塩原多助一代記 / 三遊亭円朝 鈴木行三
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き小袖に鉢巻や。其の助六がせりふに云う。遠くは八王寺の炭焼。売炭の歯欠爺。近くは山谷の梅干婆に至る迄。いぬる
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長くは居られねえから、是から信州路へ掛るにゃア秩父へ直に山越して逃げよう」
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お目立ちやすが、斯様なにくすぶって居るが、これを江戸へ持って往って磨いて見ねえ、どんな紙屑買が見倒しても奥様の
する事も出事ず、今お金が五十金あれば、江戸のお屋敷へお住込が出来るのだから、此処で私がお頼みだが
「お父さん、なんで叔父さんを鉄砲で打ったかなア、江戸にいる叔母さんだのおえいという従弟が聞いたら、どんなに怨むか知れ
を助かったのだから貰って下せえ、あんた此の金で江戸へ帰らねえと、此の右内どのが犬死になりやす、命を捨てゝも主人
角「よく考えて御覧なせえ、あんたが江戸へ往って此の家来を此方へ埋めて、江戸から此の数坂峠を越して
あんたが江戸へ往って此の家来を此方へ埋めて、江戸から此の数坂峠を越して追善供養をしに来ることは出来やアしねえ
五十両を下すった、此の金子で私が身形を整えて江戸の屋敷へ帰るから、よう、よう分ったか」
私を抱いて寝ていて、お父さんが金があれば江戸のお屋敷へ帰れると云うから、あゝ金が欲しいと思っても仕様がねえ
は前橋に居りますが、もとは中橋で生れまして、江戸生れでございますから、前橋でさえ寂しくっていけませんに、そんな山の中
かめ「私は江戸の本郷春木町に居ります旅商人の、岸田宇之助と申す者の女房でございます」
為に五十両入るだから貸して呉れゝば、主人が江戸へ帰れる、損は掛けねえから貸して呉れろと手をついての頼みだ
夜は大宮宿の栗原と申す旅籠屋に泊り、翌七日江戸に着し、本郷春木町に参りまして、岸田宇之助方を尋ね、妹おかめに逢い
焼払って、お浜で鎮火致し、たった二日の間に江戸大半を焼き尽しましたが、これは開けぬ昔のお話で、只今斯様
立するにも中々億劫な事で、田舎のお方が江戸見物に出るにも泣きの涙で出ましたもので、江戸ッ子が上方見物
歳になりました。五八という奉公人を供に連れ、江戸見物ながら余儀ない用事があって国元を出立致し、馬喰町に宿を取って居り
て、又今日こんな火事が始まるとは怖ねえこんだ、江戸は火早いと云いやんすが、こんなに大けえ火事がこう続いてある
角「己も始めて江戸へ出たのだから困った、仕様がねえが此の間一度尋ねた小網町の積荷
五「怖かねえ処だ、江戸てえ所にゃア二度と再び来る所じゃねえ、火に追かけられて居るんだねえ
角「まア待ちなせえ、私は田舎者で、始めて江戸へ出て来たもんだが、宜く物を考えて見なせい、盗賊に荷物
は災難とはいいながら些細の事だ、此のマア大けえ江戸の火事を見なせえ、何千軒とも知んねえ家が焼け、土蔵倉を落す
もせず国へ帰りましたが、国の方では江戸は大火事で、江戸中丸で焼けてしまったようなことを話して居る所
かめ「おやまア旦那お帰り遊ばせ、江戸は大火事であったと云いますから、お怪我でも無ければいゝと何んな
と何んなに心配をして居りましたろう、なんだか江戸は残らず焼けてしまったようなことを申しますし、又後で聞けば
五八「へい只今戻りやした、どうも江戸はえれえ怖かねえ所で、なか/\好い所だと云うのは嘘で
角「おかめ、江戸へ往った土産に好い物を連れて来た、おい此方へおはいんなんし
こんな山の中へ宜くマアお出だねえ、久し振で江戸の風を見たが、何うもいゝ器量だこと、年は幾許、なに十九
と五八は江戸の火事で懲りて居りますから驚きました。此の権幕に奥ではおかめ
ましねえが、少しマア用向が有って、今度初めて江戸へ参り、馬喰町へ逗留して居りやすと、御案内の通り大けい火事、
中へまで尋ねて来てサ、はい上げましょうと云って江戸へ帰られますかえ、呉れろなら上げまいものでもないから、それだけ
ゆえ何も分らず、親類は知れず、仕方がないから江戸へつれて行って私の娘にして育てるのは当然じゃありませんか
と云ったッて、それじゃア何うもマアお前さんどうも、江戸から四五十里もある沼田まで連れて来るのは酷いじゃアありませんか」
あるまいが、親の行方が知んねえからと云って、江戸まで連れて往って娘にすれば道理は同じ事だ」
て今じゃア女房に持っていた処が、此の二月江戸へ往って火事場から連れて帰ったおえいは、十三年あと勾引された
た、殿様此の阿魔女は私の妹ですが、勾引かして江戸から此の沼田の下新田まで連れて来た事を知り、母親と二人で掛合に
、お前も少さい時から田舎者に成ったけれども、江戸生れだそうだが、斯うやって江戸子同志で寄集るとは誠に頼もしい
ではあるなれども、一先ず此処を逃げ去って、知らぬ江戸とやらへ参って、どんな辛い奉公でもして金を貯めた上立帰り、
も出来るが、命がなくては恩返しも出来ないから、江戸とやらいう所は、どういう所か勝手は知らないが、一先ず江戸へ出て
やらいう所は、どういう所か勝手は知らないが、一先ず江戸へ出て辛い奉公なりとして、金を貯めた上で国に帰って
殺されるから何うも居られねえわい、己はこれから江戸へ往って、奉公をして金を貯めて帰って来るから、汝えそれ
から、何卒汝は辛え所も辛抱して居て、己が江戸で金を貯めて帰って来るまで丈夫でいてくんろよ、ヤア、ヤア
で、母親に追出され、六百の銭を路銀にして江戸へ往って奉公する身の上でがんすから、衣物も一枚でも取られ
をつけえ、三百石の田地持が六百ばかりの端銭で江戸へ行こう筈はねえ、さアぐず/\すると打ッ斬るぞ、仁助縛っちまえ
家へ恩返しをする事が出来やせん、私はこれから江戸へ出て辛抱して、国へ帰って鹽原の家へ恩返しをしなければ
も帰って来ないから、おかめの了簡では、彼奴は江戸へでも往ったか遠い所へでも往ったか、大方家の辛い所
只今と違って路が難渋でございまして、殊に多助は江戸の勝手を知りません、何処と云って頼る所がないが、江戸という
を知りません、何処と云って頼る所がないが、江戸という所は桂庵と云うものがあって、奉公人の世話をするそうだが
潰れても私が生きて居れば立て直すことが出来るが、江戸で奉公するには肝心な受人になる人が三百里先へ往ってしまい
惜しいから暇乞をしながら馬の前面を撫て、己え江戸へ行き、奉公して帰って来るまで、達者で居て呉んろと私い
辛くって私い袖びっしょりにしやんしたが、それから江戸へ出ても尋ねる人には逢えず、外に知音も無くって請人になり
取られては家を立てることも出来ねえから、私が江戸へ出て奉公して金を貯め、国へ帰って家を興そうと思って
て金を貯め、国へ帰って家を興そうと思って江戸へ来ることは来たが、頼るものがゞんしねえで、去年の八
抜けた様子だから故郷忘じ難しの譬で、二人一緒で江戸へ往き、どんな暮しでもしようじゃないか、懐に金も有ることだから
山の事は頓と分りませんよ、お前さん方は江戸のお方のように思われますねえ」
シテあなた方はこれから何所へお出でゝございますか、江戸へいらっしゃいますなら、本街道の中山道口へ出てはいけませんよ、お
荷主に相成りますが、此の人が三十五歳になるまで江戸へ出た事がありませんのは、此の人の親父八左衞門は六十
親父八左衞門は六十以上の年でございますが、総て江戸の取引先きの事を致して居りますから、八右衞門は江戸へ出て
取引先きの事を致して居りますから、八右衞門は江戸へ出てまいりませんでしたが、親八左衞門が、不図病気付きました
不図病気付きましたによって、八右衞門が始めて江戸へ出て参りました。頃は宝暦十二年十二月の十五日、深川八幡
八「ハア私もどうか江戸という所へ来てえと思って居たが、親父が達者で江戸の
へ来てえと思って居たが、親父が達者で江戸の取引は己がするから汝は家にいろというから、家にべえ居り
て夜歩かねえがいゝよ、私ゃア田舎者で、始めて江戸へ出て来たんで、なアに医者にも及ぶめいが、横っ腹が突張って
が、どうか此の二十両取って置いて呉れ、私江戸見物些と長くすれば、小遣になってしまうのだが、余り偉え奉公人で、
隠れをしていた所が、又づきが※って漸と江戸へ出て来て、通りかゝった山口屋の前で、手前が提灯を点けて
いけねえから、私出れば潰れるとは思いやしたが、江戸へ参って奉公をし、金を蓄め国へ帰って家を立てよう、命有っ
は潰れてもそれまでと思いきり、国の家を出て江戸へめえりやしたが、頼るものはなく、仕様がなくって、忘れもし
間心易くしたものだから、年に二度ぐらいずつ江戸へ出て来る訳にはいくまいか」
銭を儲けるにも大騒ぎだから、最う些とべい此の江戸で稼いで見たいと思いやすが何うでがんしょう」
なり、仮にも一旦親子となる中に、父様が不図江戸から連れて戻ったお前の実の娘おえいを、父様が血統の従兄弟同志
潰れてしまうのは知っては居れど、命さえあれば江戸で奉公をして金を貯め、国へ帰って来て又家を立る工夫
て来たが、途中で悪者に出遇い、難行苦行して漸く江戸へ着いた所が、頼る所もねえので身投げて死のうかと思う所を
から故郷忘し難しとは宜く云ったもので、最う一度江戸を見たいと思い、お尋ね者の身の上だが、丹治殿と私は、生れ落ち
、生れ落ちてまだ間のない乳児を抱えて山口を立ち、江戸をさして来る道の横堀村で、又旅のおかく婆に出遇い、其の
がありませんから此の子を連れ、此の七月下旬から江戸へ出て来ます道々も、乞食をしながらの事ゆえ道も捗取らず、
ゆえ道も捗取らず、野州路へ※り漸々の事で江戸へ来ましたも万一したらお姉様にお目にかゝる事もあろうか
国に帰って家を立てべいとは存じましたが、江戸で稼いでもう七八百両貯めてから帰るべいと思いやして、店出しをし
れ、拙者は其の五十金を持って身姿を整え、江戸へ出て只今斯うやって三百五十石頂戴致すようになったのは、角右
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とすると、皆な咳払いをして塞がって居たり、横浜へ往くのに汽車に乗ろうと思って大急ぎで人力車で停車場へ駆付けると、汽車
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寛延二己巳の四月、御主人は野州宇都宮より肥前の島原へ国替仰付けられ、鹽原も戸田侯の御供を致しまして国詰の身と
役「そうサ、島原までは三百一里半あるな」
角右衞門と書いてあるが、此のお方は肥前の島原へお国詰になって往ったお方ではござりやせんか」
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がポツリ/\と降ってまいりますから、駿河台を下りて昌平橋へ掛りました。此の昌平橋は只今は御成道の通りに架って居りますが
も切れ果てゝ路頭に迷う身の上となり、仕方がねえから昌平橋から身い投げべいとする所を、助けてくれたは今の主人山口屋善
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にはなれませんものでございますが、茲に下野国安蘇郡飛駒村に吉田八右衞門という人が、後に多助の荷主に相成り
男「えー私は下野国安蘇郡飛駒村の炭荷主八右衞門と申すものでございます」
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でございます、お宅を家出しましてから、只今では本郷の春木町に裏家住いをして居ります、外に斯うという事も存じませ
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なら旦那様申し上げますが、私毎日々々炭車に積んで青山へ往きやんすが、押原横町のお組屋敷へは車を曳込む事が
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、北にあたって草津から四万の筆山、吾妻山から一面に榛名山へ続いて見える山又山の難所で、下は削りなせる谷にして、吾妻
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まいりました悪者三人は、百々村の倉八と太田の金山の松五郎、今一人は江田村の源藏で、段々お調べになると、
からづきがまわったという訳は、百々村の倉八と金山の松と江田村の源藏が捕まって、己達へ足がついて来
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ございました事で、丑年の火事、午年の火事、或は佐久間町の三味線屋火事など種々大火もございました。其の中で一番大きいのは本郷
おいて又六日に出火致しましたのが神田旅籠町から佐久間町を残らず焼払い遂に浅草茅町二丁目まで延焼し、見附を越して両国へ飛火致し
藤「そりゃア大丈夫渡しやす、これから佐久間町へ往くには大橋を渡って浜町へ出れば宜うがんす、私は花川戸の
町内は違って居りやんすが、押原横町の者も佐久間町を通る事もありやんすし、又神田の者も押原横町を通る事もあっ
と、多助は金を懐に入れ、提灯を携げて佐久間町の家を出て、聖堂前にかゝり、桜の馬場へ上って参りました
多「はい、私は佐久間町の山口屋善右衞門の手代多助と申しやんすが、仔細あって今夜四谷
久「あれは感心でございます、佐久間町の山口屋善右衞門の所に奉公をして白鼠と云われるくらいで、あれ
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居りますが、往来は稀な山村で、名におう上野国東口の追貝村、頃は寛延元年八月の二日、山曇りと云うの
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に見え、後は男子山、子持山、北にあたって草津から四万の筆山、吾妻山から一面に榛名山へ続いて見える山又山の難所で、
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女「どうせ熊谷へ泊るつもりで、松坂屋というのが宜しゅうございますから、そこへ泊りましょう、
が抱いて寐て、翌日出立しました。前には熊谷より前橋へ出ますには本庄宿の手前に御堂坂と申す所より榎木戸
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鹽「手前の先祖は下野の国塩谷郡塩原村の郷士鹽原角右衞門という事が書類に残って居りますが、精しくも
に思ったから、段々聞いて見ると、元は野州塩谷郡塩原村の者と分って見ると、元は己と由縁のあるものと分ったから
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た事ゆえ、誠にたまげやして、彼方此方逃※って、本所のお竹蔵へかゝると、美しい姉さんがお竹蔵の溝へ身い投げ
と主人より二十五両の金子を借り受け、直に本所にまいり、彼の家を買い取り、樽代を払い、近辺へ店振舞を致し
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男「えー私は下野国安蘇郡飛駒村の炭荷主八右衞門と申すものでございます」
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角右衞門が多助を十文字に背負いまして、夫婦は須賀川まで送って来まして、夫婦は「どうか道をお厭いなすッて」
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信濃殿町の青山因幡守様のお邸へ往きまするに、四谷へ来て押原横町に車を待たせ置き、彼処から信濃殿町まで車力が炭
/\お前も分らねえ人間じゃアねえか、神田佐久間町のものが四谷の押原横町へ石を敷いて何うするのだ、入らざる余計な事じゃアねえ
が、貴方のお考えは些と違おうと思いやんす、神田佐久間町と四谷の押原横町とは町内が違って居るからと思召しては間違います、そりゃ
世界の人のために石を敷きやんすので、決して四谷の押原横町と見て敷くのじゃアねえ、矢張お宅の前へ敷く心で居り
相成りました。さて多助は道普請の金を持って四谷の押原横町へ出かける途中で、呼掛けられましたゆえ立留って、
衞門の手代多助と申しやんすが、仔細あって今夜四谷へ往く道で、道連の小平という泥坊に逢いやしたが、三年あと
嬉し涙に暮れながら山口屋まで送られて帰りました。是から四谷の押原横町へ石を敷詰めて、道普請を致しますお話でございますが
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て、刺青だらけの侠な兄いが、おい/\泣きながら川崎辺まで送られてまいり、
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八「私は下野の飛駒村の者に相違ねえが、お前は何をいうのだ」
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思って、日の暮れるまで彼方此方とうろ/\歩いて、駿河台の織田姫稲荷の所へ参りますと、最う腹が減って歩けません
其の内に雨がポツリ/\と降ってまいりますから、駿河台を下りて昌平橋へ掛りました。此の昌平橋は只今は御成道の通りに架っ
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て、実は今日鴻の巣まで薬を買いに参りまして、天神橋の蔦屋で休んでおりますと、旦那様が荷物をお分けなすって、これ
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、これは皆様方も御案内の事で、それに赤坂の今井谷から出まして、麻布十番から古川雑色綱坂を焼払い、三田寺町、聖
、私も焼出されて家はないのでございます、赤坂の火事で焼け出され、深川櫓下の親類共へ参って居りますと、今晩の
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鹽「えゝ、これは奥州から来る石首魚という魚の干物だ、一つお食べな」
に思って附けていたのだが、忙がしい身の上だから奥州へ小隠れをしていた所が、又づきが※って漸と江戸へ出
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山、子持山、北にあたって草津から四万の筆山、吾妻山から一面に榛名山へ続いて見える山又山の難所で、下は削りなせる谷に
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は荒山、北の方は火打山で、南の方は赤城山、山又山の数坂峠、大樹は生茂って居りまして、大泉小泉という掘割の
雪がチラリ/\降り出しました。南の方には赤城山が一面に見え、後は男子山、子持山、北にあたって草津から四万の
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私も望みが叶いまして山口屋を首尾好く十一年勤め上げ、相生町へ店を出し繁昌して忙がしいので間合もなく、夫故お屋敷へも
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とて、久下村より中瀬に出て、渡しを越えて、漸々堺という所まで来ますと、七つ下りになりまして、足が疲れて
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茅町二丁目まで延焼し、見附を越して両国へ飛火致し、両国一面火になって、馬喰町を焼き、横山町三丁目残らず、本町通りを出て日本
ず焼払い遂に浅草茅町二丁目まで延焼し、見附を越して両国へ飛火致し、両国一面火になって、馬喰町を焼き、横山町三丁目残らず、本
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甥に当る戸田様の御家来で野澤源作という者が宇都宮の藩中だから、それへ頼もうと思って、度々手紙をやった処
たが、翌寛延二己巳の四月、御主人は野州宇都宮より肥前の島原へ国替仰付けられ、鹽原も戸田侯の御供を致しまし
多「お国は野州の宇都宮でがんすか」
役「前は宇都宮であつたが、松平主殿頭殿とお国換えになって、今で
「はい/\、腹ア減らして遣い残しが二十八文、宇都宮なら食わずにでも往くが、三百里あっちゃア仕様がねえ」
ば、お国詰になったとの事で、お国は宇都宮だったのがお国替になって、肥前の島原で三百里も先だ
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もとは中橋で生れまして、江戸生れでございますから、前橋でさえ寂しくっていけませんに、そんな山の中へおいでになるの
女「左様ですか、私どもは前橋に居りますが、もとは中橋で生れまして、江戸生れでございますから
て寐て、翌日出立しました。前には熊谷より前橋へ出ますには本庄宿の手前に御堂坂と申す所より榎木戸村
致しまして、沼田の御城下に泊りまして、翌日は前橋に泊り、其の翌日が熊ヶ谷泊りで、それから鴻の巣、桶川と中仙道
ますが、只今では沼田から前橋まで人力車で参られ、前橋から汽車に乗り、ピイと上野まで忽ちに来られ、一日の内に
山国の片田舎のようでございますが、只今では沼田から前橋まで人力車で参られ、前橋から汽車に乗り、ピイと上野まで忽ちに来
えゝ、前橋という所へはどう出たら宜うがんす、前橋へ参りますには何う参って宜しゅうございやしょう」
多「えゝ、前橋という所へはどう出たら宜うがんす、前橋へ参りますには何う
男「前橋へ往くなア此処を構わずずうッと真直ぐ往って、突当って左へ曲って又
て到頭それも遣り損って口惜しくって堪らねえ、さア手前は前橋へ買物に往くのなら、三百石の田地持の大尽だから些たア
を、これでも命の綱と思い、ずぶ濡れになって前橋の手前まで来ると、少し日があたって来ました。朝日のさすの
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で。今多助が引慣れた青という名馬は南部の盛岡から出たもので、大原村の九兵衞方より角右衞門が買取ったの
多助の養父角右衞門の買いました馬は、南部の盛岡の市で五両五粒で買った良い馬でございます。多助は日々
であったなア、汝は大原村の九兵衞どんが南部の盛岡の市から買って来たのを、己の父様に買われて来た
、多助は一軒の主人だから、そりゃア随分南部の盛岡の方に馬のいゝのが出たとか、又山の売物に安いの
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やんして、其の霜解の中を歩いてまいり、帰りに水戸様前の砂利の中へ入るもんだから草鞋も忽ちぶっ切れて、日
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随分大阪ものも東京ものと夫婦になり、東京のものと長崎のものと夫婦になり、只今では欧羅巴の人と日本の人
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焼け、四日市小網町一面の火になり、深川へ飛火いたし、深川一面の火となり、漸く鎮火致しました。すると、其の翌晩また芝
江戸橋の方へ焼け、四日市小網町一面の火になり、深川へ飛火いたし、深川一面の火となり、漸く鎮火致しました。すると
角「仕方がねえ、外に往き所もねえから深川の出船宿へでも行くべい」
吐く間もなく、又此の火事の飛火がしまして、深川一面の火となり、火の粉がばら/\落ちかゝりますから、
と深川高橋までまいり、ホッと一息吐く間もなく、又此の火事の飛火がし
有り難う存じますが、どうぞお放しなすってくださいまし、私は深川の火事で焼け出され、母親と一緒に逃げて参りまする途中、母親にはぐれ
家はないのでございます、赤坂の火事で焼け出され、深川櫓下の親類共へ参って居りますと、今晩の火事で焼けてしまい、
申す者でございますが、おかくと申す母と二人で深川櫓下の親類内に居りますると、又焼出され、逃げる途中母親にはぐれ
を附けて置き、角右衞門は出掛けまして、三角から深川を彼方此方と三日の間捜しましたが、とんと心当りもなく、鼻の
あれは私の大事な金箱娘、此の二月大火事の時深川を焼出され、迯げ出す途中ではぐれてしまい、今日が日まで行方
茶屋の主人おかくという婆アでございますが、此の間の深川の火事で娘を見はぐり、行方が知れませんから、只今も申すとおり
衞門は田舎者の事ですから恐れまして、高橋を渡って深川元町へ出て、猿子橋の傍に濱田という料理屋があります。其の
参りました。頃は宝暦十二年十二月の十五日、深川八幡の年の市で、其の頃は繁昌致しましたもので、余り込み合うから八
私は横山町三丁目の播摩屋という袋物屋でございます、深川までお払いを取りに参りまして、百金受取って帰りましたから、
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ませんが、実に具わって居りますので、今に浅草八軒寺町の東陽寺という寺の墓場に鹽原多助の石碑がありますが
致しましたのが神田旅籠町から佐久間町を残らず焼払い遂に浅草茅町二丁目まで延焼し、見附を越して両国へ飛火致し、両国一面火に
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居りますが、往来は稀な山村で、名におう上野国東口の追貝村、頃は寛延元年八月の二日、山曇りと
前橋まで人力車で参られ、前橋から汽車に乗り、ピイと上野まで忽ちに来られ、一日の内に東京から往復が出来まする事で
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の悪い奴にからかわれ、心細くも漸々のことで中仙道の大宮宿泊り、翌四日は鴻巣の田本が中食です。例の旅費が乏しい
いうのは何ういうものだろう、これ/\女中、これから大宮宿までは幾程あるな」
「此の小柄は滅法に痛えや、お母ア彼奴は今夜大宮の栗原へ泊ると云ったから、今夜後から往って意趣返しに仕事を
になります。此方は鹽原角右衞門夫婦、其の夜は大宮宿の栗原と申す旅籠屋に泊り、翌七日江戸に着し、本郷春木町に
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女「何うしよう、伊勢崎まで往けようかね」
男「お母さん、此の辺には好い宿屋がないから、伊勢崎の銭屋へ泊りましょう」
かめ「此処から下りちゃア仕様がないよ、伊勢崎の銭屋まで往くのじゃないか」
かめ「伊勢崎の銭屋へまいります」
とこれから伊勢崎へ来て銭屋へ往くと、左様な娘さんを連れて来たお客は
た。おかめと角右衞門は日数が長く掛りまして、伊勢崎に長くも居られませんから、角右衞門が「私は沼田の下新田
か、如何にも気の毒な事と心得ましたから、直ぐに伊勢崎の名主へ掛り、八州へ願って、其の悪者をいろ/\と捜しまし
角「あゝ、これは己が伊勢崎で合宿になったおかみさんよ」
角「馬鹿ア云え、此の内儀さんに災難があって、伊勢崎の名主へ掛って、八州様へ頼んでいたのだ」
いる訳だが、これを表向にするならおしなせえ、伊勢崎の銭屋へ係って調べの縒を戻せば、お気の毒だがお前達の
れようとする処を、私が通り合して助けて遣り、伊勢崎の銭屋へ掛り、手を分けて捜して貰ったが、何分娘の行方
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、ピイと上野まで忽ちに来られ、一日の内に東京から往復が出来まする事で、追々開けて参りました故、これからは
な訳で、随分大阪ものも東京ものと夫婦になり、東京のものと長崎のものと夫婦になり、只今では欧羅巴の人
、縁と云うものは不思議な訳で、随分大阪ものも東京ものと夫婦になり、東京のものと長崎のものと夫婦になり、只今
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馬喰町を焼き、横山町三丁目残らず、本町通りを出て日本橋通りから江戸橋の方へ焼け、四日市小網町一面の火になり、深川へ
とこれから小網町へ参りますと、此の火事が日本橋から江戸橋、四日市、小網町へ焼け込んで参りましたゆえ、角右衞門は
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て、一日おいて又六日に出火致しましたのが神田旅籠町から佐久間町を残らず焼払い遂に浅草茅町二丁目まで延焼し、見附を越し
、怖ねえこんだと思って居ると、又一日隔って神田旅籠町から出た火事は、前申上げました通り故、角右衞門も馬喰町
横町の者も佐久間町を通る事もありやんすし、又神田の者も押原横町を通る事もあって、天地の間の往来で世界
話が皆為になるよ、あの先達てちょっと聞いたが、神田の方ではお前の噂が高いよ」
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聖坂から三角へ掛け、田町へ出まして、これが品川で鎮火致しました、大きな火事でございましたが、これが宝暦十年
、二月四日の大火で、赤坂今井谷から出火し、品川まで焼け込んで鎮火したと申しますから、怖ねえこんだと思って
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ました。其の中で一番大きいのは本郷丸山本妙寺火事、目黒行人坂の火事、これは皆様方も御案内の事で、それに
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てしまいました。夜も段々と更け、以前のお竹蔵前で当今交番所のある所から割下水の方へ掛りますと、女の
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へいらっしゃった方は御案内でございますが、温泉場で、大久保先生が分析遊ばされた所が、上州第一等の温泉であるという
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渡しやす、これから佐久間町へ往くには大橋を渡って浜町へ出れば宜うがんす、私は花川戸の炭問屋へ、些とべい預けたもの
も此の近処にはお医者様はございません、浜町まで参らなければございません」
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逆さに捻じ上げ、エイの掛声諸共に投げ付けますると、前なるお茶の水の二番河岸へ逆とんぼを打ち、ごろ/\/\どぶんと陥りました