の厳かな
を負わされた二人は、広島へ行っても苦しんだ。福岡へ行っても苦しんだ。東京へ出て来ても、依然として
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或省に奉職していたのだが、公務上福岡と佐賀へ出張することになって、東京からわざわざやって来たのである。
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は再会を約して手を分った。安井はひとまず郷里の福井へ帰って、それから横浜へ行くつもりだから、もしその時には手紙
端書さえ寄こさなかったのである。宗助は安井の郷里の福井へ向けて手紙を出して見た。けれども返事はついに来なかった。
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細君が注意した。細君の言葉は東京のような、東京でないような、現代の女学生に共通な一種の調子を持っている
引いてよ」と細君が注意した。細君の言葉は東京のような、東京でないような、現代の女学生に共通な一種の
て来る。必竟自分は東京の中に住みながら、ついまだ東京というものを見た事がないんだという結論に到着すると、
が急にそわそわした上調子に見えて来る。必竟自分は東京の中に住みながら、ついまだ東京というものを見た事がないん
家へ帰って寝ようと云う気になった。彼は年来東京の空気を吸って生きている男であるのみならず、毎日役所の行通
、ぶらぶら歩いているうちに、どこか遠くへ行って、東京と云う所はこんな所だと云う印象をはっきり頭の中へ刻みつけて、
時宗助は大学を去らなければならない事になった。東京の家へも帰えれない事になった。京都からすぐ広島へ行って、
失敗する、云わば山気の多い男であった。宗助が東京にいる時分も、よく宗助の父を説きつけては、旨い事を云って
いずれ御面会の節云々とあったので、すぐにも東京へ行きたいような気がして、実はこうこうだがと、相談半分
列車の走る方に自己の運命を托した。その頃は東京の家を畳むとき、懐にして出た金は、ほとんど使い果たしてい
ない身となった。移る前に、好い機会だからちょっと東京まで出たいものだと考えているうちに、今度もいろいろの事情に制せ
「御米、久しく放っておいたが、また東京へ掛合ってみようかな」と云い出した。御米は無論逆いはし
、小六さえどうかしてくれれば。あとの事はいずれ東京へ出たら、逢った上で話をつけらあ。ねえ御米、そうする
形式的のものが多かった。宗助は父の死んだ時、東京で逢った小六を覚えているだけだから、いまだに小六を他愛ない小供
だが、公務上福岡と佐賀へ出張することになって、東京からわざわざやって来たのである。宗助は所の新聞で、杉原の
宗助もやむを得ず我を折った。宗助が福岡から東京へ移れるようになったのは、全くこの杉原の御蔭である。杉原から
「御米、とうとう東京へ行けるよ」と云った。
東京に着いてから二三週間は、眼の回るように日が経った。新らしく
伝いに、銚子まで来たが、そこから思い出したように東京へ帰った。宗助の所へ見えたのは、帰ってから、まだ二三
宗助は屏風の前に畏まって、自分が東京にいた昔の事を考えながら、
「つまりおれがあの時東京へ出られなかったからの事さ」
「そうして東京へ出られた時は、もうそんな事はどうでもよかったんですもの
の事を悪んでいらっしゃるでしょうか」と聞き出した。宗助が東京へ来た当座は、時々これに類似の質問を御米から受けて、
、やって行けないわ。御肴の切身なんか、私が東京へ来てからでも、もう倍になってるんですもの」と云った
送った経験のない御米は、この点に掛けると、東京へ帰ってからも、やはり仕合せとは云えなかった。この女には生れ
して本省にいないのを遺憾とした。彼は東京へ移ってから不思議とまだ病気をした事がなかった。したがってまだ
方へ編入されるのだろうと疑った。彼は自分を東京へ呼んでくれた杉原が、今もなお課長として本省にいない
紐みたような長い丸打をかけた様子は、滅多に東京などへ出る機会のない遠い山の国のものとしか受け取れなかった。その
「これは甲斐の国から反物を背負ってわざわざ東京まで出て来る男なんです」と坂井の主人が紹介すると、男
は、飯を食わす所が茶屋だと答えた。それから東京へ出立には飯が非常に旨いので、腹を据えて食い出すと
ずに過したりする今の世に、年に二度も東京へ出ながら、こう山男の特色をどこまでも維持して行くのは、
すると三度目の記憶が来た。宗助が東京に移って始ての年に、御米はまた懐妊したのである
位牌が別々に綿で包んで丁寧に入れてあった。東京の家を畳むとき宗助は先祖の位牌を一つ残らず携えて、諸所
しまった。そこには福岡で亡くなった小供の位牌と、東京で死んだ父の位牌が別々に綿で包んで丁寧に入れてあった
な死児の上に投げかけた。御米は広島と福岡と東京に残る一つずつの記憶の底に、動かしがたい運命の厳かな支配を
宗助は相当に資産のある東京ものの子弟として、彼らに共通な派出な嗜好を、学生時代に
出る静かな月を見た。そうして京都の月は東京の月よりも丸くて大きいように感じた。町や人に厭きたとき
が、長く横浜にいたので、言葉や様子は毫も東京ものと異なる点がなかった。着物道楽で、髪の毛を長くして真中から
となく続く景色を、高い所から眺めて、これでこそ東京だと思う事さえあった。今の宗助なら目を眩しかねない事々物々
宗助が東京へ帰ったときは、父は固よりまだ丈夫であった。小六は子供で
らのあるものは、避暑という名義の下に、すでに東京を離れていた。あるものは不在であった。またあるものは多忙
そうに風に吹かれる様を宗助は見た。庭も東京と違って、少しは整っていた。石の自由になる所だけに
安井は郷里の事、東京の事、学校の講義の事、何くれとなく話した。けれども、御
底では兄に敬意を払っていなかった。二人が東京へ出たてには、単純な小供の頭から、正直に御米を悪んで
へ行っても苦しんだ。福岡へ行っても苦しんだ。東京へ出て来ても、依然として重い荷に抑えつけられていた
、――そりゃあ金の事も云って来ますが、なに東京と蒙古だから打遣っておけばそれまでです。だから離れてさえいれ
王だって、いくら広い土地を抵当にするったって、蒙古と東京じゃ催促さえできやしませんもの。で、私が断ると、蔭へ
よく法螺を吹いて私を欺したもんです。それに今度東京へ出て来た用事と云うのがよっぽど妙です。何とか云う蒙古
た。まずここの閑静な事、海に近いせいか、東京よりはよほど暖かい事、空気の清朗な事、紹介された坊さんの
紹介状を貰うときに東京で聞いたところによると、この宜道という坊さんは、大変性質の
が上分別だろう。こんな所にぐずぐずしているより、早く東京へ帰ってその方の所置をつけた方がまだ実際的かも知れない
宜道はこんな話をして、暗に宗助が東京へ帰ってからも、全くこの方を断念しないようにあらかじめ間接の注意
「東京はまだ寒いでしょう」と老師が云った。「少しでも手がかりができて
て安井の消息をそれとなく聞き糺して、もし彼がまだ東京にいて、なおしばしば坂井と往復があるようなら、遠くの方へ引越し
た。ありゃ全く蒙古向ですね。御前のような夷狄は東京にゃ調和しないから早く帰れったら、私もそう思うって帰って行きました
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と云いながら座敷へ上った。先刻郵便を出してから、神田を散歩して、電車を降りて家へ帰るまで、宗助の頭には
べき財産は、不幸にして、叔父の手腕で、すぐ神田の賑やかな表通りの家屋に変形した。そうして、まだ保険をつけ
宗助は例刻に帰って来た。神田の通りで、門並旗を立てて、もう暮の売出しを始めた事だ
そのうち電車が神田へ来た。宗助はいつもの通りそこで乗り換えて家の方へ向いて
は気がすまなかった。けれども今夜に限って彼は神田で電車を降りた事も、牛肉屋へ上った事も、無理に酒
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で同僚が、この間英吉利から来遊したキチナー元帥に、新橋の傍で逢ったと云う話を思い出して、ああ云う人間になると、
夜汽車で新橋へ着いた時は、久しぶりに叔父夫婦の顔を見たが、夫婦とも
御米はどう云うものか、新橋へ着いた時、老人夫婦に紹介されたぎり、かつて叔父の家の
はその翌日すぐ貰って置いた紹介状を懐にして、新橋から汽車に乗ったのである。
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矢先へ、同じ科の出身で、小規模ながら専有の工場を月島辺に建てて、独立の経営をやっている先輩に出逢ったのが縁
この間月島の工場へひょっくり小六がやって来て云うには、自分の学資につい
心配でございます。――それでもこの九月から、月島の工場の方へ出る事になりまして、まあさいわいとこの分で勉強
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もその後とんと宗助の宅へは見えなかった。宗助は固より麹町へ行く余暇を有たなかった。またそれだけの興味もなかった。親類
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「銀座から日本橋通のだって」
いた。小六は幸にして間もなく帰った。日本橋から銀座へ出てそれから、水天宮の方へ廻ったところが、電車
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。小六は幸にして間もなく帰った。日本橋から銀座へ出てそれから、水天宮の方へ廻ったところが、電車が込ん