わが戦争に対処せる工夫の数々 / 坂口安吾

わが戦争に対処せる工夫の数々のword cloud

地名一覧

ハワイ

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に自由型へ出場して片抜手で泳いだ。このときハワイのカハナモクのクロールに惨敗し、クロールといふバタ足の異様な泳ぎを習ひ覚えて

佐渡

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浜の砂丘の上から日本海を見下してゐる)新潟から佐渡まで泳いだ。新潟の海で遠く佐渡の島影を見て泳いでゐると、

てゐる)新潟から佐渡まで泳いだ。新潟の海で遠く佐渡の島影を見て泳いでゐると、私などでも、あゝ泳いで行つて

で、直線距離で三十二哩といはれてゐる。先生は佐渡まで泳ぎついたが、さて、又、新潟まで泳いで戻らうと出発して、

十二哩佐渡行の汽船にのり、どういふ量見だか佐渡の手前で又海へとびこんで夕方七時に両津へついた。二十哩しか

モータアボートどころか小舟のお供もつれてをらぬので、いつたん佐渡まで泳ぎつき、又、泳いで戻らうといふのが愉快ぢやないか。我々に

を打ちこみさゝげた術であり、だから私は、先生が佐渡から戻る途中で永遠に消息を絶つたといふのが、なんとも朗かで

は思ふ。悔ゆることはない。私は新潟の浜辺から佐渡を眺めて先生のことを思ふのが愉しい。

が、彼は私が酔つたまぎれにザンブと海へとびこみ佐渡へ向つてやがて日本海のモクズと消えると思つたのである。

新潟市

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六月末から十月始めまで、三ヶ月半も郷里の新潟市へ行つた。私は殆ど帰郷したことがないのだが、なぜこの年

松島

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一雄が感動したのは論外で、彼は仲秋名月を松島まで出かけて眺めるやうな奇妙に古風な男だから、かういふ千古の美談佳話

九州

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といふ男が本名は麻生某といつて、彼は元来九州の石炭屋の一族だ。こゝなら徴用が逃れるといふので、井上友一郎が

が逃れるといふので、井上友一郎が先づ社員となつて九州へ、つゞいて平野謙、荒正人と俄か石炭社員ができたが、どうも

上野公園

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がましたので、つまり私は観音様の縁の下とか上野公園で浮浪児になつても、めつたなことで同僚のおくれをとらない程度

新潟

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は日中も裸なら汗のでる日はめつたにないが、新潟では裸でも汗が流れでゝ、それが夜でもさうなの

の大観堂まで印税を前渡しによこしたが、実際は、新潟の夏ときたら、ひどい暑さだ。東京よりも遥に暑い。気温

海に面した新潟が涼しさうだから、誰しも一夏新潟で長篇を書くなどゝ称すると本当だと思ふ。そこで出版元の大観

南の海に面した東京よりは北の海に面した新潟が涼しさうだから、誰しも一夏新潟で長篇を書くなどゝ称すると

、又一つは、知らない土地では食糧がない、新潟は穀倉などゝいふ通り、三ヶ月ぐらゐ居候をしても誰も文句を

私は新潟の海で猛訓練をするつもりであつた。私は子供の時から日本

てゐる。先生は佐渡まで泳ぎついたが、さて、又、新潟まで泳いで戻らうと出発して、そのまゝ先生の消息は地上から消え

から日本海を見下してゐる)新潟から佐渡まで泳いだ。新潟の海で遠く佐渡の島影を見て泳いでゐると、私などでも

は寄居浜の砂丘の上から日本海を見下してゐる)新潟から佐渡まで泳いだ。新潟の海で遠く佐渡の島影を見て泳いで

この新潟の海には、昔、村山臥龍先生といふ水泳術の大家がゐて

ゐるとき、海軍の水泳教官のたしか岩田とかいふ人物が新潟佐渡間を泳ぐためにやつてきた。臥龍先生の頃と違つてジャーナリズム

半かゝつているのである。そして彼の曰く、新潟佐渡間は潮流が意外に激しく思ふやうに進まなかつたのだ、と

う、と私は思ふ。悔ゆることはない。私は新潟の浜辺から佐渡を眺めて先生のことを思ふのが愉しい。

私が新潟にゐる期間、もう秋になつてから、檀一雄がやつてきた。

は国賊になりかねない時世になつてゐるのだ。もはや新潟の海で泳ぐわけにも行かないから、そこで私は一法を案出し

深川

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施し様もないのである。三月十日の浅草本所深川などのやられたやうなことが戦争の始めにあれば、しめた、と

浅草

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(例)浅草本所

秘策の施し様もないのである。三月十日の浅草本所深川などのやられたやうなことが戦争の始めにあれば、しめた

東京

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の二時頃からやうやく眠れる涼しさになるのである。東京では日中も裸なら汗のでる日はめつたにないが、新潟では

実際は、新潟の夏ときたら、ひどい暑さだ。東京よりも遥に暑い。気温は低くても感じる暑さがひどいので、

を書きあげるため、といふのだ。南の海に面した東京よりは北の海に面した新潟が涼しさうだから、誰しも一夏

。私は十二月六日まで水風呂へはいつた。もう東京の街にはサイパンからのB29が爆弾を落しはじめてゐたので

、人一倍死を怖れてゐる私が、それを押しても東京にふみとどまり、戦禍の中心に最後まで逃げのこり、敵が上陸して包囲さ

な人も二三あつたが、それを断つて危険の多い東京の、おまけに工場地帯にがんばつてゐた。私は戦争を「見物