巷説享保図絵 / 林不忘
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「去年わたしがお伊勢さまへお詣りしましてね、大阪へ遊びに寄って、あの人に会ったのでございます。あの人は堺
「大阪のことでござった。声のいい、浄瑠璃語りのおなごがありました。若竹
「江戸までは、届かなんだかもしれん。京大阪では、たいそうな人気であった。何でも、生まれは江戸で、幼少
お高は、大阪の若竹の一件をも話してやった。するとおせい様は、磯
、ようく知っておるのだ。おゆうさんと相良うじが大阪に仮寓のころ、あんたに乳をふくませた乳母じゃとかいう。だいぶんお
あるところじゃあ、おゆうさんが死んだ後、相良さんは大阪でお前さんを養女にやったというのです。そのもらった人が、相良
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「そうか、おせい様はな、駒形の猿屋町、陸尺屋敷のとなりにあった、雑賀屋と申した小間物問屋
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、走りづかいの奴などの笑い声のする往来であった。武蔵野を思わせる草のにおいのする微風が、こころよかった。
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て歩いてみたいこともあった。一度、神田橋外の護持院ヶ原のかこいが取れたので、佐吉をつれて、摘みくさに行ったことがあった
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という暖簾が出ているわけでもない。家は、小石川の金剛寺坂だ。ちょうど安藤飛騨守の屋敷の裏手である。父の同僚の住み
からはつらい思いをさせやしない。何も、あの小石川の奥へ帰って、あんなめくらなんぞのきげんをとることはありはしないの
しかし、このときは、自分のほんとの場処は、あの、小石川の森の奥の、金剛寺坂の若松屋惣七さまのおそばなのだ。その
いうお方なら、江戸に有名なお方がございます。小石川でございます。小石川の上水端に金剛寺というお寺がございます」
江戸に有名なお方がございます。小石川でございます。小石川の上水端に金剛寺というお寺がございます」
小石川はいったい寺や武家やしきが主なので、祭礼などといっても、下町ほど
また、指ヶ谷町にある白山神社、これは小石川の総鎮守で神領三十石、神主由井氏奉祀す。祭るところの神は、
へ帰り次第、もう国平も起きたことであろうから、すぐ小石川へ発とうとがむしゃらに道をいそいでいた。道はそれでいいのだった
なるほど、それに相違ないのだった。一空さまは、小石川の金剛寺坂に、若松屋の雇い人になっているお高の現在を思い出して、
すこしよくなるとすぐ、お高は、小石川へ帰って、一空さまといっしょに、深川かなめ橋のそばの木場の甚
「はい。そう申しますと、先日小石川の金剛寺門前町に、和泉屋というよろず屋のことで騒ぎがありましたときに
すっかり緑いろの顔色になった磯五が、小石川の金剛寺坂へ急いで、若松屋の屋敷のある坂の中途にさしかかったところ
高は雑賀屋の久助に送られて、夜道をかけて小石川へ帰った。その足で金剛寺の洗耳房に一空さまを訪れると
「さようでございます。小石川の金剛寺門前町にこのあいだできました和泉屋の出店でございます。あれをとりいそぎ
お高は、小石川の上水へ身を投げたのが、金剛寺門前町の和泉屋の者に助けられ
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。お前も、知っているな。きやつが、久方ぶりに岩槻より出府して参って、たずねると申してきている。待たずばなるまい
若松屋惣七と歌子と、岩槻から来た麦田一八郎の紙魚亭主人と、おせい様は、お客さまが好き
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納めてある尊像の出たところは、いま通り過ぎて来た音羽の護国寺から坤の方角に当たる清土という場処で、そこへ行くと、今
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「門前町で遊んでいてはいけません。道草を食うんではありませんよ
「では一度門前町へお出にならなければなりませんねえ。わたしも、門前町を突っ切るのです
へお出にならなければなりませんねえ。わたしも、門前町を突っ切るのですからそこまでごいっしょに参りましょうよ」
「門前町から追ん出せ」
鷹匠町の者で、門前町へ来てなぐられずに帰ったものはない。こっちでも、誰か何
ほうもなく勇敢なのがいて、これにだけは、門前町のあぶれ者も手を焼いていた。それが、湯屋の三助をしている
こうして死人が出るほどの挑戦をされた以上、門前町の人も、黙ってはいまい。勘がただで済まないのはもちろん、
られて、そこを歩いて行った。一空さまは、門前町の端まで送って来て、そこで別れて、洗耳房へ帰って行っ
すべて一つ店で、分店が江戸中に散らばっておる。門前町に新規にあけて憎まれたのも、そのひとつじゃが、何とも
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いたのを若松屋惣七が、例の侠気から助け出して、東海道の掛川の宿に、具足屋という宏壮な旅籠をひらかせて、脇本陣の株
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「泉州の堺だったよ」
て、あの人に会ったのでございます。あの人は堺で大わずらいをして、そのときわたしが看病をしました。おや、あの
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秘伝の一つに数えられた。惣七は、星影一刀流の江戸における宗家と目されている。名人である。達剣である。剣哲である
武者修行に出るというのも、大時代で面白くない。江戸でのらくらしていた。あそんでいると、ろくなことはしでかさない。女が
ても返事もよこさず、先ごろ、どうやら芽が吹いて江戸へかえりますと、すぐその足で麻布の家へたずねて行きましたところが
た照れかくしに、話しあいで旅に出たのだの、江戸へ帰ってからさがしておったことのと、調法な口をならべるばかりか、
固まったようだよ。おかげで、今ではこのとおり、江戸でも名の売れている大商人だ。
三年前に自分をすてた良人だ。それが突然、江戸有数の太物商磯五の旦那として現われたのみか、たった今自分に
にかけては妙を得ていて、このごろでは、江戸の女物のはやりはすべてこの式部小路から出るといわれているほどである。
ただけだそうだから、まあこれは人のうわさだが江戸は広いや。えらいやつがいやあがる」
骨だ。若松屋惣七も、許す限りの才覚をして、江戸から応援したのだが、むだだ。焼け石に水というやつだ。
暴風雨は、つぎの日一日、江戸を去らなかった。若松屋惣七は、どこへ行くとも告げずに、あらしを冒し
「こことおっしゃるのは、江戸のことでございますか」
「さようでございますよ。江戸にいらっしゃるのでございますよ」
「江戸にねえ。近ごろは、いつお会いでございますか」
、あの人のうそなのでございます。別居して、江戸にいるのでございます」
もとの女房の方が、まだ生きていなすって、この江戸にいらっしゃることを、すこしもご存じなく、死んだものとばかり思いこんでいらっしゃるので
「いいえ。五兵衛さんは、おかみさんが江戸にいることを、よく知っていますのでございます。会っていろいろ話を
龍造寺主計が、東海道から江戸へはいったのは、この、お民が、おせい様の家から、そそくさと
してはおられん。つかぬことをきくようだが、江戸で人をさがすのに、何かよい工夫はないかな。だれか顔の
の壮漢が、腰掛けに腰かけもしないで、いきなり、江戸で人を捜すのだが、誰か顔のひろい人はないかときくの
貴様は、物識りらしい面をしておるからきくのだ。江戸において交際のひろい人物がひとり、至急に入要である。名をいえ
眼にとまって恐れ入りましてございます。しかしお武家さま、江戸で、顔の広いお方と申しましても、どういうお方でございましょうか
。用というのは、その人物を伝手にいたして、江戸で尋ね人をしようというのだ」
にまみれて、もうどうでもよくなって、こうして江戸へはいって、申しわけに、その顔のひろい人に頼んで捜してもらいながら、
でございましょう? ひろくお金を扱って、そのほうで、江戸のあきんど衆に顔の知れているお方、そういうお方が、御入
「ようがす。そういうお方なら、江戸に有名なお方がございます。小石川でございます。小石川の上水端に金剛
。わたしが京阪のほうに行っているあいだあいつを、この江戸に、ひとりで残しておいたものです。で、まあ、早くいえば口すぎ
「わたしが、三年ぶりに江戸へ舞い戻りましたときは、お駒は、もとの磯屋さんに奉公しながら、仕込み
お高が、江戸で見慣れている武士とは、全然違った型なのだ。陽にやけ
「留守に上がりこんで、すみませぬ。先ほど江戸へ着いたばかりだ。さっそく若松屋惣七どのにお眼にかかりたいと存じて、
その旅で一度会うたことのある人間を、いま、この江戸で、さがし出したいと思うのだ。むりかな」
「ぜひわたしに手をかして、この江戸で、人をひとりさがし出してもらいたいのだ」
「忘れるところであった。江戸へ参った記念に、何かためになるところへ、この金子をおさめたいと
龍造寺主計という人物には、驚かされたけれど、江戸で、ある人間をさがし出して罰を加えるのだといった彼のことばには
は斬らぬから安心しなさい。いや、これが、わたしが江戸へ捜しに参った当の男なので、顔を見たとき、むかむかと
磯五は、龍造寺主計というはっきりした敵を、この江戸に持つことになったのだ。お高は、とんぼとして助けられた
「江戸までは、届かなんだかもしれん。京大阪では、たいそうな人気
は、たいそうな人気であった。何でも、生まれは江戸で、幼少のおりにあちらへまいったとのことであった。江戸の生家
幼少のおりにあちらへまいったとのことであった。江戸の生家は、相当の家であったらしいが、竹女は、何もいわぬ
、男が打ちあけたのです。じつは、じぶんには、江戸に妻があって、正式に夫婦になるわけにはいかぬという。そう
にやっておったものだが、そのうちに男は、江戸から遊びに来ておったおせい様とやらいう町家の女隠居とねんごろに
「おせい様と江戸へ舞いもどったと、聞き及んだ」
なって、そのままお泊まりになったのでございます。江戸の人をさがすにつけて、旦那さまのお力を借りたいとかおっしゃって
「かの磯五なる男が、この江戸でも、金を眼あてに女をたぶらかしていることは、おどろかぬ。先ほど
でも、確かに、生きていらっしゃるのでございます。この江戸に」
の内儀は、ご存じないようでございますが、その女が江戸におられますことは、ごぞんじでございます」
主計は、単に子供が好きだというだけで、久しぶりに江戸へ出た記念に、縁もゆかりもない金剛寺の一空和尚の学房
いってさえやれば、そこからもいくらでもくるし、江戸の屋敷からもいくらでも引きだすことができるし、ひとのことばかり頭痛に病ん
。やたらに金を出すというのでは、誇りの高い江戸の人間でしかも武家出である若松屋惣七だ。とても承引をしないにきまって
「江戸へ参って、当家へ来たとき、すぐにいえばよかったのだ。あんた
も、今度はそう長くはおらんつもりだ。どのみち、ひとまず江戸へ帰ってくる。そのとき返事を聞きましょう。いや、藪から棒にすまぬ
ましょう。いや、藪から棒にすまぬことをした。江戸では当節かような談判ははやらぬかもしれぬが、わしは、いままで
が上方から帰ってこの磯五の店を買いとったとき、江戸に残しておいた妹がおちぶれているのを見つけて、助け出して店へ入れ
した。かなりの年齢だが、がっしりしたからだつきで、江戸でよく見る、そういう職人らしい粋なおやじである。きれいに顔をそって
下品なところが見えると、兄の磯五がこの人を江戸に残して旅に出て、そのあとで下女奉公になぞ住み込んで歩いている
をしてやがる。いっていこの二年ほど、おめえは江戸のどこにくぐって、何をしていたのだ。熟んだともつぶれ
「江戸は広いようでも、今夜のように、いつどこで誰に会わねえもんで
いつ戻られたのか」若松屋惣七が、きいた。「江戸におったり、おらなんだり、去就風のごとくじゃから、いつ来ていいかわから
。面白くないといえば面白くない――でも、ほこりっぽい江戸よりは、よっぽどましでございます。わたくしは、江戸がいやになると、すぐ
ほこりっぽい江戸よりは、よっぽどましでございます。わたくしは、江戸がいやになると、すぐ旅に出ます。こんども、京都から南、山陽
旅をする気になれんのだ。このごろは、誰しもちょっと江戸を離れて、田んぼ路でも歩いてみたくなる季節だからな。わしは
「お高、お前は何か、一日も江戸を明けられぬわけでもあるのかな」
じっさい、人に旅を思わせる好天気がつづいて、江戸の空は、藍甕の底をのぞくように深いのだ。朝早く、金剛寺
でございました。家は古石場にございましたが、しじゅう江戸を離れて、旅がちでございました。交わる人もございませんでした。
。砂けむりが上がっていた。いつのまにか来て江戸をかきまわしているのはこの眼も口もあけない暴風だ。
もございませんでしたよ。さっきから申しますとおり、江戸にいましたりいませんでしたり、それに交際ということの大きらいな人
ことはない。あんたの母者人のおゆうさんは、この江戸でも、一、二といわれる大財産を受け継いだのじゃ。が、あんた
来ないのだ。それは、まるでお伽噺だ。母がそんな江戸で一、二の富豪だったとしたら、母の死後、父ももっといい生活
「さよう。あの和泉屋じゃが、あの和泉屋とは限らぬ。江戸の和泉屋である。いま、人に調べさせたのじゃが、江戸中に、
軒のお店が、そっくりわたしのものでしたら、わたしは、江戸で名代の金持ちのはずでございますねえ」
「そうじゃ、あんたは、江戸で名代の金もちなのだが、じぶんでそれを知らんようだから、わし
、宗庵は、性来理財のみちに長じていた。江戸で、和泉屋をはじめ、その他種々の商売の黒幕となっていずれも利に
どこまでも蔭にあって金をうごかすだけだったから、江戸の商法の裏面に通じないものにとっては、宗庵は、やはり一介の
支配し、ひそかに驚くべき利を上げてゆく、狷介なる江戸の富豪柘植宗庵であった。
た。それから、何でも一旗あげるとか申して、江戸へ帰って来たのじゃが――いや、よそう。あんたの前で亡き父
がわかった人ですから、わたしどもも大助かりなのです。江戸の後家さまでおせい様というのです」
「江戸のおせい様といって、それは雑賀屋のおせい様でございますか
おせい様に、知らせてくれるな、自分はいますぐ江戸へ帰るのだからと、頼むようにいっていると、磯五は、それ
幼児のことで、覚えているはずはないが、母は江戸でなくなって、それから、前後旅には出たものの、とにかく父の相良
だ。何とかして早くおせい様から引き離して、江戸へ帰すようにするか、さもなければ――と、ここまで突きつめてくると
ことであろう? お高は、あれにあるとおり、すぐ江戸へ帰るであろうか。天井板をにらんで考えているところへ、おせい様に
、お高は、おせい様とすっかり仲よしになって、江戸へ帰るときも、もし都合がついたら、すぐにも雑司ヶ谷の寮のほうへ
「江戸のごみごみしたところから来ますと、ほんとにせいせいいたしますこと」
「ほんとでございますよ。江戸は、どんなに閑静なところでも、どうしてもごみごみした気もちがし
あくる朝早く、磯五は江戸へ帰った。駕籠が動き出しても、おせい様もお高も顔を
の雑賀屋の寮を出るとすぐ、あとを追うように江戸に帰って来たものに相違なかった。小さな風呂敷包みを持って、きちんと磯
事実なのだ。お高、じぶんの妻のお高は江戸で一、二の女分限者だったのだ。
を見舞いに、若松屋惣七と、紙魚亭主人と歌子とが江戸から遊びに来ているのだ。
が好きであった。ことに、こうしてすこしでも江戸を離れていると、江戸の人をなつかしがっていつまでも引きとめておこうと
に、こうしてすこしでも江戸を離れていると、江戸の人をなつかしがっていつまでも引きとめておこうとした。が、そこへ
の仕事に一区切りつけて後始末をみてから、一足遅れて江戸をたつことになった。途中で追いつこうというのだった。女だけの三
若松屋惣七は、さすがにお高のためによろこんで、すぐ江戸へ向かうようにせき立てた。おせい様といっしょに上方へ行けないのは残念
「江戸一、いや、日本一の女分限者の御光来じゃな」一空さまは、剽軽
ほうにおいでとか聞きましたが、あちらはまた、江戸とは違って、もっとも、江戸からほんの一足ではございますが、それでも
たが、あちらはまた、江戸とは違って、もっとも、江戸からほんの一足ではございますが、それでも、万事に田舎々々して
ことになっていたのだが、紙魚亭主人は、江戸から九里あまりほどある岩槻藩の大岡兵庫頭、二万三千石のお徒士組で、
な服装をしていることが好きであった。ことに江戸へ出てくると、町人とも宗匠ともつかない、不思議な恰好でぶらぶらし
みようと思い立ったのだが、それが許されずに、江戸の兵庫頭の上屋敷から呼び出しがあって、すぐに国表へかえらなければならない
なかったものとみえて、忘れたころになって、ぼんやり江戸へ帰って来ていた。
へ、濡れた鳥の声がするのだ。しいんと遠のいた江戸の巷音だ。はねつるべの音がしていた。その、番傘をさして
「お前も、磯五のことが気になって、江戸を離れられぬのかな」
おいらみてえに、こう年齢をとっちゃあからきし意気地がねえ。やっぱり江戸が恋しくて、この四月に舞いもどって来たんだ。今じゃあ、まあ、
に、その男のまぼろしを抱いて、野良犬のように、江戸の巷をほっつきまわっていたのだろう。薄情男に、石ころのように蹴ら
が、識っているというほどの仲でもねえ。いま江戸で磯五といえあ、流行の太物商売として、まず、名の聞い
ことなのだが、久しぶりに、お互いの生まれ故郷の江戸で会ってみると日本一太郎は、手品の手腕は達者でも、人物がこう
抜けたようにふらふらと風に吹かれて、みすぼらしい装で江戸の町から町とほっつき歩いていたのだ。
、草加のほうから来ている女であったが、すっかり江戸の水に洗われて、灰ぬけしてきていた。膚の白い、
になっているのだ。まあ、日本一太郎も、一度は江戸で、花を咲かせてみることになったよ」
と、その日本一太郎という手品師は、今、おりよく江戸に流れ込んで来ていて、両国の小屋に掛かっていると知れたので
ことに江戸で有名な顔役の木甚が太夫元なのだし、それに、日本橋の磯
宿の脇本陣具足屋に金を入れて、その経営を引きうけて江戸を発足するまえに目安箱へ入れたものであった。
甚の口やなどで日本一太郎を思い出して、ちょうどぐあいよく江戸に来て両国に掛かっていることがわかったから、似ているらしいからこれ
場面であった。お駒ちゃんは、今度の興行では必ず江戸の評判になって、一世一代の花を咲かせてみせるといった
で、掛川である。太田摂津守五万三十七石の城下で、江戸から五十五里あまりだ。一本路の大通りだ。脇本陣具足屋は町の中ほど、
、おれには何もできはせぬ。これもすべて、江戸の若松屋惣七がいよいよ真剣に乗り出したという評判が立ったからだ。いわばお主
乗り出したという評判が立ったからだ。いわばお主は、江戸にいて、この掛川の具足屋を生かしたのじゃ」
田舎びた鷹揚な、鈍重なその日その日だった。激しい江戸の生活で疲労していた若松屋惣七の神経は、恐ろしいスピイドで恢復しつつ
もだいたい片づいたところだったので、若松屋惣七は、すぐ江戸へ帰ることになったが、龍造寺主計も、しばらく江戸を見ていないの
すぐ江戸へ帰ることになったが、龍造寺主計も、しばらく江戸を見ていないので、あとを東兵衛の妻女にまかせて、若松屋惣七と
あとを東兵衛の妻女にまかせて、若松屋惣七といっしょにちょっと江戸へ出ようといい出した。若松屋惣七も、道づれにはなることだし、長らく
なることだし、長らく田舎にくすぶってきた龍造寺主計に江戸を見せたい気も多かったので、二人はすぐに旅支度をととのえて出発し
「うむ。用もないが、ま、久方ぶりに江戸見物というところである。あとでお眼にかかるがよい」
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(例)金剛寺坂
暖簾が出ているわけでもない。家は、小石川の金剛寺坂だ。ちょうど安藤飛騨守の屋敷の裏手である。父の同僚の住みあらしたあと
お高は、金剛寺坂の家を住みやすいと思っている。仕事は多いが、多すぎるというほど
は、磯五の待たしてあった駕籠に乗せられて、金剛寺坂の家を出たのだった。若松屋惣七は、つるりと顔をなでて、
瞬間だったが、金剛寺坂の静かな生活が、こころにひらめいて、ひとり残して来た若松屋惣七を、
龍造寺主計は、それきり何もいわなかった。つれだって、金剛寺坂の屋敷へ帰ってみると、若松屋惣七はまだかえっていなかった。
して、東海道掛川宿の龍造寺主計から、急飛脚が、金剛寺坂の若松屋へ駈けこんだ。おおいに見込みがあると思うから、思いきり金を入れる、
がかすかに空気をゆり動かして、きこえてきていた。金剛寺坂をさわいでゆく、子供たちの声もしていた。
さくらが蕾を持つころまで、お高は、同じ金剛寺坂の家にいながら、毎夕かけ違ってばかりいて、若松屋惣七としみじみ話をかわす
若松屋惣七は、雪駄ばきに杖をついて、金剛寺坂の家を出ていた。その杖は、佐吉が立ち木の枝を切って
お高が金剛寺坂の家へ帰って来ると、若松屋惣七が起きて待っていた。
もう途を知っているので、お高は朝早く、金剛寺坂を出た。
行くことになった。若松屋惣七と麦田一八郎は、ひとまず金剛寺坂の家へ帰って、若松屋の仕事に一区切りつけて後始末をみてから、一足
金剛寺坂の若松屋惣七の屋敷へ行ってみると若松屋惣七と紙魚亭主人の麦田一八郎
たので、その旨をしたためた書状を持って、ただちに金剛寺坂から飛脚が飛んで、おせい様と歌子を追いかけた。
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いる事実に触れたもので、龍造寺主計は、彼が、庄内十四万石、酒井左衛門尉の国家老をつとめている弟の龍造寺兵庫介から金は
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お高は、国平とならんで、本伝寺横町から富士見坂のほうへあるいて行った。お高は、身軽にして来た服装と
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心待ちに若松屋惣七と紙魚亭を待って、約束によって府中のこっちの由井宿で、同じ宿屋に泊まりを重ねていたおせい様と
、下谷の拝領町屋の雑賀屋へ舞いもどって、いきおいこんで府中の手前まで用もない旅をしたのはどこの人だというような
旅をつづけて、掛川宿に着いていた。小田原、府中、まりこ、岡部、ふじ枝、島田、大井川を渡って、そこからまた駕籠、
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た。小田原、府中、まりこ、岡部、ふじ枝、島田、大井川を渡って、そこからまた駕籠、かなや、日坂、で、掛川である。
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よくきいてみると、伊之吉がいうには、おゆうが関西の土になってから、寛十郎も娘も完全に行方不明になって、それ
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加えて、片瀬の龍口寺へお詣りして、ついでに江の島を見物するはずだったけれど、待っていても、大久保の奥様の病気が
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が数軒かたまっている、そのなかのひとつだ。根岸か向島あたりにでもありそうな、寮ふうの構えで、うす陽が塀ごし
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な芸人などを呼んで余興を催すのだが、きのうも、いま両国に小屋がけしている手品の太夫を招いて学童たちのまえでやってもらったと
旅に旅を重ねてこんにちにいたったのだという。いまは両国の小屋にかかって、日本一太郎は、いっぱし太夫のひとりだった。
うから、その日本一太郎の相良寛十郎をたずねたのだ。両国に近い、駒留橋から左へ切れた藤代町の安宿の二階だ。寒いほどの河風が吹
若松屋惣七は、お高に案内させて、両国の小屋に日本一太郎をたずねた。裏へまわって、楽屋番に小粒をつかませる
も、へんなところではねえのだ。おいらはいま、そこの両国の小屋にかかっていて、これからついそこの藤代町のとやを帰るところなの
た十八番がはじまったねえ。それはそうだろうけれど、両国の小屋では、何をやっておいでだときいているのさ」
「おいらはもとから手妻師なのだ。両国でも、手妻のほうをやっているよ」
、この四月に舞いもどって来たんだ。今じゃあ、まあ、両国で、どうやらこうやら小屋を掛けているよ」
の細かいトリックがきかなくなって、こうして、両国は両国でも、娘手踊りなどのあいだにはさまって見物衆のごきげんを取り結ぶサン
指さきの細かいトリックがきかなくなって、こうして、両国は両国でも、娘手踊りなどのあいだにはさまって見物衆のごきげんを取り結
「おじいさん、これからどうするつもりさ。両国が済んだら」
う手品師は、今、おりよく江戸に流れ込んで来ていて、両国の小屋に掛かっていると知れたので、さっそく出かけて行って一伍一什を話
両国で日本一太郎と同じ小屋にいた吉という若い者や、香具師の手から手としじ
本一太郎を思い出して、ちょうどぐあいよく江戸に来て両国に掛かっていることがわかったから、似ているらしいからこれなら通るだろ
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街道が広小路にかわろうとする角であった。一方に、湯島天神の裏門へ登る坂みちが延びていた。そこのところに、辻待ちの
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高と、それだけの一家だ。朝は、水道下の水戸様の屋根が太陽を吹き上げる。西には、牛込赤城明神が見える。そこ
た駕籠は、上水とお槍組のなまこ塀のあいだを、水戸様のお屋敷のほうへ下って行った。磯五が、顔を光ら
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と身のまわりの世話をかねるものをとのことで、下谷の桂庵をとおして雇われてきたのだ。お高は、女に
と申した小間物問屋の後家なのだ。いまは、 下谷同朋町の拝領町屋に、女だけの住まいをかまえておる。見ように
というのが文面で、下谷同朋町拝領町屋、おせいよりとある。
お高は、下谷同朋町の拝領町屋にある、おせい様の家へ出かけて行った
とお駒ちゃんは、外出着にきかえて、駕籠にゆられて下谷の拝領町屋へ出かけて行った。拝領町屋の雑賀屋の寮に
下谷の大通りのほうへ小半丁も下ると、軒なみに暗い家がならんでいる
まま牛込矢来下の家へはいるし、おせい様は、下谷の拝領町屋の雑賀屋へ舞いもどって、いきおいこんで府中の手前まで用も
一は、龍造寺主計と名乗る浪人から、二は、下谷拝領町屋雑賀屋の寮の料理人久助という者から、三は、小石川
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がいやになると、すぐ旅に出ます。こんども、京都から南、山陽のほうをまわってみようかと思っております」
「京都のほうは、まだ先のことです。その前に、片瀬の龍口寺へ
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のだ。その男は、夜盗のような身軽さで、山形になっているてっぺんへ上って行った。群集は、はじめ仲間のひとりで
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近くの牛天神金杉天神ともいって、別当は、泉松山龍門寺、菅神みずから当社の御神体を彫造したまうとある。頼朝
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よると、この宗庵先生はただの町医ではなく、長崎で蘭人に接して医学を習得しながら、大いに密輸入をやったらしい。
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て、不思議な気がした。お高の父は、深川の古石場に住んでいた御家人だったが、母は、柘植という町医
「相良寛十郎どのであろう。存じておる。深川の古石場にお住みだったな」
「深川の顔役さんで、木場の甚とおっしゃる人が、すっかりめんどうをみてください
は出たものの、とにかく父の相良寛十郎といっしょに深川古石場の家に住んでいたといっていた。
来るのを待ってきましたが、するてえと、この深川の古石場で、男やもめの御家人が病死をして、あとには、若い娘
高は、小石川へ帰って、一空さまといっしょに、深川かなめ橋のそばの木場の甚をたずねて行った。待っていた木場
深川の世話役木場の甚の願訴によって、各町の自身番、会所、銭湯
磯五は、その足ですぐ深川要橋ぎわの吉永町に木場の甚をたずねた。そして、じぶんはお高の
だったお高の行動がはっきりしていないこと、ならびに深川の古石場で死んだ、お高の実父とばかり思いこんでいた相良寛十郎
堀割りにそって、夕ぐれ近い熟した日光がぽかぽか当たっている深川の町をゆっくり歩きながら、からだ中の血が駈けまわるような気がした
ものではございませんもの。母の代からの世話人で深川の木場の甚という人が預かっていてくれるのでございます」
ところが、あす発足という前の晩に、深川の木場の甚からお高のところへ飛脚が来て、探していた
ておったとおりであった。ま、ゆるゆる話そう、これから深川か」
そこへお高が、はいって来た。お高は、深川の木場の甚と、ほか二、三の人たちに取りまかれて、上気
木場の甚とつれ立って深川要橋の家へ帰ってくると、一空様からの使いが、お
、手品だけで打ち通してみねえかというのだ。深川の顔役で香具師のほうもやっている木場の甚てえ親分とな、ちょっくら
も、しっかりした老人をみて、以前から半官式に深川一帯のことをまかせて、忠相と木場の甚とは、役目を離れて
いたし、それよりも、木場の甚は、ふるくから深川の顔役で、公事やその他いっさいの口ききで、数寄屋橋ぎわの奉行所へは
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「日本橋磯五に頼まれて、麻布十番の馬場屋敷住まい、高音という女に書く
に、麻布十番の馬場屋敷に住んでいて、そこで、日本橋式部小路の太物商磯五の店から、二百五十両の買い物をして、
「へえ。日本橋式部小路の太物商、磯屋五兵衛てえお人が、お見えでごぜえます」
日本橋の通りに、大八車がつづいていた。近所に稽古屋があるに相違なかっ
も、じぶんのほうへ届けてもらうのではなくて、日本橋の式部小路に、磯屋五兵衛という呉服太物商がある。ご存じかもしら
「このお方は、日本橋の磯屋五兵衛さんの妹さんで、お駒さんという人ですよ」
せい様がおっしゃいましたとおり、この、ここにおります日本橋式部小路の太物商、磯屋五兵衛の妹、駒でございます。
、股火をしていた。そこから、二梃拾って日本橋へ走らせた。いつのまにか、空気が寒くひき締まって、降雪を
おせい様の手紙を思い出した。早く現金をそろえて、日本橋式部小路の磯屋五兵衛へまわすようにとある、若松屋惣七にあてた督促状
「日本橋の呉服屋さんでございます」
「日本橋の呉服屋がどうしたのです。どうもわからんな」
「日本橋式部小路の呉服太物商、磯屋五兵衛と申すとんぼでございます」
た。運命が、若松屋殿の役目をしてくれた。日本橋の磯屋五兵衛なるものが、きやつであるとわかっておれば、あとは
さんは何だい、立派な大あきんどでいらっしゃいますよ。日本橋の老舗磯屋の旦那でいらっしゃいますよ。うそつき! 詐欺師! 女たらし!
屋のおせい様の家へ、おせい様の情夫の日本橋の太物商磯屋五兵衛といっしょに、その磯五の妹として御馳走に
ちゃんは、道路の一方へすたすた歩き出した。それは、日本橋のほうへ帰る方向だったので、久助は安心したが、しかし、
さながら独立の一商業区域をつくっている。遠く神田京橋、日本橋へ出なくても、ここへさえおりてくればおよそないものはない。
「日本橋式部小路の呉服屋で、磯屋五兵衛というのですよ。磯五というの
日本橋式部小路の磯屋の奥ざしきで、磯五が、十七、八の女を
を受けつぐことになるであろうと、そこで、自分は幸い日本橋の大店の旦那と納まっていて、贔屓にする芸人や香具師も少なくない
な顔役の木甚が太夫元なのだし、それに、日本橋の磯五が力こぶを入れている。芸人冥利に尽きる話だという、
その一月ほどまえの七月六日に、忠相は、日本橋の高札場に高札を立てさせた。
てくるものもすくなくない。その中に、以前からちょくちょく、日本橋式部小路の呉服太物商磯屋五兵衛を呪訴するものがひんぴんとあって、
三通とも、日本橋式部小路の呉服屋で、茶坊主上がりの磯屋五兵衛が、陰で色仕掛けで悪いこと
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軒かたまっている、そのなかのひとつだ。根岸か向島あたりにでもありそうな、寮ふうの構えで、うす陽が塀ごしの
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お高は、鳥居丹波守の上屋敷と上野御家来衆のお長屋のあいだを抜けて、拝領町屋の横町へ出
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は、五兵衛さまを捨てて、ほかの男と逃げて、草加の在でなくなったのでございますよ。あんな立派な、気だてのお
あった。お美代は、出入りの鳶の頭の口ききで、草加のほうから来ている女であったが、すっかり江戸の水に洗われ
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品川まで来ると、八ツ山下の、ちょっと海の見えるところに、掛け茶屋が出て
品川の八つ山下の茶店のおやじは、ふと立ちどまった、旅によごれた浪人
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高音さまにお眼にかかりましたことがございますよ。神田のほうで、でも、へんでございますねえ。旦那がこの商売をお
「この人には、おかみさんがあるの? こないだ神田であったんですって?」
「だって、いま来た人が、このあいだ、神田とかで会ったというじゃないか」
しに来ましたのか存じませんけれど、いつぞや神田のほうへ御用たしにまいりましたとき、もと十番の馬場やしきにおり
だけで、さながら独立の一商業区域をつくっている。遠く神田京橋、日本橋へ出なくても、ここへさえおりてくればおよそないもの
なくちゃならねえのだ。高音、おめえお針のおしんに神田とかで会ったそうだが、おしんばかりじゃあねえ。誰にあっても
からお針頭に住みこんでいるおしんが来て、芝と神田の祭礼で大口の注文があったと告げたので、磯五はますます
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来ようと思っておりますが、同伴ができましてねえ。大久保様の奥さまが、いっしょに行きたいといい出したのですよ」
は、好都合でございます。わたくしのほうも、いまいった大久保の奥様が風邪でふせっていらっしゃるので、それが快くなるのを待って
「そうしましょう。麦田様は、面白い方ですから、大久保の奥様も、およろこびになるでしょうし、旅は大勢のほうが、笑う
。わしに、麦田一八郎に、お前に、歌子に、大久保の――」
たけれど、くるはずの紙魚亭主人もまだ来ないし、大久保の奥様の風邪も思ったより長びいているので、龍口寺詣りのはなしは
若松屋惣七と歌子と紙魚亭主人と大久保の奥様は、片瀬の龍口寺へお詣りに行く行くといって、まだ
大久保彦左衛門様おかかえ屋敷の横から鬼子母神へ出て、お参詣をすました。
江の島を見物するはずだったけれど、待っていても、大久保の奥様の病気がよくならないし、そこへ紙魚亭主人が出府して
いつか、この一行に、大久保の奥様という人を加えて、片瀬の龍口寺へお詣りして、
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青柳町から護国寺の前を通って、田んぼのあいだを行くと、そこらはもう雑司ヶ谷で
ある尊像の出たところは、いま通り過ぎて来た音羽の護国寺から坤の方角に当たる清土という場処で、そこへ行くと、今で
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で、さながら独立の一商業区域をつくっている。遠く神田京橋、日本橋へ出なくても、ここへさえおりてくればおよそないものは
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三人は押し黙って両国橋を渡って米沢町のほうへ行って、それから新地へ曲がった。そこの