宗吾霊堂 / 大町桂月
地名一覧
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、上野驛を午前七時二十分に發すれば、千住、我孫子、安食を經て、九時二十分に着す。賃錢はいづれも、
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、將軍の御家人に歸し、御書院番衆となりぬ。大阪の役、正利は水野忠清の軍に屬し、勳功著しかりければ、賞と
もてあましたる所なるが、その不平の氣魄は、一たび大阪の役に爆發し、二たび天草の亂に破裂し、爾來、正雪の
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預けられぬ。延寶五年六月、ひそかに男山の八幡宮に詣でて、奸臣退き、忠臣進み、なほ將軍に嗣子あらむことを祈り
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も此時也。別木庄左衞門、林戸右衞門等が増上寺の擧起らむとせしも此時也。由井と云ひ、別木と云ひ、みな
爾來、正雪の亂に發せむとして成らず、増上寺の擧に發せむとしてまた成らず。さらでだに小心翼々たりしに
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の外なしといふに、一同異議なく、うち揃ひて江戸に上る。承應元年の八月也。堀田家の事情を云へば、その
て、又も甚兵衞の舟にて、印旛沼をわたり、江戸に着して、この上は、唯※直訴の一事をあますのみ也。
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也。佐倉よりは、三里ばかり東北に當り、成田と印旛沼との間に介せる公津村の名主たりし人也。宗吾が佐倉領内
手をはらひて、又も甚兵衞の舟にて、印旛沼をわたり、江戸に着して、この上は、唯※直訴の一事をあますのみ
殘忍なるを憤り、末女の死骸をひつさらひて、印旛沼に身を投じて死せり。
印旛沼は、大なる沼にて、長さ七八里、幅ひろき處は一二里もあり
頸の下にして、離島は、胸の下也。印旛沼は、日本中、沼として、最も大なる者也。殊に木内宗吾の
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てもよし。兩國橋驛を午前七時に發すれば、千葉、佐倉を經て、九時三十分に着し、上野驛を午前七時
外、下勝田の重右衞門、高野の三郎兵衞、千葉の忠藏、小泉の半十郎、瀧ノ澤の六郎兵衞の五人が
として、九族をたやさる。わが木内家は、千葉家四天王の隨一なる家柄也。殊に、養子の身也。表面上、
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に着し、上野驛を午前七時二十分に發すれば、千住、我孫子、安食を經て、九時二十分に着す。賃錢は
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、千葉、佐倉を經て、九時三十分に着し、上野驛を午前七時二十分に發すれば、千住、我孫子、安食を經て
東京より成田に赴かむには、上野よりしてもよく、兩國橋よりしてもよし。兩國橋驛を午前
。宗吾は、上野黒門にて、五人の名主とわかれ、上野龍玉院の僧、慈善和尚の手引によりて、その前日の夜より
の東の空地が、その廟跡なるべし。宗吾は、上野黒門にて、五人の名主とわかれ、上野龍玉院の僧、慈善和尚
三代將軍の廟は、今は日光にあれども、當時は上野にありき。四代將軍の廟の東の空地が、その廟跡なる
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東京より成田に赴かむには、上野よりしてもよく、兩國橋よりし