わが血を追ふ人々 / 坂口安吾
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共に殉教者であつたといふが、彼は少年時代から有馬の神学校で育ち、欧羅巴人と同じぐらゐラテン語を達者に話した。一六二二年
起すなら、九州各地の切支丹武士が合流するに相違ない。有馬、黒田、大村、宗など幕府に迎合して棄教はしたが曾てはいづれ
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を達者に話した。一六二二年、宗教的地位を得るためにマニラに渡り、二三年十一月二十六日管区長フライ・アロンゾ・メンチエダ神父によつて
、ともかくポルトガル商船が入港だけは許されてをり、マカオやマニラの教団と彼らを結ぶかすかな糸がともかく残つてゐるのであつた
ひろげて行くのである。ポルトガルやイスパニヤの商船がマカオやマニラから援軍と武器をもたらして陸続到着するのがその時だ。背後の海に
に至るであらう。それが次兵衛の見込であつた。なつかしいマニラの街が目に見える。海一杯に日本へ走るマニラの商船の帆の雲
なつかしいマニラの街が目に見える。海一杯に日本へ走るマニラの商船の帆の雲が見え、あの神父、あの船乗の陽気な顔まで
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以上六十歳まで領内の男子総動員、唐津藩や長崎奉行、佐賀藩などから応援をもとめて総勢は数万に達し、全員を以て山全体を
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利用して天草全島の信徒達を煽動する、一方長崎と島原半島の信徒達に働きかけて同時に反乱を起すなら、九州各地の切支丹武士が合流
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た。彼はすでに江戸へ逐電、信徒の旗本の手引で江戸城の大奥へまで乗込んで小姓の間を伝道して歩いてゐたが、江戸
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た筈だが、次兵衛の姿はなかつた。彼はすでに江戸へ逐電、信徒の旗本の手引で江戸城の大奥へまで乗込んで小姓の間
乗込んで小姓の間を伝道して歩いてゐたが、江戸の生活が約二年、露顕の気配が近づくと風の如くに飄然長崎へ
商品、舶来の小間物類を船につみこみ、京、大坂、江戸で売りさばくために父親の甚兵衛と共に出発したが用心棒といふ以外に父親
た。そのとき飄然訪れたのが金鍔次兵衛で、彼は江戸から逃げ戻つて、長崎の二官の店へ辿りついたところであつた。
のであらう。あのヒエロニモまで。彼はなぜ京や大坂や江戸の町へ異国の小間物を商ひに行くか。次兵衛は唐突な怒りのため
「ヒエロニモよ。お前は大坂や京や江戸の町へ、商ひのために首途につく。だが、ヒエロニモよ。よく
。たゞ、それだけで良いのだ。お前は安心して江戸へ行つてくるが良い。商ひをしてくるがよい。だが、ヒエロニモ
ばなりませぬ。異教徒どもを亡ぼさなければなりませぬ。江戸の街で人々が噂してゐました。将軍家光は癩病で狂ひ死
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陣地を構へた天満山やら、それすらもしかと分らない。たゞ伊吹山は静寂な姿を横へ、敗残の身を山中にさまよふドン・アゴスチノ
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であつた。維新の折、キリスト教が復活して長崎の大浦に天主堂が許されたとき、三百年の潜伏信仰をつゞけてきた浦上の
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島原半島の信徒達に働きかけて同時に反乱を起すなら、九州各地の切支丹武士が合流するに相違ない。有馬、黒田、大村、宗など幕府
倒れ諸侯は各々勢力を争ひ混乱の嵐は吹きまくるが、九州を平定した切支丹は諸国に散在する信徒達に働きかけてその統一を次第に
その時だ。背後の海に強力な補給をひかへて九州はもう微動もなく、切支丹の勢力は日本全土の統一によつて完成するに
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には、ともかくポルトガル商船が入港だけは許されてをり、マカオやマニラの教団と彼らを結ぶかすかな糸がともかく残つてゐるので
次第にひろげて行くのである。ポルトガルやイスパニヤの商船がマカオやマニラから援軍と武器をもたらして陸続到着するのがその時だ。背後の
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耕さぬ。毎日鳥銃をぶらさげて諸々方々、天草一円から長崎島原にわたつて歩き廻り、どこに寝てゐるのやら、小屋はあるが、
約二年、露顕の気配が近づくと風の如くに飄然長崎へ舞ひ戻つてきた。
は十六歳以上六十歳まで領内の男子総動員、唐津藩や長崎奉行、佐賀藩などから応援をもとめて総勢は数万に達し、全員を
、彼の名が知れ渡りお尋者になりながら、当の長崎奉行の別当の中間に身をやつしてゐるといふことは約二年間気付か
管区長グチエレスは大村に入牢中であつたから、次兵衛は長崎奉行竹中采女の別当の中間に住込んで牢舎に通ひ、グチエレスの指図
ポルトガルの商船はまた長崎に入港したが、乗員達はもはや上陸を許されず、早晩貿易禁止
その年の長崎及びその近郊に行はれた降誕祭のミサは無茶苦茶だつた。信徒達は殺気
金鍔次兵衛は長崎の二官の店でヒエロニモ四郎に洗礼を授けた当の神父であつた
二官の義弟の陳景は長崎の市長であつたが、四郎は当然王侯たるべき人ではあるが、
たのが金鍔次兵衛で、彼は江戸から逃げ戻つて、長崎の二官の店へ辿りついたところであつた。
に積みこみ明朝出発するといふ前夜のことだが、その晩長崎の二官の店では四郎父子を主賓に小さな饗宴がひらかれてゐ
だつた。八ツの年に神童の名を残したまゝ長崎の二官の店へ去つた四郎が六年ぶりでふるさとへ戻り、その
のあこがれであつた。維新の折、キリスト教が復活して長崎の大浦に天主堂が許されたとき、三百年の潜伏信仰をつゞけてき
美貌を利用して天草全島の信徒達を煽動する、一方長崎と島原半島の信徒達に働きかけて同時に反乱を起すなら、九州各地の
まだ長崎の港には、ともかくポルトガル商船が入港だけは許されてをり、マカオや
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以上六十歳まで領内の男子総動員、唐津藩や長崎奉行、佐賀藩などから応援をもとめて総勢は数万に達し、全員を以て山