満韓ところどころ / 夏目漱石

満韓ところどころのword cloud

地名一覧

小石川

地名をクリックすると地図が表示されます

橋本左五郎とは、明治十七年の頃、小石川の極楽水の傍で御寺の二階を借りていっしょに自炊をしてい

駿河台

地名をクリックすると地図が表示されます

ごとく精悍にでき上がっている。始めて彼を知ったのは駿河台の成立学舎という汚ない学校で、その学校へは佐藤も余も予備門に

江南

地名をクリックすると地図が表示されます

その支那宿には、名は塞北に馳せ、味は江南を圧すなどという広告の文字がべたべた壁に貼りつけてあるそうだ。橋本は

満洲

地名をクリックすると地図が表示されます

ような字で、筆画がすこぶる整っている。後藤さんも満洲へ来ていただけに、字が旨くなったものだと感心したが

、雲に接くまで、一面に平野を蔽うている。満洲は大きな所であった。

に質問したくらい、異な感じに襲われた。それ以来満洲の豚と怪物とは離せないようになった。この薄暗い、苔のように

らしく挨拶をした。だから橋本が博士に慣れ切って満洲を朝鮮へ渡るに何も不思議はない。余もいったんは彼の博士を撤回

あった。亀も大きかったが、碑も高い。蒙古と満洲と支那の三国語で文章が刻ってある。後へ出ると隆恩門

札幌

地名をクリックすると地図が表示されます

面白い事に、この演説の勧誘家はその後札幌へ帰るや否や、自身と烈しい胃病に罹って、急に苦しみ出した。

その代り哈爾賓を見て奉天へ帰るや否や、橋本は札幌から電報をかけられた。いよいよ催促を受けたと電報を見ながら苦笑して

名古屋

地名をクリックすると地図が表示されます

、いずれも東京の言葉を使わなかった。田中君はわざと名古屋訛を真似て調戯っていた。女は御上手だ事とか、御上手や

江の島

地名をクリックすると地図が表示されます

。同じ下宿にごろごろしていた連中が七人ほど、江の島まで日着日帰りの遠足をやった事がある。赤毛布を背負って弁当を

筑後

地名をクリックすると地図が表示されます

である。昔「猫」を書いた時、その中に筑後の国は久留米の住人に、多々羅三平という畸人がいると吹聴した事がある

遼河

地名をクリックすると地図が表示されます

をぶらつくべく主人といっしょに馬車で出た。主人がまあ遼河を御覧なさいと云う。馬車を乗り棄てて河岸へ出ると眼いっぱいに見えた。

北海道

地名をクリックすると地図が表示されます

落第した。そうして、何だ下らないと云って北海道へ行って農学校へ這入ってしまった。それから独逸へ行った。独逸へ行っ

、ぶら下がっている間に、左五だけは決然として北海道へ落ち延びたのである。その落第の張本とも云うべき彼が、いくら年

渾名を発明した男はその後技師になって今は北海道にいる。

に埒を明けないから、みんながなお喝采する。橋本は北海道の住人だから苦もなく鞍に跨った。もう一人――名前を忘れた

近江町

地名をクリックすると地図が表示されます

山城町の大連医院だの、児玉町の従業員養成所だの近江町の合宿所だの、浜町の発電所だの、何だのかだのみんなで

飛鳥山

地名をクリックすると地図が表示されます

て松山にかかった。と云うと大層だが、実は飛鳥山の大きいのに、桜を抜いて松を植替えたようなものだから、心持

高麗

地名をクリックすると地図が表示されます

どこかへ消えて無くなったが、やがて帰って来て、高麗城子と云うんだそうですと教えてくれた。土人を捕まえて聞いて

て尊敬を払わない引き方をする。海城というところで高麗の古跡を見に行った時なぞは、尻が蒲団の上に落ちつく暇が

横浜

地名をクリックすると地図が表示されます

を得るや否や、この男が、おれも四十年前横浜に行った事があるが、どうも日本人は叮嚀で親切で慇懃で実に

香港

地名をクリックすると地図が表示されます

したが、不幸にして肺病に罹って、帰り路に香港で死んでしまった。そこで残るは政樹公ばかりになった。したがって政樹

神戸

地名をクリックすると地図が表示されます

いたところが、天気が存外呑気にできたもので、神戸から大連に着くまでたいていは鈍り返っていた。甲板の上に若い英吉利

船の中は比較的楽だった。二百十日の明る日に神戸を立ったのだから、多少の波風は無論おいでなさるんだろうと思っ

岡山

地名をクリックすると地図が表示されます

で、左五左五と云っていた。実際彼は岡山の農家の生れであった。――左五はその後追試験に及第し

仙台

地名をクリックすると地図が表示されます

の準備を見るために、出たり這入ったりする。立派な仙台平の袴を着けてはいるが、腰板の所が妙に口を開い

松山

地名をクリックすると地図が表示されます

て、今松山を出たそうですからと断った。その松山は遥向うにある。余は軌道の上に立って、一直線の平たい路

ものは姿さえ見せない。そこへ駅員が来て、今松山を出たそうですからと断った。その松山は遥向うにある。余

門の奥でしきりに吠える。そのうちに村は尽きて松山にかかった。と云うと大層だが、実は飛鳥山の大きいのに、

余の沃野千里は全く色から割り出した感じであった。松山の上から見渡すと、高い日に映る、茶色や黄色が、縞になっ

そうだと答えていた。主人に挨拶をしてまた松山を抜けたら、松の間に牛が放してあった。駅長が行く行く初茸

神田

地名をクリックすると地図が表示されます

てやろうかは久しいもので、二十四五年前、神田の小川亭の前にあった怪しげな天麩羅屋へ連れて行ってくれ

で生れたか聞いて見たら、神田だと云った。神田じゃそのはずである。要するに肋骨君は支那好であると同時に、

東京弁を使う。どこで生れたか聞いて見たら、神田だと云った。神田じゃそのはずである。要するに肋骨君は支那好

東京

地名をクリックすると地図が表示されます

その中に東京の真中でも容易に見る事のできないくらい、新しい奇麗なのが二

ないか知らないくらいである。いくら大連がハイカラだって、東京を立つ時に、この古燕尾服が役に立とうとは思いがけないから、やっぱり

左へ行くと、取付が重役の部屋である。重役は東京に行ってるもののほかは皆出ていた。それに一々紹介され

隊の一人が、腹を切り損なって、入学試験を受けに東京に出たとしか思われなかった。教場へは無論下駄を穿いたまま

脛の出る袴を穿いてやって来た。余のごとく東京に生れたものの眼には、この姿がすこぶる異様に感ぜられた。

女は三四人で、いずれも東京の言葉を使わなかった。田中君はわざと名古屋訛を真似て調戯って

は何かやるそうじゃないかと聞いた。是公に東京で逢ったとき、是公はにやにや笑いながら、いったい貴様は新聞社員だって

が、どうしても学校の教師か、女生徒である。東京でこそ外へさえ出れば、向うから眼の中へ飛び込んでくる図だ

と云う嬌かしい声がした。その音調は全くの東京ものである。余は突然立って、窓の外を眺めた。あいにく窓

起ったり坐ったりする。そうして軍人に似合わないような東京弁を使う。どこで生れたか聞いて見たら、神田だと云った

明けておくかは、家屋の発展に忙殺されつつある東京ものの眼には即時の疑問として起る訳であるが、この際

がある、坑員の邸宅は無論あったが、いずれも東京の山の手へでも持って来て眺めたいものばかりであった。松田さん

日本橋

地名をクリックすると地図が表示されます

た。広い通りを一二丁来ると日本橋である。名は日本橋だけれどもその実は純然たる洋式で、しかも欧洲の中心でなければ見

の電灯の下に出た。広い通りを一二丁来ると日本橋である。名は日本橋だけれどもその実は純然たる洋式で、しかも欧洲

いる。余は石段の上に立って、玄関から一直線に日本橋まで続いている、広い往来を眺めた。大連の日は日本の日より

留まった。二人はこの麗かな空気の中をふわふわ揺られながら日本橋を渡った。橋向うは市街である。それを通り越すと満鉄の本社になる

浜町

地名をクリックすると地図が表示されます

児玉町の従業員養成所だの近江町の合宿所だの、浜町の発電所だの、何だのかだのみんなで十五六ほどある。

大宮

地名をクリックすると地図が表示されます

た事がない。昔正岡子規に、手紙をもってわざわざ大宮公園に呼び寄せられたとき、鶉だよと云って喰わせられたのが

浅草

地名をクリックすると地図が表示されます

。そこに立って右手の部屋を覗くと、狭い路次から浅草の仲店を看るような趣がある。実際仲店よりも低く小さい部屋であっ