無惨 / 黒岩涙香
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、名前は谷間田と人に呼ばる紺飛白の単物に博多の角帯、数寄屋の羽織は脱ぎて鴨居の帽子掛に釣しあり無論官吏と
事も有ますけれど彼れは爾で有ません、安物ながら博多の帯でも〆て居れば是非最う腰の廻りに煙草入が有る者
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中分れ/\に住む事とし妾は口を求めて本郷の或る下等料理屋へ住込み金起は横浜の博奕宿へ移りたり或日妾は
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実に雲を握む様な話しさ、でも先差当り牛込と浅草とを目差して先ず牛込へ行き夫々探りを入て置て直又車
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て明治二十年の春、東京へ上り今では重に横浜と東京の間を行通いして居ると云います夫に其気象は支那人
は口を求めて本郷の或る下等料理屋へ住込み金起は横浜の博奕宿へ移りたり或日妾は一日の暇を得たれば久し振に
を得たれば久し振に金起の顔を見んと横浜より呼び寄せて共に手を引き此処彼処見物するうち浅草観音に入りたるに思いも
金起さんも一緒かえ、ア爾う金起さんは横浜に、ア爾う別々で逢う事も出来ない、ア爾う可愛相に、
宿りな金起さんと二人で、ナニ浮雲い者か昨日横浜へ行て明後日で無ければ帰らんよイエ本統に恐い事が有る者か
も大丈夫、イエ月の中に二三度は家を開るよ横浜へ行てサ、其留守は何なに静で好だろう是からネ其様時
母より前日に妾の許へ知らせ来る故、妾は横浜より金起を迎え泊り掛けに行きたり、若し母と寧児さえ無くば妾斯
日の朝母より「親指は今日午後五時の汽車で横浜へ行き明後日まで確かに帰らぬからきッとお出待て居る」との手紙来れり
暫く金起に逢ぬ事とて恋しさに堪えざれば早速横浜へ端書を出したるに午後四時頃金起来りければ直に家を出で
疑い半ば信じ今宵は其実否を試さんとて二日泊りにて横浜へ行くと云いなし家を出たる体に見せかけ明るき中より此押入に隠れ
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の炎天、腐敗り易き盛りと云い殊に我国には仏国巴里府ルー、モルグに在る如き死骸陳列所の設けも無きゆえ何時までも此
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問いますと第一其白髪頭の名前は陳施寧と云い長く長崎に居て明治二十年の春、東京へ上り今では重に横浜と
ず彼の金起の兄なる陳施寧商業の都合にて長崎を引払い東京に来りて築地に店を開きしと或人より聞たれば当分
残す事とし母にも告げず仕度を為し翌日二人にて長崎より舩に乗りたり後にて聞けば金起は出足に臨み兄の金を
寧児が四歳の時なりき金起は悪事を働き長崎に居ることが出来ぬ身と為りたれば妾に向いて共に神戸に
に来り見れば其弟の金起と云えるは初め妾が長崎の廓にて勤めせしころ馴染を重ねし支那人にて施寧には似
に帰る嬉さにて其言葉に従いしなり頓て連られて長崎に来り見れば其弟の金起と云えるは初め妾が長崎の廓にて
なれば引連れ行きて都合好きこと多からんと終に妾を購いて長崎に連れ来れり施寧は生れ附き甚だ醜き男にして頭には
渡らんとの心を起し夫にしてはお紺こそ長崎の者なれば引連れ行きて都合好きこと多からんと終に妾を購いて長崎に
の許へとては一銭も送らざる故施寧は自ら長崎に渡らんとの心を起し夫にしてはお紺こそ長崎の者
支那人なり施寧は可なりの雑貨商にして兼てより長崎にも支店を開き弟の陳金起と言える者を其支店に出張さ
妾(お紺)は長崎の生れにて十七歳の時遊廓に身を沈め多く西洋人支那人などを
様な身姿をして居た(紺)金起は長崎に居る時から日本人の通りです一昨夜は紺と茶の大名縞の単
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ば今のうち東京に往き相応の商売を初めんと又も神戸を去り東京に上り来たるが当時築地に支那人の開ける博奕宿あり金起
金を千円近く盗み来たりしとの事なり頓て神戸に上陸し一年余り遊び暮すうち、金起の懐中も残り少くなりたれば
ことが出来ぬ身と為りたれば妾に向いて共に神戸に逃行かんと勧めたり妾は早くより施寧には愛想尽き只管ら
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考えも起る併し差当り野原と云えば日比野か海軍原だ、日比谷から死骸をアノ河岸まで担いで来る筈は無し、又海軍原でも無い
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ナニ手掛は有るけれど君の目には入らぬのだ何しろ東京の内で何家にか一人足らぬ人が出来たのだから分らぬ
二十年の春、東京へ上り今では重に横浜と東京の間を行通いして居ると云います夫に其気象は支那人に
施寧と云い長く長崎に居て明治二十年の春、東京へ上り今では重に横浜と東京の間を行通いして居ると
親指が、私もアノ儘世話に成て居て此通り東京まで連られて来たがの、今でもお前に大残りに残て
サ、お紺や未だ知る舞いが用心せねば了ないよ東京へ来たよ、親指が、私もアノ儘世話に成て居て此
切り便りが無いから何処へ行たかと思ったら先ア東京へ先ア、而して先ア金起さんも先ア、寧児覚えて居る
金起の兄なる陳施寧商業の都合にて長崎を引払い東京に来りて築地に店を開きしと或人より聞たれば当分の中分れ
うち東京に往き相応の商売を初めんと又も神戸を去り東京に上り来たるが当時築地に支那人の開ける博奕宿あり金起は日頃嗜める
うち、金起の懐中も残り少くなりたれば今のうち東京に往き相応の商売を初めんと又も神戸を去り東京に上り来たるが
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戴き度いので、私しは是より直に又其浅草の氷屋で何う云う通伝を以てお紺を雇入たか、誰が
の主人も雇人も云う事ですから確かです(荻)併し浅草の者が築地まで―(谷)夫も訳が有ますよお紺は氷
がザッと三円サ、でも先アヤッとの事に浅草で見当が附ました(警部は腹の中でフム牛込だけはお負
先ず牛込へ行き夫々探りを入て置て直又車で浅草へ引返しました、何うも汗水垢に成て働きましたぜ、車代ばかり
雲を握む様な話しさ、でも先差当り牛込と浅草とを目差して先ず牛込へ行き夫々探りを入て置て直又車で
何うかすると築地へ来ると云う噂サも有るが多分浅草辺だろうとも云い又牛込だとも云うのです実に雲を握む
んと横浜より呼び寄せて共に手を引き此処彼処見物するうち浅草観音に入りたるに思いも掛けず見世物小屋の辺りにて後より「お紺/