雪たたき / 幸田露伴
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其後幾日も無くて、河内の平野の城へ突として夜打がかかった。城将桃井兵庫、客将
大和に潜んで居た畠山尚慶を迎えて之を守立て、河内の高屋に城を構えて本拠とし、遂に尚慶をして相当に其大
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た。大内は西国の大大名で有った上、四国中国九州諸方から京洛への要衝の地であったから、政治上交通上経済上に大発達
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の地、殷賑の地、海の向うの朝鮮、大明、琉球から南海の果まで手を伸ばしている大腹中のしたたか者の蟠踞して、一種
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は安富之綱であった。又打死はしたが、相国寺の戦に敵の総帥の山名宗全を脅かして、老体の大入道をして大汗
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れ、巨富を擁して、美邸を造り、其死後に大安寺となしたる者の如きも亦是れ納屋衆であった。永禄年中三好家の堺
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「正覚寺の、さきだっての戦の如く、桃井、京極、山名、一色殿等の上に細川殿まで首となって、敵勢の四万
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南北朝の頃から堺は開けていた。正平の十九年に此処の道祐というものの手に
加えた。大内は西方智識の所有者であったから歟、堺の住民が外国と交商して其智識を移し得たからである歟、
の防備を有せぬのを例としていたが、堺は町を繞らして濠を有し、町の出入口は厳重な木戸木戸を有し
を有し、町の出入口は厳重な木戸木戸を有し、堺全体が支那の城池のような有様を持っていた。乱世に於けるかかる
利を見たのであろう。夙に外国貿易に従事した堺の小島太郎左衛門、湯川宣阿、小島三郎左衛門等は納屋衆の祖先となったの
され、そして納屋衆と人民とは相持に持合って、堺の町は月に日に栄を増して行ったものであろう。後に至っ
の如きも亦是れ納屋衆であった。永禄年中三好家の堺を領せる時は、三十六人衆と称し、能登屋臙脂屋が其首であった
た。いや、其様な後の事を説いて納屋衆の堺に於て如何様の者であったかを云うまでも無く、此物語の時
延徳三年の事であった。大内義弘亡滅の後は堺は細川の家領になったが、其の怜悧で、機変を能く伺うところの
、学問諸芸遊伎等までも秀でている地の、其の堺の大小路を南へ、南の荘の立派な屋並の中の、分けても
「堺、臙脂屋隠居にござりまする。故管領様御内、御同姓備前守様御身
広うはござりまするが、商人でござりまする。日本国は泉州堺の商人でござる。高麗大明、安南天竺、南蛮諸国まで相手に致しての商人
入らぬことはござるまい。臙脂屋と申せば商人ながら、堺の町の何人衆とか云われ居る指折、物も持ち居れば力も
、車、此方の申すままに差出さするぞ。日本国は堺の商人、商人の取引、二言は無いと申したナ。木沢殿所持の宝物
た。京の公卿方の者で、それは学問諸芸を堺の有徳の町人の間に日頃教えていた者だったということが知ら
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。が、世界がそれらで尽きたではござらぬ。高麗、唐土、暹羅国、カンボジャ、スマトラ、安南、天竺、世界ははて無く広がって
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を賜わった。大内は西国の大大名で有った上、四国中国九州諸方から京洛への要衝の地であったから、政治上交通上経済上に