こころ / 夏目漱石

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地名一覧

小石川

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私は小石川へ引き移ってからも、当分この緊張した気分に寛ぎを与える事ができませ

、暑いのに軍鶏を食いました。Kはその勢いで小石川まで歩いて帰ろうというのです。体力からいえばKよりも私の方が

二人はそれぎり話を切り上げて、小石川の宿の方に足を向けました。割合に風のない暖かな日でし

本郷台を急ぎ足でどしどし通り抜けて、また向うの岡へ上るべく小石川の谷へ下りたのです。私はその頃になって、ようやく外套の下

本郷

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たのです。そこは宅中で一番好い室でした。本郷辺に高等下宿といった風の家がぽつぽつ建てられた時分の事ですから

散歩がてらに本郷台を西へ下りて小石川の坂を真直に伝通院の方へ

一番好いい室へやでした。本郷辺に高等下宿といった風の家が

我々は夕暮の本郷台を急ぎ足でどしどし通り抜けて、

明神の坂を上がって、本郷台へ来て、それからまた菊坂を下りて、

横浜

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二人差向いで話をする機会に出合った。先生はその日横浜を出帆する汽船に乗って外国へ行くべき友人を新橋へ送りに行って留守

行くべき友人を新橋へ送りに行って留守であった。横浜から船に乗る人が、朝八時半の汽車で新橋を立つのはその頃

た着物を肌に着けませんでした。私の友達に横浜の商人か何かで、宅はなかなか派出に暮しているものがありました

箱根

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記憶によると、二、三度以上あった。私は箱根から貰った絵端書をまだ持っている。日光へ行った時は紅葉の葉

銚子

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我々はこの調子でとうとう銚子まで行ったのですが、道中たった一つの例外があったのを今

鎌倉

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私が先生と知り合いになったのは鎌倉である。その時私はまだ若々しい書生であった。暑中休暇を利用して海水浴

の工面に二、三日を費やした。ところが私が鎌倉に着いて三日と経たないうちに、私を呼び寄せた友達は、急に

学校の授業が始まるにはまだ大分日数があるので鎌倉におってもよし、帰ってもよいという境遇にいた私は、当分

宿は鎌倉でも辺鄙な方角にあった。玉突きだのアイスクリームだのというハイカラなもの

聞いてみた。先生は彼の風変りのところや、もう鎌倉にいない事や、色々の話をした末、日本人にさえあまり交際を

思った。しかし帰って二日三日と経つうちに、鎌倉にいた時の気分が段々薄くなって来た。そうしてその上に

日和であった。その日も先生は留守であった。鎌倉にいた時、私は先生自身の口から、いつでも大抵宅にいる

風にして生きて来たのです。始めてあなたに鎌倉で会った時も、あなたといっしょに郊外を散歩した時も、私の

江戸

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かどこかの出であるのに、お母さんの方はまだ江戸といった時分の市ヶ谷で生れた女なので、奥さんは冗談半分そういっ

根津

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の胴着をぐるぐると丸めて、散歩に出たついでに、根津の大きな泥溝の中へ棄ててしまいました。その時いっしょに歩いていた

九州

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私の兄はある職を帯びて遠い九州にいた。これは万一の事がある場合でなければ、容易に父母の

すでに亡くなるべきものと覚悟していたに違いなかった。九州にいる兄へやった手紙のなかにも、私は父の到底故のよう

で一週間以上つづいた。私はその間に長い手紙を九州にいる兄宛で出した。妹へは母から出させた。私は腹

両国

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忙しそうに見える東京をぐるぐる眺めました。それから両国へ来て、暑いのに軍鶏を食いました。Kはその勢いで小石川まで歩いて帰ろ

雑司ヶ谷の墓地

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の出先を教えられた。先生は例月その日になると雑司ヶ谷の墓地にある或る仏へ花を手向けに行く習慣なのだそうである。「

が始めてその曇りを先生の眉間に認めたのは、雑司ヶ谷の墓地で、不意に先生を呼び掛けた時であった。私はその異様の瞬間

「君は私がなぜ毎月雑司ヶ谷の墓地に埋っている友人の墓へ参るのか知っていますか」

先生は例月その日になると雑司ヶ谷の墓地にある或ある仏へ花を手向に行く習慣なのだそうである。

「君は私がなぜ毎月雑司ヶ谷の墓地に埋うまっている友人の墓へ参るのか知っていますか」

上野の公園

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行く所もなかったので、竜岡町から池の端へ出て、上野の公園の中へ入りました。その時彼は例の事件について、突然

鳥取

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合の子なんですよ」といった。奥さんの父親はたしか鳥取かどこかの出であるのに、お母さんの方はまだ江戸といった

鹿児島

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若い柔らかい葉を※ぎ取って芝笛を鳴らした。ある鹿児島人を友達にもって、その人の真似をしつつ自然に習い覚えた私

東京

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た。それで夏休みに当然帰るべきところを、わざと避けて東京の近くで遊んでいたのである。彼は電報を私に見せて

私は月の末に東京へ帰った。先生の避暑地を引き上げたのはそれよりずっと前であった

私は無論先生を訪ねるつもりで東京へ帰って来た。帰ってから授業の始まるまでにはまだ二週間の

知っていた。先生の元の同級生などで、その頃東京にいるものはほとんど二人か三人しかないという事も知っていた

先生の何もしないで遊んでいるという事は、東京へ帰って少し経ってから始めて分った。私はその時どうして

奥さんは東京の人であった。それはかつて先生からも奥さん自身からも聞いて知っ

私はその晩の汽車で東京を立った。

「こんど東京へ行くときには椎茸でも持って行ってお上げ」

私は東京の事を考えた。そうして漲る心臓の血潮の奥に、活動活動

の眼に留まった。私はつい面白くなくなった。早く東京へ帰りたくなった。

たびに、父にも母にも解らない変なところを東京から持って帰った。昔でいうと、儒者の家へ切支丹の臭いを

東京へ帰ってみると、松飾はいつか取り払われていた。町は寒い

出て来る必要もなかった。しかし暑い盛りの八月を東京まで来て送ろうとも考えていなかった。私には位置を求めるため

先生夫婦に述べた通り、それから三日目の汽車で東京を立って国へ帰った。この冬以来父の病気について先生から

だろうか。そう考える私はまたここの土を離れて、東京で気楽に暮らして行けるだろうか。私は母を眼の前に置いて

「東京と違って田舎は蒼蠅いからね」

。なぜか私は気が落ち付かなかった。あの目眩るしい東京の下宿の二階で、遠く走る電車の音を耳にしながら、頁

にした。私はそれを封じる時、先生ははたしてまだ東京にいるだろうかと疑った。先生が奥さんといっしょに宅を空ける場合に

端書または長い手紙を書いた。その友達のあるものは東京に残っていた。あるものは遠い故郷に帰っていた。返事の

の置いてある所へ来て、新聞を読みながら、遠い東京の有様を想像した。私の想像は日本一の大きな都が、どんなに

遠国にいた。教育を受けた因果で、私はまた東京に住む覚悟を固くした。こういう子を育てた父の愚痴はもとより

はその矛盾をおかしく思ったと同時に、そのお蔭でまた東京へ出られるのを喜んだ。

取り残すのもまた甚だしい不安であった。それだのに、東京で好い地位を求めろといって、私を強いたがる父の頭には矛盾

んよ。どうせ、九月にでもなって、私が東京へ出てからでなくっちゃ」

私は時々父の病気を忘れた。いっそ早く東京へ出てしまおうかと思ったりした。その父自身もおのれの病気を

九月始めになって、私はいよいよまた東京へ出ようとした。私は父に向かって当分今まで通り学資を送って

私は父の希望する地位を得るために東京へ行くような事をいった。

「お前が東京へ行くと宅はまた淋しくなる。何しろ己とお母さんだけなんだからね

であった。私は母に日を見てもらって、東京へ立つ日取りを極めた。

私は不安のために、出立の日が来てもついに東京へ立つ気が起らなかった。

「お前は今日東京へ行くはずじゃなかったか」と父が聞いた。

「今に癒ったらもう一返東京へ遊びに行ってみよう。人間はいつ死ぬか分らないからな。何で

だら」という言葉に一種の記憶をもっていた。東京を立つ時、先生が奥さんに向かって何遍もそれを繰り返したのは

町並も変るし、その上に市区改正もあるし、東京が凝としている時は、まあ二六時中一分もないといって

そんな弱い事をおっしゃっちゃいけませんよ。今に癒ったら東京へ遊びにいらっしゃるはずじゃありませんか。お母さんといっしょに。今度いらっしゃると

任せて、その中から色々なものを取り出した。私は東京を立つ時、心のうちで極めた、この夏中の日課を顧みた

じゃとても埒は明きませんよ。どうしても自分で東京へ出て、じかに頼んで廻らなくっちゃ」

「だってお父さんがあの様子じゃ、お前、いつ東京へ出られるか分らないじゃないか」

いう大病人を放ちらかしておいて、誰が勝手に東京へなんか行けるものかね」

夫まで呼び寄せた私が、父の病気を打遣って、東京へ行く訳には行かなかった。私は母と相談して、行かれ

きた事を、あたかも私の位置が父の希望する通り東京にあったように話した。傍にいる私はむずがゆい心持がしたが

届けるように車夫に頼んだ。そうして思い切った勢いで東京行きの汽車に飛び乗ってしまった。私はごうごう鳴る三等列車の中で

はこの夏あなたから二、三度手紙を受け取りました。東京で相当の地位を得たいから宜しく頼むと書いてあったのは、たしか

お父さんの事を忘れていたのです。そのくせあなたが東京にいる頃には、難症だからよく注意しなくってはいけないと、あれ

に物語りたかったのです。あなたは返電を掛けて、今東京へは出られないと断って来ましたが、私は失望して永らく

はそれもついでにいうつもりらしかったのです。それで「東京へ」とだけ付け加えましたら、叔父がすぐ後を引き取って、「よろしい決して

ました。私はその前から両親の許可を得て、東京へ出るはずになっていましたので、母はそれもついでにいう

してくれました。そうして私を私の希望する東京へ出られるように取り計らってくれました。

私は東京へ来て高等学校へはいりました。その時の高等学校の生徒は今よりも

叔父夫婦が入れ代って住んでいました。これは私が東京へ出る前からの約束でした。たった一人取り残された私が家にい

も思いませんが、その頃はまだ子供でしたから、東京へは出たし、家はそのままにして置かなければならず、

父母が亡くなった後、どう邸を始末して、私が東京へ出るかという相談の時、叔父の口を洩れた言葉であります

異議のありようはずがありません。私はどんな条件でも東京へ出られれば好いくらいに考えていたのです。

が来れば帰らなくてはならないという気分は、いくら東京を恋しがって出て来た私にも、力強くあったのです。私

も絶対にそれを嫌ってはいなかったのでしょう。しかし東京へ修業に出たばかりの私には、それが遠眼鏡で物を見るよう

なく、その一夏を叔父の家族と共に過ごして、また東京へ帰ったのです。ただ一つその夏の出来事として、私の

事は、私によく知れていました。私はまた東京へ出ました。

。私はいつでも学年試験の済むのを待ちかねて東京を逃げました。私には故郷がそれほど懐かしかったからです。あなたに

。従妹も妙なのです。中学校を出て、これから東京の高等商業へはいるつもりだといって、手紙でその様子を聞き合せたりし

叔父は私の財産を胡魔化したのです。事は私が東京へ出ている三年の間に容易く行われたのです。すべてを叔父

の言葉通りに取り計らってくれました。もっともそれは私が東京へ着いてからよほど経った後の事です。田舎で畠地などを売ろうと

私が東京へ来て下宿を出ようとしたのも、これが大きな源因になっ

た家も相応に暮らしていたのです。しかし次男を東京へ修業に出すほどの余力があったかどうか知りません。また修業

ながら、外を睨めるようなものでしたろう。二人は東京と東京の人を畏れました。それでいて六畳の間の中では

で抱き合いながら、外を睨めるようなものでしたろう。二人は東京と東京の人を畏れました。それでいて六畳の間の中

出て来たのは私といっしょでなかったけれども、東京へ着いてからは、すぐ同じ下宿に入りました。その時分は一つ

もかなりな財産家でした。Kはそこから学資を貰って東京へ出て来たのです。出て来たのは私といっしょでなかっ

に頑固な彼は医者にはならない決心をもって、東京へ出て来たのです。私は彼に向って、それでは養父母

ます。元来Kの養家では彼を医者にするつもりで東京へ出したのです。しかるに頑固な彼は医者にはならない決心を

て勉強するつもりらしかったのです。私は仕方なしに一人で東京を立つ事にしました。私の郷里で暮らしたその二カ月間が

、私は急に帰りたくなくなりました。実はKを東京へ帰したくなかったのかも知れません。二人は房州の鼻を廻っ

Kは落ち付かない私の様子を見て、厭ならひとまず東京へ帰ってもいいといったのですが、そういわれると、私は

は異人種のような顔をして、忙しそうに見える東京をぐるぐる眺めました。それから両国へ来て、暑いのに軍鶏を食い

我々は真黒になって東京へ帰りました。帰った時は私の気分がまた変っていました

新橋

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得た通り、約束の九時に訪問した。先生の新橋行きは前日わざわざ告別に来た友人に対する礼義としてその日突然

。横浜から船に乗る人が、朝八時半の汽車で新橋を立つのはその頃の習慣であった。私はある書物について

日横浜を出帆する汽船に乗って外国へ行くべき友人を新橋へ送りに行って留守であった。横浜から船に乗る人が、朝

市ヶ谷

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あるのに、お母さんの方はまだ江戸といった時分の市ヶ谷で生れた女なので、奥さんは冗談半分そういったのである。

だと上さんがいいました。一年ばかり前までは、市ヶ谷の士官学校の傍とかに住んでいたのだが、厩などが

経った後の事でしたろう、奥さんとお嬢さんは朝から市ヶ谷にいる親類の所へ行くといって宅を出ました。Kも私

いつもに似合わない話を始めました。奥さんとお嬢さんは市ヶ谷のどこへ行ったのだろうというのです。私は大方叔母さんの所

でしょう。とくに死んでいるでしょう。妻は十日ばかり前から市ヶ谷の叔母の所へ行きました。叔母が病気で手が足りないという

上野

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いる事がある。或る時花時分に私は先生といっしょに上野へ行った。そうしてそこで美しい一対の男女を見た。彼

行く所もなかったので、竜岡町から池の端へ出て、上野の公園の中へ入りました。その時彼は例の事件について

にといって驚いた様子を見せました。お嬢さんは上野に何があったのかと聞きたがります。私は何もないが、

たのかと尋ねました。私はKに誘われて上野へ行ったと答えました。奥さんはこの寒いのにといって驚いた

上野から帰った晩は、私に取って比較的安静な夜でした。私は

Kはそうではないと強い調子でいい切りました。昨日上野で「その話はもう止めよう」といったではないかと注意するごとく

上野から帰った晩は、私に取って比較的安静な夜でした。

日本橋

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三人は日本橋へ行って買いたいものを買いました。買う間にも色々気が変る

美人だといって賞めるのです。私は三人連で日本橋へ出掛けたところを、その男にどこかで見られたものとみえます

駒込

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最初の夏休みにKは国へ帰りませんでした。駒込のある寺の一間を借りて勉強するのだといっていました

神田

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ある日私は神田に用があって、帰りがいつもよりずっと後れました。私は急ぎ足に

御茶の水

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で飯を食う家族はほとんどなかったのです。私はわざわざ御茶の水の家具屋へ行って、私の工夫通りにそれを造り上げさせたのです。

水道橋

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「ええ癒りました、癒りました」と答えて、ずんずん水道橋の方へ曲ってしまいました。

癒りました」と答えて、ずんずん水道橋の方へ曲ってしまいました。

小川町

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「私は猿楽町から神保町の通りへ出て、小川町の方へ曲りました。私がこの界隈を歩くのは、いつも古本屋を

神保町

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「私は猿楽町から神保町の通りへ出て、小川町の方へ曲りました。私がこの界隈

菊坂

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それからまた菊坂を下りて、しまいに小石川の谷へ下りた

伝通院

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小石川の坂を真直まっすぐに伝通院の方へ上がりました。

二人は伝通院の裏手から植物園の通りをぐるりと廻まわって

万世橋

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私はとうとう万世橋を渡って、明神の坂を上がって、本郷台へ来て、

雑司ヶ谷

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私も散歩がてら雑司ヶ谷へ行ってみる気になった。先生に会えるか会えないか

「先生雑司ヶ谷の銀杏はもう散ってしまったでしょうか」

私は忽ち雑司ヶ谷で「先生」と呼び掛けた時の記憶を強く思い起した。

雑司ヶ谷にある誰だか分らない人の墓、――これも私の記憶に時々動いた。

「その人の墓ですか、雑司ヶ谷にあるのは」

私は彼の生前に雑司ヶ谷近辺をよくいっしょに散歩した事があります。

私は妻の望み通り二人連れ立って雑司ヶ谷へ行きました。